Eine Kleine Ⅳ

 エルダニア王国内で起きている一連の不可解な事件は、すでに聖域の中枢で共有されていた。
 発生地点、被害規模、現地当局の対応――あるいは、対応の欠如。
 それらを淡々と列挙した報告書は、事務的であるがゆえに、かえって事態の異常さを際立たせていた。
 シオンは、頁をめくる指を止めない。
 菫色の瞳は文字を追っているが、その奥では別の計算が進んでいた。
 原因は、すでに判明している。
 そして――エルダニア政府が、意図的に動いていないことも。
「教皇、そろそろ次の被害が出る頃合いかと」
 低く抑えたアイオロスの声が、執務室の空気を震わせた。危機を煽る響きはない。ただ、事実だけを積み重ねる声音だ。
「ああ……そうだな」
 シオンは報告書から視線を上げないまま、短く応じた。
「アイオロス。エルダニア政府の動きは?」
「現時点ではまだ何も。王宮は調査中を理由に、公式声明すら出していません」
 沈黙が落ちる。
「……全く」
 シオンは、かすかに息を吐いた。
「何を考えているのだ、あの王は」
 それは嘆きというより、断罪に近い。国家の長として、越えてはならない一線を理解しない者への、冷めた評価だった。再び深い溜息が、静かな執務室に溶ける。
 その瞬間だった。
 まるで計ったかのような絶妙なタイミングで、執務机の上に伏せて置かれていたスマートフォンが、微かに振動した。無機質な音が、重く張り詰めた空気を切り裂く。
 シオンは、なおも〈エルダニア王国動向調査報告書〉と表紙に記された文書から視線を外さぬまま、スマートフォンを手に取った。
 そして――
「……!」
 ディスプレイに映った発信元を認識した、その一瞬。シオンの表情が変わった。怒りでも、驚愕でもない。だが、確実に“私情”が入り込んだ変化だった。
 それを、アイオロスは見逃さなかった。
 何も問わず、何も言わず、彼は静かに一礼すると、足音を立てぬまま執務室を後にする。主に必要なのは、今は報告でも助言でもないと悟っていた。
 扉が閉まる音が、遠くで微かに響く。
 一人になった室内で、シオンはようやく視線を落とした。スマートフォンの画面に映る名前を、確かめるように見つめる。
 深く、静かに一つ呼吸をした。
 教皇としてではなくただ一人の男として、彼は通話ボタンを押した。

『私だ』
 耳元で響いた声は、いつもより少しだけ柔らかかった。それが、かえって現実感を欠いて聞こえた。
「あたし」
 自分でも驚くほど、短い言葉が零れた。
 一拍の間。
『……【あたし】という人物に、心当たりはないが。どちら様ですか?』 

 ――あ、間違いない。

 これは、完全に楽しんでいる。声色は至って平静を装っているくせに、語尾の奥に抑えきれない含みがある。メリッサの脳裏には、菫色の瞳を細め、口元だけで笑いを堪えているシオンの姿が、ありありと浮かんだ。
(この人……絶対わざとだ)
 それにしても、である。
 こんな状況で、こんなやり取りをしている場合ではないのに。
「……すみません、間違えたみたいです」
 自分の声が、少しだけ拗ねているのが分かる。
「失礼しました」
 言い切って、通話を切ろうとした――その瞬間。
『待ちなさい』
 短い一言。声の調子が、明らかに変わった。冗談を続ける余地は、そこまでだった。
 メリッサの指は、画面の上で止まる。胸の奥に、さっきまで押し込めていた緊張が、静かに戻ってくる。
「……なに」
『その声だ』
 低く、真剣な響き。
『無事か』
 たったそれだけで、先ほどまでの軽口も、張りつめた均衡も、すべてが現実に引き戻される。
 冗談は終わりだ、と。そう告げられた気がして、メリッサは小さく息を吸った。
「……うん。今はね」
 本当は、全然“今は”で済む話じゃない。
 それでも、そう答えるしかなかった。スマートフォン越しに流れる沈黙は、短い。だが、その一瞬の緩みがあったからこそ、二人は再び、同じ深度の現実に戻ることができた。
 そしてメリッサは思う。
(もう……切ってやるとか思ったあたし、馬鹿みたい)
 けれど、その一瞬があったから、この通話を、最後まで続けられる気がした。
「あのね……あたし、今エルダニア王国にいるの」
 大学の廊下は、昼下がりのざわめきに満ちていた。行き交う学生の靴音、遠くから聞こえる談笑、開け放たれた講義室の扉から漏れる英語の声。
 どれもが現実で、どれもが、今の自分とは微妙に噛み合っていない。
『ああ、知っているよ』
 返ってきた声は、静かだった。淡々としているのに、突き放す冷たさはない。
 メリッサはそこで気づく。この声、この間、この話し方は教皇としてのシオンではない。命令でも、審判でもなく、一人の男が恋人を心配している声だ。
 何も知らせていないのに。
 何一つ説明していないのに。
 それでも、ここにいることを、分かってくれている。その事実が、胸の奥に溜め込んでいたものを、少しずつ緩ませていった。
「それでね……」
 言葉を探そうとして、うまく息が吸えなかった。
「……っ……大変なことになってて……」
 自分でも驚くほど簡単に、声が滲んだ。
 廊下の壁にそっと肩を預ける。
「村が……一つ、消えたの」
 喉が詰まる。言葉にすることで、現実になるのが怖かった。
「小さな村なんだよ……すごく辺鄙な場所にあってね……誰も、気にしないみたいな場所で……」
 足早に通り過ぎていく学生たちは、メリッサの存在にも、その言葉にも気づかない。それが、残酷なほど自然だった。
「生き残った人が、五人いたんだって。でも……」
 そこで、言葉が途切れる。
 あの焼け落ちた家々。
 土に残った、踏み荒らされた痕跡。
 そして、正気を保てなくなるほどの光景を、彼らは見てしまったのだ。
「……話もできないくらい、壊れちゃってて」
 自分がそこに立っていた事実が、今になって、じわじわと重さを増してくる。
 もし、もう少し踏み込んでいたら。
 もし、あの場に長く留まっていたら。
(あたしも、同じだったかもしれない)
『……』
 スマートフォンの向こうで、シオンは何も言わない。けれど、その沈黙が、拒絶ではないことだけは分かった。
「エルダニア政府は、動かないって」
 語尾が、かすれる。
「証拠がないからだって。集団失踪で処理するって……」
 胸の奥が、じくじくと痛む。理不尽だと怒る気力すら、もう残っていなかった。
「……ねえ」
 声が、子どもみたいに揺れる。
「こんなの、おかしいよね」
 返事を求めているようで、実は、ただ肯定してほしいだけだった。誰かに「おかしい」と言ってもらえれば、自分の感覚が正しいのだと確認できるから。
 廊下の向こうで、講義の開始を告げるベルが鳴った。人の流れが途切れる。その中で、メリッサは小さく息を吸い、スマートフォンを強く握った。
 今、こうして声を聞いていることだけが、自分をこちら側に繋ぎ止めてくれている気がしていた。

 シオンは、電話口の向こうから伝わってくる微かな息の乱れに、指先を強く握り込んだ。
 泣いている。
 声を殺そうとしている分だけ、余計に分かる。
 そう思うだけで、胸の奥が軋んだ。視線を落とせば、執務机の上には報告書が未だ広げられたままだ。
 冷たい文字列が並ぶ紙面と、今、耳元で震えている生身の声。その落差が、どうしようもなく重い。
 エルダニア政府が動かない理由など、推測するまでもない。いや、正確には“政府”ではない。
 国王だ。
 判断を下すべき立場にある者が必要な判断を下さない。それだけの話だ。
 体面。
 国威。
 国際的な印象。
 責任の所在。
 そういった言葉を盾にして、決断を先送りにしている。その間にも、既に一つの村が消え、幾つもの人生が壊れているというのに。
 何度、同じ過ちを繰り返すのだ。
 シオンは、長い時間を生きてきた。栄えた国が、音もなく崩れていく瞬間をいくつも見てきた。
 その引き金は、いつも同じだった。
 “守るべき順序”を、為政者が間違えた時だ。
 国のために民があるのではない。民のために国がある。それを忘れた国家は、必ず歪む。そして、その歪みは、最も弱い場所から崩壊を始める。
 辺境の村。
 声を上げられない人々。
 記録にも残らない死。
 メリッサの震える声が、そのすべてを象徴しているように思えた。
 彼女は、エルダニアの人間ではない。政治的にも、法的にも、無関係だと言い切れてしまう存在だ。それでも、彼女は泣いている。
 見てしまったからだ。
 知ってしまったからだ。
 知らなかったふりができない人間だからだ。
 シオンは、目を閉じた。この世界は、彼女のような人間にあまりにも過酷だ。優しさを持ったまま、現実を直視してしまう者ほど深く傷つく。
(それでも、そなたは一人ではない)
 胸の内でそう言い切ってから、シオンは静かに息を整えた。声に余計な怒りや焦りを滲ませてはいけない。彼女は今、寄りかかれる場所を探している。
 電話越しに、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……メリッサ」
 低く、しかし確かに届く声で彼は呼んだ。ただ一人の男として。彼女の恋人として。
「そなたが間違っているわけではない」
 その言葉だけは、何があっても伝えなければならなかった。もし盗聴されていたとしても構わない。
 聴きたければ、聴けばいい。
 守るために言葉を選ぶ段階は、もう過ぎている。
「メリッサ……会いに行く」
 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが外れた。長く張り詰めていた糸が、音もなく切れるような感覚だった。
『……ん、来て……会いたい』
 そう言われてしまえば、もう耐える理由など残っていない。
 彼女は限界に近いのだ。電話越しの声は、あまりにも細く震え、今にも消えてしまいそうだった。
 シオンも、もう十分すぎるほど耐えてきた。
 もし、彼女が留学している先がエルダニアでなければ。
 もし、対立の只中でなければ。
 もし、彼女が“切り札”などという歪んだ言葉で語られる存在でなければ。
 互いに不在を受け入れ、時間を信じることもできただろう。だが現実は、そうではなかった。
 明るくて。
 真面目で。
 甘えたがりで。
 そして――どうしようもなく、愛おしい。
 その唯一無二の恋人が、異国で理不尽と恐怖の中に置かれている。それを知ってなお、教皇として座していろというのなら。

 ――そんな椅子には、なんの価値もない。

「入国拒否……だと?」
 シオンは、誰もいない執務室で小さく呟いた。声音には怒りも嘲りもなかった。ただ、静かな確信だけがあった。
「上等だ」
 法衣に手をかける。
 聖域教皇を象徴するその衣は、長い年月、彼の選択と抑制を形作ってきた。だが今、それは重すぎた。 
 布の擦れる音とともに、法衣は執務机の上に置かれる――いや、ほとんど投げ出されるようにして。
 その瞬間、教皇シオンは愛する一人の女性を迎えに行く覚悟を決めた男になった。
 菫色の瞳が、静かに前を向く。国家が道を塞ぐなら越える。制度が拒むなら踏み越える。
 それで世界が揺れるのなら――揺れればいい。
 彼女が泣いている場所へ。
 彼女が孤独に耐えている場所へ。
「待っていろ、メリッサ」
 その声は宣言だった。

 給油許可が下りた、という知らせはほとんど儀礼のように告げられた。そこに善意はない。拒絶の姿勢を崩さぬまま、最低限の体裁だけを整える――エルダニア王国らしい判断だった。
「十分だ。離陸準備が整い次第、全員聖域へ帰還せよ」
 声は静かで、硬質だった。怒りも焦りも、そこには滲ませない。教皇としての声だ。
「御意」
 乗員たちが一斉に応じる。誰もが理解していた。
 これは“退却”ではない。最初から予定されていた手順の一つに過ぎない。
「私もできるだけ早く戻る」
 その一言だけが、ほんのわずかに私的な色を帯びていたかもしれない。だが、それに気づく者はいない。
 シオンは踵を返し、機内の通路を数歩進んだところで、足を止める。
 次の瞬間、彼の姿は音もなく掻き消えた。
 空港の喧騒の中に、世界が切り替わる。
 人の流れ。
 荷物を引く音。
 案内放送。
 忙しなく行き交う視線と足取り。
 木を隠すなら森の中。
 人を隠すなら人の中。
 その言葉を、彼は実感として理解していた。
 エルダニア王国の人々は、総じて色素が薄い。淡い金や亜麻色の髪、灰や青を含んだ瞳。その中に混じれば、シオンの金髪は驚くほど埋没する。瞳の色など、なおさらだ。
 平日の昼間、誰もが自分の時間に追われている。他人の瞳の色を気に留めるほど、世界は暇ではない。
 彼は歩き出す。僅かに背筋を緩め、教皇としての佇まいを脱ぎ捨てる。それでも、完全には消えない。
 長年染み付いた所作は、どうしても品位を残す。
 だが、それでいい。
 ここでは誰も、それを“教皇の気配”だとは思わない。
 洗練された王都。伝統を重んじながら、無理のない形で近代化を進めた街並みは、年末に訪れた時よりも、ずっと落ち着いて見えた。石畳は整えられ、古い建築は丁寧に保存され、新しい建物も、景観を壊さぬよう配慮されている。
 だが、その穏やかさが、今はかえって胸に刺さる。
 この国のどこかで、村が一つ消えた。地図からではない。生活ごと、記憶ごと、人の営みが断ち切られた。
 それを知りながら、この国は何もなかったかのように日常を続けている。
 民のために国があるのではない。国のために民があると、まだ信じている。
 その傲慢さに、シオンは奥歯を噛み締めた。だが、今は怒りを振りかざす時ではない。声を上げるのは、サガの役目だ。交渉の場で、記録の中で、歴史の表舞台で。
 自分が担うのは、もっと静かで、もっと個人的な役割。
 メリッサの泣き声を思い出すだけで、胸の奥が痛む。耐えて、耐えて、それでも限界を越えてしまった声だった。彼女は今、この王都のどこかで一人で立っている。
 その事実が、この整然とした街並みをどこか歪ませて見せた。
 シオンは人の流れに紛れながら、目的地へと足を向ける。
 教皇として拒まれた国に、一人の男として踏み込む。その選択を、彼は一度も後悔しなかった。

 今の時刻は、と頭の中でなぞる。
 曜日、時間割、講義の開始と終了。
 今ごろ、メリッサは大学のどこかで英語の講義を受けているはずだった。気を張り詰め、ノートを取り、理解に遅れまいと集中している時間。
 周囲に気を配りながら、内側をすり減らしている――そんな姿が、容易に想像できる。
 シオンは立ち止まり、スマートフォンを取り出した。人混みの中では、誰もそれを不自然とは思わない。
 画面を開き、名前を見る。
《メリッサ》
 指先が、一瞬だけ躊躇う。言葉は多く要らない。むしろ、多くを語ることは危険ですらあった。
 彼女が置かれている立場やこの国の状況。そして、盗聴という可能性。
 だからこそ――選ぶ言葉は、限りなく日常的でなければならない。
 それでいて、彼自身の心だけは、誤魔化せない。
《声が聞きたい》
 たった一行。
 理由も、説明も、切迫した事情も書かれていない。
 だが、その短さの中に、彼の切実さも、焦燥も、そして、彼女への渇望も、すべてが込められていた。
 誰かに見られても不審がられない、恋人同士、あるいは、親しい友人同士のごくありふれたやり取りにしか見えない。
 だが、メリッサだけは分かるはずだ。
「無事でいるか」
「一人で耐えていないか」
「今すぐ抱きしめたい」
 そのすべてが含まれた言葉だと。
 送信を確定する。
 画面が静かに戻る。返事が来るかどうかは分からない。講義中かもしれない。携帯を確認する余裕など、ないかもしれない。
 それでもいい。
 シオンはスマートフォンをパンツのポケットに戻し、人の流れの中で再び歩き出した。

 王立大学の正門から少し離れた通りに、見慣れたロゴがあった。
 世界各国に店舗を持つ、大手チェーンのカフェ。
 ガラス越しに見える店内は、昼下がり特有のざわめきに満ちている。
 大学のロゴが入ったパーカー。
 ノートパソコンを広げる者、レポートの話をしている者、講義の合間に息を抜いている者。
 どれも、王立大学の学生に違いなかった。
 都合がいい。
 シオンは自然な足取りで扉を押した。年齢も、背格好も、彼らと大差はない。法衣を脱ぎ捨て、肩書きを外した今の彼は、ただの若い男だ。
 カウンターでコーヒーと簡単なサイドメニューを注文する。店員の視線が一瞬、金髪に留まったが、それだけだ。この国では珍しくもない色だと、すぐに興味を失った。
 番号を呼ばれ、トレイを受け取る。
 空いている窓際の席に腰を下ろすと、周囲の会話とカップの触れ合う音が、ほどよい雑音となって耳を満たした。
 スマートフォンを取り出す。
 指先で画面を滑らせ、ニュースサイトを開いた。
 国内ニュース。
 社会面。
 事件・事故。
 いくつかの記事を辿り、目的のものを探す。
(やはり、か)
 見出しは淡々としている。
《国境付近の村で集団失踪》
 原因不明。
 捜索継続中。
 治安当局は慎重な姿勢。
 文面は冷静で、感情の欠片もない。村の名前は伏せられ、人数も曖昧にぼかされている。惨状を想像させる記述は一切なく、続報も存在しなかった。
 事件は、既に“過去”として処理されつつある。触れれば厄介だと、暗黙の了解で遠ざけられている。
 シオンは画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。
(これが、国の判断か)
 真実よりも、体面。
 民よりも、国境と外交。
 カップに手を伸ばし、コーヒーを一口含む。苦味が舌に広がる。
 雑踏は、この国で起きた異変の正体も、そして、今ここに座っている男が何者であるかも、誰一人として知らない。

 スマートフォンの画面を閉じる。代わりに、通知欄へと視線を落とした。
 返事は、まだだ。だが、焦りはない。
 彼女が講義中であることは分かっている。
 この街で、彼女と同じ空気を吸っている。それだけで、胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかに緩んだ。
 シオンは、再び人混みの一部としてそこに在りながら、ただ一人の声を、静かに待っていた。
 やがて、店内の空気がゆるやかに変わり始めた。さざめきの質が、わずかに軽くなる。
 腕時計に視線を落とす者。
 スマートフォンを確認し、忙しなくカップを空にする者。
 テーブルに散らばっていたノートやペンが手早くまとめられ、椅子が引かれる音が重なっていく。
 講義の時間なのだろう。王立大学の学生たちは、それぞれ次の場所へ向かう準備を始めていた。
 ということは。
 シオンは、意識せずともスマートフォンに視線を落としていた。画面は沈黙したまま、何の変化もない。
 分かっている。彼女はきっと、廊下を歩きながら鞄を持ち替え、友人と一言二言言葉を交わし、それから、ようやく人目の少ない場所を探すはずだ。
 カップに残ったコーヒーが、いつの間にか冷めていることに気づく。一口飲んでから、また画面を見る。
 何も来ていないと分かっているのに、指先が勝手に動く。
 落ち着け。
 胸の内でそう言い聞かせても、心は言うことを聞かなかった。理性は沈着であろうとするのに、感情だけが先走る。不謹慎だ。この国のどこかで、人が消え、壊れ、取り返しのつかない現実が静かに進行しているというのに。
 それでも、彼女の声を思い出すだけで胸の奥が微かに温もりを持つのだけは、どうしようもなかった。
 泣きながら、縋るように名を呼んだ声。
 必死に気丈を装いながら、最後には滲んでしまった震え。
 あの声をもう一度聞きたい。
 シオンは、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
 椅子に深く腰掛け直し、スマートフォンをテーブルの中央に置く。まるで、呼び出し音が鳴った瞬間に、すぐ応えられるように。
 周囲の席が次々と空いていく。人の気配が薄れ、ざわめきは遠のいた。その静けさの中で、彼の心だけが、ひどく忙しなく跳ねていた。
 まだか。
 焦りではない。不安とも違う。
 ただ、早く聞きたいのだ。彼女が無事でいる証としての声を。ここに来た意味を、確かめるために。
 シオンは画面を伏せ、そっと息を整えた。

 スマートフォンを手に取っては時刻を確かめ、またテーブルに伏せる。その動作を、何度繰り返しただろうか。表示される数字は、まるで意地悪をしているかのように動きが鈍い。一分が進むまでの間に、画面を覗き込んだ回数は、もはや数える気にもならなかった。
(二コマ続き、か)
 ふと、現実的な可能性が頭をよぎる。そうだとすれば、あと八十分。この席に座ったまま待つには、少し落ち着きがなさすぎるし、何より、今の自分は目立ちかねない。それなら一度、外に出た方がいい。街の様子を見ておくのも、無意味ではない。
 そう判断して、シオンはカップに残った最後の一口を飲み干した。冷え切ったコーヒーが喉を流れ落ちる。椅子を引き、立ち上がる動作は、ごく自然なものだった。
 その姿は、どう見ても“よくある光景”だ。
 約束の時間を過ぎても相手が来ず、それでも完全には諦めきれず、店を出るべきか迷った末に腰を上げた若者。教皇でも聖域の長でもなく、ただの待ちぼうけをくらった青年。
 トレイを両手で持ち、返却口へ向かう途中、ほんのわずかに肩が落ちているのも、たぶん気のせいではない。
 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 一度。間を置かず、もう一度。
 思わず足が止まる。反射的にトレイを返却台に置き、ポケットからスマートフォンを引き抜いた。
 画面を見るまでの一瞬が、やけに長い。指先が、少しだけ焦っている。画面をタップする仕草も、慎重さを欠いていた。
 次の瞬間、シオンの表情が、ふっと緩む。
 やっと来た。
 口元を引き締めようとして、失敗したのが自分でも分かる。人目がある場所だということも、理解している。それでも、胸の奥で跳ね上がる安堵と喜びは、抑えきれなかった。
 彼は軽く息を吸い、何事もなかったように歩き出す。ただし、歩調はほんの少しだけ、さきほどより速い。
 その背中は、連絡を待ちわびていた、ごく普通の若者そのものだった。
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