Eine Kleine Ⅳ

 メリッサが住んでいる留学生寮は、大学付属施設という言葉から想像するものとはかけ離れていた。
 石材とガラスを基調にした外観は、むしろ高級マンションに近い。過度な装飾はないが、随所に余裕があり、管理が行き届いていることが一目で分かる。
(……なるほどな)
 王都の街並みと同じだ。誇示はしないが、隠しもしない。ここを見るだけでも、エルダニアがいかに経済的発展を遂げているかが伝わってくる。
「こっち来て。フロントで手続きするんだよ」
 メリッサに促され、シオンはロビーに足を踏み入れた。
 明るく開放的な空間で、警備員と受付が常駐している。視線は厳しいが、排他的ではない。
 差し出された申請書に目を落とす。
 名前、住所、電話番号――そして。
「……学生本人との関係、か」
「シオン様、苗字ってどうなってるの?」
 何気ない問いかけ。だが、その軽さに反して、彼女の視線はどこか緊張を含んでいた。
「戸籍はギリシャ政府が作ってくれている。公式のフルネームはこれだ」
 ポケットから取り出した政府発行の身分証明書を、彼女にだけ見えるように差し出す。
「へぇ……」
 メリッサは一瞬、目を丸くしてから、じっと細部まで確認した。
「あ、生まれ年もちゃんとあたしと一緒だ。えへへ……なんか嬉しいね」
 胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「正式な結婚もできるぞ」
 ごく自然に言ったつもりだった。
 だが。
「けっ……!?」
 メリッサの動きが止まり、次の瞬間、視線が泳ぐ。
「安心したか?」
「い、い、い、いや……まぁ……うん……」
 否定になりきらない返事。
 頬がわずかに赤い。
 シオンは何も言わず、ペンを取った。
 そして、学生本人との関係――その欄に、迷いなく書き入れる。
〈婚約者〉
 ペン先が紙を離れた瞬間、メリッサが息を詰めたのが分かった。
「……ちょ、ちょっと……」
「虚偽ではない」
 低く、静かな声。
「将来の話だ」
 受付に提出される書類。そこに書かれた文字は、単なる便宜以上の重さを持っていた。
 メリッサは何か言いかけて、結局言葉を飲み込み、視線を伏せる。
「……ずるい」
 小さな呟き。
 それが抗議なのか、照れ隠しなのか、シオンには分からなかった。だが、彼女が否定しなかったことだけは、確かだった。
 シオンは、それが嬉しかった。
 受付の女性は申請書に視線を落とし、必要事項を一つひとつ確認していく。
 やがて顔を上げ、ほんの一瞬だけシオンを見た。その視線は職業的で、余計な感情を含まない。
「はい、受け付けました。帰る時は退館手続きが必要ですから、お立ち寄りくださいね」
 事務的な声音。
 来館者用のプレートが差し出される。
「ありがとうございます」
 シオンはそれを受け取り、首から下げた。
 この小さな札一枚で、今は、ただの訪問者になる。その事実が、どこか皮肉めいていた。
 エレベーターを使い、居住フロアへ向かう。
 廊下は静かで、生活音が丁寧に抑えられている。留学生寮というより、短期滞在用の高級レジデンスに近い。
「ここ」
 メリッサが立ち止まり、ドアを開けた。
「どうぞ。ドアは開けとかないといけないんだけど……死角はあるから」
 言いながら、室内の奥を指差す。
 確かに、玄関からは見えにくい位置がある。規則を守りながら、最低限の私的空間を確保するための、彼女なりの工夫なのだろう。
 部屋は整理されていた。
 華美ではないが、必要なものはきちんと揃っている。机の上には専門書が積まれ、ノートには細かな書き込みがびっしりと並んでいた。
(……ここで、戦っているのだな)
 シオンは胸の奥でそう呟いた。
 その時だった。静かな室内に電子音が響いた。メリッサのスマートフォンだ。
「あ……」
 画面を見た彼女の指が、わずかに止まる。
「来た……」
 表示された名前。
《ルーカス・ヴァン・デル・アーヘン》
 外交官。
 エルダニア政府の人間。
 メリッサは一度、シオンを見上げた。
 不安と迷いが入り混じった瞳。それでも、逃げはしないという決意が、奥にある。
「……出てもいい?」
「ああ。だが、無理はするな」
 頷き、彼女は通話ボタンを押した。
「もしもし……アーヘンさん?」
 声は努めて平静を装っているが、ほんのわずかな震えを、シオンは聞き逃さなかった。
 シオンは来館者用プレートに触れながら、ただ黙って、メリッサの背中を見守っていた。
 一瞬の沈黙のあと、メリッサは意を決したように口を開いた。
「アーヘンさん、あたし……ギリシャに帰ろうかと思っています」
 受話口の向こうで、呼吸が一拍置かれる気配がした。
『理由を伺います』
 淡々とした声。外交官らしい、感情を削ぎ落とした問いかけだった。
「えっと……」
 言葉を探す指先が小さく震えている。
 頭では分かっているのに、どこから説明すべきか整理がつかない。その逡巡が、彼女の沈黙となって表れた。
 その手から、すっとスマートフォンが離れた。
「シオン様……」
 メリッサが小さく名を呼ぶより先に、シオンは端末を耳に当てる。
「私が代わりに説明をしよう」
 低く静かな声には、有無を言わせぬ落ち着きがあった。
『……失礼ですが、あなたは?』
「聖域教皇、シオンだ」
 返事は、すぐには返ってこなかった。
 代わりに聞こえたのは、明確な――息を呑む音。
 通話口の向こうが沈黙した。
 それは、言葉を失ったというより、現実を受け止めるための時間だった。
『……聖域、教皇……?』
 低く、慎重に確認するような声。
 外交官としての理性が、即座に動揺を覆い隠そうとしている。
「そうだ」
 簡潔に、だが退路を与えない声音。
 名を名乗るという行為そのものが、政治的宣言に等しかった。
 受話器の向こうで、はっきりと息を呑む気配が伝わってくる。紙を擦る音、椅子がわずかに軋む音。咄嗟に姿勢を正したのだろう。
『……なぜ、その……教皇猊下が』
「理由は後ほど説明する。今は時間がない」
 感情を挟まず、事実だけを積み上げる。
 それが、この男と対話するための唯一の道だと、シオンは理解していた。
「まず確認したい。エルダニア政府は、ヴァルトフェルト村の件を集団失踪として処理し、追加調査を行わない方針だな」
『……現時点では、その扱いです』
 一拍の逡巡。
 否定できない、というより、否定する権限がない声だった。
「生存者が五名。全員が深刻な精神障害を発症している。それでもか?」
『……公式には、証拠能力が認められていません』
 外交官の言葉だ。
 人の生死ではなく、文書と前例で世界を測る声。
 メリッサが唇を噛み締める。
 シオンはその気配を背で感じ取りながら、続けた。
「では、こうしよう。メリッサ・ドラコペトラは一時的にギリシャへ戻る。留学の中断は、私の責任で手配する」
『それは……』
「彼女の安全確保のためだ。エルダニア国内に留め置く理由は、もはや無いはずだ」
 静かだが、断定的だった。
 これは要請ではない。選択肢の提示ですらない。
 受話器の向こうで、ルーカスが短く息を吐く。
『……教皇猊下。これは、極めて重大な発言です』
「承知している」
『エルダニアは現在、聖域との関係を公式に——』
「断絶している、だろ?」
 言葉を遮る。
「だからこそ、私はここにいる」
 沈黙が落ちる。
 数秒。だが、体感ではそれ以上に長い。
 メリッサは、シオンの服の裾をぎゅっと掴んでいた。不安と信頼がない交ぜになった、子どものような仕草。
 やがて、通話口から低い声が返ってきた。
『……少し、時間をください』
「五分だ」
『……』
「それ以上は待てぬ」
 通話が一度、切れる。静寂が部屋に戻った。
 メリッサは息を止めていたのか、はっとしたように呼吸を再開した。
「……シオン様……」
「大丈夫だ」
 短く、しかし確信を込めて。
「そなたは、もう一人ではない」
 開け放たれたドアの向こうで、廊下の空調が低く唸っている。その音だけが、時間が進んでいることを知らせていた。
 メリッサはスマートフォンを両手で握りしめたまま、黙り込んでいた。画面はすでに暗転しているのに、指先だけが微かに震えている。
「……ごめんなさい。あたし、軽率だった」
 ぽつりと零れた声は、謝罪というより自責に近い。
「謝る必要はない」
 シオンは即座に言った。だが、声の奥に、わずかな緊張が混じっていることを、メリッサは感じ取ってしまった。
 静かな部屋。
 ドアは規則通り開け放たれている。廊下からは、遠く学生たちの足音や、生活音が微かに届いてくる。ここが安全で、日常の只中にある場所だという事実が、かえって現実感を鈍らせた。

 ——賭けだ。

 シオンは、己の内でそう認めていた。
 婚約者という言葉は、真実ではない。
 だが虚偽とも言い切れない、限りなく真実に近い宣言だ。
 国家に対して通用するのは、感情ではない。通用するのは、肩書きと法理と、矛盾の指摘だけだ。
 そのときだった。メリッサのスマートフォンが、再び震えた。
 一度。間を置いて、もう一度。
 画面には、見慣れない番号が表示されている。
「……来た」
 喉が、ひくりと鳴る。
「出るか?」
 シオンの問いに、メリッサは小さく頷いた。スピーカーに切り替える指が、わずかにもたつく。
「はい、メリッサ・ドラコペトラです」
『突然の連絡、失礼する』
 低く、感情を削ぎ落とした声が聞こえた。名乗りはなかった。だが、それで十分だった。
『私は、先ほどの件であなたと通話していたルーカス・ヴァン・デル・アーヘンの上役だ』
 “上役”。
 その言葉だけで、空気が変わる。
『結論から言おう。あなたの出国は認められない』
 間髪入れずに告げられた断定。反論の余地を与えない、官僚の声だった。
「……理由を、伺っても?」
『あなたは現在、我が国の管理下にある留学生だ。国費留学生として正規の留学許可を受け、在籍している以上、本人の一存での帰国は認められない』
「それは……」
『加えて』
 声が、わずかに硬質になる。
『聖域関係者——特に教皇シオンは、我が国の要注意人物リストに登録されている』
 メリッサの指先が、きゅっと強張る。
『その人物を名乗る者からの申し出を、我々が正式に受理することはできない。法的に問題が生じる』
 想定内だ。
 シオンは、内心でそう整理した。そして、ここからが——本番だった。
「一つ、確認させていただきたい」
 静かに、だが明確に、シオンが口を開いた。
『……あなたは?』
「先ほども申し上げた通りだ。私は聖域教皇、シオン」
 一瞬の沈黙。
『……その前提は、こちらでは認めていない』
「構わぬ。では、別の前提で話そう」
 声は低く、揺るぎがない。
「あなた方は、私を要注意人物としている。ならば——」
 そこでほんの一拍、間を置いた。
「私の婚約者もまた、同等の扱いを受けるべきではないか?」
 空気が、張り詰める。
『……何を言っている』
「既に知っているだろうが、メリッサ・ドラコペトラは、私と極めて密接な関係にある人物だ。もし本当に、私が国家安全上の懸念対象であるなら——」
 淡々と話すその一言一言が、相手の足元を掘り崩していく。
「その者に留学許可が下りていること自体、矛盾だろう」
 沈黙が長く伸びた。
『……』
「要注意人物の最も近しい人間が、なぜ審査を通過している?なぜ在留を許可されている?」
 はったりだ。だが、筋は通っている。
「もし、貴国が私を危険視しているのなら——」
 静かに、だが決定的に。
「メリッサを管理下に置くこと自体が、すでに不適切だ」
 息を呑む気配が、スピーカー越しに伝わる。
『……検討する』
 ようやく絞り出された言葉。
「検討は結構だ」
 シオンは、微笑まぬまま言った。
「だが、矛盾は消えぬ。どの選択を取ってもな」
 通話は、そこで切れた。
 長い沈黙。
 メリッサは、しばらく動けずにいた。やがて、恐る恐るシオンを見る。
「……シオン様」
「怖かったか」
「……うん。でも」
 小さく息を吸って。
「守ってくれてありがとう」
 シオンは答えない。ただ、開いたままのドアの向こうに広がる“日常”を一瞬だけ見やり、静かに告げた。
「そなたを守るのが、私の役目だ。案ずるな」
 それは約束であり、宣告だった。
「メリッサ、荷物をまとめろ。帰国するぞ」
 強引ではないが、反論を許さない声だ。
「え、今!?」
 思わず上がった声に、シオンは視線を逸らさない。
「エルダニアは、もっともらしい理由を掲げて、そなたを拘束しに来るだろう。時間の問題だ。その前にギリシャへ帰る」
 一拍置いて、言葉を続ける。
「そなたの身柄は、聖域で預かる」
 預かる、という言葉は、保護であり、責任であり、覚悟だった。
 メリッサは、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。そして、次の瞬間には小さく頷いていた。
「……分かった」
 迷いはあった。恐怖も、不安も、後ろ髪を引かれる思いも。それでも、彼の言葉を信じると決めたのだ。
 スーツケースを引き寄せ、ベッドの上に開く。手は驚くほど冷静に動いた。
 パスポート、身分証、財布。
 ノートパソコンと充電器。
 教科書と、書き込みだらけのノート。
 日常を構成していたもののうち、必要なものだけが淡々と選別されていく。
「服は置いてく」
 ぽつりと告げる。
「捨てられても構わないようなものばかりだから」
 その言葉が、どれほどの嘘を含んでいるか。
 シオンには、分かりすぎるほど分かってしまった。
 ハンガーに掛かったワンピース。
 季節ごとに選んだコート。
 休日に着ていた、少しだけ背伸びした服。
 どれも彼女らしい服だった。気に入っていないはずがない。それらを「構わない」と言い切るには、相当の覚悟が要るだろうに。
 だが、シオンはそれを指摘しなかった。
「……帰ったら」
 言葉を探すように、一瞬だけ間を置く。
「一緒に、新しい服を買いに行こう」
 それしか言えなかった。それが精一杯だった。
 メリッサの動きが止まる。
「……うん」
 振り返らずに返された声に震えや湿りはなかった。
 彼女は泣かなかった。けれど、それがかえって胸を締め付けた。この小さな部屋に積み上げられた日々を、彼女は今、自分の手で切り捨てている。
 未来のために。
 生き延びるために。
 シオンは、部屋の外に広がる廊下——留学生たちの生活音が行き交う空間を一度だけ見やり、静かに思う。
 もう二度と、こんな決断をさせはしない。
 それは祈りではなく、誓いだった。

 退館手続きは、驚くほどあっさりと終わった。
 フロントの女性は、事務的な笑顔のまま来館者プレートを受け取り、「お気をつけて」とだけ告げた。その声には、何の含みもない。
 それが却って、胸の奥に冷たいものを残す。
 エルダニアは、まだ動いていない。
 だが――動かないという選択が、いつまで続くかは分からない。
 二人は言葉を交わさず、並んで歩いた。
 寮のエントランスを抜け、午後の光が差し込む歩道へ出る。学生たちの笑い声、行き交う人々、穏やかすぎる日常。
 この国が、今まさに歪みを孕んでいるなど、誰も思っていない。
 曲がり角を二つ、意図的に選び、監視カメラの死角になる裏路地へ入る。
 シオンは足を止め、周囲の気配を確かめた。
「ここだ」
 短く告げると、メリッサの手首を取る。強くはないが、迷いのない手だった。
 次の瞬間、空間が折り畳まれる。
 視界が白く反転し、足元の感覚が消える。落下でも浮上でもない、ただ移される感覚。この感覚が、メリッサはまだ慣れない。
 
 冷たい風が頬を打った。
 岩肌と乾いた大地。遠くに連なる山影。
 空気の密度が、はっきりと違う。
 聖域の結界のすぐ外縁。人の世と、神話の領域を分かつ不可視の境界線の手前だった。
「……着いた?」
 メリッサが、わずかに息を整えながら呟く。
「ああ。ここから先は、聖域だ」
 結界は見えないが、確かに在ると、肌が理解していた。
 空気が澄み、音が遠ざかり、世界そのものが一段、静かになる。
 メリッサは振り返り、来た方向――すでに存在しないエルダニアの街を思い出すように、一瞬だけ目を伏せた。
 友達を作れなかった日々。
 言葉が通じず、孤独に耐えた講義室。
 そして、ヴァルトフェルト村。
 置いてきたものは、少なくない。
 シオンが、彼女の肩にそっと手を置いた。
「よく来たな」
 それは労いであり、迎え入れの言葉だった。
 メリッサは小さく息を吐き、顔を上げる。
「……ただいま?」
「うむ」
 結界の向こうに広がる聖域を見据え、シオンは静かに告げた。
「ここから先は、私の責任だ」
 もう、彼女を一人にはしない。政治も、神々の事情も、世界の歪みも——すべて、その身で引き受ける。
 結界が、音もなく二人を受け入れた。

 結界を越えた、その一歩目だった。空気が完全に変わる。人の世の雑音が、嘘のように遠ざかり、代わりに静謐が満ちてくる。
 聖域――戻ってきた、という感覚が、遅れて胸に落ちた。
 メリッサが、ほっとしたように肩の力を抜いたその瞬間、シオンは彼女の手首を引き、身体ごと引き寄せた。
「……っ」
 驚いて見上げた唇が、言葉を作るより早く塞がれる。今度は、サングラスが当たらないように外されていた。
 シオンに迷いはなかった。躊躇も、理性の制止もない。深くも激しくもない、けれど確かに戻ったことを刻むような口づけだった。
 無事でいたことへの安堵と、連れ帰れたという安らぎと、抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出た。
 メリッサは一瞬目を見開き、それからそっと瞼を閉じた。指先が、シオンの服をきゅっと掴む。
 ほんの数秒が、二人にとっては十分すぎるほどの時間だった。
 唇が離れると、メリッサの息が少し乱れている。
「……いきなりすぎ」
「すまぬ」
 そう言いながら、シオンの声は低く、柔らかい。
「だが――確認したかった」
「何を?」
「そなたが、確かにここにいることを」
 本気の声色だった。
 メリッサは一拍置いて、くすりと笑った。
「……大丈夫。逃げないよ」
「逃がさぬ」
 短く、それでいて力強いひと言だった。
 彼女の額に、自分の額を軽く触れさせる。
 世界はまだ不安定で、問題は山ほど残っている。だが、少なくとも今この瞬間、メリッサは守り切った。
 それだけで、シオンには十分だった。
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