Eine Kleine Ⅲ
境内の空気は、仲見世の賑わいとはまるで別のものだった。人の気配はあるのに、ざわめきが届かない。真冬の白い光が、砂利と石畳に静かに落ちていた。
メリッサは、授与所の前で足を止める。色とりどりのお守りが、規則正しく並んでいる。風に揺れる小さな房が、かすかな音を立てた。
「シオン様、あそこは?」
問いかける声は、自然と低くなっていた。
「授与所と言ってな。お守りやお札などをいただく所だ。俗に言えば売店だが、意味合いはまるで違う」
「へぇ……見ても良い?」
目を輝かせるメリッサに、シオンはすぐには頷かなかった。
「参拝してからだ。順序がある」
「そうなんだ。じゃあ、お祈りしに行こ!」
返事を待たずに歩き出す背中に、シオンは微笑みついていく。
メリッサの足取りは軽く、振袖の袂が小さく揺れるたび、さっきまでの人混みが嘘のように遠ざかっていった。
拝殿の前に立つと、メリッサは彼の動きを盗み見るように真似る。
「あれ?手を叩かないの?」
「ん?ああ、神社と寺では作法が異なるのだ。ここは寺だから手は叩かぬよ」
「そうなんだ……あとで調べよ」
手を合わせ、頭を下げる。その所作はまだぎこちないが、敬意が込められている。
(何を願えばいいんだろう)
そう思った瞬間、不思議と浮かんだのは、具体的な言葉ではなかった。
ただ、この時間が、長く続けばいい。
それだけだった。
参拝を終えて振り返ると、思わず口からこぼれる。
「お寺って、楽しいね!美味しいものも食べられるし」
にこやかにシオンを見上げる。
「メリッサ」
シオンの声は穏やかだが、きちんとした重みがあった。
「あくまでも、ここは信仰の場だ。そのことを忘れてはならぬ」
「あ……はい……ごめんなさい」
俯いた彼女の横顔を見て、シオンはそれ以上、言葉を重ねなかった。代わりに、ほんのわずか、歩調を緩める。
厳かさと、開放感と。
相反するものが同時に胸に満ちて、メリッサは改めて境内を見渡した。
知らない場所。
初めて知る習慣。
それでも、隣にいる人が同じ空間を共有しているというだけで、不思議と落ち着いていられる。
「今度こそ、授与所だな」
その一言に、彼女は小さく頷いた。次は、はしゃがないように。
授与所にさしかかったとき、メリッサはふと足を止めた。
木の箱の前に置かれた円筒と、その奥に並ぶ小さな引き出し。
仕組みが分からないまま、じっと眺めている。
「……あの筒は、何をするものなの?」
シオンは彼女の視線の先を見て、穏やかに答えた。
「御神籤だ。運勢を見るものだな」
「……運勢」
聞き慣れない言葉を、口の中でそっとなぞる。少し迷ってから、メリッサは控えめに視線を上げた。
「……やってみても、いい?」
「構わぬ。百円を納めて、筒を振る。棒が一本出るまでな」
教えられるまま、硬貨を静かに入れ、両手で円筒を持つ。何度か振ると、からり、と乾いた音を立てて、一本の棒が転がり出た。
「出たよ」
先端に書かれた番号を確かめ、その数字の引き出しを開ける。中に収められていた白い紙を一枚、そっと引き抜いた。
紙に書かれている文字。英文もある。文字を追うメリッサの表情が徐々に翳りを帯びていく。全て読み終えた彼女はその場に立ち尽くしていた。
風に揺れた御神籤の紙がはたはたと音を立てる。
「……凶?」
文字を追うように、もう一度、ゆっくり読む。
――【結婚、付き合い、旅行】いずれも、悪い結果になるでしょう。
意味が頭では理解できても、心が追いつかない。
楽しい気持ちで引いたはずなのに、どうしてこんな意地悪な言葉が並んでいるのだろう。喉の奥が急に詰まった。
「……やだ……」
声に出した途端、視界が滲んだ。涙は予告もなく落ちてくる。
「どうして……」
頬を伝って落ちる雫を止めることもできず、メリッサは御神籤を額に押し当てた。
結婚。
付き合い。
旅行。
どれも今のメリッサとシオンを象徴するような言葉だ。それを全部否定されたら、一体何が残るというのだろう。
「メリッサ」
シオンが名を呼ぶ。
低く、落ち着いた声だった。
彼は、自分の手元の御神籤――「吉」と書かれたそれを、すっと畳むと、メリッサの前に立った。
「御神籤はな、未来を決めるものではない」
シオンは袂からティッシュを取り出すと、メリッサの頬を伝う涙にそっと押し当てた。
「戒めだ。気をつけよ、という天からの忠告に過ぎぬ」
「でも……」
メリッサは首を振る。
「だって……全部……」
言葉が続かない。胸の奥で、恐れが形を持ち始めていた。自分が望んでいるものは、どれも叶ってはいけないのではないか、という不安。
シオンは、少しだけ膝を折り、視線を合わせた。
「凶が出たからといって、不幸になるわけではない」
「むしろ、慎めば良いということだ。心を配り、足元を確かめ、相手を大切にせよ、と」
そう言ってから、ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「……私は、そなたと共に歩むことが、悪い結果になるとは思っていない」
優しい声だった。
メリッサは、涙で曇った目でシオンを見る。その表情は、いつもと変わらない。落ち着いていて、揺らぎがない。
「……本当?」
「ああ」
短い返事。
それだけで、胸に溜まっていたものが、少しずつ形を溶かしていく。
「御神籤は、結ぶ場所も用意されている。凶は、境内に結んで帰るものだ。持ち帰らぬ」
そう言って、彼は御神籤を受け取るよう、手を差し出した。メリッサは、しばらく迷ってから、その紙を渡した。
二人で並んで、決められた場所に結ぶ。白い紙が、静かに風に揺れた。
「……これで良し。もう泣くな」
シオンの言葉に、メリッサは小さく頷く。涙で濡れた目で、もう一度、境内を見渡すと、不思議と、さっきよりも空気が澄んでいる気がした。
悪い言葉は、ここに置いていく。
少なくとも、そう思える程度には、心が落ち着いていた。
「さあ、御守を買おうか。今度は安心して良いぞ」
メリッサは、まだ赤い目のまま小さく頷いた。
授与所の前は、思ったよりも賑やかだった。小さな木札や色とりどりの布製の御守が、整然と並んでいる。その脇には、外国人観光客向けの説明書き。英語や中国語で、それぞれの意味が丁寧に書かれていた。
メリッサは、ひとつひとつ指でなぞるように見て回った。
「ええと……これは、健康。これは、恋愛……」
その横で、シオンは静かに厄除けの御守を手に取っていた。黒地に金糸で模様が施された、落ち着いたものだ。
「シオン様には、厄なんて寄ってこなそう」
何気なく言うと、彼はわずかに首を振る。
「そうでもないぞ。巡りが悪いと感じる時もある」
「そうなの?」
意外そうに目を丸くする。
「ああ。そなたと予定が合わぬ時とかな」
一瞬、理解が追いつかず、メリッサはきょとんとした。それから、遅れて意味を理解した。
「……それ、厄とは言わないでしょ……」
思わず笑ってしまう。今度は自分の手元の御守が目に入った。
「……あ」
学業成就。
努力が実を結ぶ、と書かれている。
「そしたら、あたしたちのお守り、矛盾しちゃうね」
「矛盾?」
「だって、シオン様は厄除けで、あたしは学業成就でしょ。もし、あたしの勉強が忙しくなって会えなくなったら……」
シオンは少し考えるように顎に手を当て、それから、どこか楽しそうに言った。
「では、どちらの御守がより強いのか。勝負だな」
「だめだめ」
メリッサは即座に否定する。
「勝負じゃなくて、総取りしようよ」
「総取りか……」
その言葉を、ゆっくり反芻してから。
「では、一年後に評価しようか」
「一年後?」
「ああ。この御守が、どれほど力を発揮したか」
メリッサは一瞬考えてから、にっこり笑った。
「うん!」
二人はそれぞれ御守を選び、巫女から受け取る。
小さな布袋は、手のひらに収まるほどの大きさしかないのに、不思議と確かな存在感があった。
一年後。
その言葉が、胸の奥で静かに反響する。
未来はまだ形を持たない。
けれど、今はただ、こうして並んで笑っていられることが、何よりの御利益のように思えた。
浅草寺の境内。
人の流れが途切れない中で、メリッサは「お手洗い、行ってくるね」と軽く手を振り、人波の向こうへ消えていった。
その背中を見送ったあと、シオンはほんの一瞬だけ、周囲の気配を研ぎ澄ます。
危険はない。
それでも、彼女が視界から消える時間は、できる限り短くしたかった。
時刻は正午。
頭の片隅で考えていた問題が、はっきりと形を取る。昼食をどうするか。
正月明けの浅草でどの店も混雑は避けられない。
着物姿のメリッサを、行列に長時間立たせるわけにはいかない。
シオンは、人混みから一歩外れ、柱の影でスマートフォンを取り出した。
通話が繋がる。
「辰巳殿、私だ」
低く、簡潔な声。
『いかがなさいましたでしょうか』
「浅草寺周辺で昼食を摂れる店を押さえてほしい」
要件だけを伝える。理由も状況説明も不要だと、互いに分かっている。
『かしこまりました。5分ほどお時間を頂戴いたします』
「頼む」
通話は、それで終わった。
スマートフォンを仕舞い、シオンは再び境内を見渡す。
観光客の笑い声。
シャッター音。
線香の匂い。
――城戸家やグラード財団の名を使うことに、ためらいがないわけではなかった。だが、それは権威を誇示するためではない。メリッサが少しでも楽に、穏やかに過ごせるようにするためだ。
やがて、再び着信。
『お近くの老舗天麩羅屋を確保いたしました。個室ではありませんが、席は問題ございません』
「十分だ。礼を言う」
『どういたしまして』
通話を終えた直後、視界の端に見慣れた桜色の振袖が戻ってくる。
「シオン様、待たせた?」
「いや」
そう答えながら、シオンはほんのわずかに、肩の力を抜いた。
何事もなかったように歩き出す。
メリッサには必要以上のことは言わない。もし彼女が知ったら「職権濫用だよ」と怒るに違いない。しかし、そうやって正論を振りかざしてぷりぷりと怒る彼女を見てみたいとも思うのだ。
雷門の前は、相変わらず人で溢れていた。
巨大な提灯の赤が、冬の澄んだ空気の中でもひときわ鮮やかに浮かび上がっている。
「……一枚だけな」
そう言って、シオンは立ち止まった。
メリッサは一瞬、聞き返そうとして言葉を飲み込む。理由を問うより先に、その声音が、いつもとは少し違うことに気づいたからだ。
二人は並んで立つ。
シオンは観光客にスマートフォンを託し、簡単に事情を説明する。
シャッターを切るまでの、ほんの数秒。その間、シオンの肩はわずかに緊張していた。
――本来なら、絶対にあり得ない行為だ。
聖域教皇という立場にある以上、個人的な写真は残さない。ましてや、誰かと寄り添う姿など、公に残る可能性を考えれば、避けるべきものだ。
それでも。
シャッターが切られる直前、メリッサが小さく微笑んだ。慣れない振袖で、少し緊張した顔で、それでも確かに「今」を楽しんでいる表情。
その瞬間、シオンの中で、理由ははっきりした形を取った。
――記録ではなく、証として残したかったのだ。
聖域の教皇ではない自分。
神話でも、象徴でも、役割でもない。
ただ一人の男として、彼女の隣に立っていた時間。
この旅が終われば、また立場に戻る。
守るべき秩序も、距離も、沈黙も、すべて元に戻るだろう。だが、この一枚だけは違う。誰に見せるためでもなく、未来に誇るためでもない。
もし、心が揺らいだ時。
もし、自分が選んだ道を疑いそうになった時。
この写真を見れば思い出せる。
雷門の前で、冬の朝の光の中、彼女と並んで立った事実を。確かに自分はここにいて、彼女を想っていたということを。
「はい、撮りますよー」
声がかかり、シャッターが切られた。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬は、シオンにとって、どんな聖域の記録よりも重いものだった。
「……ありがとう」
スマートフォンを受け取りながら、シオンは静かに言った。
メリッサは理由を知らない。ただ、写真を覗き込みながら、嬉しそうに目を細める。
「記念だね」
「ああ」
その一言に、すべてを込めて。
シオンは再び歩き出す。
雷門を背に、賑やかな浅草の通りへ。
一枚だけ。
それで、十分だった。
スマートフォンの画面に映る二人の姿を、メリッサは何度も指でなぞるように見つめていた。雷門の赤、その下で並ぶ自分たち。少し緊張した自分と、いつもより柔らかな表情のシオン。
「……共有、しても良いか?」
そう尋ねられて、一瞬きょとんとしたあと、メリッサの顔がぱっと明るくなる。
「もちろん!シオン様との写真、大事にするね」
その言葉に、シオンは小さく頷くだけだったが、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。残ることを恐れていたはずなのに、こうして“残る”ことを喜ばれると、不思議と後悔はなかった。
次の目的地へ向かう前に、二人は浅草の老舗天麩羅屋に立ち寄った。暖簾は色褪せているのに、そこに刻まれた時間だけは、確かな重みを持っている。
店内は静かで、観光客の喧騒が嘘のようだった。
油の匂いが鼻をくすぐる。軽やかで、くどさのない香り。
「天丼……」
メリッサは、小さく声に出してみる。
アテネで、大学の友人たちと行った日本食レストランのことを思い出した。天丼は、あのときも美味しいと思った。海老が大きくて、甘辛いタレが白米に染みていて、「日本の料理ってすごいね」と笑い合った記憶。
ほどなくして、二人の前に天丼が置かれる。蓋を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。艶やかなタレをまとった海老。衣は軽く、形を崩さずに立っている。
湯気の向こうで、白米がつやつやと光っていた。
「……わ」
それ以上、言葉が出なかった。
「熱いから、気をつけるのだぞ」
シオンに言われ、頷きながら箸を取る。
一口食べると、衣は音もなくほどけた。油の重さはなく、素材の味だけがすっと広がった。
タレは甘いのに、後を引かない。
米と一緒に口に運ぶと、すべてが一体になって、するりと喉を通っていく。
「……全然、違う……」
ぽつりと漏れた声は、驚きというより、感嘆だった。
「アテネで食べた天丼も、美味しいって思ったんだよ?でも……これは……」
言葉を探すが、語彙が追いつかない。
美味しい、では足りない。
贅沢、でも違う。
シオンは、メリッサの表情を見て、わずかに目を細めた。
「本場というものは、往々にしてそういうものだ」
「うん……段違い……」
箸が止まらない。夢中で食べ進めるメリッサを、シオンは急かすこともなく、ただ同じ速度で食べていた。
店の外では、浅草の街が変わらずざわめいているはずなのに、ここだけ時間が緩やかだった。衣を食む音、湯気、箸の触れる微かな音。
それらが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
最後の一口を食べ終え、メリッサは深く息をついた。
「……日本、すごい」
「食に関しては、特にな」
「また、絶対食べたい」
その言葉に、シオンは小さく頷いた。
「その時は、共に来よう」
約束というほど大げさなものではないが、確かに未来を含んだ言葉だった。
店を出ると、浅草の空は少し高く見えた。
満たされた胃と心を抱えて、二人は次の目的地――浜離宮へ向かう。
浅草を後にし、隅田川沿いへ向かう。
人波から少し離れると、空気が変わった。川面を渡る風は冷たいが、どこか清々しい。
「水上バスって、船だよね?」
「ああ。浅草から浜離宮まで行ける。歩くより、ずっと楽だ」
「わぁ……楽しみ」
桟橋に停泊している水上バスは、想像していたよりも近未来的で、メリッサは目を輝かせた。振袖姿での乗船に、係員がさりげなく手を貸してくれる。
「足元、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
船内は暖かく、窓際の席からは川がよく見えた。
エンジンが低く唸り、やがて、ゆっくりと船が動き出す。
浅草の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
雷門も、五重塔も、やがて視界から消え、代わりに広い空と水面が広がった。
「……東京って、面白い街だね」
ぽつりと、メリッサが言う。
「古いものと、新しいものが、喧嘩せずに並んでる」
「そうだな。時間が重なっているような場所だ」
隅田川を進むにつれ、景色は少しずつ変わる。
橋をくぐるたび、影が船内を横切り、そのたびにメリッサは楽しそうに声を上げた。
「わ、今の橋、低い!」
「ふむ、そなたのサイズに合っているな。私は頭をぶつけてしまいそうだ」
「あ!それ何気にあたしのこと、チビって言ってるでしょ!」
ぷぅ、と頬を膨らませながらも楽しそうだ。
シオンは、窓の外と、隣に座る彼女を交互に見ていた。
浅草で見せた無邪気な笑顔。
写真を大事にすると言った時の、まっすぐな声。
昨日の恐怖が、完全に消えたわけではないだろうが、こうして今を積み重ねていくことで上書きされていくのだと、静かに信じたかった。
やがて、船は浜離宮恩賜庭園の桟橋へと近づく。高層ビル群を背に、緑が広がる不思議な場所だ。
「次は……庭園だな」
「うん。いっぱい歩くの?」
「疲れたら、すぐ言うのだぞ」
「ふふ、はいはい」
船が静かに接岸し、係員の案内で下船する。
水上バスの揺れが止んだあとも、メリッサの心は、まだふわりと浮いているようだった。
その隣で、シオンは彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。
写真と同じだ。
この時間も、形には残らないが、確かに共有されている。
それでいい。
それがいい。
浜離宮の静かな緑が、二人を迎え入れていた。
浜離宮恩賜庭園は、浅草の賑わいとは別の時間が流れているようだった。
足を踏み入れた途端、空気がすっと澄み、音の輪郭がやわらかくなる。小石を踏む音、遠くの水音、風に揺れる松の葉の擦れる気配。どれもが控えめで、主張しすぎない。
「ここ……落ち着くね」
メリッサは振袖の裾に気を配りながら、ゆっくりと歩く。
池の水面には冬の空が映り込み、時折、白い水鳥が静かに滑るように進んでいく。
「江戸の庭だ。騒がしさを持ち込まぬよう、こうした造りになっている」
「へぇ……」
知識としての説明なのに、シオンの声はどこか穏やかで、庭の空気に溶け込んでいた。
メリッサはそれが嬉しくて、少しだけ歩幅を縮める。
そのときだった。
前方に、人だかりができている。
カメラマンの指示に応じて、誰かがゆっくりと姿勢を変えるのが見えた。
「あ……」
思わず足を止める。
色打ち掛けをまとった新婦が、朱色の和傘を差して立っていた。鮮やかな赤と金の刺繍が、冬の庭の静けさの中で、はっとするほど映えている。隣には、白紋付き羽織縞袴姿の新郎。背筋を伸ばし、少し照れたような表情だ。
「ウエディングフォトかな……」
声を潜めて言うと、シオンも小さく頷いた。
「だな」
シャッター音が一定のリズムで響く中、祝福の気配が周囲に滲んでいるようだった。
メリッサは、しばらくその光景から目を離せずにいたが、ふとシオンを見上げて言った。
「白もあるんだね。シオン様は、白も似合いそう」
冗談めかした口調だったが、どこか本気も混じっている。
シオンは一瞬だけ考えるように視線を巡らせ、それから静かに返した。
「白にしては、そなたの着物が映えぬだろ?」
思いがけない答えに、メリッサはきょとんとする。
「え……あ」
言われてみれば、確かに。
今日の桜色の振袖は、シオンが黒紋付だからこそ、はっきりと引き立っている。
「……そういうところ、ずるい」
「何がだ?」
「なんでもない」
そう言いながら、メリッサは少し照れたように視線を逸らす。
シオンはそれ以上追及せず、ただ隣に立ち続けた。
新郎新婦が位置を変え、またシャッターが切られる。
その光景を背に、二人はそっと歩き出す。
庭園の奥へ進むにつれ、人の声は遠のき、代わりに水と風の音が近づいてくる。
祝福の余韻を胸に残したまま、二人は並んで歩く。
いつか、あのカップルのように人生最高の一幕を写真に残せる日が来るのだろうか。
それは憧れであり、願いであり、畏れ多い未来図だ。けれど、こうして同じ景色を見て、同じ空気を吸っていることが、何よりも確かなものに思えた。
浜離宮の冬の庭は、静かに、それを受け止めていた。
浜離宮恩賜庭園を出る頃には、陽は少し傾き始めていた。水面に映っていた空の色も、朝より深くなっている。
「もう、出るか?」
名残惜しそうに振り返るメリッサに、シオンが声をかける。
「うん……ちょっと、疲れちゃった」
振袖は素敵だった。袖を通した瞬間の高揚感も、鏡に映った自分の姿に驚いた気持ちも、本物だ。
けれど、歩幅も、座り方も、息をつく間合いさえ、ずっと気を張り続けていたことに、今になって気づく。
「無理をさせたな」
「ううん。楽しかったよ。でも……慣れない格好って、思ったより気力も体力も使うんだね」
日本橋へ向かう電車の中、メリッサは肩を少しすぼめて、シオンにもたれるように立っていた。
朝よりも人は少ないが、それでも完全に空いているわけではない。
「着物は、美しく見せる代わりに動きを制限するものだ」
「なるほど……合理的じゃないんだ」
「だが、その不自由さも含めて、文化なのだろう」
電車を降り、呉服店へ向かう道は、朝よりも静かだった。
暖簾をくぐると、昼とは違う、落ち着いた空気が流れている。
「お帰りなさいませ」
店の主と店員たちが、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
着替えのために通された奥の部屋で、メリッサは一つ、深く息を吐いた。帯が解かれ、重ねていた布が一枚ずつ外れていくたびに、体が少しずつ軽くなる。
私服に戻った瞬間、思わずぐっ、と伸びをした。
「……あぁ……」
「随分と、楽そうだな」
「うん。振袖は素敵だったけど……やっぱり、今日は頑張った」
鏡に映るのは見慣れた自分。さっきまでの華やかさはないけれど安心感がある。
「でもね」
メリッサは、小さく笑って言った。
「また、着たいな。特別な日に」
その言葉に、シオンはわずかに目を細めた。
「その時は、今日よりもゆっくりしよう」
「うん」
店を出る頃には、すっかり夕方の気配だった。
振袖は店に返却され、思い出だけが、確かに残っている。
疲労はある。
けれど、それ以上に、満ち足りた一日だった。
メリッサは、軽くなった足取りで、シオンの隣を歩き出した。
メリッサは、授与所の前で足を止める。色とりどりのお守りが、規則正しく並んでいる。風に揺れる小さな房が、かすかな音を立てた。
「シオン様、あそこは?」
問いかける声は、自然と低くなっていた。
「授与所と言ってな。お守りやお札などをいただく所だ。俗に言えば売店だが、意味合いはまるで違う」
「へぇ……見ても良い?」
目を輝かせるメリッサに、シオンはすぐには頷かなかった。
「参拝してからだ。順序がある」
「そうなんだ。じゃあ、お祈りしに行こ!」
返事を待たずに歩き出す背中に、シオンは微笑みついていく。
メリッサの足取りは軽く、振袖の袂が小さく揺れるたび、さっきまでの人混みが嘘のように遠ざかっていった。
拝殿の前に立つと、メリッサは彼の動きを盗み見るように真似る。
「あれ?手を叩かないの?」
「ん?ああ、神社と寺では作法が異なるのだ。ここは寺だから手は叩かぬよ」
「そうなんだ……あとで調べよ」
手を合わせ、頭を下げる。その所作はまだぎこちないが、敬意が込められている。
(何を願えばいいんだろう)
そう思った瞬間、不思議と浮かんだのは、具体的な言葉ではなかった。
ただ、この時間が、長く続けばいい。
それだけだった。
参拝を終えて振り返ると、思わず口からこぼれる。
「お寺って、楽しいね!美味しいものも食べられるし」
にこやかにシオンを見上げる。
「メリッサ」
シオンの声は穏やかだが、きちんとした重みがあった。
「あくまでも、ここは信仰の場だ。そのことを忘れてはならぬ」
「あ……はい……ごめんなさい」
俯いた彼女の横顔を見て、シオンはそれ以上、言葉を重ねなかった。代わりに、ほんのわずか、歩調を緩める。
厳かさと、開放感と。
相反するものが同時に胸に満ちて、メリッサは改めて境内を見渡した。
知らない場所。
初めて知る習慣。
それでも、隣にいる人が同じ空間を共有しているというだけで、不思議と落ち着いていられる。
「今度こそ、授与所だな」
その一言に、彼女は小さく頷いた。次は、はしゃがないように。
授与所にさしかかったとき、メリッサはふと足を止めた。
木の箱の前に置かれた円筒と、その奥に並ぶ小さな引き出し。
仕組みが分からないまま、じっと眺めている。
「……あの筒は、何をするものなの?」
シオンは彼女の視線の先を見て、穏やかに答えた。
「御神籤だ。運勢を見るものだな」
「……運勢」
聞き慣れない言葉を、口の中でそっとなぞる。少し迷ってから、メリッサは控えめに視線を上げた。
「……やってみても、いい?」
「構わぬ。百円を納めて、筒を振る。棒が一本出るまでな」
教えられるまま、硬貨を静かに入れ、両手で円筒を持つ。何度か振ると、からり、と乾いた音を立てて、一本の棒が転がり出た。
「出たよ」
先端に書かれた番号を確かめ、その数字の引き出しを開ける。中に収められていた白い紙を一枚、そっと引き抜いた。
紙に書かれている文字。英文もある。文字を追うメリッサの表情が徐々に翳りを帯びていく。全て読み終えた彼女はその場に立ち尽くしていた。
風に揺れた御神籤の紙がはたはたと音を立てる。
「……凶?」
文字を追うように、もう一度、ゆっくり読む。
――【結婚、付き合い、旅行】いずれも、悪い結果になるでしょう。
意味が頭では理解できても、心が追いつかない。
楽しい気持ちで引いたはずなのに、どうしてこんな意地悪な言葉が並んでいるのだろう。喉の奥が急に詰まった。
「……やだ……」
声に出した途端、視界が滲んだ。涙は予告もなく落ちてくる。
「どうして……」
頬を伝って落ちる雫を止めることもできず、メリッサは御神籤を額に押し当てた。
結婚。
付き合い。
旅行。
どれも今のメリッサとシオンを象徴するような言葉だ。それを全部否定されたら、一体何が残るというのだろう。
「メリッサ」
シオンが名を呼ぶ。
低く、落ち着いた声だった。
彼は、自分の手元の御神籤――「吉」と書かれたそれを、すっと畳むと、メリッサの前に立った。
「御神籤はな、未来を決めるものではない」
シオンは袂からティッシュを取り出すと、メリッサの頬を伝う涙にそっと押し当てた。
「戒めだ。気をつけよ、という天からの忠告に過ぎぬ」
「でも……」
メリッサは首を振る。
「だって……全部……」
言葉が続かない。胸の奥で、恐れが形を持ち始めていた。自分が望んでいるものは、どれも叶ってはいけないのではないか、という不安。
シオンは、少しだけ膝を折り、視線を合わせた。
「凶が出たからといって、不幸になるわけではない」
「むしろ、慎めば良いということだ。心を配り、足元を確かめ、相手を大切にせよ、と」
そう言ってから、ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「……私は、そなたと共に歩むことが、悪い結果になるとは思っていない」
優しい声だった。
メリッサは、涙で曇った目でシオンを見る。その表情は、いつもと変わらない。落ち着いていて、揺らぎがない。
「……本当?」
「ああ」
短い返事。
それだけで、胸に溜まっていたものが、少しずつ形を溶かしていく。
「御神籤は、結ぶ場所も用意されている。凶は、境内に結んで帰るものだ。持ち帰らぬ」
そう言って、彼は御神籤を受け取るよう、手を差し出した。メリッサは、しばらく迷ってから、その紙を渡した。
二人で並んで、決められた場所に結ぶ。白い紙が、静かに風に揺れた。
「……これで良し。もう泣くな」
シオンの言葉に、メリッサは小さく頷く。涙で濡れた目で、もう一度、境内を見渡すと、不思議と、さっきよりも空気が澄んでいる気がした。
悪い言葉は、ここに置いていく。
少なくとも、そう思える程度には、心が落ち着いていた。
「さあ、御守を買おうか。今度は安心して良いぞ」
メリッサは、まだ赤い目のまま小さく頷いた。
授与所の前は、思ったよりも賑やかだった。小さな木札や色とりどりの布製の御守が、整然と並んでいる。その脇には、外国人観光客向けの説明書き。英語や中国語で、それぞれの意味が丁寧に書かれていた。
メリッサは、ひとつひとつ指でなぞるように見て回った。
「ええと……これは、健康。これは、恋愛……」
その横で、シオンは静かに厄除けの御守を手に取っていた。黒地に金糸で模様が施された、落ち着いたものだ。
「シオン様には、厄なんて寄ってこなそう」
何気なく言うと、彼はわずかに首を振る。
「そうでもないぞ。巡りが悪いと感じる時もある」
「そうなの?」
意外そうに目を丸くする。
「ああ。そなたと予定が合わぬ時とかな」
一瞬、理解が追いつかず、メリッサはきょとんとした。それから、遅れて意味を理解した。
「……それ、厄とは言わないでしょ……」
思わず笑ってしまう。今度は自分の手元の御守が目に入った。
「……あ」
学業成就。
努力が実を結ぶ、と書かれている。
「そしたら、あたしたちのお守り、矛盾しちゃうね」
「矛盾?」
「だって、シオン様は厄除けで、あたしは学業成就でしょ。もし、あたしの勉強が忙しくなって会えなくなったら……」
シオンは少し考えるように顎に手を当て、それから、どこか楽しそうに言った。
「では、どちらの御守がより強いのか。勝負だな」
「だめだめ」
メリッサは即座に否定する。
「勝負じゃなくて、総取りしようよ」
「総取りか……」
その言葉を、ゆっくり反芻してから。
「では、一年後に評価しようか」
「一年後?」
「ああ。この御守が、どれほど力を発揮したか」
メリッサは一瞬考えてから、にっこり笑った。
「うん!」
二人はそれぞれ御守を選び、巫女から受け取る。
小さな布袋は、手のひらに収まるほどの大きさしかないのに、不思議と確かな存在感があった。
一年後。
その言葉が、胸の奥で静かに反響する。
未来はまだ形を持たない。
けれど、今はただ、こうして並んで笑っていられることが、何よりの御利益のように思えた。
浅草寺の境内。
人の流れが途切れない中で、メリッサは「お手洗い、行ってくるね」と軽く手を振り、人波の向こうへ消えていった。
その背中を見送ったあと、シオンはほんの一瞬だけ、周囲の気配を研ぎ澄ます。
危険はない。
それでも、彼女が視界から消える時間は、できる限り短くしたかった。
時刻は正午。
頭の片隅で考えていた問題が、はっきりと形を取る。昼食をどうするか。
正月明けの浅草でどの店も混雑は避けられない。
着物姿のメリッサを、行列に長時間立たせるわけにはいかない。
シオンは、人混みから一歩外れ、柱の影でスマートフォンを取り出した。
通話が繋がる。
「辰巳殿、私だ」
低く、簡潔な声。
『いかがなさいましたでしょうか』
「浅草寺周辺で昼食を摂れる店を押さえてほしい」
要件だけを伝える。理由も状況説明も不要だと、互いに分かっている。
『かしこまりました。5分ほどお時間を頂戴いたします』
「頼む」
通話は、それで終わった。
スマートフォンを仕舞い、シオンは再び境内を見渡す。
観光客の笑い声。
シャッター音。
線香の匂い。
――城戸家やグラード財団の名を使うことに、ためらいがないわけではなかった。だが、それは権威を誇示するためではない。メリッサが少しでも楽に、穏やかに過ごせるようにするためだ。
やがて、再び着信。
『お近くの老舗天麩羅屋を確保いたしました。個室ではありませんが、席は問題ございません』
「十分だ。礼を言う」
『どういたしまして』
通話を終えた直後、視界の端に見慣れた桜色の振袖が戻ってくる。
「シオン様、待たせた?」
「いや」
そう答えながら、シオンはほんのわずかに、肩の力を抜いた。
何事もなかったように歩き出す。
メリッサには必要以上のことは言わない。もし彼女が知ったら「職権濫用だよ」と怒るに違いない。しかし、そうやって正論を振りかざしてぷりぷりと怒る彼女を見てみたいとも思うのだ。
雷門の前は、相変わらず人で溢れていた。
巨大な提灯の赤が、冬の澄んだ空気の中でもひときわ鮮やかに浮かび上がっている。
「……一枚だけな」
そう言って、シオンは立ち止まった。
メリッサは一瞬、聞き返そうとして言葉を飲み込む。理由を問うより先に、その声音が、いつもとは少し違うことに気づいたからだ。
二人は並んで立つ。
シオンは観光客にスマートフォンを託し、簡単に事情を説明する。
シャッターを切るまでの、ほんの数秒。その間、シオンの肩はわずかに緊張していた。
――本来なら、絶対にあり得ない行為だ。
聖域教皇という立場にある以上、個人的な写真は残さない。ましてや、誰かと寄り添う姿など、公に残る可能性を考えれば、避けるべきものだ。
それでも。
シャッターが切られる直前、メリッサが小さく微笑んだ。慣れない振袖で、少し緊張した顔で、それでも確かに「今」を楽しんでいる表情。
その瞬間、シオンの中で、理由ははっきりした形を取った。
――記録ではなく、証として残したかったのだ。
聖域の教皇ではない自分。
神話でも、象徴でも、役割でもない。
ただ一人の男として、彼女の隣に立っていた時間。
この旅が終われば、また立場に戻る。
守るべき秩序も、距離も、沈黙も、すべて元に戻るだろう。だが、この一枚だけは違う。誰に見せるためでもなく、未来に誇るためでもない。
もし、心が揺らいだ時。
もし、自分が選んだ道を疑いそうになった時。
この写真を見れば思い出せる。
雷門の前で、冬の朝の光の中、彼女と並んで立った事実を。確かに自分はここにいて、彼女を想っていたということを。
「はい、撮りますよー」
声がかかり、シャッターが切られた。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬は、シオンにとって、どんな聖域の記録よりも重いものだった。
「……ありがとう」
スマートフォンを受け取りながら、シオンは静かに言った。
メリッサは理由を知らない。ただ、写真を覗き込みながら、嬉しそうに目を細める。
「記念だね」
「ああ」
その一言に、すべてを込めて。
シオンは再び歩き出す。
雷門を背に、賑やかな浅草の通りへ。
一枚だけ。
それで、十分だった。
スマートフォンの画面に映る二人の姿を、メリッサは何度も指でなぞるように見つめていた。雷門の赤、その下で並ぶ自分たち。少し緊張した自分と、いつもより柔らかな表情のシオン。
「……共有、しても良いか?」
そう尋ねられて、一瞬きょとんとしたあと、メリッサの顔がぱっと明るくなる。
「もちろん!シオン様との写真、大事にするね」
その言葉に、シオンは小さく頷くだけだったが、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。残ることを恐れていたはずなのに、こうして“残る”ことを喜ばれると、不思議と後悔はなかった。
次の目的地へ向かう前に、二人は浅草の老舗天麩羅屋に立ち寄った。暖簾は色褪せているのに、そこに刻まれた時間だけは、確かな重みを持っている。
店内は静かで、観光客の喧騒が嘘のようだった。
油の匂いが鼻をくすぐる。軽やかで、くどさのない香り。
「天丼……」
メリッサは、小さく声に出してみる。
アテネで、大学の友人たちと行った日本食レストランのことを思い出した。天丼は、あのときも美味しいと思った。海老が大きくて、甘辛いタレが白米に染みていて、「日本の料理ってすごいね」と笑い合った記憶。
ほどなくして、二人の前に天丼が置かれる。蓋を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。艶やかなタレをまとった海老。衣は軽く、形を崩さずに立っている。
湯気の向こうで、白米がつやつやと光っていた。
「……わ」
それ以上、言葉が出なかった。
「熱いから、気をつけるのだぞ」
シオンに言われ、頷きながら箸を取る。
一口食べると、衣は音もなくほどけた。油の重さはなく、素材の味だけがすっと広がった。
タレは甘いのに、後を引かない。
米と一緒に口に運ぶと、すべてが一体になって、するりと喉を通っていく。
「……全然、違う……」
ぽつりと漏れた声は、驚きというより、感嘆だった。
「アテネで食べた天丼も、美味しいって思ったんだよ?でも……これは……」
言葉を探すが、語彙が追いつかない。
美味しい、では足りない。
贅沢、でも違う。
シオンは、メリッサの表情を見て、わずかに目を細めた。
「本場というものは、往々にしてそういうものだ」
「うん……段違い……」
箸が止まらない。夢中で食べ進めるメリッサを、シオンは急かすこともなく、ただ同じ速度で食べていた。
店の外では、浅草の街が変わらずざわめいているはずなのに、ここだけ時間が緩やかだった。衣を食む音、湯気、箸の触れる微かな音。
それらが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
最後の一口を食べ終え、メリッサは深く息をついた。
「……日本、すごい」
「食に関しては、特にな」
「また、絶対食べたい」
その言葉に、シオンは小さく頷いた。
「その時は、共に来よう」
約束というほど大げさなものではないが、確かに未来を含んだ言葉だった。
店を出ると、浅草の空は少し高く見えた。
満たされた胃と心を抱えて、二人は次の目的地――浜離宮へ向かう。
浅草を後にし、隅田川沿いへ向かう。
人波から少し離れると、空気が変わった。川面を渡る風は冷たいが、どこか清々しい。
「水上バスって、船だよね?」
「ああ。浅草から浜離宮まで行ける。歩くより、ずっと楽だ」
「わぁ……楽しみ」
桟橋に停泊している水上バスは、想像していたよりも近未来的で、メリッサは目を輝かせた。振袖姿での乗船に、係員がさりげなく手を貸してくれる。
「足元、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
船内は暖かく、窓際の席からは川がよく見えた。
エンジンが低く唸り、やがて、ゆっくりと船が動き出す。
浅草の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
雷門も、五重塔も、やがて視界から消え、代わりに広い空と水面が広がった。
「……東京って、面白い街だね」
ぽつりと、メリッサが言う。
「古いものと、新しいものが、喧嘩せずに並んでる」
「そうだな。時間が重なっているような場所だ」
隅田川を進むにつれ、景色は少しずつ変わる。
橋をくぐるたび、影が船内を横切り、そのたびにメリッサは楽しそうに声を上げた。
「わ、今の橋、低い!」
「ふむ、そなたのサイズに合っているな。私は頭をぶつけてしまいそうだ」
「あ!それ何気にあたしのこと、チビって言ってるでしょ!」
ぷぅ、と頬を膨らませながらも楽しそうだ。
シオンは、窓の外と、隣に座る彼女を交互に見ていた。
浅草で見せた無邪気な笑顔。
写真を大事にすると言った時の、まっすぐな声。
昨日の恐怖が、完全に消えたわけではないだろうが、こうして今を積み重ねていくことで上書きされていくのだと、静かに信じたかった。
やがて、船は浜離宮恩賜庭園の桟橋へと近づく。高層ビル群を背に、緑が広がる不思議な場所だ。
「次は……庭園だな」
「うん。いっぱい歩くの?」
「疲れたら、すぐ言うのだぞ」
「ふふ、はいはい」
船が静かに接岸し、係員の案内で下船する。
水上バスの揺れが止んだあとも、メリッサの心は、まだふわりと浮いているようだった。
その隣で、シオンは彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。
写真と同じだ。
この時間も、形には残らないが、確かに共有されている。
それでいい。
それがいい。
浜離宮の静かな緑が、二人を迎え入れていた。
浜離宮恩賜庭園は、浅草の賑わいとは別の時間が流れているようだった。
足を踏み入れた途端、空気がすっと澄み、音の輪郭がやわらかくなる。小石を踏む音、遠くの水音、風に揺れる松の葉の擦れる気配。どれもが控えめで、主張しすぎない。
「ここ……落ち着くね」
メリッサは振袖の裾に気を配りながら、ゆっくりと歩く。
池の水面には冬の空が映り込み、時折、白い水鳥が静かに滑るように進んでいく。
「江戸の庭だ。騒がしさを持ち込まぬよう、こうした造りになっている」
「へぇ……」
知識としての説明なのに、シオンの声はどこか穏やかで、庭の空気に溶け込んでいた。
メリッサはそれが嬉しくて、少しだけ歩幅を縮める。
そのときだった。
前方に、人だかりができている。
カメラマンの指示に応じて、誰かがゆっくりと姿勢を変えるのが見えた。
「あ……」
思わず足を止める。
色打ち掛けをまとった新婦が、朱色の和傘を差して立っていた。鮮やかな赤と金の刺繍が、冬の庭の静けさの中で、はっとするほど映えている。隣には、白紋付き羽織縞袴姿の新郎。背筋を伸ばし、少し照れたような表情だ。
「ウエディングフォトかな……」
声を潜めて言うと、シオンも小さく頷いた。
「だな」
シャッター音が一定のリズムで響く中、祝福の気配が周囲に滲んでいるようだった。
メリッサは、しばらくその光景から目を離せずにいたが、ふとシオンを見上げて言った。
「白もあるんだね。シオン様は、白も似合いそう」
冗談めかした口調だったが、どこか本気も混じっている。
シオンは一瞬だけ考えるように視線を巡らせ、それから静かに返した。
「白にしては、そなたの着物が映えぬだろ?」
思いがけない答えに、メリッサはきょとんとする。
「え……あ」
言われてみれば、確かに。
今日の桜色の振袖は、シオンが黒紋付だからこそ、はっきりと引き立っている。
「……そういうところ、ずるい」
「何がだ?」
「なんでもない」
そう言いながら、メリッサは少し照れたように視線を逸らす。
シオンはそれ以上追及せず、ただ隣に立ち続けた。
新郎新婦が位置を変え、またシャッターが切られる。
その光景を背に、二人はそっと歩き出す。
庭園の奥へ進むにつれ、人の声は遠のき、代わりに水と風の音が近づいてくる。
祝福の余韻を胸に残したまま、二人は並んで歩く。
いつか、あのカップルのように人生最高の一幕を写真に残せる日が来るのだろうか。
それは憧れであり、願いであり、畏れ多い未来図だ。けれど、こうして同じ景色を見て、同じ空気を吸っていることが、何よりも確かなものに思えた。
浜離宮の冬の庭は、静かに、それを受け止めていた。
浜離宮恩賜庭園を出る頃には、陽は少し傾き始めていた。水面に映っていた空の色も、朝より深くなっている。
「もう、出るか?」
名残惜しそうに振り返るメリッサに、シオンが声をかける。
「うん……ちょっと、疲れちゃった」
振袖は素敵だった。袖を通した瞬間の高揚感も、鏡に映った自分の姿に驚いた気持ちも、本物だ。
けれど、歩幅も、座り方も、息をつく間合いさえ、ずっと気を張り続けていたことに、今になって気づく。
「無理をさせたな」
「ううん。楽しかったよ。でも……慣れない格好って、思ったより気力も体力も使うんだね」
日本橋へ向かう電車の中、メリッサは肩を少しすぼめて、シオンにもたれるように立っていた。
朝よりも人は少ないが、それでも完全に空いているわけではない。
「着物は、美しく見せる代わりに動きを制限するものだ」
「なるほど……合理的じゃないんだ」
「だが、その不自由さも含めて、文化なのだろう」
電車を降り、呉服店へ向かう道は、朝よりも静かだった。
暖簾をくぐると、昼とは違う、落ち着いた空気が流れている。
「お帰りなさいませ」
店の主と店員たちが、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
着替えのために通された奥の部屋で、メリッサは一つ、深く息を吐いた。帯が解かれ、重ねていた布が一枚ずつ外れていくたびに、体が少しずつ軽くなる。
私服に戻った瞬間、思わずぐっ、と伸びをした。
「……あぁ……」
「随分と、楽そうだな」
「うん。振袖は素敵だったけど……やっぱり、今日は頑張った」
鏡に映るのは見慣れた自分。さっきまでの華やかさはないけれど安心感がある。
「でもね」
メリッサは、小さく笑って言った。
「また、着たいな。特別な日に」
その言葉に、シオンはわずかに目を細めた。
「その時は、今日よりもゆっくりしよう」
「うん」
店を出る頃には、すっかり夕方の気配だった。
振袖は店に返却され、思い出だけが、確かに残っている。
疲労はある。
けれど、それ以上に、満ち足りた一日だった。
メリッサは、軽くなった足取りで、シオンの隣を歩き出した。
