Eine Kleine Ⅳ
エルダニア国王アンドレアスは、報告書の最後の一行を指でなぞった。
「留学を拒否」。
それは、交渉が決裂したという事実を淡々と告げる文字列だった。
怒りも失望もない。むしろ、どこかで予測していた結果だった。
「若いな」
ぽつりと、独り言のように呟く。それは軽蔑ではない。意思を曲げなかったメリッサへの、ある種の評価だった。
王は机を回り、窓辺に立つ。
都市は変わらず息づいている。人々は今日も仕事へ向かい、学生たちは講義に遅れぬよう足を速めている。
「だが、選択には代償が伴う」
背後で控えていた外務顧問が一歩前に出る。
「聖域への財政支援は、どの程度まで縮小なさいますか」
「段階的に」
王は振り返らない。
「急激な断絶は反発を招く。だが、確実に効くやり方で行く」
「では――大学関係は」
「停止だ」
短い言葉だった。その一言で未来が切り落とされる人間が何人もいる。
「メリッサ・ドラコペトラ本人には?」
「何もしない」
王は即答した。
「彼女には選ばせる必要がある。孤立した状況で、なお拒むかどうかを」
それは試練というより、環境操作だった。直接触れず、手を汚さず、それでも確実に影響を与える。
国家が持つ最も洗練された暴力。
変化は、大学に静かに染み込んでいった。
最初に気づいたのは研究室だった。廊下で交わされる会話の端々に、妙な緊張が混じる。
「……あの話、なくなったらしいよ」
「え、まさか。もう内定みたいなものだったのに」
留学。
エルダニア。
製薬研究。
単語だけが断片的に耳に入る。だが、誰も詳しくは話さない。まるで、口に出すこと自体が不吉だとでも言うように。
数日後、正式な通知が回った。
――エルダニア王国との留学生受け入れ協定は、先方の事情により当面停止となりました。
事務的な文章だった。理由は書かれておらず、再開の目処も示されていない。
掲示板の前に集まった学生たちは、言葉を失っていた。特に、上級生や院生にとって、それは人生設計を根底から揺るがす知らせだった。
「……どういうこと?」
「なんで今さら」
怒りや戸惑いが広がる中で、メリッサは一歩引いた場所に立っていた。
胸の奥が静かに冷えていく。自分のせいだと分かってしまったのだ。
あたしが断ったからだ。
そのせいで、誰かの未来が閉ざされた。自分の選択が、他人の可能性を削った。その事実が、重くのしかかる。
「メリッサ……?」
クロエが、心配そうに声をかける。
メリッサは、ゆっくりと顔を上げた。どこか遠くを見ている目をしていた。
「ねえ、クロエちゃん」
静かな声だった。
「選択ってさ……一人でしてるつもりでも、本当は全然一人じゃないんだね」
クロエは言葉の意味を測りかねていた。
メリッサは、小さく息を吸った。そこには、覚悟を決める前の人間特有の、静かな緊張だけがあった。
エルダニアは、手を引いてなどいない。むしろ、より巧妙に、より冷静に、彼女を追い詰め始めている。そしてメリッサは、ようやく理解する。これは交渉の終わりではない。
本当の選択を迫る、第二幕の始まりなのだと。
報告は、簡潔だった。無駄な形容はなく、推測も添えない。クロエは、あくまで事実だけをサガに伝えた。
エルダニア王国による留学生受け入れ停止。
対象は個人ではなく、大学単位。
理由の説明はなく、時期は極めて唐突。
サガは、その報告を聞き終えると、わずかに目を伏せた。思考を整理するための癖のようなものだ。
「……財政支援の縮小は予測の範囲内だ」
低く、抑えた声。
エルダニアが圧をかけてくること自体は、想定していた。
「しかし、大学か」
聖域。
ギリシャ政府。
外交ルート。
それらを飛び越え、教育機関を狙う理由がどうしても理屈に合わない。学生の未来を盾に取るやり方は、あまりに回りくどい。それでいて、効果は確実だ。
サガは一度だけ、クロエを見た。
「……他に、変わった動きは」
「いいえ。少なくとも、表向きには」
クロエは、即答した。
メリッサの名を、ここで出すことはできない。だが、サガはそれ以上、問わなかった。必要な情報は、もう揃っている。
「分かった。下がっていい」
クロエが一礼して退いた後、サガはそのまま教皇の執務室へ向かった。
扉の前で一度だけ呼吸を整える。軽い報告では済まないと、分かっていたからだ。
「教皇」
シオンは書類から視線を上げた。その表情は静かで、だが僅かな疲労が滲んでいる。
「どうした」
「エルダニア王国が、国立大学に対し留学生の受け入れ停止措置を取りました」
「……大学?」
「はい。個別ではなく、大学単位です」
一瞬、沈黙が落ちる。
聖域への財政支援縮小。それは、外交的な意思表示だ。だが、大学は違う。政治と直接結びつかない場所であり、同時に、未来を担う場所でもある。
「……妙だな」
シオンは、低く呟いた。
「なぜ、無関係な学術機関にまで手を伸ばす」
言葉にしながら、思考は一つの点へ向かっていく。
国立大学。
薬学部。
ギリシャ。
エルダニア。
「まさか……」
声が、わずかに硬くなる。
「メリッサに、接触したのか……?」
サガは、肯定も否定もせず静かに告げる。
「……時系列を考えれば、無関係とは思えません。しかし、確証もありません」
シオンは椅子の背に深く身を預けた。胸の奥で冷たいものが広がる。彼女を守るためだと判断し、連絡を絶った。だが、その間に、自分の知らない場所で、自分の知らない交渉が進められていたとしたら。
「……私は」
自嘲とも、怒りともつかない息を吐く。
「守るつもりで、彼女を一人にしたのかもしれんな」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、確信だけが残る。
エルダニアは、メリッサを「切り札」として認識している。そしてそれはもう、見て見ぬふりのできる段階ではない。
分かった瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。大学から届いた事務的な一斉メール。その行間だけで十分だった。
エルダニア王国による、留学生受け入れ停止。
理由は書かれていない。だが、理由が分からないほど、メリッサは愚かではなかった。
「あたしが……」
声に出した途端、喉が詰まった。続くはずだった言葉が、音にならない。
窓越しの午後の光は穏やかなのに、空気だけが妙に重い。
もう、個人の問題じゃない。
その事実が、遅れて追いついてくる。
自分の進路、自分の恋、自分の選択。初めからそんなものではなかったのだ。
エルダニアが提示してきた条件は、未来を保証するという甘美な言葉だった。あれは「選択肢」などではなく、試金石だった。従えば確実に守られ、拒めばこうなる。
「あたし一人で、どうにかできるわけ……なかったじゃん」
ぽつりと落ちた呟きは、誰に届くでもなく床に吸われた。
国家。
外交。
報復。
そんな言葉が、まさか自分の人生に並ぶ日が来るなんて、思ってもいなかった。
一人の女子大学生が、国家に逆らう。
その構図の滑稽さに、今さら気づく。
「……最初から、無理だったんだ」
ただ、拒否しただけなのに、世界はこうも簡単に形を変える。自分の選択が、自分以外の未来を削ったのだとしたら。その重さに、息が浅くなる。
(シオン様は何て言うだろう)
もし、これを知ったら。
もし、全部を理解したら。
きっと、責めない。
それが分かってしまうから、余計に苦しい。
メリッサは、両腕で自分の体を抱きしめた。涙は出なかった。泣くには、状況が重すぎた。もう、戻れないところまで来ていると、はっきり理解した。
そして、これはもう「恋人として悩む話」ではない。権力者同士のやりとりに、一人の人間が巻き込まれていく話なのだと。その自覚だけが、静かに、確実に、メリッサの背筋を冷やしていった。
リビングのテーブルに置き去りにしていた封筒を、メリッサは乱暴とも言える動きで掴み上げた。
エルダニア王立大学薬学部薬学科編入。
その文字が印刷された無駄に重たい封筒を逆さにすると、乾いた音を立てて中身が零れ落ちる。
パンフレット。
履修要項。
研究室案内。
奨学金規定。
紙の束がばさばさと散らばる。その中に混じって、一枚だけ質の違うものがあった。
名刺だった。
白地に控えめな書体で記された、エルダニア外務官の名前と肩書き。角が少しだけ擦れているのは、何度か手に取った証拠だ。
「……捨てないで良かった」
要らないものはすぐに処分する。そうやって身軽に生きてきたはずなのに、この封筒だけはなぜか捨てられなかった。分かっていたのだと思う。自分の中で、もう一度この選択に戻ってくる日が来ることを。
名刺を指で挟むと、紙の感触がやけに現実的に感じた。胸の奥で、様々な感情が渦を巻いていた。
後悔。
自責。
恐怖。
そして、それらを押し流そうとする、もっと深いもの。
守りたいものがある。
失いたくないものがある。
でも、それを守るために、どこまで自分を差し出せるのか。
これは降伏じゃない。選択だ。
少なくとも、自分はそう思いたかった。
スマートフォンを手に取り、名刺の電話番号を入力した。一度、指が止まる。
――シオン様。
名前が浮かんだ瞬間、胸が痛んだ。
連絡が取れないままの時間。
拒絶されたままの沈黙。
話したかった。
知ってほしかった。
でも、それすら許されない状況が、今ははっきりと分かる。
「……あたしが、決めるしかないんだ」
小さく息を吸い、吐く。
震えは、完全には止まらない。
それでもメリッサは、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
耳元で響く電子音が、心臓の鼓動と重なる。
もう戻れない。
その感覚が、妙に静かに腹の底に落ちた。
苦悩も、後悔も、恐怖も、全部抱えたまま進むしかない。
それが、メリッサの選択だった。
コール音の向こう側で、誰かが出る気配がする。
メリッサは、背すじを伸ばした。
もう迷わないと、自分に言い聞かせるように。
コール音は、三度目で止まった。
『……こちら、ルーカス・ヴァン=デル=アーヘンだ』
名刺にあったとおりの名前。低く、感情を削ぎ落としたような声だった。
「メリッサ・ドラコペトラです」
名乗った瞬間、わずかな沈黙が入る。相手が状況を理解するのに、時間はいらなかった。
『……ご連絡をいただけるとは思っていませんでした』
「でしょうね」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。喉の奥はひりついているのに、感情だけが妙に遠い。
「留学生受け入れ停止の件、知りました」
『はい』
否定も言い訳もない。それが、何より雄弁だった。
「やっぱり、報復だったんですね」
『外交上の判断です』
その一言で、全てを包み隠そうとする。
メリッサは、鼻で小さく息を吐いた。
「――あたしが断ったから?」
今度は、沈黙が少し長かった。
『あなたの選択が、無関係だとは言えません』
正直だ。あるいは、誠実さを装うことに意味がないと思っているのか。
「随分と回りくどいやり方ですね。直接潰す方が、エルダニアらしいと思ってました」
『直接的な圧力は、あなたの想像以上に反発を招きます』
「だから大学を?」
『ええ』
淡々と肯定され、胸の奥が軋んだ。
自分の拒否が、顔も名前も知らない誰かの未来を潰した。その事実が、改めて突きつけられる。
「……あたしに、どうしろって言いたいんですか」
テーブルの上に散らばった資料に、視線を落とす。
『一度、ふりだしに戻しましょう』
「ふりだし?」
『あなたの留学の話です』
胸が、僅かに跳ねた。
「断ったはずです」
『ええ。ですから――条件を変えます』
その言葉に、背すじが冷える。
「どう変えるんです?」
『今回は、恋愛関係の解消を条件にしません』
一瞬、理解が追いつかなかった。
「……は?」
『あなたと教皇シオンの私的関係について、エルダニアは関知しない』
まるで、慈悲でも与えるかのような口調だった。
『その代わり、あなたがエルダニアに来る。それだけです』
「それだけ、で済む話じゃないですよね」
『聡明ですね』
褒め言葉にも、皮肉にも聞こえない。
『あなたがエルダニアにいる限り、聖域は慎重にならざるを得ない。国家同士の摩擦も抑えられる』
「……やっぱり、人質じゃないですか」
『どう呼ぶかは、あなた次第です』
メリッサは名刺を指先で弾いた。薄い紙片が軽い音を立てる。
「分かりました…行きますよ。エルダニアに」
『ほう…』
「その代わり、留学生受け入れ停止措置を解除してください」
『……承りました』
ルーカスの声は、先ほどと何一つ変わらない。感情の起伏を拒むような、平坦さ。
「“検討します”じゃないんですね」
『外交は、即答できないことばかりです』
それは誤魔化しでもあり、事実でもあるのだろう。メリッサは、わずかに唇を噛んだ。
「……でも、解除されなかったら?」
『その場合でも、あなたの留学は成立します』
それは即答だった。あまりにも迷いがない。
「……ずるい」
思わずそう漏れた。自分の条件だけが、片務的に差し出されている。エルダニアは“考慮する”だけで、何一つ確約していない。
『国家交渉とは、そういうものです』
「分かってますよ」
怒りも、悲しみも、恐怖も、すべてが一度沈み切ったあとに残ったのは、静かな覚悟だった。
「……あたしがエルダニアに行けば、これ以上、周りを巻き込まなくて済むんですよね」
『少なくとも、今の状況は沈静化します』
“解決する”とは言わない。
“沈静化する”。
その言葉の選び方が、この国の冷酷さを、如実に表していた。
「分かりました」
メリッサは、深く息を吸った。
「条件は二つです」
『伺いましょう』
「一つ。あたしがエルダニアにいる間、大学や研究機関に、これ以上の圧力をかけないこと」
沈黙。
短いが、計算の時間だと分かる沈黙。
『善処します』
曖昧だ。けれど、ここで踏み込め、交渉は壊れる。
「二つ目」
メリッサは、視線を上げた。誰もいない部屋の壁を、まっすぐに見据える。
「シオン様には、何もしないでください」
一瞬、空気が変わった。
『……それは』
「あの人を試すようなことはしないで」
喉の奥がまたひりつく。それでも、言葉を止めなかった。
「あたしが行くのは、あたしの意思です。それを理由に、シオン様を追い詰めるなら――」
続きは、言わなくても伝わるはずだ。
『……』
今度の沈黙は、長かった。ルーカスが何を考えているのかは分からない。だが、メリッサはもう、目を逸らさなかった。
これは取引だ。
やがて、低い声が戻ってくる。
『……あなたは、本当にただの学生ではないようだ』
「よく言われます」
自嘲にも、誇りにもならない言葉。
『条件は、上に伝えます』
「お願いします」
『結果は、改めて』
「……ルーカスさん」
『はい』
「一つだけ、勘違いしないでください」
メリッサは、静かに、しかしはっきりと言った。
「あたしは、エルダニアのために行くんじゃない。誰かを守るためでも、国のためでもない。ましてや聖域のためなんかじゃない」
一拍、置く。
「あたし自身が、選んだ結果です」
電話の向こうで、ほんのわずかに息を吸う音がした。
『……理解しました』
通話はそこで切れた。
静寂が戻る。
スマートフォンをテーブルに置いた瞬間、手のひらに遅れて震えが走る。膝の力が抜け、椅子に腰を落とした。
「……怖いに、決まってるでしょ」
誰に聞かせるでもない独り言。未来は、まだ何一つ保証されていない。シオンにも、何も伝えられていない。この選択が正しかったのかどうかも、分からない。
メリッサは、両手で顔を覆い、しばらくそのまま動かなかった。泣かなかった。ただ、静かに呼吸を整えながら、自分が踏み出した場所の重さを一つずつ、身体に刻み込んでいた。
エルダニアから持ち帰った条件。
それを聖域で共有した瞬間から、シオンの胸中には、ひとつの仮説が沈殿していた。
切り札は、まだ切られていない。
縁談を断った。
財政支援は縮小された。
それでも、エルダニアは引いていない。
国がここまで執着する理由。
宗教的権威としての教皇シオンだけでは、説明がつかない。
「……」
執務室の窓から見えるのは、いつもと変わらない聖域の風景だった。
乾いた風。白い石畳。祈りの気配。だが、胸の奥にだけ、微かな違和感が残る。
国立大学からの留学生受け入れ停止。
それは、外交という名の圧力としてはあまりにも歪だった。対象が曖昧すぎるのだ。
「学生……」
ぽつりと呟く。その瞬間、思考が一気に収束した。
エルダニアの動きは、メリッサの生活圏を正確にかすめている。
「……接触されたか」
答えは、ほぼ出ていた。
誰もがはっきりとは口にしないが、サガもカノンも同じ結論に至っているはずだ。
もし、彼女が狙われているのだとしたら。
シオンは、深く息を吐いた。
自分が動けば、それは即座に「答え合わせ」になる。だが、動かないという選択肢は、彼女を一人、国家の思惑の中に放置することと同義だった。
「……すまない」
誰に向けた言葉かも分からないまま、シオンは、机の上の通信端末を手に取った。慎重に。だが、躊躇はしない。直接ではないが、確実に届く手段。
拒否設定を解除するわけにはいかない。通信の痕跡を残すのは危険すぎる。
一通だけ、短い符号のようなメッセージを打ち込む。
《無事か》
それだけを。愛情も、説明も、謝罪もない。けれど、彼女なら分かるはずだ。
これは、「答えを強要しない問い」だ。
送信。
画面が静かに暗転する。返事が来るかどうかは、分からない。来ないかもしれない。
シオンはその場を離れず、通信端末を伏せたまま、ただ待った。祈ることすら許されない立場にあると分かっていた。
もし、彼女が本当に接触されているのなら、その時はエルダニアが想定しているよりも、ずっと深く、ずっと強く聖域は動く。それを、シオン自身が誰よりも理解していた。
メリッサは涙目でスマートフォンを見つめていた。
着信表示に差出人の名前はない。だが、その文面を見た瞬間、考えるより先に分かってしまった。
《無事か》
たったひと言だけ。それなのに――
「……っ」
喉の奥が、急に詰まった。
無事か、なんて言葉、今さらじゃないか。
ここまで追い詰められているのに誰にも言えず、誰にも頼れず、一人で選択を迫られているこの状況の中で、その一言は、メリッサの中でぎりぎり保たれていた何かを、いとも簡単に壊した。スマートフォンを胸に抱き寄せた瞬間、膝から力が抜ける。床に座り込むというより、崩れ落ちたに等しかった。
「……シオン様……」
名前を呼ぶ声は、ほとんど音にならない。
泣くつもりなんてなかった。泣いても何も変わらないことは、もう嫌というほど分かっていた。声を出せば、全部溢れてしまう気がして、メリッサは唇を噛みしめる。手で口を覆い、喉から漏れ出そうになる嗚咽を必死で押し殺す。肩が小さく揺れる。呼吸が上手くできない。床の冷たさが、服越しに伝わってくるのにそれすら、遠い。
無事か。
その言葉は、「生きているか」という意味ではないことを、メリッサは、痛いほど分かっていた。
心が折れていないか。
一人で、耐え切れているか。
それとも――もう、限界なのか。
問いかけられているのは、そこだ。
「……無事なわけ、ないじゃない……」
呟きは涙と共に膝の上に落ちた。
言いたいことは、山ほどあった。
聞いてほしいことも、伝えなければならないことも。
エルダニアのこと。
留学の話。
報復。
選択。
でも今、この瞬間、メリッサは「まだ繋がっている」と示されたことに耐えきれなくなっていた。
スマートフォンを握る指に、力がこもる。
返信欄を開いて、何度も文字を打ちかけては消す。
結局、何も送れないまま画面が滲んで読めなくなる。
メリッサは、その短いメッセージを何度も何度も見返した。
シオンは気付いている。そして見捨てられていない。
それだけで心が壊れそうになるほど、彼女はもう限界だった。床にうずくまり声を殺して泣きながら、メリッサは、自分がどれほど深くシオンという存在が生きる支えだったのかを、思い知らされていた。
画面の光が、やけに白く感じられた。
《無事か》
その下にある返信欄。空白は、思っていたよりも深かった。
メリッサは何度も深呼吸をする。
スマートフォンを膝の上に置き、目を閉じた。
分かっている。今、彼が送ってきたのは精一杯の一手だ。
エルダニアに見張られ、聖域の判断に縛られ、それでも彼は連絡を断ち切らなかった。
たった一言だけ。まるで、命綱のように差し出された言葉に対して、自分は何を返すべきなのか。
「……重たいこと、言えないよね」
誰に向けたわけでもない呟きが、部屋に落ちる。
彼は、知らない。メリッサが今、交渉のテーブルに座らされていることも、留学という名の檻を提示されたことも。拒否した結果、誰かの未来が切り捨てられたことも。知らないからこそ、「無事か」と聞けたのだ。もし知っていたらこの一言は、送れなかっただろう。
だったらせめて、彼にこれ以上踏み込ませない言葉を。心配させず、責任を感じさせず、何も背負わせない言葉を。
メリッサは、再び画面を見る。
打っては消し、消しては打つ。短く曖昧で、それでいて、拒絶ではないもの。そう考えると、選択肢は驚くほど少なかった。指先が、ようやく動く。
《ありがとうございました》
それだけを送る。
感情を削ぎ落とし、説明も、感想も、未来も含まない言葉。ただ、受け取ったことへの礼。
「助けを求めません」
「今は、踏み込まないでください」
「でも、あなたの存在が救いだった」
そのすべてを一行に押し込めた言葉だった。
送信ボタンを押す直前、メリッサは一瞬だけ躊躇う。
これを送ったら、きっと彼は察してしまう。
何かを隠していることも、距離を置こうとしていることも。
それでも、今のメリッサにできる返信はこれだけだった。
指先が小刻みに震える。
送信。
画面が切り替わり、短いメッセージが確かに届いた印がつく。その瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
メリッサの全てが、《ありがとうございました》の裏側で、静かに泣いていた。
返信が届くまで、思ったより時間がかかった。
それ自体が、答えだった。
画面に浮かんだ短い一文を、シオンは一度、視線でなぞる。そしてもう一度、確かめるように読む。
《ありがとうございました》
違和感は瞬時だった。問いに対する答えではない。
安否を尋ねた言葉に返す内容ではない。それでも間違いではない。
「……やはり接触されたな」
声に出す必要もない。
思考は静かに、しかし一切の逡巡なく結論へ辿り着く。もし、何も起きていなければ、彼女はもっと曖昧に、もっと日常的に返したはずだ。あるいは、何も返さなかったかもしれない。
だが、これは違う。
感情を削ぎ落とし、説明を拒み、それでいて関係を断ち切らない言葉。礼だけを残すという選択。
それが意味するのは――
「話せない」ではない。「話してはいけない」だ。
誰かに見られているのか、聞かれているのか、もしくは、選択を迫られている。
国家か、組織か。それとも、もっと直接的な存在か。エルダニアの名が、脳裏をよぎる。
大学への措置。
聖域への圧力。
そして、この、噛み合わない一言。
すべてが、一本の線で繋がる。
シオンは、スマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
この一言がどれほど雄弁かを、彼女は分かっているのだ。
「大丈夫」と言えば、嘘になる。
「助けて」と言えば、こちらを縛る。
「今は無理」と言えば、理由を問われる。
だから――礼だけを残した。
受け取ったことへの感謝、存在してくれたことへの感謝。そして、これ以上踏み込まないでほしいという、沈黙の願い。
その裏にある苦しみが、その選択に至るまでの葛藤が、シオンには、痛いほど分かる。
彼女はいつも、そうだった。自分が傷つくことよりも、周囲が巻き込まれることを恐れる。
自分一人で抱え込み、自分一人で決断し、それでも最後まで、誰かを思う。
この一文に、どれほど多くの意味が込められているか。どれほどの後悔と恐怖と覚悟が、押し込められているか。察して、余りある。
これ以上、言葉で追い詰めてはならない。
彼女が守ろうとしている境界を、こちらから壊すわけにはいかない。だが同時に、見過ごすことも、許されない。
シオンは、再びスマートフォンを手に取る。
言葉ではなく、別の手段を選ぶべきなのだ。彼女が、独りで国家と向き合うなどあってはならない。
《ありがとうございました》
その一言の重さを決して軽く扱わない。
それを胸に刻み、シオンは静かに、次の一手を考え始めていた。
「留学を拒否」。
それは、交渉が決裂したという事実を淡々と告げる文字列だった。
怒りも失望もない。むしろ、どこかで予測していた結果だった。
「若いな」
ぽつりと、独り言のように呟く。それは軽蔑ではない。意思を曲げなかったメリッサへの、ある種の評価だった。
王は机を回り、窓辺に立つ。
都市は変わらず息づいている。人々は今日も仕事へ向かい、学生たちは講義に遅れぬよう足を速めている。
「だが、選択には代償が伴う」
背後で控えていた外務顧問が一歩前に出る。
「聖域への財政支援は、どの程度まで縮小なさいますか」
「段階的に」
王は振り返らない。
「急激な断絶は反発を招く。だが、確実に効くやり方で行く」
「では――大学関係は」
「停止だ」
短い言葉だった。その一言で未来が切り落とされる人間が何人もいる。
「メリッサ・ドラコペトラ本人には?」
「何もしない」
王は即答した。
「彼女には選ばせる必要がある。孤立した状況で、なお拒むかどうかを」
それは試練というより、環境操作だった。直接触れず、手を汚さず、それでも確実に影響を与える。
国家が持つ最も洗練された暴力。
変化は、大学に静かに染み込んでいった。
最初に気づいたのは研究室だった。廊下で交わされる会話の端々に、妙な緊張が混じる。
「……あの話、なくなったらしいよ」
「え、まさか。もう内定みたいなものだったのに」
留学。
エルダニア。
製薬研究。
単語だけが断片的に耳に入る。だが、誰も詳しくは話さない。まるで、口に出すこと自体が不吉だとでも言うように。
数日後、正式な通知が回った。
――エルダニア王国との留学生受け入れ協定は、先方の事情により当面停止となりました。
事務的な文章だった。理由は書かれておらず、再開の目処も示されていない。
掲示板の前に集まった学生たちは、言葉を失っていた。特に、上級生や院生にとって、それは人生設計を根底から揺るがす知らせだった。
「……どういうこと?」
「なんで今さら」
怒りや戸惑いが広がる中で、メリッサは一歩引いた場所に立っていた。
胸の奥が静かに冷えていく。自分のせいだと分かってしまったのだ。
あたしが断ったからだ。
そのせいで、誰かの未来が閉ざされた。自分の選択が、他人の可能性を削った。その事実が、重くのしかかる。
「メリッサ……?」
クロエが、心配そうに声をかける。
メリッサは、ゆっくりと顔を上げた。どこか遠くを見ている目をしていた。
「ねえ、クロエちゃん」
静かな声だった。
「選択ってさ……一人でしてるつもりでも、本当は全然一人じゃないんだね」
クロエは言葉の意味を測りかねていた。
メリッサは、小さく息を吸った。そこには、覚悟を決める前の人間特有の、静かな緊張だけがあった。
エルダニアは、手を引いてなどいない。むしろ、より巧妙に、より冷静に、彼女を追い詰め始めている。そしてメリッサは、ようやく理解する。これは交渉の終わりではない。
本当の選択を迫る、第二幕の始まりなのだと。
報告は、簡潔だった。無駄な形容はなく、推測も添えない。クロエは、あくまで事実だけをサガに伝えた。
エルダニア王国による留学生受け入れ停止。
対象は個人ではなく、大学単位。
理由の説明はなく、時期は極めて唐突。
サガは、その報告を聞き終えると、わずかに目を伏せた。思考を整理するための癖のようなものだ。
「……財政支援の縮小は予測の範囲内だ」
低く、抑えた声。
エルダニアが圧をかけてくること自体は、想定していた。
「しかし、大学か」
聖域。
ギリシャ政府。
外交ルート。
それらを飛び越え、教育機関を狙う理由がどうしても理屈に合わない。学生の未来を盾に取るやり方は、あまりに回りくどい。それでいて、効果は確実だ。
サガは一度だけ、クロエを見た。
「……他に、変わった動きは」
「いいえ。少なくとも、表向きには」
クロエは、即答した。
メリッサの名を、ここで出すことはできない。だが、サガはそれ以上、問わなかった。必要な情報は、もう揃っている。
「分かった。下がっていい」
クロエが一礼して退いた後、サガはそのまま教皇の執務室へ向かった。
扉の前で一度だけ呼吸を整える。軽い報告では済まないと、分かっていたからだ。
「教皇」
シオンは書類から視線を上げた。その表情は静かで、だが僅かな疲労が滲んでいる。
「どうした」
「エルダニア王国が、国立大学に対し留学生の受け入れ停止措置を取りました」
「……大学?」
「はい。個別ではなく、大学単位です」
一瞬、沈黙が落ちる。
聖域への財政支援縮小。それは、外交的な意思表示だ。だが、大学は違う。政治と直接結びつかない場所であり、同時に、未来を担う場所でもある。
「……妙だな」
シオンは、低く呟いた。
「なぜ、無関係な学術機関にまで手を伸ばす」
言葉にしながら、思考は一つの点へ向かっていく。
国立大学。
薬学部。
ギリシャ。
エルダニア。
「まさか……」
声が、わずかに硬くなる。
「メリッサに、接触したのか……?」
サガは、肯定も否定もせず静かに告げる。
「……時系列を考えれば、無関係とは思えません。しかし、確証もありません」
シオンは椅子の背に深く身を預けた。胸の奥で冷たいものが広がる。彼女を守るためだと判断し、連絡を絶った。だが、その間に、自分の知らない場所で、自分の知らない交渉が進められていたとしたら。
「……私は」
自嘲とも、怒りともつかない息を吐く。
「守るつもりで、彼女を一人にしたのかもしれんな」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、確信だけが残る。
エルダニアは、メリッサを「切り札」として認識している。そしてそれはもう、見て見ぬふりのできる段階ではない。
分かった瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。大学から届いた事務的な一斉メール。その行間だけで十分だった。
エルダニア王国による、留学生受け入れ停止。
理由は書かれていない。だが、理由が分からないほど、メリッサは愚かではなかった。
「あたしが……」
声に出した途端、喉が詰まった。続くはずだった言葉が、音にならない。
窓越しの午後の光は穏やかなのに、空気だけが妙に重い。
もう、個人の問題じゃない。
その事実が、遅れて追いついてくる。
自分の進路、自分の恋、自分の選択。初めからそんなものではなかったのだ。
エルダニアが提示してきた条件は、未来を保証するという甘美な言葉だった。あれは「選択肢」などではなく、試金石だった。従えば確実に守られ、拒めばこうなる。
「あたし一人で、どうにかできるわけ……なかったじゃん」
ぽつりと落ちた呟きは、誰に届くでもなく床に吸われた。
国家。
外交。
報復。
そんな言葉が、まさか自分の人生に並ぶ日が来るなんて、思ってもいなかった。
一人の女子大学生が、国家に逆らう。
その構図の滑稽さに、今さら気づく。
「……最初から、無理だったんだ」
ただ、拒否しただけなのに、世界はこうも簡単に形を変える。自分の選択が、自分以外の未来を削ったのだとしたら。その重さに、息が浅くなる。
(シオン様は何て言うだろう)
もし、これを知ったら。
もし、全部を理解したら。
きっと、責めない。
それが分かってしまうから、余計に苦しい。
メリッサは、両腕で自分の体を抱きしめた。涙は出なかった。泣くには、状況が重すぎた。もう、戻れないところまで来ていると、はっきり理解した。
そして、これはもう「恋人として悩む話」ではない。権力者同士のやりとりに、一人の人間が巻き込まれていく話なのだと。その自覚だけが、静かに、確実に、メリッサの背筋を冷やしていった。
リビングのテーブルに置き去りにしていた封筒を、メリッサは乱暴とも言える動きで掴み上げた。
エルダニア王立大学薬学部薬学科編入。
その文字が印刷された無駄に重たい封筒を逆さにすると、乾いた音を立てて中身が零れ落ちる。
パンフレット。
履修要項。
研究室案内。
奨学金規定。
紙の束がばさばさと散らばる。その中に混じって、一枚だけ質の違うものがあった。
名刺だった。
白地に控えめな書体で記された、エルダニア外務官の名前と肩書き。角が少しだけ擦れているのは、何度か手に取った証拠だ。
「……捨てないで良かった」
要らないものはすぐに処分する。そうやって身軽に生きてきたはずなのに、この封筒だけはなぜか捨てられなかった。分かっていたのだと思う。自分の中で、もう一度この選択に戻ってくる日が来ることを。
名刺を指で挟むと、紙の感触がやけに現実的に感じた。胸の奥で、様々な感情が渦を巻いていた。
後悔。
自責。
恐怖。
そして、それらを押し流そうとする、もっと深いもの。
守りたいものがある。
失いたくないものがある。
でも、それを守るために、どこまで自分を差し出せるのか。
これは降伏じゃない。選択だ。
少なくとも、自分はそう思いたかった。
スマートフォンを手に取り、名刺の電話番号を入力した。一度、指が止まる。
――シオン様。
名前が浮かんだ瞬間、胸が痛んだ。
連絡が取れないままの時間。
拒絶されたままの沈黙。
話したかった。
知ってほしかった。
でも、それすら許されない状況が、今ははっきりと分かる。
「……あたしが、決めるしかないんだ」
小さく息を吸い、吐く。
震えは、完全には止まらない。
それでもメリッサは、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
耳元で響く電子音が、心臓の鼓動と重なる。
もう戻れない。
その感覚が、妙に静かに腹の底に落ちた。
苦悩も、後悔も、恐怖も、全部抱えたまま進むしかない。
それが、メリッサの選択だった。
コール音の向こう側で、誰かが出る気配がする。
メリッサは、背すじを伸ばした。
もう迷わないと、自分に言い聞かせるように。
コール音は、三度目で止まった。
『……こちら、ルーカス・ヴァン=デル=アーヘンだ』
名刺にあったとおりの名前。低く、感情を削ぎ落としたような声だった。
「メリッサ・ドラコペトラです」
名乗った瞬間、わずかな沈黙が入る。相手が状況を理解するのに、時間はいらなかった。
『……ご連絡をいただけるとは思っていませんでした』
「でしょうね」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。喉の奥はひりついているのに、感情だけが妙に遠い。
「留学生受け入れ停止の件、知りました」
『はい』
否定も言い訳もない。それが、何より雄弁だった。
「やっぱり、報復だったんですね」
『外交上の判断です』
その一言で、全てを包み隠そうとする。
メリッサは、鼻で小さく息を吐いた。
「――あたしが断ったから?」
今度は、沈黙が少し長かった。
『あなたの選択が、無関係だとは言えません』
正直だ。あるいは、誠実さを装うことに意味がないと思っているのか。
「随分と回りくどいやり方ですね。直接潰す方が、エルダニアらしいと思ってました」
『直接的な圧力は、あなたの想像以上に反発を招きます』
「だから大学を?」
『ええ』
淡々と肯定され、胸の奥が軋んだ。
自分の拒否が、顔も名前も知らない誰かの未来を潰した。その事実が、改めて突きつけられる。
「……あたしに、どうしろって言いたいんですか」
テーブルの上に散らばった資料に、視線を落とす。
『一度、ふりだしに戻しましょう』
「ふりだし?」
『あなたの留学の話です』
胸が、僅かに跳ねた。
「断ったはずです」
『ええ。ですから――条件を変えます』
その言葉に、背すじが冷える。
「どう変えるんです?」
『今回は、恋愛関係の解消を条件にしません』
一瞬、理解が追いつかなかった。
「……は?」
『あなたと教皇シオンの私的関係について、エルダニアは関知しない』
まるで、慈悲でも与えるかのような口調だった。
『その代わり、あなたがエルダニアに来る。それだけです』
「それだけ、で済む話じゃないですよね」
『聡明ですね』
褒め言葉にも、皮肉にも聞こえない。
『あなたがエルダニアにいる限り、聖域は慎重にならざるを得ない。国家同士の摩擦も抑えられる』
「……やっぱり、人質じゃないですか」
『どう呼ぶかは、あなた次第です』
メリッサは名刺を指先で弾いた。薄い紙片が軽い音を立てる。
「分かりました…行きますよ。エルダニアに」
『ほう…』
「その代わり、留学生受け入れ停止措置を解除してください」
『……承りました』
ルーカスの声は、先ほどと何一つ変わらない。感情の起伏を拒むような、平坦さ。
「“検討します”じゃないんですね」
『外交は、即答できないことばかりです』
それは誤魔化しでもあり、事実でもあるのだろう。メリッサは、わずかに唇を噛んだ。
「……でも、解除されなかったら?」
『その場合でも、あなたの留学は成立します』
それは即答だった。あまりにも迷いがない。
「……ずるい」
思わずそう漏れた。自分の条件だけが、片務的に差し出されている。エルダニアは“考慮する”だけで、何一つ確約していない。
『国家交渉とは、そういうものです』
「分かってますよ」
怒りも、悲しみも、恐怖も、すべてが一度沈み切ったあとに残ったのは、静かな覚悟だった。
「……あたしがエルダニアに行けば、これ以上、周りを巻き込まなくて済むんですよね」
『少なくとも、今の状況は沈静化します』
“解決する”とは言わない。
“沈静化する”。
その言葉の選び方が、この国の冷酷さを、如実に表していた。
「分かりました」
メリッサは、深く息を吸った。
「条件は二つです」
『伺いましょう』
「一つ。あたしがエルダニアにいる間、大学や研究機関に、これ以上の圧力をかけないこと」
沈黙。
短いが、計算の時間だと分かる沈黙。
『善処します』
曖昧だ。けれど、ここで踏み込め、交渉は壊れる。
「二つ目」
メリッサは、視線を上げた。誰もいない部屋の壁を、まっすぐに見据える。
「シオン様には、何もしないでください」
一瞬、空気が変わった。
『……それは』
「あの人を試すようなことはしないで」
喉の奥がまたひりつく。それでも、言葉を止めなかった。
「あたしが行くのは、あたしの意思です。それを理由に、シオン様を追い詰めるなら――」
続きは、言わなくても伝わるはずだ。
『……』
今度の沈黙は、長かった。ルーカスが何を考えているのかは分からない。だが、メリッサはもう、目を逸らさなかった。
これは取引だ。
やがて、低い声が戻ってくる。
『……あなたは、本当にただの学生ではないようだ』
「よく言われます」
自嘲にも、誇りにもならない言葉。
『条件は、上に伝えます』
「お願いします」
『結果は、改めて』
「……ルーカスさん」
『はい』
「一つだけ、勘違いしないでください」
メリッサは、静かに、しかしはっきりと言った。
「あたしは、エルダニアのために行くんじゃない。誰かを守るためでも、国のためでもない。ましてや聖域のためなんかじゃない」
一拍、置く。
「あたし自身が、選んだ結果です」
電話の向こうで、ほんのわずかに息を吸う音がした。
『……理解しました』
通話はそこで切れた。
静寂が戻る。
スマートフォンをテーブルに置いた瞬間、手のひらに遅れて震えが走る。膝の力が抜け、椅子に腰を落とした。
「……怖いに、決まってるでしょ」
誰に聞かせるでもない独り言。未来は、まだ何一つ保証されていない。シオンにも、何も伝えられていない。この選択が正しかったのかどうかも、分からない。
メリッサは、両手で顔を覆い、しばらくそのまま動かなかった。泣かなかった。ただ、静かに呼吸を整えながら、自分が踏み出した場所の重さを一つずつ、身体に刻み込んでいた。
エルダニアから持ち帰った条件。
それを聖域で共有した瞬間から、シオンの胸中には、ひとつの仮説が沈殿していた。
切り札は、まだ切られていない。
縁談を断った。
財政支援は縮小された。
それでも、エルダニアは引いていない。
国がここまで執着する理由。
宗教的権威としての教皇シオンだけでは、説明がつかない。
「……」
執務室の窓から見えるのは、いつもと変わらない聖域の風景だった。
乾いた風。白い石畳。祈りの気配。だが、胸の奥にだけ、微かな違和感が残る。
国立大学からの留学生受け入れ停止。
それは、外交という名の圧力としてはあまりにも歪だった。対象が曖昧すぎるのだ。
「学生……」
ぽつりと呟く。その瞬間、思考が一気に収束した。
エルダニアの動きは、メリッサの生活圏を正確にかすめている。
「……接触されたか」
答えは、ほぼ出ていた。
誰もがはっきりとは口にしないが、サガもカノンも同じ結論に至っているはずだ。
もし、彼女が狙われているのだとしたら。
シオンは、深く息を吐いた。
自分が動けば、それは即座に「答え合わせ」になる。だが、動かないという選択肢は、彼女を一人、国家の思惑の中に放置することと同義だった。
「……すまない」
誰に向けた言葉かも分からないまま、シオンは、机の上の通信端末を手に取った。慎重に。だが、躊躇はしない。直接ではないが、確実に届く手段。
拒否設定を解除するわけにはいかない。通信の痕跡を残すのは危険すぎる。
一通だけ、短い符号のようなメッセージを打ち込む。
《無事か》
それだけを。愛情も、説明も、謝罪もない。けれど、彼女なら分かるはずだ。
これは、「答えを強要しない問い」だ。
送信。
画面が静かに暗転する。返事が来るかどうかは、分からない。来ないかもしれない。
シオンはその場を離れず、通信端末を伏せたまま、ただ待った。祈ることすら許されない立場にあると分かっていた。
もし、彼女が本当に接触されているのなら、その時はエルダニアが想定しているよりも、ずっと深く、ずっと強く聖域は動く。それを、シオン自身が誰よりも理解していた。
メリッサは涙目でスマートフォンを見つめていた。
着信表示に差出人の名前はない。だが、その文面を見た瞬間、考えるより先に分かってしまった。
《無事か》
たったひと言だけ。それなのに――
「……っ」
喉の奥が、急に詰まった。
無事か、なんて言葉、今さらじゃないか。
ここまで追い詰められているのに誰にも言えず、誰にも頼れず、一人で選択を迫られているこの状況の中で、その一言は、メリッサの中でぎりぎり保たれていた何かを、いとも簡単に壊した。スマートフォンを胸に抱き寄せた瞬間、膝から力が抜ける。床に座り込むというより、崩れ落ちたに等しかった。
「……シオン様……」
名前を呼ぶ声は、ほとんど音にならない。
泣くつもりなんてなかった。泣いても何も変わらないことは、もう嫌というほど分かっていた。声を出せば、全部溢れてしまう気がして、メリッサは唇を噛みしめる。手で口を覆い、喉から漏れ出そうになる嗚咽を必死で押し殺す。肩が小さく揺れる。呼吸が上手くできない。床の冷たさが、服越しに伝わってくるのにそれすら、遠い。
無事か。
その言葉は、「生きているか」という意味ではないことを、メリッサは、痛いほど分かっていた。
心が折れていないか。
一人で、耐え切れているか。
それとも――もう、限界なのか。
問いかけられているのは、そこだ。
「……無事なわけ、ないじゃない……」
呟きは涙と共に膝の上に落ちた。
言いたいことは、山ほどあった。
聞いてほしいことも、伝えなければならないことも。
エルダニアのこと。
留学の話。
報復。
選択。
でも今、この瞬間、メリッサは「まだ繋がっている」と示されたことに耐えきれなくなっていた。
スマートフォンを握る指に、力がこもる。
返信欄を開いて、何度も文字を打ちかけては消す。
結局、何も送れないまま画面が滲んで読めなくなる。
メリッサは、その短いメッセージを何度も何度も見返した。
シオンは気付いている。そして見捨てられていない。
それだけで心が壊れそうになるほど、彼女はもう限界だった。床にうずくまり声を殺して泣きながら、メリッサは、自分がどれほど深くシオンという存在が生きる支えだったのかを、思い知らされていた。
画面の光が、やけに白く感じられた。
《無事か》
その下にある返信欄。空白は、思っていたよりも深かった。
メリッサは何度も深呼吸をする。
スマートフォンを膝の上に置き、目を閉じた。
分かっている。今、彼が送ってきたのは精一杯の一手だ。
エルダニアに見張られ、聖域の判断に縛られ、それでも彼は連絡を断ち切らなかった。
たった一言だけ。まるで、命綱のように差し出された言葉に対して、自分は何を返すべきなのか。
「……重たいこと、言えないよね」
誰に向けたわけでもない呟きが、部屋に落ちる。
彼は、知らない。メリッサが今、交渉のテーブルに座らされていることも、留学という名の檻を提示されたことも。拒否した結果、誰かの未来が切り捨てられたことも。知らないからこそ、「無事か」と聞けたのだ。もし知っていたらこの一言は、送れなかっただろう。
だったらせめて、彼にこれ以上踏み込ませない言葉を。心配させず、責任を感じさせず、何も背負わせない言葉を。
メリッサは、再び画面を見る。
打っては消し、消しては打つ。短く曖昧で、それでいて、拒絶ではないもの。そう考えると、選択肢は驚くほど少なかった。指先が、ようやく動く。
《ありがとうございました》
それだけを送る。
感情を削ぎ落とし、説明も、感想も、未来も含まない言葉。ただ、受け取ったことへの礼。
「助けを求めません」
「今は、踏み込まないでください」
「でも、あなたの存在が救いだった」
そのすべてを一行に押し込めた言葉だった。
送信ボタンを押す直前、メリッサは一瞬だけ躊躇う。
これを送ったら、きっと彼は察してしまう。
何かを隠していることも、距離を置こうとしていることも。
それでも、今のメリッサにできる返信はこれだけだった。
指先が小刻みに震える。
送信。
画面が切り替わり、短いメッセージが確かに届いた印がつく。その瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
メリッサの全てが、《ありがとうございました》の裏側で、静かに泣いていた。
返信が届くまで、思ったより時間がかかった。
それ自体が、答えだった。
画面に浮かんだ短い一文を、シオンは一度、視線でなぞる。そしてもう一度、確かめるように読む。
《ありがとうございました》
違和感は瞬時だった。問いに対する答えではない。
安否を尋ねた言葉に返す内容ではない。それでも間違いではない。
「……やはり接触されたな」
声に出す必要もない。
思考は静かに、しかし一切の逡巡なく結論へ辿り着く。もし、何も起きていなければ、彼女はもっと曖昧に、もっと日常的に返したはずだ。あるいは、何も返さなかったかもしれない。
だが、これは違う。
感情を削ぎ落とし、説明を拒み、それでいて関係を断ち切らない言葉。礼だけを残すという選択。
それが意味するのは――
「話せない」ではない。「話してはいけない」だ。
誰かに見られているのか、聞かれているのか、もしくは、選択を迫られている。
国家か、組織か。それとも、もっと直接的な存在か。エルダニアの名が、脳裏をよぎる。
大学への措置。
聖域への圧力。
そして、この、噛み合わない一言。
すべてが、一本の線で繋がる。
シオンは、スマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
この一言がどれほど雄弁かを、彼女は分かっているのだ。
「大丈夫」と言えば、嘘になる。
「助けて」と言えば、こちらを縛る。
「今は無理」と言えば、理由を問われる。
だから――礼だけを残した。
受け取ったことへの感謝、存在してくれたことへの感謝。そして、これ以上踏み込まないでほしいという、沈黙の願い。
その裏にある苦しみが、その選択に至るまでの葛藤が、シオンには、痛いほど分かる。
彼女はいつも、そうだった。自分が傷つくことよりも、周囲が巻き込まれることを恐れる。
自分一人で抱え込み、自分一人で決断し、それでも最後まで、誰かを思う。
この一文に、どれほど多くの意味が込められているか。どれほどの後悔と恐怖と覚悟が、押し込められているか。察して、余りある。
これ以上、言葉で追い詰めてはならない。
彼女が守ろうとしている境界を、こちらから壊すわけにはいかない。だが同時に、見過ごすことも、許されない。
シオンは、再びスマートフォンを手に取る。
言葉ではなく、別の手段を選ぶべきなのだ。彼女が、独りで国家と向き合うなどあってはならない。
《ありがとうございました》
その一言の重さを決して軽く扱わない。
それを胸に刻み、シオンは静かに、次の一手を考え始めていた。
