Eine Kleine

 三次適合試験当日。研究所の空気は緊張で張り詰めていた。
 長い廊下を進む足音が、普段よりも硬く響く。扉を開けた瞬間、白を基調とした試験室に灯る無数のランプの光が、無機質な眼差しで出迎える。

 室内には既に研究班が整然と配置され、中央には小さなベッドに腰掛けたカノンがいた。僅か三歳の幼子の姿であるにもかかわらず、透き通る碧眼はどこか大人びており、幼児化の不可思議さを際立たせている。
「おねえしゃん!」
 カノンがこちらに気づき、ぱっと笑顔を向ける。その幼さと無邪気さが、この場の緊張感に微かな温度を与えた。
 壁際にはサガとアフロディーテが立ち、厳しい眼差しで一部始終を見守っている。サガは腕を組んだまま一言も発せず、表情の陰に複雑な感情を隠していた。アフロディーテは細い指を顎に添え、息を潜めるように成り行きを見ている。
 研究主任が淡々と告げる。
「――これより、三次適合試験を開始する。メリッサ嬢、準備はよろしいか」
「……はい」
 メリッサは立ち上がる。真っ白な照明の下で、彼女の影が床に細長く伸びる。その表情は無機質で、感情を閉ざしたまま。しかし心臓の鼓動だけは、わずかに速まっているのを自覚していた。
 小さな手を差し伸べてきたカノン。その掌は温かく、無垢そのものだった。メリッサは一瞬、呼吸を忘れる。だが次の瞬間には自らの小宇宙を緩やかに解き放ち、エルダーフラワーから抽出された成分を触媒として増幅させる。
 淡い黄金色の光が、メリッサの両掌から溢れ出した。
 その光は研究室の冷ややかな空気をやわらかに照らし、幼いカノンの身体を包み込む。
「……っ」
 計測器の針が一斉に振れ、警告音と共にモニターの数値が急上昇していく。研究班の息が詰まり、誰もが計器と対象を凝視する。
 カノンの小さな身体が、光を吸い込むように震えた。白い肌の下で細胞が目覚めるように反応し、退行していた生命の鼓動が正しい軌道を取り戻していく。
「成功の兆しです!」
 研究員の声が鋭く響く。しかし、誰もまだ安堵しなかった。最後の一線を越えるまで気を緩めることは許されない。
 光の奔流はなおも続き、やがてカノンの幼い瞳に涙が浮かんだ。
「……あったかい……」
 小さな声に、メリッサの胸が締め付けられる。自分はただの道具にすぎない――そう言い聞かせてきた心の奥で、幼い命から差し伸べられた純粋な言葉が、氷を解かすように響いた。
 それでも彼女は表情を変えない。ただ静かに、己の役割を果たすだけだった。
 しかし数十秒後、研究所の空気が一瞬にして凍りついた。
 計測器の針が限界を振り切り、赤い警告ランプが点滅を繰り返す。不快な電子音が耳を打つたび、研究員たちの顔色が強張っていった。
 メリッサの小宇宙は既に危険域に達していた。光は収束するどころか、逆に渦を巻くように激しさを増し、彼女の体躯を細かく震わせる。額から汗が滴り落ち、膝は小刻みに震えている。それでも両の掌はカノンへ向けられたまま離れない。
「吸収率が急激に上昇しています!このままでは彼女の小宇宙が枯渇します!」
「溶液を増量すべきです、主任!」
 研究員たちの声が錯綜する。
「中断しろ!」
 サガの低く鋭い声が響いた。双子座の黄金聖闘士としての冷静な判断――それは全員が待ち望んでいたはずの言葉だった。
「サガ様!しかしこの機会を逃せば――」
「中断だ。これ以上、彼女を犠牲にすることはならん」
 その瞬間、声が割り込んだ。
「いえ――溶液を増量してください」
 凛とした響きだった。
 震える身体から絞り出した声とは思えないほど強く、はっきりとした言葉だった。
 メリッサの瞳は、虚ろだったはずの光を取り戻していた。
「メリッサ嬢、君は何を言っているか分かっているのか?」
 サガの声は低く抑えられていたが、僅かに震えているようにも聞こえた。

「分かっています。ここで止めたら、全部が無駄になります。…標本も、試験も、カノンくんの未来も」
「だが君の身体が――」
「この期に及んで、あたしの身の心配ですか?」
 彼女の言葉に、研究員たちが息を呑んだ。
「あたしは聖域にとって都合の良い道具なんでしょ?だったら最後まで使い倒せばいいじゃないですか」
 その言葉に、サガの眼差しが揺らぐ。
 冷徹であるはずの双子座の黄金聖闘士の胸奥に、思いがけぬ痛みが走る。
「……」
 長い沈黙の末、サガは視線を伏せ、低く命じた。
「溶液を増量せよ。ただし、モニタリングを最優先にしろ。彼女の限界を見誤るな」
「はっ!」
 研究員たちが一斉に動き出す。冷却装置の音が高まり、注入されるエルダーフラワー溶液が輝きを増していく。
 光はさらに強くなり、メリッサの体躯を焼き尽くすかのように包み込んだ。彼女の瞳はなおも前を見据え、ただ幼いカノンの姿だけを追っていた。
 室内の空気は、張り詰めた弦のように限界まで緊張していた。
 警告灯が赤々と回転し、計測器の針は振り切れたまま動かない。研究員たちの指先は震え、誰もが声を失っていた。
「魚座様、小宇宙をください。あたしが媒介になります」
 掠れた声。しかし、その一言は凛とし、すべてを決する響きだった。
「無茶を言うな!」
 アフロディーテの声は震えていた。青い瞳が大きく見開かれ、その表情には普段の余裕も艶やかさも影を潜めている。
「直接そんな真似をしたらどうなるか分からないぞ!」
「今更あたしのこと気にするんですか?」
 メリッサは唇にうっすら血の色を滲ませながら、笑みとも諦めともつかぬ表情を浮かべた。
「所詮、使い捨ての駒ですよ?さっきも言ったけど、この際使い倒せば?聖域に何の損がありますか?」
 アフロディーテの喉が詰まる。言葉が出てこない。彼は知っている――彼女がどんな過去を背負わされ、どんな風に心を閉ざしたのか。だからこそ、その自嘲の言葉が胸を抉った。
「メリッサ……」
「アフロディーテ、メリッサ嬢の言う通りにしろ」
 冷たい声が割って入る。サガだった。
「サガ!!」
 アフロディーテの叫びは怒号に近かった。青ざめた顔に憤りが滲む。
「メリッサをこれ以上傷付ける気か!?」
 しかし、サガの表情は彫像のように動かない。その双眸には冷静な計算が宿っていた。
「メリッサ嬢の小宇宙だけでは追いつかない。このままでは命を落とすぞ。彼女の言う通りにしろ」
「だったら中止すべきだろ!?」
 アフロディーテの声は張り裂けるようだ。感情と理性の間で引き裂かれている。
「いや、継続だ」
 サガの言葉は容赦なく降ろされる刃だった。その声音には揺らぎがなく、教皇補佐としての覚悟が滲む。
「魚座様、早くしてください……あたし、保ちません……」
 メリッサの声が震えた。細い肩は痙攣するように揺れ、爪は掌に食い込み、血が滲む。それでも彼女はカノンから目を逸らさなかった。
「――分かった」
 アフロディーテの唇が固く結ばれた。彼の中の誇りと優しさが激しく衝突し、結局、彼は自らの小宇宙を解き放つ決断をした。
「でも、耐えるんだよ。必ず、私が支える」
「……祈っててください」
 メリッサは目を閉じ、震える吐息を溢す。その声は小さな祈りのようで、彼女の全てを賭けた最後の願いのようだった。
 次の瞬間、アフロディーテの小宇宙が奔流となって解き放たれ、メリッサの身体を通じてカノンへと流れ込んでいった。
 その光は美しく、しかし苛烈で、室内の空気をさらに焼き尽くすように震わせた。
 轟音のように鳴り響く脈動が、室内全体を震わせていた。
 メリッサの小柄な身体は、今や黄金聖闘士の莫大な小宇宙を受け止めるための導管に過ぎない。だが、その器はあまりにも脆く、限界を超えつつあった。

 ――ミシ、ミシ

 骨が軋む音が、生々しく空気を裂いて響く。
 メリッサは息を詰めるように身を強張らせた。次の瞬間、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
「うああああああ!!」
 右腕――アフロディーテと繋がれている肩口から、皮膚が大きく裂け、鮮血が迸った。白いフリルブラウスが瞬く間に紅に染まり、滴り落ちた血が冷たい床に不規則な紋様を描いていく。
「メリッサ!」
 アフロディーテの瞳が揺らいだ。普段なら誰よりも美を追い求めるその男が、今は惨状に打ちのめされている。彼の小宇宙は止められない。止めた瞬間に、彼女は衰弱死する。だから繋がり続けるしかなかった。
 メリッサの喉から、血が混じった咳が激しく迸る。鮮血が掌を濡らし、喀血が床に飛び散る。だが、彼女の瞳はなお、まっすぐに前を向いていた。
 カノンを――救うために。
「補佐官様、さすがにこれ以上は……!」
 研究員の一人が悲鳴に似た声を上げる。実験装置の警告音は限界値を示し、計測器は狂ったように針を振り切っている。
「臨界に達します!このままでは被験者が――!」
「まだだ」
 冷徹な声が室内に響いた。サガだ。
 彼の双眸はただ一点、成果だけを見据えている。メリッサの苦悶や血の色など、心の奥に押し殺して。
 いや、彼の瞳に何も揺らぎがないのは、押し殺しているからか、それとも本当に感情を捨てているからか。誰にも分からなかった。
「サガ!彼女は限界だ!」
 アフロディーテの叫びには焦燥が滲んでいた。
「これ以上は――!」
 しかし、メリッサが口を開いた。
 その声は掠れているのに、不思議と澄んでいた。
「……まだ、できます。……まだ、終わってない……」
 震える吐息、血の泡。それでも彼女は前を向き続けていた。
 その姿は、自己犠牲というよりも、ただ運命を受け入れているかのようだった。

  限界は、突然訪れた。
 メリッサの身体から、ほとんど小宇宙が抜け落ちる直前――。

 閃光が爆ぜた。
 研究室全体が震動に包まれ、床も壁も軋みを上げる。
 抑え込まれていた莫大なエネルギーが、一気に解き放たれたのだ。
「っ……!」
 メリッサの両目が強い光に焼かれるような痛みで閉ざされる。
 その瞬間、幼子だったカノンの小さな身体が、光の奔流に呑み込まれた。
 みるみるうちに腕も、脚も、骨格も、ひと息に伸び上がっていく。小さな手は大人の掌となり、細い首は堂々たる体躯を支えた。

 光が弾ける。

 黄金の聖衣が呼応するように現れ、煌めきが部屋を満たす。
 次の瞬間、そこに立っていたのは、紛れもなく――双子座の黄金聖闘士、カノンであった。

 幼子の声は消え、低く鋭い青年の声が空気を裂いた。
「……ッ、戻ったのか、俺は……」

 床に広がっていた血溜まりの向こうで、メリッサは膝を折り、必死に意識を繋ぎ止めていた。
 喀血で赤く染まった唇がわずかに開く。
「よかった……元に……戻った……」

 その言葉を最後に、彼女の身体は力なく前へ崩れ落ちた。

 実験室に走る沈黙。
 重苦しい緊張の中で、唯一確かなのは――
 カノンが、ついに完全な姿を取り戻したという事実だった。

 黄金の閃光が弾け、子供の身体が一瞬で青年の姿へと変じていく。
 奇跡と呼ぶに相応しい光景だった。
 だが、アフロディーテの眼差しは、その眩い変化を見てはいなかった。
 彼の視線はただ、メリッサに注がれていた。全てがスローモーションに見えた。
 床に倒れ込む華奢な身体。宙に揺れた柔らかな栗色の髪。
 白いブラウスは、右肩から胸元へと大きく裂け、鮮血が滲んでいく。
 その血は、一雫ごとに石床を赤く染め、冷たく広がっていった。
「メリッサ!」
 駆け寄り、抱き起こす。だが、その体は恐ろしいほど軽かった。
 胸元に手を当てれば、震えるように掠れた鼓動が指先に触れる。
 それでも――彼女の瞳は、虚ろなまま光を宿そうとはしなかった。
 目の前に立つのは、元の姿に戻ったカノン。
 その事実が聖域にとってどれほど重要か、アフロディーテは理解している。
 だが、胸の奥底にこみ上げるのは歓喜ではなく、焼けつくような憤りだった。

 ――なぜ彼女をここまで追い込んだ。
 ――なぜ、これほど無惨な姿になるまで止められなかった。

 薄く開いたメリッサの唇が、血に濡れながら小さく動いた。
「……成功…しました………」
 それはあまりにか細く、消え入りそうな声だった。
 自分の命がどうなろうとも、ただ相手のことだけを想う。
 その健気さが、アフロディーテの胸を抉った。
「君は……どうしてそこまで……」
 抱き締めた腕に力がこもる。だが、答えは返ってこなかった。メリッサは意識を失い、まるで眠るように瞼を閉じたのだ。
 黄金聖闘士の復活という輝かしい成果の影で、彼女の命は細い糸のように今にも途切れようとしている。
 アフロディーテの胸中に去来するのは、美や勝利ではなく、ただ一つ。取り返しのつかない喪失の予感だった。


 私は腕の中の彼女を抱き締めたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 カノンが戻った。黄金聖闘士が復活した。それは聖域にとって喜ばしい成果であるはずだった。
 けれど、今この瞬間、私にとってそれは何の意味も持たなかった。
 メリッサの細い体は血に濡れ、冷えた石床の匂いと混じって、ひどく生々しい。呼吸は浅く、鼓動も頼りない。どうしてここまでしなければならなかったのか。その問いが頭の中を巡り、出口を失った思考が私を内側から蝕む。
 私は、サガを恨めばよいのか。教皇を責めればよいのか。
 だが、声を上げる資格など私にはない。
 私はただ従ったのだ。
 中止を叫びながらも、結局は彼女の願いに屈し、小宇宙を流した。
 結果として彼女をここまで追い込んだのは、私自身の手でもある。

 ――聖域は彼女に何をしてきた。

 彼女の家名を辱め、家族を奪い、尊厳を踏み躙り、 
 そして、今またその命までも。
 これは許されることなのか。
 大義の名を掲げれば正当化できるのか。
 『地上の平和のため』という言葉が、この少女の犠牲を覆い隠せるのか。
 私は、そんなものを信じきれるほど清廉ではない。
 彼女の苦痛を目の前にして、なおも正義を掲げることなどできやしない。
 だが、だからといって抗えもしなかった。
 私は聖域の一員であり、その枠から一歩も外れられなかった。
 腕の中で、彼女は静かに瞼を閉じている。
 その姿はあまりに儚く、美しく、そして残酷だった。
 私はただ、美の女神と同じ自分の名を呪った。
 これほどの惨状を前にしてなお、彼女の血に濡れた姿が胸を締めつけるほど美しいと感じてしまう自分を、心底憎んだ。

 ――私は、何も守れなかった。

 それが、聖域の一員である私の罪。
 彼女を道具として差し出した私の罪。
 その重さを背負う資格だけが、今の私に残された唯一のものだった。
 私は床に膝をつき、彼女の右腕に目を落とした。
 肩口から大きく裂け、白い肌は鮮血に塗れている。柔らかなはずのその腕は、不自然までに震え、見る者の胸を抉るようだった。

 ――あまりに酷い。

 この身体が、どれほど無理を強いられてきたかを雄弁に物語っている。
 震える呼吸に耳を澄ませながら、私はそっと小宇宙を掌に灯した。
 黄金聖闘士である以上、誰もが癒しの術を使える。
 だが、万能ではない。
 この損傷を前にすれば、私の小宇宙では焼け石に水に等しい。
 それでも――せめて、この右腕だけでも。
 慎重に、細い腕を包み込むように小宇宙を流し込む。
 じわじわと裂けた肉が結びつき、出血の流れが緩やかになっていく。
 それでも、完全には戻らない。深い亀裂の痕は、彼女の肌に確かな記憶を刻みつけるだろう。
 この先どれほど年月を重ねても消えることのない、痛ましい傷痕として。
 私は歯を食いしばった。
 黄金聖闘士でありながら、私は彼女を救えない。
 結局、彼女をここまで追い詰めた張本人たちと、同じ穴の狢なのだ。

 ――ムウ。

 心の奥で名を呼ぶ。
 白羊宮に座す賢き聖闘士。癒しにかけては、私など到底及ばぬ力を持つ男。
 『ムウ、牡羊座のムウ。頼みたい』
 思念を飛ばす。
 声にならない叫びを、祈るように。
 どうか、この少女を救ってくれ。私にはこれ以上、何もできない。
 掌の中で、彼女の肌はまだ熱を帯びていた。
 それが生命の火であることを信じたくて、私はなおも小宇宙を注ぎ続けた。

 柔らかな金色の光が室内に満ちた。
 アフロディーテが思念を飛ばしてから、そう間もなく。空気が静かに震え、白羊宮の主がそこに現れる。
 「ムウ、頼む。この子の傷を治してほしい」
 私の声は、思いのほか掠れていた。
 ムウは視線を落とし、血に濡れた少女を見据える。
 「こちらのご令嬢は?」
 「メリッサ・ドラコペトラ嬢だ。教皇のお気に入りだよ」
 口にした途端、自嘲が胸を締めつける。お気に入りなどという軽薄な言葉で括れるほど、彼女の存在は軽いものではないのに。
 「シオン様の?」
 「会ったことないのか?」
 「ええ。お目にかかるのは初めてです。シオン様からお話は伺っていましたが…随分、無体を強いたようですね」
 ムウの声音は淡々としていた。だが、その言葉の裏に潜む静かな怒りを、私は敏感に感じ取った。
 「どこまで治せる?」
 私は問いかける。自分が既に限界を悟っていたからこそ。
 「ここまで深い傷だと、完全には消せないかもしれませんが、できる限りのことはしましょう」
 ムウは短く応え、傍らに膝をついた。
 金色の小宇宙がふわりと立ち昇る。穏やかで澄んだ波動が室内に広がると、あれほど荒々しく裂けていた肩口の肉が、まるで春の雪解けのように静かに融け合い、柔らかな肌の色を取り戻していった。
 私は息を呑む。
 私の小宇宙では、ここまで滑らかには癒せない。
 痛ましい裂傷が、見る間に塞がってゆく。もちろん、深すぎた痕は完全に消えはしないだろう。けれど、これで彼女の命を繋ぐことはできる。
 「……すまない、ムウ」
 自分でも驚くほど小さな声で、私は呟いていた。
 彼女にこれほどの傷を負わせておきながら、結局私は何もできなかった。
 「謝るのは、あなたではありません」
 ムウの声は静かに、しかし確かに響いた。
 金色の光に包まれながら、彼の眼差しは穏やかで、それでいて底知れぬ厳しさを湛えていた。
 その光景に、私は目を逸らせなかった。

 ――結局、私は…

 彼女を守れず、癒すこともできず、罪を分け合うことすらできない。
 ただそこに佇み、彼女の苦痛の一端さえ引き受けられぬ己の無力を、骨の髄まで思い知らされていた。

 研究所の空気は張り詰めていた。
 サガは机に肘をつき、無表情のままモニターを見つめる。カノンは既に黄金聖闘士としての堂々たる姿に戻り、メリッサとは慎重な距離を保ちながら立っていた。研究員たちは息を殺し、ヒーリングの進行を見守るしかなかった。
 ムウの金色の小宇宙が、ゆっくりとメリッサの肩口に降り注ぐ。
 右腕の裂けた傷は深く、神経も損傷している可能性がある。光の波動が傷を包むたび、メリッサの細い身体が微かに震え、かすかに唸る。
「右腕は…神経の損傷もありそうですね。多少影響が残るかもしれません」
 ムウの声は平坦で、感情の揺れを微塵も含まない。しかしその冷静さが、逆に緊迫感を増す。
「サガ、シオン様へどう報告するつもりですか?」
「事実を報告するだけだ」
 サガの声も淡々としていた。耳を傾ける者には、慎重な判断の重みが伝わる。
「あなたの味方をするつもりはありませんが、メリッサさんの傷はできる限り治します。幸い、生死に関わるほどの傷ではないので、ヒーリングにも耐えられるでしょう」
 ムウはさらに淡々と付け加えた。誰を責めるでもなく、ただ現状と可能性を告げるだけだった。
 ヒーリングは本人の自然治癒力を引き出すものだ。体力が欠けている者には負担となり、無理に施せば逆効果になる。
 今のメリッサは、体力の限界に近い状態だった。だからこそ、施術は極めて緩徐に進められる。
 金色の光が静かに動くたび、メリッサの肌の裂け目は少しずつ滑らかになり、赤黒い血の跡が薄れていく。
 メリッサ自身は、瞼を閉じ、ただ耐えるだけだった。顔色に生気はなく表情も硬直している。
 それでも、体が少しずつ元の形を取り戻していくことだけは、確かに感じ取れる。
 カノンは目の前で立ち尽くし、黄金聖闘士としての威厳を保ちながらも、瞳に僅かに心配の色を滲ませている。その存在だけでも、メリッサに静かな安心をもたらす。
 サガは背筋を伸ばし、静かに息を整える。
 研究員たちは互いの顔を見合わせることもできず、ただ光が傷を包むさまを見つめるのみだった。
 私もまた、視線を逸らすことはできなかった。
 私はただ、光が包むその先に、少女の命と精神の均衡がつながることを信じるしかなかった――自分の無力さを胸に抱えながら。

 金色の光が肩口から腕に広がるたび、メリッサの身体は少しずつ落ち着きを取り戻す。体力の限界で硬直していた全身が、微かに緩み、安定した呼吸が戻ってきた。閉じていた瞼がゆっくり開かれる。
 メリッサの瞳に映る世界はまだぼんやりとしていたが、確かに光と影、そして人の存在がそこにあることを感じ取れる。
「カノン……くん…は?」
 微かに口の端から零れた名前。声は弱々しく、ほとんど震え声だったが、確かに発せられた。目の前に立つカノン――既に大人の黄金聖闘士としての姿に戻った彼――の輪郭が、ぼんやりと光の中で揺れる。
 カノンの瞳がメリッサを捉え、微かに眉を寄せる。まだ言葉は発さないが、存在感だけで彼女に安心感をもたらす。
 メリッサは小さく息をつき、肩を動かす。右腕の痛みはまだ残るが、ムウのヒーリングが少しずつ生命力を回復させていた。
「メリッサ嬢、どうだ?」
 サガの声は依然冷静だが、注意深く観察している。
「……だ、大丈夫、かも…です……」
 まだ声はかすれ、表情も完全には戻らない。それでも、カノンの姿に向けて心の中で小さな温かさが芽生えるのを感じる。
(あの人が…カノンくん…ううん、もう一人の双子座様…)
 幼児化から元に戻ったカノンの威厳ある姿と、どこか柔らかい視線が交錯する。メリッサはその微かな感覚を、胸の奥でそっと抱えた。

 アフロディーテは、彼女の傍らで静かに見守る。無力感は消えない。だが、この微かな心の揺れ――絶望の中に生まれた小さな灯火――それだけでも、今ここで救われるべき何かがあると感じた。

 カノンは一歩近づき、しかし無理に手を伸ばすことはしない。黄金聖闘士としての存在感を保ちながら、ただそこに立っているだけで、メリッサは息を整え、少しずつ意識を現実に戻していく。
 金色の光はまだ揺れている。傷は完全には消えないが、痛みは薄れ、心もまた、微かな希望に触れ始めていた――聖域の過酷な試験の中で、二人だけが持つ確かな絆が、静かにその輪郭を示し始めたのだった。
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