Eine Kleine Ⅳ

 町には夕暮れが降りかけていた。商店のシャッターは半ばまで下ろされ、通りには人影がまばらだった。
 ヴァルトフェルト村から距離のある、名も知られぬ小さな町。
 ここまでは来ない。誰もが、どこかでそう信じていた。
 最初に気付いたのは、犬だった。理由もなく吠え立て、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、やがて甲高い悲鳴を上げて黙り込んだ。
 次に、空気が歪んだ。
 熱気でも蜃気楼でもない。視界の一部が、ぬめるように揺らいだ。
 それは、歩いていた。
 だが、動物の歩き方ではない。人間のそれにも、決して似ていない。関節の位置が、どこかおかしい。皮膚の色は定まらず、灰色とも肉色ともつかない膜が、不規則に脈打っている。顔と呼べる場所には、目がいくつもあった。数は定まらず、瞬きをするたびに増えたり、減ったりする。
 人々が、ようやく理解したときには遅かった。
 悲鳴が上がる。
 腰を抜かし、その場に崩れ落ちる者。
 我が子を抱き寄せ、意味のない祈りを口にする者。
 だが、ソレは彼らを見なかった。いや、見ていなかった。逃げ惑う人間たちは、風景と同じだった。建物と同じく無価値な背景だった。
 恐怖に耐えきれなかった一人の若者が、震える手で拳銃を構えた。
 乾いた発砲音が、町に響いた。銃弾は、確かに命中した。ソレの頭部――らしき部位を、正確に貫通する。
 ほんの一瞬、ソレの動きが止まった。
 周囲に期待が、生まれた。
 「効いた」と誰かが叫びかけた次の瞬間、貫通したはずの傷口が、内側から蠢いた。裂け目が広がり、骨とも歯ともつかない白い突起が、ぎちぎちと音を立てて生え揃っていく。
 口だった。いや、口ではなかった。
 頭部そのものが、縦に、横に、引き裂かれていく。
 若者は、後ずさった。
 転び、尻餅をつき、引き金を引くことも忘れた。
 視界いっぱいに、暗闇が迫る。
 次の瞬間、彼の頭部は、丸ごと咥え込まれた。
「――――ッ」
 悲鳴は、途中で途切れた。
 骨が砕ける音。
 歯が、頭蓋を噛み割る鈍い感触。
 粘ついた音とともに、血と脳漿が地面に飛び散る。
 咀嚼。
 それは、あまりにも静かだった。
 ソレは、ゆっくりと若者の身体を放り捨てる。
 首から上を失った肉塊が道路に転がり、二度と動かなかった。
 そのとき、ようやく、ソレの目のいくつかが、人々の方を向いた。

 ――次は、どれだ。

 問いかけるでもなく、感情もなく、ただ、狩りが始まったことだけが、理解された。
 町は、地獄に変わった。

 ソレの歩みは、ひどく遅かった。
 拍子抜けするほど、無防備で、緩慢で――大人なら、早足で容易に距離を取れる。追いかけることはしない。逃げる者に背を向けられても、速度を上げることすらない。
 ただ、歩く。
 石畳を踏み、角を曲がり、通りを進む。行き止まりに突き当たると、数秒立ち止まる。
 それから、何事もなかったかのように踵を返す。
 家の扉は、開いたままのものも多かった。店先には、放り出された商品や椅子が転がっている。だが、ソレは一度も敷居を跨がない。建物の内側で震える人影に、顔を向けることもない。
 まるで、この町に“人間”が存在しないかのように。
 人々は、やがて気づき始める。静かにしていればソレは反応しない。ソレはただ、町を巡るだけだった。
 同じ道を何度も飽きることなく、あたかも地図をなぞるように。あるいは、何かを確認するように。
 「探しているのか?」
 誰かが、掠れた声で呟いた。だが、何を探しているのかは分からない。
 ソレは、沈黙している。その沈黙こそが、町を覆う恐怖だった。

 変化は唐突ではなかった。むしろ、静かすぎるほどだった。ソレは、まだ同じ通りを歩いている。昨日と、同じ角。同じ石畳。同じ距離を歩く。だが、速度が、違った。緩慢だった足取りが、わずかに、しかし確実に速まっている。それは無駄が削ぎ落とされた動きだった。
 人々は、最低限の荷物だけ持って町から逃げ出し始めた。ソレは、逃げる人を追わなかった。
 ただ歩く。同じ道を巡る。だが、その巡り方は最初のものではなかった。同じ道を辿るとき、立ち止まらない。行き止まりでも、確認は一瞬で済む。そこに‘’何があるか”を、既に知っているかのように。
 これは探索ではない。徘徊でもない。記憶だ。
 ソレは、この町を覚えている。
 地形を。
 構造を。
 流れを。
 時間をかけて、ゆっくりと歩いたのは、この町を“自分のものとして認識する”ためだった。
 一度覚えた場所では、速度を上げる。確認は不要だからだ。
 そして、人が家に出入りする様子を、ソレは見ていた。
 扉が開く。
 人が出る。
 また入る。
 それを、感情もなく、視線もなく、ただ事実として記録する。
 “中”に人がいる。“中”に動くものがある。
 その繰り返しだ。
 餌は中にある。そう記憶した。
 まだ、この町全体を覚えきっていない。だから、中に入らない。逃げていく人間を追わないのも、そのためだった。移動する対象は、記憶の邪魔になる。
 ソレにとって重要なのは、動かない構造物とその内側の関係性だ。
 町が、地図として完全に脳裏に刻まれるまで、ソレは、歩き続ける。
 粛々と。
 確実に。
 そして、人々は気づいていなかった。自分たちが逃げることで、ソレに“中”と“外”の区別を、より明確に教えてしまっていることに。
 ソレは、間もなく準備を終えようとしている。

 町に、動く者はいなくなった。すると、ソレはついに家の中へ入った。扉を壊したり鍵を開けることはなかった。ただ、開いている場所から入った。
 人が“出入りしていた”記憶のある場所へ。
 最初に喰われたのは、寝台から起き上がれなかった老人だった。
 抵抗はなかった。叫び声も、途中で途切れた。
 次は、薬の匂いが染みついた病人。その次は、包帯を巻いたままの怪我人。
 ソレは、急がなかった。選別もせず、ただ、順に確かめるように喰っていった。
 やがて、ソレの動きが変化していく。
 噛みちぎり、咀嚼し、飲み込む。
 その過程を記憶する。
 年寄りは乾いていて舌触りが悪い。筋が多く組織が口の中に残る。味は薄く旨味がない。
 病人は苦い。体の内側に、薬と死の気配が染み込んでいる。
 怪我人は酸っぱい。血と膿と、腐りかけの匂い。
 どれも不味かった。そして、最初に喰った“あの若者”を、思い出す。
 噛み応えがあった。肉は張りがあり、骨は硬くボリボリと砕け、味がはっきりしていた。
 生きていた。
 動いていた。
 新鮮だった。
 ソレの動きがさらに洗練される。もう、家に入る前に分かる。
 この中は違う。この中には“良い餌”がいない。
 ソレは、歩く速度を上げた。
 人の味を、覚えたからだ。
 ソレに味覚があるのかは、誰にも分からない。だが、選り好みを始めたという事実だけは、どうしようもなく、はっきりしていた。
 そしてこの町は、もはや“探索対象”ではなくなった。
 次は、もっと人の多い場所へ行く。
 ソレはそう判断し、次の町を探していた。道を辿る足取りは、もはや緩慢ではない。無駄が削ぎ落とされ速度が上がっていた。
 次の町に辿り着く前から、通報は相次いだ。
 警察は動いた。拳銃が無力であることは、すでに共有されている。
 装甲車。
 自動小銃。
 対物用の大口径弾。
 道路を封鎖し、退路を断ち、ソレを中央に捉える。
 一斉射撃が始まる。
 乾いた連続音が空気を裂いた。銃口から吐き出される灼熱の炎がソレを焼く。弾丸が確かに当たる。
 肉が裂ける音。骨に当たる鈍い衝撃。四肢の一部が削れ、欠け、飛ぶ。
 ソレは止まった。その場で立ち尽くし、弾丸を受け止めるように見ていた。
 次の瞬間、ソレの体が歪んだ。
 削れた部位が、戻る。肉が這うように繋がり、骨が正しい位置を思い出したように、元の形をなぞる。
 「まだ生きてるぞ!」
 「撃て!止まるまで撃て!」
 再び、銃火器が火を噴く。だが今度は、ソレは弾道を覚えていた。
 横にずれる。前に出る。あるいは、後ろに下がる。すると、弾丸が当たらなくなる。全てを避けきれたわけではないが、被弾は減った。
 ソレは、撃たれながら、歩き続けた。
 警察の陣形が崩れる。
 そして、ソレは気付いた。

 ――餌は、ここに集まっている。

 ソレの口が再び裂け、不揃いの鋭利な歯牙が露わになった。恐怖に耐えきれず、警察官の一人が後ずさった。
 転んで立ち上がれない。
 その瞬間、ソレの歩みが、初めて“走る”に近づいた。人の味を覚え、銃を覚え、恐怖を覚え、この世界の“仕組み”を、理解し始めていた。
 そして、ソレは覚えた。若く、健康で、恐怖に強張りながらも、必死に生きようとする人間は「美味い」。
 その記憶が刻まれた瞬間、事態は、もはや警察の手に負える段階を越えていた。

 遂に国軍が動いた。
 封鎖線は引き直され、町は完全に切り捨てられた。
 上空を覆う爆撃機の影。
 重低音とともに展開される部隊。
 最新兵器。
 対魔物を想定していないはずの、“人間を消し去る”ことに特化した兵器群。
 ソレは、道路の中央に立っていた。
 逃げ惑う人影は、もうほとんど残っていない。
 号令が下った次の瞬間、爆発。
 衝撃波が地面を剥ぎ、建物の窓ガラスが吹き飛ぶ。
 ソレの身体は、今度こそ、原形を留めなかった。四散する肉片。骨も粉砕され形を保てなかった。続けざまに、火炎放射器の炎が地を舐める。赤熱した空気が肉片を包み込む。脂が焼ける臭いと爆ぜる音が辺りに充満する。黒煙が空へと立ち上る。
 ソレは燃えた。再生する暇もなく、形を思い出す前に、焼き払われていった。
 やがて、そこに残ったのは、黒く炭化した地面と、溶けたアスファルトと、何もない空間だけだった。
 軍は勝利を宣言した。
 だが、誰も気付かなかった。爆心地から離れた場所にできたひび割れた地面の奥に、焼き尽くされなかった“影”が残ることに。
 記憶は肉体よりもしぶとい。若く健康な人間は美味い。火は危険だ。
 裂け目の向こう側で、ソレではない“何か”が学習を終えていた。
 ソレは、偵察用の傀儡だった。
 砕け、焼かれ、世界から消え去った肉塊は、最初から“帰還を想定されていない存在”だった。
 裂け目の向こう側にある、人の理が届かない静かな深淵で。本体は、粛々と準備段階に入っている。
 傀儡が収集した情報は、すべては正確に過不足なく、“向こう側”へと送られていた。
 この世界は思ったより堅固だ。だが、学習すれば対処できる。

 ――次はもっと上手くやる。

 その結論が下された瞬間、ヴァルトフェルト村に残っていた裂け目は消えた。
 空は元に戻り、歪みは閉じ、誰の目にも異常は映らない。
 封鎖線の内側には、破壊された村と焼け落ちた町と、犠牲者の骸だけが残された。
 事態は収束した。原因不明の災害。再発の恐れは低い。
 そう記録され、そう報道され、そうして世界は、日常へ戻っていく。
 だが、消えたのは裂け目だけだ。“向こう側”は、消えていない。
 むしろ、こちらの世界を理解した。
 今度は裂け目など使わず、傀儡ではなく、逃げる暇も与えず、静かに確実にこの世界へと降りてくる。
 それを知っている者は、まだ、あまりにも少なかった。そして、気付いている者たちはすでに動き始めている。

 エルダニア王国へ潜入していた、蟹座のデスマスク、蠍座のミロ、魚座のアフロディーテは、この事件と異形の動き、そして裂け目の消失を把握していた。
「どうだ、デスマスク。アレが何かわかるか?」
「俺は冥界専門だ。あんな気味の悪ぃ生き物のことなんざ分かんねぇよ」
 王都の酒場で三人は情報共有をしていた。ミロの問いに、デスマスクは空になった麦酒のジョッキをどん、とテーブルに置いた。口元を手の甲で拭う。
「だけど、これで終わりって事もないだろうね」
 アフロディーテがオリーブのピクルスを一つ口に入れた。
「だろうな」
「ヴァルトフェルト村の裂け目は消えたのにか?」
 ミロの問いにアフロディーテが答える。
「もしかしたら、別の場所にまた開くかもしれないよ」
「またあんな化け物が出てくるかもしれないってのか?俺、あんなのに勝てる気しないぜ」
 ミロはウイスキーのグラスを傾けながらぼやいていた。
 酒場のざわめきが、一瞬だけ遠のいた。
 火で焼き尽くされ、兵器で粉砕され、それでもなお“本体ではない”と断じられる異形――それを思い出せば、誰もが同じ感想に行き着く。
「勝てる気がしない、か」
 デスマスクは椅子に深く腰を沈め、天井を見上げた。煤でくすんだ梁の隙間から、ランプの光が揺れている。
「正直でいいじゃねぇか。あれは“敵”って顔してねぇ。生き物ですらなさそうだ。魂もねぇ、死者の匂いもしねぇ。冥界の法則が一切通じねぇ」
 そう言って、低く舌打ちする。
「……嫌な感じだ。生きてるとも死んでるとも言えねぇもんは、一番厄介だ」
 アフロディーテはグラスに指を掛けたまま、静かに視線を落としていた。その横顔は、いつもの余裕を帯びた微笑を欠き、ひどく冷ややかだ。
「裂け目が消えた、という事実がね……いちばん不自然なんだ」
「不自然?」
 ミロが眉をひそめる。
「制御不能になっていたものが、突然“綺麗に閉じる”なんて、あり得ない。まるで……役目を終えたから片付けた、みたいじゃないか」
 その言葉に、デスマスクが低く笑った。
「はは……言い得て妙だな。偵察、実験、観測……好きなのを選べ。どれにしたって、向こうはもう“学んだ”ってわけだ」
 ミロは無言でウイスキーを飲み干した。喉を焼くはずの液体が、今日はやけに味気ない。
「じゃあ次は?」
 ぽつりと落とされた問いに、誰も答えなかった。
 アフロディーテが先に口を開く。
「次は、もっと静かに来る。町を歩き回る必要もないし、銃を撃たせる必要もない。気付いたときには、きっともう、喰われている」
「冗談きついぜ……」
 ミロの声は乾いていた。
 デスマスクは立ち上がり、外套を掴む。
「冗談で済むなら楽なんだけどな。……聖域は、もう全部掴んでるはずだ。教皇が黙ってる時点で、“まだ表に出す段階じゃねぇ”って判断だろ」
「つまり?」
「つまり――」
 デスマスクは扉の方を見据えた。
「次は俺たちが“前線”だ。人間の国がどう足掻こうが、あれは人間の手に負える代物じゃねぇ」
 アフロディーテは立ち上がり、髪を軽く払う。
「……美しくない戦いになりそうだね」
 ミロは苦笑しながらも、蠍座の黄金聖衣を思い浮かべる。
「……まったく。こんな事になるなら、もう一杯くらい飲んでおけばよかったぜ」
 三人は酒場を出る。
 夜の王都は、何も知らぬまま、いつも通りの灯りをともしていた。だが、彼らの背中には確信があった。
 これは始まりに過ぎないのだ、と。
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