Eine Kleine Ⅳ

《正門で待ってるね》
 短い一文。
 それだけのはずなのに、その文字列は、瞬く間に“音”を帯びた。脳内で、あの声に変換される。少し高くて、柔らかくて、透明度が高く、けれど無理に明るさを装う時の、あの調子。

 ――普通のことだろうか。

 自問して、すぐに答えを出す。
 きっと普通だ。
 好きな人の文章を、好きな人の声で思い浮かべてしまうのは。
 そうであってほしい、とも思う。
 スマートフォンをしまい、顔を上げる。
 王立大学へ向かう足取りは、意識しなくても速くなった。走るのはやめよう、と自分に言い聞かせながら、それでも歩幅は大きい。
 門が見えてくる。石造りの、重厚な正門。
 王国の歴史は浅いが、ここが国内最高学府であることを、建築そのものが語っている。積み上げられた石は、年月よりも意志の重さを感じさせた。
 門柱の脇に、彼女はいた。
 寄り添うようにでも、隠れるようにでもない。所在なげ、という言葉が一番近い。
 周囲の学生たちの流れから、わずかに取り残された位置。
 その姿に胸の奥が、静かに痛む。
 不安と孤独を抱えたまま、ここまで過ごしてきたのだろう。講義を受け、街を歩き、誰にも話せないことを飲み込みながら。
 それが、姿に出ている。
 少し、痩せた。
 頬の線が以前よりも細く、顎のラインがくっきり出ている。
 姿勢も内側に縮こまり、猫背気味になっている。
(……私は、何をさせていた)
 遠目から見ているだけで、胸が痛む。今すぐ抱き寄せたい衝動を抑え、歩みを緩めずに近づく。
 だが。
 彼女の視線が、こちらをかすめた瞬間、わずかに警戒の色が走った。
 自分を見ていない。
 いや――“知らない男”として見ている。
 濃い色のサングラス。
 無造作に遊ばせた髪。
 ラフすぎる装い。
 聖域の教皇の影など、微塵もない。
 メリッサは一歩、さりげなく位置をずらした。
(……ヤダな)
 そんな小さな表情が、読み取れてしまう。
 視線が泳ぎ、スマートフォンを握りしめる手に力が入っているのが分かった。
 自分が不安を与えていることに、胸が締め付けられる。
 数歩の距離を詰め、彼は足を止めた。
「待たせたか?」
 低い声に、メリッサがはっと顔を上げる。だが、その目はまだ半信半疑だ。
 シオンはゆっくりと、サングラスを指先で押し上げた。覗く菫色の瞳。
「……え」
 時間が止まる。
「……シオン様?」
 その声が、かすかに震える。
「目立たぬようにした結果だ」
 わずかに口元を緩める。
「目立ってるよ、逆に……!」
 小声で抗議するが、頬がほんのり赤い。さっきまで“ヤダな”と思っていた相手が本人だったのだと理解し、安堵と羞恥が入り混じっていた。
 だが次の瞬間、彼女の表情がゆっくりとほどけた。泣くでもなく、笑うでもなく、「見つけた」という安堵だけが、確かにそこにあった。
 自然と距離が近づく。もう、周囲のことはどうでも良かった。
「シオン様……」
 呟くように呼んだ瞬間、メリッサの顔が耐え切れずに歪んだ。張りつめていた何かが、たった一言でほどけてしまったのだろう。そのまま、引き寄せられるように一歩踏み出し、彼の胸元に額を預ける。
 シオンは一瞬だけ息を呑み、それから静かに腕を回した。抱き寄せる動作は控えめで、しかし迷いはなかった。
「メリッサ、よく耐えたな」
 低く落ち着いた声。背中をゆっくりさすった。
「……ん」
 腕の中で彼女が小さく頷く。声にならない返事。それだけで十分だった。
 正門の前を、学生たちが行き交う。ちらり、ちらりと投げられる視線。年の近い男女が抱き合っていれば、目を留めるのも無理はない。
 だが、もうどうでもよかった。
 細い肩越しに伝わる体温。
 呼吸の揺れ。
 かすかに立ち上る、彼女の甘い匂い。
 それらが一つ一つ、否応なく五感に染み込んでくる。
 生きている。
 ここにいる。
 無事だ。
 それだけで、胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと溶けていく。
 愛おしい。
 理屈ではなく、心の底からそう思った。

 正門から少し離れた、石造りの回廊に面した中庭は、人の気配がほとんどなかった。講義の合間に学生が通り抜けることはあるが、今は昼休みが終わった直後で、空気は不自然なほど静かだった。
 乾いた風が低木の葉を揺らし、石畳の上に影を落とす。
 メリッサはシオンの腕から離れ、少し距離を取った。さきほどまで縋るように触れていたくせに、話をする段になると、無意識に一歩引いてしまう。その仕草が、彼女自身の不安を雄弁に物語っていた。
 シオンは短く息を整えた。
「――話がある」
 低い声だった。教皇としてではなく、彼女に真実を告げる者の声だと、メリッサは直感的に理解した。
「聖域の人間は、現在エルダニアへの入国を全面的に拒否されている」
 メリッサの眉がわずかに動いた。
「……それ、知ってる。なんとなくそんな気はしてた」
 強がるように言うが声は硬い。
「そして――」
 シオンは言葉を選ぶように、ほんの一拍置いた。
「エルダニア王国は、すでに聖域の保護対象国家から除外されている」
 理解が追いつかない、という表情が一瞬だけ浮かび、次の瞬間、否定が走る。
「……それって……どういう……」
「文字通りの意味だ。聖域は、この国に対して直接介入できない」
 メリッサの唇が、きゅっと結ばれる。
「じゃあ……今回の事件も……」
「ああ」
 肯定は短く、重かった。
「現時点では、動けない」
 風に揺れる梢の音が、やけに大きく聞こえた。
 メリッサは俯き、石畳を見つめたまましばらく動かなかった。
「……村が、ひとつ……消えたんだよ」
 ぽつりと落ちる声。
「村にはね、名前もあったの。ちゃんと人が住んでて……畑があって、家畜小屋もあったの……」
 言葉がそこで詰まる。喉の奥が灼けるように痛んだ。
「生き残った人、五人いたんだよ。でも……みんな……」
 それ以上は言えなかった。思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
 シオンは黙って聞いていた。遮らず否定せず、ただ、彼女の言葉が終わるのを待つ。
「それなのに……動けない、って……」
 メリッサは顔を上げた。その瞳に浮かんでいるのは怒りよりも、混乱と絶望だった。
「だからこそだ」
 シオンは一歩、彼女に近づいた。
「そなたを、ここに置けない」
 はっきりとした声だった。
「一度、ギリシャへ戻ろう」
 メリッサは、きょとんとしたように目を瞬かせた。
「……え?」
「この国は、すでに安全ではない」
「シオン様は?」
 問い返す声が微かに震える。
「私は――」
 言いかけて言葉を選び直す。
「今は、動けない」
 その瞬間、何かがぷつりと切れた音がした。
「……やだ」
 小さな、しかしはっきりした拒絶。
「……メリッサ」
「やだって言ってる」
 顔を上げた彼女の瞳は、潤んでいるのに強情だった。
「シオン様が行かないなら、あたしが行くからいいもん!!」
 あまりに真っ直ぐで、幼い言い方だった。それが、かえって切実だった。
 シオンの表情が、わずかに険しくなる。
「……行く、とはどういう意味だ」
 低く抑えた声。
「そなたは、自分が何と向き合っているのか、分かっているのか」
「分かってるよ!」
 即座に返る。
「分かってるから……放っとけないんじゃん!」
 拳を握り締める。
「見ちゃったんだもん……あんなの……」
 声が掠れる。
「何も知らなかったら帰れたよ。でも、知っちゃったら……無理だよ……」
 沈黙が落ちた。
 正論だった。
 感情論でもあった。
 どちらも、否定できない。
 シオンは目を閉じ、ほんの一瞬だけ天を仰いだ。守るために、離したい。だが、彼女は守られるだけの存在ではない。それを誰よりも理解しているのが、他ならぬ自分だという事実が、強く胸を締め付けた。
 石畳の上で、二人は向かい合ったまま、答えの出ない対立を抱えて立ち尽くしていた。

 こうなったとき、メリッサが簡単に引き下がらないことを、シオンは痛いほど知っている。
 強情で、頑固で、そして――一度「自分が行く」と決めたら、どんな理屈も跳ね返す。
 それでも、今回だけは折れるわけにはいかなかった。
「……聞いてくれ、メリッサ」
 声を荒げることはしなかった。むしろ、いつもより静かで、抑えた声だった。
「そなたが感じ取った異変は正しい。あの裂け目は、冥界ではない。魔界だ」
 メリッサの肩が、わずかに強張る。
「魔界は――理が違う。冥界のように交渉の余地も、秩序もない。踏み込んだ者を、ただ喰らい尽くすだけの場所だ」
「……でも」
「最後まで聞け」
 その一言に、教皇としての重みが滲んだ。メリッサは唇を噛み、続きを待つ。
「冥闘士であるそなたは、陰の気配に引き寄せられる。それは弱さではない。性質だ。だが、魔界相手には致命的だ」
 視線を逸らさず、はっきりと言う。
「そなたが近づけば近づくほど、相手は喜ぶ。融合し、同調し、取り込もうとする」
 メリッサの脳裏に、あの村の空気が蘇る。
 皮膚の内側を這うような、嫌な感覚。
「そなたが戦力になる可能性より、引き金になる可能性の方が高い」
 残酷なほど、率直だった。
「……そんな言い方」
「命に関わることだからだ」
 声が、更に低くなる。
「私は、そなたを失う可能性を計算に入れることができない」
 メリッサは目を見開いた。「危険だから帰れ」ではない。「失う」という言葉が、はっきりと出てきたことに。
「私は教皇だ。だが――」
 一瞬、言葉を探すように間が空く。
「そなたの前では、ただの一人の男でもある」
 それは、弱さの告白に近かった。
「そなたを危険に放り出す判断は、どんな理屈を積み上げてもできない」
 メリッサの目に、涙が滲む。
「でも……誰かが行かなきゃ……」
「行く」
 即答だった。
「必ず、行く」
 シオンは一歩近づき、彼女の両肩にそっと手を置いた。
「だが、それは“今”ではない。準備も、段取りも、守りも整えずに踏み込むなど、自殺行為だ」
 視線が、真正面からぶつかる。
「そなたは焦っている。責任を一人で背負おうとしている」
「だって……あたしが気付いちゃったから……」
「気付いた者が、必ず最前線で血を流さねばならない道理はない」
 きっぱりと言い切る。
「知った者は、生きて伝える義務を負う」
 その言葉に、メリッサの呼吸が詰まった。
「今、そなたがすべきことは一つだ」
 声がほんのわずかに和らぐ。
「私のそばに戻ること」
 逃がさない、という意味ではない。守るための距離だ。
「ギリシャへ帰る。それが、結果的に一番多くの命を救う」
 メリッサは、しばらく何も言えなかった。反論の言葉は、喉まで上がってきているのに、形にならない。理屈は、分かる。でも、感情が追いつかない。
 シオンはそれを待った。急かさず、答えを強要せず、ただ彼女の揺れを受け止める。
「……少しでいい」
 最後に、静かに言った。
「少しだけ、私に時間をくれ。必ず、最善の形で動く」
 メリッサの拳が、ゆっくりとほどける。まだ納得はしていない。けれど、彼の言葉が嘘でないことだけは、痛いほど伝わっていた。
 メリッサがギリシャへ帰国する――その選択肢を口にした瞬間から、別の問題が静かに輪郭を持ち始めていた。
 エルダニアは、もう一度必ず揺さぶってくる。しかも次は、遠慮も建前もない。国家間の圧力として、より露骨に、より執拗に。かといって、誰にも告げずに姿を消せば、今度は失踪になる。大学も、警察も、世間も動く。それはそれで、彼女の身を危険に晒す。
「信頼できる人物はおらぬか?学友の誰かでも構わぬ」
 少しでも“説明役”になってくれる存在がいれば、表向きの整合性は保てる。
 そう考えての問いだった。だが、返ってきた言葉は、彼の想定とは違っていた。
「あたし、こっちでは友達いないの……」
 あまりに静かな声だった。言い訳でも、自嘲でもない。事実を、そのまま置くような声音。
「……いない……?」
 思わず、聞き返してしまう。
「うん……あのね」
 メリッサは視線を落とし、指先を組んだ。
「みんな、すごく頭良いの。あたしなんて足元にも及ばなくて……授業についていくのもやっとでさ」
 笑おうとして、やめた。
「エルダニア語も分からないし、英語力も足りてないし……話しかける余裕、なくて」
 それは、弱音だった。彼女が、ほとんど誰にも見せてこなかった種類の。
「友達作るの、ちょっと……苦戦してる」
 その一言で十分だった。
 シオンの胸の奥が、きり、と音を立てて締め付けられる。
 彼女は、この国で一人だった。政治の思惑に晒され、監視され、交渉の駒にされながら――同時に、教室では必死に食らいついていた。誰にも寄りかかれずに。彼は、一瞬、言葉を失った。
(私は……)
 守っているつもりで、遠ざけていただけではなかったか。彼女が孤立していくことに気づきながら、見ないふりをしていたのではないか。
「……そなたは」
 ようやく絞り出した声は、いつもより低かった。
「よく、ここまで一人で耐えたな」
 それは労いであり、悔恨だった。
 メリッサは顔を上げる。驚いたような、少し困ったような表情で。
「耐えた、ってほどでもないよ。ただ……逃げ場がなかっただけ」
 その言葉が、さらに胸に刺さる。
 シオンは、そっと彼女の手を取った。強くは握らない。ただ、そこにいると伝える程度に。
「ならば、なおさらだ」
 静かに、しかし確かに言う。
「これ以上、そなたを一人にはせぬ」
 約束というより、決意だった。
 政治も、外交も、危険も――全てを計算に入れた上で、それでも彼は、彼女を孤独のまま置いていくつもりはなかった。
「あ……でも」
 メリッサは、何かを思い出したように言葉を継いだ。
「一人だけ。友達ではないけど……頼れるかもしれない人は、いるよ」
「……かも?」
 シオンが眉をわずかに寄せる。
「うん。エルダニアの外交官の人。ちょっとギリシャ語できるから、話しやすいの。悪い人ではないと思う」
 その言い方は慎重で、同時にどこか曖昧だった。信じたい気持ちと、信じ切ってはいけないという理性が、せめぎ合っている。
「その者と、連絡はつくのか?」
「……多分」
 自分でも確信がないのだろう。それでも、今ある手札の中では、唯一の“外”との細い糸だった。
 メリッサはスマートフォンを取り出し、指先で名前を探す。
 ルーカス・ヴァン・デル・アーヘン。
 何度か連絡を取り合った、その履歴。
 呼び出し音が一度、二度。
 沈黙。
 三度目が鳴り終わる前に、コールは途切れた。
 通話終了。
「……留守電にもならない」
 画面を見つめたまま、メリッサが小さく呟く。
 シオンは何も言わず、ただその様子を見ていた。
 この国で、外交官という立場の人間が、今すぐ出られないという事実が、何を意味するのか。
 彼には、痛いほど分かってしまう。
「時間帯の問題かもしれぬ」
 あえて、可能性の一つとして口にする。
「うん……そうだよね」
 だが、声に張りはなかった。
 メリッサはもう一度だけ画面を見て、それから静かにロックをかけた。
「……やっぱり、簡単じゃないね」
 独り言のような言葉。
 シオンは、彼女の肩にそっと手を置く。
「繋がらぬこと自体が、情報だ」
 断定でも、慰めでもない声音だった。
「少なくとも、こちらの動きを誰かが見ている可能性がある」
 メリッサは一瞬、息を止め、それからゆっくりと頷いた。
「……だよね」
 頼れるかもしれない、という“かも”が、今この瞬間、確かに“保留”へと変わった。
 人気のない場所に流れる沈黙は、先ほどよりも重かった。
 だがそれは、絶望ではない。選択肢が一つ削られただけだ。そして二人は、次の一手を考えなければならなかった。
 できることなら、このままメリッサをギリシャへ連れ帰りたい。それが最善であることは、理屈の上では明白だった。だが――シオン自身が、今この国に正規に存在していない立場だ。パスポートは携帯している。しかし、それを使う場面が生じた瞬間、すべてが露見する。
 ホテルのフロントで提示すれば身分は割れ、外交案件どころか、即座に拘束の可能性すらある。
 それに、街の至るところに設置された防犯カメラ。
 今この瞬間、自分が検索対象になっていないという保証はどこにもない。
(……甘かったか)
 服装も、髪型も、できる限り別人に寄せてはいる。ストリート系のカジュアル、無駄に多いアクセサリー、サングラス。髪はわざと遊ばせ、無造作にツンツンと立たせている。
 聖域の職員が見たら、確実に腰を抜かすだろう。それほどまでに、己が忌み嫌ってきた軽薄さを今は纏っている。
 だが、AI解析の前では、この程度の変装など意味を成さない。
 そう考えていた矢先だった。
「そしたら、あたしの部屋に行こ?」
 あまりにも自然な調子で、メリッサが言った。
「……そなたの、部屋?」
 思わず問い返すと、彼女はこくりと頷く。
「うん。留学生用の寮に住んでるの。きっと、アーヘンさんから折り返しあると思う」
 安易だ。
 だが、同時に現実的でもあった。
「部外者は入れぬのではないのか?」
「規則守れば大丈夫」
 彼女は指を折りながら説明する。
 事前申請書の提出。
 当該学生の部屋以外には立ち入らないこと。
 ドアは閉め切らないこと。
 消灯時刻までには必ず退室すること。
「……ちゃんと、決まりはあるんだよ」
 そう言って、少しだけ胸を張る。
 シオンは黙したまま、状況を頭の中で組み直す。
 公共施設ではない。
 学生寮。
 身分証の提示も、基本的には不要。
 そして――監視の目は、街中よりは遥かに薄い。
(……危険ではあるが)
 今この場に留まり続けるよりは、ましだ。何より、メリッサの部屋であれば彼女を一人にせずに済む。
「……分かった」
 そう答えた瞬間、メリッサの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ただし、条件がある」
「なに?」
「短時間だ。連絡がつかねば、別の手を考える。無茶は許さぬ」
 彼女は一瞬だけ唇を尖らせ、それから小さく笑った。
「分かってるよ。シオン様」
 その呼び方に、胸の奥が温もりで満たされる。
 普通の青年の装いをしていても、不法入国者という立場にあっても、彼女にとって、自分はやはり“シオン様”なのだ。それが、何よりも嬉しく、何よりも愛おしかった。

「ちょっと待ってて」
 メリッサはそう言うと、ためらいもなくスマートフォンを操作し始めた。
 指の動きは速く、迷いがない。
「何をしているのだ?」
「ん?欠席登録。無断欠席すると評価に影響しちゃうから。午後は全休にしとく」
 淡々とした口調。まるで日常の一部であるかのように。
 大学という場所は、シオンの知らない世界だった。
 ギリシャでも、エルダニアでも――拳も聖衣も、小宇宙も役に立たない戦場。
 そこでは、履修と成績と評価がすべてを決める。
(……ここが、そなたの戦場か)
 不慣れな言語、圧倒的な周囲の知性、孤独。それでも逃げず、真正面から向き合っている。
 守りたい、と強く思った。
 聖域の危機などではなく、目の前の、この小さな日常を。
「メリッサ」
「ん?」
 スマートフォンの画面から顔を上げたその瞬間、シオンは衝動のまま、彼女の顎にそっと指を掛けた。
 唇に触れようと近付いた、その刹那。
「痛っ」
 軽い音とともに、メリッサが声を上げる。
 サングラスの縁が、彼女の頬に当たっていた。
「あ……」
「もうっ……サングラスなんて掛けてくるから……」
 非難というより、困ったような笑いを含んだ声。
「すまぬ……いつもの感覚で……」
 謝ると、メリッサは一瞬きょとんとした顔をしてから、ふっと表情を緩めた。
「ううん、いいよ」
 そう言って、少し照れたように視線を逸らす。
「サングラス姿のシオン様なんて、あたししか知らないんだろうし。……カッコいいよ」
 胸の奥が、静かに締め付けられた。
 不法入国者で、変装中で、立場は危うい。
 それでも彼女の目には、ただ一人の“シオン”として映っている。
 こんな状況でも――いや、こんな状況だからこそ。
 メリッサは、ひどく可愛かった。
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