Eine Kleine Ⅳ

 翌日、メリッサはエルダニア王国へ渡った。
 正規のルートは使わない。国境線から外れた、地図にも載らない山道。聖域側の協力者が整えた、限りなく灰色に近い抜け道だった。
「ヤバ……あたし、不法入国するの?本当の犯罪者だ……」
 足元の小石を蹴りながら、メリッサがぼやく。
 隣を歩くカノンは、外套のフードを深く被り、周囲を一瞥しただけで肩をすくめた。
「今更、不法入国なんて気にするな。お前、雑兵四人殺してるんだろ?」
「……あれは、冥闘士のあたしの仕業だからノーカンで」
 即座に言い返すと、カノンが鼻で笑う。
「冥闘士だろうが素面だろうが、お前はお前だろ」
「……なんか、カノン様に言われるとムカつくんですけど」
「じゃあ、教皇に耳元で囁いてもらっとけ」
「うわぁ……セクハラ……」
「これもセクハラなのか?……ったく、世の中何でもかんでもハラスメント、ハラスメントって……」
 軽口の応酬は、緊張を紛らわせるためのものだと、互いに分かっている。
 カノンはふざけてはいるが、歩調は常にメリッサの半歩前を進んでいる。視線は決して遊ばず、周囲の気配を細かく拾っていた。
 山を越え、国境を越え、エルダニア領内へ入った瞬間、空気がわずかに変わる。
 メリッサは立ち止まり、眉を寄せた。
「……来てる」
「何がだ」
「まだ遠い。でも、空が――嫌な感じに重い」
 カノンは即座に真顔になった。
「方向は?」
「……北東。山を一つ越えた先」
「了解」
 余計な言葉はない。
 彼は聖闘士であり、護衛だ。
「怖いか?」
 不意に、低い声で訊かれた。
 メリッサは一瞬考え、首を横に振る。
「怖い、というより……嫌。あたし、あれに“見られた”感覚、忘れられない」
「なら尚更だ。お前は一人じゃない」
 そう言って、カノンは歩き出す。その背中は、頼もしいというより、実務的で、無骨で、だが確実だった。
 教皇の恋人を、死なせるわけにはいかない。そしてそれ以上に、あの“向こう側”を野放しにするつもりもない。
 二人は言葉を交わさず、目的地へ向かって進んだ。
 裂け目は、まだ姿を見せていないが、確実に――再び、開こうとしていた。

 二番目に選ばれた村の名は、ノイン村だった。
 地図の端に、かろうじて点として残るほどの小さな集落。
 人口は百数十人、その内の半数以上が高齢者。畑と家屋と、朽ちかけた礼拝堂が寄り添うように並ぶ、静かな村だった。
 その日、空は低く、鈍色に垂れ込めていた。
 雷雲ではない。雨の匂いも、風のざわめきもない。ただ、空そのものが――張り詰めていた。
 最初に異変に気付いたのは、井戸端で水を汲んでいた老婆だった。
 桶の水面が、理由もなく揺れた。
 風はない。地震でもない。
 それでも、水は小さく波打ち、まるで何かに呼応するかのように震え続けた。
 次の瞬間だった。
 落雷が地面を穿つように、空間が裂けた。
 音はなかった。
 雷鳴も、爆発音も、空気を引き裂く衝撃もない。ただ、世界の継ぎ目が、無造作に引き剥がされた。
 村外れの空き地には、かつて家があり、今は基礎だけが残る場所だ。そこに、一直線の暗がりが走った。
 黒ではない。闇でもない。“向こう側”が、こちら側に露出しただけだった。
 裂け目は、ヴァルトフェルト村の時のように、ゆっくりと育つことはなかった。
 躊躇も様子見もない。
 最初から、完全に開く前提で力任せに叩き割られた。
 異形の指が、裂け目の縁に掛かる。それは人の指ではなかった。節の数が合わず、皮膚の質感も異なる。爪はあるが、骨の位置が歪んでいる。
 指は、左右に力を込めた。
 ぎ、と。
 音はしないのに、見る者の脳裏には、確かに“こじ開ける”感触が刻まれた。
 空間が、悲鳴を上げる代わりに、従った。裂け目は一気に広がり、ノイン村の空気が吸い込まれていく。
 土の匂い。
 乾いた草。
 老いた家畜の体臭。
 人間の生活の痕跡、そのすべてが、向こう側へと流れ込んだ。
 異形はまだ姿を現さない。まず、こちらの世界を“読む”。地形を、距離を、道を。そして、人間の気配を。
 ノイン村は、静かだった。
 悲鳴も、混乱も、まだ起きていない。なぜなら、誰も裂け目を理解できていなかったからだ。
 それが何であるか。何を意味するのか。
 ただ、空が壊れた。
 それだけの認識でしかなかった。そしてその無知こそが、この村が選ばれた、最大の理由だった。
 裂け目の向こうで、本体は、ゆっくりと満足そうに思考を巡らせていた。

 ――次は、もっと上手くやる。

 ノイン村は、そのための、静かな実験場に過ぎなかった。

 異形は学んだ。あちらの世界――こちら側は、明るくなると餌が活発に動き、暗くなると“中”に入ってしまい、数を減らす。
 光は活動の合図であり、闇は停滞の合図だ。
 夜になると、餌は消える。
 正確には、消えたように見える。家、納屋、倉庫、礼拝堂――閉ざされた“中”に籠もり、外界との接触を断つ。
 効率が悪い。
 異形はそう結論づけた。
 ノイン村の餌は、質が低い。
 老いている。
 痩せている。
 恐怖の反応は鈍く、逃走も遅い。
 味は単調で、記憶に残らない。
 美味しい餌を求めるなら、移動した方が良さそうだ。
 異形は、いくつかの獣も喰った。
 犬、山羊、鹿。
 だが、どれも期待外れだった。
 人に飼われ、餌を与えられている獣は、脂が柔らかすぎる。筋肉は締まりを失い、骨の噛み応えも乏しい。逆に、山野に生息する獣は硬く、渋く、内臓に苦味が強い。
 どちらも、好みではなかった。
 最初に喰った“若い人間”の記憶が、何度も思考に浮かぶ。
 あの張り。
 あの血の温度。
 恐怖と生への執着が混ざり合った、濃い味。

 ――あれが、良い。

 異形は理解した。
 ここは、学習の場であり、準備の場所だ。本命の餌場ではない。
 裂け目の縁に立ち、異形は村を見下ろした。
 昼。人の動きは少ない。
 夜。さらに減る。
 だが、遠く道の先、低い山を越えた向こうには、光が多い。夜でも消えない灯り。人が密集し、閉じきれない“中”を持つ場所。
 異形は、方向を定めた。
 この世界には、まだ知らない味が、いくらでもある。
 ノイン村で得た記憶は、それを探しに行くための、最低限の地図に過ぎなかった。
 裂け目の向こうで、本体は静かにうなずく。
 次は、より密度の高い場所へ。
 ノイン村は、役目を終えた。

 ノイン村は、静かだった。あまりにも、静かすぎた。人的被害は報告されなかった。
 消えたのは、飼い犬が二頭、納屋に繋がれていた山羊が一頭、裏庭で放し飼いにされていた鶏が数羽――それだけだ。
 家屋は無事。畑も荒らされていない。
 裂け目は、最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消失していた。
 政府関係者たちは、胸中で舌打ちした。
 高齢者ばかりの過疎地域。
 国家事業の名の下に、違法性なく切り捨てる――その目論見は、見事に外れた。
「……誤算だな」
 誰かがそう呟いたが、その言葉は記録には残らない。裂け目が閉じた以上、この件は“異常なし”で処理される。
 動物の行方不明は野生獣の仕業だろう。
 それ以上、掘り下げる理由はない――ということになっている。
 ノイン村へ向かう車中で、メリッサははっきりと感じ取っていた。
「……消えた」
 ぽつりと漏れた声は、車内の振動に紛れて掻き消える。隣で地図を確認していたカノンが、ちらりと視線を向けた。
「何だ? 目的地が変わったか?」
「ううん……裂け目。もう、ここにはない」
 胸の奥が、妙に冷えていた。恐怖とは少し違う。安堵でもない。それは、――置いていかれた感覚だった。
 裂け目が消えた瞬間の、あの感触。空気が元に戻るのではない。何かが、意図的に引き剥がされるような、乾いた断絶。
「閉じた、って感じじゃないの」
「ほう?」
 カノンが片眉を上げる。
「……切った、って感じ」
 メリッサは窓の外を見つめたまま続けた。
「ここは、違うって判断されたんだと思う。餌が少ない。動きが遅い。学ぶ価値がないって」
 カノンは軽く舌打ちした。
「随分と、評価が冷淡だな」
「向こうは……優しくない」
 それは、彼女自身が一番よく知っている性質だった。冥界に身を置いた者だからこそ分かる。必要がなければ、情も執着もない。価値がなければ、迷いなく切り捨てる。
 メリッサは、無意識に胸元を押さえた。
 あの時――ヴァルトフェルト村で、確かに視線を感じた。こちらを見定める、冷たく、知性を持った何か。
(……覚えられてる)
 ノイン村は通過点だった。
 試食。
 下見。
 確認作業。
「ねえ、カノン様」
「ん?」
「次は……人が多いところに出ると思う」
「だろうな」
 軽い調子で答えながら、カノンの目は笑っていなかった。
「だから俺たちが呼ばれたんだろ」
「……うん」
 メリッサは、ゆっくりと息を吐いた。
 裂け目は消えた。だが、終わったわけではない。向こう側は、準備を終えただけだ。次に現れる時、それはもう、エルダニアの都合など考慮しない。

 王宮の謁見室は、張りつめた沈黙に満ちていた。
 高い天井に反響するはずの声は、今は吸い込まれるように重く沈み、空気そのものが硬直している。
「お父様、聖域を頼るべきです」
 アリシアは一歩も退かず、まっすぐ父を見据えた。胸の奥では鼓動が痛いほど速く打っている。
「何度も言わせるな。我らを切り捨てたのは聖域だ」
 王の声は低く、冷たかった。
 そこに父親としての情はなく、あるのは国家を統べる者の自尊と怒りだけだ。
「我々に非があったからです。心から謝罪し、悔い改めるなら、教皇猊下のお赦しを得られるはずです」
「まだ20にも満たないガキに頭を下げろと?」
 嘲るような笑みが、王の口元に浮かぶ。
「どうせ、外見を利用させるために祀り上げられただけの小僧だ」
「お父様!」
 アリシアの声が、思わず強まった。
「猊下は確かにお若いですが――」
「いい加減にしろ!!」
 怒号が謁見室を震わせる。
 その瞬間、アリシアははっきりと理解した。
 父は、もう話を聞くつもりがない。
「――っ!」
 言葉を続けようとした喉が、空気に詰まる。
「アリシア!」
 王は立ち上がり、王笏を握る手に力を込めた。
「これ以上言うなら、第一王女であっても国家反逆罪を適用するぞ!!」
 その言葉は、剣のように鋭く、無慈悲だった。
「父の政策に異論があるならこの国を出ていけ!今すぐだ!!」
 次の瞬間だった。王の手から放たれた王笏が、空を裂いて飛ぶ。笏が床を打つ乾いた音が、玉座の間に反響した。跳ね返ったそれが、アリシアの額を掠めるように打ち据える。
 鈍い衝撃。次いで、熱。
「……っ」
 声にならない息が漏れ、視界が一瞬、白く揺れた。額を伝って、温かいものが頬へと落ちる。血だと理解するのに、少し時間がかかった。
 玉座の間は、凍りついたように静まり返っていた。
 侍従たちは目を伏せ、近衛兵は微動だにしない。誰一人として、王女に駆け寄ろうとはしなかった。
 ああ。そうなのだ。
 アリシアは、膝をついたまま思う。
 ここはもう、“家”ではない。
 最初から、国家という名の装置だった。
「……国家反逆罪、ですか」
 自分でも驚くほど、声は静かだった。
「私は……この国を救おうとしているだけです」
 王は鼻で笑った。
「救う?聖域の力に縋り、主権を差し出すことが救いだと?それは、敗北だ。服従だ」
「いいえ」
 アリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
 額の血が、視界の端を赤く染める。
「救いとは、取り返しがつかなくなる前に、過ちを止めることです」
 王の目が細められる。
 冷たい、計算する者の眼差し。
「……まだ言うか」
「はい。言います」
 声は、はっきりしていた。
「裂け目の向こうは、我々を見ています。利用しているつもりで、観察されている。選別されているのです。この国が――“喰うに値するかどうか”を」
「戯言だ」
「いいえ!」
 初めて、声が震えた。
「私は、聖域で教皇猊下の目を見ました。あの方は、力を誇示するために座している方ではありません。責任を負う者の目でした。世界を壊さぬために、怒る覚悟を持った目でした」
 王は、ゆっくりと立ち上がった。
「もう十分だ、アリシア」
 その声には、父としての温度は一切なかった。
「命じる。これ以上、この件に口を出すな。従えぬのなら――先ほど言った通りだ」
 追放。
 それは、王女にとって死刑に等しい。
 アリシアは、一瞬だけ目を閉じた。
 幼い頃、手を引かれて歩いた回廊。
 誕生日に贈られた書物。
「賢くあれ」と言われ続けた日々。

 ――賢くあれ、と。

 ならば、取るべき行動は一つだけだ。
「……分かりました」
 王が、わずかに眉を動かす。
「私は、王女としての立場で、これ以上は申しません」
 静かな声だった。
「ですが、一人の人間として、この国の行く末を見過ごすことはできません」
 アリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
 額の血を拭おうともせず、王を見据える。
「お父様が私を追放なさるなら、受け入れます。けれど私は、戻ってきます」
「何?」
「この国が、助けを乞う側になった時に」
 玉座の間に、低い緊張が走った。
「その時、私は聖域の側に立っています」
 王は、しばらく無言でアリシアを見つめていたが、やがて背を向けた。
「……連れて行け」
 近衛兵が一歩、前に出る。
 だが、アリシアは自分の足で歩き出した。背すじを伸ばし、血を流したまま。扉へ向かうその背に、もはや迷いはない。
 聖域は、切り捨てたのではない。救えぬ者を、見限っただけだ。
 その意味を、この国はこれから思い知ることになる。

 アリシアは私室で、必要最低限のものだけを静かに選び取っていた。
 クローゼットの中には、祝祭用のドレスも、公式行事のための装束も並んでいる。だが、それらに手を伸ばすことはない。旅装、下着、手帳、小さな装身具――それだけで十分だった。
(……きっと、もう戻らない)
 その思いが胸をよぎった瞬間、堰を切ったように記憶が溢れ出す。
 幼い頃、廊下を駆け回って侍女に叱られたこと。
 母の膝で本を読んでもらった夜。
 王としての父を、誇らしく見上げていた日のこと。
 泣くものか。
 奥歯を強く噛み締める。顎に力を込め、こみ上げる熱を押し殺した。
 そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「アリシア」
 聞き慣れた声に、胸が詰まる。
「……お母様」
 王妃は部屋に入ると、娘の荷物とその表情を一目で理解したようだった。責めることも、引き留めることもなく、ただ静かに言う。
「お父様のことは、諦めなさい。私たちの言葉は、あの人に一切届かないわ」
 その声音には、長い年月を共に過ごした者だけが知る、深い諦念が滲んでいた。
「もうすぐエルダニアは災厄に見舞われます。どうか、聖域の教皇猊下のお慈悲を賜りなさい」
 アリシアは一瞬だけ目を伏せ、そして、まっすぐ母を見た。
「エルダニアを……民を守るために、私は聖域が提示するどのような条件も飲むつもりです」
 その声は、若いながらも決意に満ちていた。
「お母様、必ず助けに参ります。どうか、ご無事でいてください」
 王妃の唇が、わずかに震えた。
「あなたに背負わせてしまって……親として不甲斐なく思っています」
「そんな事、おっしゃらないで」
 アリシアは一歩近づき、首を横に振った。
「私は、自分で選びました」
 王妃はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように、そっと背を向けた。そして、戻ってきたその手には一本の王笏があった。
「アリシア、これを持っていきなさい」
「……これは」
 思わず息を呑む。
「お父様の、では?」
「ええ」
 王妃は静かに頷いた。
「お父様からあなたへの餞別です」
 アリシアの胸が強く打たれる。
「この王笏は、エルダニア建国の際に、当時の聖域教皇猊下から贈られたものだと聞いています。代々の国王が手にしてきたもの……」
 王妃は、娘の瞳をまっすぐに見つめた。
「この意味が、分かりますね?」
「――っ……!」
 その瞬間、張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。堪えていた涙が、溢れ落ちる。
 父は言葉では突き放した。だが、王笏を投げつけたその手で、王女を完全に否定しきれなかったのだ。
 それは、断絶であり、同時に、認めてしまった証でもあった。
「……必ず」
 アリシアは王笏を胸に抱き、嗚咽を噛み殺しながら言った。
「必ず、意味のある選択にしてみせます」
 王妃は何も言わず、ただ娘を抱きしめた。母の腕の温もりが、今だけは幼い頃のままだった。

 聖域の空気は、エルダニアとは決定的に違っていた。澄みきっている――というよりも、余計なものが一切入り込めない硬質さがある。
 アリシア王女は、正門をくぐった瞬間にそれを肌で感じ取った。
 二度目の来訪。だが、前回とは、立場も覚悟もすべてが違う。
 白い石畳を進む足取りは、わずかに重い。
 王女としてではなく、行き場を失った一人の人間として、ここに立っているからだ。
 通されたのは、教皇の執務室だった。
 扉の前で、彼女は一度だけ深く息を吸った。
 逃げるな。ここからが、本当の始まりだ。
 静かに扉が開く。
 そこにいたのは、教皇シオンだった。
 初めて会ったとき、成人祝賀の夜に見た彼は、柔らかな光の中に立つ、どこか現実味の薄い存在だった。
 若く、端正で、微笑みさえ浮かべていれば、王女が一目で心を奪われるのも無理はない。
 だが、今、目の前にいる男は違う。
 背すじを伸ばし執務机の前に立つ姿は、年齢という概念を拒絶していた。
 視線は静かで、深く、揺るがない。
 アリシアは、自然と一歩下がりそうになる自分を叱咤し、膝を折った。
「――教皇猊下」
 床に額が触れそうなほど、深く頭を垂れる。
「再び、この地に足を踏み入れる非礼をお許しください」
 沈黙が落ちる。
「面を上げよ、アリシア王女」
 その声は、低く、静かだった。
 顔を上げた瞬間、彼女は悟る。この人は、自分を“王女”としてではなく、一つの選択をした存在として見ている、と。
「……その様子では、父王の説得は叶わなかったようだな」
 責めるでも哀れむでもない、ただ事実を確認するような言葉に、アリシアは唇を噛みしめ、はっきりと答えた。
「はい。エルダニアは、禁忌を犯したことを悔いるどころか、正当化しました」
 握った拳が震える。
「それどころか……私は、国を出るよう命じられました。異を唱えた者として」
 一瞬だけ、シオンの目が細められた。
「……それでも、そなたはここに来た」
「はい」
 アリシアは、懐から王笏を取り出し、両手で捧げるように差し出す。
「私は、王女としての立場を捨てました。ですが――祖国を、民を見捨てるつもりはありません」
 声が、かすかに揺れる。
「どうか、教皇猊下。私を、聖域の裁きの前に立たせてください。赦しを乞う資格がないのなら……罰を受ける覚悟で来ました」
 その言葉は、すべてを失った上で、それでも立っている者の声だった。
 シオンは、王笏に一度だけ視線を落とす。
 それが何を意味するか――知らぬはずがない。やがて、静かに口を開いた。
「……聖域は、亡命を安易に受け入れる場所ではない」
 アリシアの喉が鳴る。
「そなたが望むのは、庇護か。それとも、贖罪か」
 彼女は一瞬も迷わなかった。
「贖罪です」
 まっすぐに、言い切る。
「私が背負える形で、国の過ちを償わせてください」
その瞬間、シオンの中で何かが、確かに動いた。

 ――なるほど。この王女は、自分を差し出しに来たのか。

「アリシア王女」
 彼は一歩、彼女に近づいた。
「その覚悟が、最後まで揺るがぬというのなら、聖域はそなたを“王女”としてではなく、一人の人間として迎え入れる」
 それは、救済でも温情でもない。厳しい道の入り口だった。だが、アリシアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……猊下」
 胸の奥で、静かに何かが決壊する。それでも、涙は流さなかった。彼女はもう、泣いて守られる存在ではない。
 こうして、エルダニア第一王女アリシアは――
聖域という、世界の均衡点に足を踏み入れた。
 それが、破滅への歯止めになるのか。あるいは、さらなる悲劇の引き金になるのか。その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
 静謐な謁見の間に、王笏が横たえられていた。
 古い象牙色の柄に、聖域の紋章とエルダニア王家の紋が並び刻まれている。それは、いかなる剣よりも重い。
 シオンは、王笏に触れぬまま、アリシアを見下ろしていた。
「アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニア。この王笏を差し出すということは、エルダニア王家としての“発言権”と、“保護”を、一度すべて白紙に戻すという意味だ。聖域は、もはや貴国を対等な友邦とは扱えぬ」
 シオンは、逃げ道をすべて言葉にして塞いでいる。
「それでも、よいか」
 問いは短く、重い。
 アリシアは一瞬だけ、視線を伏せた。幼いころ、この王笏を父の背後で見上げていた記憶がよぎる。
 即位式、戴冠の祝宴、民衆の歓声。
 王女として生きる未来は、確かにそこにあった。
 だが。
「……はい」
 顔を上げた彼女の声は、決意に満ちていた。
「私は、国を捨てに来たのではありません。国を救うために、“王女である私”を差し出しに来ました」
 シオンの眉が、わずかに動いた。
「条件は、すべて受け入れます。私の身分、自由、名、すべて。どうか、エルダニアを――民を、見捨てないでください」
 それは誇りではなく、王女としての最後の矜持でもない。一人の人間として、責任を引き受ける覚悟だった。
 長い沈黙が落ちる。
 シオンは、ゆっくりと王笏に手を伸ばし、しかし――握らなかった。指先で、わずかに位置を正すだけだ。
「……この王笏は、正式には受け取らぬ」
 アリシアの瞳が揺れる。
「だが」
 その続きを、彼女は息を殺して待った。
「聖域が一時的に預かる。それが意味するところは、理解できるな?」
 アリシアは、はっと息を呑んだ。
 返上ではない。返還でもない。
「エルダニアは、まだ“終わっていない”ということだ」
「……!」
「この王笏が再び返されるか否かは、裂け目の正体、三度目の出現、そして――貴国の選択次第だ」
 視線が、鋭く、しかし冷酷ではなく注がれる。
「その間、そなたは王女ではない。聖域の庇護下に置かれる、一人の人間だ。利用もされるだろう。望まぬ役目も背負うことになる」
 それでも、と。
「引き返すことは許されぬ」
 アリシアは、胸に手を当て、深く息を吸った。
「承知しています」
 その声には、もう迷いはなかった。
「それでも、私は――ここへ来ました」
 シオンは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「……よかろう」
 王笏は、静かに布で包まれ、聖域の保管箱へと収められた。
 エルダニアは、まだ滅びてはいない。だが、裂け目は次にどこへ現れるのか。
 そして、その時――この王笏は、“救い”になるのか“断罪”になるか、まだ誰にも分からない。

「時に、アリシア王女……いや、アリシア。その額の傷はどうしたのだ?」
 呼ばれ、アリシアははっとしたように額へ手をやった。まだ、微かな熱を帯びたその傷に、今さら気づかれたことが恥ずかしい。
「こ……これは……その、転んでしまいまして……」
 視線を足元に逸らすと、短い沈黙が落ちた。
「随分な転び方をしたものだな」
 見透かされている――そう思った瞬間、胸の奥がひりついた。
「お恥ずかしい限りでございます」
 そう答えるしかなかった。
 次の瞬間、玉座の気配が近づく。靴音が一つ、二つ。
 気づけばシオンは、床に跪くアリシアの前に片膝をついていた。
「……っ」
 息を呑む。
「顔を上げなさい」
「い、いえ……」
「言われたとおりにせよ」
 低く穏やかでありながら、抗えない声。
「……はい」
 恐る恐る顔を上げた先にあったのは、あの日の夜会で見たのと同じ、静かでどこまでも澄んだ菫色の瞳だった。あまりに近くて、思わず息を止める。
「眩しくなる。目を閉じておけ」
 従うしかなかった。
 瞼を閉じた瞬間、額にふわりと温かな気配が触れる。
 光、というより、春の陽だまりのような、優しい熱。傷の奥に残っていた鈍い痛みが、音もなく溶けていく。
(……なに……?)
「目を開けよ」
 恐る恐る瞼を上げると、シオンはすでに穏やかな微笑を浮かべていた。
「額の傷を治しておいた。後で確認しておきなさい」
「……え……?治して……?」
 言葉が追いつかない。
「下がってよいぞ」
 それだけを告げ、彼は立ち上がる。そして何事もなかったかのように、アリシアの横を通り、謁見の間を後にした。
 残されたのは、静寂と――胸の奥の名もない熱だった。
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