Eine Kleine Ⅳ

 ギリシャに戻った途端、世界は何事もなかったかのように動き出した。
 空港で別れたあの朝の余韻など、誰も覚えていないふりをして。
 メリッサは大学へ通い、講義室の硬い椅子に腰を下ろし、ノートを取り、実習の準備に追われた。薬学部一年生の時間割は容赦がなく、朝から夕方まで隙間なく詰め込まれている。
 白衣を着ている間は、頭を切り替えなければならない。手順を誤れば、結果はすぐに数値となって返ってくる。感情を挟む余地はない。
 それでも、ふとした瞬間に思い出してしまう。
 東京の朝の空気。
 見上げた空の色。
 そして、シオンの体温。
 思い出してはいけない、と分かっているからこそ、思い出す。
 シオンもまた、聖域で執務に追われていた。
 年末に確認した某国同士を繫ぐ空間の揺らぎは、黄金聖闘士を派遣し早々に解決を図った。
 人為的開通の痕跡なし。
 報告書には、そう記されていた。
 書簡の束、報告書、会議。次から次へと決裁すべき事柄は尽きない。教皇としての日常は、常に誰かの判断を必要としている。
 それでも、書類の行間に、ふとメリッサの顔が浮かぶ。
 一人で過ごしているのだろうか。
 無理をしていないだろうか。
 あの細い肩に、また知らない重荷を背負わせてはいないだろうか。
 会いに行きたい、という衝動は、教皇としての理性によって何度も抑え込まれた。
 そんな折だった。
 エルダニア王国から、正式な招待状が届いたのは。
 文面は端正で、丁寧で、そして曖昧だった。
〈聖域とエルダニア王国の親善を、より一層深めるため〉
 シオンは、その言葉を何度も読み返した。

 ――親善。

 クリスマスの頃、アリシア王女の誕生祝賀パーティーに出席したばかりだ。
 その場で国王とも懇談し、形式的とはいえ、私的な食事の席も共にした。外交上、必要十分な交流はすでに果たしている。それでもなお、さらに親善を図るというのなら――理由は、分かりきっていた。
 アリシア王女が、自分に好意を寄せていること。そして、エルダニアがそれを“政治”に利用しようとしていること。
 彼らが水面下で自分の身辺を探っていることも、すでに掴んでいる。
 教皇という立場を、個人へと引き下ろすために。
 聖域という存在を、交渉材料にするために。
 親善を拒むことは、中立を掲げる聖域の立場を自ら揺るがす。感情を理由に国際関係を拒絶するわけにはいかない。
 それが、教皇という役目だった。
 一方、メリッサはその頃、実験室でフラスコを洗っていた。
 水の流れる音だけが、白い空間に反響する。
 東京で確かめ合った想いが、夢だったのではないかと錯覚しそうになるほど、日常は淡々としている。
 連絡を取ろうと思えば取れる。
 けれど、忙しいだろうと思って、言葉を飲み込む。
 シオンも、きっと同じように耐えている。
 そう信じたかった。
 この時点では、メリッサはまだ何も知らない。
 遠くで、静かに歯車が回り始めていることも、その歯車が、二人の間に距離を生み出そうとしていることも。ただ、胸の奥に、説明のつかない重さだけが残っていた。

 シオンは、エルダニア王国からの招待状を閉じ、しばらくそのまま指先に残る紙の感触を確かめていた。
 断る理由は、いくらでもある。
 教皇としての執務が立て込んでいること。
 聖域の行事が続いていること。
 すでに他国との会合が入っていること。
 どれも事実であり、正当な理由だった。外交文書としても、問題なく通る。
「……前回の訪問は何だったと言うのだ」
 独り言のように漏れた言葉に、答える者はいない。
 クリスマスシーズンに合わせたアリシア王女の誕生祝賀パーティー。
 あれは、形式上は一夜限りの社交だった。祝意を示し、顔を合わせ、最低限の礼を尽くす。それだけのはずだったが、現実にはそうならなかった。
 王女は、あまりに率直だった。
 若さゆえの無邪気さと可憐さ、王族として育てられた純粋さ、誠実さ。視線も言葉も、好意を隠そうとして隠しきれていなかった。
 恐らく、世間がイメージする“お姫様像”に程よく合致する人物だった。
 国王もまた、穏やかな笑顔の裏で、値踏みをしていた。
 教皇という肩書きの重さ。
 聖域という存在の利用価値。
 シオンは、あの夜を思い返す。
 私的な食事の席で、王女の隣に自然と置かれた席次。周囲の視線が、いつの間にか“観察”に変わっていたこと。
 儀礼ではなく、すでに選択肢の一つとして扱われていた。
(断ることはできる。だが――)
 ここで断れば、エルダニアは理由を探ってくる。そして、その過程で必ず別のものに辿り着く。
 シオンの“個”としての部分。
 教皇としてではなく、“男”としての部分。
 メリッサの顔が、脳裏をよぎる。
 守りたい。
 巻き込みたくない。
 だからこそ、ここで強硬な拒絶はできなかった。
 親善という名目を受け入れ、あくまで公的な立場を貫き、何もないふりをして、すべてをやり過ごす。
 そうすれば、少なくとも彼女の名前が表に出ることはない。
 シオンは、ペンを取った。
 招待を受諾する旨を記す、その文字は、驚くほど静かだった。
 決断は、感情ではなく責任によってなされた。だが、その責任が、誰のためのものだったのか。
 書簡を書き終えたあと、ふと、胸の奥に小さな違和感が残る。
 本当にこれが最善なのだろうか。
 答えは、まだ出ない。
 ただ一つ確かなのは、クリスマスの夜に踏み入れた一歩が、この決断を避けられないものにしてしまった、という事実だった。一度、期待を持たせてしまった以上、沈黙は拒絶よりも、強い意味を持つ。
 シオンは、静かに目を閉じた。
(すまぬ、メリッサ)
 この選択がどこへ繋がるのかを、彼自身もまだ知らなかった。

 エルダニア王国情報局の建物は、窓が少なかった。
 外界との接点を減らすことで、内部の思考は研ぎ澄まされる。ここでは、世界は常に“整理されるべきもの”だった。
 教皇シオンの名が最初に議題へ上がったのは、王女付き顧問会議の、末尾に添えられた一枚の覚書だった。
〈非公式接触が多すぎる〉
 それは、告発でも警告でもない。単なる所感だった。
 だが、国家において“所感”は、芽だ。
 分析官が淡々と読み上げる。
「誕生祝賀パーティーへの出席。国王との私的会食。滞在時間は予定より長い。随行員は最小限」
 誰かが鼻で笑った。
「社交的な人物というだけだろう」
 だが、室長は否定しなかった。肯定もしない。ただ、指先で机を叩く。
 教皇シオンという人物は、奇妙だった。
 徹底して中立を貫きながら、必要な場には必ず現れる。感情を見せず、しかし拒絶もしない。人に好意を抱かせるのに、決定的な隙を与えない。
「完璧すぎる人間は、信用できない」
 室長は、そう言っていた。
 調査は、水面下で始まった。
 聖域そのものには触れない。触れれば、国際問題になる。だから、周辺だけを細部まで洗う。
 生年。学歴。戸籍。医療記録。
 どれも揃っている。だが、揃いすぎている。
「……作られた経歴だな」
 若い分析官が、ぽつりと漏らした。
 その瞬間、部屋の空気が変わった。
 作られた経歴。
 それは、国家が国家に与えるものだ。個人では、決して用意できない。
「ギリシャ政府が関与している可能性は?」
「高い。だが、理由が見えない」
 理由がない支援ほど、危険なものはない。
 行動履歴へと視点が移る。
 公式行事の合間に、ぽっかりと空いた時間。
 年始の日本渡航。
 完全な私的滞在。
「……誰に会っている?」
 答えは、すぐには出なかった。
 だが、データは嘘をつかない。
 航空券の発券時刻、移動経路、同時期に同じ場所へ向かった人物――それらを重ねていくと、一つの点が浮かび上がった。
「19歳。国立大学薬学部薬学科在籍。出身は……アテネ郊外の小さな港町。家族は全員他界。不審死はありません」
 分析官の声には、困惑が滲んでいた。
「価値がなさすぎるな。政治的にも、経済的にも」
 誰もがそう思った。だが室長は、その人物の名前を消さなかった。
「価値がない、というのは――」
 低い声で続ける。
「“利用価値がない”という意味だ。影響力がないとは限らない」
 その人物は特別ではなかった。王族でも、資産家でも、活動家でもない。大学と自宅を往復し、友人とカフェに行き、試験に追われる、ごく普通の女子大学生。
 だからこそ、疑わしかった。
 教皇シオンの人生は、あらゆる場面で常に制限されており、誰かに依存する余地など最初から与えられていない。
 それなのに。
「彼は、彼女の近くでは行動パターンが変わる」
 分析官がグラフを示す。
「滞在時間が延びる。移動が非効率になる。警護を減らす」
 それは恋愛だ、と誰かが言いかけて飲み込んだ。
 国家が扱うには、あまりにも感情的すぎる言葉だったからだ。
「……監視対象に加える」
 室長は、静かに決めた。
「ただし、最下層でいい。刺激するな。気づかせるな」
 女子大学生の名前は、分類フォルダの奥へと収められる。
 重要人物でも、危険人物でもない。
 ただ、“教皇の選択を狂わせうる存在”という、曖昧で残酷なラベルを貼られて。
 その日もメリッサは大学の講義を受け、ノートを取り、友人と談笑していた。
 そして国家は、理解していた。
 この女子大学生は、まだ何者でもない。だからこそ、奪うことも、壊すことも、容易いのだと。

 エルダニア行きの専用機の窓から雲海を見下ろし、シオンは何度目か分からぬ溜息を胸の奥で押し留めた。
 吐き出してしまえば、感情に形を与えてしまいそうだった。
 理由は、分かっている。いや、分かっている“気がしている”。
 嫌な予感と呼ぶにはあまりに理性的で、確信と断じるには証拠が少なすぎた。それでも、心のどこかが、確かに警鐘を鳴らしている。大きな音ではない。ただ、消えないのだ。
 年始に日本で過ごした日々が、不意に脳裏をよぎる。
 メリッサの笑顔。
 意味もなく交わした会話。
 言葉より先に伝わってしまった、温度や重さ。
 あの時間は、確かに幸福だった。疑いようもないほどに。
 そして同時に、己の弱点でもあると確信した。
 メリッサの存在を弱点と言い切ってしまうのは、あまりに冷酷だろうか。だが、教皇という立場に身を置く限り、そう整理せざるを得なかった。
「……」
 目を閉じても思考は止まらず、逆に余計なものが浮かび上がってくる。
 エルダニア王国が、単なる親善のためだけに、これほど丁重な招待を繰り返すはずがない。クリスマスの誕生祝賀パーティーで、すでに必要以上の友好は演出された。形式も、言葉も、十分すぎるほど整っていた。
 それでも、再び呼ばれた。
 理由は一つしか考えられない。
 王家は、聖域を内側へ引き寄せようとしている。そして、そのための媒介として選ばれた存在がいる。
 アリシア王女。
 彼女の名を思い浮かべた瞬間、胸の奥でわずかな違和感が波打った。
 王女個人への感情ではない。ただ、その名が象徴するもの――国家の意思、血統、結びつき。それらすべてが、ひとつの方向を指している。
(……まだだ)
 シオンは心の中で、そう繰り返した。
 断るには早すぎる。
 動くには危険が大きい。
 何より、自分が下手に動けば、守りたいものの存在を相手に暴露するも同然だ。
 陸の向こうにある王国を思いながら、シオンはただ、静かに呼吸を整えた。
 まずは、相手の出方を見る。
 それしか選択肢は残されていなかった。

 エルダニア王宮は、到着した瞬間から、接待が過剰だった。
 赤絨毯は陽光に照らされ、礼砲の音は歓迎というより宣言に近い。
 王族級に準じた待遇。
 形式上は“宗教的最高指導者への敬意”。
 だが、その実態は明白だった。
 これは、婚姻相手に向けられる接遇だ。
 シオンは歩みを進めながら、その事実を一つひとつ、心の中で言語化し確認していく。感情を交えず、ただ現実として受けとめるために。
 国王アンドレアスは、穏やかな笑みを崩さぬままシオンの前に立った。年齢を重ねた者特有の、柔らかく、それでいて逃げ場を与えない微笑。
「再びお越しいただけて光栄です、教皇猊下。我が国は、あなたを“家族”のように迎えたい」
 その言葉に、シオンの内側で静かに警戒心と距離が生まれた。
 家族。
 親しみを装ったその単語ほど、政治的なものはない。
 血縁、結びつき、不可逆性。
 一度受け入れれば、簡単にはほどけない関係だ。
(やはり、来たか)
 確信に近い感触が、胸の奥で形を結び始める。
 視線を横に向けると、アリシア王女がそこにいた。
 淡い色のドレス。
 完璧に整えられた所作。
 王女として求められるすべてを、過不足なく備えた姿。
 だが、その視線は慎重で、探るようで、そして、わずかな戸惑いを含んでいた。
(……彼女もまた、盤上の駒か)
 その認識は、冷淡というより必要な確認だった。
 王女自身がこの縁談を望んでいるかどうかは、もはや主要な問題ではない。
 王家が舵を取り国が動いている。
 個人の意思は、その流れの中において常に副次的だ。たとえ、第一王女であっても。
 アリシア王女と一瞬だけ目が合う。
 シオンは、ゆっくりと一礼した。礼儀正しく、過不足なく、親密さを拒まず、しかし踏み込ませない角度で。
 まずは相手の出方を見るしかない。
 この国が、どこまで踏み込むつもりなのかを知る必要がある。そして同時に、胸の奥に浮かぶ、ひとつの影を意識する。
 ギリシャの空の下で、大学と自宅を往復し、何も知らず、日常を過ごしている彼女。
 ここで一歩でも誤れば、彼女はエルダニア王国の政治的思惑に利用される存在になる。その未来だけは、絶対に許してはならない。
 シオンは微笑を浮かべたまま、王宮の奥へと歩を進めた。
 歓迎の拍手が、どこか遠くで鳴っていた。

 端的に言えば、アリシア王女はシオンに恋をしていた。
 それは計算ではなく、策でもなく、自然に芽吹いた感情だった。
 清楚で、上品で、慎ましい。
 昨今では聖域の女官の中ですら、ほとんど見かけなくなった種類の在り方。
 声を荒げることも、感情を露わにすることもない。
 笑みは控えめで、視線は柔らかい。時折伏し目がちになる瞳は、世間の悪意や人の暗部を見たことがないのでは、と思うほど澄んでいた。
 二十一歳という年齢を思えば、どこか幼さが残っているとも言えるのだろうが、それは未熟というより、守られてきた結果だった。
 メリッサが野に咲く花だとすれば、アリシア王女は、温室で丹念に育てられた観賞用の花だ。雨風に打たれたこともなければ、踏み荒らされる痛みも知らない。ただ、それは欠点ではない。むしろ、王女として正しく育てられた証だ。どちらが良い、という話ではない。
 シオンは、そう自分に言い聞かせる。
 比べること自体が、すでに残酷だと知っているからだ。だが、事実として、アリシア王女の持つその純粋さでは、教皇妃は絶対に務まらない。
 聖域は、清らかな場所ではない。
 神に仕えるという名のもとに、欲望も、恐怖も、暴力も、死も、すべてが集積する場所だ。
 理不尽に耐え、沈黙を選び、時には冷酷な決断を下さねばならない。
 女神の下に集う者は、美しいだけでは足りない。
 強くなければ、生き残れない。聖闘士だけでなく、女官でさえそうなのだ。そのせいなのか、彼女たちは、シオンでさえ時折ぎょっとするほど辛辣で厳格だ。
 アリシア王女は、その意味で、あまりに“守られすぎて”いた。
 それでも、彼女の視線がふとシオンを追う瞬間がある。
 誰にも気づかれないほどの一瞬。
 そこに宿るのは、期待でも野心でもなく、ただの憧れだ。
 この人のそばにいたい。
 この人に選ばれたら、どんなに幸せだろう。
 その想いの無垢さが、かえって胸に重くのしかかる。それは、メリッサに対してだけではない。アリシア王女に対しても、同じだった。
 国は、王女を“切り札”として差し出すだろう。
 聖域を縁戚に引き込むための、最も美しく、最も無難な手段として。だが、シオンには分かっている。この温室の花は、聖域の風に晒されれば、長くは持たない。そして同時に、野に咲く花をここに連れてくることもできない。
 王宮の回廊を歩きながら、シオンは自分がどこにも進めなくなっていることを自覚していた。
 誰も傷つけずに、誰も利用せずに、この局面を抜ける道はまだ、見えない。
 ただ一つ確かなのは。
 この静かな恋心すらも、やがて政治に回収されていく、という残酷な事実だった。
 その重さを、アリシア王女自身はまだ、知らない。

 親善行事の主眼は、王家と政財界の要人たちとの顔合わせに置かれていた。
 形式ばった挨拶。
 過剰に整えられた微笑。
 互いの立場を測り合う、言葉にならない探り。
 前回の訪問――王女の誕生祝賀パーティーは、あくまで社交の場だった。招かれていたのは同世代の貴族子弟や、王家と縁のある青年たちが中心で、国の中枢を担う者たちとは、今回が実質的な初対面になる。
 だからこそ、彼らは明確だった。最初から“目的”を隠そうともしない。
 親善の宴が始まると、国王アンドレアスの意向を忖度した要人たちが、静かに動き出す。
「教皇猊下、こちらへ。王女殿下もぜひ」
 席順は巧妙に組まれていた。偶然を装いながら、必ず隣り合う位置。会話が途切れれば、すかさず話題を振る。
「王女殿下は、古代ギリシャ史に大変ご興味をお持ちで」
「教皇猊下のお話は、殿下にとって何よりの学びでしょう」
 それは“紹介”ではなく接続だ。二人を、ひとつの物語に縫い合わせようとする、露骨な意図が見える。
 アリシア王女は、その流れに逆らえず、控えめに微笑む。
 シオンの言葉一つ一つに、真剣に耳を傾け、視線を逸らすこともなく、頷きを返す。
 誠実で、真っ直ぐで、それが危うい。
 シオンは、王女のそうした反応に、胸の奥で静かに息を詰めた。彼女自身が、この場の“意味”をどこまで理解しているのか、分からない。
 周囲の要人たちは、満足げだった。
 二人が並んでいる。
 言葉を交わしている。
 それだけで十分だった。
(……これが、彼らの望む“親善”か)
 グラスを傾ける手に、わずかな重みを感じながら、シオンは思う。
 この宴は交流の場ではない。布石だ、と。
 やがて、写真を撮ろうという声が誰からともなく上がる。公式記録のためと称しながら、二人の距離が最も近くなる瞬間を、確実に切り取るための段取りだ。
 シオンは理解していた。
 この国は、言葉より先に“絵”を作る。
 事実よりも先に、“印象”を流布させる。
 一度でも、その印象が世に出れば、否定は常に後手に回る。
 宴の喧騒の中で、シオンは、ふと日本での時間を思い出していた。肩を並べて歩いた道。沈黙すら心地よかった夜。政治とも思惑とも無縁だった、あの確かな温度。
 あれを、ここへ持ち込むわけにはいかない。今は、耐えるしかない。笑みを崩さず距離を保ちながら、相手の出方を見極める。だが、その慎重ささえも、この国にとっては“好意”として解釈される危うさを、シオンはすでに察していた。
 親善の宴は、静かに、だが確実に次の一手へと進んでいた。

 親善の宴の喧騒から少し外れた回廊で、シオンとアリシア王女は並んで歩いていた。
 楽団の音は遠く、磨かれた床に二人の足音だけが響いている。この配置もまた、偶然ではないのだろうと、シオンは思う。
「……教皇猊下」
 王女が、少しだけ声を落として名を呼んだ。その呼び方は、公式のものだと分かっていながら、どこか距離を詰めたいという気配を孕んでいる。
「前回、誕生祝賀の折に……覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんです」
 シオンは即答した。
 あの夜、王女が見せた年相応の無邪気な笑顔は、今も記憶に新しい。
「チェスをご一緒に……それから、ビリヤードのご指南もいただいて。あんなに時間が早く過ぎた夜は初めてでした。とても……楽しくて、貴重なひとときでした」
 王女は、懐かしむように目を伏せる。
 その横顔は、王女としての気品を纏いながらも、どこまでも一人の若い女性のものだった。
「……猊下は、不思議なお方です」
「そうでしょうか」
「ええ。とてもお優しいのに、どこか遠いところにいらっしゃるようで……」
 言葉を選びながら、王女は続ける。
「ですが、あの夜は違いました。私にとっては……とても、近くに感じられたのです」
 それは、告白に限りなく近い言葉だった。だが、王女自身は、それを恋と断じる勇気をまだ持っていない。ただ、胸に残った温度を、確かめるように口にしているだけだ。
 シオンは、足を止めた。
「殿下」
 その声音は穏やかでありながら、二人の関係に一線を引くものだった。
「殿下がそう感じられたのであれば、それは私の振る舞いが、誤解を招いたのでしょう」
 王女が、驚いたように顔を上げる。
「誤解……?」
「私は、殿下のお話を伺い、共に遊び、語らう時間を大切なものとして過ごしました。ですが、それは――」
 シオンは、一瞬だけ言葉を切る。王女の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
「それ以上の意味を持たせてはならない立場に、私はおります」
 回廊に、沈黙が落ちた。
 王女はすぐには理解できなかった。否定されたわけでも、拒絶されたわけでもない。それでも、確かに扉が閉じられた感覚だけが胸に残った。
「……それは、教皇というお立場だからですか?」
 震えないように、声を整えて問いかける。
「それもあります」
 シオンは、正直に答えた。だが、それだけではない。
「そして、個人的な理由も」
 王女の指先が、わずかに強く組まれる。
「……お聞きしても、よろしいのでしょうか」
 その問いは、踏み込みたいという願いと、踏み込めば壊れてしまうかもしれないという恐れの両方を含んでいた。
 シオンは、首を横に振る。
「申し訳ありません。それは、殿下がお背負いになる必要のないものです」
 優しい拒絶は残酷でもあった。
 王女は、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。
「……分かりました」
 その言葉は、王女としての矜持だった。
 涙を見せることも、声を荒らげることもない。
「ですが……一つだけ、お許しいただけますか」
「何でしょう」
「猊下を尊敬し、慕う気持ちまで捨てなければならないわけではありませんよね」
 その問いは、恋を名乗らない代わりに、心に残る余白を求めるものだった。
 シオンは、ゆっくりと頷いた。
「ええ。それは、誰にも奪えません」
 その答えに、王女はかすかに笑った。
 嬉しさではなく、納得のための微笑だった。
 回廊の向こうから、再び人の気配が近づいてくる。
 親善の宴がまだ続いている中、二人は王女と教皇という仮面を再び身に纏い、歩き出す。
 シオンの胸には、ひとつの確信が重く沈んでいた。
 この国は、もう引き返さない。
 そして、この純粋な想いさえいずれ“材料”として使われる。
 それだけは決して許してはならない、と。

 それは、偶然を装った必然だった。
 王宮内の回廊。
 晩餐後の小休止。
 人の流れが一旦緩む時間帯。
 シオンが王女に言葉をかけ、王女が少し驚いたように微笑み、視線が交わり、距離がほんのわずかに近づく。
 ただそれだけの瞬間。だが、その“ただそれだけ”を、エルダニアは何度も繰り返させた。
 立ち位置。
 照明。
 背景に映り込む王家の紋章。
 王女の手がシオンの袖に触れる角度。そして、撮影者の配置。すべてが、計算され尽くしていた。
 連続写真は一枚一枚を見れば、何の問題もない。
 礼節を保った会話。
 距離を守った所作。
 宗教的最高指導者と王女として、許容範囲の接近。
 だが、それを“連続”で並べたとき、そこには親密さという“物語”が立ち上がる。
 目を伏せて笑う王女と穏やかに見下ろすシオン。まるで、他者を寄せつけない二人の世界が広がっているように見える。
 どれも事実だ。
 どれも演出ではない。
 だからこそ厄介だった。
 解析にかけても合成の痕跡は出ない。
 光源も影も自然で、データ上は“本物”としか判定されない。真実を嘘の文脈に置いただけだ。それが、この国のやり方だった。そして、狙いは一つではない。
 聖域への牽制。
 国際世論への布石。
 そして、最も重要で、最も残酷な目的。
 まだ未確定だが、教皇と個人的に親密な関係にある可能性が高い特定個人への警告。彼女は取るに足らない一般人で、直接刃を向ける必要はない。やり方は実に簡単だ。彼女が自分で見つけてしまえばいい。
 自分が知らない場所で、自分が知らない立場の女性と、自分が信じていた相手が、“特別に親しくしている”ように見える証拠を。
 それだけで、十分だった。
 エルダニアは、知っていた。人を最も深く揺さぶるのは、いつでも“信じていた日常が、静かに裏切られる瞬間”だということを。
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