Eine Kleine Ⅲ

 目覚めのキスは、王子様からお姫様へ。
 おとぎ話ではそれがデフォルトのはずなのに、メリッサの王子様は目覚めのキス以前に、本人に目覚める気配がまるでなかった。
「ねぇねぇ、シオン様ぁ、起きてよぉ」
 甘える声に、まだ夢の中にいるかのような低いうめき声が返る。
「んん……あと5分……」
 寝ぼけた声と布団の下でわずかに動く肩。長い睫毛が揺れ、頬の赤みが朝日に淡く光る。
 メリッサは思わず笑みをこぼす。
 こんなにも無防備で無邪気な寝顔も、シオンの魅力の一部なのだと改めて思う。
「あと5分、って……もう朝だよぉ」
 小さく嘆きながらも、メリッサはシオンの頬を軽くつつく。愛おしい声と華奢な指先から伝わる圧に、まだ眠気の残るシオンも、少しずつ現実の世界へ引き戻されていく。
 ベッドの中の静かな朝。
 光と温もりに包まれた二人の距離は、まだ眠気と柔らかさの中にある。
「今日は浅草行きたい」
 メリッサの声は、寝ぼけ顔のシオンを前にしても弾んでいた。
「……浅草?」
 半分眠ったままのシオンは、ぼんやりと目を開ける。
「うん!浅草寺行こうよ!」
「ん……分かった。もう少ししたら起きる」
 シオンはゆっくりと頷き、まだ眠気を振り払えない様子で答える。
「だめ!今起きて!!」
 メリッサは頬を膨らませ、腕で彼を揺らす。
 少しだけ力を込められた揺れに、シオンの眉がぴくりと動く。そのまま体を起こし、目を細めて彼女を見やる。
「……わかった、わかった」
 寝ぼけた声と、まだ少し眠そうな眼差し。
 でも、メリッサの元気な笑顔に、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じる。ベッドの中の静かな朝は、いつの間にか笑いと柔らかな光に満ちていた。
 二人の一日は、まだ始まったばかりだ。
「あたし、着物着たい!」
 前日、明治神宮で着物姿の観光客を見たことが、メリッサの胸に強く残っていた。特に振袖への憧れは、ひとしおだ。
「それは、当日でも申し込めるのか?」
 シオンは、少し眉をひそめながらも、冷静に確認する。
「調べてみる!大丈夫だったら良い?シオン様もね!」
 メリッサは目を輝かせ、掌を合わせる。
「私もなのか?」
 少し戸惑いながら、シオンは問い返す。
「もちろん!」
 メリッサの声には、無邪気な笑みと、和装姿のシオンが見られるかもしれないという期待が込められていた。
 その声を聞いたシオンの瞳に、柔らかい微笑みが浮かぶ。
 朝の光が差し込む部屋で、二人の間には、昨日の恐怖も、昨日までの疲れも、すべて溶け去ったような、軽やかで穏やかな空気が流れていた。今日一日のスケジュールを思い描きながら、メリッサの笑顔は、まるで陽だまりのように輝いていた。
 早速、浅草でレンタル可能な店を探す。しかし、さすがにどこもいっぱいで、予約は到底取れそうにない。
「ダメみたい」
 メリッサはスマホを握ったまま、テーブルに伏せる。ため息交じりの声が小さく漏れた。
「うう……やっぱり当日じゃ無理があったか……」
 シオンは、そんな彼女の背中に目をやりながら、静かに問いかける。
「そんなに着物を着たいのか?」
 メリッサは小さく頷く。
「うん。それに、シオン様の着物姿も見たかった……」
 その言葉に、シオンの眉がわずかに動く。そして、静かに立ち上がると、どこかへ電話をかけ始めた。
 シオンが電話をかけた相手は、辰巳徳丸だった。
「辰巳殿か。急な頼みですまぬが、メリッサが振袖を着たいらしく…手配は可能だろうか。可能なら私の分の和服も頼みたいのだが」
 公私混同、職権濫用。そう指摘されても否定はできない。だが、どうしてもメリッサの望みを叶えてやりたかった。
 机に伏せたまま、じっとシオンの動きを見守るメリッサ。小さな胸のざわめきと、期待と不安が入り混じる。でも、目の前には、昨日の夜のように、揺るぎない存在感のある人がいる。それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
『当たってみますので、少々お待ちください』
「ありがとう」
 通話を終えたシオンは、メリッサを振り返る。
「問い合わせ中だ。少し待っていてくれ」
 メリッサには日本語は分からなかったが、会話の中で聞き取れた「タツミ」。あのシゴデキ執事の辰巳徳丸に違いない。彼ならグラード財団の権力を駆使してどうにかしてくれるはず。そんな希望が湧いてくる。

 ほどなく、辰巳から折り返しの電話が掛かってきた。男女一名ずつ。振袖と羽織袴のレンタルが可能で、小物類も全て店で用意されているという手厚さ。手ぶらで来店して構わないとの事だった。
 場所は、城戸家御用達の日本橋にある老舗呉服店だ。
 そこは、一般観光客向けの店ではなく、格式ある家族の付き合いの中で信頼を積み重ねてきた店だ。着物の種類も豊富で、品質は間違いない。
「予約が取れたようだぞ」
 シオンは少しだけ微笑み、携帯を置く。
 メリッサはまだ伏せたまま、顔を上げて彼を見上げる。
「……本当に?」
「ああ。そなたの希望通り、振袖も選べる。私も着る」
 シオンの声には、確かな自信と、彼女への優しい気遣いが混じっていた。
 メリッサの胸の奥に、喜びと安堵が広がる。
「やった…!」
 観光客向けの喧騒とは違う、伝統と格式のある世界で、今日だけは特別な時間が待っている。その世界に、シオンと共に足を踏み入れられることが、嬉しくてたまらなかった。

 呉服店の中は、柔らかな光に包まれ、落ち着いた空気が流れていた。
 シオンは、男性用の着物コーナーに足を運ぶ。選択肢はさほど多くない。黒紋付羽織に縞袴――迷うことなく、目を一度走らせただけで決まる。
 きっと、メリッサは淡い色を選ぶだろうから。
「これが良い」
 その声は静かだが、自然と威厳を放っていた。
 一方、メリッサは、女性用の鮮やかな染めの着物に目移りして、息をつく暇もない。
 赤や紫、青や金の糸で描かれた花模様、繊細な刺繍、長い袂は華やかさの象徴だ。どれも美しく、迷いながら手に取り、ふと鏡に映る自分を見てはため息をつく。
「……うぅ、どれにしよう……」
 シオンは、そんな彼女を横目で見つめつつ、静かに微笑む。
「迷うのも悪くないだろう」
 メリッサは顔を赤らめ大きく頷いた。
 今日だけは、特別な自分になれる予感。
 そして、隣にシオンがいることが、その期待をさらに大きくしていた。
 店内には、古典柄からモダン柄、果てはゴスロリ調まで、さまざまな着物が揃っていた。色彩の洪水に目を奪われつつも、メリッサの視線が止まったのは、古典柄の一枚だった。
 繊細な花の刺繍、流れるような線で描かれた季節のモチーフ、上品な色合い。心が自然と惹かれていく。
「色んな絵が描いてますけど、これは意味があるんですか?」
 メリッサは、手に取った着物を軽く広げ、目を輝かせながら片言の英語で女性店員に尋ねた。
 店員は柔らかい微笑を浮かべ、落ち着いた声で答える。彼女の英語はメリッサよりも流暢だった。
「はい、それぞれに意味があります。桜は春の象徴、松は長寿や繁栄、菊は高貴さを表します。組み合わせや色の選び方で、着る方の願いや季節感も表現できるんです」
 メリッサは、指先で生地を撫でながら静かに頷く。
「なるほど……それぞれに物語があるんですね」
 シオンは、横で静かに彼女の様子を見守っている。
 彼女の好奇心に触れ、その小さな指先の動きや瞳の輝きに、自然と胸が温かくなるのを感じた。
 今日一日、彼女が心から楽しめる時間であってほしい――そう思いながら、静かに背中を守るように立っていた。
 店員から、古典柄に込められた意味を聞きながら、メリッサはじっと手元の着物を見つめていた。
 貝桶――縁結び、夫婦和合、慎ましさ。
 自然と、胸の奥にある想いが浮かぶ。

 ──シオン様への想いを、この色や柄に込めたい。

 色は、自分が好きな系統の中で、最も肌になじんだ桜色を選ぶ。帯は亀甲文様。長寿という意味が込められていて、シオンの姿を思い浮かべると、自然にその形に心が動いた。帯の色は銀。シオンの髪色と重ならないように――ささやかな気遣いだ。
 振袖は桜色・貝桶。
 帯は銀・亀甲。
 簪は摘み細工で白と赤をあしらい、帯締めは若草色の丸絎で控えめな結びを勧められた。
 帯揚げは桃色で、草履とバッグは銀。
 ヘアメイクも着付けも終えたとき、鏡に映る自分は、まるで別人のようだった。それはただの変身ではなく、心の奥底にある想いを映した姿でもある。
 メリッサは静かに息をつき、手を軽く胸に置く。
 今日、この姿でシオンと歩くのだ。
 胸の奥がじんわりと熱くなり、自然と笑みが浮かぶ。
 慎ましさと華やかさが混ざったこの装いが、自分の気持ちを少しだけ勇気づけてくれるように感じられた。鏡の前で、軽く首を傾け、髪の流れや帯の結び具合を確かめる。
 そして、深呼吸をひとつする。
 小さな決意のように、身体の前でそっと両手を握り合わせた。
 シオンもまた、黒紋付羽織縞袴に身を包んでいた。
 色白の肌に金髪が際立ち、黒の和装が映える。
 静かな佇まいの中に、柔らかさと凛とした存在感が同居している。
 二人が並ぶと、自然と空気が変わる。
 振袖の桜色に貝桶文様を纏ったメリッサと、端正な黒紋付のシオン。
 色彩のコントラストと、互いの雰囲気が引き立て合い、まるで絵画の一部のようだった。
 店の主は、その光景に目を細め、思わず手を打った。
「おお……お二人とも、本当にお似合いです!」
 その声には、純粋な喜びと憧憬が混じっていた。
 メリッサは少し照れながらも、心の奥底では嬉しさで胸がいっぱいだった。
 シオンは、そんな彼女の視線に気づき、静かに微笑む。
 互いに言葉はなくとも、視線と立ち姿だけで、今日一日の特別さを共有していることが分かる。
 店の奥から、古典的な和の香りと絹織物の擦れる音。
 そこに立つ二人は、過去と現代、そして互いの心をそっとつなぐ存在のように見えた。
 店主の喜びも納得の、華やかで気高い光景だった。
 店主は、慣れない着物で歩くのは大変だろうと、タクシーの利用を提案した。
 しかし、メリッサは首を振る。
「せっかく日本に来たんだもの。移動も楽しみたい!」
 シオンはその答えに静かに頷いたが、気遣いの滲む声で言った。
「そなたがそう言うなら、尊重する。だが、慣れぬ着物だ。無理だけはするな。つらくなったら直ぐに言うのだぞ。それが条件だ」
 メリッサは、はにかみながらも笑顔で答える。
「うん、分かった!シオン様、心配性だからね」
 昨日の事件のことを思えば、些細なことでも心配になるのは自然なことだ。
 守るべき人を守ること。
 それが彼にとっての真であり、揺るがぬ責務だ。
 シオンは、その役割の中にこそ自分の存在意義があると思っている。
 メリッサは少しだけ肩をすくめ、でも楽しそうに電車移動の計画を話す。
 シオンはそれを静かに聞きながら、温もりを確かめるように、そっと手を重ねた。
 互いの思いと信頼が、ゆっくりと朝の空気の中に溶けていく。今日一日、無事で楽しい時間を過ごせるだろう――そんな確信が、二人の心に静かに広がっていた。

 1月5日。
 世間はすっかり日常を取り戻し、電車も少しずつ混み始めていた。メリッサは座れないことも想定していた。長い時間ではないし、立っていても大丈夫――そう思い、吊り革に手を伸ばした。しかし、着物で腕を上げるという単純な動作が、こんなにも難しいとは知らなかった。袖はずり落ち肘まで腕が露わになってしまう。
「あ、袖落ちちゃうね……」
 思わず小さく呟くメリッサの声は、戸惑いの色を隠せなかった。着物姿には明らかに相応しくない状態だと、ギリシャ人のメリッサにも分かる。だが、どこかに掴まらないと電車の揺れに耐えられるとも思えない。身体に巻かれた布に阻まれ、足は開けず、踏ん張ることができないのだ。
 どうしたものかと思案していると、吊り革を握っていた手が、そっと解かれる。
「私に掴まっていると良い。着物の時は、肌を露出してはいけない」
 シオンの腕が、自然にメリッサの腰に添えられる。
「え……」
 驚きで思わず声を漏らすメリッサを、シオンはただ静かに支え続けた。吊り革はシオンが握り、メリッサの体はその腕に寄せられる。
 袖が落ちても、混雑した電車の中で慌てる必要はなかった。シオンがそばにいるだけで、自然と体も心も落ち着く。
 メリッサは小さく息をつき、そっと腕をシオンの腰に預ける。
 この距離感、この温もりが、今は何より安心できるのだと、改めて感じた。
 吊り革にしっかり掴まるシオンに身体を預けたまま、メリッサは少しずつ呼吸を整えた。混雑する車内でも、視界に入る景色は意外と落ち着いていて、窓の外を眺める余裕もあった。
 着物の裾や袖の感触が普段の服とは違い、動くたびに少し緊張する。でも、シオンの腕が常に腰を支えてくれているおかげで、心細さはほとんど消えていた。
「……こんな風に歩くのも、電車に乗るのも、初めてだな」
 小さな声で呟くメリッサに、シオンは軽く頷き、耳元で囁くように答えた。
「無理をせず、ゆっくりで良い」
 吊り革の高さや歩幅を気にする必要もなく、二人の呼吸は自然と揃っていく。互いの気配、肌の温もり、呼吸のリズム……何も言わなくても、存在を確かめ合える時間だった。
 メリッサはふと、笑みを浮かべる。
 心の奥に、今日一日の楽しみが、静かに芽吹いていくのを感じていた。

 電車が浅草駅に滑り込むと、アナウンスの声と人々のざわめきが混ざった独特の熱気が流れ込んできた。
 メリッサはシオンの腕にそっと寄り添いながら、足元の裾を気にしてゆっくりと歩き出す。
 着物の袂がふわりと揺れる。帯が背中をしっかり支える感触を確かめる。
 シオンも羽織の袖を整えながら、自然とメリッサの腰を軽く支えた。
「よし、行こう」
 シオンの低い声に、メリッサは小さく頷く。
 改札を抜けると、街の人々の視線が自分たちに向くのを感じた。
 振袖に身を包んだ自分と、黒紋付のシオン――華やかな二人の姿は、知らず知らずのうちに注目を集める。
「わぁ……すごい、人がいっぱい」
 メリッサは小声で呟き、胸の奥で高鳴る期待に気づく。
 昨日の恐怖や不安は、今はもう影を潜め、好奇心と胸のときめきに換わっていた。
 街角に並ぶ提灯や浅草寺への参道、古い建物の木の香り。
 すべてが、日常と異なる世界のようで、メリッサの心を軽やかに弾ませた。
「シオン様、手、離さないでね」
 小さく囁くメリッサに、シオンは頷き軽く手を握る。視線は周囲の人々に向けながらも、その心はメリッサだけに向けられている。二人だけの小さな世界が、浅草の喧騒の中に静かに存在していた。

 仲見世通りは、人々の笑い声や呼び声、香ばしい匂いで満ちていた。
 メリッサは振袖の袂や裾を少し気にしながらも、目を輝かせて通りを歩く。
 金色の陽射しが、桜色の着物を柔らかく照らして、まるで通り全体が彩られるかのようだった。
 甘い香りを放っている団子屋の前でメリッサは立ち止まり、串に刺さったみたらし団子をじっと見つめる。
「食べるか?」
 メリッサの様子に気付いたシオンが顔を覗き込む。
「うん、食べたい……でも、振袖だし、串に刺さってるし……立って食べるの大変そう」
 すると、気の良い女性店主がにこやかに声をかけた。ここでも英語で話しかけられた。
「お嬢さん、座ってお食べ。慣れない振袖だと大変でしょ。さ、カレシさんも座って」
「ありがとうございます!」
 メリッサは一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに笑顔を返す。
「助かります」
 シオンも横で微笑みながら、メリッサの袖や裾を気にかけて、汚れないようにそっと整える。
 二人で椅子に腰かけると、メリッサは少しほっと息をついた。串を手に取り、一口かじれば、柔らかい団子と甘いタレが口の中に広がる。
「美味しい……!」
 思わず小さく声が出る。
 店主は、メリッサの様子を楽しげに見守りながら、手際よくお茶も用意してくれる。
 地元の市場やこうした客商売のおばちゃんは、総じて面倒見が良いものだ。港町の市場でも、同じような空気を感じたことがある。
(そう言えば、シオン様も市場のおばちゃん達から色々と貰ってたな…イカ焼きとか、ルクマデスとか…)
 そんな事を思い出しながら、メリッサは団子を頬張り満面の笑みを輝かせた。
 シオンの腕が背もたれに沿ってそっと添えられていて、安心感と共に団子を味わうことができる。
 振袖の裾や帯の煩わしさも、こうして座っているだけで、ほとんど気にならなくなるのだった。
「……んっ」
 みたらし団子のとろりと甘辛いタレ。美味しさに気を取られていたせいで、口の端に、ほんの少しだけ付いてしまっていたようだった。
「あ……」
 メリッサは慌てて小さなバッグを開ける。袖口が邪魔して、動きもたどたどしい。ハンカチかティッシュ――と探っていると、
「メリッサ」
 静かに呼ばれたその声に、反射的に顔を上げた。
 その瞬間――。
「――んっ……?」
 何が起きたのか、一瞬わからなかった。
 柔らかくて温かいものが、頬の横を掠めて、唇に触れた。ほんの、ほんの一瞬。けれど間違いなく、それは――。
 唇を離したシオンは、ごく自然な動作で少し顔を退け、そして、唇をほんの少し舌でなぞるようにして、呟いた。
「……良い味だな」
 メリッサの思考が真っ白になる。
 その言葉の意味も、唇の感触も、まるごと体の芯に突き刺さるように染み込んでくる。
 一瞬で熱くなる頬。目の前の人混みの喧騒さえ、耳から遠のく。
(うそ、うそ……今……今……っ)
 目がぐるぐる回る。呼吸がうまくできない。ここは、仲見世通り。たくさんの人で溢れかえっている。あちこちから聞こえてくる笑い声、写真を撮るシャッター音、英語に中国語に関西弁――。
 そんな中で。
 そんな場所で。
(シオン様に、キ、キ、キ、キスされた……!?)
 頭のてっぺんから、ぷしゅう、と音を立てて湯気が出そうだった。心臓が破裂しそうに暴れている。顔から火が出そうだ。いや、もしかしたらもう出ているかもしれない。
「シ……シシシシ……シオン様っ!?」
 うまく声も出せない。
 身体も動かない。
 魂だけが、今すぐここから飛び立ちたがっている。
 なのに当の本人は、何事もなかったかのように、涼しい顔で立ち上がると手を差し出してきた。
「行こう。あまり長居すると、混雑に巻き込まれる」
 まるで、ただの散歩の続きを促すような、落ち着いた声。
(ちょ、ちょ、ちょっと待って!?無理無理無理無理、あたし、今、死ねる――!!)
 顔を両手で覆いたかった。
 でも振袖でそれをすると、今度は袖口が暴れてバッグを落としそうだ。
 やるせない羞恥に震える肩をよそに、シオンはメリッサの手を取った。

 ――ああ、お願い、今日はこれ以上何も起きないで……!

 そう心の中で叫びながら、メリッサは赤くなったまま立ち上がった。

 手を引かれながらも、メリッサは、しばらく自分の足が前に出ているのかどうかも分からなかった。
 ただ、シオンの存在だけを確かに隣に感じていた。
 歩幅を小さく、小さく刻みながら、必死についていく。
 着物の裾が擦れる音さえ、今はやけに大きく感じられた。
(あれは……事故?それとも……)
 考えようとすると、さっきの感触が生々しく蘇ってしまう。
 ほんの一瞬、唇に触れた温度。
 近すぎた距離。
 静かすぎる声。

 ――良い味だな。
 
 その一言が、頭の中で何度も反芻されるたび、胸の奥が熱を帯びる。
「……っ」
 思わず足を止めかけたメリッサに、シオンは気配で気づいたようだ。
「大丈夫か。歩けるか?」
 その声音は、あまりにも普段通りだった。まるで、さきほどの出来事など、最初から存在しなかったかのように。
「……あ、歩ける……」
 声が裏返らないようにするのが精一杯だった。
 少しして、シオンが人の流れの緩やかな場所で立ち止まる。
 振り返ったその顔はいつもの穏やかな表情で、でも、いつもより目元が柔らかい。
「さきほどの件だが」
 淡々と、けれど誤魔化さずに続ける。
「驚かせたな。すまない」
(さきほどの件、って……)
 それをそんな言葉で片付けていいものなのか、分からない。分からないけれど、責める気持ちも、怒る気持ちも、どこにも見当たらなかった。
「……あの……」
 勇気を振り絞って口を開く。
「……日本では、ああいうの……普通、なの……?」
 シオンは一瞬、言葉を選ぶように視線を逸らした。それから、小さく息を吐く。
「普通ではないだろうな」
 はっきりと、しかし穏やかに。
「だが――恋人同士なら、咎められることでもないだろうな」
 その言葉に、心臓がまた一段、強く跳ねる。
「……そ、そう……なんだ……」
 自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。けれど、胸の奥では確かに、何かが静かに、しかし確実に満たされていく。
 シオンはそれ以上、何も言わなかった。言い訳も、冗談も、追い打ちもない。ただ、再び歩き出す前に、自然な仕草で手を差し出した。
「混む。はぐれるな」
 メリッサは一瞬だけ迷ってから、その手を取る。
 今度は、しっかりと。
 人混みの中。
 仲見世通りのざわめきの中。
 誰も気づかない、小さな接触。
 それだけで十分だった。
(……今日は、もうこれ以上、何も起きませんように)
 そう願いながらも、胸の奥ではほんの少しだけ、もう一度くらいなら、起きてもいいかもしれない。そんな不埒な期待が、静かに芽生えてしまっていることを、メリッサはまだ認められずにいた。
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