Eine Kleine Ⅳ

 解析室の照明は、必要以上に明るかった。白い光は影を許さず、すべてを平等に、残酷なまでに露わにする。
 複数のモニターに分割表示された映像が、淡々と再生されていく。
 日時、座標、カメラ番号。
 無機質な情報が画面の端に流れ、その中心で、二人は確かに“日常”を生きていた。
 浅草寺の参道で、人波の中を並んで歩く和装の男女。紋付羽織縞袴と桜色の振袖。
 観光客の誰一人として気にも留めなかったであろう、しかし今となってはその装いが致命的だった。
「――一致しました」
 低い声が室内に落ちる。
「羽田空港、東京都内、アテネ。動線が完全に重なっています。滞在時間、移動パターン、全て同一人物と見て間違いありません」
「女は?」
「メリッサ・ドラコペトラ。ギリシャ国籍。アテネ在住。国立大学薬学部在籍。奨学金利用歴なし。政治的背景なし。宗教団体との関係も確認されません」
 王族の執務机の前で、国王アンドレアスは静かに指を組んでいた。
 苛立ちも、驚きもない。ただ、思考が次の段階へ進んだだけの顔だった。
「……普通だな」
「ええ。驚くほどに」
 王の背後で、重厚なカーテンがわずかに揺れる。
「だが、普通だからこそ、教皇の“外側”にいる」
 その言葉に、誰も異を唱えなかった。
 映像は次へ進む。
 団子屋の前でベンチに座る二人。何かに気付き慌てた様子の女。男の背中がすべてを隠す。
「前後五分の動作を解析しました。身体の動き、顔の角度、距離、滞留時間。統計的に見て――」
 分析官は一瞬、言葉を選んだ。
「――口づけと判断されます」
 場が沈黙する。その沈黙は、倫理的な躊躇ではなく戦略的な確認だった。
「つまり」
 国王が、穏やかに口を開く。
「彼は、すでに“選んでいる”ということだ」
「はい」
「聖域の教皇が秘密裏に」
「……はい」
 アンドレアスは、ゆっくりと立ち上がった。
 窓の外には、整えられた王宮庭園が広がっている。すべてが管理され、制御され、美しく保たれた世界。
「ならば、こちらも同じ手を使うまでだ」
 振り返ったその表情は、父の顔でも、国王の顔でもなかった。ただ、国家という巨大な意志の代理人だった。
「教皇には“選択肢”を与える」
「王女との関係を、既成事実として世界に見せる」
「同時に――」
 一瞬、言葉が切れる。
「この娘に、“身の程”を教える」
 画面の中で、口付けされた振袖の女は慌てふためいている。その仕草が、年齢相応の純真さと無垢さ、そして、教皇への素直な恋慕を証明している。
 誰かが低く呟く。
「……彼女は、何も悪くありません」
 アンドレアスは、静かに首を振った。
「国家にとって、“悪意の有無”は問題ではない。利用価値があるかどうか、それだけだ」
 その瞬間、エルダニア王国は完全に一線を越えた。
 そして同じ頃――
 メリッサは、自分の知らない場所で、自分の知らない誰かに、自分の知らない価値を与えられていることを、まだ知らない。
 ただ、一人の部屋でパソコンの画面を見つめながら思っていた。
(……どうして、こんなにも胸が苦しいんだろう)
 それが、すでに“狙われている側”の痛みだとは、まだ気づかないままに。

 それは、あまりにも静かな形で訪れた。
 大学からの帰り道、自宅へ向かって歩いていたメリッサの前に、一台の黒塗りの車が滑るように止まった。
 ドアが開き、中から現れたのは年齢の判別がつかない男だった。
 メリッサの目にもはっきりと分かる、仕立ての良いスーツをかっちりと着こなしている。柔らかな物腰と低く落ち着いた声色。
「メリッサ・ドラコペトラさんですね」
 逃げ場はない。
 直感的にそう思った。
「……どなたですか」
 問い返した声は、自分でも驚くほど冷静だった。
 男はわずかに微笑み、名刺を差し出す。
 そこに記されていたのは、《エルダニア王国 外務省 特別顧問》という役職と男の氏名だ。ルーカス・ヴァン・デル・アーヘンというらしい。
「少し、お話のお時間をいただけますか。もちろん、強制ではありません」
 そう言いながらも恭しく頭を下げ、車の後部座席へ掌を向けるのは、すでに“選択肢がない”ことを語っている仕草だった。
 車内は防音が完璧だった。外からの音が入ってこない。車内の音も外へ漏れない。
 男は前置きをほとんどせず、本題に入った。
「単刀直入に申し上げます。あなたには、シオン教皇猊下との関係を、断っていただきたい」
 その言葉は刃物のように鋭く、メリッサの心臓を正確に抉ってきた。
「……理由を、聞いてもいいですか」
「我がエルダニア王国の利益に反するからです」
 即答だった。
「教皇猊下は、我が国にとって極めて重要な存在です。宗教的権威、中立性、影響力。それらはすべて、エルダニアの未来に資する」
 男は淡々と続ける。
「しかし、個人的な情愛は――弱点になり得る」
 メリッサの喉が、ひくりと鳴った。
「あなたは、悪くありません。むしろ、非常に優秀で将来性がある」
 そう言って、男は手元のタブレット端末を操作し、メリッサに見せた。画面に表示されているのは条件だった。
 国費留学生待遇でのエルダニア王立大学薬学部編入。学費、研究費、生活費、留学生専用寮費、年二回の往復渡航費の全額補助。
 そして――王立医療技術研究所研究員の席。
 未来。
 進路。
 安定。
「……」
 息がうまく吸えない。自分でもはっきり分かるほど、手が震えていた。
「これは“取引”ではありません“保証”です。今だけではなく、あなたの未来そのものを保証します」
 その瞬間、メリッサははっきりと理解した。

 ――これほどの条件を出してくるほどに、彼らはシオン様を欲しているんだ。

 自分はそのための“障害”なのだと。
「もし、断ったら……?」
 震える声を必死に押さえた。男は眉根を寄せると視線を落とした。
「その場合でも、我が国は手を引きません」
「方法が、変わるだけです」
 脅迫ではない。事実の提示だ。
 シオンの立場。
 聖域の中立。
 アリシア王女。
 世界の安定。
 そして、自分。
 (あたしは、何者なんだろう。ただの薬学部生で、王族でもないし由緒正しい家柄の人間でもない)
 それでも、言えることが一つある。
「……シオン様は」
 その名を口に出した瞬間、胸が痛んだ。
「シオン様は、あたしを選んでくれました」
「ええ。だからこそ問題なのです」
 その言葉は、否定されるよりなお一層、残酷だった。
 愛されていることが罪になる世界が存在するのだと、初めて知った。
 沈黙が落ちる。
 やがて、男は立ち上がった。
「結論は急ぎません。ですが、時間は多くありません」
 名刺が、再び差し出される。
「あなたが“選ぶ側”でいられるのは、今だけです」
 車を降りたあと、足が震えた。
 未来まで保証する。
 裏を返せば、シオンとの未来だけは保証しないということだった。
 メリッサは、立ち尽くしたまま空を見上げた。
 夕焼けが、滲んで見えた。

 側近が控室のドアをそっとノックする。
「猊下、恐れ入ります。ご確認いただきたいものがございます」
 シオンはわずかに眉を寄せ、手を伸ばす。側近が差し出したタブレットの画面に、あの写真が映し出された。
 幸いだ。
 顔は加工され特定できない。燕尾服の背中しか見えない。だが、その所作、立ち姿、そして距離感はあまりにもリアルすぎる。ただの歓談が、親密な対話として切り取られている。維持していた距離が、あたかも重ねられたかのように見える。
「全く……よく計算しているものだな」
 声に滲む苛立ちは、静かに、しかし確かに空気を震わせた。
 シオンは画面をじっと見つめる。目に見えるものの背後に、張り巡らされた策略が透けて見える。
 タイミング。角度。表情の切り取り方。すべてが計算されている。
 その苛立ちの中で、ひとつの冷静な思考が芽生えた。
 メリッサには、決して触れさせてはならない。
 誰にも知られてはならない、ただ一人の彼女だけの世界を、守らねばならない。
 タブレットを置くと、シオンは深く息をつき、控室の窓の外に目をやった。
 雲の隙間から差し込む光が、手元の影を揺らす。苛立ちと冷静さが同居するその瞬間、彼の胸中で、次に取るべき行動の輪郭が、ぼんやりとだが、確かに形を取り始めていた。
 その日以降、シオンは意図的にアリシア王女との対話の機会を重ねた。
 公的な会談や文化交流の名目を冠した夕刻の茶会など、すべては公式の場であり、第三者の目が届く適切な距離を保った時間だった。
 アリシア王女は、気持ちを隠そうとはしていなかった。あるいは隠せないのだろう。
 視線は真っ直ぐで、言葉を交わすたびに翡翠色の瞳が淡い熱を帯びる。
 尊敬とも憧憬ともつかぬ感情が、やがて明確な「好意」として滲み出ていることを、本人だけが気づいていないかのようだった。
「教皇猊下は、不思議なお方ですね」
 穏やかな声で、王女が微笑む。
 シオンはカップを置き、わずかに首を傾けた。
「そう見える理由を伺っても?」
「ええ。とてもお優しいのに、どこか……誰にも踏み込ませない場所をお持ちです」
 探るような言葉だが、そこに計算の色はない。
 シオンは、王女の瞳を真正面から見据えた。この対話の目的は、好意に応えることでも遠ざけることでもない。
 真実を測ること。
「それは、立場ゆえのものです。私は一個人である前に、聖域の象徴であり、責務の中に生きています」
 きっぱりとした口調。
 拒絶ではない。だが、希望を与える余地もない。
 王女は一瞬言葉を失い、それでもすぐに微笑んだ。
「……そうですね。分かっている、つもりです」
 その「つもり」という曖昧さに、シオンは注意深く耳を澄ませる。沈黙が落ちたその間隙を、彼は選んだ。
「王女殿下。先日、我々の歓談の様子が外部に流出しました」
 王女の指先が、わずかに止まる。だが、狼狽はない。
「……存じています。正直に申し上げて、胸が痛みました。猊下にご迷惑をおかけしたのではないかと」
 即答。
 声に混じるのは、自己防衛ではなく純粋な後悔だった。
 シオンは続けた。
「あの写真は、距離と角度が極めて選ばれていました。偶然とは言い難い」
 王女は目を伏せ、静かに首を振った。
「私は、関与していません。誓って。あの場には信頼している者しかおりませんでしたから……むしろ、誰が撮ったのか、私にも分からないのです」
 その言葉に、嘘の気配はない。少なくとも、王女自身が意図して仕組んだものではない。
 シオンの胸中で、ひとつの疑念が、静かに解かれていく。同時に、別の確信が生まれた。
 この王女は、駒ではない。だが、駒にされ得る。
 恋心は、武器になる。それは、無自覚であるほど危うい。
「……ありがとうございます。率直に答えてくださったことに、感謝します」
 その言葉に、王女は少し安堵したように微笑んだ。
「猊下に、誤解されたままでは耐えられませんでしたから」
 シオンは立ち上がり、礼をもってその場を締める。
 王女の好意は、確かに本物だ。だからこそ、利用される前に境界線を引かなければならない。
 対話を終え廊下を歩きながら、シオンは静かに結論を下す。
 写真流出は、王女の意思ではない。だが、エルダニアは、この感情を確実に把握している。そして、次に狙われるのは間違いなく――
 メリッサ。
 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥が、ひどく静まり返った。守るべきものはもう明白だった。

 夜更け。
 机の上のスタンドライトだけが、メリッサの部屋を淡く照らしていた。
 開いたままの資料――エルダニア王立大学薬学部のカリキュラム、研究設備、提携機関の一覧。どれも、彼女がこれまで夢見てきた「理想」の延長線上にあるものだった。
 薬学を究めたい。
 知識を、技術を、人の命に役立てたい。
 それは、幼い頃から一度も揺らいだことのない願いだ。
 条件は、あまりにも整いすぎている。学費も、研究費も、生活も。努力さえすれば、未来は約束される。
 ただし。
「……シオン様と、離れること」
 声に出した瞬間、その言葉は刃のように胸に刺さった。
 彼は、何と言うだろう。
 自分の感情を抑え、きっと静かに微笑んで、こう言うのではないか。
 そなたの将来を選べ、と。
 彼の立場を思えば、それが正しい。
 教皇として、聖域を背負う者として、私情で彼女を縛ることはしない。それが分かっているからこそ、苦しい。
(もし……シオン様が、引き留めたら?)
 その仮定だけで、喉が詰まる。
 彼が珍しく感情を露わにし、「行くな」と言ったなら。その声に、手に、縋られたなら。
 自分は、拒めるだろうか。
 否。
 きっと、揺らぐ。
 そして、その弱さを彼は誰よりも知っている。
 今の大学に残る道ももちろんある。大学院へ進み、研究を続けることもできる。だが、その先にエルダニアが沈黙を守る保証はない。
 見えない圧力。
 研究費の打ち切り。
 推薦の阻害。
“偶然”を装った障害。
 狡猾で、合法で、抗いにくい方法はいくらでもある。
(逃げるために行くの?……それとも、利用されるの?)
 問いは、堂々巡りを続ける。
 メリッサはノートを閉じた。パソコンの画面も消し、椅子から立ち上がる。
 誰にも相談できない。これは、自分で決めなければならない問いだ。
 シオンのためでも、エルダニアのためでもない。
 自分自身のために。
「……答えは、簡単じゃないけど」
 窓の外、夜の街に滲む灯りを見つめながら、メリッサは静かに息を吐いた。
「でも……逃げて決めるのだけは、嫌」
 誰かに突きつけられた選択肢ではなく、自分の意思で選びたい。それが、彼の隣に立ちたいと願った、自分への最低限の誠実さだと思えた。

 エルダニア王都の夜は、過剰なまでに整えられていた。
 均整の取れた街路、過不足のない灯り、警備の目。歓迎という名の包囲網。その中心にシオンはいた。
 公館に用意された執務室がある。
 重厚な扉を閉めても、外界との遮断にはならないことを彼は理解している。
 壁の向こうにあるのは静寂ではなく、観察の目だ。
 シオンは椅子に深く腰を下ろし、携帯端末を手に取った。画面に映る履歴には、未応答の着信がいくつも並んでいる。
 メリッサ。
 指先が、一瞬だけ止まる。胸の奥で何かが疼いたが、それを表に出すことはなかった。
(今ではない)
 ここで応じれば、時間帯、頻度、通信経路。すべてが解析される。互いの関係を裏付ける、確かな証拠になりかねない。ただの私的な連絡でさえ、この国においては格好の材料だ。
 シオンは静かに設定画面を開き、ためらいなく操作を進めた。

 ――着信拒否。

 一件、また一件。履歴に残るメリッサの番号を削除する。それは拒絶ではなく、彼女を遠ざけるためでもない。守るためだ。
「……愚かだな」
 誰に向けた言葉でもなく、低く呟く。こんな方法しか選べない自分自身への、苦い自嘲だった。
 メリッサは、何を思っているだろう。
 不安に駆られているかもしれない。
 理由も分からぬまま、連絡が途絶えたことに傷付いている可能性もある。
 だが、今は信じてもらうしかない。彼女ならきっと分かってくれる。
 そう信じたい気持ちと、
 彼女に“信じること”を強いている現実への忸怩が、胸に沈殿する。
 この沈黙の裏で、メリッサ自身が追い詰められていることを、シオンはまだ知らなかった。
 彼女に向けて、すでに見えない手が伸びていることも。
 だからこそ、この時の彼は、自分が冷静で合理的な選択をしていると信じていた。盤上の駒を、慎重に動かしているつもりでいた。だが、すでに別の場所で、勝負の条件そのものが書き換えられつつあることには、まだ気付いていなかった。

 呼び出し音は、規則正しく、無感情に鳴り続けた。一度、二度ではない。時間を置いてまた。それでも、画面は切り替わらない。
 出られないだけ。
 そう思おうとした。
 シオンは今、エルダニア王国に滞在中だ。公務で身動きが取れないのだろう。
 想定内だ、と自分に言い聞かせる。
 けれど、三度目の発信で音が鳴らなかった。
 即座に、無音。
 《この相手への発信は制限されています》
 画面に浮かぶ短い表示の意味を、メリッサはしばらく理解できなかった。
 しばらく手元の端末を見つめ、ようやく、拒否されたのだと結論が出た。
「……あ」
 声にならない声が、喉の奥で掠れる。息を吸おうとして、うまくいかない。
(そうだよね……うん……)
 理屈は分かる。
 シオンは今、メリッサに連絡を取ること自体が危険だ。監視されている可能性があるのだ。タイミングを測られれば、それだけで“関係”を裏付けてしまう。
 分かっている。
 分かっているのに。
 想定していたはずなのに、実際に突きつけられると、こんなにも堪えるとは思わなかった。
 スマートフォンを胸元に抱きしめる。
 画面は冷たく、無機質だ。そこに、シオンの気配はない。
 助けてほしい、と言いたかったわけじゃない。
 答えを出してほしかったわけでもない。
 ただ、知ってほしかった。
 エルダニアが何をしてきたのか。
 どんな条件を突きつけられたのか。
 自分が、今、どれほど揺れているのか。
「……ひとりで決めろ、ってことかな」
 ぽつりと零れた言葉は、部屋の中に吸い込まれて消えた。
 夜の静けさが、やけに冷たい。
 シオンなら、何と言うだろう。
 きっと、メリッサの将来を最優先に考える。感情よりも、理を取る人だ。自分のことより、彼女の未来を選べ、と言うかもしれない。それが分かるから、余計に怖い。
(止められたら……あたし、どうするんだろう)
 止められたい気持ちと、止められたら全部を失うかもしれない恐怖。
 その両方を抱えたまま、メリッサは椅子に座り込む。もう一度、スマートフォンを見る。そこにはシオンの不在だけが残されていた。
 シオンが、彼女を拒絶したわけではない。
 頭では分かっている。
 それでも、今この瞬間、メリッサは確かに、独りだった。
(……自分で、答えを出さなくちゃ)
 その言葉は、決意というより、確認に近かった。
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