Eine Kleine Ⅳ
王城の奥深く、厚い扉に守られた会議室で、国王と重臣たちは満足げに頷き合っていた。
裂け目は消え、あの“事故”は収束した。
少なくとも――彼らの目には、そう映っていた。
「やはり、聖域の介入など不要だったな」
誰かがそう言うと、卓を囲む空気が一段、軽くなる。
あの異形は国軍の最新兵器で粉砕された。火で焼き、痕跡も残さず処理した。結果だけを見れば、完璧な“成功”だ。
「裂け目は制御可能だ。問題は、精度と再現性だろう」
「開閉を自在にできれば……」
言葉は、やがて野心へと滑らかに形を変えていく。
世界の警察を自称する超大国。
帝国再生を掲げ、裏で軍備を整える独裁国家。
民族統一の名の下に火種を抱え込む多民族国家。
それらすべてを、上から押さえつける“切り札”は、国境も、条約も、抑止力も超える力しかない。
「覇権は、武力でも外交でもない。“次元”だ。世界そのものを握る鍵だ」
その言葉に、誰も反論しなかった。誰かが、ふと躊躇いがちに口を開く。
「……ヴァルトフェルト村の件ですが」
一瞬、沈黙が落ちる。だが、それはすぐに切り捨てられた。
「村が一つ消えた?たかが数十人だろう。しかも辺境の田舎者だ」
吐き捨てるような声音。
「国家プロジェクトの礎になったのだ。祖国の未来のために役立ったのなら、本望だろう」
笑いすら漏れた。
人の命は、数字に還元され、数字は、計画書の片隅へと追いやられる。その中で、誰一人として考えなかった。あの裂け目が、閉じられたのではなく、向こうから“引っ込められた”だけかもしれないという可能性を。
誰一人として、理解していなかった。異形が残したものが、恐怖でも被害でもなく、学習だったということを。
王城の外では、何も知らぬ街が眠りについている。人々は、日常が戻ったと信じて疑わない。だが、世界はすでに、“次の段階”へと踏み込んでいた。
その扉を開いたのが、他ならぬエルダニア王国であることを、彼らが思い知るのは、まだ先のことだった。
裂け目は、エルダニアが無理やりこじ開けたものではなかった。
それは、呼びかけだった。
長い年月、禁忌として封じられてきた術式。
世界の理から外れた理論。
人智を超えた領域へと伸ばされた、探りの手。
エルダニア王国は、それを“挑戦”と呼び、“研究”と言い換え、やがて“国家の未来”と正当化した。
だが――向こう側の存在にとって、それは違った。
彼らは、元々こちらの世界に興味など持っていなかった。
人間の文明も、国家も、戦争も、観測する価値のない、取るに足らぬ営みだった。だから、裂け目は開かなかった。正確には、開く必要がなかった。
しかし、エルダニアが触れたのは、ただの異界ではない。
欲望だった。
支配への渇望だった。
他者を踏み台にしてでも、世界の頂に立とうとする意志だった。
それは、あちら側にとって明確な呼び声だった。
「ここに、使える世界がある」
「ここに、扉を開かせる人間がいる」
「ここに、代償を理解しない愚かさがある」
裂け目は、その応答として生じた。向こうが、こちらを覗いたのではない。こちらが、向こう側へ呼びかけたのだ。
ヴァルトフェルト村に現れた異形は、侵略者ではなかった。
偵察だった。
測定だった。
この世界がどれほどか弱く、どれほど美味で、どれほど簡単に壊れるかを確かめるための試作に過ぎなかった。
ゆっくりと歩き回り景色を覚え、人の味を記憶し、銃も、炎も、兵器も、すべて情報として持ち帰った。そして、役目を終えれば、裂け目は閉じられた。
否。
閉じたのではない。引っ込めただけだ。
エルダニアの人間たちは、それを制御と呼んだ。
成功と言い切り、聖域の介入は不要だと胸を張った。
だが、真実はただ一つ。
裂け目を閉じる権利も、再び開く主導権も、最初からエルダニアにはなかった。
呼びかけに応じた知性は、もうこの世界を知ってしまった。
野心の匂いを。
恐怖の味を。
そして、人間という資源の価値を。
次は、もっと巧妙に、もっと静かに、そして確実に。裂け目が再び現れるとき、それはもう“事故”ではない。
選ばれた侵入だ。
エルダニア王国は、世界の覇権を夢見て、禁忌に手を伸ばした。その瞬間から、彼ら自身がこの世界を差し出す側に回ったことに、誰一人気付いていなかった。
玉座の間は、静まり返っていた。
重厚な柱に囲まれた空間は、いつもなら威厳と安定を象徴するはずなのに、今は冷たい石の檻のように感じられた。
アリシアが聖域から帰還したとき、すでにヴァルトフェルト村の裂け目は閉じられていた――その事実が、この場の空気をいっそう張り詰めさせている。
「アリシア、聖域へ行ったそうではないか」
抑えた声に怒気はない。だからこそ、逃げ場がなかった。
「……っ」
アリシアは一瞬、息を止めた。胸の奥で何かが強く跳ねる。しまった、と直感する。表情に出てしまったかもしれない――そう思った瞬間、王は深くため息をついた。だが、叱責はなかった。
「あの若造に助力を乞いに行ったのか」
「お父様……」
何故それを知っているのか、とは訊かなかった。訊いてしまえば、自分の行動が常に監視されている事実を認めることになる。
王は言葉を選びながら、ゆっくり話した。
「お前もエルダニア王家の人間だ。国家の繁栄を常に考えろ」
その言葉に、アリシアは一歩、踏み出した。声が震えぬよう、必死に抑える。
「国家の繁栄でしたら……これまで以上に製薬事業への投資を行い、難病の研究を誠実に進めることで、十分に成し遂げられるはずです。人々の命を救い、世界の人々から信頼を得ることこそ――」
「そこに、どれほどの金と時間をつぎ込むのだ?」
父の声が、次の言葉を遮る。
「病人に金を使うのか?難病患者を治したとて、そやつらがどれだけ国家の役に立つ?逆に、穀潰しどもを無駄に生きながらえさせるだけだと思わんのか?」
アリシアは言葉を失った。全身から血の気が引いていくという感覚を、生まれて初めて知った。
「……お父様!」
絞り出すように叫ぶ。
「それは、差別です!私は第一王女として、幼い頃から高名な先生方のもとで、多くの教育を受けてきました!ですが……どの先生からも、そのような教えは一度も受けておりません!」
「アリシア、これは差別ではない」
王の視線が冷たく細められる。
「区別だ」
淡々と断言する。
「国家や国民の役に立たぬ者を、税金で生かしておく方が、よほど逆差別ではないのか?相互性が成り立たない」
その言葉は、理屈として整っていた。だが――心が、まるでそこにない。
アリシアの胸に、冷たいものが広がっていく。
(……違う)
目の前にいるのは、確かに父の顔をした男だ。
幼い頃、夜に熱を出した自分の額に手を当ててくれた人。
祝賀の席で、不器用に微笑んだ人。
だが今、彼の言葉は人を数値と効率でしか測らない、別の何かのそれだった。
(この人は……誰?)
言葉が通じない。理想も信念も、噛み合わない。
アリシアは唇を噛み締める。
涙を流してはならない。ここで崩れれば、それこそ“役に立たぬ者”になる。
「……私は」
震えながらも、はっきりと告げる。
「そのような国家の在り方を、是とは思えません」
王は何も言わなかった。ただ、重く、冷ややかな沈黙が二人の間に落ちた。その沈黙こそが、父と娘を隔てる、決定的な裂け目だった。
言葉が、噛み合わない。
いや――噛み合わなくなったのは、今日が初めてではない。
アリシアは、目の前の玉座に座る男を見つめながら、胸の奥がゆっくりと冷えていくのを感じていた。
威厳ある姿。整えられた衣装。国王として非の打ちどころのない佇まい。それなのに、その口から紡がれる言葉だけが、どこか異質だった。
――この人は、いつからこうだった?
幼い頃、重い病に伏した下級貴族の子を案じ、私財を投じて医師を呼んだ父を、アリシアは知っている。
辺境で疫病が流行った際、採算が取れぬと反対されながらも支援を決めた父を、確かに覚えている。
だが今、父は淡々と“役に立つか、立たぬか”という秤で人の命を量っている。
アリシアは、指先が震えるのを抑えながら、唇を噛み締めた。
「……それでは、国とは何のためにあるのですか」 「何だと?」
苛立ちを孕んだ声に、一瞬怯む。だがアリシアは、もう引かなかった。
「国とは、人が生きるための器ではないのですか。健康な者だけを選び、弱き者を切り捨てて……それで繁栄と呼べるのですか」
「理想論だ、アリシア。王女が夢を見るのは許されるが、王が夢を見ることは許されぬ」
王はゆっくりと立ち上がり、玉座から一段降りる。
その視線は、娘ではなく、王族という“役割”を見ていた。
「私は国を守らねばならぬ。そのためには、手段を選んでいられぬ時もある」
「裂け目も……その“手段”だと仰るのですか」
一瞬、空気が凍りついた。王の目が、僅かに細められる。
それは、探る目だった。
「聖域でどこまで聞いた」
「……」
アリシアは、答えなかった。否、答えられなかった。
シオンの氷のような眼差しを思い出す。
そして、この国が、すでに引き返せぬ地点を越えているという、あまりにも重い真実を受け止めるしかなかった。
「……もう、裂け目は閉じています」
「だから何だというのだ」
王は肩をすくめる。
「試みは成功した。制御もできた。次は、より完全な形で行えばよい」
「“次”があると……本気でお考えなのですか?」
その問いに、王は答えなかった。
沈黙が肯定であることを、アリシアは理解してしまった。
胸の奥に絶望感が広がる。
――この人は、もう止まらない。
説得では省みない。理解でも動かない。父娘としての情ですら、もはや届かない。
アリシアは、ゆっくりと一礼した。
「……承知しました」
「分かればよい。余計なことは考えるな」
王はそう言って、視線を外した。それは、対話の終わりを意味していた。
玉座の間を辞する背中に、もはや震えはなかった。代わりに、胸の内に、冷たく澄んだ決意が宿っていた。
私が、止める。
王女としてではなく、父の娘としてでもない。この国の過ちを知った、一人の人間として。アリシアは歩きながら、聖域で見たシオンの姿を思い出していた。
あの男は、力を誇示しなかった。怒りを振りかざすこともなかった。それなのに、彼の沈黙はどんな王の言葉よりも重かった。
裂け目は閉じた。だが、危機が去ったわけではない。
アリシアは、もう理解していた。
次に裂け目が開く時。それは、この国が自らの選択の代償を支払う時なのだと。そして、選ばなければならない。その時自分はどちらの側に立つのかを。
その村も先の集落同様、地図の隅にかろうじて名前が残るだけの場所だった。
山と山に挟まれ、舗装もままならない一本道の先に、古い家屋が点在している。若者はほとんど残っていない。半数以上が高齢者で、畑を耕し、家畜を飼い、季節の恵みで細々と暮らしていた。
電線は古く、水道管の更新にも莫大な費用がかかる。救急車が辿り着くまでに一時間以上かかることもある。
だから国は、繰り返し告げてきた。
市街地へ移住を。
補償金は用意する。
ここに未来はない。
何人かは応じた。だが、百数十人は残った。
「ここは、親の墓がある」
「この畑で、祖父さんも曾祖父さんも生きてきた」
「金で土地は買えても、時間や思い出は買えない」
そう言って、彼らは去らなかった。
国にとって、その村は“問題”だった。予算を食い、統計を歪め、国家計画の足を引っ張る存在。だが、武力で追い出せば、さすがに表の世界が騒ぐ。
排除役に、裂け目が選ばれた。
ある夜、村の外れの枯れた畑の上空が歪んだ。
音もなく、光もなく。ただ、現実が静かに捲れ上がるように。
そこに“向こう側”が覗いた。
最初に気づいたのは、夜回りをしていた老人だった。
「……空が、割れてる?」
誰に言うでもなく呟いた声は、闇に溶けた。
異臭はない。風もない。だが、裂け目の向こうから、確かに“何か”が見ていた。
それは、すぐには出てこなかった。歩き回ることも、喰らうこともない。ただ、じっと待っている。
向こう側は分かっているのだ。この村が何者で、誰からも見捨てられ、助けが来ないことを。
(まだだ)
空の奥で、意志が揺れる。
(ここは、まだ早い)
ヴァルトフェルト村で得た記憶が、冷静さを保たせていた。いきなり姿を現せば、警戒される。壊せば、気づかれる。今は油断させる段階だ。
村では、奇妙な噂が広がり始めていた。
「夜になると、誰かに見られている気がする」
「夢に知らない道が出てくる」
「外に出るなって、声がした」
国は何も言わず、調査も来ない。
報道もない。
そしてそれこそが、この裂け目の真の意味だった。
誰も守らない場所にある、数えない命に対してなど、誰も責任を取らない。
裂け目は、静かにそこに在り続ける。排除はまだ始まっていないが、準備は整いつつあった。そのことに、村民たちはまだ気づいていなかった。
静まり返った教皇宮の執務室で、シオンは窓外の夜を見つめていた。星の配置も、風の流れも、異変はない。だが――世界のどこかで、確実に歯車が軋んでいる。裂け目が閉じたことも、再び開いたことも、すでに把握していた。
潜伏中のデスマスク、ミロ、アフロディーテからの報告は簡潔で、しかし深刻だった。
ヴァルトフェルト村ではない別の過疎の村が標的になっている。高齢者が多く、人口百数十。自給自足の村で、国家から移住勧告あり。
「……場所を変えたか」
予想の範囲内ではあった。裂け目そのものが目的ではない。人が消えること――いや、“消してもよい”と判断される場所を選ぶことが、彼らの真意だ。
(やはり無理だったか)
脳裏に浮かぶのは、聖域を訪れた若い王女の姿だ。まっすぐで、切迫した瞳。だが、それだけでは届かない場所がある。
アリシア王女は王の説得に失敗した。
当然だ、と冷静な思考が告げる。成人したばかりの王女が、王権と国家戦略の前に立ち塞がれるほど、世界は甘くない。
(メリッサの方がよほど……いや、比べてはならぬ)
無意識にその名を思い浮かべ、シオンは小さく息を吐いた。彼女は同年代の女性と比べれば、確かに驚くほど逞しい。理不尽に耐え、痛みを知り、それでも他者を切り捨てない強さを持っている。
だが、それは例外だ。
アリシア王女は、あくまで“王宮で守られて育った賢い娘”に過ぎない。
「さて、アリシア王女」
名を呼ぶと、空気がわずかに張り詰めた気がした。彼女は聖域への亡命を望んでいる。祖国を捨ててでも、これ以上の犠牲を止めたいと。聖域で保護できないわけではない。だが、外の世界での身分は完全に失われ、王女ではなくなる。女官、あるいは侍女――いや、どちらも人員は揃っていたはずだ。そうなると、十二宮の内には入れない。
官舎や兵舎の雑用係。名もなく、権限もなく、誰にも注目されない場所がアリシアの居場所になる。
(王宮育ちの王女に……耐えられるだろうか)
命の危険はない。だが、尊厳を削られる日々だ。命令に逆らえず、声を上げることも許されない立場。
彼女は、そこへ身を置く覚悟があるのか。
シオンは机に置かれた報告書に指をかけ、静かに目を閉じた。王女一人を守ることは容易い。だが、彼女を受け入れるということは、エルダニア王国との関係に、決定的な線を引くことを意味する。
それでもなお、彼女は来るのだろう。
「覚悟を見せてもらおうか」
それは試すためではない。世界の残酷さを前に、それでもなお、人であろうとするかどうか。その一点を確かめるための、静かな問いだった。
エルダニアは聖域を軽んじ、自国の価値観と論理を正義として押し付けた。保護対象国家除外措置が示された後も、振る舞いを改めることも、省みることもなく――禁忌を、再び犯した。
一度目は“誤り”だったかもしれない。だが、二度目は違う。選び取ったのだ。過ちの上塗りを続けた国家を酌量するほど、聖域は甘くはない。
シオンは執務椅子に深く背を預け、静かに天井を仰いだ。石造りの天井に刻まれた紋様が、ぼんやりと視界に滲む。
来るな。
そう思った瞬間、控えめなノック音が響いた。誰が来たのか、声を聞かずとも分かる。気配が、あまりにも馴染みすぎている。
「シオン様……ちょっとお話したいんだけど……いいかな?」
扉がわずかに開き、その隙間から、メリッサが顔を覗かせた。いつもの快活さはなく、眉根にわずかな影を落としている。
「構わぬよ。お入り」
シオンは立ち上がり、自然と手を差し出した。だが、メリッサはその手を取らなかった。扉を閉め、室内に入ってはきたものの、足取りは重い。
「……やっぱり、何かあったんでしょう?」
問いは柔らかいが、逃げ場はない。彼女はすでに察している。その瞳が、そう語っていた。
(ああ……)
胸の奥で、静かな諦念が広がる。
(やはり、そなたは気付いてしまったのだな)
エルダニアが、再び魔界と繋がってしまったことに。
「裂け目……閉じたはずだったのよね」
メリッサは一歩、シオンに近づいた。責めるでもなく、怯えるでもなく、ただ事実を確かめるように。
「でも、聖域の空気が……変わった。嫌な感じがする」
沈黙が落ちる。それが答えだった。
「場所を変えた」
シオンの声は抑えられている。
「今度は、より“選ばれやすい”場所だ。声を上げる者が少なく、消えても問題にならぬと判断された土地だ」
メリッサの唇がかすかに震えた。
「……人を、選んで……?」
「そうだ」
それ以上、言葉を飾る意味はなかった。
メリッサは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。胸の内で渦巻く感情を必死に抑えているのが分かる。やがて、彼女は顔を上げる。
「……ねえ、シオン様。聖域は……どうするの?」
その問いは、未来を問うものだった。介入か、断罪か。救済か、切り捨てか。
シオンは一瞬、目を閉じた。そして、ゆっくりと口を開く。
「聖域は秩序を守る場だ。情では動かぬ」
言葉は厳しい。だが、嘘はない。
「二度も禁忌を犯した国家に、これ以上の猶予は与えられぬ」
メリッサは息を詰めた。だが、反論はしなかった。ただ、苦しそうに胸元を押さえる。
「……それでも」
かすれた声で、彼女は言った。
「それでも、そこにいる人たちまで……“国家”として切り捨てられるのは……」
シオンは、彼女を見つめた。その瞳に宿るのは、痛みを知る者だけが持つ光だ。
「だからこそ、そなたがここに来たのだろう」
そう告げると、今度は彼の方から歩み寄った。
「メリッサ。聖域は冷酷だ。だが、無慈悲であろうとはしていない」
彼女の前に立ち、静かに言葉を続ける。
「国は裁く。だが、人を見捨てるかどうかは――これから決める」
その言葉に、メリッサの目がわずかに見開かれた。
「……あたしにも、できることある?」
「あるとも」
短く、だが確かな答え。シオンはそっと、彼女の手を取った。
今度は、メリッサは拒まなかった。
嵐の前の静けさ。だが、その静けさの中で、確かに一つの覚悟が、結ばれつつあった。
「何をしたらいいの?」
震えを含んだ問いだった。それでも、逃げずにこちらを見上げる視線に、彼女の覚悟が滲んでいる。
シオンは、すぐには答えなかった。言葉にすれば、取り返しがつかなくなる。胸の奥で幾度も反芻し、それでも避けられぬ結論を、ゆっくりと掬い上げる。
これ以上、遠ざけてはならない。
「……もう一度、エルダニアへ行ってもらう」
メリッサの瞳が揺れたが、驚きはなかった。恐らく、どこかで予感していたのだろう。
「そなたは、向こう側を見た。裂け目の気配、空気の歪み……それを、覚えているはずだ」
「うん……忘れられない」
声は小さいが、確かだった。
「裂け目は、今確認されている場所以外にも開く可能性がある。意図的に隠されるなら、尚更だ。――それを、見つけてほしい」
沈黙。メリッサは一度、目を伏せた。指先がわずかに強張る。
「……出来るだけ、やってみる」
それは勇ましい言葉ではなかった。だからこそ、真実だった。
「このような危険極まりない役目を、そなたに任せたくはない」
シオンの声に、珍しく迷いが混じる。
「だが……そなたの感覚と力が、必要なのだ。聖闘士でも軍でも辿り着けぬ領域を、そなたは見ている」
メリッサは顔を上げ、少しだけ、困ったように笑った。
「……いざとなったら、助けに来てくれる?」
「当たり前だ」
即答だった。一片の逡巡もない。
「じゃあ……頑張るね」
その言葉が落ちた瞬間、シオンは彼女を抱き締めていた。逃がさぬように、確かめるように。
腕の中に収まる身体は、思った以上に華奢で、微かに震えている。それが恐怖なのか、決意なのか、あるいはその両方なのか分からない。
(これほど恐ろしいとはな……)
戦場に立つことよりも、敵と刃を交えることよりも、愛する者を惨劇の予感が漂う土地へ送り出す方が、遥かに残酷だった。
それでも、教皇である以上、選ばねばならない。守るために、差し出さねばならないものがある。
シオンは彼女の髪に顔を埋めながら、この立場を、この宿命を、呪わずにはいられなかった。
その夜、シオンはメリッサを抱いた。
言葉はほとんど要らなかった。
触れ合う指先の温度、互いの呼吸が重なる距離。それだけで、胸の奥に溜め込んできた想いが堰を切ったように溢れ出す。
メリッサは静かに彼の名を呼び、シオンはその背を引き寄せた。逃がすまいとする力ではない。確かめ合うような、祈りに近い抱擁だった。
重ねた額の向こうで、彼女の睫毛が震える。
不安も、恐れも、覚悟も、すべてを抱いたまま、それでも今この瞬間だけは、互いの存在だけを信じたかった。
夜は深く長かった。
肌を重ねるたび、離れがたい想いが強くなる。まるで、これが最後の夜であるかのように、二人は情熱のすべてを注ぎ込み、溶け合うように愛し合った。
やがて、静寂が戻る。
シオンはメリッサを胸に抱いたまま、眠りに落ちる彼女の呼吸を数えた。
(必ず、帰らせる)
その誓いだけが、夜明け前の闇に、確かに残っていた。
裂け目は消え、あの“事故”は収束した。
少なくとも――彼らの目には、そう映っていた。
「やはり、聖域の介入など不要だったな」
誰かがそう言うと、卓を囲む空気が一段、軽くなる。
あの異形は国軍の最新兵器で粉砕された。火で焼き、痕跡も残さず処理した。結果だけを見れば、完璧な“成功”だ。
「裂け目は制御可能だ。問題は、精度と再現性だろう」
「開閉を自在にできれば……」
言葉は、やがて野心へと滑らかに形を変えていく。
世界の警察を自称する超大国。
帝国再生を掲げ、裏で軍備を整える独裁国家。
民族統一の名の下に火種を抱え込む多民族国家。
それらすべてを、上から押さえつける“切り札”は、国境も、条約も、抑止力も超える力しかない。
「覇権は、武力でも外交でもない。“次元”だ。世界そのものを握る鍵だ」
その言葉に、誰も反論しなかった。誰かが、ふと躊躇いがちに口を開く。
「……ヴァルトフェルト村の件ですが」
一瞬、沈黙が落ちる。だが、それはすぐに切り捨てられた。
「村が一つ消えた?たかが数十人だろう。しかも辺境の田舎者だ」
吐き捨てるような声音。
「国家プロジェクトの礎になったのだ。祖国の未来のために役立ったのなら、本望だろう」
笑いすら漏れた。
人の命は、数字に還元され、数字は、計画書の片隅へと追いやられる。その中で、誰一人として考えなかった。あの裂け目が、閉じられたのではなく、向こうから“引っ込められた”だけかもしれないという可能性を。
誰一人として、理解していなかった。異形が残したものが、恐怖でも被害でもなく、学習だったということを。
王城の外では、何も知らぬ街が眠りについている。人々は、日常が戻ったと信じて疑わない。だが、世界はすでに、“次の段階”へと踏み込んでいた。
その扉を開いたのが、他ならぬエルダニア王国であることを、彼らが思い知るのは、まだ先のことだった。
裂け目は、エルダニアが無理やりこじ開けたものではなかった。
それは、呼びかけだった。
長い年月、禁忌として封じられてきた術式。
世界の理から外れた理論。
人智を超えた領域へと伸ばされた、探りの手。
エルダニア王国は、それを“挑戦”と呼び、“研究”と言い換え、やがて“国家の未来”と正当化した。
だが――向こう側の存在にとって、それは違った。
彼らは、元々こちらの世界に興味など持っていなかった。
人間の文明も、国家も、戦争も、観測する価値のない、取るに足らぬ営みだった。だから、裂け目は開かなかった。正確には、開く必要がなかった。
しかし、エルダニアが触れたのは、ただの異界ではない。
欲望だった。
支配への渇望だった。
他者を踏み台にしてでも、世界の頂に立とうとする意志だった。
それは、あちら側にとって明確な呼び声だった。
「ここに、使える世界がある」
「ここに、扉を開かせる人間がいる」
「ここに、代償を理解しない愚かさがある」
裂け目は、その応答として生じた。向こうが、こちらを覗いたのではない。こちらが、向こう側へ呼びかけたのだ。
ヴァルトフェルト村に現れた異形は、侵略者ではなかった。
偵察だった。
測定だった。
この世界がどれほどか弱く、どれほど美味で、どれほど簡単に壊れるかを確かめるための試作に過ぎなかった。
ゆっくりと歩き回り景色を覚え、人の味を記憶し、銃も、炎も、兵器も、すべて情報として持ち帰った。そして、役目を終えれば、裂け目は閉じられた。
否。
閉じたのではない。引っ込めただけだ。
エルダニアの人間たちは、それを制御と呼んだ。
成功と言い切り、聖域の介入は不要だと胸を張った。
だが、真実はただ一つ。
裂け目を閉じる権利も、再び開く主導権も、最初からエルダニアにはなかった。
呼びかけに応じた知性は、もうこの世界を知ってしまった。
野心の匂いを。
恐怖の味を。
そして、人間という資源の価値を。
次は、もっと巧妙に、もっと静かに、そして確実に。裂け目が再び現れるとき、それはもう“事故”ではない。
選ばれた侵入だ。
エルダニア王国は、世界の覇権を夢見て、禁忌に手を伸ばした。その瞬間から、彼ら自身がこの世界を差し出す側に回ったことに、誰一人気付いていなかった。
玉座の間は、静まり返っていた。
重厚な柱に囲まれた空間は、いつもなら威厳と安定を象徴するはずなのに、今は冷たい石の檻のように感じられた。
アリシアが聖域から帰還したとき、すでにヴァルトフェルト村の裂け目は閉じられていた――その事実が、この場の空気をいっそう張り詰めさせている。
「アリシア、聖域へ行ったそうではないか」
抑えた声に怒気はない。だからこそ、逃げ場がなかった。
「……っ」
アリシアは一瞬、息を止めた。胸の奥で何かが強く跳ねる。しまった、と直感する。表情に出てしまったかもしれない――そう思った瞬間、王は深くため息をついた。だが、叱責はなかった。
「あの若造に助力を乞いに行ったのか」
「お父様……」
何故それを知っているのか、とは訊かなかった。訊いてしまえば、自分の行動が常に監視されている事実を認めることになる。
王は言葉を選びながら、ゆっくり話した。
「お前もエルダニア王家の人間だ。国家の繁栄を常に考えろ」
その言葉に、アリシアは一歩、踏み出した。声が震えぬよう、必死に抑える。
「国家の繁栄でしたら……これまで以上に製薬事業への投資を行い、難病の研究を誠実に進めることで、十分に成し遂げられるはずです。人々の命を救い、世界の人々から信頼を得ることこそ――」
「そこに、どれほどの金と時間をつぎ込むのだ?」
父の声が、次の言葉を遮る。
「病人に金を使うのか?難病患者を治したとて、そやつらがどれだけ国家の役に立つ?逆に、穀潰しどもを無駄に生きながらえさせるだけだと思わんのか?」
アリシアは言葉を失った。全身から血の気が引いていくという感覚を、生まれて初めて知った。
「……お父様!」
絞り出すように叫ぶ。
「それは、差別です!私は第一王女として、幼い頃から高名な先生方のもとで、多くの教育を受けてきました!ですが……どの先生からも、そのような教えは一度も受けておりません!」
「アリシア、これは差別ではない」
王の視線が冷たく細められる。
「区別だ」
淡々と断言する。
「国家や国民の役に立たぬ者を、税金で生かしておく方が、よほど逆差別ではないのか?相互性が成り立たない」
その言葉は、理屈として整っていた。だが――心が、まるでそこにない。
アリシアの胸に、冷たいものが広がっていく。
(……違う)
目の前にいるのは、確かに父の顔をした男だ。
幼い頃、夜に熱を出した自分の額に手を当ててくれた人。
祝賀の席で、不器用に微笑んだ人。
だが今、彼の言葉は人を数値と効率でしか測らない、別の何かのそれだった。
(この人は……誰?)
言葉が通じない。理想も信念も、噛み合わない。
アリシアは唇を噛み締める。
涙を流してはならない。ここで崩れれば、それこそ“役に立たぬ者”になる。
「……私は」
震えながらも、はっきりと告げる。
「そのような国家の在り方を、是とは思えません」
王は何も言わなかった。ただ、重く、冷ややかな沈黙が二人の間に落ちた。その沈黙こそが、父と娘を隔てる、決定的な裂け目だった。
言葉が、噛み合わない。
いや――噛み合わなくなったのは、今日が初めてではない。
アリシアは、目の前の玉座に座る男を見つめながら、胸の奥がゆっくりと冷えていくのを感じていた。
威厳ある姿。整えられた衣装。国王として非の打ちどころのない佇まい。それなのに、その口から紡がれる言葉だけが、どこか異質だった。
――この人は、いつからこうだった?
幼い頃、重い病に伏した下級貴族の子を案じ、私財を投じて医師を呼んだ父を、アリシアは知っている。
辺境で疫病が流行った際、採算が取れぬと反対されながらも支援を決めた父を、確かに覚えている。
だが今、父は淡々と“役に立つか、立たぬか”という秤で人の命を量っている。
アリシアは、指先が震えるのを抑えながら、唇を噛み締めた。
「……それでは、国とは何のためにあるのですか」 「何だと?」
苛立ちを孕んだ声に、一瞬怯む。だがアリシアは、もう引かなかった。
「国とは、人が生きるための器ではないのですか。健康な者だけを選び、弱き者を切り捨てて……それで繁栄と呼べるのですか」
「理想論だ、アリシア。王女が夢を見るのは許されるが、王が夢を見ることは許されぬ」
王はゆっくりと立ち上がり、玉座から一段降りる。
その視線は、娘ではなく、王族という“役割”を見ていた。
「私は国を守らねばならぬ。そのためには、手段を選んでいられぬ時もある」
「裂け目も……その“手段”だと仰るのですか」
一瞬、空気が凍りついた。王の目が、僅かに細められる。
それは、探る目だった。
「聖域でどこまで聞いた」
「……」
アリシアは、答えなかった。否、答えられなかった。
シオンの氷のような眼差しを思い出す。
そして、この国が、すでに引き返せぬ地点を越えているという、あまりにも重い真実を受け止めるしかなかった。
「……もう、裂け目は閉じています」
「だから何だというのだ」
王は肩をすくめる。
「試みは成功した。制御もできた。次は、より完全な形で行えばよい」
「“次”があると……本気でお考えなのですか?」
その問いに、王は答えなかった。
沈黙が肯定であることを、アリシアは理解してしまった。
胸の奥に絶望感が広がる。
――この人は、もう止まらない。
説得では省みない。理解でも動かない。父娘としての情ですら、もはや届かない。
アリシアは、ゆっくりと一礼した。
「……承知しました」
「分かればよい。余計なことは考えるな」
王はそう言って、視線を外した。それは、対話の終わりを意味していた。
玉座の間を辞する背中に、もはや震えはなかった。代わりに、胸の内に、冷たく澄んだ決意が宿っていた。
私が、止める。
王女としてではなく、父の娘としてでもない。この国の過ちを知った、一人の人間として。アリシアは歩きながら、聖域で見たシオンの姿を思い出していた。
あの男は、力を誇示しなかった。怒りを振りかざすこともなかった。それなのに、彼の沈黙はどんな王の言葉よりも重かった。
裂け目は閉じた。だが、危機が去ったわけではない。
アリシアは、もう理解していた。
次に裂け目が開く時。それは、この国が自らの選択の代償を支払う時なのだと。そして、選ばなければならない。その時自分はどちらの側に立つのかを。
その村も先の集落同様、地図の隅にかろうじて名前が残るだけの場所だった。
山と山に挟まれ、舗装もままならない一本道の先に、古い家屋が点在している。若者はほとんど残っていない。半数以上が高齢者で、畑を耕し、家畜を飼い、季節の恵みで細々と暮らしていた。
電線は古く、水道管の更新にも莫大な費用がかかる。救急車が辿り着くまでに一時間以上かかることもある。
だから国は、繰り返し告げてきた。
市街地へ移住を。
補償金は用意する。
ここに未来はない。
何人かは応じた。だが、百数十人は残った。
「ここは、親の墓がある」
「この畑で、祖父さんも曾祖父さんも生きてきた」
「金で土地は買えても、時間や思い出は買えない」
そう言って、彼らは去らなかった。
国にとって、その村は“問題”だった。予算を食い、統計を歪め、国家計画の足を引っ張る存在。だが、武力で追い出せば、さすがに表の世界が騒ぐ。
排除役に、裂け目が選ばれた。
ある夜、村の外れの枯れた畑の上空が歪んだ。
音もなく、光もなく。ただ、現実が静かに捲れ上がるように。
そこに“向こう側”が覗いた。
最初に気づいたのは、夜回りをしていた老人だった。
「……空が、割れてる?」
誰に言うでもなく呟いた声は、闇に溶けた。
異臭はない。風もない。だが、裂け目の向こうから、確かに“何か”が見ていた。
それは、すぐには出てこなかった。歩き回ることも、喰らうこともない。ただ、じっと待っている。
向こう側は分かっているのだ。この村が何者で、誰からも見捨てられ、助けが来ないことを。
(まだだ)
空の奥で、意志が揺れる。
(ここは、まだ早い)
ヴァルトフェルト村で得た記憶が、冷静さを保たせていた。いきなり姿を現せば、警戒される。壊せば、気づかれる。今は油断させる段階だ。
村では、奇妙な噂が広がり始めていた。
「夜になると、誰かに見られている気がする」
「夢に知らない道が出てくる」
「外に出るなって、声がした」
国は何も言わず、調査も来ない。
報道もない。
そしてそれこそが、この裂け目の真の意味だった。
誰も守らない場所にある、数えない命に対してなど、誰も責任を取らない。
裂け目は、静かにそこに在り続ける。排除はまだ始まっていないが、準備は整いつつあった。そのことに、村民たちはまだ気づいていなかった。
静まり返った教皇宮の執務室で、シオンは窓外の夜を見つめていた。星の配置も、風の流れも、異変はない。だが――世界のどこかで、確実に歯車が軋んでいる。裂け目が閉じたことも、再び開いたことも、すでに把握していた。
潜伏中のデスマスク、ミロ、アフロディーテからの報告は簡潔で、しかし深刻だった。
ヴァルトフェルト村ではない別の過疎の村が標的になっている。高齢者が多く、人口百数十。自給自足の村で、国家から移住勧告あり。
「……場所を変えたか」
予想の範囲内ではあった。裂け目そのものが目的ではない。人が消えること――いや、“消してもよい”と判断される場所を選ぶことが、彼らの真意だ。
(やはり無理だったか)
脳裏に浮かぶのは、聖域を訪れた若い王女の姿だ。まっすぐで、切迫した瞳。だが、それだけでは届かない場所がある。
アリシア王女は王の説得に失敗した。
当然だ、と冷静な思考が告げる。成人したばかりの王女が、王権と国家戦略の前に立ち塞がれるほど、世界は甘くない。
(メリッサの方がよほど……いや、比べてはならぬ)
無意識にその名を思い浮かべ、シオンは小さく息を吐いた。彼女は同年代の女性と比べれば、確かに驚くほど逞しい。理不尽に耐え、痛みを知り、それでも他者を切り捨てない強さを持っている。
だが、それは例外だ。
アリシア王女は、あくまで“王宮で守られて育った賢い娘”に過ぎない。
「さて、アリシア王女」
名を呼ぶと、空気がわずかに張り詰めた気がした。彼女は聖域への亡命を望んでいる。祖国を捨ててでも、これ以上の犠牲を止めたいと。聖域で保護できないわけではない。だが、外の世界での身分は完全に失われ、王女ではなくなる。女官、あるいは侍女――いや、どちらも人員は揃っていたはずだ。そうなると、十二宮の内には入れない。
官舎や兵舎の雑用係。名もなく、権限もなく、誰にも注目されない場所がアリシアの居場所になる。
(王宮育ちの王女に……耐えられるだろうか)
命の危険はない。だが、尊厳を削られる日々だ。命令に逆らえず、声を上げることも許されない立場。
彼女は、そこへ身を置く覚悟があるのか。
シオンは机に置かれた報告書に指をかけ、静かに目を閉じた。王女一人を守ることは容易い。だが、彼女を受け入れるということは、エルダニア王国との関係に、決定的な線を引くことを意味する。
それでもなお、彼女は来るのだろう。
「覚悟を見せてもらおうか」
それは試すためではない。世界の残酷さを前に、それでもなお、人であろうとするかどうか。その一点を確かめるための、静かな問いだった。
エルダニアは聖域を軽んじ、自国の価値観と論理を正義として押し付けた。保護対象国家除外措置が示された後も、振る舞いを改めることも、省みることもなく――禁忌を、再び犯した。
一度目は“誤り”だったかもしれない。だが、二度目は違う。選び取ったのだ。過ちの上塗りを続けた国家を酌量するほど、聖域は甘くはない。
シオンは執務椅子に深く背を預け、静かに天井を仰いだ。石造りの天井に刻まれた紋様が、ぼんやりと視界に滲む。
来るな。
そう思った瞬間、控えめなノック音が響いた。誰が来たのか、声を聞かずとも分かる。気配が、あまりにも馴染みすぎている。
「シオン様……ちょっとお話したいんだけど……いいかな?」
扉がわずかに開き、その隙間から、メリッサが顔を覗かせた。いつもの快活さはなく、眉根にわずかな影を落としている。
「構わぬよ。お入り」
シオンは立ち上がり、自然と手を差し出した。だが、メリッサはその手を取らなかった。扉を閉め、室内に入ってはきたものの、足取りは重い。
「……やっぱり、何かあったんでしょう?」
問いは柔らかいが、逃げ場はない。彼女はすでに察している。その瞳が、そう語っていた。
(ああ……)
胸の奥で、静かな諦念が広がる。
(やはり、そなたは気付いてしまったのだな)
エルダニアが、再び魔界と繋がってしまったことに。
「裂け目……閉じたはずだったのよね」
メリッサは一歩、シオンに近づいた。責めるでもなく、怯えるでもなく、ただ事実を確かめるように。
「でも、聖域の空気が……変わった。嫌な感じがする」
沈黙が落ちる。それが答えだった。
「場所を変えた」
シオンの声は抑えられている。
「今度は、より“選ばれやすい”場所だ。声を上げる者が少なく、消えても問題にならぬと判断された土地だ」
メリッサの唇がかすかに震えた。
「……人を、選んで……?」
「そうだ」
それ以上、言葉を飾る意味はなかった。
メリッサは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。胸の内で渦巻く感情を必死に抑えているのが分かる。やがて、彼女は顔を上げる。
「……ねえ、シオン様。聖域は……どうするの?」
その問いは、未来を問うものだった。介入か、断罪か。救済か、切り捨てか。
シオンは一瞬、目を閉じた。そして、ゆっくりと口を開く。
「聖域は秩序を守る場だ。情では動かぬ」
言葉は厳しい。だが、嘘はない。
「二度も禁忌を犯した国家に、これ以上の猶予は与えられぬ」
メリッサは息を詰めた。だが、反論はしなかった。ただ、苦しそうに胸元を押さえる。
「……それでも」
かすれた声で、彼女は言った。
「それでも、そこにいる人たちまで……“国家”として切り捨てられるのは……」
シオンは、彼女を見つめた。その瞳に宿るのは、痛みを知る者だけが持つ光だ。
「だからこそ、そなたがここに来たのだろう」
そう告げると、今度は彼の方から歩み寄った。
「メリッサ。聖域は冷酷だ。だが、無慈悲であろうとはしていない」
彼女の前に立ち、静かに言葉を続ける。
「国は裁く。だが、人を見捨てるかどうかは――これから決める」
その言葉に、メリッサの目がわずかに見開かれた。
「……あたしにも、できることある?」
「あるとも」
短く、だが確かな答え。シオンはそっと、彼女の手を取った。
今度は、メリッサは拒まなかった。
嵐の前の静けさ。だが、その静けさの中で、確かに一つの覚悟が、結ばれつつあった。
「何をしたらいいの?」
震えを含んだ問いだった。それでも、逃げずにこちらを見上げる視線に、彼女の覚悟が滲んでいる。
シオンは、すぐには答えなかった。言葉にすれば、取り返しがつかなくなる。胸の奥で幾度も反芻し、それでも避けられぬ結論を、ゆっくりと掬い上げる。
これ以上、遠ざけてはならない。
「……もう一度、エルダニアへ行ってもらう」
メリッサの瞳が揺れたが、驚きはなかった。恐らく、どこかで予感していたのだろう。
「そなたは、向こう側を見た。裂け目の気配、空気の歪み……それを、覚えているはずだ」
「うん……忘れられない」
声は小さいが、確かだった。
「裂け目は、今確認されている場所以外にも開く可能性がある。意図的に隠されるなら、尚更だ。――それを、見つけてほしい」
沈黙。メリッサは一度、目を伏せた。指先がわずかに強張る。
「……出来るだけ、やってみる」
それは勇ましい言葉ではなかった。だからこそ、真実だった。
「このような危険極まりない役目を、そなたに任せたくはない」
シオンの声に、珍しく迷いが混じる。
「だが……そなたの感覚と力が、必要なのだ。聖闘士でも軍でも辿り着けぬ領域を、そなたは見ている」
メリッサは顔を上げ、少しだけ、困ったように笑った。
「……いざとなったら、助けに来てくれる?」
「当たり前だ」
即答だった。一片の逡巡もない。
「じゃあ……頑張るね」
その言葉が落ちた瞬間、シオンは彼女を抱き締めていた。逃がさぬように、確かめるように。
腕の中に収まる身体は、思った以上に華奢で、微かに震えている。それが恐怖なのか、決意なのか、あるいはその両方なのか分からない。
(これほど恐ろしいとはな……)
戦場に立つことよりも、敵と刃を交えることよりも、愛する者を惨劇の予感が漂う土地へ送り出す方が、遥かに残酷だった。
それでも、教皇である以上、選ばねばならない。守るために、差し出さねばならないものがある。
シオンは彼女の髪に顔を埋めながら、この立場を、この宿命を、呪わずにはいられなかった。
その夜、シオンはメリッサを抱いた。
言葉はほとんど要らなかった。
触れ合う指先の温度、互いの呼吸が重なる距離。それだけで、胸の奥に溜め込んできた想いが堰を切ったように溢れ出す。
メリッサは静かに彼の名を呼び、シオンはその背を引き寄せた。逃がすまいとする力ではない。確かめ合うような、祈りに近い抱擁だった。
重ねた額の向こうで、彼女の睫毛が震える。
不安も、恐れも、覚悟も、すべてを抱いたまま、それでも今この瞬間だけは、互いの存在だけを信じたかった。
夜は深く長かった。
肌を重ねるたび、離れがたい想いが強くなる。まるで、これが最後の夜であるかのように、二人は情熱のすべてを注ぎ込み、溶け合うように愛し合った。
やがて、静寂が戻る。
シオンはメリッサを胸に抱いたまま、眠りに落ちる彼女の呼吸を数えた。
(必ず、帰らせる)
その誓いだけが、夜明け前の闇に、確かに残っていた。
