Eine Kleine Ⅳ
裂け目は、もはや“留まる”という性質を失っていた。ゆっくりと、しかし確実に――意思を持つかのように、空間そのものを押し広げていく。
制御は、既に破綻していた。
最初の異変は、ヴァルトフェルト村から数十キロ離れた小さな集落で起きた。
夜明け前、家畜が騒ぎ、犬が吠え止まず、そして――人が消えた。
遺体は、見つかった。
だがそれは、「確認できた」と呼ぶには、あまりに無残だった。
食害。
噛み跡はあるが、既知の獣の歯形とは一致しない。骨の一部は、まるで内側から削ぎ落とされたかのように失われていた。
警察は、また同じ説明を繰り返した。
山から下りてきた大型肉食獣による被害の可能性。
住民には外出自粛を――
人々にその言葉が届く前に、混乱は広がっていく。隣接する集落では、夜の空を「歪んだ」と言う者が現れた。
星の位置がずれる。
雲の動きが、途中で断ち切られる。
遠くで、雷とも風鳴りともつかない音が響く。
逃げ出す住民が、後を絶たなかった。荷物をまとめる時間もなく、鍵を掛けることも忘れ、ただ「ここにいてはいけない」という直感だけを頼りに、人々は辺境を離れていった。
王都へ向かう街道は、監視と検問で詰まり始める。受け入れ先のない者たちは、行き場を失い、野営を余儀なくされた。
エルダニア王国は、まだ公式には「制御下にある」と言い続けていた。だが、その言葉を信じる者は急速に減っていく。
噂が噂を呼び、混乱が混乱を呼ぶ。もはやエルダニア王国内の情報機関は機能を果たしていなかった。
そして、聖域。
シオンは、報告書を静かに閉じた。
紙面に並ぶ数値と記録は、もはや意味を成していない。
裂け目の拡大速度。
被害発生地点の推移。
避難民の流動。
すべてが、ひとつの結論を指し示していた。
――臨界を、越えた。
その夜、ヘスティアは誰にも告げずにアテナ神殿へ立った。
人の目には、ただ静かな夜空に見えただろう。だが彼女の視線の先で、世界は既に歪んでいた。
「……もう、誤魔化せないわね」
独り言のように呟かれた声には、もはや余裕はなかった。
怒りは、静かに、完全な形を取り始めている。
裂け目は拡大を続けている。
人の手では、止められない。
そして次に狙われるのは――
逃げ遅れた者ではない。“見てしまった者”だ。
その名を、誰も口にはしなかったが、聖域では、すでに全員が理解していた。
介入の時は、目前まで迫っている。
王宮の会議室には、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。長い楕円卓を囲む重臣たちの顔には、疲労と恐怖が色濃く浮かんでいる。
「陛下……このままでは――」
誰かが、意を決したように口を開いた。
「聖域に、正式に救援を要請すべきかと存じます。彼らはこの種の事態に――」
その言葉が最後まで紡がれる前に、玉座の方から低く、鋭い声が飛んだ。
「不要だ」
アンドレアス国王は、指を組んだまま身じろぎもしなかった。その眼差しは冷静で、感情の揺らぎを一切見せていない。
「神話や迷信に縋る時代ではない。問題は現象だ。現象である以上、解析し制御できる」
重臣たちの間に、ざわめきが走る。
「しかし、陛下……既に通常の治安部隊では――」
「だからこそだ」
国王は立ち上がり、背後のスクリーンを指し示した。そこには、裂け目周辺の衛星画像、熱反応、空間歪曲の数値が投影されている。
「最新鋭兵器を投入する。高出力エネルギー兵器、空間安定化フィールド、無人制圧部隊。同盟国にも協力を要請済みだ。彼らの研究データも共有される」
淡々とした口調。それは、まるで実験計画を読み上げているかのようだった。
「科学は、神を超えるために進歩してきた。ならば今回も同じことだ」
誰もが息を呑んだ。それは沈静化ではない。力で押さえつけ、理解する前に封じ込めるという宣言だった。
「聖域に関与させれば、主導権を奪われる。我が国の領土で起きた問題だ。我が国の手で解決する」
国王の視線が、重臣一人ひとりを射抜く。
「異論は?」
誰も、答えなかった。
その夜、辺境へ向けて部隊が動き出した。
重装備の兵士たち。
編隊を組んで空を飛ぶ大型輸送機。
研究者と軍人が混在する、異様な編成だった。彼らの任務は、単純明快だった。
裂け目を制圧せよ。
中にあるものを排除、もしくは回収せよ。
未知の存在を、管理可能な対象へ落とし込め。
だが、誰一人として理解していなかった。
あの裂け目は、力で押し返せる“穴”ではないことを。それは、開いてはならない扉だった。そして、科学の目を向けられたその瞬間から、扉の向こう側もまた、こちらを認識し始めていた。
聖域では、同時刻。
シオンが、ゆっくりと目を閉じた。
遠く離れた大地から、耐え難い違和感が押し寄せてくる。
(……始めたな)
エルダニアは、最後の一線を越えた。
聖域からの通達は、形式だけを見れば極めて慎重だった。
ギリシャ政府を介した、外交文書としての極秘連絡の文面は淡々としており、「軍事介入」や「制裁」という言葉は一切使われていない。
事態解消のため、限定的な関与を行う。
対象は、エルダニア王国領内に端を発する超常災害。
目的は、周辺諸国への被害拡大防止。
それでも、エルダニア王国の回答は同じだった。
「拒否する」
その報告を受けた瞬間、教皇宮の空気が一変した。
「……愚か者め」
シオンの声は低く、しかし抑え切れぬ怒気を孕んでいた。机を叩くことも、感情を爆発させることもない。それがかえって、彼の怒りの深さを物語っている。
「自国で制御できているつもりか。あれは、すでに“国家”の手に負える段階を越えている」
補佐官たちが沈黙する中、シオンはゆっくりと視線を上げた。
「だが――想定の範囲だ」
彼は既に、次の一手を打っている。
エルダニア王国に対する保護対象国家除外措置。それは、解除されない。聖域は、エルダニアを守らない。救わない。代償を肩代わりもしない。しかし同時に、シオンは続ける。
「介入は行う。名目は、近隣諸国の保護だ」
すでにエルダニアと国境を接する諸国、複数の小国家、同盟圏、そしてギリシャ政府には「裂け目の拡大による越境災害の危険性」として、聖域介入の説明がなされていた。
答えは、すべて「同意」。
当然だ。空が歪み、地が鳴り、正体不明の被害が拡大している以上、誰もが次は自国だと理解していたからだ。
「聖域が動く理由は、十分に揃った」
シオンは静かに宣言する。
「エルダニアの主権は侵さぬ。だが、国境の外に溢れ出る災厄は我々が止める」
それは、救済ではない。封じ込めであり、隔離であり、場合によっては――切り捨てだった。
そのとき、ヘスティアが口を開いた。
「もう一段階、事態が進めばね」
柔らかな声音。だが、その奥には燃えるような怒りが潜んでいる。
「裂け目が“定着”するか、向こう側の存在が“こちらの世界を認識しきった”瞬間。その時点で――聖域は、誰の許可も取らずに踏み込むわ」
それは、神としての最終判断だった。
「エルダニアが拒否したのは、自分たちが“管理者”でいられると信じているから。でもね――」
ヘスティアは、どこか哀れむように微笑んだ。
「扉を開けた人間は、もう“閉じる側”には戻れないのよ」
その言葉と同時に、黄金聖闘士たちが動き始めていた。
これは、最後通告だ。
エルダニアが理解する前に。
理解できなくなる、その瞬間が来る前に。
聖域は、なおも一縷の理を残そうとした。
今度は、直接ではない。
エルダニアと国境を接する隣国――被害拡大を現実的脅威として受け止めている国々から、「共同防衛」「越境災害対策」という名目での提案として、介入受け入れを打診させた。
それは、限界まで譲歩した形だった。
だが、返ってきた答えは、同じだった。
拒否。
しかも、そこには明確な悪意が添えられていた。
「保護対象国家から除外しておきながら、介入を持ちかけるとはどういう了見か。聖域は、エルダニアを支配下に置こうとしている」
歪曲された論理。
意図的な被害者意識。
そして、自らが開いた禁忌から目を逸らすための、責任転嫁。
その報告を受けた教皇宮では、誰一人として声を上げなかった。怒りすら、すでに通り過ぎている。
「……ここまで愚かだとはな」
シオンは低く呟いた。それは見限りに近い声だった。
聖域が動けば、エルダニアは「侵略された」と叫ぶだろう。動かなければ、裂け目は拡大し、周辺諸国と無辜の民が呑み込まれる。もはや、国家としての判断能力は失われている。
その、ぎりぎりの均衡を破ったのは、アリシア王女だった。
聖域の謁見室は、音を拒むように静まり返っていた。
高い天井、白い石柱、淡く揺らぐ燭台の火。
どこにも豪奢さはない。ただ、古く、揺るぎない秩序だけが満ちている。
その中央に立つ青年を見て、アリシア王女は一瞬、呼吸を忘れた。
――違う。
それが、最初に浮かんだ感情だった。
記憶の中の彼は、祝賀の場にふさわしい装いで、柔らかな微笑を浮かべ、周囲の賛辞を自然に受け流していた。
若く、穏やかで、どこか距離が近くて、王女の視線を正面から受け止め、優しく目を細めてくれた人。
だが、今、目の前にいるシオンは違う。
法衣に包まれた姿は簡素で装飾はほとんどない。にもかかわらず、放たれる気配は、祝宴のどの権力者よりも圧倒的に重厚だった。
視線が合った瞬間、アリシアは理解してしまう。
今、ここにいるのは“聖域教皇”だ。
「……お久しぶりです、教皇猊下」
自然と、声は低く、慎重になる。一歩進み、彼女は膝を折り跪く。それは社交辞令でも、演出でもなかった。シオンの気配が自然とそうさせたのだ。
「エルダニア王国第一王女、アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニア。父王に代わり、非礼と失策をお詫びに参りました」
額が床に近づき、冷たい石の感触が現実を突きつける。
あの夜のままなら、こんな距離で、こんな姿勢で、あなたの前にいることはなかった。
「顔を上げよ」
シオンの声は低く、抑制されていた。怒りを含んでいない分、かえって逃げ場がない。
アリシアは顔を上げる。
その瞬間、再び視線が絡んだ。
紫の瞳。
記憶の中と同じ色。だが、そこに宿るものは、まるで別だ。
「……成人の祝いの席では、失礼いたしました」
彼女はそう言って、微かに唇を引き結ぶ。
「軽率でした。あの場での私は、何も知らず、何も見えていませんでした」
「否」
シオンは短く言った。
「知らぬこと自体は、罪ではない」
一瞬、アリシアの胸に安堵が走る。だが、次の言葉が、それを切り捨てた。
「知ろうとせず、踏み込んではならぬ領域に手を伸ばしたことが、罪だ」
空気が張り詰める。
「……我が国は、科学と軍事の力で独立を保ってきました」
アリシアは、逃げずに続ける。
「神話の存在を認めることは、それを否定することと同義だと。多くの者が、そう考えています」
「だから、魔界を開いたか」
シオンの視線が、わずかに鋭くなる。
「……はい」
その一言を口にするのにどれほどの勇気が要ったか、彼女自身が一番よく分かっていた。
沈黙が落ちる。
シオンは、祝宴で見せたような微笑を浮かべることはない。だが、冷酷でもない。
ただ、重たかった。
「そなたは、何を求めてここへ来た」
問いは短く、明確だった。
アリシアは、迷わなかった。
「教えを請いに参りました」
まっすぐに、彼を見る。
「どこで引き返せばよいのか。何を差し出せば民を救えるのか」
一瞬、あの夜の記憶が、彼女の脳裏をよぎる。グラスを手にした彼は控えめに笑み、どこまでも紳士的だった。
同じ人なのに、今はこんなにも遠い。
「時間は残されていない」
シオンは告げる。
「裂け目は拡大している。もはや制御の段階ではない」
アリシアは、深く息を吸った。
「父を説得します。……それが叶わなければ」
アリシアは、静かに頭を下げた。
「その時は、どうか、国民だけはお救いください」
その覚悟に、シオンの胸の奥で何かが動いた。
「下がれ」
そう告げる。
アリシアは一礼し、踵を返す。扉の前で立ち止まり、振り返らずに彼女は言う。
「……あの夜、あなたに出会ってしまったことを、私は後悔していません」
扉が閉じる。
残された静寂の中で、シオンは、長く息を吐いた。
運命とは、いつも、最も残酷な形で再会を用意する。
次に会う時、彼女は王女でいられるだろうか。それとも――
シオンは、その先を考えるのをやめた。
王城の執務室は、昼間だというのに重苦しかった。
分厚いカーテンが半ば閉じられ、外からの光は意図的に遮られている。机上には軍の配置図、被害報告、同盟国との通信記録。数字と記号ばかりが並び、人の顔はどこにもない。
その中央に、アンドレアス国王は座っていた。
「――だからこそ、今は引くわけにはいかんのだ」
重く断定的な声に、アリシアは拳を強く握りしめる。
「お父様……聖域は、敵ではありません」
そう言うたび、胸の奥が痛んだ。何度、同じ言葉を繰り返しただろう。
「彼らは、裂け目の本質を知っています。科学では対処できない段階に――」
「科学で抑えられぬものなど存在せぬ」
アンドレアスは書類から視線を上げない。娘へその視線を向けることもない。
「未知とは、未解明にすぎん。それを“神”や“聖域”と呼ぶから、思考が鈍るのだ」
「……それは、傲慢です」
言葉が零れ落ちた。一瞬、室内の空気が凍る。
「何だと?」
父の声が低くなる。王としての声だ。そして、今度はゆっくりと顔を上げた。
その視線に、娘を見る父の温度はなかった。
アリシアは、唇を噛みしめた。引き下がれば楽だった。いつものように王女として微笑み、同意すればいい。でも、それはできない。してはならない。
「傲慢です、お父様」
今度は、はっきりと。
「見えないものを、理解できないものを、力でねじ伏せられると信じることは」
机を叩く音が響いた。
「アリシア!」
怒声。だが、その奥にあるのは、苛立ちと焦燥だ。
「私は、この国を守っている!数百年、神話に頼らずに生き延びてきた国家だ!」
「その“たかが数百年”の誇りが、今、国を滅ぼそうとしているのです!」
アリシアも思わず声を荒らげる。
「裂け目は、もう制御できていません!軍を送れば、犠牲が増えるだけです!」
「だからこそ、殲滅する!」
アンドレアスは立ち上がった。
「異常を異常のまま放置するなど、王のすることではない!」
その姿を見て、アリシアの胸に、言いようのない感情が溢れ出す。
違う。この人は、見ていないのではない。恐れているのだ。未知を、敗北を、そして“自分が間違っていた”という事実を。
「……お父様は」
声が、かすれる。
「国を守っているつもりで、ご自身の威信を守っているだけです」
沈黙。アンドレアスの表情が、硬く凍りつく。
「下がりなさい」
冷たい声だった。
「これは、王の決定だ。王女の感傷を聞く場ではない」
アリシアは、その場に立ち尽くす。言葉を尽くした。理も、情も、未来も語った。それでも、父は一歩も動かなかった。
――私は、何も変えられない。
その事実が、胸を抉る。
「……失礼いたします」
深く一礼し、背を向ける。歩き出した途端、視界が滲んだ。廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。壁に手をつき、息を詰める。
悔しい。
情けない。
怒りが、悲しみが、混ざり合う。
あの方は、見ていた。理解していた。
聖域で対峙した教皇シオンの眼差しが、脳裏をよぎる。
「……私は、王女なのに」
小さく、呟く。
「何一つ、守れていない……」
拳が震える。その拳で涙を拭い、アリシアは、ゆっくりと背すじを伸ばす。
父が動かぬのなら、王が選ばぬのなら、自分が動く。彼女は、別の覚悟を胸に刻み始めていた。
この国の未来に、王の椅子は不要だ。
次の一手は王女ではなく、一人の人間としての選択だった。
執務室を出てから、どれほど歩いただろう。城の回廊はどこまでも長く、静かで、冷たい。磨き上げられた床に映る自分の姿を、アリシアはふと見下ろす。
豪奢なドレス、王家の紋章、整えられた髪。
これが、私だ。
アリシアには、その姿がひどく空虚に思えた。
(王女として、私は何をしてきたの?)
外交、式典、祝祭。あらゆる場面で、幼い頃から常に笑顔を求められ、象徴であることを求められてきた。そして、そのように振る舞ってきたし、王女であることを誇りに思っていた。
だが今、国が音を立てて崩れ始めているこの瞬間に、王女という立場は、何の力も持たなかった。
アリシアは立ち止まり、窓の外を見る。
遠く、霞む山並みの向こうに、ヴァルトフェルト村がある。
あの裂け目に存在する“見てはならないもの”。
父は認めなかった。否定し、力で押さえ込もうとした。
聖域の教皇は、否定しなかった。恐れも、怒りも、すべてを見据えた上で、静かに立っていた。
守るために、怒れる人。
その姿が、胸の奥に残っている。
「……私は」
声に出すと、覚悟が形になる。
「王女である前に、人でありたい」
その瞬間、アリシアの中で、何かがはっきりと切り替わった。彼女は、自室へ戻らなかった。
向かったのは、王城の奥。王家の紋章も、公式記録も残らない“個人用の私設通信室”だった。王女が私的に使うことなど、想定されていない場所だ。
アリシアは端末を起動し、一つの回線を選択する。暗号化された、聖域直通の非公式回線。
父に知られれば、これは“越権行為”では済まない。王権への裏切りで処罰される。だが、それさえも、アリシアの行動の抑止力にはならなかった。
通信は繋がった。
「こちら、エルダニア王国第一王女、アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニアです」
一瞬の沈黙の後、落ち着いた声が返る。
『……存じております』
シオンだ。
「私は、父の決定を覆すことはできませんでした」
事実を簡潔に述べる。
「ですが、王女としてではなく、一個人として申し上げます」
深く、息を吸う。
「エルダニア王国は、間違っています。裂け目は、制御できていません。国軍の投入は、破滅を早めるだけです」
そして――
「どうか、聖域の判断で、介入してください」
それは、嘆願であると同時に、覚悟の表明でもあった。
「その際、私は……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「王家の名も、地位も、守っていただかなくて結構です。必要であれば、私は“亡命者”として、聖域に身を置きます」
沈黙が落ちる。アリシアは、目を閉じた。
これでいい。王女としての未来がここで終わったとしても、惜しくない。
『……そなたは』
シオンの声が、静かに響く。
『自分が何を差し出そうとしているか、分かっているな』
「はい」
即答だった。
「それでも、私は見て見ぬふりをする人にはなりたくありません」
通信の向こうで、ほんのわずかな気配の変化があった。
『……承知した』
アリシアは、通信を切ったあと、そっと目を伏せた。王女としての自分は、もう、戻れない場所へ足を踏み入れた。
だが、後悔はしていない。彼女の選択は、国を裏切ることではなく、未来を見捨てないことだった。
聖域の執務室は静まり返り、外の風の音さえ遠い。
王女であることを捨てる覚悟。
それが、どれほどの重さを持つ選択か。
(愚かとは言いたくない。だが、あまりにも痛みを伴う選択だ)
シオンは目を閉じる。祝賀の夜の記憶が、否応なく脳裏をよぎる。
華やかな灯り、音楽、笑顔。
その中で、少し緊張した面持ちでこちらを見つめていた若い女性。
あの時のアリシアは、王女としての役割を懸命に演じていた。
だが、今、通信越しに聞いた声には、虚飾も虚勢も、偽りも期待も、逃避もなかった。
あったのは、“見てしまった現実から目を逸らさない”という、覚悟だけだった。
シオンは、ゆっくりと息を吐く。
アリシアは王に抗おうとしたのではない。聖域に縋ったのでもない。
自分の立場が、もはや人を守る役に立たないと理解した上で、それでも守る側に立とうとした。それは、教皇という立場に在る自分と、あまりにも近い選択だった。
だからこそ、胸の奥に小さな痛みが走った。
シオンは、机に置かれた法衣に視線を落とす。自分もまた、選び続けてきた人間だ。
愛するものを守るために、地位を選び、孤独を選び、怒りを選んできた。
(彼女は、私と同じ道を選ぼうとしている)
それが、どれほど過酷かを知っているからこそ、彼は軽々しく「よくやった」とは言えなかった。
だが――拒む理由も、なかった。
「……アリシア王女」
誰もいない部屋で、彼はその名を口にする。
否定ではない。
哀悼でもない。
敬意だった。
(その覚悟、私が無駄にしてはならぬ)
シオンは立ち上がり、聖域の奥へと歩き出す。ヘスティアへ、報告を上げるために。
彼女が差し出したものが、ただ失われるだけの犠牲にならぬように。そして、心の奥で、静かに誓う。
彼女を、王家に見捨てられた存在にはさせない。
王女ではなくなっても。
国を追われたとしても。
彼女が選んだ、人としての決断は、教皇シオンが必ず受け止める。それは、庇護ではない。もちろん、同情でもない。同じ重さの選択をしてきた者としての、対等な受容だった。
制御は、既に破綻していた。
最初の異変は、ヴァルトフェルト村から数十キロ離れた小さな集落で起きた。
夜明け前、家畜が騒ぎ、犬が吠え止まず、そして――人が消えた。
遺体は、見つかった。
だがそれは、「確認できた」と呼ぶには、あまりに無残だった。
食害。
噛み跡はあるが、既知の獣の歯形とは一致しない。骨の一部は、まるで内側から削ぎ落とされたかのように失われていた。
警察は、また同じ説明を繰り返した。
山から下りてきた大型肉食獣による被害の可能性。
住民には外出自粛を――
人々にその言葉が届く前に、混乱は広がっていく。隣接する集落では、夜の空を「歪んだ」と言う者が現れた。
星の位置がずれる。
雲の動きが、途中で断ち切られる。
遠くで、雷とも風鳴りともつかない音が響く。
逃げ出す住民が、後を絶たなかった。荷物をまとめる時間もなく、鍵を掛けることも忘れ、ただ「ここにいてはいけない」という直感だけを頼りに、人々は辺境を離れていった。
王都へ向かう街道は、監視と検問で詰まり始める。受け入れ先のない者たちは、行き場を失い、野営を余儀なくされた。
エルダニア王国は、まだ公式には「制御下にある」と言い続けていた。だが、その言葉を信じる者は急速に減っていく。
噂が噂を呼び、混乱が混乱を呼ぶ。もはやエルダニア王国内の情報機関は機能を果たしていなかった。
そして、聖域。
シオンは、報告書を静かに閉じた。
紙面に並ぶ数値と記録は、もはや意味を成していない。
裂け目の拡大速度。
被害発生地点の推移。
避難民の流動。
すべてが、ひとつの結論を指し示していた。
――臨界を、越えた。
その夜、ヘスティアは誰にも告げずにアテナ神殿へ立った。
人の目には、ただ静かな夜空に見えただろう。だが彼女の視線の先で、世界は既に歪んでいた。
「……もう、誤魔化せないわね」
独り言のように呟かれた声には、もはや余裕はなかった。
怒りは、静かに、完全な形を取り始めている。
裂け目は拡大を続けている。
人の手では、止められない。
そして次に狙われるのは――
逃げ遅れた者ではない。“見てしまった者”だ。
その名を、誰も口にはしなかったが、聖域では、すでに全員が理解していた。
介入の時は、目前まで迫っている。
王宮の会議室には、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。長い楕円卓を囲む重臣たちの顔には、疲労と恐怖が色濃く浮かんでいる。
「陛下……このままでは――」
誰かが、意を決したように口を開いた。
「聖域に、正式に救援を要請すべきかと存じます。彼らはこの種の事態に――」
その言葉が最後まで紡がれる前に、玉座の方から低く、鋭い声が飛んだ。
「不要だ」
アンドレアス国王は、指を組んだまま身じろぎもしなかった。その眼差しは冷静で、感情の揺らぎを一切見せていない。
「神話や迷信に縋る時代ではない。問題は現象だ。現象である以上、解析し制御できる」
重臣たちの間に、ざわめきが走る。
「しかし、陛下……既に通常の治安部隊では――」
「だからこそだ」
国王は立ち上がり、背後のスクリーンを指し示した。そこには、裂け目周辺の衛星画像、熱反応、空間歪曲の数値が投影されている。
「最新鋭兵器を投入する。高出力エネルギー兵器、空間安定化フィールド、無人制圧部隊。同盟国にも協力を要請済みだ。彼らの研究データも共有される」
淡々とした口調。それは、まるで実験計画を読み上げているかのようだった。
「科学は、神を超えるために進歩してきた。ならば今回も同じことだ」
誰もが息を呑んだ。それは沈静化ではない。力で押さえつけ、理解する前に封じ込めるという宣言だった。
「聖域に関与させれば、主導権を奪われる。我が国の領土で起きた問題だ。我が国の手で解決する」
国王の視線が、重臣一人ひとりを射抜く。
「異論は?」
誰も、答えなかった。
その夜、辺境へ向けて部隊が動き出した。
重装備の兵士たち。
編隊を組んで空を飛ぶ大型輸送機。
研究者と軍人が混在する、異様な編成だった。彼らの任務は、単純明快だった。
裂け目を制圧せよ。
中にあるものを排除、もしくは回収せよ。
未知の存在を、管理可能な対象へ落とし込め。
だが、誰一人として理解していなかった。
あの裂け目は、力で押し返せる“穴”ではないことを。それは、開いてはならない扉だった。そして、科学の目を向けられたその瞬間から、扉の向こう側もまた、こちらを認識し始めていた。
聖域では、同時刻。
シオンが、ゆっくりと目を閉じた。
遠く離れた大地から、耐え難い違和感が押し寄せてくる。
(……始めたな)
エルダニアは、最後の一線を越えた。
聖域からの通達は、形式だけを見れば極めて慎重だった。
ギリシャ政府を介した、外交文書としての極秘連絡の文面は淡々としており、「軍事介入」や「制裁」という言葉は一切使われていない。
事態解消のため、限定的な関与を行う。
対象は、エルダニア王国領内に端を発する超常災害。
目的は、周辺諸国への被害拡大防止。
それでも、エルダニア王国の回答は同じだった。
「拒否する」
その報告を受けた瞬間、教皇宮の空気が一変した。
「……愚か者め」
シオンの声は低く、しかし抑え切れぬ怒気を孕んでいた。机を叩くことも、感情を爆発させることもない。それがかえって、彼の怒りの深さを物語っている。
「自国で制御できているつもりか。あれは、すでに“国家”の手に負える段階を越えている」
補佐官たちが沈黙する中、シオンはゆっくりと視線を上げた。
「だが――想定の範囲だ」
彼は既に、次の一手を打っている。
エルダニア王国に対する保護対象国家除外措置。それは、解除されない。聖域は、エルダニアを守らない。救わない。代償を肩代わりもしない。しかし同時に、シオンは続ける。
「介入は行う。名目は、近隣諸国の保護だ」
すでにエルダニアと国境を接する諸国、複数の小国家、同盟圏、そしてギリシャ政府には「裂け目の拡大による越境災害の危険性」として、聖域介入の説明がなされていた。
答えは、すべて「同意」。
当然だ。空が歪み、地が鳴り、正体不明の被害が拡大している以上、誰もが次は自国だと理解していたからだ。
「聖域が動く理由は、十分に揃った」
シオンは静かに宣言する。
「エルダニアの主権は侵さぬ。だが、国境の外に溢れ出る災厄は我々が止める」
それは、救済ではない。封じ込めであり、隔離であり、場合によっては――切り捨てだった。
そのとき、ヘスティアが口を開いた。
「もう一段階、事態が進めばね」
柔らかな声音。だが、その奥には燃えるような怒りが潜んでいる。
「裂け目が“定着”するか、向こう側の存在が“こちらの世界を認識しきった”瞬間。その時点で――聖域は、誰の許可も取らずに踏み込むわ」
それは、神としての最終判断だった。
「エルダニアが拒否したのは、自分たちが“管理者”でいられると信じているから。でもね――」
ヘスティアは、どこか哀れむように微笑んだ。
「扉を開けた人間は、もう“閉じる側”には戻れないのよ」
その言葉と同時に、黄金聖闘士たちが動き始めていた。
これは、最後通告だ。
エルダニアが理解する前に。
理解できなくなる、その瞬間が来る前に。
聖域は、なおも一縷の理を残そうとした。
今度は、直接ではない。
エルダニアと国境を接する隣国――被害拡大を現実的脅威として受け止めている国々から、「共同防衛」「越境災害対策」という名目での提案として、介入受け入れを打診させた。
それは、限界まで譲歩した形だった。
だが、返ってきた答えは、同じだった。
拒否。
しかも、そこには明確な悪意が添えられていた。
「保護対象国家から除外しておきながら、介入を持ちかけるとはどういう了見か。聖域は、エルダニアを支配下に置こうとしている」
歪曲された論理。
意図的な被害者意識。
そして、自らが開いた禁忌から目を逸らすための、責任転嫁。
その報告を受けた教皇宮では、誰一人として声を上げなかった。怒りすら、すでに通り過ぎている。
「……ここまで愚かだとはな」
シオンは低く呟いた。それは見限りに近い声だった。
聖域が動けば、エルダニアは「侵略された」と叫ぶだろう。動かなければ、裂け目は拡大し、周辺諸国と無辜の民が呑み込まれる。もはや、国家としての判断能力は失われている。
その、ぎりぎりの均衡を破ったのは、アリシア王女だった。
聖域の謁見室は、音を拒むように静まり返っていた。
高い天井、白い石柱、淡く揺らぐ燭台の火。
どこにも豪奢さはない。ただ、古く、揺るぎない秩序だけが満ちている。
その中央に立つ青年を見て、アリシア王女は一瞬、呼吸を忘れた。
――違う。
それが、最初に浮かんだ感情だった。
記憶の中の彼は、祝賀の場にふさわしい装いで、柔らかな微笑を浮かべ、周囲の賛辞を自然に受け流していた。
若く、穏やかで、どこか距離が近くて、王女の視線を正面から受け止め、優しく目を細めてくれた人。
だが、今、目の前にいるシオンは違う。
法衣に包まれた姿は簡素で装飾はほとんどない。にもかかわらず、放たれる気配は、祝宴のどの権力者よりも圧倒的に重厚だった。
視線が合った瞬間、アリシアは理解してしまう。
今、ここにいるのは“聖域教皇”だ。
「……お久しぶりです、教皇猊下」
自然と、声は低く、慎重になる。一歩進み、彼女は膝を折り跪く。それは社交辞令でも、演出でもなかった。シオンの気配が自然とそうさせたのだ。
「エルダニア王国第一王女、アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニア。父王に代わり、非礼と失策をお詫びに参りました」
額が床に近づき、冷たい石の感触が現実を突きつける。
あの夜のままなら、こんな距離で、こんな姿勢で、あなたの前にいることはなかった。
「顔を上げよ」
シオンの声は低く、抑制されていた。怒りを含んでいない分、かえって逃げ場がない。
アリシアは顔を上げる。
その瞬間、再び視線が絡んだ。
紫の瞳。
記憶の中と同じ色。だが、そこに宿るものは、まるで別だ。
「……成人の祝いの席では、失礼いたしました」
彼女はそう言って、微かに唇を引き結ぶ。
「軽率でした。あの場での私は、何も知らず、何も見えていませんでした」
「否」
シオンは短く言った。
「知らぬこと自体は、罪ではない」
一瞬、アリシアの胸に安堵が走る。だが、次の言葉が、それを切り捨てた。
「知ろうとせず、踏み込んではならぬ領域に手を伸ばしたことが、罪だ」
空気が張り詰める。
「……我が国は、科学と軍事の力で独立を保ってきました」
アリシアは、逃げずに続ける。
「神話の存在を認めることは、それを否定することと同義だと。多くの者が、そう考えています」
「だから、魔界を開いたか」
シオンの視線が、わずかに鋭くなる。
「……はい」
その一言を口にするのにどれほどの勇気が要ったか、彼女自身が一番よく分かっていた。
沈黙が落ちる。
シオンは、祝宴で見せたような微笑を浮かべることはない。だが、冷酷でもない。
ただ、重たかった。
「そなたは、何を求めてここへ来た」
問いは短く、明確だった。
アリシアは、迷わなかった。
「教えを請いに参りました」
まっすぐに、彼を見る。
「どこで引き返せばよいのか。何を差し出せば民を救えるのか」
一瞬、あの夜の記憶が、彼女の脳裏をよぎる。グラスを手にした彼は控えめに笑み、どこまでも紳士的だった。
同じ人なのに、今はこんなにも遠い。
「時間は残されていない」
シオンは告げる。
「裂け目は拡大している。もはや制御の段階ではない」
アリシアは、深く息を吸った。
「父を説得します。……それが叶わなければ」
アリシアは、静かに頭を下げた。
「その時は、どうか、国民だけはお救いください」
その覚悟に、シオンの胸の奥で何かが動いた。
「下がれ」
そう告げる。
アリシアは一礼し、踵を返す。扉の前で立ち止まり、振り返らずに彼女は言う。
「……あの夜、あなたに出会ってしまったことを、私は後悔していません」
扉が閉じる。
残された静寂の中で、シオンは、長く息を吐いた。
運命とは、いつも、最も残酷な形で再会を用意する。
次に会う時、彼女は王女でいられるだろうか。それとも――
シオンは、その先を考えるのをやめた。
王城の執務室は、昼間だというのに重苦しかった。
分厚いカーテンが半ば閉じられ、外からの光は意図的に遮られている。机上には軍の配置図、被害報告、同盟国との通信記録。数字と記号ばかりが並び、人の顔はどこにもない。
その中央に、アンドレアス国王は座っていた。
「――だからこそ、今は引くわけにはいかんのだ」
重く断定的な声に、アリシアは拳を強く握りしめる。
「お父様……聖域は、敵ではありません」
そう言うたび、胸の奥が痛んだ。何度、同じ言葉を繰り返しただろう。
「彼らは、裂け目の本質を知っています。科学では対処できない段階に――」
「科学で抑えられぬものなど存在せぬ」
アンドレアスは書類から視線を上げない。娘へその視線を向けることもない。
「未知とは、未解明にすぎん。それを“神”や“聖域”と呼ぶから、思考が鈍るのだ」
「……それは、傲慢です」
言葉が零れ落ちた。一瞬、室内の空気が凍る。
「何だと?」
父の声が低くなる。王としての声だ。そして、今度はゆっくりと顔を上げた。
その視線に、娘を見る父の温度はなかった。
アリシアは、唇を噛みしめた。引き下がれば楽だった。いつものように王女として微笑み、同意すればいい。でも、それはできない。してはならない。
「傲慢です、お父様」
今度は、はっきりと。
「見えないものを、理解できないものを、力でねじ伏せられると信じることは」
机を叩く音が響いた。
「アリシア!」
怒声。だが、その奥にあるのは、苛立ちと焦燥だ。
「私は、この国を守っている!数百年、神話に頼らずに生き延びてきた国家だ!」
「その“たかが数百年”の誇りが、今、国を滅ぼそうとしているのです!」
アリシアも思わず声を荒らげる。
「裂け目は、もう制御できていません!軍を送れば、犠牲が増えるだけです!」
「だからこそ、殲滅する!」
アンドレアスは立ち上がった。
「異常を異常のまま放置するなど、王のすることではない!」
その姿を見て、アリシアの胸に、言いようのない感情が溢れ出す。
違う。この人は、見ていないのではない。恐れているのだ。未知を、敗北を、そして“自分が間違っていた”という事実を。
「……お父様は」
声が、かすれる。
「国を守っているつもりで、ご自身の威信を守っているだけです」
沈黙。アンドレアスの表情が、硬く凍りつく。
「下がりなさい」
冷たい声だった。
「これは、王の決定だ。王女の感傷を聞く場ではない」
アリシアは、その場に立ち尽くす。言葉を尽くした。理も、情も、未来も語った。それでも、父は一歩も動かなかった。
――私は、何も変えられない。
その事実が、胸を抉る。
「……失礼いたします」
深く一礼し、背を向ける。歩き出した途端、視界が滲んだ。廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。壁に手をつき、息を詰める。
悔しい。
情けない。
怒りが、悲しみが、混ざり合う。
あの方は、見ていた。理解していた。
聖域で対峙した教皇シオンの眼差しが、脳裏をよぎる。
「……私は、王女なのに」
小さく、呟く。
「何一つ、守れていない……」
拳が震える。その拳で涙を拭い、アリシアは、ゆっくりと背すじを伸ばす。
父が動かぬのなら、王が選ばぬのなら、自分が動く。彼女は、別の覚悟を胸に刻み始めていた。
この国の未来に、王の椅子は不要だ。
次の一手は王女ではなく、一人の人間としての選択だった。
執務室を出てから、どれほど歩いただろう。城の回廊はどこまでも長く、静かで、冷たい。磨き上げられた床に映る自分の姿を、アリシアはふと見下ろす。
豪奢なドレス、王家の紋章、整えられた髪。
これが、私だ。
アリシアには、その姿がひどく空虚に思えた。
(王女として、私は何をしてきたの?)
外交、式典、祝祭。あらゆる場面で、幼い頃から常に笑顔を求められ、象徴であることを求められてきた。そして、そのように振る舞ってきたし、王女であることを誇りに思っていた。
だが今、国が音を立てて崩れ始めているこの瞬間に、王女という立場は、何の力も持たなかった。
アリシアは立ち止まり、窓の外を見る。
遠く、霞む山並みの向こうに、ヴァルトフェルト村がある。
あの裂け目に存在する“見てはならないもの”。
父は認めなかった。否定し、力で押さえ込もうとした。
聖域の教皇は、否定しなかった。恐れも、怒りも、すべてを見据えた上で、静かに立っていた。
守るために、怒れる人。
その姿が、胸の奥に残っている。
「……私は」
声に出すと、覚悟が形になる。
「王女である前に、人でありたい」
その瞬間、アリシアの中で、何かがはっきりと切り替わった。彼女は、自室へ戻らなかった。
向かったのは、王城の奥。王家の紋章も、公式記録も残らない“個人用の私設通信室”だった。王女が私的に使うことなど、想定されていない場所だ。
アリシアは端末を起動し、一つの回線を選択する。暗号化された、聖域直通の非公式回線。
父に知られれば、これは“越権行為”では済まない。王権への裏切りで処罰される。だが、それさえも、アリシアの行動の抑止力にはならなかった。
通信は繋がった。
「こちら、エルダニア王国第一王女、アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニアです」
一瞬の沈黙の後、落ち着いた声が返る。
『……存じております』
シオンだ。
「私は、父の決定を覆すことはできませんでした」
事実を簡潔に述べる。
「ですが、王女としてではなく、一個人として申し上げます」
深く、息を吸う。
「エルダニア王国は、間違っています。裂け目は、制御できていません。国軍の投入は、破滅を早めるだけです」
そして――
「どうか、聖域の判断で、介入してください」
それは、嘆願であると同時に、覚悟の表明でもあった。
「その際、私は……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「王家の名も、地位も、守っていただかなくて結構です。必要であれば、私は“亡命者”として、聖域に身を置きます」
沈黙が落ちる。アリシアは、目を閉じた。
これでいい。王女としての未来がここで終わったとしても、惜しくない。
『……そなたは』
シオンの声が、静かに響く。
『自分が何を差し出そうとしているか、分かっているな』
「はい」
即答だった。
「それでも、私は見て見ぬふりをする人にはなりたくありません」
通信の向こうで、ほんのわずかな気配の変化があった。
『……承知した』
アリシアは、通信を切ったあと、そっと目を伏せた。王女としての自分は、もう、戻れない場所へ足を踏み入れた。
だが、後悔はしていない。彼女の選択は、国を裏切ることではなく、未来を見捨てないことだった。
聖域の執務室は静まり返り、外の風の音さえ遠い。
王女であることを捨てる覚悟。
それが、どれほどの重さを持つ選択か。
(愚かとは言いたくない。だが、あまりにも痛みを伴う選択だ)
シオンは目を閉じる。祝賀の夜の記憶が、否応なく脳裏をよぎる。
華やかな灯り、音楽、笑顔。
その中で、少し緊張した面持ちでこちらを見つめていた若い女性。
あの時のアリシアは、王女としての役割を懸命に演じていた。
だが、今、通信越しに聞いた声には、虚飾も虚勢も、偽りも期待も、逃避もなかった。
あったのは、“見てしまった現実から目を逸らさない”という、覚悟だけだった。
シオンは、ゆっくりと息を吐く。
アリシアは王に抗おうとしたのではない。聖域に縋ったのでもない。
自分の立場が、もはや人を守る役に立たないと理解した上で、それでも守る側に立とうとした。それは、教皇という立場に在る自分と、あまりにも近い選択だった。
だからこそ、胸の奥に小さな痛みが走った。
シオンは、机に置かれた法衣に視線を落とす。自分もまた、選び続けてきた人間だ。
愛するものを守るために、地位を選び、孤独を選び、怒りを選んできた。
(彼女は、私と同じ道を選ぼうとしている)
それが、どれほど過酷かを知っているからこそ、彼は軽々しく「よくやった」とは言えなかった。
だが――拒む理由も、なかった。
「……アリシア王女」
誰もいない部屋で、彼はその名を口にする。
否定ではない。
哀悼でもない。
敬意だった。
(その覚悟、私が無駄にしてはならぬ)
シオンは立ち上がり、聖域の奥へと歩き出す。ヘスティアへ、報告を上げるために。
彼女が差し出したものが、ただ失われるだけの犠牲にならぬように。そして、心の奥で、静かに誓う。
彼女を、王家に見捨てられた存在にはさせない。
王女ではなくなっても。
国を追われたとしても。
彼女が選んだ、人としての決断は、教皇シオンが必ず受け止める。それは、庇護ではない。もちろん、同情でもない。同じ重さの選択をしてきた者としての、対等な受容だった。
