Eine Kleine Ⅳ

 穴から這い出した異形らは、ためらいを知らなかった。逃げ惑う人の群れへ、まるで餌を見つけた獣のように突進し、掴み、引き裂き、喰らう。
 悲鳴は悲鳴を呼び、助けを求める声は、別の断末魔に掻き消されていく。
 王都は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
 王立防衛軍が出動する。上空からの制圧射撃や指向性エネルギー兵器、対異常生体を想定した最新鋭の科学兵器が投入された。
 しかし、光線は歪み、弾丸は逸れ、爆発は異形らの表皮を焦がすことすらできなかった。
 兵器は“命中”しているのに、一切、効いていない。理解不能な存在を前に科学は牙を折られ、制圧は失敗に終わった。
 
 その頃。
 王都から離れた場所で、メリッサは突然、膝をついた。
「――っ……!」
 視界が白く弾ける。次の瞬間、頭蓋の内側を激しく殴りつけられるような激痛が走った。
 思考が、音を立てて崩れる。
 込み上げてくる吐気に耐えきれず、彼女は地面に手をつき、吐いた。胃の内容物が尽きても、吐気は終わらない。痙攣するように喉がせり上がり、今度は胃液が灼けつく痛みとともに逆流する。
 喉の奥が焼ける。涙が溢れ視界が歪む。
「メリッサ!」
 カノンの声が、遠くに聞こえた。だが、返事をする余裕はない。身体が言うことをきかなかった。
 何度も何度もえづく。

 ――これは、裂け目の時とは違う。

 メリッサの内側で、はっきりとした違和感が警鐘を鳴らしていた。
(……来る……)
 裂け目が生じる直前、その“前兆”が、これまでとは比較にならないほど、直接的に彼女を蝕んでいる。
 痛みは、警告だった。
 吐気は、拒絶反応だった。
 彼女の魂が、これは本来、開いてはならないものだと訴えている。
     
 これまで、王都や各地に生じていたのは、あくまで『裂け目』だった。
 不完全で、不安定で、無理やり繋がれた異界との隙間。それを致命的なものに至らせなかったのは、王笏に宿っていた、アテナの加護に他ならない。
 聖域より友好の証として与えられた王笏。
 そこに宿る、女神の防壁。
 だが今、その王笏は国外にある。
 エルダニア王アンドレアスが手放したことで、王都を覆っていたアテナの加護は、完全に失われた。
 もはや歪みではない。隙間でもない。

 ――門だ。

 意図を持って穿たれた、完全な“穴”。
 それを感じ取ったからこそ、メリッサの身体は、ここまで強く拒絶反応を示している。
 彼女は震える指で床を掴み、かすれた息の合間に、ようやく言葉を絞り出した。
「……カノン様……」
 涙に濡れた瞳が、必死に彼を捉える。
「あれ……今までと、違う……」
 その一言が、事態の深刻さを何より雄弁に物語っていた。

 防衛軍は、一個部隊を失った。
 正確には、壊滅である。
 最初に出動した部隊は、交戦開始から二十分も経たぬうちに連絡が途絶えた。
 救援要請を受け、次の部隊が投入される。だが、それは救援にならなかった。ただ、犠牲が増えただけだった。
 異形らは、戦術を持たない。
 陣形も、弱点も、恐怖もない。
 あるのは、喰らうという衝動だけ。
 兵士の半数以上が、その場で喰われ、絶命した。
 悲鳴は、無線を通じて断片的に本部へ届き、やがて途切れる。
 残った半数も、無事では済まなかった。
 腕を失い、脚を失い、腹部を抉られ、顔の半分を失った者もいる。
 生きているというだけで、戦力としては、すでに成立していなかった。
 さらに、身体的に無傷だった兵士たちも、到底、戦える状態ではなかった。
 白目を剥いたまま動かない者。
 武器を握ったまま、震えが止まらない者。
 意味のない言葉を繰り返し呟き続ける者。
 彼らは見てしまったのだ。
 撃っても倒れない存在に、仲間が生きたまま喰われていく光景を。
 助けを求める声が、肉の裂ける音に変わる瞬間を。
 精神は、とうに壊れていた。
 司令部は、即座に判断を下す。
 これ以上の投入は、犠牲を増やすだけだ。
 だが、撤退を命じることは、王都を見捨てることを意味していた。
 策はなかった。
 人の手ではもう止められないと、この時点で、誰もが理解していた。

 もはや、通常の兵器で太刀打ちできないことは、誰の目にも明らかだった。
 王都の空に穿たれた楕円の“穴”は、今なお膨張を続け、異形たちは際限なく這い出してくる。
 防衛軍は後退し、市街地は見捨てられた。
 その光景を前に、カノンは短く息を吐いた。
「……俺が足止めに行く」
 その一言に、メリッサの心臓が跳ねた。
「待って!何言ってるの!?」
 思わずカノンの腕を掴む。
「あれ、化け物だよ!?一人でなんて……いくらカノン様でも、危なすぎる!」
 叫びに近い声だった。
 だが、カノンは振り返らない。
「大丈夫だ。俺に考えがある」
 その声音には、焦りも虚勢もなかった。それが、余計に怖い。
「……やつらの足元に、異次元空間を開く」
 淡々と、作戦を告げる。
「落とせるだけまとめて落とす。即座に封鎖。それを繰り返して数を減らす」
 メリッサは息を呑む。
「……そんなの……」
「完全封鎖は無理だ」
 遮るように、カノンは続けた。
「あの穴を閉じるには、教皇の力が要る」
 視線が、裂け目へと向けられる。
「俺たち黄金聖闘士は、次元の裂け目を“仮縫い”する程度の力は持っている。アテナは工芸も司る女神だ。その恩恵で、歪みを留めることくらいはできる」
 そして、わずかに口角を上げた。
「時空操作は、双子座の得意分野だろ?」
 軽口のようでいて、その実、命を賭けた宣言だった。
「……でも……」
 メリッサの声が震える。
「向こうが、ぶち破ってきたら……」
「ああ。その可能性は高い」
 即答だった。
「だから――時間稼ぎにしかならない」
 ようやく、カノンは振り返る。
 その瞳は、冗談を許さない色をしていた。
「お前が、連絡役をしてくれないと困るんだ」
 聖域へ。
 シオンへ。
 この地獄を、正確に、余すことなく伝える者が必要だった。
 メリッサは唇を噛みしめる。
 引き止めたい。
 行かせたくない。
 けれど――彼の言う通りだった。
「……絶対、無茶しないで」
 絞り出すように言う。
「時間、必ず稼ぐって……約束して」
 カノンは、短く頷いた。
「生きて戻る。……それでいいだろ」
 次の瞬間、異形が蠢いている区画の空間が歪む。
 地面が沈み、光が捻じれ、異形たちの足元に、奈落が口を開いた。
 戦いは、今まさに始まろうとしていた。

 カノンは、異形が跋扈する王都の中心へと踏み込んだ。
 空気が、違う。
 血と恐怖の匂いに満ちた街路に、彼の放つ黄金の小宇宙が満ちていく。
 陽の気に満ち溢れた双子座の小宇宙――それは、異界の理で生まれた存在にとって、耐え難い異物だった。
 異形たちは一斉に身を震わせる。
 蠢く動きが鈍り、意思の疎通を失ったかのように、動作がばらついた。
 その一瞬を見逃さない。
 カノンは、迷わなかった。
 足元の空間が歪む。
 石畳が沈み込み、次元の綻びが口を開いた。
 数体の異形が、悲鳴ともつかぬ声を上げながら落下する。即座に、空間は閉じられた。
 落ちた先がどこであれ、戻る術はない。
 間を置かず、カノンは次の座標を演算する。視線だけで距離と数を測り、最も密集する位置を選び取る。
 再び、空間が裂ける。
 異形たちは理解する前に、足場を失った。重力に引かれ、闇へと呑み込まれていく。
 封鎖。
 展開。
 封鎖。
 その繰り返しは、冷酷なまでに正確だった。だが、異形たちも学習し始めていた。黄金の小宇宙を避けるように散開し、地を叩き、空間そのものを歪ませようとする。
「……やはり、時間稼ぎが限界か」
 カノンは小さく呟き、額を伝う汗を拭った。
 次元の“縫い目”が、軋む。仮初めの封鎖は、確実に消耗を伴っていた。それでも、退くつもりはない。背後には、まだ逃げ切れていない人々がいる。
 彼は、再び小宇宙を高めた。
 黄金の光が王都を照らすと、異形たちの動きが再び鈍る。
「来い。……閉じるまで、付き合ってやる」
 双子座の聖闘士は、ただ静かに次元を操り続けた。

 執務室は静まり返っていた。
 昼下がりの光が高窓から差し込み、白い石床に淡く伸びている。書簡に目を通していたシオンの指が、不意に止まった。
 空気が、揺れた。
 風ではない。結界の変動でもない。もっと内側、胸腔の奥を掴まれるような、不快な圧迫感だった。
 (……これは)
 微かに眉をひそめ、意識を広げる。聖域を覆う結界は健在だ。十二宮にも異常はない。それでも、違和感だけが消えない。
 次の瞬間、頭の奥に鋭い疼きが走った。
 吐き気にも似た感覚。
 誰かの苦悶が、そのまま流れ込んできたかのような錯覚。
 シオンはゆっくりと立ち上がった。
 思考よりも先に、身体が反応していた。
 (……裂け目か)
 それも、これまでとは質が違う。“開きかけ”ではない。“抑えられている”感覚が、どこにもない。
 聖域の外――エルダニアか。
 喉の奥が、ひりつく。
 アテナの加護が及ばぬ場所で、何かが完全に開いた。その事実を、言葉よりも早く悟ってしまった。
 そして、胸の奥を貫いたのは、異変そのものよりも、そこに紛れ込んだ“気配”だった。
 強く、しかし今にも掻き消えそうな、小宇宙。
 (……メリッサ)
 名を口にする前に、拳を強く握り締めていた。
 連絡はない。報告も、要請も、届いていない。
 それでも確信だけがある。
 彼女は、あの場所にいる。
 静かな執務室で、シオンは一瞬だけ目を閉じた。
 私情で動いてはならぬ立場なのは重々承知している。だが、これは放置できる事態ではない。
 「アイオロスを呼べ」
 低く告げる声には、迷いはなかった。
 「聖域外に大規模な異変が発生している。エルダニア王都だ。全戦力を即時展開する準備を整えよ」
 そして、心の奥で、ただ一つだけ願う。
 間に合え、と。

 喉の奥が焼けるように痛い。
 胃はもう何も残っていないはずなのに、痙攣するたびに吐き気がこみ上げてくる。
 メリッサは膝をつき、舗道に片手をついた。指先が痺れている。
 視界が揺れ、足元の石畳が滲んで見えた。
 (……っ、まだ……終わってない……)
 裂け目――いや、もはや“穴”と呼ぶべきそれは、視界の先に確かに存在している。
 整いすぎた楕円形。禍々しいほどに安定した構造。
 気配が止まらない。異形が尽きることなく溢れ続けている。
 スマートフォンを取り出す。画面は点灯するが、通信は繋がらない。
 圏外だった。
 何度更新しても、結果は変わらない。
 「……カノン様……」
 呼び掛けても、返事はない。
 異次元空間が展開されている影響で、磁場が乱れているのだと、頭では分かっている。分かっているのに。指先が、無意識に名前を探してしまう。
 (……シオン様……)
 呼べば応えてくれるはず。
 そう信じてしまうほど、彼の存在は近く、遠かった。
 (……あたし、何やってるんだろ……)
 歯を食いしばる。弱音を吐いている暇はない。目を閉じ、深く息を吸おうとして――失敗した。
 吸い込んだ空気が喉で詰まり、咳き込む。
 その瞬間。微かに、何かが“触れた”。
 外からではない。内側だった。小宇宙の底より、もっと深い場所。
 (……あ)
 確信にも似た感覚が、胸に灯る。
 通信ではない。
 言葉でもない。
 けれど届いた。誰かがこちらを認識した。
 異変を理解した。
 「……お願い……」
 声にならない祈りが零れる。
 助けて、ではない。
 来て、でもない。
 ただ――
 (お願い……気付いて……)
 メリッサは、ふらつく身体で立ち上がった。まだ、倒れるわけにはいかない。この場で耐えなければならない理由が、胸の奥に生まれていた。
 
 異形たちは尽きない。
 落としても、落としても、穴の向こうから補充されるように湧き出してくる。異次元空間を展開し、落下させ、封鎖する。その繰り返しは、もはや作業に近かった。
 だが――
 「……っ」
 閉じたはずの空間が、震えた。
 否。
 内側から叩かれている。ギシ、と、耳障りな感覚が脳裏を掠める。空間そのものが悲鳴を上げていた。
 (こじ開ける気か……!)
 双子座の小宇宙で縫い留めた“仮縫い”が、軋み始めている。
 こちら側の空間に、不自然な歪みが生じる。
 空気が歪む。光の屈折が狂い、景色が波打つ。それは裂け目の前兆だった。異形たちが、そこへ引き寄せられるように集まり始める。
 ここを壊せば戻れると、理解しているのだ。
 「――チッ」
 カノンは舌打ちし、即座に次の座標を展開しようとする。だが、小宇宙の消耗が想像以上に早い。
 陽の気を帯びた黄金の小宇宙は、確かに異形を鈍らせる。しかし、それは同時に、こちらの存在を強く主張する行為でもあった。
 空間ごと、こちら側を喰らおうとしている。
 腕を振り上げ、渾身の力で異次元空間を押し広げる。
 数体の異形が引きずり込まれ、闇へと沈んだ。だが、完全には落とし切れない。封鎖が間に合わない。
 歪みが膨らむ。
 (……まずいな)
 額を伝う汗が、視界を掠める。
 (まだか、メリッサ……!)
 このままでは、こちら側の空間が破られる。そうなれば、被害は王都だけでは済まない。
 「……教皇……」
 誰に向けたものでもない言葉が漏れた。
 時間は稼いだ。だが、限界は確実に近付いている。
 異形が、歪みの縁からこちらを覗き込む。
 無数の眼。
 理性のない、飢えた視線。
 空間が、悲鳴を上げた。
 次に破られるのは――この仮初めの均衡だ。

 聖域からの軍勢が、集団で転移した先は王都の中心部だった。そこには、多くの骸が無惨に転がっており、もはや、生命の痕跡は残っていなかった。
 足元に、幼い腕が一本、落ちている。
「見るな」
 シオンはそう言いながら、横にいるアリシアを引き寄せ、彼女の瞳を手で覆った。
 アリシアの歯が、カチカチと小刻みに音を鳴らす。無理もない。誰だって、このように凄惨な現場を見てしまえば、その場に立っていることさえ難しいだろう。しかし、腕の中のアリシアは、シオンに身を委ねてはいなかった。彼女は、恐怖と絶望に震えながらも、自力で身体を支えていたのだ。
 (この娘……中々に気丈夫だな)
 シオンは気付いた。
 アリシアの中に、王位に就く者としての気配が生まれ始めていることに。
 
 王都全域を覆っていた混乱は、確実に抑え込まれつつあった。
 だが――楕円の門だけは、なおもそこに在り続けている。異形の流入は減速している。それでも、完全には止まらない。
 シオンは、門を正面から見据えたまま、静かに言った。
 「……やはり、これは裂け目ではないな」
 黄金聖闘士たちが、即座に理解する。
 力を注げば閉じる類のものではない。
 壊せば済む構造でもない。
 向こう側と、こちら側を“繋ぐ意志”そのものが、まだ生きている。
 門の縁を走る、整いすぎた構造。
 歪みではなく、意図された接続。
 「これは、侵略のための門ではない――統治の空白に、穿たれたものだ。王笏は、単なる象徴ではない。アテナの加護を受けた“統治の媒介”だ」
 聖域より友好の証として授けられた王笏は、本来、王が民を守るために振るう“武具”ではなく、国という概念を世界に固定するための錨だった。
 「その王笏が、国外にあり、王がその資格を放棄した瞬間――」
 門が開いた。
 力ではない。
 欲でもない。
 統べる者が不在になった“空白”が、異界を招いたのだ。
 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
 「門を閉じるには、条件がある」
 黄金聖闘士たちの視線が集まる。
 「アテナの加護が宿る王笏。そして――国家元首の小宇宙」
 戦士のものではない。
 聖闘士でも、冥闘士でもない。
 人が人を率い、国を背負い、民の命を預かることで自然と形成される、責任と覚悟。
 それこそが、門を閉じる鍵だった。
 「……つまり」
 黄金聖闘士の一人が低く言う。
 「王笏を持ち、なおかつ“王である者”が必要だと?」
 「正確には――」
 シオンは視線を、門からわずかに外した。
 「王であろうとする者だ」
 その先に。
 白い外套を纏った若い女が立っていた。
 アリシア。
 聖衣も、戦う術も持たないエルダニア王国の王女。だが、彼女の周囲には、かすかな“揺らぎ”があった。それは小宇宙というには弱い。だが、確かに存在している。
 恐怖。
 後悔。
 それでも逃げない意志。
 そして、国を見捨てなかったという事実。
 「……私が、行きます」
 小さな声だった。
 「王笏もあります。国王では……ありませんけれど」
 一瞬、沈黙が落ちる。
 その中で、シオンだけが、彼女を静かに見ていた。
 「王であることと、王座にあることは同義ではない」
 淡々と告げる。
 「そなたは、すでに一度、身分を失った。だからこそ――門は、そなたの意志に応える」
 アリシアは、きゅっと唇を噛みしめ、頷いた。
 怖くないわけがない。だが、背を向ける理由も、もうなかった。
 その様子を、離れた場所からメリッサは見ていた。
 胸の奥が、静かに震える。
 戦う力はなくても、立つべき場所に立つ者がいる。それだけで、世界はまだ繋ぎ留められるのだと、初めて理解した。
 シオンは、短く命じた。
 「門の周囲を完全に固定する。時間は、私が作る」
 そして、アリシアへと歩み寄る。
 「恐れるな。そなたは、閉じるために来た」
 王都の空に穿たれた門が、初めて軋む音を立てた。
 世界は今、王を選び直そうとしていた。
 門の前に、二つの気配が並び立つ。
 教皇シオン。そして、王笏を抱くアリシア。
 戦場の喧騒は、まだ完全には消えていない。
 遠くでは異形が蠢き、黄金聖闘士たちがそれを抑え続けている。だが、この円環の中心だけは、異様な静けさに包まれていた。
 シオンは、ゆっくりと歩を進める。
 「恐れるな」
 それは儀式の開始を告げる言葉だった。
 アリシアは、指先が白くなるほどに、王笏を握る手に力を込める。
 次の瞬間、シオンの小宇宙が静かに解放された。
 爆発的でも威圧的でもない。ただ、揺るぎない秩序そのものが、空間に満ちていく。それに応えるように、アリシアの内側で、かすかな光が灯った。小宇宙と呼ぶには、あまりに弱い光だ。
 だが――確かに、そこに在る。
 恐怖を抱えたまま、それでも国を見捨てなかった意志。
 王であろうとした、未熟だが真実の覚悟。
 二つの光が、触れ合う。
 次の瞬間、金色の輝きが螺旋を描いて立ち上った。絡み合い、重なり合いながら、それは門の両端へと伸びていく。
 まるで縫い糸のように、裂けた世界を内側から閉じようとする。
 門が、震えた。
 あちら側から異形が這い出そうとする。
 歪んだ肢体。
 飢えた衝動。
 だが、光に触れた瞬間、純白の粒子へと分解され、音もなく空へと溶けていった。
 叫びはない。
 苦悶もない。
 それは破壊ではなく、浄化だった。
 一体。また一体。
 異形は、光に触れるたび、存在の輪郭を失っていく。
 王都を覆っていた瘴気が、わずかに薄れる。

 ――だが。

 門の奥で、“何か”が動いた。それまでとは明らかに違う気配を放っていた。
 異界の闇の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、明確な意志を宿した存在だった。異形でありながら、その眼には知性があった。無数の異形とは違う、上位にある存在。
 上級魔物だ。
 それは、ゆっくりと口を開いた。放たれたのは、空間そのものを腐食させるような、呪詛だった。
 意味を持つ“否定”が、世界に刻まれようとする。
 螺旋の光が、わずかに揺らぐ。
 アリシアの肩が、びくりと震えた。
 恐怖が再び押し寄せ、足元が崩れそうになる。その瞬間、王笏とアリシアを庇うように、シオンが一歩前に出た。
 「――通さぬ」
 小宇宙が再び強まり、縫い目が深くなる。
 呪詛が、光に触れた瞬間、軋むような反発が走った。異界の理が、拒絶される。
 世界は、まだ――こちら側のものだった。

 「去ね」
 低く、しかし確かな響きをもって、シオンの声が戦場に落ちた。
 彼が掲げたアテナの護符が、応えるように強い輝きを放つ。金色の光はただ眩いのではなく、秩序そのものを帯びた光だった。世界の理が、そこに立ち返ろうとする――そんな感覚を、アリシアは確かに覚えた。
 シオンの詠唱は古く、簡潔で、そして厳然としていた。
 聖域に伝わる封印の言葉。その一語一語が、門の縁に刻まれた歪んだ符号を正しく上書きしていく。
 呪詛を唱えていた魔物が、何かを喋った。
 「――王の血よ」
 古代語が、再びアリシアへと向けられる。
 だがその瞬間、二人の小宇宙が完全に重なった。
 金色の光が、螺旋を描いて膨張する。
 アリシアの王笏が震え、シオンの護符と共鳴した。王権と信仰、地上と聖域――本来なら交わることのないはずの力が、今この場では一つの意思として束ねられている。
 門の両端が、軋むような音を立てた。
 縫い合わされていく。
 現世と異界を隔てる裂け目が、正しい形へと戻されていく。
 なおも這い出そうとした異形が、光に触れ次々と崩れ落ちていく。肉体も、呪いも、存在そのものがほどけ、白い粒子となって空へと溶けていく。
 知性を持つ魔物が、最後に吐き捨てるように何事かを告げた。
 それは警告か、予言か――言葉が形を成す前に、光がそれを呑み込んだ。
 門は、完全に閉じた。
 静寂が訪れる。
 戦場に残ったのは、焼けた大地と、まだ消えきらぬ光の余韻、そして二人の人間の気配だけだった。
 シオンは護符を下ろし、深く息を吐いた。
 アリシアもまた王笏を胸元に抱き、震える指先を押さえる。
 「……終わりましたか」
 そう問いかける声は、王女としてではなく、一人の若い女性のものだった。
 シオンは静かに頷く。
 「少なくとも、この門は二度と開かぬ。アテナの名において」
 金色の光が、ゆっくりと消えていく。
 だがその場に残されたもの――聖域教皇と、王の血を引く者が並び立ったという事実だけは、確かにエルダニアの歴史に刻まれた。
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