Eine Kleine Ⅳ

 聖域には、古くから定められた不文律がある。
 保護対象国家の除外は、最高議会における全会一致。それが原則だ。
 どれほど教皇の権限が強くとも、それを一人で覆すことはできない。それは、聖域が「個人の感情」によって世界の均衡を左右する組織ではないという、最低限の歯止めだった。
 ただし、例外が存在する。
 それは、国家が自らの意思で、あるいは無自覚のままに、聖域との不可逆な断絶条件をすべて満たしてしまった場合だ。
 シオンは、教皇の間でひとり、書類に目を落としていた。
 淡々と列挙された事実。
 一つ一つは、外交の範疇に収まる行為だ。だが、並べられた時点で、それは別の意味を持つ。
 聖域の中立性を損なう婚姻への強要。
 教皇の私的関係を交渉材料とした外交圧力。
 民間人――それも保護対象者への接触。
 学術機関を利用した間接的報復。
 国家の意思決定における、威圧と誘導。
 そして最後に付された一文。

 ――当該行為において、聖域および教皇の安全と尊厳は、著しく侵害されたと判断される。

 シオンは目を閉じた。そこに怒りはなかった。失望すら、もう過ぎ去っている。ただ、「そうなってしまった」という事実だけがあった。
 エルダニアは、金で揺さぶり、人で縛り、踏み込んではならない場所まで足を伸ばした。
 それが何を意味するのかを理解しないまま。
 条件は、すべて満たされてしまった。
 静かに目を開く。
 この瞬間、最高議会の承認は不要となる。
 それは特権ではなく、義務として教皇に委ねられた決定権だった。
 シオンは迷わなかった。机の上に置かれた文書に教皇の名で署名をする。それは、誰かを裁くための署名ではない。ただ、これ以上、踏み越えさせないための線引きだった。
「エルダニア王国を聖域保護対象国家より除外する」
 感情は無だった。
 この決定が一国の未来に影を落とすことも、世界の均衡に小さな歪みを生むことも、そして、メリッサの人生と無関係ではないことも、すべて分かっている。
 これは彼女を守るための選択ではない。彼女を「使った」国家を、聖域が許さないという宣言だ。
 教皇シオンは、その責任を引き受ける覚悟でペンを置いた。
 決定は下された。

 教皇宮に鐘は鳴らなかった。
 非常事態を告げる合図も、緊急招集の喧騒もない。
 それでも、その朝は明らかに違っていた。白い回廊を行き交う官吏たちの足取りは忙しなかった。
 交わされる視線は短く、言葉は最小限だ。誰もがすでに察していた。
 教皇が決断したのだ、と。
 正午。
 教皇宮中枢に集められた高位官吏たちの前に、シオンは姿を現した。
「通告する」
 声は低く、よく通った。聞き逃す者はいない。
「エルダニア王国を、本日付をもって聖域の保護対象国家から除外する」
 空気が一瞬だけ止まった。驚愕でも動揺でもない。
 それは、覚悟を伴った沈黙だった。
 官吏の一人が確認するように一歩進み出る。
「……猊下。最高議会の承認は」
「不要だ」
 遮るように、しかし乱暴ではなく言い放った。
「規定条件はすべて満たされている。これは例外措置ではない。聖域の内規に則った正当な判断だ」
 異論は出なかった。出せなかった、という方が正しいか。この決定がどれほど重く、どれほど不可逆であるかを、その場にいる全員が理解していた。
「各国元首へ、正式な発布を行え」
 命令は淡々としていた。
「文言は事実のみを記せ。感情も非難も不要だ」
「御意」
 官吏たちは一斉に頭を下げた。
 やがて、教皇宮の奥が慌ただしく動き出す。
 聖域の印章を刻まれた通達が、各国の元首、外務省、外交機関へと送られていく。
 それは当然、エルダニア王国にも。
 王宮に届けられた封書は、装飾のない簡潔なものだった。だが、その中身はどんな華美な外交文書よりも重い。
 そこには、ただ一行。
「〇月〇日をもって、貴国を聖域の保護対象国家から除外する」
 それは宣告だった。
 金で買えないものがあると、力で踏み越えてはならない線があると示すための。
 教皇シオンは、自ら選んだその一手がどれほどの波紋を呼ぶかを知っている。
 これは、報復でも威嚇でもない。
 ただ――聖域が聖域であるために、守らなければならない一線だった。
 聖域は沈黙した。噂を否定せず、弁明もせず、誰の問いにも応じない。意図的で、冷ややかな沈黙だった。

 三月。
 エルダニアの学制に合わせるように、メリッサはギリシャを発った。復学してまだ半年余り。ようやく日常に戻りかけていた時期だった。
 クロエもアリサも、そしてレオンも、誰一人として、何も告げられなかった。彼女は忽然と姿を消した。大学では混乱は起きなかった。
 休学なのか私事なのか。それとも体調不良か。
 学生課に問い合わせても返ってくるのは、定型文のような返答だけだ。
「個人情報ですので、お答えできません」
 三人は港町へ向かった。
 玄関先に立った瞬間、クロエは違和感を覚えた。
 人の気配はないのに荒れていない。砂埃は掃かれ、植木鉢は整然と並んでいた。郵便受けは空でチラシも溜まっていない。留守にしているというより「留守にしている状態を維持されている」家だった。
「……誰かが出入りしてる?」
 アリサが怪訝そうに呟いた。
 レオンは玄関の鍵を見つめたまま、何も言わなかった。
 その数日後。
 留学生受け入れ停止措置が、何事もなかったかのように解除された。あまりにも分かりやすい符合だった。
 クロエは自室に戻ると、カーテンを閉め携帯を手に取った。この回線を使うのはいつも躊躇いがある。だが、これは躊躇っていい類の事態ではない。数コールの後、低い声が応答する。
『……言え』
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです」
 一拍、間を置く。
「メリッサ・ドラコペトラが失踪しました。自宅は無人ですが、誰かの手で整頓されています」
 言葉を選びながら、慎重に続ける。
「長期不在を前提とした状態です。郵便物の回収、清掃。彼女の不在を知っている第三者が存在している可能性が高いかと」
 電話の向こうで空気が変わるのが分かった。
『……時期は』
「三月上旬。エルダニアの学期開始と一致します」
 沈黙。それは否定でも驚愕でもない。すでにいくつかの可能性を想定していた上での、確認の沈黙だった。
『留学生受け入れ停止解除と、同時期だな』
「はい」
 クロエは、胸の奥に沈んでいく感覚を押し殺した。
『……接触は、ほぼ確実だ』
 短く吐き捨てるような声。
『猊下には、こちらから伝える』
「お願いします」
 通話は、それ以上続かなかった。
 携帯を置いたクロエは、しばらく動けずにいた。
 メリッサは、連れ去られたのではなく、自分で選んで“消えた”。
 誰かを守るために。
 誰かを巻き込まないために。
 その選択を知っている者が、この世界のどこかにいる。
 クロエは、目を閉じた。
 これは、まだ終わっていない。むしろ、ここからが本当の局面だ。

 シオンは、彼女を取り戻すために動いた。エルダニアへ向かう。随行員は最小限とし、あくまで私的な渡航という体裁を取った。外交問題にしないための、ぎりぎりの配慮だった。だが、空港で足は止められた。
 出国手続きが終わり、搭乗を待つ間に一本の連絡が入った。側近が、躊躇いを含んだ声で告げる。
「エルダニア王国より通達です。猊下の入国を本日付で拒否する、と」
 一瞬、意味を測りかねる沈黙が落ちた。
 拒否。
 その言葉が、ようやく現実として輪郭を持つ。
「理由は」
「国家安全保障上の懸念。および、内政への不当な干渉を行った主体であるため、とのことです」
 つまり、聖域そのものが排除の対象とされたのだ。シオンは返事をしなかった。驚きも怒りも表には出ない。ただ、わずかに視線を落とした。
(ああ、そうか)
 彼らは理解していない。いや、理解しようとしなかったのだ。保護対象除外が何を意味するのか。聖域が沈黙するということが、どれほど重い選択であるのか。
「……分かった」
 それだけを言って、彼は踵を返した。搭乗口へ向かっていた歩みは自然に反転する。
 入国拒否。それは拒絶だった。同時に、宣言でもある。エルダニア王国は、聖域と対立する道をはっきりと選んだ。正面から来るなら受けて立つ。そう言っているのと同じだった。
「サガに伝えろ」
 歩きながら低く言う。
「エルダニアは、対話の段階を終えた」
 それが何を意味するか、側近は聞き返さなかった。メリッサの名は、その場では口にされなかった。だが、彼の胸の中には常にあった。国境が彼女との間に引かれたのなら、それを越える方法を探すだけだ。
 エルダニアはまだ気付いていない。自分たちがいかに愚策を講じたのかを。

 サガは報告書に目を落としたまま、しばらく動かなかった。読み返す必要はなかった。文書の内容は、一度目を通した時点ですべて理解していた。
 入国拒否。
 教皇個人ではなく、“聖域”という主体そのものを拒んだという点が決定的だった。
「……なるほど」
 低く、独り言のように漏らす。
 エルダニアは聖域との対立を選んだ。
 それも、引き返せない形で。
 サガは静かに書類を閉じた。その仕草には確かな終止符があった。
「愚かな真似を……」
 吐息に混じったその言葉に怒気はない。あるのは評価だけだった。感情ではなく、結果を見据えた判断。聖域の庇護を失うということが、何を意味するのか。それは軍事や経済の問題ではない。もっと根源的な、均衡の崩壊だ。
 サガは視線を上げ、報告に立っていた官吏を見た。
「周辺国の動きは」
「すでに情報は回っています。公式には静観ですが、水面下では距離を取り始めています」
 当然だ。
 聖域と敵対する国と、積極的に関わろうとする国家は存在しない。
「……メリッサ・ドラコペトラの所在については」
「確認できていません。ただし、渡航記録は抹消されておらず、正規の手続きを経ています」
 正規。それが、かえって不自然だった。
「管理下に置かれているのだろう」
 サガは椅子から立ち上がった。
「エルダニアは、自分たちが何に手を出したのか、理解していない。いや――理解しないまま選んだ」
 サガは教皇宮の奥へ視線を向け、そこにいる人物の顔を思い浮かべる。
 シオンは、個人として動いたのではない。教皇として、彼女を守ろうとした。
 サガは、止めなかった。
 止めるという選択肢は、最初からなかった。
「準備を始めろ」
 振り返り、短く命じる。
「これは交渉では終わらない」
 その声は静かだったが、聖域がすでに次の段階へ進んだことを示していた。

 王宮の奥、分厚い石壁に囲まれた執務室は昼間でも薄暗かった。高い天井から吊るされた照明は、書類の山と地図の上だけを照らし、壁際に立つ人影には影を落とす。
「陛下」
 年老いた男が一歩前に出た。王宮付き歴史学者――王の祖父の代から、この国の「過去」を記録し続けてきた人物だった。
「聖域への対応は、今からでも翻意なさるべきです」
 その声は低く、揺らぎがなかった。感情に訴える言葉を彼は選ばない。歴史を知る者は、いつも結論から話す。
「保護対象除外は警告です。これ以上踏み込めば、エルダニアは――」
「大げさだな」
 王は、手元の書類から目を上げもしなかった。指先でペンを転がしながら退屈そうに言う。
「聖域は沈黙している。それが答えだろう?」
 沈黙が準備である可能性など、最初から考慮に入っていない口ぶりだった。歴史学者は、わずかに唇を引き結んだ。
「沈黙は、許容ではありません。かつて――中世以前、多くの国がそれを誤解しました」
「またその話か」
 王は顔を上げ、初めて彼を見た。若く、野心に満ちた瞳だった。
「表の歴史に残らなかった国の話をされても、判断材料にはならん」
「残らなかったのではありません」
 歴史学者は、静かに言い返す。
「残す者がいなかったのです」
 王は、鼻で笑った。
「今は時代が違う。情報も、世界経済も、国際的組織もある。IT化された現在の世界で、化石のような組織に何ができる」
 そして、ようやく本題に触れる。
「それに――」
 ペンを置き、椅子に深く腰掛けたまま王は言った。
「メリッサ・ドラコペトラが、既に我らの手の内にあるというのに?」
 歴史学者の指先が、わずかに震えた。
「陛下……そのお考えこそが、最も危険です」
「何が危険だ?」
「彼女は、ただの留学生ではありません」
 言葉を選びながら、歴史学者は続ける。
「聖域が、教皇が、あれほどの措置を取った理由を――」
「理由などどうでもいい」
 王は遮った。学者の話には興味がなかった。
「次は、ギリシャ共和国への医薬品供給を減らせ」
 歴史学者は、息を呑んだ。
「陛下、それは――」
「表向きは品薄状態とでもしておけ」
 淡々とした命令だった。それが、どれほど多くの人命に影響するかを計算に入れた様子もない。
「向こうが困れば必ずこちらを見る。国家とはそういうものだ」
 王は、自分の言葉に疑いを持っていなかった。歴史学者は、ゆっくりと頭を下げた。これ以上言葉を重ねても無駄だと悟ったからだ。 

 ――この王は、歴史を学ばない。

 そして、学ばない王の末路は、歴史がすでに知っている。部屋を出る直前、彼は一度だけ立ち止まり、振り返った。
「陛下」
 王は応えない。
「聖域は、奪われたものを取り戻すために動くのではありません」
 わずかな間。
「均衡を壊した者を、彼らは見逃さないでしょう」
 その言葉は、王の背中に届くことはなかった。
 重い扉が閉まる。
 その音は、エルダニアが踏み越えてはならない一線を越えた合図のように、宮殿の奥へと響いていった。
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