Eine Kleine Ⅳ
年が明けて間もなく、聖域が修復した時空の綻びは、世界から完全に消えた――
誰もが、そう思っていた。
けれど、綻びというものは、縫い直した場所ではなく、むしろ“もう大丈夫だ”と人が気を緩めた場所に、ふいに顔を出す。
次にそれが現れたのは、エルダニア王国の地図の端に、小さく名前が書かれているだけの農村だった。
村の名はヴァルトフェルト。王都から遠く、幹線道路も通らない。人々は土を耕し、季節の巡りを数えながら静かに暮らしている場所だ。
そこに、魔界へと通じる裂け目が生じた。
最初に起きたのは、家畜の消失だった。
次に、夜の闇が不自然に濃くなった。
そして、悲鳴が上がったときには、もう取り返しがつかなかった。
魔物は境界が揺らぐ瞬間を見逃さない。まして、守る目が向けられていない場所であれば、なおさらだ。
火が上がり、血が流れ、人の声は途中で断ち切られた。助けを求める余裕さえ与えられない速さで、すべては進んでいった。
その異変を、最初に“感じてしまった”者がいた。
エルダニア王立大学。
王都の中心にある、整えられた学び舎の研究棟で、メリッサは実験ノートに向かっていた。
試薬の色を確かめ、数値を書き込み、次の工程を頭の中で組み立てる。いつもと変わらない午後のはずだった。
そのとき、胸の奥が冷えた。理由は分からない。音も、匂いも、目に見える異常もない。それでも、心臓が大きく跳ねて、彼女は確信してしまった。
――近い。
距離の問題ではない。
世界の層が、わずかにずれている感覚だった。
(……綻び?)
ペンを握る指に力が入る。喉の奥が、ひくりと締まった。彼女はもう冥界の者ではない。武器も、冥衣も、戦うための小宇宙も持っていない。それでも、本能だけは残っていた。
魔の気配。
人の生が軽く扱われている兆し。
そして、聖域がまだ掴んでいない“穴”。
メリッサは、静かに椅子から立ち上がった。窓の外では、王都の空が穏やかに広がっている。その下で、人々はこの平穏が当たり前のように続くと、信じている。
(……シオン様)
名を呼びたい衝動が胸に広がる。だが、今の立場では、連絡を取ることはできなかった。それでも、これは見過ごしてはいけない。彼女は唇を噛みしめる。かつて冥界に身を置いた者として。そして今は、ただの人として生きる者として。
メリッサはまだ知らない。
この綻びが、聖域とエルダニア、そして彼女自身を、再び同じ場所へ引き寄せることになるということを。
静かに張り詰めていた糸が、気づかれないまま、確かに震え始めていた。
その辺境の村では、壁に据え付けられた固定電話が、外界と繋がる唯一の糸だった。携帯の電波は届かず、舗装された道も途中で途切れる。
地図の上では確かに国土の一部でありながら、実際には、時代から取り残されたような場所だった。
ある豪雨の晩、異変に気づいた者が受話器を取り、最寄りの町へ緊急の連絡を入れたとき、すでに夜は深く、天候も道路事情も最悪だった。警察が動き出すまでに時間がかかり、現地に辿り着くまでに、さらに時間が失われた。その間に、村は村でなくなっていた。
サイレンが闇を裂いたとき、そこにあったのは、焼け落ちた家屋と黒く崩れた梁、そして地面を焦がした熱と恐怖の痕跡だけだった。
人の営みは、驚くほどあっけなく踏みにじられていた。
それを示すものが、静かに、あたり一面に広がっていた。
奇跡的に生き延びた者が数名いた。森へ逃げ込み、藪に身を伏せ、夜が明けるまで息を殺して耐え抜いた人々だ。だが、救助された彼らの目は焦点を結ばず、声は、言葉になる前に悲鳴となった。
事情を聞くには時間が必要だった。身体よりも先に、心が深く裂かれていた。
警察は、「説明のつかない集団失踪事件」として、報告書をまとめるしかなかった。
だが、世界には記録に残らない“理由”が存在する。この村が選ばれたのは偶然ではない。通信インフラが脆弱で助けの声が外へ届きにくく、外部からもアクセスが困難な場所。綻びは、そういう場所を好む。
聖域にも王都にも、まだこの惨状の全貌は届いていなかった。だが、確かなことが一つだけある。これはただの悲劇ではない。組織の対立の影で、沈黙と沈黙の隙間に生じた――致命的な亀裂だった。
そして、その震えはすでにメリッサの胸に届いている。
世界が気づくよりも早く、彼女は知ってしまった。
始まってしまったのだ、と。
メリッサは、必要最低限のものだけをリュックに詰めた。数日分の食料と水。簡易衛生用品。それから、携帯Wi-Fiと予備のバッテリー。途中の宿泊施設は雨風さえしのげれば、どこでも構わない。アプリで調べてみたら、意外とホテルやモーテルが点在しているのが分かった。
「よし……」
迷いはなかった。
戻れなくなるかもしれないという想像だけは、意識の底へ沈めた。
レンタルバイク店は大学の近くにあった。幹線道路に面しているが、なぜか目立たずひっそりと営業しているような、こじんまりとした店構えだった。
書類を受け取った店員が、記載された目的地に目を落とし、わずかに眉を寄せる。
「……お客様、あの村に行くんですか?やめたほうがいいですよ」
その声には、営業的な愛想よりも素の躊躇が滲んでいた。
「あ……でも……」
メリッサは一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を伏せる。
「親戚が……連絡が取れなくて」
咄嗟についた嘘だった。けれど、その言葉の奥にある切実さだけは本物だった。
「うーん……」
店員は書類と彼女の顔を見比べる。
「道も封鎖されてるらしいし、辿り着けないかもしれませんよ。警察も近づくなって――」
「行くだけ、行ってみます」
遮るように言った声は、思いのほか静かだった。店員は小さく息を吐き、ペンを置いた。
「……自己責任、になりますからね」
「分かっています」
書類に判を押す音が、やけに大きく響いた。
店の外へ出ると、南からの風が強かった。乾いた土の匂いが、どこか焦げたような気配を含んでいる。
レンタルショップの前で、オフロードバイクに跨る。メリッサはヘルメットを被り、バイクのキーを回す。エンジンがかかった瞬間、胸の奥で別の何かが応えた。振動が、掌から骨と内臓へ伝わる。その感触が、かえって彼女を落ち着かせた。
冥闘士だった頃の本能は、まだ身体の内で息を潜めていた。死の気配と隣り合わせで生きてきた感覚が、「そこに行け」と、はっきり告げている。
彼女はアクセルを開けた。回転数の上がるエンジン音と風を切って走る感覚に意識を集中させる。慣れない道を走るのだ。事故を起こさないように、注意深く運転しなければならない。
市街地の整然とした街並みから、やがて住宅地、農地へ景色が変わっていく。そのうちに舗装路が途切れ、砂利道になり、ついに、道と呼べるかどうかも怪しい轍へと変わっていく。
それでも、迷いはなかった。
この先にあるのは、ニュースにも公式記録にもまだ載らない現実。
そして、誰かが正体不明の何かから必死に耐えている場所だ。
メリッサは知らなかった。この時点で、すでに彼女の行動はエルダニア王国の想定からも、聖域の情報網からも外れていたことを。
ただ一つ確かなのは、彼女の目的地はもはや「村」ではない、ということだ。
メリッサは向かっていた。綻びのすぐそばへ。
数日かけて到着した林道の入口は、簡素なバリケードで塞がれていた。
黄色と黒のテープが風に煽られ、かすかな乾いた音を立てている。
警察の規制線。だが、それは「危険」を知らせるためのものではなく、ただ事後を隔てるための線に過ぎないようにも見えた。
メリッサはバイクを林道脇へ寄せ、エンジンを切った。森が、途端に音を取り戻す。木々のざわめき。土を踏む小さな生き物の気配。何かが焼けた匂い。
地図アプリを開くと、目的地までは徒歩で三十分ほどと表示されている。数字は客観的だ。だが、三十分という時間が、ここでは別の意味を持つことを彼女は直感的に理解していた。
行くしかない。
意を決して、林道へ足を踏み入れる。一歩進むごとに、神経が研ぎ澄まされていくのが分かる。
茂みの奥。木の陰。
どこにでも、何かが潜んでいそうだった。
魔物か、あるいは、まだ形を成しきれていない、異界の残滓。
慎重に歩けば、当然、時間はかかる。
風が枝葉を揺らすだけで、身体が強張り、立ち止まる。遠くで野生動物の鳴き声が響けば、心臓が跳ね、また足が止まる。
帰ったほうがいい。ここまで来る必要は、なかったのかもしれない。
何度もそう思った。そのたびに、胸の奥から別の声が浮かび上がる。
自分の目で確かめなければ。
使命感。そう呼べば聞こえはいい。だが、後になって振り返れば、そこまで高尚なものではなかったのだろう。恐怖から目を逸らしたくないという、意地に近い感情と、気づいてしまった者の責任から逃げられないだけだった。
三十分のはずが、四十分になり、五十分になり――足取りは重く、時間の感覚は曖昧になっていく。
やがて、視界が開けた。
村。いや――正確には、村があったはずの場所に出た。
家屋の骨組みだけが黒く炭化し、地面には崩れた瓦と焼け焦げた木片が散乱している。生活の痕跡は、途中で強引に引き剥がされたように途切れていた。
鍋。
小さな靴。
半分溶けた農具。
営みの音はない。ここに、人が暮らしていたという事実そのものが否定されたかのように。
空気が、重い。
煙の匂いはもう薄れているはずなのに、喉の奥に確かに残っている。風の音すら、ここだけが避けられているようだった。
メリッサは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
――無惨。
その一言以外、浮かばなかった。
焼け落ちた家屋の間を、メリッサは一つひとつ辿るように歩いた。瓦礫を踏む音が、やけに大きく聞こえる。自分の呼吸音すら、耳障りだった。空間の綻びは、目に見えるものではない。
だが、彼女には分かる。
冥闘士として刻み込まれた感覚が、言葉より先に異常を告げる。
ここじゃない。気配はまだ薄い。
怖かった。正直に言えば、足が震えていた。
魔族か、魔獣か。あるいは、もっと名付けようのない、禍々しい存在か。
村を蹂躙した何かが、まだこの近くに留まっている可能性は否定できない。
それでも、歩みを止めなかった。
村の外れまでやってきた。焼け残った井戸のそばを過ぎたあたりで、空気が変わった。
ひたり、と。
見えない何かが、皮膚の内側に触れてくる感覚。
来た。気配が濃くなった。空気が重く粘つき、肌が総毛立つ。
目には何も映らないのに、そこに「ある」と全身が理解していた。
ヤバい。これ以上は――理性がそう判断するより早く、身体の奥で警鐘が鳴り響いた。
もう限界だった。最大級の警戒レベルに全身から冷や汗が噴き出した。
「ヤバヤバヤバ……!マジもんだ、これ……!」
声が震えるのを、止められなかった。背走が危険なのは、嫌というほど分かっている。視界を敵に向けたまま下がるのが定石だ。だが、ここに留まることの方が、致命的だった。
空間そのものが、歪んでいる。ここが、綻びの縁だ。
――引きずり込まれる。
そう直感した瞬間、メリッサは踵を返した。
全速力。
瓦礫を蹴散らし、焼けた地面を踏みしめ、ただ走る。
肺が焼ける。
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
背後を振り返る余裕はない。
振り返ったら、終わる気がした。
恐怖に追われながら、それでも彼女は知っていた。
見つけてしまった。もう、知らなかった頃には戻れない。
森の入り口が見えたとき、初めて、喉から引き攣れた息が零れ落ちた。だが、逃げ切れたという確信は、なかった。あの気配は、確実に――
こちらを認識していた。
メリッサは、ほとんど転がるようにしてバイクを停めた場所へ戻った。脚がもつれ、指先が氷のように冷たい。
「……エンジン、かかるよね……」
誰に聞かせるでもない声は、ひどく小さく、掠れていた。
キーを差し込み、回す。一拍の間が、永遠のように感じられる。
頼む。
次の瞬間、低く、確かなエンジン音が応えた。その振動が、初めて現実に引き戻してくれる。
メリッサは息をつく暇もなくヘルメットを被り、バイクに跨った。グローブ越しにハンドルを握る手は、まだ震えている。
アクセルを開けると、タイヤが土を跳ね上げた。林道を抜け、街へ続く道へと一気に飛び出した。もう、後ろを振り返る余裕はなかった。
焼け落ちた村も、あの気配も、視界から消えてくれと願うように、ただ前だけを見る。風が、ヘルメットを叩く。心臓の鼓動が、それに重なる。
逃げられたけど、終わっていない。
理屈ではなく、身体が知っていた。あれは一度現れた以上、必ず“続き”がある。
街の輪郭が見え始めた頃、メリッサは初めて、自分が歯を食いしばっていたことに気づいた。それでも、アクセルは緩めなかった。
今はただ、生き延びることだけに集中する。
この異変を、この綻びを、自分一人で抱え込んではならない。そう、はっきりと理解していた。
あの綻び。
脳裏に焼き付いた光景を思い返した瞬間、喉が詰まる。
異空間と、明らかに繋がってしまっていた裂け目。その向こう側。冥界ではない。もっと、違う。
秩序も、理も、交渉の余地もない。ただ醜悪で、禍々しく、救いという概念そのものが存在しない場所。
――魔界だ。
そう確信した瞬間、理解が追いついた。同時に、背筋を冷たいものが走る。
どうすればいい?
もし冥界なら、話は単純だった。
シオンか、あるいはヘスティアに伝えればいい。
冥界とは、敵対していても話が通じる。ルールがある。落としどころがある。けれど、魔界は違う。あそこは、人の理屈なんて通らない。
メリッサは、バイクを走らせながら思考を限界まで回転させた。感情を切り離し、可能性を一つずつ潰していく。
今の自分は、エルダニアに留学という名の軟禁状態にある。事実上の人質だ。この状況で、聖域に救助要請を出すのは悪手だ。
下手をすれば、結託して魔界と空間を繋げた当事者という、最悪の疑いを向けられかねない。
エルダニアに告げる?
警察?
論外だ。
生身の、訓練も装備もない人間が行けば、魔物に秒で喰われる。現場検証どころではない。政府に直接繋がれる人物はどうだ。
王立大学の教授?
学長?
いや、きっと最初は「警察に連絡を」と言われる。そして、時間が浪費される。その間に、何が起きるか分からない。
思考が行き止まりかけた、そのときだった。
「あ……」
声が、勝手に零れた。
「ルーカス・ヴァン・デル・アーヘン!」
エルダニアの外務官。
メリッサに直接接触し、王国の意志を代弁した男。彼なら、警察も官僚も飛び越えて、エルダニア王国そのものに話を通せるはずだ。
メリッサは、思わず息を吐いた。
緊張と同時に、微かな高揚が混じる。
財布の中を確かめる。
「……名刺、あるじゃん」
乾いた笑いが漏れた。
「あたし、やっぱ天才か?」
そんな軽口でも叩いていなければ、心が先に壊れてしまいそうだった。
街道沿いのコンビニが視界に入る。白い照明が、やけに現実的で、眩しい。メリッサはバイクを停め、ヘルメットを外した。夜風に晒された頬が、じんと痛む。ガラス越しに見える、何でもない日常。
菓子の棚、雑誌、レジのカウンター。
この世界のすぐ隣で、魔界が口を開けている。
その事実を知っているのは、今のところ、自分だけだ。
メリッサは名刺を取り出し、そこに印刷された電話番号を、じっと見つめた。
ここから先は引き返せない。
「……やるしかないでしょ」
低く呟き、スマートフォンを取り出す。指先が、自分でもはっきり分かるほど震えていた。
メリッサは、名刺に記された番号をタップした。
呼び出し音は長く続かなかった。
『……ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンだ』
低く、余計な感情のない声は相変わらずだ。
「あの……メリッサ・ドラコペトラです」
一拍、間があいた。すぐに彼が状況を理解した気配が伝わってくる。
「ヴァルトフェルト村の件で、話したいことがあるんですけど」
コンビニの横手へ移動し、コンクリートの外壁に背中を預ける。自動ドアの開閉音が、やけに大きく響いた。周囲を見回しながら、声を落とす。
ここはエルダニアだ。どこで誰に聞かれているか分からない。
『……』
ほんの一瞬の沈黙。だが、それだけで十分だった。
『かけ直します』
それだけを告げて、通話は切れた。
画面が暗転する。自分の顔が、黒いガラスに薄く映った。心臓の鼓動が、遅れて耳に届く。
少なくとも、普通ではない話だということは伝わったはずだ。
ここから先は国家の領域だ。逃げ場が閉ざされる危険があるのは、承知の上だった。
数分後、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、発信元――『不明』。
分かりやすい。そして、分かり切っている。
メリッサは一度だけ息を整え、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『お待たせしました。で、話とは?』
先ほどよりも、明らかに周囲を警戒している声音だった。回線の向こうに、余計な雑音はない。アーヘンは、どこか管理された空間にいるのだろう。
「さっき、行ってきたんです」
自分の声が、思ったより落ち着いていて、逆に怖かった。
『……あんな辺境にですか?』
「はい」
『何が目的ですか?』
アーヘンの声が、わずかに低くなる。問い質す、というより――測る声音。
メリッサは、壁に背を預けたまま、視線を地面に落とした。アスファルトの細かなひび割れが、やけにくっきり見える。
「気配です」
『……気配?』
「説明、難しいんですけど」
言葉を選ぶ。間違えれば、ここで全てが終わる。
「火事とか、暴動とか、そういう“人為的な事件”じゃないって、最初から分かりました」
沈黙。
「……空間が、歪んでました」
一瞬、回線の向こうが完全に無音になる。電波が切れたのかと錯覚するほどの、静寂。
『……続けてください』
低い声音は、明確に緊張を孕んでいた。
「目には見えません。でも、あそこは――繋がってる」
喉がかすかに鳴る。
「冥界じゃない。もっと、質が悪いところに」
言い切った瞬間、自分が取り返しのつかない線を越えたことを理解した。
『……あなた、それをどこまで確信していますか』
「断言できます」
即答だった。迷いはなかった。
「冥界なら、あんな匂いはしません。あんな……吐き気を誘う感じもしない」
自分の言葉に、指先が冷えていく。
『……』
再び沈黙が落ちた。だが、今度は思考している沈黙だ。
『――その件、誰かに話しましたか』
「あなたが初めてです」
『警察は?』
「無理です。生身の人間が行っていい場所じゃない」
その言葉に、アーヘンは何も返さなかった。
『……あなたは、なぜ私に連絡したのですか』
「エルダニアの“中枢”に、直接繋がれるからです」
『……正直ですね』
「嘘をついてる余裕がないので」
メリッサは、スマートフォンを握り締めた。
「放っておいたらまた出ます。被害は、次は村じゃ済まない」
アーヘンの息遣いが、かすかに聞こえた。
『……場所は、ヴァルトフェルト村で間違いないですね』
「はい」
『分かりました』
短く、切り捨てるような一言。
『その件について、あなたは――』
言葉が、そこで一度止まる。
『しばらく、誰にも話さないでください』
命令ではない。だが、拒否の余地もない声音だった。
「……わかりました」
『こちらで確認します。あなたは、今すぐ帰宅を』
通話が、切れる。画面が暗くなり、メリッサはしばらく、そのまま動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に軋んでいた。
これで、引き返せなくなった。自分が踏み込んだのは、国家と、そして――世界の裏側だ。
コンビニの自動ドアが開き、明るい光と人の気配が溢れ出す。その現実感が、逆に恐ろしかった。
背中を壁に押し付けたまま、メリッサはずるずると座り込んだ。力が抜けた、というより――考えることに、体が追いつかなくなったのだ。
どうしたらいい。
その問いだけが、頭の中で空回りする。
裂け目から魔物が現れたとして、人類はどこまで対抗できるのか。
低級の魔物なら、数と知恵でどうにかなる。角材だって、火だって、きっと効く。
それは、分かっている。
でも――中級以上は、違う。
生身の人間では、絶対に無理だ。理屈ではなく、感覚がそう告げている。冥闘士としての記憶が、魂の奥で冷たく首を振る。
上級。
超級。
そこまで行けば、もう「戦闘」ではない。
蹂躙だ。
最新鋭の兵器ならどうか。
戦車、ミサイル、無人機。テレビやニュースで見た圧倒的な火力。
それでも、足りない気がする。
魔界の存在は、単なる物理現象じゃない。数値で測れる強さでもない。恐怖そのものが、武器になる世界だ。
メリッサは、そこまで詳しいことを知らない。知識として体系立てて学んだわけでもない。ただ、知ってしまっているだけだ。
「あれは……人の手に負えるものじゃない」
呟いた声は、ひどく小さくて掠れていた。
もし、今この瞬間にも裂け目が広がっていたら。
もし、もう向こう側から“何か”がこちらを覗いていたら。
考えた途端、喉の奥がひゅっと縮む。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動がうるさい。
それでも、誰かに投げるわけにはいかない。
見なかったことにも、できない。
メリッサは膝を抱え、額をそこに押し当てた。逃げたい気持ちと、逃げてはいけないという感覚が、同時に胸を締め付ける。
自分は、ただの留学生で、ただの女子大学生で、冥界と魔界の違いが分かってしまう程度には、「向こう側」を知っている人間だ。それが、今は呪いのように思えた。
「……シオン様……」
名前を呼んだ瞬間、それが叶わない願いだと分かっているからこそ、胸が痛んだ。
頼れない。
呼べない。
助けを求めれば、また誰かが傷つく。メリッサは、震える指で膝を強く握り締めた。
考えろ。まだ、何か方策はあるはずだ。
理性が必死にそう叫んでいた。
冥闘士と魔物。
その親和性は、あまりにも高すぎる。敵対するどころか、触れ合えば融合し、調和し、陰の力は増幅される。制御できると思った瞬間に、もう手遅れだ。
対抗戦力には、なり得ない。冥闘士である自分では、だめなのだ。
(ああ……だから、分かっちゃったんだ……)
メリッサは、ゆっくりと目を閉じた。
村で感じた、あの異様な気配。
皮膚の内側をなぞるように忍び寄ってきた、あの感覚。
恐怖だけではなかった。
嫌悪だけでもなかった。
――引きつけられていた。
陰が陰を呼んだのだ。
冥界に属したことのある魂だからこそ、魔界の裂け目に無意識に応えてしまった。それは本能だからこそ抗えず、だからこそ、はっきりと分かってしまったのだ。
「……最悪だ」
小さく吐き捨てるように呟く。
聖闘士。
陽の力を宿す者たち。
光と秩序を軸に戦う存在でなければ、あれには対抗できない。陰には、陰を打ち消すほどの光が要る。
そして、あの裂け目。
空間そのものが裂け、異界とこちら側が、縫い目もなく繋がってしまっている。
科学では無理だ。どんな技術でも、あれは“修復”できない。壊すことはできても元に戻すことはできない。
縫い合わせて、世界を再び一枚の布に戻す。
それができるのは――
「アテナ様しかいないじゃん……!」
思わず声が大きくなり、慌てて片手で口を塞いだ。
工芸を司る女神。
アテナは戦と知恵と、そして“創る”ことを司る存在。
裂けた世界を縫い、歪んだ境界を正す。
「いや……アテナ様……万能じゃん……」
乾いた笑いが漏れる。状況は絶望的なのに、その事実だけが、やけに鮮やかだった。
「すごいな……ほんと……」
尊敬と、諦観と、ほんの少しの救い。
だが同時に、はっきりと理解してしまった。
これは、自分一人で抱えていい話じゃない。
でも、自分から聖域に持ち込むわけにもいかない。
冥闘士の身。
エルダニアに留め置かれた立場。
そして、あまりにも都合よく見える「発見」。
疑われる要素は、揃いすぎている。メリッサは額に手を当て、深く息を吐いた。
「……詰んでない?」
冗談めかした言葉とは裏腹に、胸の奥は、冷え切っていた。
それでも、気付いてしまった以上、見てしまった以上、何もしないという選択肢は最初から存在しない。
冥闘士ではだめ。
科学でもだめ。
一人では、どうにもならない。
「……繋ぐしかないよね。ちゃんと」
ならば、世界と世界を。
人と人を。
そして、聖域とあの場所を。
メリッサは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖と同じだけの覚悟が宿っていた。
誰もが、そう思っていた。
けれど、綻びというものは、縫い直した場所ではなく、むしろ“もう大丈夫だ”と人が気を緩めた場所に、ふいに顔を出す。
次にそれが現れたのは、エルダニア王国の地図の端に、小さく名前が書かれているだけの農村だった。
村の名はヴァルトフェルト。王都から遠く、幹線道路も通らない。人々は土を耕し、季節の巡りを数えながら静かに暮らしている場所だ。
そこに、魔界へと通じる裂け目が生じた。
最初に起きたのは、家畜の消失だった。
次に、夜の闇が不自然に濃くなった。
そして、悲鳴が上がったときには、もう取り返しがつかなかった。
魔物は境界が揺らぐ瞬間を見逃さない。まして、守る目が向けられていない場所であれば、なおさらだ。
火が上がり、血が流れ、人の声は途中で断ち切られた。助けを求める余裕さえ与えられない速さで、すべては進んでいった。
その異変を、最初に“感じてしまった”者がいた。
エルダニア王立大学。
王都の中心にある、整えられた学び舎の研究棟で、メリッサは実験ノートに向かっていた。
試薬の色を確かめ、数値を書き込み、次の工程を頭の中で組み立てる。いつもと変わらない午後のはずだった。
そのとき、胸の奥が冷えた。理由は分からない。音も、匂いも、目に見える異常もない。それでも、心臓が大きく跳ねて、彼女は確信してしまった。
――近い。
距離の問題ではない。
世界の層が、わずかにずれている感覚だった。
(……綻び?)
ペンを握る指に力が入る。喉の奥が、ひくりと締まった。彼女はもう冥界の者ではない。武器も、冥衣も、戦うための小宇宙も持っていない。それでも、本能だけは残っていた。
魔の気配。
人の生が軽く扱われている兆し。
そして、聖域がまだ掴んでいない“穴”。
メリッサは、静かに椅子から立ち上がった。窓の外では、王都の空が穏やかに広がっている。その下で、人々はこの平穏が当たり前のように続くと、信じている。
(……シオン様)
名を呼びたい衝動が胸に広がる。だが、今の立場では、連絡を取ることはできなかった。それでも、これは見過ごしてはいけない。彼女は唇を噛みしめる。かつて冥界に身を置いた者として。そして今は、ただの人として生きる者として。
メリッサはまだ知らない。
この綻びが、聖域とエルダニア、そして彼女自身を、再び同じ場所へ引き寄せることになるということを。
静かに張り詰めていた糸が、気づかれないまま、確かに震え始めていた。
その辺境の村では、壁に据え付けられた固定電話が、外界と繋がる唯一の糸だった。携帯の電波は届かず、舗装された道も途中で途切れる。
地図の上では確かに国土の一部でありながら、実際には、時代から取り残されたような場所だった。
ある豪雨の晩、異変に気づいた者が受話器を取り、最寄りの町へ緊急の連絡を入れたとき、すでに夜は深く、天候も道路事情も最悪だった。警察が動き出すまでに時間がかかり、現地に辿り着くまでに、さらに時間が失われた。その間に、村は村でなくなっていた。
サイレンが闇を裂いたとき、そこにあったのは、焼け落ちた家屋と黒く崩れた梁、そして地面を焦がした熱と恐怖の痕跡だけだった。
人の営みは、驚くほどあっけなく踏みにじられていた。
それを示すものが、静かに、あたり一面に広がっていた。
奇跡的に生き延びた者が数名いた。森へ逃げ込み、藪に身を伏せ、夜が明けるまで息を殺して耐え抜いた人々だ。だが、救助された彼らの目は焦点を結ばず、声は、言葉になる前に悲鳴となった。
事情を聞くには時間が必要だった。身体よりも先に、心が深く裂かれていた。
警察は、「説明のつかない集団失踪事件」として、報告書をまとめるしかなかった。
だが、世界には記録に残らない“理由”が存在する。この村が選ばれたのは偶然ではない。通信インフラが脆弱で助けの声が外へ届きにくく、外部からもアクセスが困難な場所。綻びは、そういう場所を好む。
聖域にも王都にも、まだこの惨状の全貌は届いていなかった。だが、確かなことが一つだけある。これはただの悲劇ではない。組織の対立の影で、沈黙と沈黙の隙間に生じた――致命的な亀裂だった。
そして、その震えはすでにメリッサの胸に届いている。
世界が気づくよりも早く、彼女は知ってしまった。
始まってしまったのだ、と。
メリッサは、必要最低限のものだけをリュックに詰めた。数日分の食料と水。簡易衛生用品。それから、携帯Wi-Fiと予備のバッテリー。途中の宿泊施設は雨風さえしのげれば、どこでも構わない。アプリで調べてみたら、意外とホテルやモーテルが点在しているのが分かった。
「よし……」
迷いはなかった。
戻れなくなるかもしれないという想像だけは、意識の底へ沈めた。
レンタルバイク店は大学の近くにあった。幹線道路に面しているが、なぜか目立たずひっそりと営業しているような、こじんまりとした店構えだった。
書類を受け取った店員が、記載された目的地に目を落とし、わずかに眉を寄せる。
「……お客様、あの村に行くんですか?やめたほうがいいですよ」
その声には、営業的な愛想よりも素の躊躇が滲んでいた。
「あ……でも……」
メリッサは一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を伏せる。
「親戚が……連絡が取れなくて」
咄嗟についた嘘だった。けれど、その言葉の奥にある切実さだけは本物だった。
「うーん……」
店員は書類と彼女の顔を見比べる。
「道も封鎖されてるらしいし、辿り着けないかもしれませんよ。警察も近づくなって――」
「行くだけ、行ってみます」
遮るように言った声は、思いのほか静かだった。店員は小さく息を吐き、ペンを置いた。
「……自己責任、になりますからね」
「分かっています」
書類に判を押す音が、やけに大きく響いた。
店の外へ出ると、南からの風が強かった。乾いた土の匂いが、どこか焦げたような気配を含んでいる。
レンタルショップの前で、オフロードバイクに跨る。メリッサはヘルメットを被り、バイクのキーを回す。エンジンがかかった瞬間、胸の奥で別の何かが応えた。振動が、掌から骨と内臓へ伝わる。その感触が、かえって彼女を落ち着かせた。
冥闘士だった頃の本能は、まだ身体の内で息を潜めていた。死の気配と隣り合わせで生きてきた感覚が、「そこに行け」と、はっきり告げている。
彼女はアクセルを開けた。回転数の上がるエンジン音と風を切って走る感覚に意識を集中させる。慣れない道を走るのだ。事故を起こさないように、注意深く運転しなければならない。
市街地の整然とした街並みから、やがて住宅地、農地へ景色が変わっていく。そのうちに舗装路が途切れ、砂利道になり、ついに、道と呼べるかどうかも怪しい轍へと変わっていく。
それでも、迷いはなかった。
この先にあるのは、ニュースにも公式記録にもまだ載らない現実。
そして、誰かが正体不明の何かから必死に耐えている場所だ。
メリッサは知らなかった。この時点で、すでに彼女の行動はエルダニア王国の想定からも、聖域の情報網からも外れていたことを。
ただ一つ確かなのは、彼女の目的地はもはや「村」ではない、ということだ。
メリッサは向かっていた。綻びのすぐそばへ。
数日かけて到着した林道の入口は、簡素なバリケードで塞がれていた。
黄色と黒のテープが風に煽られ、かすかな乾いた音を立てている。
警察の規制線。だが、それは「危険」を知らせるためのものではなく、ただ事後を隔てるための線に過ぎないようにも見えた。
メリッサはバイクを林道脇へ寄せ、エンジンを切った。森が、途端に音を取り戻す。木々のざわめき。土を踏む小さな生き物の気配。何かが焼けた匂い。
地図アプリを開くと、目的地までは徒歩で三十分ほどと表示されている。数字は客観的だ。だが、三十分という時間が、ここでは別の意味を持つことを彼女は直感的に理解していた。
行くしかない。
意を決して、林道へ足を踏み入れる。一歩進むごとに、神経が研ぎ澄まされていくのが分かる。
茂みの奥。木の陰。
どこにでも、何かが潜んでいそうだった。
魔物か、あるいは、まだ形を成しきれていない、異界の残滓。
慎重に歩けば、当然、時間はかかる。
風が枝葉を揺らすだけで、身体が強張り、立ち止まる。遠くで野生動物の鳴き声が響けば、心臓が跳ね、また足が止まる。
帰ったほうがいい。ここまで来る必要は、なかったのかもしれない。
何度もそう思った。そのたびに、胸の奥から別の声が浮かび上がる。
自分の目で確かめなければ。
使命感。そう呼べば聞こえはいい。だが、後になって振り返れば、そこまで高尚なものではなかったのだろう。恐怖から目を逸らしたくないという、意地に近い感情と、気づいてしまった者の責任から逃げられないだけだった。
三十分のはずが、四十分になり、五十分になり――足取りは重く、時間の感覚は曖昧になっていく。
やがて、視界が開けた。
村。いや――正確には、村があったはずの場所に出た。
家屋の骨組みだけが黒く炭化し、地面には崩れた瓦と焼け焦げた木片が散乱している。生活の痕跡は、途中で強引に引き剥がされたように途切れていた。
鍋。
小さな靴。
半分溶けた農具。
営みの音はない。ここに、人が暮らしていたという事実そのものが否定されたかのように。
空気が、重い。
煙の匂いはもう薄れているはずなのに、喉の奥に確かに残っている。風の音すら、ここだけが避けられているようだった。
メリッサは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
――無惨。
その一言以外、浮かばなかった。
焼け落ちた家屋の間を、メリッサは一つひとつ辿るように歩いた。瓦礫を踏む音が、やけに大きく聞こえる。自分の呼吸音すら、耳障りだった。空間の綻びは、目に見えるものではない。
だが、彼女には分かる。
冥闘士として刻み込まれた感覚が、言葉より先に異常を告げる。
ここじゃない。気配はまだ薄い。
怖かった。正直に言えば、足が震えていた。
魔族か、魔獣か。あるいは、もっと名付けようのない、禍々しい存在か。
村を蹂躙した何かが、まだこの近くに留まっている可能性は否定できない。
それでも、歩みを止めなかった。
村の外れまでやってきた。焼け残った井戸のそばを過ぎたあたりで、空気が変わった。
ひたり、と。
見えない何かが、皮膚の内側に触れてくる感覚。
来た。気配が濃くなった。空気が重く粘つき、肌が総毛立つ。
目には何も映らないのに、そこに「ある」と全身が理解していた。
ヤバい。これ以上は――理性がそう判断するより早く、身体の奥で警鐘が鳴り響いた。
もう限界だった。最大級の警戒レベルに全身から冷や汗が噴き出した。
「ヤバヤバヤバ……!マジもんだ、これ……!」
声が震えるのを、止められなかった。背走が危険なのは、嫌というほど分かっている。視界を敵に向けたまま下がるのが定石だ。だが、ここに留まることの方が、致命的だった。
空間そのものが、歪んでいる。ここが、綻びの縁だ。
――引きずり込まれる。
そう直感した瞬間、メリッサは踵を返した。
全速力。
瓦礫を蹴散らし、焼けた地面を踏みしめ、ただ走る。
肺が焼ける。
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
背後を振り返る余裕はない。
振り返ったら、終わる気がした。
恐怖に追われながら、それでも彼女は知っていた。
見つけてしまった。もう、知らなかった頃には戻れない。
森の入り口が見えたとき、初めて、喉から引き攣れた息が零れ落ちた。だが、逃げ切れたという確信は、なかった。あの気配は、確実に――
こちらを認識していた。
メリッサは、ほとんど転がるようにしてバイクを停めた場所へ戻った。脚がもつれ、指先が氷のように冷たい。
「……エンジン、かかるよね……」
誰に聞かせるでもない声は、ひどく小さく、掠れていた。
キーを差し込み、回す。一拍の間が、永遠のように感じられる。
頼む。
次の瞬間、低く、確かなエンジン音が応えた。その振動が、初めて現実に引き戻してくれる。
メリッサは息をつく暇もなくヘルメットを被り、バイクに跨った。グローブ越しにハンドルを握る手は、まだ震えている。
アクセルを開けると、タイヤが土を跳ね上げた。林道を抜け、街へ続く道へと一気に飛び出した。もう、後ろを振り返る余裕はなかった。
焼け落ちた村も、あの気配も、視界から消えてくれと願うように、ただ前だけを見る。風が、ヘルメットを叩く。心臓の鼓動が、それに重なる。
逃げられたけど、終わっていない。
理屈ではなく、身体が知っていた。あれは一度現れた以上、必ず“続き”がある。
街の輪郭が見え始めた頃、メリッサは初めて、自分が歯を食いしばっていたことに気づいた。それでも、アクセルは緩めなかった。
今はただ、生き延びることだけに集中する。
この異変を、この綻びを、自分一人で抱え込んではならない。そう、はっきりと理解していた。
あの綻び。
脳裏に焼き付いた光景を思い返した瞬間、喉が詰まる。
異空間と、明らかに繋がってしまっていた裂け目。その向こう側。冥界ではない。もっと、違う。
秩序も、理も、交渉の余地もない。ただ醜悪で、禍々しく、救いという概念そのものが存在しない場所。
――魔界だ。
そう確信した瞬間、理解が追いついた。同時に、背筋を冷たいものが走る。
どうすればいい?
もし冥界なら、話は単純だった。
シオンか、あるいはヘスティアに伝えればいい。
冥界とは、敵対していても話が通じる。ルールがある。落としどころがある。けれど、魔界は違う。あそこは、人の理屈なんて通らない。
メリッサは、バイクを走らせながら思考を限界まで回転させた。感情を切り離し、可能性を一つずつ潰していく。
今の自分は、エルダニアに留学という名の軟禁状態にある。事実上の人質だ。この状況で、聖域に救助要請を出すのは悪手だ。
下手をすれば、結託して魔界と空間を繋げた当事者という、最悪の疑いを向けられかねない。
エルダニアに告げる?
警察?
論外だ。
生身の、訓練も装備もない人間が行けば、魔物に秒で喰われる。現場検証どころではない。政府に直接繋がれる人物はどうだ。
王立大学の教授?
学長?
いや、きっと最初は「警察に連絡を」と言われる。そして、時間が浪費される。その間に、何が起きるか分からない。
思考が行き止まりかけた、そのときだった。
「あ……」
声が、勝手に零れた。
「ルーカス・ヴァン・デル・アーヘン!」
エルダニアの外務官。
メリッサに直接接触し、王国の意志を代弁した男。彼なら、警察も官僚も飛び越えて、エルダニア王国そのものに話を通せるはずだ。
メリッサは、思わず息を吐いた。
緊張と同時に、微かな高揚が混じる。
財布の中を確かめる。
「……名刺、あるじゃん」
乾いた笑いが漏れた。
「あたし、やっぱ天才か?」
そんな軽口でも叩いていなければ、心が先に壊れてしまいそうだった。
街道沿いのコンビニが視界に入る。白い照明が、やけに現実的で、眩しい。メリッサはバイクを停め、ヘルメットを外した。夜風に晒された頬が、じんと痛む。ガラス越しに見える、何でもない日常。
菓子の棚、雑誌、レジのカウンター。
この世界のすぐ隣で、魔界が口を開けている。
その事実を知っているのは、今のところ、自分だけだ。
メリッサは名刺を取り出し、そこに印刷された電話番号を、じっと見つめた。
ここから先は引き返せない。
「……やるしかないでしょ」
低く呟き、スマートフォンを取り出す。指先が、自分でもはっきり分かるほど震えていた。
メリッサは、名刺に記された番号をタップした。
呼び出し音は長く続かなかった。
『……ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンだ』
低く、余計な感情のない声は相変わらずだ。
「あの……メリッサ・ドラコペトラです」
一拍、間があいた。すぐに彼が状況を理解した気配が伝わってくる。
「ヴァルトフェルト村の件で、話したいことがあるんですけど」
コンビニの横手へ移動し、コンクリートの外壁に背中を預ける。自動ドアの開閉音が、やけに大きく響いた。周囲を見回しながら、声を落とす。
ここはエルダニアだ。どこで誰に聞かれているか分からない。
『……』
ほんの一瞬の沈黙。だが、それだけで十分だった。
『かけ直します』
それだけを告げて、通話は切れた。
画面が暗転する。自分の顔が、黒いガラスに薄く映った。心臓の鼓動が、遅れて耳に届く。
少なくとも、普通ではない話だということは伝わったはずだ。
ここから先は国家の領域だ。逃げ場が閉ざされる危険があるのは、承知の上だった。
数分後、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、発信元――『不明』。
分かりやすい。そして、分かり切っている。
メリッサは一度だけ息を整え、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『お待たせしました。で、話とは?』
先ほどよりも、明らかに周囲を警戒している声音だった。回線の向こうに、余計な雑音はない。アーヘンは、どこか管理された空間にいるのだろう。
「さっき、行ってきたんです」
自分の声が、思ったより落ち着いていて、逆に怖かった。
『……あんな辺境にですか?』
「はい」
『何が目的ですか?』
アーヘンの声が、わずかに低くなる。問い質す、というより――測る声音。
メリッサは、壁に背を預けたまま、視線を地面に落とした。アスファルトの細かなひび割れが、やけにくっきり見える。
「気配です」
『……気配?』
「説明、難しいんですけど」
言葉を選ぶ。間違えれば、ここで全てが終わる。
「火事とか、暴動とか、そういう“人為的な事件”じゃないって、最初から分かりました」
沈黙。
「……空間が、歪んでました」
一瞬、回線の向こうが完全に無音になる。電波が切れたのかと錯覚するほどの、静寂。
『……続けてください』
低い声音は、明確に緊張を孕んでいた。
「目には見えません。でも、あそこは――繋がってる」
喉がかすかに鳴る。
「冥界じゃない。もっと、質が悪いところに」
言い切った瞬間、自分が取り返しのつかない線を越えたことを理解した。
『……あなた、それをどこまで確信していますか』
「断言できます」
即答だった。迷いはなかった。
「冥界なら、あんな匂いはしません。あんな……吐き気を誘う感じもしない」
自分の言葉に、指先が冷えていく。
『……』
再び沈黙が落ちた。だが、今度は思考している沈黙だ。
『――その件、誰かに話しましたか』
「あなたが初めてです」
『警察は?』
「無理です。生身の人間が行っていい場所じゃない」
その言葉に、アーヘンは何も返さなかった。
『……あなたは、なぜ私に連絡したのですか』
「エルダニアの“中枢”に、直接繋がれるからです」
『……正直ですね』
「嘘をついてる余裕がないので」
メリッサは、スマートフォンを握り締めた。
「放っておいたらまた出ます。被害は、次は村じゃ済まない」
アーヘンの息遣いが、かすかに聞こえた。
『……場所は、ヴァルトフェルト村で間違いないですね』
「はい」
『分かりました』
短く、切り捨てるような一言。
『その件について、あなたは――』
言葉が、そこで一度止まる。
『しばらく、誰にも話さないでください』
命令ではない。だが、拒否の余地もない声音だった。
「……わかりました」
『こちらで確認します。あなたは、今すぐ帰宅を』
通話が、切れる。画面が暗くなり、メリッサはしばらく、そのまま動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に軋んでいた。
これで、引き返せなくなった。自分が踏み込んだのは、国家と、そして――世界の裏側だ。
コンビニの自動ドアが開き、明るい光と人の気配が溢れ出す。その現実感が、逆に恐ろしかった。
背中を壁に押し付けたまま、メリッサはずるずると座り込んだ。力が抜けた、というより――考えることに、体が追いつかなくなったのだ。
どうしたらいい。
その問いだけが、頭の中で空回りする。
裂け目から魔物が現れたとして、人類はどこまで対抗できるのか。
低級の魔物なら、数と知恵でどうにかなる。角材だって、火だって、きっと効く。
それは、分かっている。
でも――中級以上は、違う。
生身の人間では、絶対に無理だ。理屈ではなく、感覚がそう告げている。冥闘士としての記憶が、魂の奥で冷たく首を振る。
上級。
超級。
そこまで行けば、もう「戦闘」ではない。
蹂躙だ。
最新鋭の兵器ならどうか。
戦車、ミサイル、無人機。テレビやニュースで見た圧倒的な火力。
それでも、足りない気がする。
魔界の存在は、単なる物理現象じゃない。数値で測れる強さでもない。恐怖そのものが、武器になる世界だ。
メリッサは、そこまで詳しいことを知らない。知識として体系立てて学んだわけでもない。ただ、知ってしまっているだけだ。
「あれは……人の手に負えるものじゃない」
呟いた声は、ひどく小さくて掠れていた。
もし、今この瞬間にも裂け目が広がっていたら。
もし、もう向こう側から“何か”がこちらを覗いていたら。
考えた途端、喉の奥がひゅっと縮む。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動がうるさい。
それでも、誰かに投げるわけにはいかない。
見なかったことにも、できない。
メリッサは膝を抱え、額をそこに押し当てた。逃げたい気持ちと、逃げてはいけないという感覚が、同時に胸を締め付ける。
自分は、ただの留学生で、ただの女子大学生で、冥界と魔界の違いが分かってしまう程度には、「向こう側」を知っている人間だ。それが、今は呪いのように思えた。
「……シオン様……」
名前を呼んだ瞬間、それが叶わない願いだと分かっているからこそ、胸が痛んだ。
頼れない。
呼べない。
助けを求めれば、また誰かが傷つく。メリッサは、震える指で膝を強く握り締めた。
考えろ。まだ、何か方策はあるはずだ。
理性が必死にそう叫んでいた。
冥闘士と魔物。
その親和性は、あまりにも高すぎる。敵対するどころか、触れ合えば融合し、調和し、陰の力は増幅される。制御できると思った瞬間に、もう手遅れだ。
対抗戦力には、なり得ない。冥闘士である自分では、だめなのだ。
(ああ……だから、分かっちゃったんだ……)
メリッサは、ゆっくりと目を閉じた。
村で感じた、あの異様な気配。
皮膚の内側をなぞるように忍び寄ってきた、あの感覚。
恐怖だけではなかった。
嫌悪だけでもなかった。
――引きつけられていた。
陰が陰を呼んだのだ。
冥界に属したことのある魂だからこそ、魔界の裂け目に無意識に応えてしまった。それは本能だからこそ抗えず、だからこそ、はっきりと分かってしまったのだ。
「……最悪だ」
小さく吐き捨てるように呟く。
聖闘士。
陽の力を宿す者たち。
光と秩序を軸に戦う存在でなければ、あれには対抗できない。陰には、陰を打ち消すほどの光が要る。
そして、あの裂け目。
空間そのものが裂け、異界とこちら側が、縫い目もなく繋がってしまっている。
科学では無理だ。どんな技術でも、あれは“修復”できない。壊すことはできても元に戻すことはできない。
縫い合わせて、世界を再び一枚の布に戻す。
それができるのは――
「アテナ様しかいないじゃん……!」
思わず声が大きくなり、慌てて片手で口を塞いだ。
工芸を司る女神。
アテナは戦と知恵と、そして“創る”ことを司る存在。
裂けた世界を縫い、歪んだ境界を正す。
「いや……アテナ様……万能じゃん……」
乾いた笑いが漏れる。状況は絶望的なのに、その事実だけが、やけに鮮やかだった。
「すごいな……ほんと……」
尊敬と、諦観と、ほんの少しの救い。
だが同時に、はっきりと理解してしまった。
これは、自分一人で抱えていい話じゃない。
でも、自分から聖域に持ち込むわけにもいかない。
冥闘士の身。
エルダニアに留め置かれた立場。
そして、あまりにも都合よく見える「発見」。
疑われる要素は、揃いすぎている。メリッサは額に手を当て、深く息を吐いた。
「……詰んでない?」
冗談めかした言葉とは裏腹に、胸の奥は、冷え切っていた。
それでも、気付いてしまった以上、見てしまった以上、何もしないという選択肢は最初から存在しない。
冥闘士ではだめ。
科学でもだめ。
一人では、どうにもならない。
「……繋ぐしかないよね。ちゃんと」
ならば、世界と世界を。
人と人を。
そして、聖域とあの場所を。
メリッサは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖と同じだけの覚悟が宿っていた。
