Eine Kleine Ⅱ
エルダニア王国の中心地から少し離れた丘陵地帯に、その施設は静かに佇んでいた。
朝霧の残る空気を割って車列が進む。王立医療技術研究所──世界中から才覚ある研究者が集い、難治疾患や新薬の開発が昼夜問わず続けられている場所だ。
「こちらが本研究所の基幹棟にございます、教皇猊下」
案内役の研究所長が丁寧に頭を下げる。それを見てシオンは微笑を返し、軽く首を振った。
「どうか頭を上げてください。今日はただ、学ばせていただきたくて参っただけです。皆様の取り組みを拝見できるのは、私にとっても喜ばしいことです」
声は柔らかく、威圧感など欠片もない。所長は一瞬戸惑ったように瞬きをし、すぐに深い敬意を込めて頷いた。
廊下を歩けば、ガラス越しに白衣の研究者たちが忙しく行き交う。
細胞培養室、分析機器の並ぶ実験室、希少疾患のデータセンター──医療の最前線を支える静謐な空気が広がっていた。
「皆、この国の未来を支えてくれているのですね……」
シオンが漏らした言葉は、感傷的な響きを帯びていた。王国側の随行スタッフが振り返る。
「ええ。国費留学制度も拡充し、海外の学生も積極的に招いております。とりわけ薬学は我が国の誇りでして」
薬学──その言葉に、シオンの胸が微かに揺れた。
(……メリッサ)
思いがけず浮かんだ横顔に、歩を進めながら心がほどける。彼女が今、ギリシャでどんな朝を過ごしているのかと考えてしまう。
(会いたい……)
胸に満ちるその一欠片の想いを、誰にも悟られぬように息とともに沈めた。
研究者たちとの懇談では、シオンは一人一人の言葉に丁寧に耳を傾けた。自身の専門外の分野であっても、質問は端的で礼を失わず、理解しようとする姿勢に無理がない。
「難治疾患……この領域に挑むには、相当の忍耐を要するのでしょうね」
「はい。しかし、誰かを救える可能性があるなら、そこに懸けたいのです」
若い研究者がそう答えると、シオンは優しい目で微笑んだ。
「尊い志です。どうか、その灯が消えることのないよう……私も祈っています」
まるで彼の言葉そのものが祝福のように、研究者は深く頭を下げた。
視察の終わりに、所長が感謝を述べた。
「本日は誠に光栄でした。我々の活動が、僅かでも聖域のお役に立てば幸いです」
「いえ、こちらこそ。あなた方の営みは、この世界にとってかけがえのないものです。どうか自負を持って、歩みを続けてください」
穏やかな声だった。だがその奥には、遠く離れた場所にいる“愛しい人”を思う気配が密かに揺れている。
車へ戻る道すがら、冷たい風が頬をかすめた。胸の奥で静かに疼いている想いを、シオンは黙って受け止めた。
(……メリッサに触れたい。ただ、それだけが叶えばいいのに)
それは誰にも悟られることのない、ささやかな願いだった。
王城内の小広間。
昼の日差しが金箔細工の壁面にやわらかく反射し、明るいながらも過度な華美にはならない空間だった。
円卓には季節の食材を使った料理が整然と並び、隣国の賓客を迎えるには十分以上の格がある。
シオンが席に着くと、国王の隣に座るアリシア王女が、花開くように美しい笑みを向けた。
「教皇猊下。ようこそ、私どもの昼餐へ。昨夜は、十分なおもてなしができましたでしょうか」
声はどこか張り詰めたような気配があった。恐らく、国王から“しっかり務めなさい”と指示されたのだろう。
シオンは穏やかな眼差しで答えた。
「王女殿下。昨夜の夜会は大変見事なものでした。貴国のおもてなしには、私も随行の者たちも心より感謝しております」
アリシアはぱっと頬を染め、胸の前で指をぎゅっと揃えるようにして喜びを押しとどめた。
「ほ、本当ですか……?私、まだ夜会の作法は勉強中で……」
「殿下の御振る舞いは、誰よりも清らかでいらっしゃいましたよ」
国王はその言葉に満足げに目を細めた。その横顔を見て、シオンは内心で小さく息をつく。──思惑があからさま過ぎる。
だが表情には出さず、淡々と料理に手を伸ばす。
食事が進むにつれ、アリシアは懸命に会話の糸口を探した。政治の話題にもついていこうと努力し、医療視察の感想を聞かれれば、一生懸命理解しようとする。
「猊下……今日、研究所をご覧になっていかがでしたか?」
「どの研究者も真摯で、使命を胸に抱いているように感じました。この国が人々の未来のために力を尽くしていることは、まことに尊いことです」
「まあ……!」
彼の言葉に、王女の表情が静かに綻んだ。
真っ直ぐに国を思い、誠実であろうと努める若き王女の姿は、気高く、瑞々しい魅力を湛えていた。
(……それでも、心がそちらへ傾くことはないのだが)
王女は礼儀正しく、言葉を選ぶ姿も誠実さが滲んでいる。彼女は若いながらに責務を真摯に見つめている。その一つ一つを目にするたび、シオンは自然と姿勢を正したくなる。
敬意を抱くことに、何の逡巡もなかった。ただ、胸の奥にはしっかりと根づいてしまった想いがある。誰かを思う気持ちは、理屈で組み替えられるようなものではないのだと、彼自身が一番よく知っている。だからこそ、王女に対しては誠実であろうと心に決める。
期待を与えるような色を混ぜず、けれど冷たくもならぬように。
わずかな距離を保つその在り方は、誰かを拒むためではなく、自分の選んだ道に嘘をつかないための、静かな誓いのようなものだった。
国王は満ち足りたように杯を傾けた。
穏やかに綻ぶ表情は、娘の振る舞いを素直に喜んでいる父親のものに見える。だが、その瞳の奥にわずかに沈む光は、統治者が持つ計りごとの気配を隠しきれてはいなかった。
「猊下、アリシアは幼き頃より国家の未来を案じて育ってきております。学問も礼儀作法も習得に励み、今日こうして場を務められたことを父として誇りに思います」
「殿下は立派に役目を果たしておられます。道のりは長いでしょうが……どうか、ご自身の歩幅を大切になさってください」
優しい声だった。それは、若き王女の努力に敬意を払う声音だった。
アリシアは胸に手を当て、熱に浮かされたような表情でシオンを見つめた。
(……なんてお優しい方。こんなにも私の心に触れてくださるなんて)
シオンの眼差しは、あくまで静かだった。慈しみの奥には、別の誰かへの想いが淡く影を落としていることなど、アリシアは知らない。
(メリッサ……)
会いたいという切なさがふっと胸を撫でる。
それでも、彼は微笑んだまま、円卓の主賓としての務めを果たし続けた。
午後の陽光が王宮の白壁を照らし、淡い金の光が廊下に長い影を落としていた。
シオンが歩む前では絨毯が吸い込むように音を静め、彼の周囲だけ時がゆっくり流れているかのようだった。
「こちらが、臨床部門の治療棟でございます…」
隣を歩くアリシア王女の声は緊張がそのまま透けて見える。
淑やかな所作。その細い手は、案内用の資料を持つだけで精一杯のようだった。
シオンは歩みを緩め、穏やかな声で問いかける。
「王女殿下がご案内くださるとは恐縮です。大変でしょうに」
「い、いえ…っ。お役に立てるなら…その、光栄です」
アリシアは真っ赤になり、足元に視線を落とした。
自動扉が開くと、薬品の人工的な匂いと、低い機器音が混じった空気が流れ込んできた。
無菌室の窓越しには、若い医師たちが患者のカルテを確認している。奥にはベッドに横たわる幼い子ども、点滴スタンド、モニターの緑の光が見える。
「…希少疾患の専門棟でして、王国としても重点的に力を入れております」
アリシアの説明は丁寧ながら簡潔で、言葉を選びながらも懸命に伝えようとしていた。
シオンは窓越しに患者たちへ視線を向けながら、小さく息をつく。
「立派な取り組みです。患者に寄り添う姿勢が感じられます」
声音は優しく、どこか遠い。その距離にアリシアは気づかない。
(…メリッサなら、どんな表情でこの場を見つめるのだろう)
弱い者を放っておけない優しさ。病める人の手を、迷わず取るだろう姿。彼女が薬学を志した理由。家族のこと。そして、夏に一人になってしまったこと。
胸の奥に痛みが走り、喉が詰まる。思わず目を伏せ眉根を寄せた。
アリシアが不安げに説明を続ける声が、かろうじてシオンを現実に引き戻した。
「この棟では、治験ボランティアの方々にも…えっと…王国として…その……」
説明が詰まり、王女は焦ったように資料を捲る。
シオンは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下。殿下のお言葉で十分伝わっています。…どうか緊張なさらずに」
アリシアの肩がふるりと揺れた。
安心したように、しかし恋を自覚した女子のそれでもあって、頬が染まる。その姿は、あまりに初々しい。
窓際で患者に寄り添う看護師の姿を見ながら、シオンは静かに息を吐いた。
(…帰ったら、メリッサに会いたい)
その想いは決して表には出さない。
教皇としての顔は、どこまでも静かで穏やかだった。
「では、この先の小児科治療室をご案内いたします…」
アリシアは勇気を振り絞るように、深呼吸をして歩き出す。
シオンはその後ろ姿を見つめながら、胸の奥に密かに渦巻く想いを押し隠し、歩みを進めた。
臨床部門の視察が終わるころ、王都の空には柔らかな薄雲が広がり、午後の日差しが優しい金に変わっていた。
研究所の重厚なエントランス前には、既に政府要人たちが整列し、シオンを迎える準備を整えている。
アリシア王女もその場に立ち、緊張の面持ちで胸元を押さえていた。王女としての務めを果たすため。そして何より、シオンに恥じない自分でいたいため。
研究所長が深々と頭を下げる。
「聖域教皇猊下。本日はご足労いただき、恐れ入ります」
「いえ、とんでもありません。皆様の取り組みを拝見できるのは光栄です」
シオンは柔らかに会釈した。
その瞬間だった。
フラッシュのような強い日差しが雲間から差し込み、アリシア王女が反射的に目を細めた。足元に影が揺れた、その一瞬。
王女の小さなヒールが、敷石のわずかな段差に引っかかった。
「あっ――」
王女の身体が傾く。髪飾りが揺れ、淡い香りが空気にほどけた。
シオンは振り返るより速く、自然な動作でその細い身体を支えた。肩と腰をそっと支え、引き寄せるようにして転倒を防ぐ。
シオンの胸元に飛び込むようになったアリシアは、衝撃と動揺で固まったまま、顔を上げることすらできない。
「お怪我はありませんか、殿下」
シオンの声は驚くほど優しかった。
「あ、あの……っ、も、も、申し訳ございません……」
アリシアは震える声で答え、頬は熟した果実のように赤く染まっていた。
政府要人たちはハッと息を呑み、次にざわめきが走る。
幸いにも、失礼に見えるような抱き寄せ方ではなかったが、それでも王女と青年教皇の距離は近く、周囲の者たちには特別な光景に映ったことだろう。
シオンは王女をゆっくりと立ち直らせ、手を離した。
「段差にお気をつけください。危ないところでした」
「……は、はい……」
アリシアの声はすっかり涙声で、震える手を胸元に当てていた。
王女の侍女が駆け寄ろうとしたが、国王の側近が目を制して止める。王の意図は明らかだった。
この“偶然”の距離を、できるだけ周囲に印象づけさせたいのだ。
しかしシオンは、何事もなかったように、視線を要人たちへ戻した。穏やかに、けれど一線を越えない立ち振る舞いで。
「失礼いたしました。では、続きを伺ってもよろしいでしょうか」
研究所長は慌てて資料を持ち直す。
「は、はい。こちらが次世代の遺伝子治療プロジェクトとなります」
懇談室へ移動しながら、話題は王国の医療政策、研究の安全性、国際協力へと広がっていく。
シオンは的確に、しかし威圧感を与えない穏やかな返答で議論を進めていった。
アリシアは少し離れた位置からそれを見つめていた。先ほど支えられた際の体温がまだ体に残っているようで、胸の奥はずっと落ち着かない。それでも、邪魔をしないよう必死に気配を押し殺していた。
シオンは国王の思惑に気づいている。そして、彼女の恋心にも気づいてしまった。それでも態度を変えないのは役目を果たすため。そして、心の奥にいる誰かを裏切らないため。
(…メリッサ。そなたは今頃、私からの連絡を待っているのだろうか)
ふと漏れたその想いが、胸の奥を鋭く締めつけた。
夕陽が王宮の白壁を薔薇色に染め、長い回廊へ柔らかな陰影を落としていた。
日中の視察と懇談を滞りなく終えたシオンは、アリシア王女と数名の護衛に囲まれながら、緩やかな歩調で王の待つ小広間へと向かう。
午後の公務で、王女は終始、慎ましくも献身的に振る舞い、国王が望んだ“良きホスト役”として見事な役目を果たしていた。その様子を、シオンは距離を保ちつつも確かな礼意をもって受け止めていた。
午後の公務を終え、一行が王城の廊下を進んでいたときだった。
冬の日は短く、窓の外はすでに淡い群青へと沈んでいる。天井の燭台にともった金の灯が、石造りの壁に揺らめきながら反射していた。
「教皇猊下」
国王が柔らかく声をかけた。
公務のときとは違う、どこか私的な温度を含んだ声音。同行していたアリシア王女が、そっと背すじを伸ばす。
「本日は、遠国よりのご来訪に改めて感謝申し上げます。父としても、王としても……猊下ともう少し、ゆるやかに語らえる時を持ちたいと考えております」
国王は歩みを緩め、シオンの正面に立つ。
威圧の影はなく、むしろ優雅で誠実な雰囲気をまとっていた。その立ち居振る舞いは、王家が“客人を心からもてなそうとしている”ことを示している。
「――もしお時間が許すならば、今宵、ささやかな晩餐を設けたいと思うのですが。私的な席でありますが、親睦を深める機会となれば幸いです」
アリシア王女が、澄んだ翠の瞳をシオンへと向けた。王女は気品に溢れていたが、その視線にはどうしようもなく年頃の女性らしいときめきが宿っていた。
シオンは、その想いを見抜いている。
「ありがたいお申し出です、国王陛下。明朝より他国へ向かいますゆえ、長くは滞在できませぬが……陛下のお心遣いに報いることができるのなら、それ以上のことはございません」
柔らかい声音。
相手への敬意を保ちつつ、過度な期待を抱かせない絶妙な返し。
国王は満足げに微笑み、深く頷いた。
「それはようございました。では、今宵は身内だけの食卓を。アリシア、支度を頼む」
「はい、お父様」
アリシアは頬を染め、そっとスカートをつまんで一礼した。まるで胸の奥がふわりと膨らむような表情。王女は昨夜からずっと、シオンを目で追っていた。そして今、父が作ったこの機会に、小さな希望を抱き始めていた。
シオンはその一瞬の変化に気づいたが、静かに礼を返しただけだった。
(……丁重に応じつつ、線は引く。それが今は最も良いだろう)
心にだけ、誰にも悟られぬようにそう呟きながら。
王城の灯りが、彼らの影を長く伸ばしていた。
晩餐の用意が整うまでの静かな空気には、思惑と感情がゆるやかに混ざり合った、微妙な熱が漂っていた。
朝霧の残る空気を割って車列が進む。王立医療技術研究所──世界中から才覚ある研究者が集い、難治疾患や新薬の開発が昼夜問わず続けられている場所だ。
「こちらが本研究所の基幹棟にございます、教皇猊下」
案内役の研究所長が丁寧に頭を下げる。それを見てシオンは微笑を返し、軽く首を振った。
「どうか頭を上げてください。今日はただ、学ばせていただきたくて参っただけです。皆様の取り組みを拝見できるのは、私にとっても喜ばしいことです」
声は柔らかく、威圧感など欠片もない。所長は一瞬戸惑ったように瞬きをし、すぐに深い敬意を込めて頷いた。
廊下を歩けば、ガラス越しに白衣の研究者たちが忙しく行き交う。
細胞培養室、分析機器の並ぶ実験室、希少疾患のデータセンター──医療の最前線を支える静謐な空気が広がっていた。
「皆、この国の未来を支えてくれているのですね……」
シオンが漏らした言葉は、感傷的な響きを帯びていた。王国側の随行スタッフが振り返る。
「ええ。国費留学制度も拡充し、海外の学生も積極的に招いております。とりわけ薬学は我が国の誇りでして」
薬学──その言葉に、シオンの胸が微かに揺れた。
(……メリッサ)
思いがけず浮かんだ横顔に、歩を進めながら心がほどける。彼女が今、ギリシャでどんな朝を過ごしているのかと考えてしまう。
(会いたい……)
胸に満ちるその一欠片の想いを、誰にも悟られぬように息とともに沈めた。
研究者たちとの懇談では、シオンは一人一人の言葉に丁寧に耳を傾けた。自身の専門外の分野であっても、質問は端的で礼を失わず、理解しようとする姿勢に無理がない。
「難治疾患……この領域に挑むには、相当の忍耐を要するのでしょうね」
「はい。しかし、誰かを救える可能性があるなら、そこに懸けたいのです」
若い研究者がそう答えると、シオンは優しい目で微笑んだ。
「尊い志です。どうか、その灯が消えることのないよう……私も祈っています」
まるで彼の言葉そのものが祝福のように、研究者は深く頭を下げた。
視察の終わりに、所長が感謝を述べた。
「本日は誠に光栄でした。我々の活動が、僅かでも聖域のお役に立てば幸いです」
「いえ、こちらこそ。あなた方の営みは、この世界にとってかけがえのないものです。どうか自負を持って、歩みを続けてください」
穏やかな声だった。だがその奥には、遠く離れた場所にいる“愛しい人”を思う気配が密かに揺れている。
車へ戻る道すがら、冷たい風が頬をかすめた。胸の奥で静かに疼いている想いを、シオンは黙って受け止めた。
(……メリッサに触れたい。ただ、それだけが叶えばいいのに)
それは誰にも悟られることのない、ささやかな願いだった。
王城内の小広間。
昼の日差しが金箔細工の壁面にやわらかく反射し、明るいながらも過度な華美にはならない空間だった。
円卓には季節の食材を使った料理が整然と並び、隣国の賓客を迎えるには十分以上の格がある。
シオンが席に着くと、国王の隣に座るアリシア王女が、花開くように美しい笑みを向けた。
「教皇猊下。ようこそ、私どもの昼餐へ。昨夜は、十分なおもてなしができましたでしょうか」
声はどこか張り詰めたような気配があった。恐らく、国王から“しっかり務めなさい”と指示されたのだろう。
シオンは穏やかな眼差しで答えた。
「王女殿下。昨夜の夜会は大変見事なものでした。貴国のおもてなしには、私も随行の者たちも心より感謝しております」
アリシアはぱっと頬を染め、胸の前で指をぎゅっと揃えるようにして喜びを押しとどめた。
「ほ、本当ですか……?私、まだ夜会の作法は勉強中で……」
「殿下の御振る舞いは、誰よりも清らかでいらっしゃいましたよ」
国王はその言葉に満足げに目を細めた。その横顔を見て、シオンは内心で小さく息をつく。──思惑があからさま過ぎる。
だが表情には出さず、淡々と料理に手を伸ばす。
食事が進むにつれ、アリシアは懸命に会話の糸口を探した。政治の話題にもついていこうと努力し、医療視察の感想を聞かれれば、一生懸命理解しようとする。
「猊下……今日、研究所をご覧になっていかがでしたか?」
「どの研究者も真摯で、使命を胸に抱いているように感じました。この国が人々の未来のために力を尽くしていることは、まことに尊いことです」
「まあ……!」
彼の言葉に、王女の表情が静かに綻んだ。
真っ直ぐに国を思い、誠実であろうと努める若き王女の姿は、気高く、瑞々しい魅力を湛えていた。
(……それでも、心がそちらへ傾くことはないのだが)
王女は礼儀正しく、言葉を選ぶ姿も誠実さが滲んでいる。彼女は若いながらに責務を真摯に見つめている。その一つ一つを目にするたび、シオンは自然と姿勢を正したくなる。
敬意を抱くことに、何の逡巡もなかった。ただ、胸の奥にはしっかりと根づいてしまった想いがある。誰かを思う気持ちは、理屈で組み替えられるようなものではないのだと、彼自身が一番よく知っている。だからこそ、王女に対しては誠実であろうと心に決める。
期待を与えるような色を混ぜず、けれど冷たくもならぬように。
わずかな距離を保つその在り方は、誰かを拒むためではなく、自分の選んだ道に嘘をつかないための、静かな誓いのようなものだった。
国王は満ち足りたように杯を傾けた。
穏やかに綻ぶ表情は、娘の振る舞いを素直に喜んでいる父親のものに見える。だが、その瞳の奥にわずかに沈む光は、統治者が持つ計りごとの気配を隠しきれてはいなかった。
「猊下、アリシアは幼き頃より国家の未来を案じて育ってきております。学問も礼儀作法も習得に励み、今日こうして場を務められたことを父として誇りに思います」
「殿下は立派に役目を果たしておられます。道のりは長いでしょうが……どうか、ご自身の歩幅を大切になさってください」
優しい声だった。それは、若き王女の努力に敬意を払う声音だった。
アリシアは胸に手を当て、熱に浮かされたような表情でシオンを見つめた。
(……なんてお優しい方。こんなにも私の心に触れてくださるなんて)
シオンの眼差しは、あくまで静かだった。慈しみの奥には、別の誰かへの想いが淡く影を落としていることなど、アリシアは知らない。
(メリッサ……)
会いたいという切なさがふっと胸を撫でる。
それでも、彼は微笑んだまま、円卓の主賓としての務めを果たし続けた。
午後の陽光が王宮の白壁を照らし、淡い金の光が廊下に長い影を落としていた。
シオンが歩む前では絨毯が吸い込むように音を静め、彼の周囲だけ時がゆっくり流れているかのようだった。
「こちらが、臨床部門の治療棟でございます…」
隣を歩くアリシア王女の声は緊張がそのまま透けて見える。
淑やかな所作。その細い手は、案内用の資料を持つだけで精一杯のようだった。
シオンは歩みを緩め、穏やかな声で問いかける。
「王女殿下がご案内くださるとは恐縮です。大変でしょうに」
「い、いえ…っ。お役に立てるなら…その、光栄です」
アリシアは真っ赤になり、足元に視線を落とした。
自動扉が開くと、薬品の人工的な匂いと、低い機器音が混じった空気が流れ込んできた。
無菌室の窓越しには、若い医師たちが患者のカルテを確認している。奥にはベッドに横たわる幼い子ども、点滴スタンド、モニターの緑の光が見える。
「…希少疾患の専門棟でして、王国としても重点的に力を入れております」
アリシアの説明は丁寧ながら簡潔で、言葉を選びながらも懸命に伝えようとしていた。
シオンは窓越しに患者たちへ視線を向けながら、小さく息をつく。
「立派な取り組みです。患者に寄り添う姿勢が感じられます」
声音は優しく、どこか遠い。その距離にアリシアは気づかない。
(…メリッサなら、どんな表情でこの場を見つめるのだろう)
弱い者を放っておけない優しさ。病める人の手を、迷わず取るだろう姿。彼女が薬学を志した理由。家族のこと。そして、夏に一人になってしまったこと。
胸の奥に痛みが走り、喉が詰まる。思わず目を伏せ眉根を寄せた。
アリシアが不安げに説明を続ける声が、かろうじてシオンを現実に引き戻した。
「この棟では、治験ボランティアの方々にも…えっと…王国として…その……」
説明が詰まり、王女は焦ったように資料を捲る。
シオンは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下。殿下のお言葉で十分伝わっています。…どうか緊張なさらずに」
アリシアの肩がふるりと揺れた。
安心したように、しかし恋を自覚した女子のそれでもあって、頬が染まる。その姿は、あまりに初々しい。
窓際で患者に寄り添う看護師の姿を見ながら、シオンは静かに息を吐いた。
(…帰ったら、メリッサに会いたい)
その想いは決して表には出さない。
教皇としての顔は、どこまでも静かで穏やかだった。
「では、この先の小児科治療室をご案内いたします…」
アリシアは勇気を振り絞るように、深呼吸をして歩き出す。
シオンはその後ろ姿を見つめながら、胸の奥に密かに渦巻く想いを押し隠し、歩みを進めた。
臨床部門の視察が終わるころ、王都の空には柔らかな薄雲が広がり、午後の日差しが優しい金に変わっていた。
研究所の重厚なエントランス前には、既に政府要人たちが整列し、シオンを迎える準備を整えている。
アリシア王女もその場に立ち、緊張の面持ちで胸元を押さえていた。王女としての務めを果たすため。そして何より、シオンに恥じない自分でいたいため。
研究所長が深々と頭を下げる。
「聖域教皇猊下。本日はご足労いただき、恐れ入ります」
「いえ、とんでもありません。皆様の取り組みを拝見できるのは光栄です」
シオンは柔らかに会釈した。
その瞬間だった。
フラッシュのような強い日差しが雲間から差し込み、アリシア王女が反射的に目を細めた。足元に影が揺れた、その一瞬。
王女の小さなヒールが、敷石のわずかな段差に引っかかった。
「あっ――」
王女の身体が傾く。髪飾りが揺れ、淡い香りが空気にほどけた。
シオンは振り返るより速く、自然な動作でその細い身体を支えた。肩と腰をそっと支え、引き寄せるようにして転倒を防ぐ。
シオンの胸元に飛び込むようになったアリシアは、衝撃と動揺で固まったまま、顔を上げることすらできない。
「お怪我はありませんか、殿下」
シオンの声は驚くほど優しかった。
「あ、あの……っ、も、も、申し訳ございません……」
アリシアは震える声で答え、頬は熟した果実のように赤く染まっていた。
政府要人たちはハッと息を呑み、次にざわめきが走る。
幸いにも、失礼に見えるような抱き寄せ方ではなかったが、それでも王女と青年教皇の距離は近く、周囲の者たちには特別な光景に映ったことだろう。
シオンは王女をゆっくりと立ち直らせ、手を離した。
「段差にお気をつけください。危ないところでした」
「……は、はい……」
アリシアの声はすっかり涙声で、震える手を胸元に当てていた。
王女の侍女が駆け寄ろうとしたが、国王の側近が目を制して止める。王の意図は明らかだった。
この“偶然”の距離を、できるだけ周囲に印象づけさせたいのだ。
しかしシオンは、何事もなかったように、視線を要人たちへ戻した。穏やかに、けれど一線を越えない立ち振る舞いで。
「失礼いたしました。では、続きを伺ってもよろしいでしょうか」
研究所長は慌てて資料を持ち直す。
「は、はい。こちらが次世代の遺伝子治療プロジェクトとなります」
懇談室へ移動しながら、話題は王国の医療政策、研究の安全性、国際協力へと広がっていく。
シオンは的確に、しかし威圧感を与えない穏やかな返答で議論を進めていった。
アリシアは少し離れた位置からそれを見つめていた。先ほど支えられた際の体温がまだ体に残っているようで、胸の奥はずっと落ち着かない。それでも、邪魔をしないよう必死に気配を押し殺していた。
シオンは国王の思惑に気づいている。そして、彼女の恋心にも気づいてしまった。それでも態度を変えないのは役目を果たすため。そして、心の奥にいる誰かを裏切らないため。
(…メリッサ。そなたは今頃、私からの連絡を待っているのだろうか)
ふと漏れたその想いが、胸の奥を鋭く締めつけた。
夕陽が王宮の白壁を薔薇色に染め、長い回廊へ柔らかな陰影を落としていた。
日中の視察と懇談を滞りなく終えたシオンは、アリシア王女と数名の護衛に囲まれながら、緩やかな歩調で王の待つ小広間へと向かう。
午後の公務で、王女は終始、慎ましくも献身的に振る舞い、国王が望んだ“良きホスト役”として見事な役目を果たしていた。その様子を、シオンは距離を保ちつつも確かな礼意をもって受け止めていた。
午後の公務を終え、一行が王城の廊下を進んでいたときだった。
冬の日は短く、窓の外はすでに淡い群青へと沈んでいる。天井の燭台にともった金の灯が、石造りの壁に揺らめきながら反射していた。
「教皇猊下」
国王が柔らかく声をかけた。
公務のときとは違う、どこか私的な温度を含んだ声音。同行していたアリシア王女が、そっと背すじを伸ばす。
「本日は、遠国よりのご来訪に改めて感謝申し上げます。父としても、王としても……猊下ともう少し、ゆるやかに語らえる時を持ちたいと考えております」
国王は歩みを緩め、シオンの正面に立つ。
威圧の影はなく、むしろ優雅で誠実な雰囲気をまとっていた。その立ち居振る舞いは、王家が“客人を心からもてなそうとしている”ことを示している。
「――もしお時間が許すならば、今宵、ささやかな晩餐を設けたいと思うのですが。私的な席でありますが、親睦を深める機会となれば幸いです」
アリシア王女が、澄んだ翠の瞳をシオンへと向けた。王女は気品に溢れていたが、その視線にはどうしようもなく年頃の女性らしいときめきが宿っていた。
シオンは、その想いを見抜いている。
「ありがたいお申し出です、国王陛下。明朝より他国へ向かいますゆえ、長くは滞在できませぬが……陛下のお心遣いに報いることができるのなら、それ以上のことはございません」
柔らかい声音。
相手への敬意を保ちつつ、過度な期待を抱かせない絶妙な返し。
国王は満足げに微笑み、深く頷いた。
「それはようございました。では、今宵は身内だけの食卓を。アリシア、支度を頼む」
「はい、お父様」
アリシアは頬を染め、そっとスカートをつまんで一礼した。まるで胸の奥がふわりと膨らむような表情。王女は昨夜からずっと、シオンを目で追っていた。そして今、父が作ったこの機会に、小さな希望を抱き始めていた。
シオンはその一瞬の変化に気づいたが、静かに礼を返しただけだった。
(……丁重に応じつつ、線は引く。それが今は最も良いだろう)
心にだけ、誰にも悟られぬようにそう呟きながら。
王城の灯りが、彼らの影を長く伸ばしていた。
晩餐の用意が整うまでの静かな空気には、思惑と感情がゆるやかに混ざり合った、微妙な熱が漂っていた。
