Eine Kleine Ⅲ
カーテンの隙間から射し込む朝の光が、部屋の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
今日も晴天らしい、とシオンは思った。光の質で分かる。柔らかく、澄んでいる。
腕の中で、メリッサはまだ眠っていた。
呼吸は穏やかで、夜の名残を留めた体温が、確かにここにある。
昨夜。
胸の奥に、微かな痛みを伴うほどの記憶がよみがえる。
確かめ合うことを、やめられなかった。
離れれば不安になり、触れれば安心してまた抱き寄せる。その繰り返しだった。
(……少し、無理をさせただろうか)
理性が、今になって遅れてやって来る。
回数や時間の問題ではない。彼女の心と身体に、負担を残してはいないか――その一点だけが気に掛かった。
だが同時に、否定できない事実もある。
二人とも、止まらなかった。
恐れからではなく、渇きからでもなく、ただ「共にいたい」という思いだけで。
シオンは、眠るメリッサの額に、そっと口づけた。
起こさぬよう、触れるだけの距離で。
(……もう、独りにはしない)
それは昨夜の延長ではなく、これからの誓いだった。
欲情ではなく、心からの愛情だった。
彼女が目を覚ましたとき、最初に見るものが不安であってはならない。安心で、穏やかで、今日へとつながる朝でなければならない。
シオンは腕の力をわずかに緩め、再び目を閉じる。
もう少しだけ、この静けさの中にいようと思った。
夜は終わった。だが、二人で迎える朝はこれが始まりだった。
「……おはよう、メリッサ」
掠れた声でそう呟くと、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。腕の中で身じろぎした彼女は、まだ半分眠っているようで、瞼を重たげに瞬かせながら、変わらぬ調子でその名を呼んだ。
「シオン様……」
その呼び方が、今朝は特別、胸に沁みた。
かつては、自然だった呼ばれ方。
一族の中で育ち、周囲の大人たちからもそう呼ばれていた名。けれど、教皇となり、聖域を背負うようになってからは、その名は次第に遠ざけられていった。
呼ばれるのは「猊下」。
呼ばれるべきは「教皇」。
いつしか「シオン」という個人は、役割の奥に押し込められ、器だけが歩いているような感覚に慣れてしまっていた。
それでも――。
彼女は、変わらず呼ぶ。敬意を含みながらも、距離をつくらない声で。
役職ではなく、責務でもなく、ただの「私」を。
シオンは、メリッサの背に腕を回し、もう一度、確かめるように抱き寄せた。朝の光の中で、彼女の体温はやさしく、現実的だった。
「……よく眠れたか?」
問いかける声は、教皇のそれではなく、恋人を気遣う一人の男の声だった。
彼女がここにいて、自分を呼んでいる。
それだけで、昨夜のすべてが、間違いではなかったと分かる。
「シオン」は、いなくなっていなかった。ただ、呼ばれるのを待っていただけだったのだ。
そう思いながら、彼は静かに目を閉じた。
朝の光は、もう昨夜の余韻を語らなかった。カーテン越しに差し込む陽射しは、等しく、現実の輪郭を整えていった。
この日は、帰国の日だった。
ベッドの上で過ごす時間は長くはなかった。けれど、急ぐ理由もなかった。
二人は言葉少なに身支度をし、互いの動きを邪魔しない距離を保ちながら、同じ空間にいることを確かめ合っていた。
不思議と、胸は騒がなかった。
別れの前触れにありがちな切なさは、まだ遠くにあった。
午前中は、ホテル近くを少しだけ散歩した。観光名所でもなく、特別な店に入るでもない。カフェで温かい飲み物を頼み、窓の外を眺め、行き交う人々を眺める。そんな、どこにでもある時間。
メリッサは、昨日までよりも落ち着いていた。
身振りは少し控えめで、言葉をゆっくり選んでいた。
一夜で何かが変わったというよりも、戻る準備がすでに始まっているようだった。
一方でシオンもまた、無意識に背すじが整っていた。声の調子は穏やかなままでも、決断を下す者としての威厳が戻ってきている。それは冷たさではなく、責務を引き受ける覚悟の気配だった。
昼過ぎ、空港へ向かう準備を始める。
スーツケースに収めるのは、衣服と、いくつかの土産と、そして――共有された一枚の写真。
雷門の前で撮ったあれだ。そこには、教皇も、元冥闘士も、肩書きは何一つ写っていない。ただ、二人の若者が並んでいるだけだ。
集合は19時30分、羽田空港出発ロビー。同じ便だが、座席は離れている。シオンはファーストクラス、メリッサはビジネスクラス。
その事実を、二人は口にしなかった。
保安検査場の前で足が止まる。ここから先は、並んで歩けない。
「……じゃあ、また」
「メリッサ」
踵を返そうとしたメリッサを、シオンが呼び止めた。
「これをそなたに……」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。
「これは?」
「日本橋で求めたものだ。そなたに、と思って選んだ」
「あたしに?ありがとう。見てもいい?」
「ああ」
紙袋の中の包みは、メリッサの掌に乗るくらい小さな物だった。
「わ……なんか、良い香り」
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。清涼感のある甘い香りが鼻腔を通り抜ける。
「シオン様の香りみたいだね」
「白檀がベースになっている。もしそなたの好みに合わないようなら、捨て置いてくれて構わぬ」
「え、なんで?これ、シオン様の香りでしょ?ビャクダン…って言うの?」
メリッサは、まだ匂いを嗅いでいる。
「はぁ……良い香り……これ、凄く好き」
うっとりした声に、シオンの口元が綻ぶ。
「そうか、それなら良かった」
シオンは、子犬のようにくんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいるメリッサの頭に手を乗せた。
「思うように会えぬと思うが……その匂い袋を見たら、時々で良い。私を思い出してほしい」
「え、何言ってるの?あたしの頭の中は、四六時中シオン様の事で一杯だよ?」
「それは……嬉しいな」
「ほんと?やった!じゃあ、これからもシオン様の事、ずっと想ってても良い?」
「ああ、もちろんだ」
誰かに想われるというのは、これほどまでに幸福度を高めてくれるものだったのか。
長らく忘れていた、或いはこれまで知らなかった感覚に、シオンは目頭が熱くなるのを感じた。
その感情をメリッサに悟られないよう、彼女から視線を逸らした。
「無理はするな。向こうに戻ったら、忙しくなる」
「シオン様こそ」
二人の声は落ち着いていた。寂しさはある。けれど、不安ではない。
抱き合うことも、手を取ることもなかった。
それで、十分だった。
飛行機は、やがて日本を離れる。雲の上で、二人は別々の席に座り、それぞれの空を見ていた。
ギリシャへ戻れば、シオンは再び聖域教皇として名を呼ばれ、メリッサは大学へ戻り、学生としての忙しさに身を置く。
けれど、何かが確かに変わっていた。
孤独に戻るのではない。
日常へ戻るだけだ。
その日常の奥に、呼ばれる名があり、帰る場所があり、そして、思い出す夜がある。
それだけで、人は強くなれる。
飛行機の窓の外で、地中海の光が待っている。
二人はまだ、同じ未来を見ていた。
今日も晴天らしい、とシオンは思った。光の質で分かる。柔らかく、澄んでいる。
腕の中で、メリッサはまだ眠っていた。
呼吸は穏やかで、夜の名残を留めた体温が、確かにここにある。
昨夜。
胸の奥に、微かな痛みを伴うほどの記憶がよみがえる。
確かめ合うことを、やめられなかった。
離れれば不安になり、触れれば安心してまた抱き寄せる。その繰り返しだった。
(……少し、無理をさせただろうか)
理性が、今になって遅れてやって来る。
回数や時間の問題ではない。彼女の心と身体に、負担を残してはいないか――その一点だけが気に掛かった。
だが同時に、否定できない事実もある。
二人とも、止まらなかった。
恐れからではなく、渇きからでもなく、ただ「共にいたい」という思いだけで。
シオンは、眠るメリッサの額に、そっと口づけた。
起こさぬよう、触れるだけの距離で。
(……もう、独りにはしない)
それは昨夜の延長ではなく、これからの誓いだった。
欲情ではなく、心からの愛情だった。
彼女が目を覚ましたとき、最初に見るものが不安であってはならない。安心で、穏やかで、今日へとつながる朝でなければならない。
シオンは腕の力をわずかに緩め、再び目を閉じる。
もう少しだけ、この静けさの中にいようと思った。
夜は終わった。だが、二人で迎える朝はこれが始まりだった。
「……おはよう、メリッサ」
掠れた声でそう呟くと、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。腕の中で身じろぎした彼女は、まだ半分眠っているようで、瞼を重たげに瞬かせながら、変わらぬ調子でその名を呼んだ。
「シオン様……」
その呼び方が、今朝は特別、胸に沁みた。
かつては、自然だった呼ばれ方。
一族の中で育ち、周囲の大人たちからもそう呼ばれていた名。けれど、教皇となり、聖域を背負うようになってからは、その名は次第に遠ざけられていった。
呼ばれるのは「猊下」。
呼ばれるべきは「教皇」。
いつしか「シオン」という個人は、役割の奥に押し込められ、器だけが歩いているような感覚に慣れてしまっていた。
それでも――。
彼女は、変わらず呼ぶ。敬意を含みながらも、距離をつくらない声で。
役職ではなく、責務でもなく、ただの「私」を。
シオンは、メリッサの背に腕を回し、もう一度、確かめるように抱き寄せた。朝の光の中で、彼女の体温はやさしく、現実的だった。
「……よく眠れたか?」
問いかける声は、教皇のそれではなく、恋人を気遣う一人の男の声だった。
彼女がここにいて、自分を呼んでいる。
それだけで、昨夜のすべてが、間違いではなかったと分かる。
「シオン」は、いなくなっていなかった。ただ、呼ばれるのを待っていただけだったのだ。
そう思いながら、彼は静かに目を閉じた。
朝の光は、もう昨夜の余韻を語らなかった。カーテン越しに差し込む陽射しは、等しく、現実の輪郭を整えていった。
この日は、帰国の日だった。
ベッドの上で過ごす時間は長くはなかった。けれど、急ぐ理由もなかった。
二人は言葉少なに身支度をし、互いの動きを邪魔しない距離を保ちながら、同じ空間にいることを確かめ合っていた。
不思議と、胸は騒がなかった。
別れの前触れにありがちな切なさは、まだ遠くにあった。
午前中は、ホテル近くを少しだけ散歩した。観光名所でもなく、特別な店に入るでもない。カフェで温かい飲み物を頼み、窓の外を眺め、行き交う人々を眺める。そんな、どこにでもある時間。
メリッサは、昨日までよりも落ち着いていた。
身振りは少し控えめで、言葉をゆっくり選んでいた。
一夜で何かが変わったというよりも、戻る準備がすでに始まっているようだった。
一方でシオンもまた、無意識に背すじが整っていた。声の調子は穏やかなままでも、決断を下す者としての威厳が戻ってきている。それは冷たさではなく、責務を引き受ける覚悟の気配だった。
昼過ぎ、空港へ向かう準備を始める。
スーツケースに収めるのは、衣服と、いくつかの土産と、そして――共有された一枚の写真。
雷門の前で撮ったあれだ。そこには、教皇も、元冥闘士も、肩書きは何一つ写っていない。ただ、二人の若者が並んでいるだけだ。
集合は19時30分、羽田空港出発ロビー。同じ便だが、座席は離れている。シオンはファーストクラス、メリッサはビジネスクラス。
その事実を、二人は口にしなかった。
保安検査場の前で足が止まる。ここから先は、並んで歩けない。
「……じゃあ、また」
「メリッサ」
踵を返そうとしたメリッサを、シオンが呼び止めた。
「これをそなたに……」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。
「これは?」
「日本橋で求めたものだ。そなたに、と思って選んだ」
「あたしに?ありがとう。見てもいい?」
「ああ」
紙袋の中の包みは、メリッサの掌に乗るくらい小さな物だった。
「わ……なんか、良い香り」
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。清涼感のある甘い香りが鼻腔を通り抜ける。
「シオン様の香りみたいだね」
「白檀がベースになっている。もしそなたの好みに合わないようなら、捨て置いてくれて構わぬ」
「え、なんで?これ、シオン様の香りでしょ?ビャクダン…って言うの?」
メリッサは、まだ匂いを嗅いでいる。
「はぁ……良い香り……これ、凄く好き」
うっとりした声に、シオンの口元が綻ぶ。
「そうか、それなら良かった」
シオンは、子犬のようにくんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいるメリッサの頭に手を乗せた。
「思うように会えぬと思うが……その匂い袋を見たら、時々で良い。私を思い出してほしい」
「え、何言ってるの?あたしの頭の中は、四六時中シオン様の事で一杯だよ?」
「それは……嬉しいな」
「ほんと?やった!じゃあ、これからもシオン様の事、ずっと想ってても良い?」
「ああ、もちろんだ」
誰かに想われるというのは、これほどまでに幸福度を高めてくれるものだったのか。
長らく忘れていた、或いはこれまで知らなかった感覚に、シオンは目頭が熱くなるのを感じた。
その感情をメリッサに悟られないよう、彼女から視線を逸らした。
「無理はするな。向こうに戻ったら、忙しくなる」
「シオン様こそ」
二人の声は落ち着いていた。寂しさはある。けれど、不安ではない。
抱き合うことも、手を取ることもなかった。
それで、十分だった。
飛行機は、やがて日本を離れる。雲の上で、二人は別々の席に座り、それぞれの空を見ていた。
ギリシャへ戻れば、シオンは再び聖域教皇として名を呼ばれ、メリッサは大学へ戻り、学生としての忙しさに身を置く。
けれど、何かが確かに変わっていた。
孤独に戻るのではない。
日常へ戻るだけだ。
その日常の奥に、呼ばれる名があり、帰る場所があり、そして、思い出す夜がある。
それだけで、人は強くなれる。
飛行機の窓の外で、地中海の光が待っている。
二人はまだ、同じ未来を見ていた。
