Eine Kleine Ⅳ

 宿の部屋は簡素だった。
 だが、窓から見下ろす中規模の町は、夜を迎えてもなお人の気配を失っていない。通りには灯りが点り、酒場からは笑い声が漏れ、遠くでは自動車のエンジン音がした。
 メリッサは窓辺に立ち、カーテンをわずかに開けたまま、外気に意識を澄ませていた。
 違和感がある。
 はっきりとした悪意でも、裂け目特有の冷えでもない。けれど、空気のどこかに、わずかな歪みが混じっている。
「あ……来たかも……」
 呟きは、吐息に近い。
 背後で椅子に腰かけていたカノンが、即座に視線を上げた。
「裂け目か」
「うん。でも……まだ気配は濃くないなぁ……」
 メリッサは目を閉じ、感覚をさらに深く沈める。ノイン村で感じた、あの圧迫するような異質さとは違う。
「……残滓?いや……場所が違うし……」
 町を覆う人の営みの層、そのさらに下を探るように意識を伸ばす。すると、王都の方向——中心部から外れた市街地の一角に、かすかな“欠け”が引っかかった。
 一瞬、息を詰める。
「……ちょっと、見に行ってみようかな」
 振り返ると、カノンはすでに立ち上がっていた。
「迂闊に近付くなよ」
 低く抑えた声は、命令というより忠告に近い。
「もちろん」
 メリッサは頷き、少しだけ笑う。
「カノン様も、来てくれる?」
「当然だ」
 即答だった。
 手早く支度を整え、二人は宿を出た。
 夜の町は、外見だけなら平穏そのものだ。石畳を踏む音も、風に揺れる街灯の光も、どこにでもある王都近郊の市街地に過ぎない。
 だが、メリッサの感覚は、迷いなく一点へと導かれていく。
「……この辺」
 人通りの減った路地を通り、背の低いビルの間を抜け、街路灯に照らされた樹木の影が濃く落ちる場所。
 そこで、ようやく“それ”は姿を現した。
 裂け目と呼ぶには、あまりにも小さい。指一本分ほどの幅で、空間が裂けている。闇とも光ともつかない揺らぎが、脈打つようにそこに留まっていた。
「……小さいな」
 カノンが低く呟く。
「うん。でも……確かに、裂け目だよね」
 メリッサは一歩手前で足を止め、決して近づきすぎない距離を保った。
 これは侵食ではない。だが、偶発とも言い切れない。
(……三度目)
 その事実が、胸の奥に静かな不安を落とす。
「シオン様に報告しなきゃ……ひとまず聖域に戻ろう」

 聖域の夜は、王都とはまるで質が違う。
 風は澄み、星は近く、石造りの回廊には余計な音がない。
 シオンの執務室もまた、その静けさの中心にあった。机上の燭台が揺らす光の中で、彼は書類から視線を上げ、向かいに立つメリッサを見た。
「シオン様、また裂け目ができてる」
 メリッサは簡潔に切り出した。
「でも、今度は小さ過ぎて……意味がよく分からないの」
 カノンが壁際に控える中、シオンはしばし黙考する。紫水晶のような瞳が、遠くを測るように細められた。
「そうか……」
 低く、慎重な声。
「ならば、今のうちに封じておこう」
「う、ん〜……」
 即答しかけたメリッサの声は、途中で鈍った。
 無意識のうちに腕を組み、視線が床に落ちる。
「何か、気になるのか?」
 問いは穏やかだったが、逃がさない。
「いや……」
 一度、否定しかけてから、言い直す。
「……あの穴?フェイクの匂わせな気がするんだよね。何となく」
 シオンが眉をひそめる。
「匂わせ、だと?」
「うん。ミスリードを誘おうとしてるって言うか……」
 メリッサは言葉を探しながら、空中に小さな円を描いた。
「本体は別のところにあって、目を逸らせようとしてるのかも」
 執務室の空気が、わずかに張り詰めた。
 シオンはすぐには答えない。椅子の背に体を預け、指を組みメリッサを見つめる。
「……つまり」
 ゆっくりと、思考を言語化する。
「小さな裂け目を意図的に見せることで、我らの対応を誘導しようとしている、ということか」
「そう。閉じるのに集中させて、その間に——」
「別の場所で、より大きな事象を起こす」
 シオンの言葉を、メリッサは黙って受け止めた。
 否定されなかった。
 それだけで、胸の奥がわずかに熱を持つ。
「そなたの直感は、これまで幾度も我らを救ってきた」
 シオンは静かに言った。
「封印は行う。ただし——」
 言葉を区切る。
「最小限だ。完全に閉じず、向こうの動きを観測する余地を残す」
 メリッサは顔を上げた。
「……泳がせる?」
「そうだ」
 即答。
「相手が“見せたい裂け目”であるなら、こちらは“見ているふり”をする」
 カノンが低く息を吐いた。
「わざと騙される…と?」
「これは戦だ。手段は選ばぬ」
 シオンは簡潔に返す。
 そして、再びメリッサを見る。
「その小さな裂け目、そなたが感じた“違和感”……」
 紫の瞳が、静かに光を帯びた。
「それこそが、今回もっとも重要な情報だ」
(やった、褒められた……!)
 メリッサは、わずかに微笑んだ。

 エルダニアは、元より裂け目を制御できてはいなかった。辛うじて“対抗”と呼べるものがあったとすれば、それは聖域から贈られた王笏――裂け目に干渉し、封印に近い効果を発揮する唯一の遺物だけだ。
 だが、その王笏を、アンドレアス国王自身が手放した。
 今や、エルダニアに“武器”と呼べるものは、何ひとつ残されていない。一刻も早い聖域の介入が不可欠だった。
 その前にすべきことがあった。
「メリッサ、紹介したい人物がいる」
「紹介したい人物?」
 執務室を出た回廊で、メリッサは小首を傾げた。
 シオンはそれ以上説明せず、歩みを進める。二人は十二宮の長い石段を、言葉も交わさず下っていく。シオンは時折、メリッサが遅れないようにペースを落とす。
 向かった先は、十二宮にほど近い一角にある、女子聖闘士候補生の宿舎だった。
 聖域の中でも、そこは明確に区画された場所だ。
 男子の宿舎や一般兵の詰所からは距離があり、静けさが保たれている。
 中庭に面した一角で、ひとりの若い女性が洗濯物を干していた。
 淡い色の布を抱え、物干し竿の前で立ち尽くすその姿は、どこかぎこちない。
 一枚一枚、布を広げようとしては手元がもたつき、皺は半端なまま残っている。風向きも考えていないらしく、干した端から洗濯物同士が重なっていく。
(……何だ?)
 思わず、メリッサは足を止めた。
(あの子、洗濯物干したことないの?)
 所作があまりにも不慣れだった。雑というより、経験そのものが欠けている。端的に言えば――下手だった。
 シオンもまた、その様子を黙って見ている。そして、内心で小さく息を吐いた。
(……私でも、もう少しは形になる)
 自覚がある分だけ、余計に目についてしまう。
 聖域に来てから日が浅い者でも、ここまで手順を知らないことは稀だ。
 その時、シオンの気配に気付いたのか、女性がはっとして振り向いた。淡い金髪が揺れ、洗濯物が手から落ちる。
「あ……!」
 慌てて拾い上げ、深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません……!すぐに片付けますので……!」
 身なりは簡素だが、仕草には品がある。咄嗟の態度からも、礼節が身に染みていることが分かった。
 シオンは静かに口を開いた。
「構わぬ。作業の途中でよい」
 女性は顔を上げ、そこで初めてメリッサの存在に気付く。
 一瞬、視線が揺れた。
「こちらが、メリッサだ」
 短く、だがはっきりと。
「そして――」
 わずかに間を置いてから、続ける。
「アリシア。かつてエルダニアの王女だった者だ」
 メリッサは、思わず息を呑んだ。
 王女。
 そう呼ばれていたとは、とても思えない姿だった。
 だが、洗濯物を抱えたその手の白さと、瞳に残る気高さが否定を許さない。
 アリシアは一瞬だけ唇を噛み、そして、はっきりと言った。
「今は、ただのアリシアです」
 その声には、迷いがなかった。
 シオンはそれを肯定も否定もしなかった。
「メリッサのことは、説明するまでもなかろう」
 シオンの声は淡々としていた。
「エルダニア王国では、今なおヴァルトフェルト村事件の重要参考人として、捜査の対象になっている」
 その言葉に、アリシアの表情がはっきりと強張った。
 次の瞬間、彼女は洗濯物を抱えたまま、深く深く頭を下げる。
「……メリッサ様、我が祖国エルダニアが大変な過ちをおかしましたこと、そして――その結果、あなた様にまで多大なご迷惑をおかけしておりますこと……心よりお詫び申し上げます」
 地面に額が触れんばかりの礼だった。
「誠に、申し訳ございません」
「……え、あ、いや」
 思わず、メリッサは一歩引いた。
(うわ……本物のお姫様……)
 姿勢も、言葉の選び方も、頭の下げ方ひとつ取っても“格”が違う。王女という肩書きを失ってなお、それが身体に染みついているのが分かる。
(で、何で下働きしてんの?)
 さっきまで洗濯物と格闘していた人と、今の人が同一人物とは思えない。
 ちらりとシオンを見る。
(……え?これ、もしかして……シオン様の仕業?)
 頭の中で、嫌な連想が始まる。
(え、待って…王女の身分を外させて、聖域に保護して、なおかつ下働き……?あたしのシオン様って……鬼畜ですか?)
 内心の動揺を必死に隠しながら、メリッサは咳払いをひとつする。
「えっと……顔、上げてください」
 アリシアは一瞬ためらい、それから静かに顔を上げた。伏せられていた翠色の瞳が、まっすぐメリッサを映す。その目に、媚びも、計算もない。あるのは、ただ真摯な後悔と責任感だけだった。
「謝られるようなこと、してないですよ。少なくとも……あたしは」
 そう言ってから、少しだけ困ったように笑う。
「というか、あたしも状況がよく分かってない側なので」
 アリシアは、わずかに目を見開いた。
 その反応を見て、メリッサは確信する。
(この人、自分がどれだけ追い込まれてるかを、ちゃんと分かってる。だからこそ、逃げずにここにいるんだ)
 一方で、沈黙を保っていたシオンが口を開いた。
「アリシアには、聖域で身を置く場所が必要だった」
 簡潔な説明だった。
「王女としてではなく、一個人としてだ」
 それ以上は語らない。だが、その言葉だけで、十分だった。
(……あ)
 メリッサは、胸の奥が少しだけ静まるのを感じた。
(鬼畜じゃなかった。すごく、不器用なんだな)
 洗濯物を抱えたまま立つアリシアと、彼女を静かに見守るシオン。その距離感は、支配でも庇護でもなく――“線を引いた配慮”に見えた。
 エルダニアを巡る災厄。
 裂け目。
 王笏。
 そして、かつて王女だった、この女性。
 メリッサは、胸の奥で小さく息を吸う。
(……これは、思ったより根が深いな)

 女子聖闘士候補生の宿舎を後にし、白い回廊を歩く。
 石床に落ちる足音が、やけに澄んで響いた。
 少し前を歩く、シオンの広い背中。法衣の裾がゆるやかに揺れている。
(……言えないこと、たくさんあるんだろうな)
 そう思った瞬間、不思議と胸は痛まなかった。
 アリシアのぎこちない手つき。洗濯物を前にした、あの必死な横顔。王女であることを脱ぎ捨て、一人の人間として立とうとする覚悟。
 そして――それを、説明もせず、誇示もせず、ただ“場”を与えたシオン。
(全部、語ればいいってものでもないんだ)
 メリッサは、シオンの背に向けて問いかけることをやめた。聞けば、答えてくれるだろう。でも、今はまだ、その時じゃない。
 回廊の窓から差し込む光が、シオンの肩口を淡く照らす。その光の中で、彼の背中は変わらず、まっすぐだった。
(背負ってるものの重さは……きっと、あたしの想像以上なんだろうな……)
 それでも立ち止まらずに歩く彼の、その背中を信じたいと思った。
 シオンはふいに足を緩め、歩調を落とした。
 振り返りはしない。
「……メリッサ」
「なに?」
「先ほどのことだが」
 一拍、間が空く。
「気になることがあれば、いずれ話す」
 約束とも、謝罪ともつかない声だった。けれど、メリッサには、それで十分だった。
「うん」
 短く答える。その一言に、迷いはない。
 再び歩き出す二人の足音が並んだ。白い回廊の先、教皇宮の奥へと――静かに、確かに。

 第三の裂け目は、あまりにも活動性が低かった。
 王都中心部から外れた市街地。
 人通りの少ない裏路地の先、崩れかけた石壁の陰に――それは口を開けていた。
 裂け目、と呼ぶには小さすぎる。
 空間の継ぎ目がほんのわずかに歪んでいるだけで、風も、異臭も、禍々しい気配も、ほとんど感じられない。メリッサとカノンは裂け目を前に、戸惑いを隠せなかった。
「……拍子抜けだな」
 カノンが低く呟く。
「うん。嫌な感じがしないのが、逆に変」
 メリッサは一歩距離を保ったまま、裂け目を見つめていた。視界の端で、輪郭がわずかに揺らぐ。まるで、こちらを試すように。
「俺が閉じる」
「お願い」
 カノンは躊躇なく前に出ると、掌をかざし小宇宙を一点に収束させる。抵抗はほとんどなかった。
 空間がきしむ音すら立てず、裂け目は淡く歪み、そして、溶けるように消えた。
「……終わりか?」
「たぶん。でも」
 メリッサは視線を落とし、ゆっくりと首を振る。
「数日、経過を見たい」
「同感だ」
 カノンもまた、即座に否定しなかった。
 これまで起きた出来事。
 ノイン村の“空振り”。
 フェイクのような小規模の裂け目。
 段階的に、何かを試しているような出現の仕方。
(これで終わりになるとは……とても思えない)
 閉じられたはずの場所に、なお残る微かな違和感。それは痕跡というより、視線に近かった。
 見られている。
 測られている。
「戻ろう」
 カノンの声が、現実へ引き戻す。
「うん……でも、覚悟はしておかなきゃ」
 メリッサは一度だけ、背後を振り返った。
 何もない石壁。
 ただの路地。
 それでも胸の奥で、確かな予感が脈打っていた。
 次は、こちらが想定していない場所に、想定していない形で来る。

 ソレは、前触れもなく王都に現れた。
 空が裂けたわけではない。大地が割れたわけでもない。ただ、そこに在るはずの空間が、整った形で欠け落ちた。そう表現するほか、なかった。
 裂け目は、もはや裂け目と呼ぶには大きすぎた。
 縁は不気味なほど滑らかで、楕円形を成し、まるで誰かが意図的に“穿った”かのようだった。その奥は、光を拒むように暗く、深さも距離も測れない。
 そして。
 最初に現れたのは、異様に細長い手足を持った、背の高い人型の生命体だった。
 続いて、胴とも殻ともつかぬ塊が這い出し、さらに別の影が、影を押しのけるように姿を現す。
 ソレらは、グロテスクだった。
 あるものは人の輪郭を思わせながら、顔が存在しない。
 あるものは獣の四肢を持ちながら、歩き方を知らない。
 羽を持つもの、蠢く触手を引きずるもの。
 だが、どれ一つとして“生き物”の理に収まってはいなかった。
 理解が追いつかない。
 平日の昼間、王都の中央広場は多くの人々が行き交っていた。買い物籠を下げた女性、幼い子どもの手を引いた母親、通りすがりの兵士、外国からの観光客。
 誰もが呆然と立ち尽くしていた。
「……?」
 声にならない疑問を漏らしたのは、一人の男だった。軽装のまま広場を横切ろうとしていただけの、名もなき市民。
 彼は、一歩踏み出し――次の瞬間、ソレの影に覆われた。
 叫びは、最後まで形にならなかった。
 異形の口――否、口と呼んでよいのかも分からない裂け目が開き、男の身体は、抵抗という概念ごと呑み込まれた。
 血は散らなかった。
 音も、ほとんどなかった。
 ただ、人が一人、消えた。
 それを理解した瞬間、目撃した人々は思い出したように悲鳴を上げた。
 逃げ惑う人々。
 転倒する者。
 兵士の号令は混乱に掻き消され、秩序は音を立てて崩れていく。
 楕円の穴は、なお静かに開いたまま、次なる異形を吐き出そうとしていた。
 これは、警告ではない。試行でもない。

 ――侵攻だ。

 その事実を理解したとき、すでに王都は異形の餌場になろうとしていた。
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