Eine Kleine Ⅳ
「ねぇねぇ、これ見て」
向かいに座っているアリサが、何気なくスマートフォンを差し出した。
学食の窓際の席で、メリッサはクロエとアリサと一緒に遅めのランチタイムを過ごしていた。午後の光がトレーの上のグラスに反射している。
「エルダニアの王女様に恋人かも、だって。ほら、この写真」
芸能人の熱愛を見つけたときとほとんど変わらない軽い調子の声は、いつものことだ。見せられた画面には、数枚の写真が並んでいる。
夜会の一場面と思われる豪奢な内装。
笑顔の若い王女の隣に立つ男は、顔だけが不自然なほど滑らかに処理されていた。
燕尾服。
体格。
立ち姿。
メリッサの呼吸が、一拍遅れた。
(……シオン様?)
声にはならなかった。
頭の中でそう認識しただけで、胸の奥がひやりと冷える。
顔だけでなく髪まで消されている。名前はもちろん、身元に繋がる情報も書かれていない。なのに、
“分かってしまった”。
写真の男性は、メリッサがよく知っている人、そのものだった。
一方で、クロエは、別の理由で固まっていた。
(……まさか)
心臓が、嫌な打ち方をする。
聖域の人間として、教皇の公的行動として、そして――諜報に携わる者として。
身元を隠しながら、なおかつ“関係性”だけを強調する。
下世話なゴシップ誌の記事にしては、あまりに出来すぎていることに即座に気付いてしまった。
加工が不自然なほど完璧だ。
(……誰が、何のために)
クロエは、視線をメリッサに向けそうになって、寸でのところで止めた。
今、彼女の表情を覗いてはいけない。
そう直感的に分かっていた。
「えー、でも顔全然分かんないよね」
何も知らないアリサはあくまで軽い。指で画面を拡大しながら首を傾げる。
「相手は貴族の人?王女様だもんね。どうせ政略とかでしょ?それも可哀想だよね~。これから愛を育んでいく感じ?……いやぁ、わたしにはできないなぁ……」
政略。
その単語が、メリッサの胸の奥で鈍く反響した。
年始に日本で同じ時間を過ごして、同じ空気を吸って、言葉よりも確かなものを分かちあったはずだ。
なのに今、男は彼女の知らない場所で、彼女の知らない顔で、彼女の知らない女性と寄り添っている。
意味がわからない。
メリッサは笑えなかった。
否定はできなかった。確信も証拠もないのだ。ただ、“見てしまった”という事実だけが胸の内に静かに沈殿していく。
メリッサの顔が強張った気配を感じつつ、クロエは努めて平静を装った。
「こういう記事、話半分で見た方がいいわよ。加工もあるし。もしかしたら、すごく年上の相手かもしれないし……」
それは、友人としての言葉であり、聖域側の人間としてのぎこちない防波堤でもあった。
メリッサは、曖昧に頷いた。
「ね、全然好みのタイプじゃない可能性もあるし」
声の調子はいつもと変わらず、表情も心配したほど崩れていない。だが、クロエは気付いてしまった。
もう、遅い。
疑念は否定されることで消えるものではない。一度芽吹けば、沈黙の中で勝手に根を張っていく。この瞬間、誰も知らないところで確かに何かが崩れ始めていた。
運命の歯車は、何気ない学食の一卓で音もなく回り始めていた。
時を同じくして、レオンもまた、大学近くの店で友人たちと遅めの昼食をとっていた。
「なあ、これ見た?」
仲間の一人がスマートフォンを差し出す。
画面に映るのは、メリッサが学食で見たものと同じ記事だった。
「エルダニアの王女、やばくない?美人すぎるだろ」 「ほんとだ。品があるよな。こういうのが“本物”っていうんだな」
友人たちは無邪気だった。純粋に王女の容姿と身分に感嘆しているだけだ。
レオンも、画面に視線を落とす。
王女の微笑みも立ち姿も、照明に浮かび上がる横顔も、確かにすべてが美しい。
その隣に立つ青年を見た瞬間、心臓が止まった気がした。
画像の顔は処理されていて、特徴を辿ろうとしても意図的に削ぎ落とされている。
それでも、不思議と気付くものがあるのは、血の繋がりのせいなのだろうか。
(似ている、なんてものじゃないな)
自分が“似ている”と何度も言われてきた人間だった。
声も、所作も、雰囲気も。
この青年の立ち姿は、自分自身よりもはるかに“原型”に近い。
(まさか……シオン様?)
思考がそこに辿り着くまで、時間はかからなかった。
あり得ない、と思う。
同時に、あり得てしまう、とも思ってしまう。
「でもさ、相手の男は誰なんだろうな」
「顔隠すってことは、王族とか超セレブ?それともハリウッド俳優とか?」
推理を楽しんでいる友人たちの会話に、レオンは言葉を挟めなかった。
もし、これが本当にシオンなら。
もし、彼が王女と――。
そこから先を考えようとした瞬間、胸の奥に重たいものが落ちる。
メリッサの顔が浮かんだ。
彼女は、きっとまだこの話を知らない。あるいは、もう見てしまっただろうか。
(どちらにしてもこれはマズイだろ……)
レオンは、グラスを持つ手にわずかに力を込めた。
自分には確証がない。証拠も、それを探る力もない。
それでも、この写真が誰かの悩み多き恋や、平穏な日常を壊すために存在していることだけは、分かってしまった。
(嫌な形だな)
あまりにも静かで巧妙だ。
レオンは、笑い合う友人たちの輪の中で、一人だけ、言葉を失っていた。
もう、戻れない一線を踏み越えてしまったような、そんな予感だけが確かにそこにあった。
午後、クロエは仮病を装って大学を早退した。大学近くに借りている自宅マンションへ急いで帰ると、聖域のサガへ電話をかけた。クロエからの電話連絡は緊急時以外、禁止されている。しかし、これが緊急事態でなければ何を緊急と呼ぶべきなのか。
『私だ』
聞き慣れた低音の柔らかな声が、今日はどこか硬質なものに感じる。
クロエは一瞬だけ息を整え、静かに名乗った。
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです。緊急のご報告がございます」
受話器の向こうで、短い沈黙が落ちる。
『言え』
「本日付の雑誌“アポカリプシ”に、エルダニア王国アリシア王女の恋愛報道が掲載されています。その相手が――恐れながら、教皇猊下ではないかと」
『……アポカリプシだと?』
声色が、わずかに変わった。嘲りとも取れるが、それ以上に、警戒を含んだ低い声だった。
「現在、大学内でも話題になり始めています。写真は加工され顔は判別不能ですが、服装・立ち姿・所作から見て、偶然とは思えません」
『確認する。このまま待て』
「御意」
通話はそれきり切れた。
クロエはスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
アポカリプシ――
聖域が普段、目を向けることすらない三流ゴシップ誌。だが、だからこそ厄介だ。真実と虚偽の境界を、最も曖昧な形で切り取る。そして、当事者が気づいたときには、もう“噂”という形で世界に広がっている。
(……猊下)
クロエは唇を噛んだ。
この一報が、どれほど深い亀裂を生むのか――
それを理解しているのは、今この瞬間、聖域で自分とサガだけなのかもしれなかった。
サガからの折り返しは、早かった。
「はい」
『確認した。確かに教皇で間違いない』
断定だった。
迷いも、ためらいも含まれていない。
『現在、教皇はエルダニアへ公務で赴いている。撮影場所、服装、同席者――どれを取っても一致する』
「……やっぱり、ですか」
クロエはそう答えながら、胸の奥が静かに沈んでいくのを感じていた。予想はしていた。それでも、確証を突きつけられる重さは別だった。
『メリッサ嬢は、この件を知っているのか?』
「はい。大学で、友人から……」
『その友人は、信頼できる人物か』
問いは短く、即物的だった。感情の介在を許さない、情報整理のための確認。
「はい。アリサ・フジサキ。私の、中学生の頃からの友人です」
一瞬、間があった。
『……アリサ・フジサキか』
記憶を辿る音だった。
『ならば、工作ではないな。偶然その記事を目にしただけだろう』
クロエは、唇を軽く噛んだ。
『だが、写真が市中に出回りメリッサ嬢の目に触れた以上、もう取り消しは利かん』
「……」
『時間は戻らない』
それだけ告げられる。
「アポカリプシは、どうしますか?」
『様子見だ』
冷静な判断だった。だが、冷たい判断でもあった。
『聖域や教皇の名は出ていない。曖昧な“相応の立場にある青年”という形に留めている以上、こちらが動けば、それを確定情報に変えるだけだ』
「……承知しました」
『今は静観しろ。何もするな』
「御意」
通話は、そこで切れた。
クロエはスマートフォンを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。判断は正しい。任務としては最善だ。だが、胸の奥にどうしようもない痛みが残っていた。
友人として何もできないという事実が、静かに、しかし確実に彼女を削っていた。
メリッサの顔が、浮かぶ。
何も知らないだろう彼女の心が今、どんなふうに曇っているのか。クロエには想像がついた。それでも動けない。動いてはいけない。
クロエは目を閉じ、深く息を吸った。
(……ごめん)
誰にも届かないその言葉だけが、部屋の中に落ちた。
エルダニア王宮の回廊は、磨き抜かれた石床が月の光を淡く返し、どこまでも静謐だった。
外界の喧騒や、紙面を賑わせる言葉の洪水など、この空間には届かないかのように。
シオンは歩調を落とし、王女の半歩後ろを歩いていた。
距離は常に保っている。少なくとも、彼自身はそう意識している。
「猊下」
王女が立ち止まり、振り返る。金色の髪が肩口で揺れ、薄い光を孕んだ瞳が、まっすぐに彼を映した。
「先ほどの晩餐会……お疲れではありませんか?」
「ご配慮、痛み入ります。ですが、問題はありません」
いつも通りの声色。感情を削ぎ落とし、教皇としての整えられた声。
王女はほっとしたように微笑んだ。
「よかった……。猊下は、とてもお忙しい方だと耳にしていますから」
「王家の皆様に比べれば、些細なものです」
それは外交辞令であり、真実でもあった。彼が拒めないのは王女個人ではない。国家と国家の間に張り巡らされた、目に見えぬ糸だった。
王女は一瞬、言葉を探すように視線を伏せ、それから意を決したように口を開いた。
「……もし、ご無礼でなければ。猊下は、このような場を……好まれませんか?」
その問いは、あまりにも個人的だった。
シオンは答えを選ぶ時間を、ほんの一拍だけ置いた。
「嫌悪しているわけではありません。ただ……役目として臨んでいるだけです」
「役目……」
王女の声が、わずかに揺れた。それでも彼女は笑みを崩さず、むしろ一歩、距離を詰める。
その瞬間だった。
回廊の柱陰から、無音でシャッターが切られる。音はない。だが、空気が僅かに変わったことを、シオンは察していた。
王女が、彼の袖口に指先をかける。
「猊下……私は」
言葉は続かなかった。続けさせてはならないと、理性が警鐘を鳴らす。
「王女殿下」
名を呼ぶ声は低く、しかし拒絶の色を含まぬよう極限まで抑えられていた。
「私は、聖域の教皇です。あなたの誠実さに、礼を失することはできません」
王女は唇を噛み、しばらく沈黙したのち、小さく頷いた。
「……はい。承知しております」
だが、その瞳に宿る感情は、理解とは異なるものだった。彼女は一歩も退かなかった。それが、彼女なりの覚悟だった。
背後から見れば、二人はあまりにも近く。あまりにも静かで、そして、あまりにも親密に見えた。
メリッサは、自分の部屋でスマートフォンを手にしたまま動けずにいた。
画面に映る一枚の写真。
王宮の回廊で王女の横に立つ、後ろ姿の青年。
顔は写っていなくても、肩の線や立ち姿に滲み出る隠しきれない威厳で分かってしまった。
(……シオン様)
疑う余地はなかった。
他人であってほしいと願う理性と、見誤るはずがないという確信が、胸の奥でせめぎ合う。
写真の中の王女はあまりにも真摯で、あまりにも一途な表情だ。笑顔も視線も、すべてはシオンのためだと分かる。
メリッサはスマートフォンを伏せ、深く息を吸った。今は信じるしかない。誰にも相談できない話だ。
自分たちの関係が秘密である以上、耐えるのは自分だけだ。
窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。
日常は何事もなかったかのように進み、講義の資料は机の上に積まれたままだ。
教皇としての彼と、自分だけが知る彼。
その二つの像の間で、シオンを信じて静かに待つしかない。
王女に向けられた視線が、外交の仮面であること。あの距離が義務によるものであること。
信じるという選択しか残されていないからこそ、その信は祈りに近かった。
写真は、やがて別の紙面にも転載され、
「親密」「特別」「将来を見据えて」
そうした言葉が、少しずつ既成事実を塗り重ねていく。
呼び出し音が、夜の室内に規則正しく響く。時間が時間だし切ってしまおうか、と何度も迷った。それでも通話は繋がり、数呼吸ののちに、低く穏やかな声が耳元に届いた。
『……もしもし』
その一声で、張り詰めていたものが崩れた。
「ヘスティア様……」
名前を呼んだところで、声が詰まる。喉の奥に滞っていた感情が、行き場を失って溢れ出し、言葉にならない。嗚咽を噛み殺そうと唇を強く結んだが、呼吸の震えまでは抑えきれなかった。電話の向こうで、すぐに返事は来なかった。その沈黙は、待つための間だった。
『……報告は聞いています』
ヘスティアの声は変わらず、落ち着いている。だが、そこに事務的な冷たさはなかった。
『傷付くわよね。こういうの』
その一言で、メリッサの胸に溜まっていたものが、静かに崩れ落ちる。
「……はい」
返事は小さく、幼く、頼りなかった。
『メリッサさん』
名を呼ばれる。それは女神としてではなく、年長の女性としての呼び方だった。
『教えて。あなたは、シオンよりも見ず知らずの人間が興味本位で上げたゴシップ記事を信じるの?』
問いは鋭いが、責めるものではない。自分の心を直視させるための、静かな問いだった。
「それは……」
言葉が続かない。
信じている。
その想いに偽りはない。だが、写真が語るものを完全に否定できるほど、自分は強くない。
脳裏に浮かぶのは、王女の姿だった。
磨き上げられた所作や王族として育まれた品位。光を集めるような美貌と、誰の目にも明らかな気品。
そして――写真の中で、シオンに向けられた眼差しは、教皇宮で見た女官たちの視線と同じだった。尊敬と憧れと、恋慕が溶け合ったあの目。
(……本当に、揺らがないと言い切れるの?)
自分は教皇の隣に立つ存在として、十分なのか。
そう問い始めた瞬間から、心は弱さを露わにする。
思い出すのは浅草寺で引いた御神籤だ。凶の籤に、救いの言葉はどこにもなかった。未来を否定されたような、あの紙片の冷たさ。
「……信じています」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「でも……全部を作り話だと笑い飛ばせるほど、私は強くありません」
正直な言葉だった。強がる余裕も、虚勢を張る力も今はない。
ヘスティアはすぐに答えなかった。その沈黙は、メリッサの言葉を否定しないためのものだった。
『それでいいのよ』
やがて、柔らかく告げられる。
『信じているのに不安になっても揺れても、疑ってしまっても。それは弱さじゃないわ』
声に年長者としての確かな重みが滲む。
『あなたはまだ若い。それに、あなたが背負ってきたものを思えば、なおさらよ』
責めず、評価せず、理解しようとする声だ。
『でもね、メリッサさん。一つだけ覚えておいて』
電話越しでも分かるほど、言葉が丁寧に選ばれていた。
『シオンは、自分の立場の重さを誰よりも知っている人よ。そして、誰かを守るために嘘をつくことはあっても、心を裏切るような真似はしないわ』
メリッサは目を閉じ、深く息を吸う。胸の奥で、さざ波のようにざわめいていた不安が、少しずつ静まっていく。
「……ありがとうございます、ヘスティア様」
声はまだ震えている。
『今夜は、泣いていいわ』
穏やかで、逃げ場を与える声だ。
『明日のあなたが、また立てるように』
通話が終わったあとも、しばらくメリッサはスマートフォンを胸に抱いたまま動けなかった。
弱さは消えない。だが、それを否定されなかったことが、彼女の支えとなった。
開かれているノートパソコンの画面には、いつも使うポータルサイトのトップページが表示されたままだ。画面を閉じればいい。電源を落として、灯りも消して、さっさと眠ってしまえばいい。
そう分かっているのに、指先はためらいながらスクロールを続けてしまう。
夜の静けさは、優しさよりも残酷だった。
時計の秒針の音がやけに大きく、部屋の広さを強調する。ただ一人でいる、という事実だけが、壁や床に染み込んでいるようだった。
アリシア王女の名前を含む記事が、次々と表示される。
慈善事業への参加。
公式行事での振る舞い。
王家の未来を担うにふさわしい存在――そんな言葉が、整然と並んでいる。
どの記事にも悪意はなく、むしろ称賛ばかりだ。それが、余計に胸を締めつけた。
(きれいな人……)
思わず心の中で呟いてしまう。同性として比べるつもりはなかった。優劣を競いたいわけでもない。そもそも競争相手ではない。画面の向こうにいる王女は、あまりにも完成されすぎていた。生まれながらに守られ、磨かれ、期待されてきた人。きっと、誰かに傷つけられた過去も、尊厳を踏みにじられたこともなくここまで来たのだろう、と想像してしまう。その想像が、ナイフのように鋭く胸を抉る。
自分はどうだろう。
元冥闘士で、一度は命を落とした。心にも身体にも多くの傷を抱え、不確定な将来のために生きている。
大学では“普通の学生”を演じながら、夜になると不安に飲み込まれることもある。
そんな自分と一国の王女のどちらがシオンに相応しいかなど、考えるまでもない話だ。
検索結果の中に、見覚えのある写真が混じる。
王女の隣に立つ燕尾服姿の青年。
顔は見えないが、肩の線や立ち姿。手の形。
(……分かっちゃうんだよね)
胸の奥が強く痛んだ。
後ろ姿だけで確信してしまうことが何より辛い。他人には匿名の誰かでも、メリッサにとっては間違えようのない人だった。
写真に切り取られた一瞬が、すべてを物語っているように見えてしまう。
「……違うよね」
声に出して否定してみても、部屋は何も応えてくれない。違うと言っても、何が違うのか。
公務だといくら心に言い聞かせても、王女の瞳のひたむきさまで否定できるわけではなかった。
(シオン様は、聖域の教皇で……)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
(あたしは、隠さなきゃいけない存在で……)
信じることだけが唯一許された選択肢だ。
ヘスティアの言葉が、遅れて胸に届く。
――心を裏切るような真似はしない。
そう言われても不安は消えない。信じることと、揺らがないことは同じではないのだ。ノートパソコンの画面が、滲んで見える。
いつの間にか、涙がこぼれていた。
メリッサは、膝を抱えたまま、しばらく動けずにいた。
夜はまだ長い。
向かいに座っているアリサが、何気なくスマートフォンを差し出した。
学食の窓際の席で、メリッサはクロエとアリサと一緒に遅めのランチタイムを過ごしていた。午後の光がトレーの上のグラスに反射している。
「エルダニアの王女様に恋人かも、だって。ほら、この写真」
芸能人の熱愛を見つけたときとほとんど変わらない軽い調子の声は、いつものことだ。見せられた画面には、数枚の写真が並んでいる。
夜会の一場面と思われる豪奢な内装。
笑顔の若い王女の隣に立つ男は、顔だけが不自然なほど滑らかに処理されていた。
燕尾服。
体格。
立ち姿。
メリッサの呼吸が、一拍遅れた。
(……シオン様?)
声にはならなかった。
頭の中でそう認識しただけで、胸の奥がひやりと冷える。
顔だけでなく髪まで消されている。名前はもちろん、身元に繋がる情報も書かれていない。なのに、
“分かってしまった”。
写真の男性は、メリッサがよく知っている人、そのものだった。
一方で、クロエは、別の理由で固まっていた。
(……まさか)
心臓が、嫌な打ち方をする。
聖域の人間として、教皇の公的行動として、そして――諜報に携わる者として。
身元を隠しながら、なおかつ“関係性”だけを強調する。
下世話なゴシップ誌の記事にしては、あまりに出来すぎていることに即座に気付いてしまった。
加工が不自然なほど完璧だ。
(……誰が、何のために)
クロエは、視線をメリッサに向けそうになって、寸でのところで止めた。
今、彼女の表情を覗いてはいけない。
そう直感的に分かっていた。
「えー、でも顔全然分かんないよね」
何も知らないアリサはあくまで軽い。指で画面を拡大しながら首を傾げる。
「相手は貴族の人?王女様だもんね。どうせ政略とかでしょ?それも可哀想だよね~。これから愛を育んでいく感じ?……いやぁ、わたしにはできないなぁ……」
政略。
その単語が、メリッサの胸の奥で鈍く反響した。
年始に日本で同じ時間を過ごして、同じ空気を吸って、言葉よりも確かなものを分かちあったはずだ。
なのに今、男は彼女の知らない場所で、彼女の知らない顔で、彼女の知らない女性と寄り添っている。
意味がわからない。
メリッサは笑えなかった。
否定はできなかった。確信も証拠もないのだ。ただ、“見てしまった”という事実だけが胸の内に静かに沈殿していく。
メリッサの顔が強張った気配を感じつつ、クロエは努めて平静を装った。
「こういう記事、話半分で見た方がいいわよ。加工もあるし。もしかしたら、すごく年上の相手かもしれないし……」
それは、友人としての言葉であり、聖域側の人間としてのぎこちない防波堤でもあった。
メリッサは、曖昧に頷いた。
「ね、全然好みのタイプじゃない可能性もあるし」
声の調子はいつもと変わらず、表情も心配したほど崩れていない。だが、クロエは気付いてしまった。
もう、遅い。
疑念は否定されることで消えるものではない。一度芽吹けば、沈黙の中で勝手に根を張っていく。この瞬間、誰も知らないところで確かに何かが崩れ始めていた。
運命の歯車は、何気ない学食の一卓で音もなく回り始めていた。
時を同じくして、レオンもまた、大学近くの店で友人たちと遅めの昼食をとっていた。
「なあ、これ見た?」
仲間の一人がスマートフォンを差し出す。
画面に映るのは、メリッサが学食で見たものと同じ記事だった。
「エルダニアの王女、やばくない?美人すぎるだろ」 「ほんとだ。品があるよな。こういうのが“本物”っていうんだな」
友人たちは無邪気だった。純粋に王女の容姿と身分に感嘆しているだけだ。
レオンも、画面に視線を落とす。
王女の微笑みも立ち姿も、照明に浮かび上がる横顔も、確かにすべてが美しい。
その隣に立つ青年を見た瞬間、心臓が止まった気がした。
画像の顔は処理されていて、特徴を辿ろうとしても意図的に削ぎ落とされている。
それでも、不思議と気付くものがあるのは、血の繋がりのせいなのだろうか。
(似ている、なんてものじゃないな)
自分が“似ている”と何度も言われてきた人間だった。
声も、所作も、雰囲気も。
この青年の立ち姿は、自分自身よりもはるかに“原型”に近い。
(まさか……シオン様?)
思考がそこに辿り着くまで、時間はかからなかった。
あり得ない、と思う。
同時に、あり得てしまう、とも思ってしまう。
「でもさ、相手の男は誰なんだろうな」
「顔隠すってことは、王族とか超セレブ?それともハリウッド俳優とか?」
推理を楽しんでいる友人たちの会話に、レオンは言葉を挟めなかった。
もし、これが本当にシオンなら。
もし、彼が王女と――。
そこから先を考えようとした瞬間、胸の奥に重たいものが落ちる。
メリッサの顔が浮かんだ。
彼女は、きっとまだこの話を知らない。あるいは、もう見てしまっただろうか。
(どちらにしてもこれはマズイだろ……)
レオンは、グラスを持つ手にわずかに力を込めた。
自分には確証がない。証拠も、それを探る力もない。
それでも、この写真が誰かの悩み多き恋や、平穏な日常を壊すために存在していることだけは、分かってしまった。
(嫌な形だな)
あまりにも静かで巧妙だ。
レオンは、笑い合う友人たちの輪の中で、一人だけ、言葉を失っていた。
もう、戻れない一線を踏み越えてしまったような、そんな予感だけが確かにそこにあった。
午後、クロエは仮病を装って大学を早退した。大学近くに借りている自宅マンションへ急いで帰ると、聖域のサガへ電話をかけた。クロエからの電話連絡は緊急時以外、禁止されている。しかし、これが緊急事態でなければ何を緊急と呼ぶべきなのか。
『私だ』
聞き慣れた低音の柔らかな声が、今日はどこか硬質なものに感じる。
クロエは一瞬だけ息を整え、静かに名乗った。
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです。緊急のご報告がございます」
受話器の向こうで、短い沈黙が落ちる。
『言え』
「本日付の雑誌“アポカリプシ”に、エルダニア王国アリシア王女の恋愛報道が掲載されています。その相手が――恐れながら、教皇猊下ではないかと」
『……アポカリプシだと?』
声色が、わずかに変わった。嘲りとも取れるが、それ以上に、警戒を含んだ低い声だった。
「現在、大学内でも話題になり始めています。写真は加工され顔は判別不能ですが、服装・立ち姿・所作から見て、偶然とは思えません」
『確認する。このまま待て』
「御意」
通話はそれきり切れた。
クロエはスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
アポカリプシ――
聖域が普段、目を向けることすらない三流ゴシップ誌。だが、だからこそ厄介だ。真実と虚偽の境界を、最も曖昧な形で切り取る。そして、当事者が気づいたときには、もう“噂”という形で世界に広がっている。
(……猊下)
クロエは唇を噛んだ。
この一報が、どれほど深い亀裂を生むのか――
それを理解しているのは、今この瞬間、聖域で自分とサガだけなのかもしれなかった。
サガからの折り返しは、早かった。
「はい」
『確認した。確かに教皇で間違いない』
断定だった。
迷いも、ためらいも含まれていない。
『現在、教皇はエルダニアへ公務で赴いている。撮影場所、服装、同席者――どれを取っても一致する』
「……やっぱり、ですか」
クロエはそう答えながら、胸の奥が静かに沈んでいくのを感じていた。予想はしていた。それでも、確証を突きつけられる重さは別だった。
『メリッサ嬢は、この件を知っているのか?』
「はい。大学で、友人から……」
『その友人は、信頼できる人物か』
問いは短く、即物的だった。感情の介在を許さない、情報整理のための確認。
「はい。アリサ・フジサキ。私の、中学生の頃からの友人です」
一瞬、間があった。
『……アリサ・フジサキか』
記憶を辿る音だった。
『ならば、工作ではないな。偶然その記事を目にしただけだろう』
クロエは、唇を軽く噛んだ。
『だが、写真が市中に出回りメリッサ嬢の目に触れた以上、もう取り消しは利かん』
「……」
『時間は戻らない』
それだけ告げられる。
「アポカリプシは、どうしますか?」
『様子見だ』
冷静な判断だった。だが、冷たい判断でもあった。
『聖域や教皇の名は出ていない。曖昧な“相応の立場にある青年”という形に留めている以上、こちらが動けば、それを確定情報に変えるだけだ』
「……承知しました」
『今は静観しろ。何もするな』
「御意」
通話は、そこで切れた。
クロエはスマートフォンを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。判断は正しい。任務としては最善だ。だが、胸の奥にどうしようもない痛みが残っていた。
友人として何もできないという事実が、静かに、しかし確実に彼女を削っていた。
メリッサの顔が、浮かぶ。
何も知らないだろう彼女の心が今、どんなふうに曇っているのか。クロエには想像がついた。それでも動けない。動いてはいけない。
クロエは目を閉じ、深く息を吸った。
(……ごめん)
誰にも届かないその言葉だけが、部屋の中に落ちた。
エルダニア王宮の回廊は、磨き抜かれた石床が月の光を淡く返し、どこまでも静謐だった。
外界の喧騒や、紙面を賑わせる言葉の洪水など、この空間には届かないかのように。
シオンは歩調を落とし、王女の半歩後ろを歩いていた。
距離は常に保っている。少なくとも、彼自身はそう意識している。
「猊下」
王女が立ち止まり、振り返る。金色の髪が肩口で揺れ、薄い光を孕んだ瞳が、まっすぐに彼を映した。
「先ほどの晩餐会……お疲れではありませんか?」
「ご配慮、痛み入ります。ですが、問題はありません」
いつも通りの声色。感情を削ぎ落とし、教皇としての整えられた声。
王女はほっとしたように微笑んだ。
「よかった……。猊下は、とてもお忙しい方だと耳にしていますから」
「王家の皆様に比べれば、些細なものです」
それは外交辞令であり、真実でもあった。彼が拒めないのは王女個人ではない。国家と国家の間に張り巡らされた、目に見えぬ糸だった。
王女は一瞬、言葉を探すように視線を伏せ、それから意を決したように口を開いた。
「……もし、ご無礼でなければ。猊下は、このような場を……好まれませんか?」
その問いは、あまりにも個人的だった。
シオンは答えを選ぶ時間を、ほんの一拍だけ置いた。
「嫌悪しているわけではありません。ただ……役目として臨んでいるだけです」
「役目……」
王女の声が、わずかに揺れた。それでも彼女は笑みを崩さず、むしろ一歩、距離を詰める。
その瞬間だった。
回廊の柱陰から、無音でシャッターが切られる。音はない。だが、空気が僅かに変わったことを、シオンは察していた。
王女が、彼の袖口に指先をかける。
「猊下……私は」
言葉は続かなかった。続けさせてはならないと、理性が警鐘を鳴らす。
「王女殿下」
名を呼ぶ声は低く、しかし拒絶の色を含まぬよう極限まで抑えられていた。
「私は、聖域の教皇です。あなたの誠実さに、礼を失することはできません」
王女は唇を噛み、しばらく沈黙したのち、小さく頷いた。
「……はい。承知しております」
だが、その瞳に宿る感情は、理解とは異なるものだった。彼女は一歩も退かなかった。それが、彼女なりの覚悟だった。
背後から見れば、二人はあまりにも近く。あまりにも静かで、そして、あまりにも親密に見えた。
メリッサは、自分の部屋でスマートフォンを手にしたまま動けずにいた。
画面に映る一枚の写真。
王宮の回廊で王女の横に立つ、後ろ姿の青年。
顔は写っていなくても、肩の線や立ち姿に滲み出る隠しきれない威厳で分かってしまった。
(……シオン様)
疑う余地はなかった。
他人であってほしいと願う理性と、見誤るはずがないという確信が、胸の奥でせめぎ合う。
写真の中の王女はあまりにも真摯で、あまりにも一途な表情だ。笑顔も視線も、すべてはシオンのためだと分かる。
メリッサはスマートフォンを伏せ、深く息を吸った。今は信じるしかない。誰にも相談できない話だ。
自分たちの関係が秘密である以上、耐えるのは自分だけだ。
窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。
日常は何事もなかったかのように進み、講義の資料は机の上に積まれたままだ。
教皇としての彼と、自分だけが知る彼。
その二つの像の間で、シオンを信じて静かに待つしかない。
王女に向けられた視線が、外交の仮面であること。あの距離が義務によるものであること。
信じるという選択しか残されていないからこそ、その信は祈りに近かった。
写真は、やがて別の紙面にも転載され、
「親密」「特別」「将来を見据えて」
そうした言葉が、少しずつ既成事実を塗り重ねていく。
呼び出し音が、夜の室内に規則正しく響く。時間が時間だし切ってしまおうか、と何度も迷った。それでも通話は繋がり、数呼吸ののちに、低く穏やかな声が耳元に届いた。
『……もしもし』
その一声で、張り詰めていたものが崩れた。
「ヘスティア様……」
名前を呼んだところで、声が詰まる。喉の奥に滞っていた感情が、行き場を失って溢れ出し、言葉にならない。嗚咽を噛み殺そうと唇を強く結んだが、呼吸の震えまでは抑えきれなかった。電話の向こうで、すぐに返事は来なかった。その沈黙は、待つための間だった。
『……報告は聞いています』
ヘスティアの声は変わらず、落ち着いている。だが、そこに事務的な冷たさはなかった。
『傷付くわよね。こういうの』
その一言で、メリッサの胸に溜まっていたものが、静かに崩れ落ちる。
「……はい」
返事は小さく、幼く、頼りなかった。
『メリッサさん』
名を呼ばれる。それは女神としてではなく、年長の女性としての呼び方だった。
『教えて。あなたは、シオンよりも見ず知らずの人間が興味本位で上げたゴシップ記事を信じるの?』
問いは鋭いが、責めるものではない。自分の心を直視させるための、静かな問いだった。
「それは……」
言葉が続かない。
信じている。
その想いに偽りはない。だが、写真が語るものを完全に否定できるほど、自分は強くない。
脳裏に浮かぶのは、王女の姿だった。
磨き上げられた所作や王族として育まれた品位。光を集めるような美貌と、誰の目にも明らかな気品。
そして――写真の中で、シオンに向けられた眼差しは、教皇宮で見た女官たちの視線と同じだった。尊敬と憧れと、恋慕が溶け合ったあの目。
(……本当に、揺らがないと言い切れるの?)
自分は教皇の隣に立つ存在として、十分なのか。
そう問い始めた瞬間から、心は弱さを露わにする。
思い出すのは浅草寺で引いた御神籤だ。凶の籤に、救いの言葉はどこにもなかった。未来を否定されたような、あの紙片の冷たさ。
「……信じています」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「でも……全部を作り話だと笑い飛ばせるほど、私は強くありません」
正直な言葉だった。強がる余裕も、虚勢を張る力も今はない。
ヘスティアはすぐに答えなかった。その沈黙は、メリッサの言葉を否定しないためのものだった。
『それでいいのよ』
やがて、柔らかく告げられる。
『信じているのに不安になっても揺れても、疑ってしまっても。それは弱さじゃないわ』
声に年長者としての確かな重みが滲む。
『あなたはまだ若い。それに、あなたが背負ってきたものを思えば、なおさらよ』
責めず、評価せず、理解しようとする声だ。
『でもね、メリッサさん。一つだけ覚えておいて』
電話越しでも分かるほど、言葉が丁寧に選ばれていた。
『シオンは、自分の立場の重さを誰よりも知っている人よ。そして、誰かを守るために嘘をつくことはあっても、心を裏切るような真似はしないわ』
メリッサは目を閉じ、深く息を吸う。胸の奥で、さざ波のようにざわめいていた不安が、少しずつ静まっていく。
「……ありがとうございます、ヘスティア様」
声はまだ震えている。
『今夜は、泣いていいわ』
穏やかで、逃げ場を与える声だ。
『明日のあなたが、また立てるように』
通話が終わったあとも、しばらくメリッサはスマートフォンを胸に抱いたまま動けなかった。
弱さは消えない。だが、それを否定されなかったことが、彼女の支えとなった。
開かれているノートパソコンの画面には、いつも使うポータルサイトのトップページが表示されたままだ。画面を閉じればいい。電源を落として、灯りも消して、さっさと眠ってしまえばいい。
そう分かっているのに、指先はためらいながらスクロールを続けてしまう。
夜の静けさは、優しさよりも残酷だった。
時計の秒針の音がやけに大きく、部屋の広さを強調する。ただ一人でいる、という事実だけが、壁や床に染み込んでいるようだった。
アリシア王女の名前を含む記事が、次々と表示される。
慈善事業への参加。
公式行事での振る舞い。
王家の未来を担うにふさわしい存在――そんな言葉が、整然と並んでいる。
どの記事にも悪意はなく、むしろ称賛ばかりだ。それが、余計に胸を締めつけた。
(きれいな人……)
思わず心の中で呟いてしまう。同性として比べるつもりはなかった。優劣を競いたいわけでもない。そもそも競争相手ではない。画面の向こうにいる王女は、あまりにも完成されすぎていた。生まれながらに守られ、磨かれ、期待されてきた人。きっと、誰かに傷つけられた過去も、尊厳を踏みにじられたこともなくここまで来たのだろう、と想像してしまう。その想像が、ナイフのように鋭く胸を抉る。
自分はどうだろう。
元冥闘士で、一度は命を落とした。心にも身体にも多くの傷を抱え、不確定な将来のために生きている。
大学では“普通の学生”を演じながら、夜になると不安に飲み込まれることもある。
そんな自分と一国の王女のどちらがシオンに相応しいかなど、考えるまでもない話だ。
検索結果の中に、見覚えのある写真が混じる。
王女の隣に立つ燕尾服姿の青年。
顔は見えないが、肩の線や立ち姿。手の形。
(……分かっちゃうんだよね)
胸の奥が強く痛んだ。
後ろ姿だけで確信してしまうことが何より辛い。他人には匿名の誰かでも、メリッサにとっては間違えようのない人だった。
写真に切り取られた一瞬が、すべてを物語っているように見えてしまう。
「……違うよね」
声に出して否定してみても、部屋は何も応えてくれない。違うと言っても、何が違うのか。
公務だといくら心に言い聞かせても、王女の瞳のひたむきさまで否定できるわけではなかった。
(シオン様は、聖域の教皇で……)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
(あたしは、隠さなきゃいけない存在で……)
信じることだけが唯一許された選択肢だ。
ヘスティアの言葉が、遅れて胸に届く。
――心を裏切るような真似はしない。
そう言われても不安は消えない。信じることと、揺らがないことは同じではないのだ。ノートパソコンの画面が、滲んで見える。
いつの間にか、涙がこぼれていた。
メリッサは、膝を抱えたまま、しばらく動けずにいた。
夜はまだ長い。
