Eine Kleine Ⅳ

 前回、エルダニア王国の外務官が接触してきてから、ちょうど一週間。
 その男は、約束でもしていたかのように、同じ時間、同じ場所に現れた。 
「一週間、お時間を差し上げました」
 男は穏やかな口調で言った。
 詰問でも、催促でもない。ただの事実確認だった。
「答えは出ましたか?」
 メリッサは、唇を噛み締めて俯いた。
 答えが出ていないのではない。口にする覚悟がまだ整っていなかった。
 男はそれを咎めない。代わりに、薄い書類ケースから一枚のタブレット端末を取り出した。
「では、あなたの答えを聞く前に、いくつか共有しておくべき情報があります。ご覧ください」
 差し出された画面に映し出されたのは、エルダニア王国外務省名義の公式文書だった。
 日付は三日前になっている。
 そこに記されていたのは、聖域教皇シオンとエルダニア王国第一王女アリシアとの婚姻提案の正式な拒否。
 外交文書特有の、遠回しで冷静な言い回し。だが、結論は明確だった。
「……拒否、されたんですね」
 思ったよりも、落ち着いた声が出た。既に、どこかで分かっていたからかもしれない。
「はい。極めて明確に」
 男は淡々と続ける。
「聖域は中立を堅持する。いかなる国家とも、婚姻を含む政治的結びつきを持たない。――そういうお返事でした」
 メリッサは、画面から目を離せない。
「そして、もう一つ」
 男は指先を動かし、画面を切り替えた。
 次に映し出されたのは、通信ログの一覧だった。
 日時。
 発信元。
 遮断。
 何度も何度も。
「これは……」
「あなたから、教皇猊下への着信履歴です」
 一瞬、息が止まる。
「ご覧の通り、教皇猊下はあなたからの通信を一切受け取っていない」
 責める響きはない。
「猊下は、あなたを切り捨てたわけではありません」
 男は、そこで初めて少し言葉を選んだ。
「むしろ――あなたが“切り札”として利用される可能性を、最初から恐れていた」
 メリッサの胸に、鈍い衝撃が走る。
「だから、距離を取った。あなたを盤上から降ろすために」
 それは、優しさだったのか、それとも独善だったのか。判断する余裕はなかった。
「しかし」
 男は、再び端末を操作した。
「結果として、エルダニアは別の選択肢を取ることになった」
 画面が切り替わる。
 そこにあったのは、学術ネットワーク内の非公式な内部文書。推薦の取り下げ。共同研究からの除外。将来的な研究費申請に対する“慎重な対応”という文言。
「これは……」
「あなたが、この提案を拒否した場合に起こり得る未来です」
 男の声は淡々としていた。
「薬学の世界は狭い。才能があっても、椅子がなければ座れません」
 男は、最後にこう告げた。
「教皇猊下は、あなたの“今”を守るために沈黙を選びました。ですが――あなたの未来までは選べないし、守れない。選択するのは、あなたです」
 メリッサは、タブレットから目を上げた。
 逃げ道は、もうなかった。
 これは、愛情の問題ではない。
 夢の話でもない。
 生き方そのものを、どこで引き受けるかという問いだった。
 シオンを守るために自分が折れるのか。
 自分の未来を守るために彼から離れるのか。
 あるいは――その両方を失う覚悟を持つのか。
 メリッサは、静かに息を吸った。
 この一週間で、彼女は十分に悩んだ。そして今、ようやく分かった。これは、誰かに委ねていい選択ではない。
「……聖域が縁談を断ったなら」
 メリッサは、慎重に言葉を選びながら続けた。
「あたしは、留学してもしなくても構わない、という事になりますよね」
 理屈が通るかどうか、最後の確認だった。自分の理解が致命的に間違っていないかどうか。
 外務官は、すぐには答えなかった。否定の言葉を探しているのではなく、どう言えば最も正確に伝わるかを測っている沈黙だった。
 やがて、静かに口を開く。
「――いいえ。それは成立しません」
 メリッサの頬が、ひくりと強張る。
「聖域が縁談を断ったことと、あなたの進路が自由であることはイコールではありません」
 男は淡々と説明を続ける。
「聖域は、猊下の婚姻を拒否しました。それは、“国家としてのエルダニア”を拒んだ、という意味です」
「……」
「しかし、あなたは違う」
 男の声が低くなった。
「あなたは、聖域の象徴ではない。政治的中立を守る義務も、国家を背負う責任もない」
 だからこそ――と、男は続ける。
「あなたは、選択肢として“使える”」
 酷な言い方だが直球だった。
「あなたがエルダニアに来るかどうかは、聖域の決定とは、切り離して扱われます」
 メリッサの唇は震えていた。
「つまり……」
「あなたが留学を受け入れても、拒否しても、聖域の立場は変わらない。ですが――」
 やや置いてから、核心を告げる。
「あなたが拒否した場合、エルダニアは“失ったものの代償”を、別の形で取りに行きます」
 外交における極めて合理的な判断だ。
「報復措置……ということですか?」
「報復とは、穏やかではありませんね」
 男は肩をすくめ、困ったように笑った。その仕草が、やけに場違いで滑稽に見えた。
「エルダニアは教皇を得られなかった。ならば、あなたも相応のものを得られない――それが、対外的なメッセージになります」
「……あたしは、取引材料だって言いたいんですか」
 メリッサの声は低かった。
 男は否定も、肯定もしない。
「あなたは、既に盤上に乗ってしまった。それだけです」
 論理の上では逃げ道は残っている。だが、現実の上では限りなく狭い。聖域が縁談を断ったからといって、メリッサが自由になったわけではない。逆に、責任の所在がすべて彼女個人に移っただけだった。
「あたしにどうしろと言いたいんですか?あたし、頭悪いから分かりやすく教えてくださいよ」
 メリッサのその言葉に、男は初めて、ほんのわずかに表情を変えた。憐れみでも、嘲りでもない。想定内の問いが来た――その程度の反応だった。
「……正直でよろしい」
 そう前置きしてから、外務官は視線を真正面に据える。逃げ場を与えない話し方だ。
「あなたにしてほしいことは、三つあります」
 指を一本、立てる。
「一つ目。教皇シオンとの関係を、公的にも私的にも断つこと」
 メリッサの喉がきゅっと締まる。
「連絡を取らない。会わない。あなたが彼を想っているかどうかは、どうでもいい。重要なのは、“そう見える状態”を完全に終わらせることです」
 二本目の指が立つ。
「二つ目。エルダニア王立大学薬学部への編入を受け入れること。研究環境、指導教官、予算、将来のポスト。あなたが薬学研究者として望むものは、すべて“自然な形で”用意します」
 三本目。
「その選択を“自分の意思”として公表すること」
 メリッサは目を見開いた。
「自分の……意思?」
「はい。“脅された”や“取引された”では意味がない」
 男はさらに声を低くした。
「あなたは、『自分の将来のために、恋愛を手放した聡明な学生』として振る舞う必要があります。つまり、あなたが犠牲になったという物語は誰も語らない」
 その瞬間、メリッサは理解してしまった。
 自分が求められているのは、沈黙でも服従でもない。対外的な形式だ。
「……それで」
 声が震えそうになるのを必死に抑えて、問う。
「それで、あたしは何を守れるんですか」
「あなた自身の未来です」
 即答だった。
「少なくとも、学問と生活と身の安全は保証される」
「じゃあ……シオン様は?」
 男は、静かに首を振る。
「教皇猊下は、あなたが守る対象ではありません」
 冷たい。だが、外交官としては、あまりに正しい。
「教皇は教皇で、守られる立場にある。あなたがいなくても、彼の世界は回る」
 本当に?
 そう叫びたかった。
「分かりやすく言いますよ」
 男は最後にそう言った。
「あなたがこの条件を飲めば、誰も何も“失わない”。あなたが拒めば、あなたはすべてを失う可能性がある」
 脅しではなく、選択肢の提示だ。
「だから我々は、あなたが“賢明な選択”をすると信じています」
 歩道に沈黙が落ちる。
 メリッサは、石畳に転がっている小石を見つめたまま小さく笑った。
「……なるほど」
 自嘲でも、納得でもない。
「つまり、あたしが身を引けば、みんな助かるって話ですね」
 男は答えない。それが答えだった。海からの冷たい風が二人を撫でるように吹き抜けた。
 メリッサは、視線を逸らさなかった。
 震えているのは分かっていた。喉の奥が詰まり、胸の内側が灼けるように痛む。それでも、ここで目を伏せたら、すべてを飲み込まされる気がした。もうここからは、強気でいくしかない。半歩でも引いたら全て相手の思いのままになってしまう。
「それは違いますよ」
 自分の声が思いのほか静かに響いたことに、メリッサ自身が驚いた。
「シオン様は……失うんです」
 一拍あける。
「メリッサ・ドラコペトラという、最愛の恋人を」
 男の眉がわずかに動いた。それを見逃さず、メリッサは続けた。
「あなたたちは、シオン様を“教皇”としてしか見ていない。でも、あたしは知っています。シオン様があたしを失うことを、どれほど恐れているか」
 唇を噛み、言葉を選ぶ。
「……シオン様がそれを黙って受け入れるとは、到底思えません」
 男は反論せず、評価するような目でメリッサを見ている。
「エルダニアにとっては、アリシア王女を傷付けられた報復なのかもしれません」
 声が少し低くなる。
「でも――あなたたちは、聖域がどれだけ汚ないことを平気でしてくる組織なのかを知らない」
 男の目がわずかに見開かれた。メリッサはその一瞬の変化を見逃さなかった。
「歴史の表に出ないところで、大義を守るために何を切り捨ててきたのか。誰を消し誰を生かしてきたのか」
 メリッサは、息を吸った。
「下手に刺激しない方がいいですよ。その方がエルダニアの未来のためだと思いますけど?」
 明確な脅しだという自覚はある。それでも、これがメリッサの知る事実だった。真実がどうなのかは、この際関係ない。
 男は、ふっと息を吐いた。
 その仕草は、苛立ちというより、長い交渉の着地点を確認するようなものだった。
「……だからこそです」
 男は変わらず淡々としている。
 この男に感情というものはないのか、とメリッサは静かに苛立った。
「聖域がエルダニアに手を出さないために、あなたをエルダニアに置く。それが我々の方針です」
 理解が追いつかない。
「……は?」
 胸の奥が、凍りつく。
「あたしは……あたしは、人質ってことですか?」
 言葉にした瞬間、現実が輪郭を持った。
 自分が交渉材料として、天秤に載せられているという事実。
「人質とはまた、穏やかではありませんね」
 穏やか。
 その単語が、今はあまりにも場違いだった。
「あなたは保護されます。最大限尊重される。未来も、地位も、学問も、保証されます。その代わりに、あなたは“我々の手元にいる”」
 容赦のない言葉にメリッサは、鼻で笑った。
「なるほど……守られる代わりに動けない。愛する人から引き離されて」
 鋭い眼差しで男を睨み上げる。
「それを、人質じゃないって言うなら――」
 怒りで声が震えた。
「何なんですか?」
 男は何も言わない。それがこの交渉の結論だった。
 メリッサは、その沈黙の中で、はっきりと悟っていた。ここから先は誰かに決めてもらう道ではない。

 ――自分が選ぶしかない。

 たとえ、その選択が、誰かを深く傷付けるとしても。
 メリッサは、姿勢を正した。
 心拍も呼吸も速くなる。冷たい汗が腋に滲んで、肌着を不快に湿らせた。だが、視線だけは男から外さなかった。目を逸らしたら負けだと分かっていた。
「エルダニアの言い分は……分かりました」
 一語一語を、確かめるように吐き出す。
「でも、あたしがエルダニアにいるからって安泰だと思わないでください」
 男の眉根がわずかに引き締まる。
「聖域が、いえ、シオン様が本気になったら――」
 メリッサは、目を閉じて深い呼吸をした。それは弱さではなく、覚悟を固めるための間だった。
「あたしのことだって、切り捨てますよ」
 静かな声だった。だが、その内容はどんな脅しよりも冷酷だった。
 男は、すぐには言葉を返さなかった。今聞いた内容を、頭の中で反芻しているようだった。
「……随分と、ご自身を低く見積もりますね」
「違います」
 男の言葉に重ねるように即答した。
「あたしは、聖域にとって“絶対”じゃない」
 視線を戻す。
「シオン様は、あたしを大切にしてくれます。でもそれは、教皇としての責務を放棄してまでではない」
 自らの言葉が胸を裂く。それでも、事実だった。
「聖域が、地上を守るためにどれだけのものを葬り去ってきた組織なのか知ってます?」
 問いかけるようで、問いではない。
「愛情も絆も、必要なら切る。それが、聖域のやり方です。誰かの命を救うために、別の誰かの命を奪うことだってあるんです。あそこは世界中の治外法権を得ている。だから“聖域”って呼ばれてるんです」
 男の沈黙が動揺に変わるのを、メリッサは見逃さなかった。
「あたしをエルダニアに置けばシオン様が動けなくなるなんて、甘い考えです」
 声が少しだけ震える。
「もし、シオン様が“守るべきもの”を選んだら……」
 メリッサは最後まで言わなかった。自分でさえ切り捨てられる側である可能性を。
「その時、エルダニアはどうするんですか?」
 初めて男の目が揺れた。
「聖域と事を構える覚悟がありますか?」
 辺りの空気が張り詰める。重く逃げ場のない沈黙に、男は小さく息を吐いた。
「……あなたは、本当に、教皇猊下の恋人ですね」
 皮肉とも感嘆とも取れる声音だった。
「恋人だから、分かるんです」
 静かに言い切る。
「シオン様が何を選ぶ人なのか。そして――何を選ばない人なのか」
 胸の奥で痛みが脈打つ。それでも、逃げなかった。この場で揺らげば、すべてを“駒”として扱われる。利用される存在であることを理解した上で、それでも意思を失っていない人間として。
 その姿を前に、男は初めて交渉相手を見誤ったことを悟り始めていた。
 男は、彼女の沈黙を見ていた。
 挑発でも虚勢でもなく、ただ事実を突きつけたあとの静かな佇まい。
 彼女は、泣き叫んで縋ることもできただろう。恋人の名を盾に、感情論で抵抗することもできただろう。なのに、彼女はそうしなかった。切り捨てられる可能性を自分の口で語り、それを“現実の選択肢”として提示した。それは、交渉相手にとって、最も厄介な態度だった。情を利用できず、脅しも甘言も効きにくい。
 メリッサは、男から視線を外さなかった。
「……あなたは、ご自分を犠牲にする覚悟があると?」
 男の問いは、探るようにどこか慎重だった。
 メリッサは、首を横に振った。
「違います」
 淡々と訂正する。
「犠牲になる気はありません。ただ――現実を、現実として言っているだけです。エルダニアも聖域も、感情じゃなく実利で動く。同じですよ」
 シオンが守ろうとしているのは、か弱い少女ではなかった。だが同時に、守られなければならないほどの、危うさを内包した人間でもある。

 メリッサ・ドラコペトラはまだ19歳だ。それでも彼女は、大人たちの都合と欲望が交錯する場所で、自分の足で立ち、冷淡さという名の刃を正確に使える人間だった。それは誰かに教えられて身につくものではない。

 ――世界は既にこの娘を、深く傷つけているのではないか。

 男は、この交渉が単なる「学生一人の進路問題」ではないことを、今さらながら思い知っていた。
「……確かに」
 やがて、男はゆっくりと口を開いた。
「縁談は、公式には断られました。聖域の中立性も現時点では揺らいでいません」
 そこで一度、言葉を切る。メリッサの反応を窺うように、視線を置いたまま続けた。
「あなたの言う通りです。表向きには――あなたがエルダニアに来ようが来まいが、我が国が“直接的に”失うものは、ほとんどありません」
 否定しなかった。
 誤魔化しもしなかった。
 だからこそ、その先の言葉が、重く落ちた。
「ですが、それは“今”の話です。あなたがエルダニアに留学する。それは、あなた個人の将来を保証するという意味合いだけではありません」
 男は、淡々と続ける。
「あなたがエルダニアにいる限り、教皇猊下は――不用意に動けなくなる。彼は、あなたを守るためなら理不尽な要求にも耐えるでしょう。しかし、あなたが我が国の管理下にある限り、“力で奪い返す”という選択肢は、最初から消える」
 メリッサの眉が、ほんのわずかに寄る。
「……それが、得?」
「ええ」
 男は頷いた。
「エルダニアにとっての“得”は、婚姻という形で聖域を取り込むことではなくなりました」
 そこで、視線を逸らさずに告げる。
「聖域を刺激しないこと、そして、教皇猊下を制御可能な状態に置くこと、それが、今の我が国の最優先事項です」
 メリッサは、静かに息を吸った。
「……つまり」
 声は低い。
「あたしがいるだけで、シオン様の手足を縛れるってことですね」
 男は、否定しなかった。
「言葉は選びますが……概ね、その理解で間違いありません」
 少しだけ、声を落とす。
「あなたがエルダニアにいる限り、我が国と聖域の関係は“安定”します」
 メリッサは笑わなかった。怒りも見せなかった。ただ、静かに告げる。
「……それって、エルダニアが欲しいのはあたしじゃなくて、シオン様の良心ってことですよね」
 男の喉が、微かに鳴った。図星だった。
「あなたは、賢い」
 それは、初めて感情の混じった言葉だった。
「だからこそ、我々はあなたに敬意を払っている」
 メリッサは、視線を伏せる。
「あたしがいなくても、エルダニアは今すぐ困らない」
 顔を上げる。
「でも、あたしがいた方が、“安心”なんですね」
「そうです」
 即答だった。
「そしてもう一つ」
 男は、声を低くした。
「あなたがエルダニアにいる限り、アリシア王女は――これ以上、傷つかずに済む」
 メリッサの胸が、わずかに軋む。
「教皇が誰かのために苦しむ姿を、王女はこれ以上見ずに済む」
 それは優しさを装った、冷酷な理屈だった。
「……なるほど」
 小さく、息を吐く。
「あたしは、どこにいても誰かのための“緩衝材”なんですね」
 男は答えなかった。
 答えなくても、彼女はもう理解していたからだ。
 メリッサがエルダニアに留学する意味。それは、栄誉でも善意でもない。
 抑止力だ。
 そして、それを理解した上でなお、彼女に選択を迫ること自体が、この交渉の残酷さだった。

「……今、答えないといけませんか?」
 メリッサの声は、静かだった。男の眉が、ほんのわずかに動いた。それは驚きというより、計算が一つ狂ったことへの反応だった。
「もう充分、時間は与えました」
 淡々とした返答。
 交渉の場において、それは事実だった。猶予は尽くされ、選択肢は出揃っている。
「分かりました」
 メリッサは、短く頷いた。
「やはりあなたは聡明なお嬢さんだ」
 男は、そう結論づけた。だからこそ、その次に続いた言葉は男にとって予想外で、しかし決定的だった。
「――お断りします」
「……理由を伺っても?」
 男は声色を変えなかった。だが、そこには僅かな緊張が混じっている。
 メリッサは、肩を竦めるように微笑んだ。
 それは、どこか疲れた、諦観に近い表情だった。
「理由ですか」
 視線を落とし、両手を握り合わせた。
「さっき、全部教えてもらいましたから」
 顔を上げる。
「あたしがエルダニアに行けば、シオン様は動けなくなる。エルダニアは安全で、王女様はこれ以上傷つかない」
 ゆっくりと、言葉を重ねる。
「でも、それって――あたしが“差し出される側”ってことですよね」
 男は、否定しなかった。
「未来も保証するって言いましたよね。研究職も、生活も、名誉も」
 メリッサは、小さく笑った。
「それ、全部“条件付き”でしょう。シオン様が何もしない限り。聖域が黙っている限り」
 視線が、鋭くなる。
「それは保証じゃなくて、ただの――首輪です」
 男の表情が、初めてわずかに強張った。
「……強い言葉ですね」
「事実なので」
 メリッサは、淡々と返す。
「それに」
 少しだけ、声が低くなる。
「シオン様を信じるって決めたのは、あたしです。信じるって決めた以上、相手の良心を縛るために自分を差し出すなんて、そんな半端なことはできません」
 男は、しばらく彼女を見つめていた。
 19歳。
 華奢な肩に重たい学生鞄を掛けて通学する、ごく普通の女子大学生。
 だが――その目は取引材料として扱える人間のものではなかった。
「あなたが拒めば、未来が不安定になる可能性もありますよ」
 最後の確認だった。
 メリッサは、迷わなかった。
「ええ、それでもいいです。未来が不安定であっても、誰かの人生を盾にして得た安定より、ずっとまともですから。エルダニアにとって、あたしは“便利な存在”だったんでしょうけど」
 一拍置いて、言い切った。
「シオン様にとって、あたしは“選びとる存在”でいたいんです。あたしは、シオン様に選ばれたい」
 その言葉には、恋人としての甘さも自己犠牲の美学もなかった。ただ、一人の人間としての、冷静で残酷なほどの覚悟があった。
 男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……後悔は?」
「しますよ」
 即答だった。
「きっと、何度も。でもそれは、あたしが自分で選んだ後悔です」
 男はそれ以上何も言わなかった。交渉は終わった。
 メリッサ・ドラコペトラは、守られるための存在になることを拒んだ。この瞬間、彼女はエルダニアにとって、最も厄介な存在になったのだった。
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