Eine Kleine Ⅳ
聖域の正門は、いつもと変わらぬ厳粛さで二人を迎えた。
白い石造りの門柱。
規律正しく持ち場に立つ衛兵。
外界と聖域を隔てる、あの独特の張り詰めた空気。
行く手を阻むように、衛兵の一人が一歩前に出る。
「身分証明書と通行許可証を」
メリッサは慣れた様子で、小さく頷いた。
「はい」
いつものやり取りだ。
部外者の彼女は、もう何度もこの門を通っていて、衛兵ともすっかり顔なじみだ。そのせいで、手続きはほとんど形式的なものだった。
問題は――隣にいる人物だった。
「……そっちの男もだ。身分証明書と通行許可証を見せよ」
衛兵の視線は、明らかに訝しんでいる。それも無理はない。オーバーサイズのストリート系の服。耳元や指に光るアクセサリー。太めのネックレス。サングラス越しの視線は読めず、髪は無造作に立っている。しかも、スーツケースを持っている。
聖域でこの格好は、異物でしかない。
――誰だ、こいつ。
そんな無言の疑念が、空気に滲んでいた。
シオンは何も言わず、ポケットから一枚のカードを取り出した。動きは静かで無駄がない。
差し出されたIDカードを、衛兵が受け取る。
次の瞬間。
「……っ!?」
衛兵の表情が凍りついた。視線がカードと男の顔を、何度も往復する。隣の衛兵も覗き込み――同じように息を呑んだ。
「きょ……っ」
声が裏返りかけ、慌てて咳払いをする。
「きょ、教皇猊下……!?」
数秒の沈黙。次いで、堰を切ったような動揺が広がった。
「し、失礼いたしました!!」
「確認不足で……!」
「その……お召し物が……!」
ほとんどパニック状態だった。
サングラスの奥で、シオンは静かに目を閉じる。
「問題ない」
淡々とした一言が、かえって場を引き締めた。
メリッサは、必死に口元を引き締めていた。笑ってはいけない。絶対に。
(……変装、成功しすぎでしょ……)
教皇だと分かった途端、衛兵たちはぴしっと音がするほど姿勢を正し、直立不動になる。
「ご、ご通行ください!」
「どうぞ……っ!」
門が慌ただしく開かれる。
通り抜け際、メリッサは小声で囁いた。
「ね、シオン様」
「何だ」
「さっき、完全に“誰これ?”って顔されてたよ」
一瞬、間があった。
「……それは、成功と受け取ってよいのだな」
「うん。大成功」
くすり、と笑いが漏れる。
背後では、衛兵たちが未だ信じられないものを見るような顔で、遠ざかる二人の背中を見送っていた。
聖域の門は、再び静かに閉じられる。
変装は、どうやら想像以上に上手くいっていたらしい。
エルダニア王国・王都中枢。
厚い石壁に囲まれた庁舎の一室で、沈黙を破るように警告音が鳴った。
「――来たか」
端末に表示されたのは、出国管理局と国家秘密警察を横断する赤色の通知。
件名は簡潔だった。
《要注意人物関連・不審移動検知》
画面を覗き込んだ男は、深く息を吸う。
「対象は……シオン。聖域教皇を名乗る人物。加えて、ギリシャ人留学生メリッサ・ドラコペトラ」
室内の空気が、一段冷える。
「入国記録は?」
「ありません。正規ルートでの出入国履歴、ゼロ。にもかかわらず、王都内で複数の目撃情報。……明らかに不法入国です」
「やはりな」
男は椅子に深く腰掛け、指を組んだ。
「聖域関係者は、王国にとって宗教勢力である以前に超法規的存在だ。特に教皇シオンは、危険度Aランク。接触した時点で、民間人も共犯扱いになる」
「では――」
「国家秘密警察を動かせ」
即断だった。
「罪状は二つ。不法入国者の匿い、および国家安全を脅かす人物への協力。留学生といえど、例外はない」
別の職員が一瞬だけ逡巡する。
「……彼女は、学生です。公的には、何の問題もない――」
「公的には、な」
男は冷ややかに言い切った。
「だからこそ危険なのだ。要注意人物が婚約者を名乗った。それが虚偽であれ真実であれ、関係性がある時点で、切り離せなくなる」
指示が飛ぶ。
「寮の防犯記録を押さえろ。出入りのログ、通信履歴、全てだ。可能なら、身柄を確保する。……聖域へ戻る前にな」
壁の時計が、低く時を刻む。
その頃、聖域の二人は知らない。自分たちの行動が、すでに事件として処理され始めていることを。
国家秘密警察――
それは、表に名を出さず、裏で王国の秩序を守る存在だ。彼らは、感情を挟まない。善悪も、個人の事情も考慮しない。ただ一つ。“国家にとって不都合か否か”その基準だけで動く。そして今、メリッサ・ドラコペトラは、“聖域教皇を手引きした可能性のある協力者”として、静かに照準に収められていた。
国家秘密警察・分析室。
壁一面に並ぶモニターには、王都全域の時系列映像が分割表示されていた。
「――整理しろ」
低い声が響く。
「教皇専用機は、正規の航路でエルダニア国際空港へ着陸している。入国は拒否。降機も許可されず、機体はそのまま離陸。この時点では、完全に水際で防いだという扱いだ」
「はい」
「だが、その後だ」
映像が切り替わる。
王都中心部。王立大学近くの、学生や教職員が行き交うカフェ。
「教皇シオンは、ここに“突然”現れている。移動経路なし。監視カメラの空白を縫った形跡もない」
「不正侵入、映像改竄の可能性は?」
「否定されました。ログは完全。逆に言えば――」
分析官が言葉を選ぶ。
「――最初から、この場所に出現したとしか説明できません」
室内に、重い沈黙が落ちる。
「滞在時間、約五十八分。注文履歴、店員の証言あり。その後、王立大学正門へ移動」
次の映像。
金髪の青年と、メリッサ・ドラコペトラが合流する場面。
「大学の時間割と照合。彼女の講義終了時刻と完全に一致します」
「計画的だな」
「はい。さらに――」
留学生寮の映像が映し出される。
「入館手続きは正規。来館者名簿、記入済み。職員の証言も一致しています」
画面の端に、申請書のデータが拡大表示される。
〈関係:婚約者〉
「……大胆な」
「虚偽申告の可能性は高いですが、その場では誰も疑義を挟んでいません」
「そして?」
「退館手続きを行い、スーツケースを持った二人が建物を出た――その直後です」
映像が止まる。そこから先は空白だった。
「――消えたのか?」
「はい、忽然と。建物周辺、半径三百メートルの全カメラを逆リレーしましたが、二人の姿は一切映っていません」
「車両は?」
「該当なし。公共交通機関の利用履歴もありません」
上官は、ゆっくりと息を吐いた。
「時刻は?」
「メリッサ・ドラコペトラが、ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンと通話を終えた直後です。時間的矛盾はありません」
つまり。
「通話をきっかけに、行動を切り替えた」
「はい」
「――いや」
男は、指で机を叩いた。
「最初からだ。専用機は囮。空港で我々の目を引きつけ、その裏で王都に侵入した」
「ですが、その方法が……」
「分からない、というのが問題だ」
静かだが、確信を帯びた声。
「未知の移動手段。国家の監視網を無力化する能力。そして、民間人を巻き込む判断力」
男は立ち上がった。
「やはり、要注意人物リストの評価は甘かった。危険度を引き上げろ」
「メリッサ・ドラコペトラは?」
「共犯、もしくは利用された協力者。どちらにせよ――」
冷たい結論が下される。
「拘束対象だ」
分析室の照明が、わずかに明滅する。
エルダニア王国は理解した。聖域教皇シオンは、常識の外側で動く存在だということを。そして同時に、彼を逃した代償を、“最も捕らえやすい存在”に求めることを。
嵐は、まだ終わらない。
消えた二人を、どう探すのか。
国家秘密警察の捜索班は、まず最も確実と思われる場所を洗った。まずは、王立大学構内。だが、結論は早かった。
「メリッサ・ドラコペトラは、現在、学内にいません」
位置情報、学生証の入退館ログ、講義出席履歴。すべてが、彼女が寮を出た時点で途切れている。
次に行われたのは、聞き取りだった。薬学部生を中心に、留学生も対象だ。
「彼女、自分から話しかけること、ほとんどありませんでしたよ」
「いつも一人でしたね。仲良かった人なんて……いないんじゃないですかね」
「挨拶くらいはしますけど、それ以上は……」
返ってくるのは、似たような証言ばかりだった。
誰とも深く関わらず、講義を受け、実習をこなし黙々と帰る。成績は可もなく不可もなく。目立つ発言も、問題行動もない。
「……孤立していた、と?」
「はい。少なくとも、学内に“彼女のために嘘をつく人間”はいません」
分析官が静かに言う。
「協力者がいるとすれば、大学の外、あるいは――」
「――そもそも、この国にいない、か」
上官が言葉を継いだ。
メリッサ・ドラコペトラという存在は、エルダニア王国において、あまりにも薄かった。
留学生でありながら、社会的な繋がりを持たず、守るべき人間関係がない。
それは、本来なら、拘束しやすい、扱いやすい存在であるはずだった。
だが今は逆だ。
「足取りは、完全に途切れています」
捜索班の報告が、室内に落ちる。車両、公共交通、通信履歴、金融記録に至るまでどこにも痕跡がない。
まるで、この国に、最初から存在しなかったかのように。
上官は、ゆっくりと拳を握った。
「……教皇シオンは、彼女を連れ帰ったのではない。連れ去ったのだ。この国の、あらゆる制度の外へ」
誰かが、息を呑む音を立てた。
「捜索は?」
「――続ける」
だが、その言葉には、先ほどまでの確信はなかった。
見えないものは、追えない。記録に残らないものは、捕まえられない。
エルダニア王国は初めて理解し始めていた。これは、不法入国者と留学生の逃走事件ではない。国家の監視と法の限界を、意図的に踏み越えられた事案だということを。そして、その中心にいたのは、常に無言で、目立たず、誰の記憶にも深く残らなかった一人の学生だった。
メリッサ・ドラコペトラ。
彼女を見失った瞬間、この国は、主導権を失っていた。
「ギリシャ政府へ極秘捜査の協力を依頼しろ」
短く、しかし決定的な命令だった。
この段階で、事件はすでに国内事案の枠を完全に逸脱している。国家の威信、主権、そして“触れてはならない領域”との境界線。それらすべてを踏み越える覚悟の上での指示だった。だが、返答はあまりにも簡潔だった。
「聖域は治外法権である」
それ以上でも、それ以下でもない。補足も、含みも、交渉の余地もない。ギリシャ政府は、ただ事実を告げただけだった。
「……協力は、得られないということか」
誰かが呟く。
その声には、怒りよりも先に、理解が滲んでいた。
外交圧力をかける。
その選択肢は、机上に浮かんだ瞬間に、同時に消えた。もしこれ以上踏み込めば、エルダニアは“不当な干渉を行った国家”として表の世界で糾弾される。しかも相手はギリシャ政府ではない。その背後にあるのは、神話と歴史の向こう側に存在する聖域だ。
「……最悪の筋だな」
低く吐き出される声。
聖域が保護対象国家からエルダニアを除外した。
その事実が公になればどうなるか。
表向きは穏健で、理性的で、近代国家として振る舞ってきたエルダニアは、一夜にして評価を反転させられる。
国際社会からの信用失墜。
外交・経済への連鎖的影響。
そして何より、聖域に見放された国という烙印。それは、ならず者国家の烙印を押されるのと、ほとんど同義だった。
「……教皇シオンを追うこと自体が、詰みだったというわけか」
沈黙が落ちる。
不法入国。
留学生への接触。
そして、忽然と消えた二人。
確かに、記録は揃っている。論理的に追えば、疑わしい点はいくらでもある。だが、追えない。
法が届かない場所へ、人は、国家は、手を伸ばせない。
教皇シオンは、最初からそれを理解した上で動いていた。
専用機を囮にし、正規の手続きを踏み、あえて防犯カメラに姿を晒し、それでもなお、消えた。これは逃走ではない。
宣告だ。
エルダニアは、何もできない。そう突きつけられたに等しい。
会議室に漂う空気は、重く、冷たく、そして決定的に行き止まりだった。
メリッサ・ドラコペトラの身柄は、すでに国家の手の届かない場所にある。それを理解した瞬間、エルダニア王国は、この事件において完全に後手に回ったことを悟るのだった。
アンドレアス国王は、報告書を一枚ずつ、確かめるように読み終えた。どの文書にも、どの映像にも、決定的な違法性はない。
それが、何よりも腹立たしかった。
「……見事だな」
誰に向けた言葉でもない。
教皇シオンへか、聖域へか、それとも自らの読みの甘さへか。国王自身にも分からなかった。
深追いはできない。いや、してはならない。これ以上聖域と正面から衝突すれば、エルダニアが失うものは、あまりにも大きい。ここまで来ては、シオンとメリッサを追うという選択肢を切り捨てるほかなかった。
「完全に……やられたな」
机に組んだ指先が、わずかに白くなる。表情は平静を保っているが、その沈黙の奥で、国王の自尊心は深く傷ついていた。
教皇専用機は囮。
入国拒否の判断すら、利用された。
防犯網も、行政手続きも、すべて“正しく”踏み抜かれた上で、結果だけを奪われた。
これは敗北ではない。侮辱だ。
「――引き下がる、とは言っていない」
側近たちが、息を詰める。
「表で動けば、こちらが不利になる。ならば……盤を変えるまでだ」
アンドレアス国王は、静かに立ち上がった。
「聖域には手を出さん。教皇にも、直接は触れん。だが――」
視線が別の報告書へ落ちる。
「メリッサ・ドラコペトラ。あの娘は違う」
エルダニア王国の大学に在籍し、王国の制度の庇護下にあった存在。
「彼女が自発的に帰国したという記録は、まだ存在していないな?」
「……はい。現在のところ、正式な出国手続きは未了です」
「ならば、作れ」
即座の命令だった。
「留学制度の再点検を名目に、メリッサ・ドラコペトラの在籍記録を精査しろ。語学要件、成績基準、保証人、滞在目的……一つ残らずだ」
側近が察する。
「不備が……見つかった場合は?」
「制度上の瑕疵だ。政治ではない。外交でもない。単なる――行政の問題だ」
国王の声は、あくまで穏やかだった。
「それから」
一拍、間を置く。
「ヴァルトフェルト村の件。あれは、まだ未解決だ」
「……」
「民衆は忘れやすいが、恐怖は忘れない。真相が闇にあるほど、人は噂に縋る」
アンドレアス国王は、窓の外に広がる王都の整然とした街並みを見下ろした。
「教皇シオンが連れ去ったのではない。彼が“何かを隠した”のだと、そう思わせる程度でいい」
直接は触れないが、無傷では帰さない。
それが、王としての、そして一国としての、次の一手だった。
「聖域は神の領域だ。だが、人の世界で生きる者は人の法と、噂と、疑念からは逃げられぬ」
聖域へ戻って二日目の午後だった。
教皇宮の中庭を渡る風は穏やかで、白い石畳に落ちる影も柔らかい。一見すれば、何事もなかったかのような日常だ。だからこそ、胸ポケットで震えたスマートフォンの振動が、ひどく不穏に感じられた。
画面に表示された発信元を見て、メリッサは一瞬、指を止める。
アテネ国立大学。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
深呼吸をひとつして、通話ボタンを押す。
「……はい、メリッサ・ドラコペトラです」
『突然のご連絡、失礼します。アテネ国立大学・国際交流課の〇〇です』
事務的で、丁寧で、感情の温度が一切感じられない声。こういう声は、良い知らせを運んではこない。
『エルダニア王立大学より、あなたの留学資格を剥奪したとの正式な通達が届きました』
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
『本学としても、事前に何の連絡も受けておらず、困惑しております。そこで、あなたご本人から事情を伺いたく、ご連絡を差し上げました』
視界が、わずかに揺れる。
留学資格の剥奪。
その言葉が、ゆっくりと現実味を帯びて胸に落ちてくる。
「え、えと……」
言葉が、うまく出ない。
「……諸般の事情で、ですね……」
自分でも驚くほど、曖昧で頼りない言葉だった。電話の向こうで、相手が一拍置くのが分かる。
『ですから、その諸般の事情というのを、具体的に教えてください』
逃げ道を塞ぐような、静かな問い。
責める口調ではない。だが、逃げも許さない。
「……」
喉がからからに渇く。
何を言えばいいのだろう。
魔界だの、空間の綻びだの、国家が隠した事件だの――そんなことを言えるはずがない。言えない。言えば、今度は自分が問題の中心に据えられる。
「……向こうの大学からは、具体的な理由は……?」
必死に情報を引き出そうとする。
『「留学目的の喪失」「出席状況の不備」「学内規律上の問題」おおむね、そのような理由が並んでいます』
淡々と読み上げられる理由は、どれも否定しきれない形をしていた。
確かに、授業は欠席した。突然姿を消した。説明もなく帰国した。
「……そんな……」
でも、自分は何も悪いことをしていない。
守ろうとしただけだ。
知らせようとしただけだ。
それなのにこんな事になるなんて。
『本学としても、このままではあなたの履修・単位・今後の進路に重大な影響が出ます』
その言葉で、ようやく理解する。これは、もう一つの追撃なのだと。
エルダニアは、直接手を出さない。代わりに、未来を崩してくる。
『ですから、できる限り早く、事情の説明を――』
「……少し、時間をください」
メリッサは、思わずそう口にしていた。
『もちろんです。ただし、あまり猶予はありません』
通話が切れたあと、しばらくその場から動けなかった。
――規律違反による留学資格剥奪。
その言葉が、胸の中で静かに、しかし確実に形を成していく。
「……どうしよう……」
誰にともなく零れた声は、白い石に吸い込まれて消えた。
助けを求めたい。
でも、誰に?
ふと、シオンの顔が脳裏をよぎる。
心配かけたくない。でも、もう一人では抱えきれない。
メリッサは、ぎゅっとスマートフォンを握りしめた。
本当の意味での戦いは、どうやら――ここから始まるらしかった。
どうすべきか分からないまま、その日はゆっくりと、しかし容赦なく過ぎていった。与えられた客間は、必要なものが過不足なく整えられた、静かな部屋だった。
机の上に教科書を広げ、ページをめくる。活字を追っているはずなのに、意味はまるで結ばれない。文字はただの記号に戻り、頭の中を素通りしていく。
集中しなきゃ。
自分に言い聞かせても、心はどこか遠くに引きずられたままだ。
留学資格剥奪。
思考の隙間に、その言葉が何度も浮かんでは沈む。気付けば、同じページを何度もめくっていた。
無理だ。集中できない。
閉じた教科書を膝の上に置いたまま、メリッサは天井を見上げた。
白い石の天井は、何も答えてはくれない。
やがて、廊下に足音が響いた。聞き慣れた、落ち着いた歩調。控えめなノック。
「メリッサ」
扉越しに呼ばれた声で、胸がぎくりと跳ねた。
「……入ってもよいか」
「う、うん……」
扉が開き、シオンが静かに部屋へ入ってくる。その存在だけで、張り詰めていた空気がわずかに揺らぐ。
「夕食の時間だ。……変わりはないか?」
穏やかな問い。
気遣いを含んだ声。
「あ……うん……」
咄嗟に、そう答えてしまった。自分でも分かるほど、歯切れが悪い。
シオンはすぐに追及しなかった。数歩、部屋の中へ進み、メリッサの手元――閉じられた教科書に目を落とす。
「……そなたは、隠し事が下手だな」
責めるでも笑うでもない声。
「え……?」
思わず顔を上げる。
「表情も、声も、視線も。いつもと違う」
彼はメリッサの前に立ち、視線の高さを合わせるよう、少しだけ身を屈めた。
「何があったのだ」
優しくて逃げ場のない問いだった。だが、曖昧さを許さない強さがあった。
メリッサは、口を開きかけて――閉じた。
言えば、きっと心配させる。
言えば、きっとシオンは動く。
それが、どれほどの重さを伴うかも分かっている。けれど、黙っていれば、何も変わらない。
「……」
喉が、きゅっと締めつけられる。
シオンは急かさず、ただ、答えを待つ。その沈黙が、かえって重い。メリッサは膝の上で、指先をぎゅっと絡めた。話すべきか、もう少し伏せておくべきか。判断がつかないまま、時間だけが静かに流れていく。
夕刻の光が、窓から差し込み、二人の影を床に落としていた。その影は寄り添っているのに、言葉だけが、まだ届かない。
メリッサは、唇を噛みしめたまま、沈黙するしかなかった。
長い沈黙のあと、ようやく重たい口を開いた。
「………あのね、アテネの大学から電話があって……あたし……」
そこまで言いかけた瞬間、机の上に置いていたスマートフォンが、鋭く震えた。画面に表示された発信元を見て、メリッサの息が止まる。
――アテネ国立大学。
ついさっき、通話を終えたばかりの相手だった。
「……出なさい」
シオンの声は低く、落ち着いていた。
逃げることも、誤魔化すことも許さない、だが背を押す声音。
メリッサは一度だけ唾を飲み込み、通話ボタンを押した。スピーカーをオンにする。
「は、はい……メリッサ・ドラコペトラです」
『こちら、アテネ国立大学・国際交流課です』
今度は慎重で硬い口調だ。嫌な予感がする。
『先ほどの件に関連して、追加で確認しなければならない情報が入りました』
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
『エルダニア王国ヴァルトフェルト村における集団失踪事件について、ドラコペトラさん、あなたが重要参考人として名前が挙がっているとの連絡が、外務省経由で入りました』
重要参考人。
その言葉が、現実味を伴って耳に落ちる。
『現在、事実関係を確認中ですが、あなたの処遇については、大学としても慎重な判断を迫られています』
メリッサは言葉を失った。頭の中が真っ白になり、返事が遅れる。
「……あ、あの……それは……」
『詳細は、あらためて正式な書面でお伝えします。本日は事実確認のための連絡です』
淡々とした説明。
感情は一切含まれていない。
だが、その無機質さが、かえって重い。
『何か心当たりがあれば、正確に教えてください』
メリッサは、思わずシオンを見た。彼は一言も発さない。だが、紫の瞳は静かに、鋭く状況を見据えている。
「……心当たりは……ありません」
声がかすかに震えた。
『分かりました。本日は以上です』
通話はそれだけで切れた。部屋に沈黙が落ちる。スマートフォンを握ったまま、メリッサは立ち尽くしていた。背中に冷たいものが伝う。
「……メリッサ」
シオンが低く名を呼ぶ。
「今の話、最初から話してもらおう」
その声には、もはや問いではなく、決意が宿っていた。
「そなた一人の問題ではない。これは――明確な政治的干渉だ」
メリッサは、唇を震わせながらようやく口を開いた。
「……あたし……何もしてないのに……」
その言葉は、か細く、しかし紛れもない真実だった。シオンは一歩近づき、ためらいなくメリッサの前に立つ。その存在が、崩れかけた世界を支えるように。
「安心してくれ」
静かで、揺るぎない声。
「そなたの未来を、奪わせはしない。――私が、必ず守る」
その言葉に、張り詰めていたものが限界を迎え、メリッサの視界が、滲んだ。
エルダニアは、確実に踏み込んできていた。
だが同時に、聖域もまた、黙して見過ごすつもりはなかった。
ここから先は、個人の運命ではなく、力と力のせめぎ合いになる。そして、その中心にメリッサは立たされてしまったのだった。
白い石造りの門柱。
規律正しく持ち場に立つ衛兵。
外界と聖域を隔てる、あの独特の張り詰めた空気。
行く手を阻むように、衛兵の一人が一歩前に出る。
「身分証明書と通行許可証を」
メリッサは慣れた様子で、小さく頷いた。
「はい」
いつものやり取りだ。
部外者の彼女は、もう何度もこの門を通っていて、衛兵ともすっかり顔なじみだ。そのせいで、手続きはほとんど形式的なものだった。
問題は――隣にいる人物だった。
「……そっちの男もだ。身分証明書と通行許可証を見せよ」
衛兵の視線は、明らかに訝しんでいる。それも無理はない。オーバーサイズのストリート系の服。耳元や指に光るアクセサリー。太めのネックレス。サングラス越しの視線は読めず、髪は無造作に立っている。しかも、スーツケースを持っている。
聖域でこの格好は、異物でしかない。
――誰だ、こいつ。
そんな無言の疑念が、空気に滲んでいた。
シオンは何も言わず、ポケットから一枚のカードを取り出した。動きは静かで無駄がない。
差し出されたIDカードを、衛兵が受け取る。
次の瞬間。
「……っ!?」
衛兵の表情が凍りついた。視線がカードと男の顔を、何度も往復する。隣の衛兵も覗き込み――同じように息を呑んだ。
「きょ……っ」
声が裏返りかけ、慌てて咳払いをする。
「きょ、教皇猊下……!?」
数秒の沈黙。次いで、堰を切ったような動揺が広がった。
「し、失礼いたしました!!」
「確認不足で……!」
「その……お召し物が……!」
ほとんどパニック状態だった。
サングラスの奥で、シオンは静かに目を閉じる。
「問題ない」
淡々とした一言が、かえって場を引き締めた。
メリッサは、必死に口元を引き締めていた。笑ってはいけない。絶対に。
(……変装、成功しすぎでしょ……)
教皇だと分かった途端、衛兵たちはぴしっと音がするほど姿勢を正し、直立不動になる。
「ご、ご通行ください!」
「どうぞ……っ!」
門が慌ただしく開かれる。
通り抜け際、メリッサは小声で囁いた。
「ね、シオン様」
「何だ」
「さっき、完全に“誰これ?”って顔されてたよ」
一瞬、間があった。
「……それは、成功と受け取ってよいのだな」
「うん。大成功」
くすり、と笑いが漏れる。
背後では、衛兵たちが未だ信じられないものを見るような顔で、遠ざかる二人の背中を見送っていた。
聖域の門は、再び静かに閉じられる。
変装は、どうやら想像以上に上手くいっていたらしい。
エルダニア王国・王都中枢。
厚い石壁に囲まれた庁舎の一室で、沈黙を破るように警告音が鳴った。
「――来たか」
端末に表示されたのは、出国管理局と国家秘密警察を横断する赤色の通知。
件名は簡潔だった。
《要注意人物関連・不審移動検知》
画面を覗き込んだ男は、深く息を吸う。
「対象は……シオン。聖域教皇を名乗る人物。加えて、ギリシャ人留学生メリッサ・ドラコペトラ」
室内の空気が、一段冷える。
「入国記録は?」
「ありません。正規ルートでの出入国履歴、ゼロ。にもかかわらず、王都内で複数の目撃情報。……明らかに不法入国です」
「やはりな」
男は椅子に深く腰掛け、指を組んだ。
「聖域関係者は、王国にとって宗教勢力である以前に超法規的存在だ。特に教皇シオンは、危険度Aランク。接触した時点で、民間人も共犯扱いになる」
「では――」
「国家秘密警察を動かせ」
即断だった。
「罪状は二つ。不法入国者の匿い、および国家安全を脅かす人物への協力。留学生といえど、例外はない」
別の職員が一瞬だけ逡巡する。
「……彼女は、学生です。公的には、何の問題もない――」
「公的には、な」
男は冷ややかに言い切った。
「だからこそ危険なのだ。要注意人物が婚約者を名乗った。それが虚偽であれ真実であれ、関係性がある時点で、切り離せなくなる」
指示が飛ぶ。
「寮の防犯記録を押さえろ。出入りのログ、通信履歴、全てだ。可能なら、身柄を確保する。……聖域へ戻る前にな」
壁の時計が、低く時を刻む。
その頃、聖域の二人は知らない。自分たちの行動が、すでに事件として処理され始めていることを。
国家秘密警察――
それは、表に名を出さず、裏で王国の秩序を守る存在だ。彼らは、感情を挟まない。善悪も、個人の事情も考慮しない。ただ一つ。“国家にとって不都合か否か”その基準だけで動く。そして今、メリッサ・ドラコペトラは、“聖域教皇を手引きした可能性のある協力者”として、静かに照準に収められていた。
国家秘密警察・分析室。
壁一面に並ぶモニターには、王都全域の時系列映像が分割表示されていた。
「――整理しろ」
低い声が響く。
「教皇専用機は、正規の航路でエルダニア国際空港へ着陸している。入国は拒否。降機も許可されず、機体はそのまま離陸。この時点では、完全に水際で防いだという扱いだ」
「はい」
「だが、その後だ」
映像が切り替わる。
王都中心部。王立大学近くの、学生や教職員が行き交うカフェ。
「教皇シオンは、ここに“突然”現れている。移動経路なし。監視カメラの空白を縫った形跡もない」
「不正侵入、映像改竄の可能性は?」
「否定されました。ログは完全。逆に言えば――」
分析官が言葉を選ぶ。
「――最初から、この場所に出現したとしか説明できません」
室内に、重い沈黙が落ちる。
「滞在時間、約五十八分。注文履歴、店員の証言あり。その後、王立大学正門へ移動」
次の映像。
金髪の青年と、メリッサ・ドラコペトラが合流する場面。
「大学の時間割と照合。彼女の講義終了時刻と完全に一致します」
「計画的だな」
「はい。さらに――」
留学生寮の映像が映し出される。
「入館手続きは正規。来館者名簿、記入済み。職員の証言も一致しています」
画面の端に、申請書のデータが拡大表示される。
〈関係:婚約者〉
「……大胆な」
「虚偽申告の可能性は高いですが、その場では誰も疑義を挟んでいません」
「そして?」
「退館手続きを行い、スーツケースを持った二人が建物を出た――その直後です」
映像が止まる。そこから先は空白だった。
「――消えたのか?」
「はい、忽然と。建物周辺、半径三百メートルの全カメラを逆リレーしましたが、二人の姿は一切映っていません」
「車両は?」
「該当なし。公共交通機関の利用履歴もありません」
上官は、ゆっくりと息を吐いた。
「時刻は?」
「メリッサ・ドラコペトラが、ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンと通話を終えた直後です。時間的矛盾はありません」
つまり。
「通話をきっかけに、行動を切り替えた」
「はい」
「――いや」
男は、指で机を叩いた。
「最初からだ。専用機は囮。空港で我々の目を引きつけ、その裏で王都に侵入した」
「ですが、その方法が……」
「分からない、というのが問題だ」
静かだが、確信を帯びた声。
「未知の移動手段。国家の監視網を無力化する能力。そして、民間人を巻き込む判断力」
男は立ち上がった。
「やはり、要注意人物リストの評価は甘かった。危険度を引き上げろ」
「メリッサ・ドラコペトラは?」
「共犯、もしくは利用された協力者。どちらにせよ――」
冷たい結論が下される。
「拘束対象だ」
分析室の照明が、わずかに明滅する。
エルダニア王国は理解した。聖域教皇シオンは、常識の外側で動く存在だということを。そして同時に、彼を逃した代償を、“最も捕らえやすい存在”に求めることを。
嵐は、まだ終わらない。
消えた二人を、どう探すのか。
国家秘密警察の捜索班は、まず最も確実と思われる場所を洗った。まずは、王立大学構内。だが、結論は早かった。
「メリッサ・ドラコペトラは、現在、学内にいません」
位置情報、学生証の入退館ログ、講義出席履歴。すべてが、彼女が寮を出た時点で途切れている。
次に行われたのは、聞き取りだった。薬学部生を中心に、留学生も対象だ。
「彼女、自分から話しかけること、ほとんどありませんでしたよ」
「いつも一人でしたね。仲良かった人なんて……いないんじゃないですかね」
「挨拶くらいはしますけど、それ以上は……」
返ってくるのは、似たような証言ばかりだった。
誰とも深く関わらず、講義を受け、実習をこなし黙々と帰る。成績は可もなく不可もなく。目立つ発言も、問題行動もない。
「……孤立していた、と?」
「はい。少なくとも、学内に“彼女のために嘘をつく人間”はいません」
分析官が静かに言う。
「協力者がいるとすれば、大学の外、あるいは――」
「――そもそも、この国にいない、か」
上官が言葉を継いだ。
メリッサ・ドラコペトラという存在は、エルダニア王国において、あまりにも薄かった。
留学生でありながら、社会的な繋がりを持たず、守るべき人間関係がない。
それは、本来なら、拘束しやすい、扱いやすい存在であるはずだった。
だが今は逆だ。
「足取りは、完全に途切れています」
捜索班の報告が、室内に落ちる。車両、公共交通、通信履歴、金融記録に至るまでどこにも痕跡がない。
まるで、この国に、最初から存在しなかったかのように。
上官は、ゆっくりと拳を握った。
「……教皇シオンは、彼女を連れ帰ったのではない。連れ去ったのだ。この国の、あらゆる制度の外へ」
誰かが、息を呑む音を立てた。
「捜索は?」
「――続ける」
だが、その言葉には、先ほどまでの確信はなかった。
見えないものは、追えない。記録に残らないものは、捕まえられない。
エルダニア王国は初めて理解し始めていた。これは、不法入国者と留学生の逃走事件ではない。国家の監視と法の限界を、意図的に踏み越えられた事案だということを。そして、その中心にいたのは、常に無言で、目立たず、誰の記憶にも深く残らなかった一人の学生だった。
メリッサ・ドラコペトラ。
彼女を見失った瞬間、この国は、主導権を失っていた。
「ギリシャ政府へ極秘捜査の協力を依頼しろ」
短く、しかし決定的な命令だった。
この段階で、事件はすでに国内事案の枠を完全に逸脱している。国家の威信、主権、そして“触れてはならない領域”との境界線。それらすべてを踏み越える覚悟の上での指示だった。だが、返答はあまりにも簡潔だった。
「聖域は治外法権である」
それ以上でも、それ以下でもない。補足も、含みも、交渉の余地もない。ギリシャ政府は、ただ事実を告げただけだった。
「……協力は、得られないということか」
誰かが呟く。
その声には、怒りよりも先に、理解が滲んでいた。
外交圧力をかける。
その選択肢は、机上に浮かんだ瞬間に、同時に消えた。もしこれ以上踏み込めば、エルダニアは“不当な干渉を行った国家”として表の世界で糾弾される。しかも相手はギリシャ政府ではない。その背後にあるのは、神話と歴史の向こう側に存在する聖域だ。
「……最悪の筋だな」
低く吐き出される声。
聖域が保護対象国家からエルダニアを除外した。
その事実が公になればどうなるか。
表向きは穏健で、理性的で、近代国家として振る舞ってきたエルダニアは、一夜にして評価を反転させられる。
国際社会からの信用失墜。
外交・経済への連鎖的影響。
そして何より、聖域に見放された国という烙印。それは、ならず者国家の烙印を押されるのと、ほとんど同義だった。
「……教皇シオンを追うこと自体が、詰みだったというわけか」
沈黙が落ちる。
不法入国。
留学生への接触。
そして、忽然と消えた二人。
確かに、記録は揃っている。論理的に追えば、疑わしい点はいくらでもある。だが、追えない。
法が届かない場所へ、人は、国家は、手を伸ばせない。
教皇シオンは、最初からそれを理解した上で動いていた。
専用機を囮にし、正規の手続きを踏み、あえて防犯カメラに姿を晒し、それでもなお、消えた。これは逃走ではない。
宣告だ。
エルダニアは、何もできない。そう突きつけられたに等しい。
会議室に漂う空気は、重く、冷たく、そして決定的に行き止まりだった。
メリッサ・ドラコペトラの身柄は、すでに国家の手の届かない場所にある。それを理解した瞬間、エルダニア王国は、この事件において完全に後手に回ったことを悟るのだった。
アンドレアス国王は、報告書を一枚ずつ、確かめるように読み終えた。どの文書にも、どの映像にも、決定的な違法性はない。
それが、何よりも腹立たしかった。
「……見事だな」
誰に向けた言葉でもない。
教皇シオンへか、聖域へか、それとも自らの読みの甘さへか。国王自身にも分からなかった。
深追いはできない。いや、してはならない。これ以上聖域と正面から衝突すれば、エルダニアが失うものは、あまりにも大きい。ここまで来ては、シオンとメリッサを追うという選択肢を切り捨てるほかなかった。
「完全に……やられたな」
机に組んだ指先が、わずかに白くなる。表情は平静を保っているが、その沈黙の奥で、国王の自尊心は深く傷ついていた。
教皇専用機は囮。
入国拒否の判断すら、利用された。
防犯網も、行政手続きも、すべて“正しく”踏み抜かれた上で、結果だけを奪われた。
これは敗北ではない。侮辱だ。
「――引き下がる、とは言っていない」
側近たちが、息を詰める。
「表で動けば、こちらが不利になる。ならば……盤を変えるまでだ」
アンドレアス国王は、静かに立ち上がった。
「聖域には手を出さん。教皇にも、直接は触れん。だが――」
視線が別の報告書へ落ちる。
「メリッサ・ドラコペトラ。あの娘は違う」
エルダニア王国の大学に在籍し、王国の制度の庇護下にあった存在。
「彼女が自発的に帰国したという記録は、まだ存在していないな?」
「……はい。現在のところ、正式な出国手続きは未了です」
「ならば、作れ」
即座の命令だった。
「留学制度の再点検を名目に、メリッサ・ドラコペトラの在籍記録を精査しろ。語学要件、成績基準、保証人、滞在目的……一つ残らずだ」
側近が察する。
「不備が……見つかった場合は?」
「制度上の瑕疵だ。政治ではない。外交でもない。単なる――行政の問題だ」
国王の声は、あくまで穏やかだった。
「それから」
一拍、間を置く。
「ヴァルトフェルト村の件。あれは、まだ未解決だ」
「……」
「民衆は忘れやすいが、恐怖は忘れない。真相が闇にあるほど、人は噂に縋る」
アンドレアス国王は、窓の外に広がる王都の整然とした街並みを見下ろした。
「教皇シオンが連れ去ったのではない。彼が“何かを隠した”のだと、そう思わせる程度でいい」
直接は触れないが、無傷では帰さない。
それが、王としての、そして一国としての、次の一手だった。
「聖域は神の領域だ。だが、人の世界で生きる者は人の法と、噂と、疑念からは逃げられぬ」
聖域へ戻って二日目の午後だった。
教皇宮の中庭を渡る風は穏やかで、白い石畳に落ちる影も柔らかい。一見すれば、何事もなかったかのような日常だ。だからこそ、胸ポケットで震えたスマートフォンの振動が、ひどく不穏に感じられた。
画面に表示された発信元を見て、メリッサは一瞬、指を止める。
アテネ国立大学。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
深呼吸をひとつして、通話ボタンを押す。
「……はい、メリッサ・ドラコペトラです」
『突然のご連絡、失礼します。アテネ国立大学・国際交流課の〇〇です』
事務的で、丁寧で、感情の温度が一切感じられない声。こういう声は、良い知らせを運んではこない。
『エルダニア王立大学より、あなたの留学資格を剥奪したとの正式な通達が届きました』
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
『本学としても、事前に何の連絡も受けておらず、困惑しております。そこで、あなたご本人から事情を伺いたく、ご連絡を差し上げました』
視界が、わずかに揺れる。
留学資格の剥奪。
その言葉が、ゆっくりと現実味を帯びて胸に落ちてくる。
「え、えと……」
言葉が、うまく出ない。
「……諸般の事情で、ですね……」
自分でも驚くほど、曖昧で頼りない言葉だった。電話の向こうで、相手が一拍置くのが分かる。
『ですから、その諸般の事情というのを、具体的に教えてください』
逃げ道を塞ぐような、静かな問い。
責める口調ではない。だが、逃げも許さない。
「……」
喉がからからに渇く。
何を言えばいいのだろう。
魔界だの、空間の綻びだの、国家が隠した事件だの――そんなことを言えるはずがない。言えない。言えば、今度は自分が問題の中心に据えられる。
「……向こうの大学からは、具体的な理由は……?」
必死に情報を引き出そうとする。
『「留学目的の喪失」「出席状況の不備」「学内規律上の問題」おおむね、そのような理由が並んでいます』
淡々と読み上げられる理由は、どれも否定しきれない形をしていた。
確かに、授業は欠席した。突然姿を消した。説明もなく帰国した。
「……そんな……」
でも、自分は何も悪いことをしていない。
守ろうとしただけだ。
知らせようとしただけだ。
それなのにこんな事になるなんて。
『本学としても、このままではあなたの履修・単位・今後の進路に重大な影響が出ます』
その言葉で、ようやく理解する。これは、もう一つの追撃なのだと。
エルダニアは、直接手を出さない。代わりに、未来を崩してくる。
『ですから、できる限り早く、事情の説明を――』
「……少し、時間をください」
メリッサは、思わずそう口にしていた。
『もちろんです。ただし、あまり猶予はありません』
通話が切れたあと、しばらくその場から動けなかった。
――規律違反による留学資格剥奪。
その言葉が、胸の中で静かに、しかし確実に形を成していく。
「……どうしよう……」
誰にともなく零れた声は、白い石に吸い込まれて消えた。
助けを求めたい。
でも、誰に?
ふと、シオンの顔が脳裏をよぎる。
心配かけたくない。でも、もう一人では抱えきれない。
メリッサは、ぎゅっとスマートフォンを握りしめた。
本当の意味での戦いは、どうやら――ここから始まるらしかった。
どうすべきか分からないまま、その日はゆっくりと、しかし容赦なく過ぎていった。与えられた客間は、必要なものが過不足なく整えられた、静かな部屋だった。
机の上に教科書を広げ、ページをめくる。活字を追っているはずなのに、意味はまるで結ばれない。文字はただの記号に戻り、頭の中を素通りしていく。
集中しなきゃ。
自分に言い聞かせても、心はどこか遠くに引きずられたままだ。
留学資格剥奪。
思考の隙間に、その言葉が何度も浮かんでは沈む。気付けば、同じページを何度もめくっていた。
無理だ。集中できない。
閉じた教科書を膝の上に置いたまま、メリッサは天井を見上げた。
白い石の天井は、何も答えてはくれない。
やがて、廊下に足音が響いた。聞き慣れた、落ち着いた歩調。控えめなノック。
「メリッサ」
扉越しに呼ばれた声で、胸がぎくりと跳ねた。
「……入ってもよいか」
「う、うん……」
扉が開き、シオンが静かに部屋へ入ってくる。その存在だけで、張り詰めていた空気がわずかに揺らぐ。
「夕食の時間だ。……変わりはないか?」
穏やかな問い。
気遣いを含んだ声。
「あ……うん……」
咄嗟に、そう答えてしまった。自分でも分かるほど、歯切れが悪い。
シオンはすぐに追及しなかった。数歩、部屋の中へ進み、メリッサの手元――閉じられた教科書に目を落とす。
「……そなたは、隠し事が下手だな」
責めるでも笑うでもない声。
「え……?」
思わず顔を上げる。
「表情も、声も、視線も。いつもと違う」
彼はメリッサの前に立ち、視線の高さを合わせるよう、少しだけ身を屈めた。
「何があったのだ」
優しくて逃げ場のない問いだった。だが、曖昧さを許さない強さがあった。
メリッサは、口を開きかけて――閉じた。
言えば、きっと心配させる。
言えば、きっとシオンは動く。
それが、どれほどの重さを伴うかも分かっている。けれど、黙っていれば、何も変わらない。
「……」
喉が、きゅっと締めつけられる。
シオンは急かさず、ただ、答えを待つ。その沈黙が、かえって重い。メリッサは膝の上で、指先をぎゅっと絡めた。話すべきか、もう少し伏せておくべきか。判断がつかないまま、時間だけが静かに流れていく。
夕刻の光が、窓から差し込み、二人の影を床に落としていた。その影は寄り添っているのに、言葉だけが、まだ届かない。
メリッサは、唇を噛みしめたまま、沈黙するしかなかった。
長い沈黙のあと、ようやく重たい口を開いた。
「………あのね、アテネの大学から電話があって……あたし……」
そこまで言いかけた瞬間、机の上に置いていたスマートフォンが、鋭く震えた。画面に表示された発信元を見て、メリッサの息が止まる。
――アテネ国立大学。
ついさっき、通話を終えたばかりの相手だった。
「……出なさい」
シオンの声は低く、落ち着いていた。
逃げることも、誤魔化すことも許さない、だが背を押す声音。
メリッサは一度だけ唾を飲み込み、通話ボタンを押した。スピーカーをオンにする。
「は、はい……メリッサ・ドラコペトラです」
『こちら、アテネ国立大学・国際交流課です』
今度は慎重で硬い口調だ。嫌な予感がする。
『先ほどの件に関連して、追加で確認しなければならない情報が入りました』
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
『エルダニア王国ヴァルトフェルト村における集団失踪事件について、ドラコペトラさん、あなたが重要参考人として名前が挙がっているとの連絡が、外務省経由で入りました』
重要参考人。
その言葉が、現実味を伴って耳に落ちる。
『現在、事実関係を確認中ですが、あなたの処遇については、大学としても慎重な判断を迫られています』
メリッサは言葉を失った。頭の中が真っ白になり、返事が遅れる。
「……あ、あの……それは……」
『詳細は、あらためて正式な書面でお伝えします。本日は事実確認のための連絡です』
淡々とした説明。
感情は一切含まれていない。
だが、その無機質さが、かえって重い。
『何か心当たりがあれば、正確に教えてください』
メリッサは、思わずシオンを見た。彼は一言も発さない。だが、紫の瞳は静かに、鋭く状況を見据えている。
「……心当たりは……ありません」
声がかすかに震えた。
『分かりました。本日は以上です』
通話はそれだけで切れた。部屋に沈黙が落ちる。スマートフォンを握ったまま、メリッサは立ち尽くしていた。背中に冷たいものが伝う。
「……メリッサ」
シオンが低く名を呼ぶ。
「今の話、最初から話してもらおう」
その声には、もはや問いではなく、決意が宿っていた。
「そなた一人の問題ではない。これは――明確な政治的干渉だ」
メリッサは、唇を震わせながらようやく口を開いた。
「……あたし……何もしてないのに……」
その言葉は、か細く、しかし紛れもない真実だった。シオンは一歩近づき、ためらいなくメリッサの前に立つ。その存在が、崩れかけた世界を支えるように。
「安心してくれ」
静かで、揺るぎない声。
「そなたの未来を、奪わせはしない。――私が、必ず守る」
その言葉に、張り詰めていたものが限界を迎え、メリッサの視界が、滲んだ。
エルダニアは、確実に踏み込んできていた。
だが同時に、聖域もまた、黙して見過ごすつもりはなかった。
ここから先は、個人の運命ではなく、力と力のせめぎ合いになる。そして、その中心にメリッサは立たされてしまったのだった。
