Eine Kleine Ⅳ

 クロエが集めた情報は、どれも決定打には欠けていた。証言は曖昧で、記録は欠損し、時刻は秒単位でずれている。だが、それらを一つの線として結んだとき、浮かび上がる輪郭は、あまりにもはっきりしていた。
 ヴァルトフェルト村は、事件が起きる前から注視されていたのだ。警察からでも行政からでもない。
 大学の研究部署と軍の技術班。そして、国家中枢のさらに奥から。
 クロエは、ある未送信の内部メモに辿り着いた。正式な文書ではないため、共有サーバにも残っていない。個人端末の下書きフォルダに、消される直前の走り書きのような記録が残っていた。
『裂け目の拡張条件、未確定ただし――“第三者の介入”がトリガーになる可能性あり』
 日付は、事件の二日前だ。クロエは息を呑んだ。
 第三者。
 管理下にない存在。
 偶然入り込んだ、異物。
 メリッサが村に入った時刻と、その直後に起きた通信異常。送電ログの歪み。
 すべてが、この一文と一致する。
「……だから、消したのね」
 証拠を。
 証言を。
 そして、人を。
 国家が恐れたのは、裂け目の存在が知られることではない。裂け目が、制御不能だと露呈することだった。
 クロエは、その瞬間、遠く離れた場所にいる二人の顔を思い浮かべる。
 シオン。そして、サガ。
 ようやく繋がった。
 シオンがあれほどまでに激怒した理由は、ただ一人の少女を国家が生贄にしようとしたからではない。
 管理できない異常現象を、無力な人間に押し付け、なかったことにしようとした。それが彼の逆鱗に触れた。聖域が存在する理由そのものを、踏みにじる行為だったからだ。
 そして同時に、もう一人の男の行動も、静かに意味を持ち始める。
 サガ。
 クロエを聖域に入れなかった判断と、あの冷酷に見えた命令。
『入構は拒否せよ』
 あれは、排除ではなく避難だった
 クロエは、ようやく理解できた。サガは、エルダニアの動きを読んでいたのだ。国家が、次に何をするかも。表で動けないなら、裏から来る。
 情報を集める者、核心に辿り着ける者として、クロエは真っ先に狙われる。
「……だから、近づけなかったのね」
 聖域は世界の治外法権だ。だが、聖域の“外”にいる人間は違う。クロエが聖域に入った瞬間、彼女は“聖域外部関係者”としてエルダニアの正式な標的になってしまう。それを避けるために、サガは彼女を突き放したのだ。冷酷な命令という形で、彼女自身が動ける余地を残すために。
 クロエは、苦く笑った。
「……最悪の優しさね」
 だが、同時に思う。もし自分がサガの立場でも、同じ選択をしただろう。守るために遠ざける。信じているから説明しない。
 そのやり方がどれほど憎まれるかを知った上で。
 クロエは、ぱたりと端末を閉じる。
 今、彼女の手の中にある断片は、すでに一つの刃になりつつあった。シオンの怒りと噛み合い、サガの沈黙と繋がり、エルダニアが隠した本体へ向かう刃。
「……ここからが、本番ね」
 クロエは、深く息を吸った。

 ヴァルトフェルト村の名が、ニュースに流れた。
 ぼかされた映像には焼け落ちた家屋と、封鎖線の向こうで忙しなく動く人影が映っていた。
 シオンは、黙って画面を消した。
 メリッサの顔色が変わったのを、見逃さなかったからだ。唇がかすかに震え、視線が宙を彷徨う。まるで、見てはいけない記憶の扉が、内側から叩かれているようだった。
「……メリッサ」
 名を呼ぶ声は静かだった。
「そなたは、ヴァルトフェルト村で……本当は何を見たのだ?」
 メリッサは、すぐには答えなかった。無意識に手を握りしめる。爪が食い込むほどに。
「あたし……」
 絞り出された声は、ひどく小さかった。
「最初は、何もなかったの。村は静かで、誰もいなくて……ただ、変だったの。音がなかったっていうか……」
 風の音も鳥の声も、そして、人の気配も。世界から音だけが抜き取られたような静寂があった。
「それで……奥に進んだら……」
 メリッサは、そこで一度、息を詰まらせた。思い出すだけで、喉の奥が締めつけられる。
 シオンは急かさない。ただ、視線を外さず彼女が言葉を紡ぐのを待つ。
「……空が、割れてたの」
 ぽつりと、落とすように言った。
「最初は、光の揺らぎだと思ったの。陽炎みたいに歪んでて、ゆらゆらしてて……でも、違った」
 裂け目だった。空間そのものが、縫い目を失ったように裂け、向こう側が覗いていた。
「暗くて……でも、何も見えないわけじゃなくて……」
 見られていた。
 その感覚だけが、はっきり残っていた。
「……目が、あったの」
 メリッサは、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、今もなお消えない恐怖が宿っていた。
「裂け目の向こうから……異形の何かが……あたしを、睨んでた」
 人ではない。獣でもない。名前を与えることすら拒む存在。理性を持つかどうかも分からない。だが、意思だけは、確かにあった。
 こちらを認識している、という意思。
「声は聞こえなかった。でも……分かったの」
 あれは偶然そこにいたのではない。迷い込んだのでもない。
「……あれ、こっちに“出てこようと”してた」
 メリッサの肩が、かすかに震える。
「村の人たち……たぶん……あたしが行く前に、もう……」
 言葉が途切れる。
 最後まで言わなくても、シオンには十分だった。
 裂け目。
 異形。
 そして、観測されていた事実。国家が隠した理由が、はっきりした。
 シオンは、ゆっくりと立ち上がる。怒りは、もう抑えられない段階を越えていた。やはり、彼女は原因ではない。ただ、見てしまっただけだ。
「……よく、話してくれた」
 そう言ってメリッサの前に膝をつく。視線を合わせるために。恐怖を一人のものにしないために。
「そなたは、悪くない」
 断言だった。
「あれは――人の世界にあってはならぬものだ。そして、それを管理できると思い上がった者たちの罪だ」
 メリッサの瞳から、堰を切ったように涙が溢れる。
「……怖かった……」
「そうだろうな」
 シオンは、そっと彼女を抱き寄せる。
「もう大丈夫だ。聖域が必ず終わらせる」
 裂け目の向こうで、何が待っていようとも。それが神話に属する怪物であろうと、人の傲慢が生んだ災厄であろうとも。

 ヴァルトフェルト村の件を、シオンはすべて包み隠さずヘスティアへ報告した。
 裂け目の存在。
 異形の気配。
 そして――それを、メリッサが確かに「見てしまった」こと。
 ヘスティアは、玉座に身を預けたまま、ほんの一瞬、目を伏せた。
「……知ってるわよ、それ」
 あまりに淡々とした声だった。
「邪気を感じていたもの。ほんの、爪の先ほどだけどね」
 その言葉に、シオンは思わず一歩、踏み出す。
「なぜ……なぜ、何も仰らなかったのですか」
 責める響きはなかった。
 だが、教皇として、そして一人の守護者として、抑えきれぬ困惑が滲んでいた。
 ヘスティアはゆっくりと視線を上げ、シオンを見る。
「教皇のあなたでも、気付かない程度の気配だったからよ」
 その微笑は柔らかい。だが、温度がない。
「それに――エルダニアが、まだ尻尾を出していなかった」
 その瞬間、室内の空気が張り詰めた。
「泳がせておいていい段階だったの」
「……どういう、ことですか」
 問いかける声は低く、慎重だった。
 ヘスティアは立ち上がらない。だが、その存在感だけが、確実に強まる。
「あの裂け目を作ったのは、エルダニア自身よ」
 静かな断定だった。
「魔界を開いてはならない。それは、裏社会においても“触れてはならない禁忌”。彼らはそれを知った上で踏み越えた」
 言葉が進むごとに、空気が重くなる。
「今はまだ、裂け目の拡大を制御しているみたいね。
大学の研究部署と、軍の一部。観測、調整、隠蔽――全部、回っている」
 ヘスティアは、指先で肘掛けをなぞった。
「でも、それは“今のところ”に過ぎないわ」
 その声に、わずかな――だが確かな怒りが滲む。
「制御値が臨界を超えた瞬間、裂け目は“獣”では済まなくなる。裂け目が穴になり門になったら、異形は“こちら側”に根を下ろそうとする」
 シオンは息を呑んだ。
「……その時が、介入の目安、ですか」
 ヘスティアは、はっきりと頷いた。
「ええ」
 そして、静かに告げる。
「裂け目が自律拡張を始めた時、観測者であるはずの人間が、逆に観測され始めた時、そして――その中心に、無垢な存在が再び巻き込まれた時」
 その最後の条件が何を指すのか、言うまでもなかった。
「メリッサさん、あるいは無関係な人間が、再び狙われる兆しが見えたら」
 その瞬間、ヘスティアの声から、完全に温度が消えた。
「その時は、聖域が出ます」
「ヘスティア様……」
 シオンが名を呼ぶ。
 ヘスティアは、ようやくわずかに微笑んだ。
「安心しなさい。あなたより先に、私の方がずっと怒っているわ」
 その言葉は、慰めではなかった。
 予告だった。
 魔界を開いた罪。
 神の領域を、人の手で覗き込んだ報い。
 それが、静かに、だが確実に――エルダニアへ近づいていることを、この場にいる二人だけが、はっきりと理解していた。

 クロエは、ヴァルトフェルト村から最も近い集落――地図上では点のように小さな町に身を置いていた。
 通信は不安定だが、断続的に回線は繋がる。この程度の集落なら、監視の目もまだ薄い。
 古い宿屋の一室を借りた。カーテンを引き、照明を落とし、ノートパソコンを開く。
 外では、風が山肌を擦る音だけがしていた。
 クロエは、これまで集めた証言、記録、時系列を淡々と整理する。
 感情は排し、推測も最低限に留める。事実だけを、淡々と並べる。
 事件発生前からの空間歪曲の目撃情報。
 警察ではなく、研究系・軍関係者が最初に把握していた点。
 「獣害」とするには説明のつかない音と痕跡。
 そして、メリッサが村に立ち入った正確な時間帯。
 最後に、短い結論だけを添える。
「本件は偶発事故ではない。エルダニア側による観測・管理下の事象が破綻した可能性が高い。メリッサは原因ではなく、事象に巻き込まれた存在である」
 送信先は補佐官サガ。
 件名を打ち込む。
《【至急】ヴァルトフェルト村の異変について【要指示】》
 一拍、間を置き、クロエは送信キーを押した。画面右下に、《送信完了》の表示が出る。
 その瞬間だった。
 地鳴りのような振動が、床下から突き上げてきた。コップの水面が揺れ、窓枠が軋む。
 次いで山そのものが、息を吸い込むような沈黙。
 そして。
 ヴァルトフェルト村の方角から、大気を引き裂くような咆哮が轟いた。獣の声ではない。禍々しく巨大な何かが、世界そのものを震わせる音。
 クロエは、無意識に立ち上がっていた。
 心臓が、早鐘のように打つ。
 遅かった?否。間に合ったはずだ。
 そう直感する。
 窓の外を見ると、遠くの山際の空が、僅かに――不自然に歪んでいる。夜でもないのに色が沈み、空間が重たく見える。
 クロエは、唇を引き結んだ。
「……始まったわね」
 これは、事態の転換点だ。

 そして同時刻――聖域では、サガの端末が、メールの件名を表示したまま、静かに震えていた。
 サガは、端末に表示された差出人名を見た瞬間、息を呑んだ。次いで件名に目を走らせた刹那、彼の表情から血の気が引く。
《差出人:クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ》
《件名:【至急】ヴァルトフェルト村の異変について【要指示】》
 サガは拳を握りしめた。
「……馬鹿者め……!」
 低く、抑えた声。叱責というより、苛立ちと危惧が入り混じった吐息に近い。
「エルダニアへ行っているのか……!?」
 即座に添付ファイルを開く。
 そこに並んでいたのは、感情を削ぎ落とした事実の羅列と、冷静過ぎるほどの分析。
 これは、現地に入らなければ得られない情報だ。サガは、ギリッと音が鳴るほどに歯を噛み締めた。
(……止めた意味が、何も伝わっていない)
 否。
 クロエは理解していた。理解した上で、踏み込んだのだ。だからこそ、この報告書は“危険なほど正確”だった。
 読み進めるにつれ、サガの背中に、冷たいものが這い上がる。事件は偶発ではない。エルダニアは、最初から裂け目の存在を把握していた。
 そして、それを制御できると思い上がっていた。
「……愚かな」
 小さく吐き捨てる。そのまま椅子から立ち上がり、法衣を翻して執務室を後にした。
 向かう先は、教皇の執務室。
 足取りは早いが、音は抑えている。廊下に漂う空気が、どこか張り詰めているのを感じ取っていた。
 シオンも、何かを察している。
 そう確信しながら、サガは扉の前に立つ。
 ノックをしながらも返事を待つ余裕はなかった。
「失礼します、教皇」
 扉を開けると同時に、低く告げる。
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウから報告書が届きました。ヴァルトフェルト村の事件についての、独自調査結果です」
 室内の空気が、一瞬で変わった。
 書類から視線を上げたシオンの眼差しが、鋭く、サガを射抜く。
「何だと?」
 声は静かだが、その内側に、確かな怒りが沈んでいる。
「お前――クロエを、エルダニアへ送ったのか?」
 サガは、即座に首を振った。
「いえ。今回はメリッサ嬢を聖域で保護しておりますし、エルダニアは状況が不透明過ぎます。危険も大きいため、クロエには一切、任務を与えておりません」
 一瞬の沈黙。
「……独断か」
 低く落とされたその言葉に、サガは一歩、前へ出て頭を下げた。
「申し訳ありません」
 だが、謝罪の裏で、彼は理解していた。
 これは、クロエが“行かなければならなかった”状況だったのだと。
 報告書は、聖域が動くべき決定的な地点を示している。そして同時に、裂け目は、もはや待ってはくれない段階に入っている。
 シオンの沈黙は、次の決断が下されるまでの嵐の前の静けさに他ならなかった。

 クロエからの報告書は、異様なほど詳細だった。時系列は正確で、証言の出所も明確。
 公式記録と非公式情報の切り分けも冷静で、感情の混入がほとんどない。そこにあるのは、事実だけだった。
 シオンは、一頁、また一頁と、静かに目を走らせる。
 そして、ある一文でわずかに肩の力が抜けた。
「ヴァルトフェルト村への直接立ち入りは行っていない」
 その一点において、彼は確かに安堵した。
(……無謀ではなかったか)
 単独で異国に潜入し、すぐそこに魔界と通じる裂け目が存在している状況で。それでも、踏み越えるべき一線だけは、決して越えていない。
「……よく、ここまで」
 思わず、独りごちる。感心、と呼ぶにはあまりに重い評価だった。だが、それ以外の言葉が見当たらない。
 裂け目の兆候。
 空間歪曲の進行速度。
 異音の発生時刻と、軍・研究機関の動き。
 そして、事件発生前から行われていた観測の痕跡。
 どれも聖域がまだ掴み切れていなかった領域だ。
「……単独で、よくこれだけ調べ上げたものだ」
 それは、賞賛であると同時に苦い自責でもあった。
 本来、彼女をそこまで追い込むべきではなかった。
 サガも同じことを考えているのだろう。
 隣で黙したまま、報告書の行を追う視線が僅かに険しくなっている。
「ヴァルトフェルト村には入っていない。だが……」
 シオンは、報告書の後半を指し示した。
「《周辺集落ですら、裂け目の影響が可視化し始めている》……この段階だ」
 声は重い。
「もはや、泳がせておける段階ではない」
 ヘスティアの言葉が、脳裏を過る。
 尻尾を出させるために、泳がせておけ。
 それは決断を下す者の眼だった。しかし、ヘスティアさえ掴んでいなかった動向の記述があった。
「クロエは、よく調べてくれた。この報告書は、エルダニアが禁忌を破った、何よりの証左だ」
 裂け目は、拡大している。時間は、もはや味方ではない。
 次に聖域が動くとき、それは観測でも、警告でもない。世界の均衡を守るための介入となる。

 張り詰めた沈黙を断ち切るように、シオンは短く告げた。
「サガ、クロエを即時退避させよ」
「――御意」
 即答だった。
 その声には、ほんのわずか張りつめていた糸が緩むような、安堵が混じっていた。
 シオンは、それを聞き逃さなかった。
(……そうだな)
 サガにとっても、クロエは部下である以前に、守るべき命だ。危険を承知で遠ざけたにもかかわらず、それでも彼女は、自ら地獄の縁へ踏み込んだ。
「……急げ」
 それだけを告げると、シオンは視線を伏せた。
 これ以上言葉を重ねれば、判断ではなく感情になると分かっていたからだ。
 サガは執務室を出るなり、歩きながら通信端末を起動した。指先が、僅かに震えているのを自覚する。
(繋がれ……)
 発信。
 呼び出し音が鳴る。
 一回。
 胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
 二回。
 あの報告書の行間が、脳裏に蘇る。
 空の歪み。
 増減する人影。
 制御しきれず拡大しつつある裂け目。
(馬鹿者……本当に)
 三回。
 心臓が喉の奥までせり上がる。
 無事でいろ。
 生きていろ。
 それだけでいい。
 声が――
 声が聞きたい。
 途切れそうになる呼び出し音の、その直前。
『はい』
 ノイズ混じりの、だが確かに聞き慣れた声。
 その瞬間、サガは深く息を吸い込み、ようやく自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。
「クロエ……無事か」
『はい。今のところは』
 彼女の声は震えながらも、虚勢はある。怯えているのかもしれない。だが、生きている。それだけで、十分だった。
「命令だ。即時退避せよ。現在地を送れ。私が回収する」
 一瞬の沈黙。
『……やっぱり、もう限界なのですね』
「限界を越えている。お前がこれ以上踏み込む理由はない」
『はい』
 短く、だが素直な返答だった。
「いいか、絶対に一人で動くな。連絡は切るな。これは命令だ」
『御意』
 言葉は短い。だが、そこに滲む緊張が、逆に現実を突きつける。通信が続いている間、サガは耳元の端末から、決して手を離さなかった。声が聞こえている限り、まだ、守れる。
 だが同時に彼は悟っていた。クロエが掴んだものは、もはや“退避”で終わる代物ではない。
 裂け目は、咆哮を上げた。
 世界は、確実に次の段階へ進もうとしている。
 そして、その責を負う覚悟を持つ者は、すでに、動き始めていた。

 十二宮の石段を、サガは一気に駆け下りた。
 足音が反響するたび、聖域の空気が軋むように震える。法衣の裾が風を孕み、ばさり、ばさりと乱暴な音を立てた。重ねられた厚手の布が脚に絡みつき、走るたびに速度を削ぐ。
 邪魔だ。
 権威の象徴。
 補佐官たる証。
 秩序と威厳の具現。
 それらすべてが、今のサガには足枷でしかなかった。今ほど、これを憎らしく思った瞬間はない。
 結界の縁を踏み越えた瞬間、空気が変わる。
 聖域特有の静謐が断ち切られ、外界の風が肌を打った。
 躊躇はなかった。
 サガは端末に送られてきた座標を脳裏で反芻し、即座に空間を捻じ曲げる。

 ——アナザーディメンション。

 本来なら、周囲への影響を慎重に測るべき技だ。対象地点に一般人が存在する可能性も、当然考慮すべきだった。
 だが。
(知ったことか)
 思考が、冷たく切り捨てる。
 補佐官として、聖域の秩序を司る者として、あるまじき判断だという自覚はあった。
 それでも、今は、クロエの回収が最優先だった。
 空間が裂け、視界が反転し、世界の上下が意味を失う。
 次の瞬間、土の匂いと荒い風音が押し寄せた。
 サガは着地と同時に周囲を見渡す。
 人工物はない。
 人影もない。
「クロエ!」
 名を呼ぶ声が思いのほか荒れていたことに、自分で驚く。
 数歩先に、通信端末を握りしめたまま、クロエが立ち尽くしていた。
 彼女が振り返る。
「……サガ様」
 無事だ。
 怪我もない。
 だが、瞳の奥に張りついた緊張と、恐怖を押し殺した色は隠せていない。
 サガは彼女の前に立つと、言葉より先に外套を掴んだ。
「馬鹿者」
 低く短い叱責の声。
「なぜ、単独でここまで来た」
「それは——」
 言い訳を封じるように、サガは一歩距離を詰める。
「もう十分だ。これ以上先は、お前が立つ場所ではない」
 クロエは一瞬、唇を噛んだが、やがて小さく息を吐いた。
「……承知しています。でも、これだけはお伝えします」
 彼女は端末を差し出す。時間をおいて撮影された、裂け目の写真が数枚ある。それは離れた場所から撮影されたものなのに、異変が起きていることがはっきりと分かるものだ。
「裂け目は、拡大しています。しかも——それは“管理されていた”。偶然ではありません。最初から、観測対象だったと見られます」
 サガの表情が、凍りついた。
(……やはり、そこまで掴んだか)
「話は戻ってから聞く。今は撤退だ。即時、聖域へ戻る」
 クロエは一瞬、遠くヴァルトフェルト村の方角を見た。
 その空は、確かに歪んでいた。
 腹の底を震わせるような重たい咆哮が、風に混じって届く。
「……もう、始まっているのでしょうか」
「ああ」
 サガは、彼女の肩に手を置いた。
「だからこそだ。生きて持ち帰れ。それが、お前の役目だ」
 クロエは、ゆっくりと頷いた。
 次の瞬間、再び空間が裂け、アナザーディメンションが、二人を包み込んだ。
 その背後で、エルダニア王国は確実に取り返しのつかない段階へ、足を踏み入れようとしていた。
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