Eine Kleine
沈黙が長く続いた。
シオンは、揺れる呼吸を刻むメリッサを見下ろしたまま、まるで自らを縫い止めたかのように動けなかった。
彼女を――この場に巻き込んだのは、他ならぬ自分である。
彼女の小宇宙が他にない特異な性質を持ち、カノン復帰の要になると知った時、それを認め、利用することを許したのはシオン自身だ。
だからこそ。
「……お前を責めることなど、できぬ」
低く吐き出した声は、自嘲の響きを帯びていた。
サガが視線を向ける。だが、シオンはその眼を避け、ただメリッサの蒼白な頬を見つめ続けていた。
「その場はお前が責任者であったろう。だが――そもそも彼女をこの計画に組み込んだのは、私だ。彼女を危うき道へ導いたのは、この私だ」
静かに、しかし確かに告白するその声音には、鋼のような硬さと、同時にひび割れそうな脆さが同居していた。
「お前を責めることは……私にはできぬ」
唇を噛む。
「責められるべきは……この私自身だ」
その言葉ののち、室内は再び沈黙に沈んだ。
サガは答えなかった。だが、その表情に陰が走った。自らの責を認めながらも、同時にシオンが背負う痛みを見ている。その沈黙は、相手を追い詰めぬための、せめてもの配慮だった。
メリッサの小さな寝息が、ただ一つの現実としてそこにあった。
その音は儚く、だが確かに命を告げている。二人の男はその呼吸に耳を澄ませながら、言葉を持たぬ時間の中に立ち尽くしていた。
白羊宮の私室に、静けさが戻っていた。
ムウもサガも既に去り、残されたのはシオンと、眠るように横たわるメリッサだけだ。
シオンは椅子から腰を上げ、ベッド脇に膝を折った。
そっとシーツを捲る。目に飛び込んできたのは、赤黒く乾いた血に染まったブラウス――布地が破れ、縫い目も引き裂かれるほどの傷痕の痕跡。思わず息を呑む。
どれほどの苦痛に耐えて、ここまで彼女は立ち続けたのだ。
胸の奥がぎりぎりと締め付けられ、視界が滲む。
力なくシーツの上に置かれている手を、シオンは恐る恐る掬い上げる。冷えた指先を両手で包み込むと、その脆さが胸を抉った。
まるで薄い硝子細工のように軽いその手を、一つも取りこぼすまいと願うように握り締める。
「……メリッサ」
その名を呼ぶ声は掠れ、震えていた。
握った手を額に押し当て、目を閉じる。
内から込み上げるものを堪え切れず、強く瞼を閉ざすしかなかった。
――守りきれなかった。
――いや、そもそも守るべきものを危地に追いやったのは自分ではないか。
その痛切な自責が、胸の奥を容赦なく締め付けていた。
シオンは額に押し当てていたメリッサの手を離さず、そのまま静かに目を閉じた。
細く乱れた吐息が、沈黙した室内に吸い込まれていく。
「……愚か者は、私だ」
低く呟いた声は、誰に向けられたものでもなかった。
彼女を駒として使いながら、守ると誓ったのもまた自分だった。矛盾の塊のような存在に縋りつかせたのは――誰でもない、この手でしかない。
「そなたを危険に晒すつもりはなかった……いや、そう言っても言い訳に過ぎぬな」
握る指先が小さく震える。
彼女の髪が枕に落ち、乱れた吐息が胸元で上下する。そのどれもが、かけがえのないものに思えた。
「……どうして私は、また過ちを重ねるのだろう。かつて救えぬ者がいた。愛したのに、護れなかった。そして今――またそなたを血に沈めてしまった」
吐息が震え、声は次第に細っていく。心に降り積もるのは、果てしない悔恨と自己嫌悪だった。
「メリッサ……」
呼びかけても彼女が返事をすることのない静寂が、胸を抉った。
「そなたが目を覚ましたとき、私を責めるがいい。罵るがいい。それでも、私は……」
そこで言葉が途切れる。
喉奥までせり上がった言葉を、シオンは飲み込んだ。吐いてしまえば、この感情はもう隠せなくなる。代わりに、彼は小さく頭を垂れ、血の匂いがまだ残るその手を再び額に押し当てた。
「どうか……生きていてくれ。それだけでいい」
低い祈りのような声が、夜気のように静まり返った室内に溶けていった。
――遠い。
どこか深い水底に沈んでいるようだった。
冷たく、重たく、暗い。動こうとしても身体は動かず、ただ呼吸のようなものが胸の奥で繰り返されるばかり。
――それでも。
水底に落ちる光の粒のように、声が届いた。
「……生きていてくれ。それだけでいい」
その響きは温かくて、柔らかくて、抗えぬほどに胸の奥へ沁み渡っていく。
ああ、これは――教皇様の声。
閉ざされた瞼の裏側に、彼の面影が揺れる。長い睫毛に縁どられた菫色の眼差し。少し不器用な微笑み。そして今、こんなにも切実に、自分を求めてくれる声音。
(……泣いてるの?教皇様……)
言葉にはならなかった。唇が僅かに動いても、空気は震えない。ただ胸の奥で、返事のように小さく鼓動が跳ねた。
(……生きてるよ……ここに、いる……)
伝えたくて、必死に指先を動かそうとする。けれど力は入らず、ほんの僅かに痙攣しただけだった。それでも、その微かな動きをシオンは見逃さなかった。
「……メリッサ?」
驚きと安堵が入り混じった声。それに応えるように、彼女の唇が再び小さく震えた。
「……教……皇、様……」
掠れた音が、夜の静寂に小さく響いた。
シオンはただ彼女の手を両手で包み直した。指先に伝わるわずかな温もり。それだけで胸の奥が満たされる。言葉は必要なかった。互いの間に沈黙が流れるだけで、全てを語り尽くせる気がした。
額に自分の手を当て、ゆっくりと呼吸を合わせる。
過去の苛酷な日々の影も、今の彼女の穏やかさの前では、ひととき薄れ、溶けていくように思えた。
「……よかった」
それだけ。
言葉少なに、胸の奥の安堵をこめて、彼は小さく呟く。メリッサはまだ目を開けない。それでもその声を、心の奥で受け止めているかのように、呼吸を整えた。
シオンはその場を離れず、ただ静かに寄り添い続けた。
微かに揺れるまぶたの奥で、光と影が交錯する。メリッサの呼吸はまだ浅いが、確かに彼女の意識が戻りつつあった。
「……教皇様……?」
かすれた声が、今度は少しだけ確固たる響きを帯びる。
その声に、シオンはただ手の力を少しだけ優しく強めた。無言のまま、彼女の手を離さず、温もりを伝える。
「もう、大丈夫だ……」
言葉は短く、淡々としたものだったが、胸の奥に渦巻いていた不安と緊張は、少しずつ消えていくようだった。
メリッサは肩を揺らし、微かに唇を震わせる。泣こうとすれば、泣ける。だがまだ、涙は溢したくなかった。特に、この人の前では。代わりに、手のひらに触れる温もりを確かめるように、しっかりと握り返す。
「死ぬかと…思った……」
小さな吐息に混じる言葉は、苦痛を経た者だけの正直さだった。
シオンは目を閉じ、繫いだ手を額に押し当てた。
言葉は不要だ。全てを包み込み、全てを受け止める覚悟を伝えるために。
沈黙の中で交わされる互いの存在――
それだけで、どれほどの心の荷が軽くなるか、口にする必要はなかった。
窓の外は、まだ夏の名残を引きずった夕暮れだった。白羊宮の私室には厚手のカーテンが引かれ、そこから漏れる光は、遠慮がちにだけれど確かに温度を帯びている。ベッドは広く、古い時代の作りを残す木枠と、清潔に洗われた白いシーツが整っている。メリッサはその白の中に、まだ半ば眠ったまま横たわっていた。
「ここは…?」
声は掠れ、問いは小さかった。声帯の奥がまだ痛むのが判る。
「白羊宮にある私の部屋だ」
シオンの返事は、穏やかで少し硬かった。その声の輪郭が、部屋の空気を少しだけ引き締める。
「教皇様の…?お部屋、たくさん持ってるんですね…」
言葉は垂れ流すように出てしまった。メリッサの視線はまだ定まらない。
「ふっ…ふふ…」
シオンは不意に笑った。ふっと漏れる短い笑いで、肩の力が抜ける。メリッサは、その笑いがどういう種類のものか分からず、眉根を寄せた。
「なんで…笑うんですか?…」
その問いに、シオンは少しだけ困ったように首を傾げる。
「いや、すまぬ。安心しただけだ」
言葉は短いが、純度の高い安堵が滲む。彼の瞳は、愛おしいものを見守る時にしか出さない柔らかさを湛えていた。
メリッサは、その視線の真っ直ぐな視線の意味が分からないまま、胸の奥が熱を持って高鳴る。顔の内側で何かがじわじわと膨らんで、頬までさざ波のように押し寄せるのを意識した瞬間、気付いてしまう。
(あたし、今、絶対に真っ赤になってる。)
羞恥に耐えられず、頬の熱を押し返すように視線を逸らす。視線の先には、しつらえられた調度や、本の背表紙の列が見えた。
シオンは目を逸らさない。彼の瞳の中には、憂いと慈しみが同居している。メリッサはそれが自分に向けられていると知り、その重みに息を詰める。
顔が熱い。頬だけでなく、耳の先まで火照る。どうしてこんなに恥ずかしいのか。理屈では説明がつかない。メリッサはそっとシーツを掴むと、頭からすっぽり被り、もぞもぞと潜り込んだ。布は冷たく、だが包む力は確かにあって、心臓の高鳴りを少しだけ抑えてくれる。
シーツの下で、シオンの存在を確かめる。繋がれたままの手のぬくもり。それは、言葉よりもずっと直接的で、不器用な安らぎだった。外に見える景色も、過去の出来事も、今は小さくなっていく。メリッサは子どものように身体を縮める。
窓の外の光は薄く、白羊宮の部屋には午後の静けさがゆっくり降りていた。シオンの声はいつもどおり低く、抑えた調子だったが、その一言一言には責任感と安堵が滲んでいた。メリッサはシーツの中でシオンの声に耳を傾けていた。
「メリッサ、カノンを元の姿へ戻してくれてありがとう。感謝する」
「だって…そうしないと町のみんなが困るから…」
誰かのために、という単純な理由が胸に刺さる。メリッサはその胸の奥にある鈍い疼きを無理に抑えながら、シーツから目を少し覗かせ、シオンの顔をちらりと見た。
彼の菫色の瞳には余計なことは何も書かれていなかった。
けれど、その静かな眼差しの奥底には、消しきれない熱が灯っていた。淡々と語りながらも、メリッサを見つめるその目は、細心の注意で抑え込んでいるにもかかわらず、愛おしさを隠しきれてはいなかった。
「それでも、これほど出血するような怪我を負ってまで……右手は動くのか?」
シオンの問いに、メリッサは握られている右手を握り返した。神経がまだ痺れているのか、力を込めても思うほど握れていないように感じる。
「力が少し……入りづらいかも」
か細い声に、シオンは目を伏せ、短く息を吐いた。彼の大きな掌がシーツの上からそっと彼女の手を包み込む。
ほんの一瞬の温もり。
けれど、そこには言葉以上の重みがあった。
「そうか……ヒーリングを……継続してみようか」
「継続?」
「日に数回、短時間のヒーリングを施すのだ」
淡々と告げる口調。しかしその瞳には、彼女の身を案じる熱が抑えきれずに滲んでいる。メリッサはそれを直視できず、シーツの縁をぎゅっと握った。
「……日に数回って、聖域に滞在するって事ですか?」
「そうだな。通うのは難しいだろうから、ここへ留まってもらうと良いだろう」
あまりにも自然に告げられた言葉に、メリッサの心は揺れた。
聖域に滞在する――それは、シオンの傍に居続けることと同義だ。
安堵と同時に、抗いようのない緊張が胸を締めつける。
「……治りますか?」
自分でも驚くほど小さな声になっていた。彼の答えが、運命を左右するように思えたから。
「保証はできぬ」
静かな声。その響きは、事実をそのまま告げるだけの誠実さに満ちていた。
「変わらないかもしれない?」
「残念ながら、それも可能性としてある」
シオンの瞳が彼女を見つめる。慰めも虚勢もない。ただ真実と、それを受け止める覚悟だけ。だがその奥には、言葉に出せぬほどの愛おしさが潜んでいた。
メリッサは視線を逸らし、シーツをまた額あたりまで引き上げた。港町へ戻りたい気持ちはある。けれど、この右手では漁もアルバイトもおぼつかない。生きるためにどうすべきか。
そして――彼の傍に留まるという選択肢に、心の奥底で小さな灯がともってしまった自分に気づき、彼女はそっと唇を噛んだ。
頭の中で、二つの景色が交互に立ち上がる。港町の朝焼け。船の甲板に立ち、潮風を受けながら網を引く漁師たちの姿。市場のざわめき。猫が日向で伸びをする路地。仕事は体で覚えるものだから、右手の障害は致命的だ。漁に出られなければ家計は厳しい。バイトの選択肢も限られる。――その現実が、胸の奥で冷たく硬い石のように転がる。
そして、もう一つの景色。教皇宮の広い廊下、夜間にも点る灯、整えられた部屋。ヒーリングを受ける度に生体の回復曲線が少しずつ上がっていく可能性。
ここにいれば体力の管理も、食事も、必要な医療もある。だが、同時に思うことがある。聖域に“滞在する”ということは、利害の輪の中に身を置くということでもある。メリッサは自分がどう見られるかを知っている。彼らは成果を求める。彼女は既に“道具”としての扱いを経験した。心の中の小さな声が繰り返す。『また使われるのではないか』。その不信は、根深い。
ずっと握られている右手の疼きは消えない。シオンの提案には合理性がある。だが合理が必ずしも救いを意味しないことは、メリッサ自身が身をもって知っている。滞在すれば回復の確率は上がるかもしれない。だが、“ここ”にいるという事実は、彼の世界の論理にまた縛られることを意味する。町へ戻るという選択は、自由だが代償が大きい。滞在するという選択は、保険だが自由を縮める。
それでも、湧き上がる正直な気持ちがあった。カノンが戻ったとき、床に伏した自分を見て『生きていてくれて嬉しい』と言ってくれたこと。カノンのその言葉は、聖域の論理よりもずっと重かった。
シオンの手の温度、ムウの冷静な癒し、アフロディーテの苛立ちと優しさ――誰も完璧ではない。そのはずなのに、ここには人の温度が散らばっている。メリッサはそれを感じていた。利用されるかもしれない、道具でしかないのかもしれない、という恐れが消えるわけではないが、他人の手が差し伸べられたという事実もまた、否定しがたい。
「ここに留まるとしたら」と、メリッサは自分に向かって静かに問いかける。滞在期間はどれほど必要か。自由はどれほど制限されるのか。町での生活はどうなるのか。
シオンは「保証はできぬ」と言った。保証のない未来へ身を預ける勇気は、若い彼女には簡単に出せない。けれど、もう一度漁に出て、同じ手で網を引く自分を想像する。右手の震えが、海の匂いが、日の光が、どれほど自分にとって根源的なのかが分かる。仕事は生活そのものだ。失うわけにはいかない。
メリッサは唇を噛んだ。決めるのは自分だ。誰かの意志に従って生きるつもりはない。けれど、自分の体一つで誰かの命を救ったことも事実だ。自分の小宇宙が誰かを取り戻した。そこに誇りがないとは言えない。だが誇りだけで生きていけるほど世界は甘くない。
頭の中で秤が揺れる。港町か聖域か。町の人達の笑い声と、シオンの静かな手。最終的にどうするかは明日の自分が決めるだろう。いまはただ、少しでも回復すること。指先がもう少し自由になること。選択肢を少しでも増やしてから、返事を出したい——そう思うと、メリッサは小さく息を吐いた。
決断はまだ出せない。だが、きっとこの手で自分の道を探すのだという意志だけは、確かに存在した。
外では海が遠く、夕暮れが静かに沈んでゆく。室内の空気は変わらないが、メリッサの胸の中には、少しだけ明るさが戻り始めていた。
シオンは、揺れる呼吸を刻むメリッサを見下ろしたまま、まるで自らを縫い止めたかのように動けなかった。
彼女を――この場に巻き込んだのは、他ならぬ自分である。
彼女の小宇宙が他にない特異な性質を持ち、カノン復帰の要になると知った時、それを認め、利用することを許したのはシオン自身だ。
だからこそ。
「……お前を責めることなど、できぬ」
低く吐き出した声は、自嘲の響きを帯びていた。
サガが視線を向ける。だが、シオンはその眼を避け、ただメリッサの蒼白な頬を見つめ続けていた。
「その場はお前が責任者であったろう。だが――そもそも彼女をこの計画に組み込んだのは、私だ。彼女を危うき道へ導いたのは、この私だ」
静かに、しかし確かに告白するその声音には、鋼のような硬さと、同時にひび割れそうな脆さが同居していた。
「お前を責めることは……私にはできぬ」
唇を噛む。
「責められるべきは……この私自身だ」
その言葉ののち、室内は再び沈黙に沈んだ。
サガは答えなかった。だが、その表情に陰が走った。自らの責を認めながらも、同時にシオンが背負う痛みを見ている。その沈黙は、相手を追い詰めぬための、せめてもの配慮だった。
メリッサの小さな寝息が、ただ一つの現実としてそこにあった。
その音は儚く、だが確かに命を告げている。二人の男はその呼吸に耳を澄ませながら、言葉を持たぬ時間の中に立ち尽くしていた。
白羊宮の私室に、静けさが戻っていた。
ムウもサガも既に去り、残されたのはシオンと、眠るように横たわるメリッサだけだ。
シオンは椅子から腰を上げ、ベッド脇に膝を折った。
そっとシーツを捲る。目に飛び込んできたのは、赤黒く乾いた血に染まったブラウス――布地が破れ、縫い目も引き裂かれるほどの傷痕の痕跡。思わず息を呑む。
どれほどの苦痛に耐えて、ここまで彼女は立ち続けたのだ。
胸の奥がぎりぎりと締め付けられ、視界が滲む。
力なくシーツの上に置かれている手を、シオンは恐る恐る掬い上げる。冷えた指先を両手で包み込むと、その脆さが胸を抉った。
まるで薄い硝子細工のように軽いその手を、一つも取りこぼすまいと願うように握り締める。
「……メリッサ」
その名を呼ぶ声は掠れ、震えていた。
握った手を額に押し当て、目を閉じる。
内から込み上げるものを堪え切れず、強く瞼を閉ざすしかなかった。
――守りきれなかった。
――いや、そもそも守るべきものを危地に追いやったのは自分ではないか。
その痛切な自責が、胸の奥を容赦なく締め付けていた。
シオンは額に押し当てていたメリッサの手を離さず、そのまま静かに目を閉じた。
細く乱れた吐息が、沈黙した室内に吸い込まれていく。
「……愚か者は、私だ」
低く呟いた声は、誰に向けられたものでもなかった。
彼女を駒として使いながら、守ると誓ったのもまた自分だった。矛盾の塊のような存在に縋りつかせたのは――誰でもない、この手でしかない。
「そなたを危険に晒すつもりはなかった……いや、そう言っても言い訳に過ぎぬな」
握る指先が小さく震える。
彼女の髪が枕に落ち、乱れた吐息が胸元で上下する。そのどれもが、かけがえのないものに思えた。
「……どうして私は、また過ちを重ねるのだろう。かつて救えぬ者がいた。愛したのに、護れなかった。そして今――またそなたを血に沈めてしまった」
吐息が震え、声は次第に細っていく。心に降り積もるのは、果てしない悔恨と自己嫌悪だった。
「メリッサ……」
呼びかけても彼女が返事をすることのない静寂が、胸を抉った。
「そなたが目を覚ましたとき、私を責めるがいい。罵るがいい。それでも、私は……」
そこで言葉が途切れる。
喉奥までせり上がった言葉を、シオンは飲み込んだ。吐いてしまえば、この感情はもう隠せなくなる。代わりに、彼は小さく頭を垂れ、血の匂いがまだ残るその手を再び額に押し当てた。
「どうか……生きていてくれ。それだけでいい」
低い祈りのような声が、夜気のように静まり返った室内に溶けていった。
――遠い。
どこか深い水底に沈んでいるようだった。
冷たく、重たく、暗い。動こうとしても身体は動かず、ただ呼吸のようなものが胸の奥で繰り返されるばかり。
――それでも。
水底に落ちる光の粒のように、声が届いた。
「……生きていてくれ。それだけでいい」
その響きは温かくて、柔らかくて、抗えぬほどに胸の奥へ沁み渡っていく。
ああ、これは――教皇様の声。
閉ざされた瞼の裏側に、彼の面影が揺れる。長い睫毛に縁どられた菫色の眼差し。少し不器用な微笑み。そして今、こんなにも切実に、自分を求めてくれる声音。
(……泣いてるの?教皇様……)
言葉にはならなかった。唇が僅かに動いても、空気は震えない。ただ胸の奥で、返事のように小さく鼓動が跳ねた。
(……生きてるよ……ここに、いる……)
伝えたくて、必死に指先を動かそうとする。けれど力は入らず、ほんの僅かに痙攣しただけだった。それでも、その微かな動きをシオンは見逃さなかった。
「……メリッサ?」
驚きと安堵が入り混じった声。それに応えるように、彼女の唇が再び小さく震えた。
「……教……皇、様……」
掠れた音が、夜の静寂に小さく響いた。
シオンはただ彼女の手を両手で包み直した。指先に伝わるわずかな温もり。それだけで胸の奥が満たされる。言葉は必要なかった。互いの間に沈黙が流れるだけで、全てを語り尽くせる気がした。
額に自分の手を当て、ゆっくりと呼吸を合わせる。
過去の苛酷な日々の影も、今の彼女の穏やかさの前では、ひととき薄れ、溶けていくように思えた。
「……よかった」
それだけ。
言葉少なに、胸の奥の安堵をこめて、彼は小さく呟く。メリッサはまだ目を開けない。それでもその声を、心の奥で受け止めているかのように、呼吸を整えた。
シオンはその場を離れず、ただ静かに寄り添い続けた。
微かに揺れるまぶたの奥で、光と影が交錯する。メリッサの呼吸はまだ浅いが、確かに彼女の意識が戻りつつあった。
「……教皇様……?」
かすれた声が、今度は少しだけ確固たる響きを帯びる。
その声に、シオンはただ手の力を少しだけ優しく強めた。無言のまま、彼女の手を離さず、温もりを伝える。
「もう、大丈夫だ……」
言葉は短く、淡々としたものだったが、胸の奥に渦巻いていた不安と緊張は、少しずつ消えていくようだった。
メリッサは肩を揺らし、微かに唇を震わせる。泣こうとすれば、泣ける。だがまだ、涙は溢したくなかった。特に、この人の前では。代わりに、手のひらに触れる温もりを確かめるように、しっかりと握り返す。
「死ぬかと…思った……」
小さな吐息に混じる言葉は、苦痛を経た者だけの正直さだった。
シオンは目を閉じ、繫いだ手を額に押し当てた。
言葉は不要だ。全てを包み込み、全てを受け止める覚悟を伝えるために。
沈黙の中で交わされる互いの存在――
それだけで、どれほどの心の荷が軽くなるか、口にする必要はなかった。
窓の外は、まだ夏の名残を引きずった夕暮れだった。白羊宮の私室には厚手のカーテンが引かれ、そこから漏れる光は、遠慮がちにだけれど確かに温度を帯びている。ベッドは広く、古い時代の作りを残す木枠と、清潔に洗われた白いシーツが整っている。メリッサはその白の中に、まだ半ば眠ったまま横たわっていた。
「ここは…?」
声は掠れ、問いは小さかった。声帯の奥がまだ痛むのが判る。
「白羊宮にある私の部屋だ」
シオンの返事は、穏やかで少し硬かった。その声の輪郭が、部屋の空気を少しだけ引き締める。
「教皇様の…?お部屋、たくさん持ってるんですね…」
言葉は垂れ流すように出てしまった。メリッサの視線はまだ定まらない。
「ふっ…ふふ…」
シオンは不意に笑った。ふっと漏れる短い笑いで、肩の力が抜ける。メリッサは、その笑いがどういう種類のものか分からず、眉根を寄せた。
「なんで…笑うんですか?…」
その問いに、シオンは少しだけ困ったように首を傾げる。
「いや、すまぬ。安心しただけだ」
言葉は短いが、純度の高い安堵が滲む。彼の瞳は、愛おしいものを見守る時にしか出さない柔らかさを湛えていた。
メリッサは、その視線の真っ直ぐな視線の意味が分からないまま、胸の奥が熱を持って高鳴る。顔の内側で何かがじわじわと膨らんで、頬までさざ波のように押し寄せるのを意識した瞬間、気付いてしまう。
(あたし、今、絶対に真っ赤になってる。)
羞恥に耐えられず、頬の熱を押し返すように視線を逸らす。視線の先には、しつらえられた調度や、本の背表紙の列が見えた。
シオンは目を逸らさない。彼の瞳の中には、憂いと慈しみが同居している。メリッサはそれが自分に向けられていると知り、その重みに息を詰める。
顔が熱い。頬だけでなく、耳の先まで火照る。どうしてこんなに恥ずかしいのか。理屈では説明がつかない。メリッサはそっとシーツを掴むと、頭からすっぽり被り、もぞもぞと潜り込んだ。布は冷たく、だが包む力は確かにあって、心臓の高鳴りを少しだけ抑えてくれる。
シーツの下で、シオンの存在を確かめる。繋がれたままの手のぬくもり。それは、言葉よりもずっと直接的で、不器用な安らぎだった。外に見える景色も、過去の出来事も、今は小さくなっていく。メリッサは子どものように身体を縮める。
窓の外の光は薄く、白羊宮の部屋には午後の静けさがゆっくり降りていた。シオンの声はいつもどおり低く、抑えた調子だったが、その一言一言には責任感と安堵が滲んでいた。メリッサはシーツの中でシオンの声に耳を傾けていた。
「メリッサ、カノンを元の姿へ戻してくれてありがとう。感謝する」
「だって…そうしないと町のみんなが困るから…」
誰かのために、という単純な理由が胸に刺さる。メリッサはその胸の奥にある鈍い疼きを無理に抑えながら、シーツから目を少し覗かせ、シオンの顔をちらりと見た。
彼の菫色の瞳には余計なことは何も書かれていなかった。
けれど、その静かな眼差しの奥底には、消しきれない熱が灯っていた。淡々と語りながらも、メリッサを見つめるその目は、細心の注意で抑え込んでいるにもかかわらず、愛おしさを隠しきれてはいなかった。
「それでも、これほど出血するような怪我を負ってまで……右手は動くのか?」
シオンの問いに、メリッサは握られている右手を握り返した。神経がまだ痺れているのか、力を込めても思うほど握れていないように感じる。
「力が少し……入りづらいかも」
か細い声に、シオンは目を伏せ、短く息を吐いた。彼の大きな掌がシーツの上からそっと彼女の手を包み込む。
ほんの一瞬の温もり。
けれど、そこには言葉以上の重みがあった。
「そうか……ヒーリングを……継続してみようか」
「継続?」
「日に数回、短時間のヒーリングを施すのだ」
淡々と告げる口調。しかしその瞳には、彼女の身を案じる熱が抑えきれずに滲んでいる。メリッサはそれを直視できず、シーツの縁をぎゅっと握った。
「……日に数回って、聖域に滞在するって事ですか?」
「そうだな。通うのは難しいだろうから、ここへ留まってもらうと良いだろう」
あまりにも自然に告げられた言葉に、メリッサの心は揺れた。
聖域に滞在する――それは、シオンの傍に居続けることと同義だ。
安堵と同時に、抗いようのない緊張が胸を締めつける。
「……治りますか?」
自分でも驚くほど小さな声になっていた。彼の答えが、運命を左右するように思えたから。
「保証はできぬ」
静かな声。その響きは、事実をそのまま告げるだけの誠実さに満ちていた。
「変わらないかもしれない?」
「残念ながら、それも可能性としてある」
シオンの瞳が彼女を見つめる。慰めも虚勢もない。ただ真実と、それを受け止める覚悟だけ。だがその奥には、言葉に出せぬほどの愛おしさが潜んでいた。
メリッサは視線を逸らし、シーツをまた額あたりまで引き上げた。港町へ戻りたい気持ちはある。けれど、この右手では漁もアルバイトもおぼつかない。生きるためにどうすべきか。
そして――彼の傍に留まるという選択肢に、心の奥底で小さな灯がともってしまった自分に気づき、彼女はそっと唇を噛んだ。
頭の中で、二つの景色が交互に立ち上がる。港町の朝焼け。船の甲板に立ち、潮風を受けながら網を引く漁師たちの姿。市場のざわめき。猫が日向で伸びをする路地。仕事は体で覚えるものだから、右手の障害は致命的だ。漁に出られなければ家計は厳しい。バイトの選択肢も限られる。――その現実が、胸の奥で冷たく硬い石のように転がる。
そして、もう一つの景色。教皇宮の広い廊下、夜間にも点る灯、整えられた部屋。ヒーリングを受ける度に生体の回復曲線が少しずつ上がっていく可能性。
ここにいれば体力の管理も、食事も、必要な医療もある。だが、同時に思うことがある。聖域に“滞在する”ということは、利害の輪の中に身を置くということでもある。メリッサは自分がどう見られるかを知っている。彼らは成果を求める。彼女は既に“道具”としての扱いを経験した。心の中の小さな声が繰り返す。『また使われるのではないか』。その不信は、根深い。
ずっと握られている右手の疼きは消えない。シオンの提案には合理性がある。だが合理が必ずしも救いを意味しないことは、メリッサ自身が身をもって知っている。滞在すれば回復の確率は上がるかもしれない。だが、“ここ”にいるという事実は、彼の世界の論理にまた縛られることを意味する。町へ戻るという選択は、自由だが代償が大きい。滞在するという選択は、保険だが自由を縮める。
それでも、湧き上がる正直な気持ちがあった。カノンが戻ったとき、床に伏した自分を見て『生きていてくれて嬉しい』と言ってくれたこと。カノンのその言葉は、聖域の論理よりもずっと重かった。
シオンの手の温度、ムウの冷静な癒し、アフロディーテの苛立ちと優しさ――誰も完璧ではない。そのはずなのに、ここには人の温度が散らばっている。メリッサはそれを感じていた。利用されるかもしれない、道具でしかないのかもしれない、という恐れが消えるわけではないが、他人の手が差し伸べられたという事実もまた、否定しがたい。
「ここに留まるとしたら」と、メリッサは自分に向かって静かに問いかける。滞在期間はどれほど必要か。自由はどれほど制限されるのか。町での生活はどうなるのか。
シオンは「保証はできぬ」と言った。保証のない未来へ身を預ける勇気は、若い彼女には簡単に出せない。けれど、もう一度漁に出て、同じ手で網を引く自分を想像する。右手の震えが、海の匂いが、日の光が、どれほど自分にとって根源的なのかが分かる。仕事は生活そのものだ。失うわけにはいかない。
メリッサは唇を噛んだ。決めるのは自分だ。誰かの意志に従って生きるつもりはない。けれど、自分の体一つで誰かの命を救ったことも事実だ。自分の小宇宙が誰かを取り戻した。そこに誇りがないとは言えない。だが誇りだけで生きていけるほど世界は甘くない。
頭の中で秤が揺れる。港町か聖域か。町の人達の笑い声と、シオンの静かな手。最終的にどうするかは明日の自分が決めるだろう。いまはただ、少しでも回復すること。指先がもう少し自由になること。選択肢を少しでも増やしてから、返事を出したい——そう思うと、メリッサは小さく息を吐いた。
決断はまだ出せない。だが、きっとこの手で自分の道を探すのだという意志だけは、確かに存在した。
外では海が遠く、夕暮れが静かに沈んでゆく。室内の空気は変わらないが、メリッサの胸の中には、少しだけ明るさが戻り始めていた。
