Eine Kleine Ⅳ

 メリッサは、自分自身に失望していた。

 ――何よりも誰よりも、シオンが大切だと思っていたのに。

 そう信じて疑わなかった。
 彼の言葉も沈黙も背中も。そのすべてがいつの間にか、自分の世界の軸になっていたはずなのに。
 エルダニアが差し出した条件を前に、心が揺れた。
 その事実が、どうしようもなく嫌だった。
(結局……この程度なのかな)
 胸の奥で、冷たい声が囁く。
 本当に彼を愛しているのなら。
 本当に彼を必要としているのなら。
 迷わず、即座に、拒絶するべきなのだ。
 彼を選ぶなら、他は要らない。
 そう言い切れるほどの覚悟こそが、愛なのだとしたら、自分の想いは、そこまで到達していない。
「……最低だよね」
 誰もいない部屋で呟く。
 自己嫌悪は静かに、しかし確実に積もっていく。
 薬学研究者としての未来。
 自分の知識や技術で、誰かの役に立ちたいという、長年抱いてきた願い。
 努力してきた時間。
 積み上げてきたもの。
 それらは、決して軽いものではなかった。
 そして、シオン。
 彼と過ごした時間。
 交わした視線。
 触れ合った手の温度。
 言葉にしなくても通じ合えた、あの確かな感覚。
 どれも、真実だ。
 どれも、嘘じゃない。
 だからこそ苦しい。
(どっちも欲しいなんて……我儘なのかな)
 問いかけても、答えは返ってこない。
 この世界は、いつだって選択を迫る。片方を取れば、もう片方は失われる。それが“大人になる”ということなのだと、分かってはいる。
 でも、どうして、全部を捨てなければならないのだろう。どうして、愛することと、夢を追うことは、天秤にかけられるのだろう。
 心の奥で、静かに叫ぶ。
 それは抗議でもあり、祈りでもあった。
 もし、シオンがそばにいたら、彼はきっと、優しく、しかし理性的に言うだろう。
 未来を選べ。
 後悔のない道を行け。
 その“未来”に、彼自身が含まれていなくても。
 シオンはそういう人間だ。
 メリッサは、膝を抱える。
 どちらも捨てられない。
 どちらも失いたくない。
 それは、弱さなのか。
 それとも、まだ答えを出せない、未熟さなのか。
 あるいは――
 両方を必死に守ろうとする、高潔な愛なのか。
 答えは、まだ出ない。
 ただひとつ確かなのは、メリッサが今、岐路に立っているという事実だけだった。
 そして、その選択は彼女自身の人生を決定的に変えてしまう。

 エルダニアからの“提案”は、もはや交渉という言葉では収まらなかった。
 それは、周到に組み立てられた一枚の設計図だった。
 会議室の中央に置かれた長い楕円卓の向こうで、国王アンドレアスは終始、穏やかな笑みを崩さない。
 柔和で、理性的で、いかにも“理解ある為政者”の顔だった。
「教皇猊下。我々は、聖域の尊厳と中立性を何よりも尊重しております」
 その前置きが、すでに策略の一部だと、シオンには分かっていた。
 提示された資料は、丁寧すぎるほどに整えられている。
 数値、予算、年次計画、覚書の草案。
 曖昧さはなく、すべてが“実行可能な未来”として描かれていた。
 アリシア王女を妃に迎えた暁には――聖域への恒常的な財政支援の拡大。ロドリオ村とエルダニア国内中規模自治体との姉妹都市提携。
 文化交流、学術交流、人的往来。
 それらはギリシャ政府を正式な窓口とした、国際協力事業として扱われる。
「非公式な裏取引ではありません。すべて、国家間の合意として、透明性をもって進めます」
 国王の言葉は、あまりにも正論だった。
 さらに追い打ちをかけるように、資料の後半が示される。
 エルダニア最大手製薬会社の研究・製造部門の一部を、ギリシャ国内へ移転。
 雇用創出。
 税収増。
 研究開発拠点の共同設置。
「ギリシャ共和国にとっても、決して損のない話です」
 エルダニア王国は、聖域だけではなく、ギリシャ国家そのものを巻き込むつもりなのだ。
 シオンは、静かに息を吐いた。
(ここまで用意されているとはな……)
 聖域の中立性。
 宗教的権威。
 政治から距離を置くという不文律。
 それらを正面から否定するのではなく、公益という名の布で丁寧に包み込む。
 拒絶すればどうなるか。
 この計画が白紙になるだけではない。ギリシャ政府は理由を問うだろう。
 なぜ、これほどの国益を蹴ったのか。
 なぜ、宗教的立場を盾に国家の未来を拒んだのか。
(……これは、もはや私個人の問題ではない)
 シオンは理解していた。
 エルダニアが欲しいのは、単なる“教皇妃の座”ではない。
 聖域という象徴。
 宗教的権威。
 そして、それを媒介にした国家間の影響力。
 アリシア王女は、そのための最も穏やかで、最も美しい鍵だった。
「猊下」
 国王の声が、静かに現実へ引き戻す。
「これは、強制ではありません。あくまで、選択肢です」
 選択肢。
 その言葉が、これほど重く響くことがあるだろうか。
 シオンは、すぐには答えなかった。いや、答えられなかった。
 脳裏によぎるのは、書類の数字でも、国益でも、理念でもない。
 メリッサ。
 彼女が、この盤面のどこにも、名前すら記されていない事実。それこそが、エルダニアのやり方を雄弁に物語っていた。彼女は存在しないことにされている。
 だからこそ、切り捨てられる。
 だからこそ、交渉材料にすらならない。
(……守らねばならないものが、増えすぎたな)
 聖域。
 聖域を信仰する民。
 国家間の均衡。
 そして――誰にも知られてはならない、たった一人の女性。
 シオンは、ゆっくりと視線を上げた。
「……検討の時間をいただきたい」
 それだけを告げると、国王は満足そうに頷いた。まるで、すでに勝敗は決していると言わんばかりに。
 その瞬間、シオンは確信する。
 これは“提案”ではない。時間をかけた、静かな包囲だ。そして、最も脆い場所――メリッサの未来と、彼女の心がすでに狙われていることを、彼女が、すでに選択を迫られているという事実を、シオンはまだ知らなかった。

 エルダニアから提示された条件を携え、シオンは聖域へ戻った。
 戻った、という言葉がこれほど空虚に感じられたことはない。
 教皇宮の奥、外界から切り離された会議室。
 壁は厚く、窓はなく、時の流れさえ遮断されているような場所で、緊急会合は開かれた。集められたのは、ごく限られた者たちだけだった。
 射手座アイオロス。
 双子座サガ。
 数名の長老格の神官たち。
 誰もが、すでに資料に目を通している。
 沈黙は長くは続かなかった。
「結論は明白だ」
 最初に口を開いたのは、サガだった。声は低く、感情の起伏を一切含まない。
「聖域は、どの国家、どの地域にも与しない。教皇の婚姻が政略に結びつくなど論外だ」
 異論は出なかった。いや、出る余地など微塵もなかった。
 アイオロスが静かに頷く。
「中立であるからこそ、聖域は存在を許されている。一国の王女を妃に迎えた瞬間、我々の存在が“政治”になる」
 長老の一人が、ゆっくりと口を開いた。
「ギリシャ政府も同意見でしょうな。聖域が特定国家と縁戚を結べば、その国が事実上の覇権を握る。それを許すほど各国は愚かではない」
 全員が理解していた。
 エルダニアの提案が、どれほど甘美で、どれほど危険かを。
 財政支援。
 学術交流。
 経済効果。
 国家にとって、魅力的でないはずがない。だが、聖域にとってそれは――毒を塗った贈り物でしかなかった。
「よって」
 サガが結論を告げる。
「アリシア王女との縁談は断る。エルダニアの提案も、全面的に拒否する」
 それで、この話は終わるはずだった。
 誰もが、そう思った。
 だが、シオンだけは、心の奥で、説明のつかない違和感を抱いていた。
(……終わらない)
 理屈では、すでに決着がついている。理念も、立場も、全員一致だ。それでも――胸のどこかが、静かにざわめいていた。

 会合が終わり、皆が席を立ち始める中で、シオンは一人、残された資料に視線を落とした。
 エルダニアの提案書。
 完璧すぎるほど整えられた文言。
 一切の“個人名”を排した、冷たい文章。
(……彼らは、別の盤面を用意している)
 それは直感だった。もちろん、証拠も確信もない。だが、エルダニアほどの国家が、この一手だけで引き下がるはずがない。王女との縁談が正面から拒まれることなど、最初から織り込み済みだっただろう。
では、次は何だ。宗教でも、国家でもない。もっと小さく、もっと脆く、そして、確実に効くもの。
 シオンの脳裏に、ふと、一人の女性の姿が浮かぶ。
 大学へ通い、友人と語らい、未来を夢見るごく普通の学生。あまりにも、脆弱な存在。
(……いや)
 彼は、静かに首を振った。
 聖域の総意は揺るがない。理念も、正義も、ここにある。だが、盤の外で、誰にも見えない場所で、もう一つのゲームが静かに進行している。
 その中心にいるのが、メリッサだった。

 通話が切れた直後、数秒の静寂が部屋に落ちた。
 クロエは、スマートフォンを握ったまま動かなかった。
 通話時間は短い。内容も簡潔だった。だが、その一言一言は重かった。
『クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ。メリッサ・ドラコペトラ周辺の監視を強化せよ』
 余計な説明はない。
『不審な人物の接触、行動の変化、通信の異常。些細なことでも報告しろ』
「……御意」
 声は平静だった。少なくとも、自分ではそう思っていた。
『彼女には悟らせるな。監視対象であることも、聖域が動いていることもだ』
「はい」
『お前は“友人”だ。それ以外の顔は持つな』
 通話は、そこで切れた。クロエはゆっくりと息を吐いた。肺の奥に溜まっていた空気が、ようやく外に出た気がした。
「……監視、か」
 小さく呟いた声は、誰にも届かない。
 メリッサの顔が浮かぶ。
 大学のカフェで、アリサのくだらないジョークに苦笑する姿。
 試験前、ノートを広げて必死に要点をまとめていた横顔。
 何でもない日常。それを、見張れという。
 クロエは、自分の立場を理解している。
 聖域の外部諜報員。
 友人という立場を偽装した、監視役。
 相手がメリッサでなければ、任務としてもっと割り切れたかもしれない。
 クロエはバッグを掴み、部屋を出た。
 エレベーターに乗り、壁の鏡に映る自分を見る。
 いつも通りに。私はただの大学生だ。その仮面を、完璧に被らなければならない。
 気付かせず、傷付かせずに守り通すのだ。すべては聖域のために。メリッサを守るために。
 サガは詳しいことは言わなかった。だが分かる。これはエルダニアが動き出した証拠だ。
 クロエはスマートフォンを取り出し、メリッサとの直近のメッセージ履歴を開く。
 他愛ないスタンプ。
 次の講義の話。
 食事の約束。
 この日常を、壊させない。それが、諜報員としてではなく、友人としての、クロエの覚悟だった。
 そして同時に、それがどれほど危うい綱渡りかも、彼女はよく分かっていた。

 メリッサの様子がおかしいことに、クロエが気付いたのは、翌日の午前中だった。
 講義はいつも通り始まっていた。教壇に立つ教授の声も、板書の速度も、特に変わらない。
 変わったのは――メリッサだけだった。ノートを取る手が、途中で止まっている。一行書いては、数秒、ペン先が宙を漂う。ページを捲るタイミングも、周囲と噛み合っていない。講義の流れに、ほんのわずか、取り残されている。
 休憩時間になり、席を立つ学生たちのざわめきの中で、メリッサはスマートフォンを取り出した。画面を見つめて何度か指を動かし、そして――小さく息を吐く。溜息、というほど大きなものではない。どちらかと言うと、抑えきれずに零れ落ちたという感じだった。
「メリッサ、どうしたの?」
 クロエが背後から声をかけたその瞬間、メリッサの肩がはっきりと跳ねた。振り返る動きが、わずかに遅れる。その間に、何かを隠そうとした気配が確かにあった。
「ううん、なんでもない」
 笑おうとして、失敗したような声だった。
「いやいや、何でもないって顔してないよ?」
 間に割って入ったのは、アリサだった。深く考えることなく思ったままを口にする、彼女らしい調子だ。
「さっきからずっとぼーっとしてるし。講義中、半分くらい魂抜けてたよ?」
「……そう?」
 メリッサは、どこか遠くを見るような目をして、そう返した。
 クロエは、その横顔をじっと見つめる。
 目の下に、うっすらと影がある。寝不足というより、眠れていない顔だった。
「大丈夫ならいいけどさ」
 アリサはそう言って、ペットボトルのキャップを開ける。それ以上踏み込まないのは、彼女なりの距離感だ。
 クロエも同じように一歩引いた。聞けば答えが返ってくるだろう。でも、その答えは、きっと軽いものではない。
 メリッサは分かりやすい嘘をつく。同時に、誰かに気付いてほしい嘘もつく。
 そのことを、クロエは知っていた。だから今は追及しない。
 メリッサは再びスマートフォンを伏せ、何事もなかったように次の講義の準備を始めた。
 その指先が微かに震えていたのを、クロエは見逃さなかった。

 クロエは、その日のうちにサガへ連絡を入れた。
 定められた暗号回線。必要最小限の言葉だけが許される無機質なやり取り。
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです。ご報告があります」
『言え』
 声は低く、余計な温度を帯びていない。
 いつものサガだった。
「メリッサ・ドラコペトラの様子が、明らかにおかしいです」
 一拍、間を置く。
「例のアポカリプシ紙と、ネットニュースの影響だけとは思えません。報道が出た直後よりも、今の方が沈んでいます」
『具体的には』
「講義に集中できていません。スマートフォンを頻繁に確認しては、溜息をついています。……連絡を待っているように見えました」
 沈黙。
 通信の向こうで、サガが思考を巡らせているのが分かる。
 クロエは、ふと、昼休みの光景を思い出す。
 画面を見つめ、小さく息を吐いたメリッサ。あれは、記事を読んでの反応ではなかったように思う。
「……猊下と、連絡が取れていないのでは?」
 自分でも、踏み込みすぎだと分かっていた。それでも、口にせずにはいられなかった。
『猊下は、現在聖域におられる』
 淡々とした返答。
「では……」
 クロエの声がわずかに上ずる。
「メリッサは、猊下に会いに行けるんですね」
 それが最も単純で、最も自然な解決策のはずだった。顔を見て、言葉を交わせば、少なくとも誤解は解ける。
『今は無理だ』
 短く切り捨てるような声。
「……え?」
 思わず聞き返した。通信が一瞬、重くなる。
『猊下は、現在、外部との接触を極力断っておられる』
「外部……?」
『メリッサ嬢も含む』
 クロエは言葉を失った。それは、メリッサにとって唯一の拠り所を断つという意味だった。
「……理由は」
『察しろ』
 それ以上は、言及しないという意思表示だ。
 クロエは、唇を噛んだ。自分が何者で、何のためにここにいるのか、分かっているつもりだった。だが、友人として、これは正しい判断なのか。
『今は、監視を優先しろ』
 サガの声が、冷静に続く。
『不審な接触がないか。圧力の兆候がないか。メリッサ嬢の精神状態にも注意を払え』
「……御意」
 そう答えながら、クロエの胸の奥に重たいものが沈んでいく。守るために、距離を取る。傷つけないために、真実を伏せる。その理屈は理解できる。だが、理解できることと受け入れられることは違う。
 通信が切れたあと、クロエはしばらくその場から動けなかった。
 メリッサを思う。
 彼女は今、何を信じればいいのだろう。誰を頼ればいいのだろう。拠り所はあるのだろうか。
 クロエは拳を握りしめた。友人として、聖域の人間として。その二つが初めて明確に、相反するものとして胸に突き刺さっていた。

 シオンとの連絡が、完全に途絶えている。
 その事実を、メリッサは一つひとつ、身体に染み込ませるように受け入れていった。
 大学は容赦がなかった。講義は進み実習は待ってくれず、レポート課題は一晩で片付くような代物ではない。時間は、彼女の事情など知らない顔で流れていく。
 授業の合間の短い休み時間。
 ランチタイムのざわめきの中。
 帰りの電車で、吊り革につかまりながら。
 帰宅後、部屋の明かりを落としてからも。
 時間帯を変えて何度も電話をかけ切られ、切られてはかけ直す。チャットを送っても既読はつかず、画面に残るのは冷たい通知だけだった。

 《拒否されています》

 それが偶然ではないことは、すぐに分かった。
 カノンもミロも、どちらにも繋がらない。呼び出し音すら鳴らないまま即座に遮断され、SNSのアカウントは消えていた。最初から存在しなかったかのように。
(……そんな)
 息を吸おうとしてうまく吸えなかった。最後の希望のように、ヘスティアの名前をタップした。
 神としてではなく、ただ一人の女性として味方でいてくれるはずだと信じて。
 だが、結果は同じだった。
 拒否。
 画面を見つめたまま、メリッサはしばらく動けなかった。
 ここまで、徹底されている。
 偶発的なトラブルでも、通信障害でもない。
 これは、意思だ。
 会わせない、話させない、近づけさせない。
 そういう明確な線が、引かれている。
(直接行ったところで無理だろうな……)
 脳裏に聖域の門が浮かぶ。
 静かで、厳格で、部外者には決して開かれない扉。
 門前払いされる光景があまりにも容易に想像できてしまった。
 理由も告げられず説明もされないまま、「今は会えない」と繰り返されるだけ。それは、拒絶よりも残酷だった。
(あたし、何かした……?)
 問いかけの行き場は見当たらない。何が悪かったのかすら分からない。
 シオンを守るためなのか。
 聖域のためなのか。
 それとも――自分が、切り捨てられただけなのか。
 メリッサはスマートフォンを伏せ、両手で顔を覆った。答えはどこにもなかった。
 涙は出なかった。ただ、胸の奥が、ひどく冷えていた。
 連絡を絶たれるというのは、存在を否定されることに似ている。
 それでも、時間は進む。
 課題は締切を迎え、講義は次へ進む。
 世界は何事もなかったかのように回り続け、置き去りにされたのは自分だけだった。
 この沈黙の果てに何があるのか。
 メリッサにはまだ何も見えなかった。
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