Eine Kleine Ⅳ
ヴァルトフェルト村で起きた集団失踪事件は、エルダニア国内では一切報じられなかった。
新聞も、ネットニュースも、夜のニュース番組も沈黙している。
(やっぱり、報道管制だよね)
メリッサはコンビニの外壁に背を預けたまま、スマートフォンの画面を伏せた。
検索結果は、何度更新しても変わらない。
存在していたはずの村が、最初からなかったかのように、情報の海から消えている。
それでいい、とも思う。
少なくとも、好奇心だけで近付く無謀な人間が現れなければ、二次被害は防げる。
あの場所には、まだ“いる”。
裂け目は閉じていない。むしろ、呼吸するように、ゆっくりと世界を侵食していた。
国内でこれなら、当然ギリシャでも報道はされない。一般社会に届くことは、まずないだろう。
でも。
(……聖域は?)
胸の奥が、きゅっと縮む。理屈ではなく、祈りに近い感情だった。
(シオン様、気付いてくれないかな……)
長い時間を生き、数え切れない異変と向き合ってきた人。世界の歪みに、誰よりも敏感なはずの存在。
気付いてほしい。できれば、すぐに。
(あたしのことは、ひとまず置いといていいからさ)
自嘲気味に、心の中で付け足す。
(いやほんと、今はそれどころじゃないでしょ……)
メリッサは空を仰いだ。雲ひとつない、穏やかすぎるほどの青空が広がっている。
この下で、一つの村が音もなく壊され、世界の境界が裂けているなんて、誰が想像するだろう。
(……ていうか)
ふと、別の思考が割り込んでくる。
(あの人、瞬間移動できるじゃん!)
思わず、口元が引きつった。
(来ようと思えば、一瞬で来られるじゃん……!)
彼の持つ能力を使えば、理論も手続きも国境も関係ないのに。
メリッサはまだ知らない。
聖域関係者が、エルダニアから一斉に入国拒否されていることも、エルダニアが、すでに聖域の庇護対象国家から除外されていることも。
知らないからこそ、彼女はまだ「来てくれるはずだ」と思えてしまう。
(お願いだから……世界が壊れる前に来て)
それは恋人に向けた願いであると同時に、冥闘士として、かつて聖域に身を置いた者としての、切実な祈りだった。
メリッサは立ち上がり、深く息を吸った。
恐怖は消えない。
孤独も、疑念も、何ひとつ解決していない。
その中で、自分が“気付いてしまった”という事実だけは、揺るがなかった。
ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンからの報告は、外務省の正式な回線を通じて王宮へと上げられた。
辺境の農村で発生した集団失踪事件。通常の犯罪とは明らかに異なる様相。そして、空間的異常の可能性。
文面は冷静で、感情は削ぎ落とされていた。それでも、行間には切迫感が滲んでいたはずだ。だが、王宮が示した反応は、即応ではなかった。
王の執務室に集められたのは、軍務卿、外務卿、内務卿、情報局長、そして王宮付きの法務顧問。
誰も声を上げず、誰も「急ぐべきだ」と断言しない。
「証拠は?」
国王が最初に口にしたのは、その一言だった。
「生存者の証言はあるのか」
「映像記録は?」
「犯行主体を特定できる物証は?」
報告書を机に伏せ、王は指先でゆっくりと紙を叩く。まるで、その紙が国家の安定を脅かす“異物”であるかのように。
外務卿が慎重に言葉を選ぶ。
「ヴァルトフェルト村は、国境に最も近い集落です。
隣国からの越境犯罪、あるいは武装集団による犯行の可能性も、現段階では否定できません」
その言葉に、数人が小さく頷いた。そうして責任の所在が曖昧になっていく。それは、政治において“時間を稼ぐ理由”になる。
情報局長も続く。
「現地は通信インフラが脆弱です。警察到着までに時間がかかり、証拠保全も十分とは言えません。現状では、憶測が先行する危険性が高いかと」
「憶測」
王はその言葉を、ゆっくりと反芻した。
「我が国が、正体不明の“異界の存在”に襲われた、という話を、今この段階で公表すればどうなる?」
誰もすぐに答えない。
「国民は動揺する。市場が不安定になる。周辺国は軍事的緊張を理由に動くだろう。国債は売られ、貨幣価値は下がる」
言外に、誰もが理解している。それは外交上の敗北だと。
「証拠がない以上、我々は動けない」
王は結論づけるように言った。
「仮に異常事態であったとしても、国家は“確証”なしには動けない。ましてや、現在、聖域との関係が不安定な状況で、根拠の薄い主張を国際社会に提示するのは愚策だ」
聖域――
その名が出た瞬間、空気が僅かに硬くなる。
誰もが知っている。この国は今、聖域との対立を選び、その結果をまだ正しく理解していない。
「引き続き、情報収集を優先する。警察には、隣国絡みの線も含めて調査させろ。ただし――」
王は視線を上げる。
「騒ぎは、外へ出すな」
それは命令だった。真実よりも、正義よりも、今は「国家の体面」が優先される。
王宮は、そうして“何も決断しない”という決断を下した。その間にも、ヴァルトフェルト村の裂け目は確実に広がっていく。政治が証拠を待つ間でも、世界の歪みは待ってはくれない。
ヴァルトフェルト村の事件以降、街の空気に目立った変化はない。空は変わらず青く、人々は通学や通勤に追われ、大学の構内もいつも通りの喧騒を保っている。
静かすぎる。
メリッサはそう感じながら、講義室の椅子に身を預けていた。英語で進められる専門科目の講義は、ただでさえ気を抜けない。一瞬でも意識を逸らせば、話題は次の段階へ進み、数式や専門用語が黒板を埋め尽くす。それを追いかけるには、思考のすべてを講義に向ける必要があった。だが、今のメリッサにはそれが難しい。
耳は教授の声を拾っている。
ノートも取っている。
それでも、意識の底では常に別のものを探してしまう。そのせいで神経がすり減っていく。
何かが起きていれば、まだ良かった。異変があれば、警戒は意味を持つ。だが、何も起きないまま、ただ緊張だけを抱え続けるのは精神を静かに消耗させる。
ペンを持つ指先に力が入る。
(……集中しなきゃ)
自分に言い聞かせ、再び黒板へ視線を戻す。だが、ふとした瞬間に、講義スライドの英単語が意味を伴わない記号に見える。
あの村は、今どうなっているんだろう。
思考が、どうしてもそこへ戻ってしまう。アーヘンからは、何の返事もない。
着信履歴もメッセージも沈黙したままだ。それが、余計に胸をざわつかせる。
彼が何も掴めていないのか。それとも、掴んでいて、表に出せないのか。
あるいは、返事をすること自体が今は許されていないのか。
考えれば考えるほど、答えは暗い方向へ傾いていく。
講義室の窓から差し込む午後の光は、穏やかで、平和そのものだった。この光の下で、人は普通に学び、笑い、未来を語っている。その世界から、ヴァルトフェルト村だけが切り離されているように思えた。
(……あたしだけが、知っちゃった)
それは選ばれた者の使命でも、誇りでもない。ただ、重いだけの事実だった。何も起きていないように見える日常の裏側で、確実に“縫われていない裂け目”が存在している。
そしてそれを、今この瞬間、真正面から見据えているのは、講義室の片隅で英語の専門用語と現実の恐怖の間に挟まれ、必死に平静を装うメリッサ一人だけだった。
事件から、十日ほどが過ぎていた。
長いようで、短い。だが、メリッサにとっては、神経を張り詰めたまま呼吸を続けるには、十分すぎる時間だった。
空気は相変わらず平穏だ。
大学の構内では学生たちが笑い、課題の締め切りに追われ、次の休暇の話をしている。
世界は、何事もなかったかのように前へ進んでいる。そのことが、メリッサにはひどく不気味だった。
あの村で見た光景が、幻だったとは思えない。
鼻腔に残る、血と腐臭の混じった空気。
踏みしめた地面の感触。
そして、皮膚の奥を粟立たせた、あの禍々しい気配。
忘れられるはずがなかった。
十日のあいだ、彼女は何度もスマートフォンを確認した。通知音が鳴るたび、心臓が跳ね上がり、違うと分かるたびに静かに落ち込む。眠りも浅く、夢の中で何度も森の奥へ引き戻された。
その中で唯一の希望は、アーヘンからの連絡だった。
そして、十日目の午後。講義が終わり、人気の少ない廊下を歩いていたとき、ようやくスマートフォンが震えた。表示された名前に足が止まる。壁際に身を寄せ、周囲を確認してから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……ご連絡が遅くなりました』
その声は、疲弊を隠しきれていなかった。
「いえ。それで、どうなりました?」
一瞬の沈黙。その間に、嫌な予感が胸を満たしていく。
『国は動きません』
「……はい?」
思わず、声が裏返った。
「何で!?あんな事件が起きてて?」
『証拠がないからです。地元警察も、集団移転として処理しました』
言葉が、すぐには理解できなかった。
「……いやいやいや。確か生存者いましたよね?話、聞かないんですか?」
必死に食い下がると、アーヘンは低く息を吐いた。
『生存者は五名。全員、精神異常を来しています』
「……」
『話は……できる状態ではありません』
「嘘でしょ……」
声が掠れた。五人もいる。五人も“壊れてしまった”人間がいる。それが、何よりの証拠ではないのか。
だが、そうはならない。国の論理は、命や恐怖の実感とは、まったく別の場所にある。
原因不明。
証拠不十分。
それらの言葉が、見えない壁となって積み重なり、ヴァルトフェルト村で起きた“現実”を、なかったことにしていく。
メリッサは、壁にもたれたまま、視線を落とした。
(……そうやって、切り捨てるんだ)
理解してしまった瞬間、胸の奥が冷えた。
誰も、助けには来ない。少なくとも、“国”という存在は、村を見捨てたのだ。
「じゃあ、逆に……」
メリッサは一度、息を整えた。
「どういう状態なら、国は動きますか?ってか、動かせますか?」
受話口の向こうで、短く息を吸う音がした。
『……あなたは、どうしてそう……』
言いかけて、アーヘンは言葉を切った。苛立ちというより、理解できないものを見る視線が声に滲んでいる。
「無茶言ってるのは分かってます。でも」
メリッサは唇を噛み、続けた。
「たくさん、人が亡くなってるのに、何もしないのは……違うと思うので」
沈黙が流れる。その重さが、答えの代わりのようだった。
『これは、エルダニア国内の問題です』
淡々とした言葉は、外交官としてこれ以上ないほど“正しい”言い分だった。
『あなたには無関係だ』
その一言が、胸に突き刺さった。
「無関係じゃないです」
即座に返した。
「エルダニアだけで収まる話じゃないから、言ってるんです」
声は低かったが、はっきりしていた。一歩も引く気がないと、はっきり伝わる調子だ。
『……』
アーヘンは反論しなかった。それが、逆に彼の困惑を物語っている。
『仮に、ですよ』
少し間を置いて、彼は言った。
『仮に国を動かすとしたら――第三者が否定できない“物的証拠”が必要です』
「物的……」
『映像、痕跡、あるいは再現性のある異常現象。そして何より、“国境を越える危険性”が明確であること』
メリッサは、無意識に拳を握った。
(全部、あるじゃん……)
裂け目は存在していて魔界と繋がっている。放置すれば、次はどこが襲われるか分からない。だが、それを“証拠”として提示できる人間はいない。
『しかし、現状はどうです?』
アーヘンの声が、現実を突きつける。
『村は焼失。目撃者は精神崩壊。異常を示すデータは残っていない。国が動けば、説明責任が発生します。説明できない事象に、国家は踏み込まない』
「……だから、見殺しにするんですか」
思わず漏れた言葉に、アーヘンはわずかに沈黙した。
『……私は外交官です』
その声は、どこか疲れていた。
『英雄でも、救世主でもない』
冷たく硬い声。しかし完全に突き放しきれない曖昧さが残っている。
メリッサは、そこにわずかな隙を感じ取った。
この人も分かってる。分かっているからこそ、苦しいのだ。
「……じゃあ」
メリッサは、静かに言った。
「国が動かないなら、国じゃないところを動かします」
『……は?』
「証拠がなくても、説明できなくても、“危険だ”って分かってる人たちを動かすんです」
アーヘンの声に苦笑の色が混じっている。
『あなた、本当に無茶だ』
「知ってます」
けれど、その無茶を止められる人間は、今ここにはいない。電話の向こうで、アーヘンは長く息を吐いた。
『……深入りしないことです』
それは忠告であり、同時に、これ以上止めないという黙認でもあった。
メリッサはスマートフォンを握りしめながら、目を閉じた。残る方法は“国ではない力”を呼ぶしかない。
その先に何が待っているか、彼女はもう薄々分かっていた。
絶対に、動かしてみせる。
それは正義感でも使命感でもなく、もはや意地だった。理屈で切り捨てられ、証拠がないと退けられ、無関係だと線を引かれた、そのすべてに対する反発。
あの焼け落ちた村の光景が、脳裏にこびりついて離れない。無惨、という言葉でしか括れなかった現実を、“なかったこと”にするための沈黙が、何より許せなかった。
国を動かす必要はない。
誰かが「危険だ」と知っていればいい。
誰かが「見てしまった」と認めていればいい。
そして、誰かが――対処できる力を持っていればいい。
(……あたしがやらなきゃ、誰がやるのよ)
冥闘士として生きてきた時間が、皮肉にも背中を押す。陰の世界を知っているからこそ、あれがどれほど“こちら側”に侵食しているかが分かる。
国家の論理は、人を守るためにある。だが同時に、人を切り捨てるためにも使われる。
メリッサは、スマートフォンを見下ろした。
暗いままの画面に映る自分の顔が、ひどく頑なに見えた。
誰かの許可なんて、要らない。
評価も、理解も、今はいらない。
必要なのは、裂け目を塞ぐ力と魔を屠る光。そして、その両方を持つ存在の名が、はっきりと胸に浮かんでいた。
(……シオン様)
彼が来れば、すべてが変わる。それを、メリッサは疑っていなかった。意地は、時に祈りよりも強い。それは、誰にも見えない場所で燃え続ける、静かで、執念深い炎だった。
スマートフォンのアドレス帳を開いた。指先が迷いなくスクロールを止める。
《シオン様》
あまりにそのままで、思わず苦笑が漏れた。こんな登録名、誰かに見られたらどうするつもりだったのか。せめてイニシャルにするとか、仮名にするとか、やりようはいくらでもあったはずなのに。
名前くらい変えておけばよかった。
そう思うのに、今さらどうでもいいことだと自分で分かっている。今考えるべきなのは、この指で触れれば、彼をこの国へ呼び寄せてしまうという事実。
そして――それが、どれほどの波紋を生むかということ。
エルダニアは聖域を拒絶した。シオンは入国を拒否されている。それでも彼なら、物理的な国境など意味をなさない。だが、それは同時に、「聖域が動いた」という決定的な証拠にもなる。
(……あたしのせいで、って思われるよね)
胸の奥が、きゅっと詰まる。彼に背負わせたくないものが、山ほどある。
なのに、それでも――焼け落ちた村。
引き裂かれた空間。
狂気の底に沈んだ、生存者たち。
あれを知ってしまった以上、このまま講義を受けて、ノートを取り、「何も起きていない日常」に戻ることなんて、できるはずがなかった。
画面の《シオン様》が、静かに光を反射する。
呼べば来る。
来てしまう。
それを分かっていて、それでも指は、画面から離れなかった。
(……一回だけ。声、聞くだけだから)
自分にそう言い訳をしながら、メリッサは、深く息を吸い――通話ボタンの上に、指を置いた。
新聞も、ネットニュースも、夜のニュース番組も沈黙している。
(やっぱり、報道管制だよね)
メリッサはコンビニの外壁に背を預けたまま、スマートフォンの画面を伏せた。
検索結果は、何度更新しても変わらない。
存在していたはずの村が、最初からなかったかのように、情報の海から消えている。
それでいい、とも思う。
少なくとも、好奇心だけで近付く無謀な人間が現れなければ、二次被害は防げる。
あの場所には、まだ“いる”。
裂け目は閉じていない。むしろ、呼吸するように、ゆっくりと世界を侵食していた。
国内でこれなら、当然ギリシャでも報道はされない。一般社会に届くことは、まずないだろう。
でも。
(……聖域は?)
胸の奥が、きゅっと縮む。理屈ではなく、祈りに近い感情だった。
(シオン様、気付いてくれないかな……)
長い時間を生き、数え切れない異変と向き合ってきた人。世界の歪みに、誰よりも敏感なはずの存在。
気付いてほしい。できれば、すぐに。
(あたしのことは、ひとまず置いといていいからさ)
自嘲気味に、心の中で付け足す。
(いやほんと、今はそれどころじゃないでしょ……)
メリッサは空を仰いだ。雲ひとつない、穏やかすぎるほどの青空が広がっている。
この下で、一つの村が音もなく壊され、世界の境界が裂けているなんて、誰が想像するだろう。
(……ていうか)
ふと、別の思考が割り込んでくる。
(あの人、瞬間移動できるじゃん!)
思わず、口元が引きつった。
(来ようと思えば、一瞬で来られるじゃん……!)
彼の持つ能力を使えば、理論も手続きも国境も関係ないのに。
メリッサはまだ知らない。
聖域関係者が、エルダニアから一斉に入国拒否されていることも、エルダニアが、すでに聖域の庇護対象国家から除外されていることも。
知らないからこそ、彼女はまだ「来てくれるはずだ」と思えてしまう。
(お願いだから……世界が壊れる前に来て)
それは恋人に向けた願いであると同時に、冥闘士として、かつて聖域に身を置いた者としての、切実な祈りだった。
メリッサは立ち上がり、深く息を吸った。
恐怖は消えない。
孤独も、疑念も、何ひとつ解決していない。
その中で、自分が“気付いてしまった”という事実だけは、揺るがなかった。
ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンからの報告は、外務省の正式な回線を通じて王宮へと上げられた。
辺境の農村で発生した集団失踪事件。通常の犯罪とは明らかに異なる様相。そして、空間的異常の可能性。
文面は冷静で、感情は削ぎ落とされていた。それでも、行間には切迫感が滲んでいたはずだ。だが、王宮が示した反応は、即応ではなかった。
王の執務室に集められたのは、軍務卿、外務卿、内務卿、情報局長、そして王宮付きの法務顧問。
誰も声を上げず、誰も「急ぐべきだ」と断言しない。
「証拠は?」
国王が最初に口にしたのは、その一言だった。
「生存者の証言はあるのか」
「映像記録は?」
「犯行主体を特定できる物証は?」
報告書を机に伏せ、王は指先でゆっくりと紙を叩く。まるで、その紙が国家の安定を脅かす“異物”であるかのように。
外務卿が慎重に言葉を選ぶ。
「ヴァルトフェルト村は、国境に最も近い集落です。
隣国からの越境犯罪、あるいは武装集団による犯行の可能性も、現段階では否定できません」
その言葉に、数人が小さく頷いた。そうして責任の所在が曖昧になっていく。それは、政治において“時間を稼ぐ理由”になる。
情報局長も続く。
「現地は通信インフラが脆弱です。警察到着までに時間がかかり、証拠保全も十分とは言えません。現状では、憶測が先行する危険性が高いかと」
「憶測」
王はその言葉を、ゆっくりと反芻した。
「我が国が、正体不明の“異界の存在”に襲われた、という話を、今この段階で公表すればどうなる?」
誰もすぐに答えない。
「国民は動揺する。市場が不安定になる。周辺国は軍事的緊張を理由に動くだろう。国債は売られ、貨幣価値は下がる」
言外に、誰もが理解している。それは外交上の敗北だと。
「証拠がない以上、我々は動けない」
王は結論づけるように言った。
「仮に異常事態であったとしても、国家は“確証”なしには動けない。ましてや、現在、聖域との関係が不安定な状況で、根拠の薄い主張を国際社会に提示するのは愚策だ」
聖域――
その名が出た瞬間、空気が僅かに硬くなる。
誰もが知っている。この国は今、聖域との対立を選び、その結果をまだ正しく理解していない。
「引き続き、情報収集を優先する。警察には、隣国絡みの線も含めて調査させろ。ただし――」
王は視線を上げる。
「騒ぎは、外へ出すな」
それは命令だった。真実よりも、正義よりも、今は「国家の体面」が優先される。
王宮は、そうして“何も決断しない”という決断を下した。その間にも、ヴァルトフェルト村の裂け目は確実に広がっていく。政治が証拠を待つ間でも、世界の歪みは待ってはくれない。
ヴァルトフェルト村の事件以降、街の空気に目立った変化はない。空は変わらず青く、人々は通学や通勤に追われ、大学の構内もいつも通りの喧騒を保っている。
静かすぎる。
メリッサはそう感じながら、講義室の椅子に身を預けていた。英語で進められる専門科目の講義は、ただでさえ気を抜けない。一瞬でも意識を逸らせば、話題は次の段階へ進み、数式や専門用語が黒板を埋め尽くす。それを追いかけるには、思考のすべてを講義に向ける必要があった。だが、今のメリッサにはそれが難しい。
耳は教授の声を拾っている。
ノートも取っている。
それでも、意識の底では常に別のものを探してしまう。そのせいで神経がすり減っていく。
何かが起きていれば、まだ良かった。異変があれば、警戒は意味を持つ。だが、何も起きないまま、ただ緊張だけを抱え続けるのは精神を静かに消耗させる。
ペンを持つ指先に力が入る。
(……集中しなきゃ)
自分に言い聞かせ、再び黒板へ視線を戻す。だが、ふとした瞬間に、講義スライドの英単語が意味を伴わない記号に見える。
あの村は、今どうなっているんだろう。
思考が、どうしてもそこへ戻ってしまう。アーヘンからは、何の返事もない。
着信履歴もメッセージも沈黙したままだ。それが、余計に胸をざわつかせる。
彼が何も掴めていないのか。それとも、掴んでいて、表に出せないのか。
あるいは、返事をすること自体が今は許されていないのか。
考えれば考えるほど、答えは暗い方向へ傾いていく。
講義室の窓から差し込む午後の光は、穏やかで、平和そのものだった。この光の下で、人は普通に学び、笑い、未来を語っている。その世界から、ヴァルトフェルト村だけが切り離されているように思えた。
(……あたしだけが、知っちゃった)
それは選ばれた者の使命でも、誇りでもない。ただ、重いだけの事実だった。何も起きていないように見える日常の裏側で、確実に“縫われていない裂け目”が存在している。
そしてそれを、今この瞬間、真正面から見据えているのは、講義室の片隅で英語の専門用語と現実の恐怖の間に挟まれ、必死に平静を装うメリッサ一人だけだった。
事件から、十日ほどが過ぎていた。
長いようで、短い。だが、メリッサにとっては、神経を張り詰めたまま呼吸を続けるには、十分すぎる時間だった。
空気は相変わらず平穏だ。
大学の構内では学生たちが笑い、課題の締め切りに追われ、次の休暇の話をしている。
世界は、何事もなかったかのように前へ進んでいる。そのことが、メリッサにはひどく不気味だった。
あの村で見た光景が、幻だったとは思えない。
鼻腔に残る、血と腐臭の混じった空気。
踏みしめた地面の感触。
そして、皮膚の奥を粟立たせた、あの禍々しい気配。
忘れられるはずがなかった。
十日のあいだ、彼女は何度もスマートフォンを確認した。通知音が鳴るたび、心臓が跳ね上がり、違うと分かるたびに静かに落ち込む。眠りも浅く、夢の中で何度も森の奥へ引き戻された。
その中で唯一の希望は、アーヘンからの連絡だった。
そして、十日目の午後。講義が終わり、人気の少ない廊下を歩いていたとき、ようやくスマートフォンが震えた。表示された名前に足が止まる。壁際に身を寄せ、周囲を確認してから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……ご連絡が遅くなりました』
その声は、疲弊を隠しきれていなかった。
「いえ。それで、どうなりました?」
一瞬の沈黙。その間に、嫌な予感が胸を満たしていく。
『国は動きません』
「……はい?」
思わず、声が裏返った。
「何で!?あんな事件が起きてて?」
『証拠がないからです。地元警察も、集団移転として処理しました』
言葉が、すぐには理解できなかった。
「……いやいやいや。確か生存者いましたよね?話、聞かないんですか?」
必死に食い下がると、アーヘンは低く息を吐いた。
『生存者は五名。全員、精神異常を来しています』
「……」
『話は……できる状態ではありません』
「嘘でしょ……」
声が掠れた。五人もいる。五人も“壊れてしまった”人間がいる。それが、何よりの証拠ではないのか。
だが、そうはならない。国の論理は、命や恐怖の実感とは、まったく別の場所にある。
原因不明。
証拠不十分。
それらの言葉が、見えない壁となって積み重なり、ヴァルトフェルト村で起きた“現実”を、なかったことにしていく。
メリッサは、壁にもたれたまま、視線を落とした。
(……そうやって、切り捨てるんだ)
理解してしまった瞬間、胸の奥が冷えた。
誰も、助けには来ない。少なくとも、“国”という存在は、村を見捨てたのだ。
「じゃあ、逆に……」
メリッサは一度、息を整えた。
「どういう状態なら、国は動きますか?ってか、動かせますか?」
受話口の向こうで、短く息を吸う音がした。
『……あなたは、どうしてそう……』
言いかけて、アーヘンは言葉を切った。苛立ちというより、理解できないものを見る視線が声に滲んでいる。
「無茶言ってるのは分かってます。でも」
メリッサは唇を噛み、続けた。
「たくさん、人が亡くなってるのに、何もしないのは……違うと思うので」
沈黙が流れる。その重さが、答えの代わりのようだった。
『これは、エルダニア国内の問題です』
淡々とした言葉は、外交官としてこれ以上ないほど“正しい”言い分だった。
『あなたには無関係だ』
その一言が、胸に突き刺さった。
「無関係じゃないです」
即座に返した。
「エルダニアだけで収まる話じゃないから、言ってるんです」
声は低かったが、はっきりしていた。一歩も引く気がないと、はっきり伝わる調子だ。
『……』
アーヘンは反論しなかった。それが、逆に彼の困惑を物語っている。
『仮に、ですよ』
少し間を置いて、彼は言った。
『仮に国を動かすとしたら――第三者が否定できない“物的証拠”が必要です』
「物的……」
『映像、痕跡、あるいは再現性のある異常現象。そして何より、“国境を越える危険性”が明確であること』
メリッサは、無意識に拳を握った。
(全部、あるじゃん……)
裂け目は存在していて魔界と繋がっている。放置すれば、次はどこが襲われるか分からない。だが、それを“証拠”として提示できる人間はいない。
『しかし、現状はどうです?』
アーヘンの声が、現実を突きつける。
『村は焼失。目撃者は精神崩壊。異常を示すデータは残っていない。国が動けば、説明責任が発生します。説明できない事象に、国家は踏み込まない』
「……だから、見殺しにするんですか」
思わず漏れた言葉に、アーヘンはわずかに沈黙した。
『……私は外交官です』
その声は、どこか疲れていた。
『英雄でも、救世主でもない』
冷たく硬い声。しかし完全に突き放しきれない曖昧さが残っている。
メリッサは、そこにわずかな隙を感じ取った。
この人も分かってる。分かっているからこそ、苦しいのだ。
「……じゃあ」
メリッサは、静かに言った。
「国が動かないなら、国じゃないところを動かします」
『……は?』
「証拠がなくても、説明できなくても、“危険だ”って分かってる人たちを動かすんです」
アーヘンの声に苦笑の色が混じっている。
『あなた、本当に無茶だ』
「知ってます」
けれど、その無茶を止められる人間は、今ここにはいない。電話の向こうで、アーヘンは長く息を吐いた。
『……深入りしないことです』
それは忠告であり、同時に、これ以上止めないという黙認でもあった。
メリッサはスマートフォンを握りしめながら、目を閉じた。残る方法は“国ではない力”を呼ぶしかない。
その先に何が待っているか、彼女はもう薄々分かっていた。
絶対に、動かしてみせる。
それは正義感でも使命感でもなく、もはや意地だった。理屈で切り捨てられ、証拠がないと退けられ、無関係だと線を引かれた、そのすべてに対する反発。
あの焼け落ちた村の光景が、脳裏にこびりついて離れない。無惨、という言葉でしか括れなかった現実を、“なかったこと”にするための沈黙が、何より許せなかった。
国を動かす必要はない。
誰かが「危険だ」と知っていればいい。
誰かが「見てしまった」と認めていればいい。
そして、誰かが――対処できる力を持っていればいい。
(……あたしがやらなきゃ、誰がやるのよ)
冥闘士として生きてきた時間が、皮肉にも背中を押す。陰の世界を知っているからこそ、あれがどれほど“こちら側”に侵食しているかが分かる。
国家の論理は、人を守るためにある。だが同時に、人を切り捨てるためにも使われる。
メリッサは、スマートフォンを見下ろした。
暗いままの画面に映る自分の顔が、ひどく頑なに見えた。
誰かの許可なんて、要らない。
評価も、理解も、今はいらない。
必要なのは、裂け目を塞ぐ力と魔を屠る光。そして、その両方を持つ存在の名が、はっきりと胸に浮かんでいた。
(……シオン様)
彼が来れば、すべてが変わる。それを、メリッサは疑っていなかった。意地は、時に祈りよりも強い。それは、誰にも見えない場所で燃え続ける、静かで、執念深い炎だった。
スマートフォンのアドレス帳を開いた。指先が迷いなくスクロールを止める。
《シオン様》
あまりにそのままで、思わず苦笑が漏れた。こんな登録名、誰かに見られたらどうするつもりだったのか。せめてイニシャルにするとか、仮名にするとか、やりようはいくらでもあったはずなのに。
名前くらい変えておけばよかった。
そう思うのに、今さらどうでもいいことだと自分で分かっている。今考えるべきなのは、この指で触れれば、彼をこの国へ呼び寄せてしまうという事実。
そして――それが、どれほどの波紋を生むかということ。
エルダニアは聖域を拒絶した。シオンは入国を拒否されている。それでも彼なら、物理的な国境など意味をなさない。だが、それは同時に、「聖域が動いた」という決定的な証拠にもなる。
(……あたしのせいで、って思われるよね)
胸の奥が、きゅっと詰まる。彼に背負わせたくないものが、山ほどある。
なのに、それでも――焼け落ちた村。
引き裂かれた空間。
狂気の底に沈んだ、生存者たち。
あれを知ってしまった以上、このまま講義を受けて、ノートを取り、「何も起きていない日常」に戻ることなんて、できるはずがなかった。
画面の《シオン様》が、静かに光を反射する。
呼べば来る。
来てしまう。
それを分かっていて、それでも指は、画面から離れなかった。
(……一回だけ。声、聞くだけだから)
自分にそう言い訳をしながら、メリッサは、深く息を吸い――通話ボタンの上に、指を置いた。
