Eine Kleine Ⅲ

 スクランブル交差点の信号が青に変わる。
 その瞬間、巨大な質量としての“群衆”が動き出した。一斉にアスファルトを蹴る靴音。多言語の混ざり合ったノイズ。その濁流の中で、シオンの手がメリッサの手首から離れた。
「……っ」
​ 指先が空を切る。手から熱が逃げる。
 掴み直そうと伸ばした指は、強引に割り込んできた誰かの厚いコートの裾に阻まれた。
 そこからは、残酷なほど一瞬だった。人の壁が、二人の間に容赦なく、分厚い断絶を作り上げる。
「シオン様――!」
​ 叫んだ声は、隣を歩く誰かの笑い声と、駅ビルから流れる広告の爆音にいとも容易く掻き消された。
 前から、後ろから、容赦なく肩をぶつけられる。
(違う、そっちじゃない)
 叫びたいのに、足は勝手な方向へ運ばれていく。
 抗えば転倒し、誰かをまた転ばせてしまうだろう。本能的な恐怖に急かされ、メリッサは流れに身を任せるしかなかった。
​ 数分か、あるいは数秒だったのか。
 ようやく人の流れが緩む壁際へ辿り着いたとき、視界のどこにも、あの金色の髪はなかった。心臓の音が、耳のすぐ傍で警鐘のように鳴り響く。
(やば……はぐれた。どうしよ……)
​ バッグはある。スマホも、財布も、パスポートも。けれど、たった一人の温もりを失っただけで、あれほど輝いて見えた東京の街は、一瞬にして冷たい無機質な迷路へと姿を変えた。
 世界の輪郭が、滲んでいく。
 見知らぬ誰かの視線。
 理解できない看板の文字。
 自分に向けられていない言葉。
 それらすべてが、刃物のような鋭さを持って彼女を威嚇し始める。
(大丈夫。シオン様が、見つけてくれる。必ず、探してくれてる)
​ 震える手でスマホを取り出し、胸の奥で自分に言い聞かせる。けれど、唇を噛む彼女の背後で、夜の渋谷は巨大な獣のように静かに口を開けていた。
​ 一方で、メリッサの熱を失った瞬間、シオンの世界から“色”が消えた。
 人混みに紛れた彼女の小さな背中。それを見失うことが、これほどまでに胸を抉る絶望を伴うものだとは。
「…………」
​ 声は出さなかった。
 だが、その瞳には、もはや教皇としての威厳も、アテナの聖闘士としての誇りもない。
​ 群衆の動き。
 体温の揺らぎ。
 わずかな空気の流れ。
 シオンは、人波を割くように足を踏み出した。
 拭い去れない嫌な予感が、胸をよぎっていた。
(無事でいろ。――それ以外は何も願わぬ)


 交差点を渡りきった歩道で、メリッサは呆然と立ち尽くしていた。周囲は人、人、人。年齢も性別も国籍も雑多で、背が高く人目を引く容姿のシオンでさえ、人波に隠されてしまいどこにいるのか分からない。
 駅の近くで待っていればきっと見つけてくれるはず。そう自分を励ましながらも、スマートフォンを握り締める両手には無意識に力がこもっていた。
「何か困ってる?」
 背後から英語で声を掛けられた。振り返ると、若い女性が心配そうな顔で立っていた。
 相手が英語で話すこと、女性だということにメリッサの緊張は一気にほぐれた。
「友人とはぐれちゃって…」
「友人?どんな人?」
「金髪で紫色の瞳の男性です。背が高くて…」
 女性はしばらく周囲を見渡すと、ふと表情を変え、人混みの奥を指差した。
「………あ、向こうに歩いていった人かも?行ってみましょう」
​ 女性は当然のような顔をして、メリッサの手首を掴んだ。その、拒絶を許さない力の強さに、一瞬だけ喉の奥が引き攣るような違和感を覚える。けれど、「行っちゃいますよ」という急かす声に追い立てられ、メリッサは縋るように彼女の後に続いた。
​ 光に溢れた大通りから、一本。そして、さらにもう一本。
 不自然なほど急激に街の音が遠のいていく。駅とは正反対の方向。シオンの姿など、どこにもない。
(おかしい…)
 そう気づいたときには、網はすでに絞られていた。行く手を阻むように現れた、四人の男たち。背後には、夜の闇で塗りつぶしたような黒いバンが、獲物を待つ獣のように息を潜めている。
 混乱して振り返ったとき、先ほどまで手を引いていた女性の姿は、影が闇に溶けるように、音もなく消え去っていた。
「え……」
​ まさか日本で。安全だと言われていたこの国で。
 最悪の予感は、確信へと変わる。逃げ場はどこにもない。前後左右を、濁った視線が包囲している。
 バンのスライドドアが、重苦しい音を立てて開いた。中から伸びてきた無骨な腕が、メリッサの細い肩を、髪を、情け容赦なく掴み寄せる。
「やめて、放して……っ!」
​ 叫んだつもりだった。けれど、恐怖で喉が強張り、声は湿った吐息にしかならない。腕を捻り上げられ、暴力的な力で暗い車内へと引き摺り込まれる。肩に走る鋭い痛みよりも、自分という存在が“物”のように扱われる屈辱と恐怖が、意識を黒く塗りつぶしていく。
「ドア閉めろ」
「まだだ、足が乗ってねぇ」
「早くしろ!」
​ 怒鳴り合う男たちの言葉は理解できない。けれど、その響きに含まれる下卑た欲望と焦燥は、嫌というほど肌に伝わってきた。

 ――あの時と同じだ。

 これから自分の身に何が起きるのか。想像しただけで、心臓が耳の奥で爆発したかのように跳ねる。足の裏から全身へ、氷水を流し込まれたような寒気が駆け巡る。
(どうしよう……誰か、誰か助けて……シオン様…!)
 思考はバラバラに砕け、出口を失った叫びが意識の隅で震えるばかりだ。
 あの“親切な女性”も、街の安全も、すべてが自分を陥れるための精巧な罠だったのだ。
 絶望が、毒のように身体中を蝕んでいく。
 視界が暗転する。
 バンの重いドアが閉ざされようとしたその瞬間、メリッサは、あまりに深い闇の底で、ただ呼吸を止めることしかできなかった。

 男の一人が、開いたままのスライドドアを勢いよく横に引いた。外の景色が消えていく。車内の暗闇が濃くなる。だが、ガコン、という鈍い衝撃音がして、ドアは完全に閉まりきる直前で止まった。わずかな隙間から、外の景色が細く見える。
「貴様ら……私の恋人を、どうするつもりだ」
​ メリッサの耳に、低く震える声が届いた。
 ドアの縁に掛けられたその手を見て、彼女の胸が熱くなる。恐怖でバラバラになりそうだった心が、その指先を見た瞬間に、ようやく繋ぎ止められた。
「馬鹿!何やってんだ!さっさと閉めろって!」
「閉まらねぇんだよ!!」
「はぁ!?」
「こいつ、すげぇ力だ……動かねぇ!」
「車出せ!!振り切れ!!」
​ 男たちは完全に混乱していた。罵声と驚きが入り混じった声が狭い車内に響き渡る。
 メリッサは手足を押さえつけられたまま、自身の心臓が耳の奥で爆発しそうなほど鳴っているのを感じていた。頬を伝う涙が、震える顎を濡らしていく。
​ スライドドアは開いたまま、車が急発進しようと唸りを上げた。
「逃がすと思うか……?」
​ 直後、車の進行がピタリと止まった。エンジンの回転音が急速に落ちていき、不自然なほどの静寂が訪れる。
 メリッサには分かった。シオンが念動力で車を制止させたのだと。
 絶望の淵にいた彼女の心に、ようやく確かな光が差し込んだ。
​ 三人の男たちが全体重をかけて閉めようとしていたスライドドアが、今度は外側から、ゆっくりと力任せに押し戻され始めた。
「ギギ……」と、金属が悲鳴を上げる。耳に届くのは、みしり、と歪む重い音。レールが撓み、車体の骨組みが軋む不快な音。
 人の力で、これだけのことができるものなのか。しかも、表情ひとつ変えずに片手だけで。
 メリッサの視界の端で、男たちが凍りついているのが分かった。
 運転席も含めて五人。数では圧倒しているはずなのに、誰一人として、開いていくドアの向こうへ立ち向かおうとする者はいなかった。
 シオンは、男たちの混乱などまるで意に介していなかった。鋭く細められた紫色の瞳が、冷徹に車内を射抜く。それは激情に駆られた狂気などではない。獲物を追い詰めた捕食者が放つ、威圧の光だ。逃がさない。その意思だけが、凍てついた空気となって伝わってくる。
「私の恋人を……放せ」
 低く、押し殺された声。
 怒鳴り散らすよりもなお、その静けさが逃げ場のない警告として男たちの鼓膜を震わせる。シオンが手を掛けているスライドドアの、そのレールの軋みが一段と高まった。
 金属が悲鳴を上げ、鉄板が目に見えてひしゃげていく。
 こじ開けるのではない。剥がそうとしているのだ。ドアという“部品”そのものを、車体から力ずくで引き剥がそうとしている。
​ その異常な光景を理解した瞬間、男たちの顔色が一斉に変わった。言葉にならない恐怖が、はっきりと形を持って彼らを支配する。
 メリッサは、息をすることすら忘れてその光景を見つめていた。恐怖はまだ身体の奥に澱のように残っている。けれどそれ以上に、自分はもう一方的に“奪われる側”ではないのだという確信が、震える胸の底で静かに芽生え始めていた。
「彼女を放せ」
 二度目の通告。
 メリッサを最後まで押さえつけていた男が、喉を鳴らして小さく頷いた。その瞬間、身体を拘束していた暴力的な力が消え、手足が自由を取り戻す。けれど、恐怖はまだ全身に張り付いていて、思うように力が入らない。膝がぶるぶると震え、呼吸を整えることさえままならなかった。
「おいで、メリッサ」
 暗闇の中で、シオンの声が灯りのように差し込む。差し出されたその手は、夜の闇の中で白く、現実離れした美しさと絶対的な安心感を孕んでいた。男たちが攻撃してこなかったのは、それが本能的な警告だったからに違いない。

 ――これ以上抗えば、命を落とす。

 メリッサは、震える指先を必死に伸ばした。その先がシオンの掌に触れた瞬間、彼は素早く彼女の手首を掴み、力強く自分の方へ引き寄せた。
 車の外へと飛び出したメリッサは、そのままシオンの胸に抱き止められた。
「すまぬ……恐ろしい思いをさせてしまった」
 彼女を包み込む腕に、強い力が込められる。
 彼にしがみつきながら、メリッサは気づいた。自分を抱きしめているシオンの身体もまた、かすかに震えていることに。
 怒りゆえか、それとも彼女を失いかけた恐怖の余韻か。
 シオンは彼女を片腕で保護したまま、空いた手でスマートフォンを懐から取り出し、淀みのない動作で画面を操作し始めた。
『はい、こちら110番です。事件ですか、事故ですか』
 スピーカーから漏れるオペレーターの声は、驚くほど平坦で、日常の響きを持っていた。それとは対照的に、シオンの応答は、世界がその瞬間だけ凍りついたかのような静寂を伴っていた。
「事件です。車両を用いた誘拐未遂。現在、犯人を確保しています」
 シオンの腕の中でその声を聞きながら、メリッサは震える手で自分の胸を強く押さえた。掌が、狂ったように脈打つ心臓の振動を拾う。恐怖の余韻はまだ心身を蝕んでいる。けれど、目の前に立つシオンを見上げているだけで、喉元までせり上がっていた絶望が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
 一方で、バンの内部では異様な事態が進行していた。男たちが反対側のスライドドアに殺到し、必死にレバーを引く。だが、ドアはまるで車体と一体化した金属の塊になったかのように、微動だにしない。
「開けろ!クソ、なんで開かねぇんだ!」
「鍵は開いてるだろ!押せ、ぶち破れ!」
 蹴り飛ばそうとしても、体当たりをしても、扉は一ミリも動かない。目に見えない強固な壁がそこにあるかのように、物理法則が沈黙している。狭い車内に、酸欠のような焦燥と混乱が充満する。五人の男たちが、自分たちが閉じ込められた“檻”の中で、無力感に喘いでいた。
「騒ぐな」
 ​シオンが通話を終え、短く、低く一喝した。
 その声に、車内の騒乱が嘘のように止まる。男たちは蛇に睨まれた蛙のように口を噤み、ただ荒い呼吸だけが、暗闇の中で獣のそれのように漏れていた。
 逃げ場を失い、理解を超えた力に屈した彼らの肩は、隠しようもなく震えている。絶望は今や、彼らの方をじりじりと追い詰めていた。
 メリッサは、シオンの胸にぎゅっと身を寄せた。まだ手足は冷たく、心臓は耳の奥で高鳴り続けている。けれど、その震えの奥底には揺るぎない安堵があった。
 自分の世界を壊そうとした者たちが、今は彼のひとこと、ひとつの視線に怯えている。
 自分を守る絶対的な存在が、ここにいる。
 遠くから、夜の闇を切り裂くように、赤色灯とサイレンの音が少しずつ近づいてくるのが分かった。

 迷路のような路地の入り口に、パトカーがバンの逃げ道を塞ぐように滑り込み、赤色灯がアスファルトを照らす。何人もの制服警察官が、鋭い足音を響かせて降りてきた。
「動くな!」という一喝が夜の底に響き、車内の空気を完全に沈黙させる。
 男たちは、先ほどまでの凶暴さが嘘のように、力なく一人ずつ車から吐き出されていった。手首に冷たい金属を嵌められ、項垂れて連行されていく背中には、自分たちの理解を超えた「何か」に遭遇してしまったことへの、深い怯えが張り付いている。その光景を、メリッサはシオンの胸に顔を埋めたまま、ただ気配として感じていた。
「シオン様……怖かった……」
 零れ落ちた声は、自分でも驚くほど震えていた。これまでは恐怖を押し殺すために全身を強張らせていたが、彼の腕の中に収まっている今、その緊張が雪解けのように崩れていく。
 掌を彼の胸元に預けると、厚いコート越しにも、生身の鼓動が一定のリズムで伝わってきた。
「メリッサ、すまなかった」
 頭上から降ってきたのは、これまでに聞いたことがないほど深く、痛みを堪えたような響きの謝罪だった。直後、彼女を包み込む腕に、さらに確かな力が込められる。息ができなくなるほど強く、けれど壊れ物を扱うように繊細なその抱擁に、メリッサはようやく、自分が本当に助かったのだと理解した。
 頬を伝う涙が、彼のコートを濡らしていく。シオンの体温、肌から漂う清潔な香りと、彼を構成するすべての熱が、彼女の冷え切った意識を温め直していく。
 何も考えなくていい。今はただ、この温もりに身を預けていればいい。
 赤色灯の残像も、男たちの荒い息遣いも、すべてが遠い世界の出来事のように遠ざかっていった。
 二人の間には、もはや言葉さえ必要なかった。ただ、互いの呼吸が重なり、混じり合うことで、失いかけた“日常”を少しずつ手繰り寄せている。
 夜の渋谷。
 その一角で、二人は静かに、互いの存在の重みを確かめ合っていた。

 事情聴取は、警察署の一室で行われた。蛍光灯の白すぎる光が容赦なく降り注いでいた。パイプ椅子の冷たさが、デニムの生地を抜けて直接肌に伝わる。
 メリッサは、差し出された温かいはずのお茶が、自分の両手のなかで刻一刻と熱を失っていくのを眺めていた。
 メリッサは、シオンのすぐ隣に座っていた。
 震えはもう止まっていた。だが、身体の奥に残った冷えは簡単には抜けない。
 刑事は、落ち着いた口調で一つ一つ確認していく。
 声をかけてきた女性のこと。
 誘導された道。
 バンの位置。
 男たちの人数。
「……同様の手口が、ここ最近、複数確認されています」
 そう前置きしてから刑事は続けた。
 外国人女性観光客や、渋谷に不慣れな若い女性を狙い、単独行動になったところを複数人で囲む。
 逃走用の車両。
 役割分担。
 そして、声をかける“囮”。
「おそらく、同一グループの犯行でしょう」
 メリッサは、小さく息を吐いた。
 自分だけではなかった。
 その事実が救いでもあり、同時に、背すじを冷やすものでもあった。
 一方、別室で取り調べを受けていた男たちは、正気を失っていたらしい。
 刑事が資料をめくりながら言う。
「ただ……供述に、妙な点が多くてですね」
 スライドドアが突然開かなくなった。
 何人がかりでもびくともしなかった。
 エンジンが急に止まり車が動かなくなった。
 外から誰かが何かをしたわけでもない。
「……まるで見えない力で止められたみたいだ、と」 
 刑事は、そこで言葉を切った。
 苦笑に近い表情が見える。
「もちろん、そのまま信じるわけにはいきませんが」
 シオンは何も言わなかった。ただ、静かにメリッサの手を包んでいる。
 警察が理解できなくていい。
 説明がつかなくていい。
 重要なのは、彼女が無事でここにいるという結果だけだ。

 事情聴取が終わる頃、夜はすっかり深くなっていた。渋谷の喧騒は、署の外で続いている。だが、この一件は、確実に終わりへ向かっていた。そして、メリッサの中で、何かが静かに変わり始めていた。
 タクシーの車窓を流れる東京の夜景は、夕方まであんなに眩しく見えていたのに、今はただ、ひどく遠く、他人行儀な光の粒にしか見えない。
 シオンは黙ったまま、メリッサの細い肩をそっと引き寄せた。
「そなたさえ良ければ、今夜は…共に過ごさぬか?」
 耳元で囁く。決して下心ではない。心が冷え切ったメリッサを、このまま一人で過ごさせたくなかった。
 その想いが通じたのかは分からないが、メリッサが小さく頷いた。
「……ん」
 厚い掌から伝わる確かな重みが、宙に浮いたままだった彼女の意識を、ようやく現実世界に繋ぎ止めてくれる。
 ホテルのスイートルームに戻ると、部屋を支配する贅沢な静寂が、かえって痛々しかった。
 新しく買ったばかりのスニーカーの箱を床に置く。バランスを崩して倒れたそれを、戻す気にはならなかった。ベッドの端に腰を下ろしたきり、メリッサは動けなくなった。
 何をすべきか、何を話すべきか、頭の中が真っ白な霧に覆われている。
「……何か、食べられそうか」
 シオンが隣に座り、包み込むように彼女の背に腕を回した。
 ルームサービスを頼むと言われても、空腹感など微塵もなかった。むしろ、胃の腑に冷たい石が詰まっているような不快感がある。
「無理にとは言わぬ。だが、少しだけでも口にしよう」
 届けられたトレイには、色鮮やかな果物や温かいスープが並んでいた。けれど、メリッサにはそれらがすべて、精巧に作られた模型のように見えた。カトラリーを握る気力さえ、どこにも残っていない。
「……メリッサ」
​ シオンが、彼女の隣に腰を下ろした。
 彼は何も言わず、湯気の立ちのぼるスープを一匙すくった。そのまま、赤ん坊に食事を与えるような、この上なく慎重な動作で彼女の唇に近づける。
「……シオン様、あたし……」
「いいから。少しだけだ」
 ​促されるまま、小さく口を開いた。
 流れ込んできた少し熱い温度と、まろやかなコンソメの風味が、乾ききっていた喉を潤し、冷えた身体を温める。
 冷たい石のようだった身体のなかに、微かな火が灯るような感覚。
「……おいしい」
 掠れた声で、ようやくそれだけを口にできた。
「そうか、良かった」
 シオンの声は柔らかく、けれど揺るがない。
 メリッサの頭を軽く撫でる仕草に、心の奥がじんわりと温かくなる。
 一匙、また一匙。シオンが差し出すたび、メリッサは自分が“生きている”ことを、その味覚を通して再確認していく。
 恐怖の残響はまだ完全に消えたわけではないが、こうして誰かに生かされているという実感が、彼女の心を少しずつ、元の形に整え始めていた。
「シオン様は……?何か食べて?」
 メリッサの声はまだ弱々しく、微かに震えていた。
 シオンは一瞬だけ視線を落とし、静かに微笑む。
「今は、そなたが食べられることのほうが大事だ」
 その言葉に、メリッサは胸の奥から安心感が押し寄せるのを感じた。

 しばらくシオンに抱き寄せられていると、メリッサの心は少しずつ落ち着きを取り戻し、震えていた手も、ようやく安定してきた。その手で、少しずつ食べ物を口に運ぶ。
 メリッサがフォークに刺した、一切れのメロンをそっと差し出す。
「シオン様、あーんして」
 声はまだかすかに震えていたけれど、笑みを含んでいた。
「あーん……?」
 シオンの声も、少しだけ戸惑う。メリッサの目に悪戯な光が宿る。
「そ。お口開けて?」
 その瞬間、シオンの胸の奥に微かな動揺が走る。
 メリッサは、あまりに可愛らしく愛おしい。けれど、教皇としてこれはどうなのだろう――いや、教皇である以前に、今は彼女の恋人なのだ。

 ──恋人なら、これも自然な行為なのか……?

 自分の内なる声と理性が小さくぶつかり合う。しかし、その視線の先には、恐怖から解放され、少しずつ表情を和らげるメリッサがいる。
 その光景だけで、迷いは薄れる。
 今は、教皇でも聖闘士でもない。ただ、彼女を守り、愛する存在であるだけだ。
 シオンは、わずかに残った迷いを振り払うように小さく頷き、メリッサの差し出すメロンを唇に受け取る。
 その間に、二人の時間は、静かに、しかし確かに温かさを帯びて流れていった。

 メリッサを手放そうとしないシオン。その腕に包まれていることは、メリッサにとって、ただの安心以上のものだった。
「シオン様……お風呂…一緒に入ってくれる?」
 声は掠れ、震えながらも、どこか頼りなげで愛おしかった。メリッサは、シオンと少しでも離れるのが、怖かったのだ。
「シャワーだけでも良いのではないか?」
 シオンの声は低く、理性が静かに訴える。しかし、メリッサは首を振る。
「ううん……温まりたいし、気持ちを落ち着けたいの」
「……そなたが、そう言うのなら」
 シオンの胸の奥は複雑だった。彼女の存在を、こうしてすぐ隣で確認できることの安心感。けれど、決して、こんな形で彼女に近付きたかったのではない。怖かったのは、シオンも同じだった。
 メリッサを見失ったとき、胸の奥が押し潰されそうな焦りと恐怖に支配された。必死に、彼女の“小宇宙”を探した。一般人として暮らす彼女の小宇宙を、街の雑踏の中で見つけ出すことは容易ではなかった。
 何千人もの人々が行き交う渋谷の街。
 アテネで探したときとは、まるで違う景色だった。焦れば焦るほど、頭は真っ白になり、視界は細く狭くなった。
 でも、今こうして、隣にいる。安心と緊張が同時に胸を締めつける。恐怖のあとに、やっと訪れた小さな安堵。シオンは、その重みをかみしめながら、メリッサの手をそっと握った。

 湯気の立ち上る浴室に、二人は静かに足を踏み入れた。
 シオンはそっと彼女の背後から手を回し、肩を抱くようにして支える。
 湯船に浸かると、熱がじわりと体を満たし、硬直していた筋肉をほどいていく。
 水面に反射する光が、二人の輪郭を淡く揺らす。メリッサは、湯気の向こうで目を伏せ、しかしシオンの手の温かさを確かめるように指先を重ねる。
「……あったかい……」
 小さな声が、浴室に静かに溶けていく。
 シオンは、視線を落としながら、ただ静かに頷いた。
「そうか……よかった」
 二人の間には、言葉ではなく、温度と呼吸のリズムだけが存在していた。
 恐怖と混乱のあとに訪れた静寂。
 それは、ただ寄り添うだけで、互いの存在を確かめるだけで、心が落ち着いていく時間だった。
 メリッサは、湯に浸かることで少しずつ呼吸を整え、身体の震えも和らいでいく。
 シオンもまた、心の奥で、彼女の小宇宙を取り戻せた安堵を感じていた。
 互いの距離は近く、静かな温もりだけがそこにあり、言葉は必要なかった。
 時間がゆっくりと過ぎていく。
 恐怖の余韻はまだ残っている。
 でも今は、二人だけの世界だ。
 湯気の中で、互いの存在を確かめながら、静かに心を落ち着けていった。

 風呂上がりの肌に浴衣を着た二人はベッドの上に腰を下ろす。
 キングサイズの広いベッドに、どう横たわればいいのか、メリッサは少し戸惑っていた。
 あちこちに転がりながら、布団の上でごろごろと向きを変える。
「う〜ん……どうしよう……」
 転がっているうちに裾が少しはだける。
 シオンはそれを見て、眉をひそめるでもなく、ただ静かに注意する。
「メリッサ、裾がはだけてるぞ」
 その声は低く穏やかで、叱責というより、温かい気遣いだった。
 メリッサは慌てて裾を押さえ、少し恥ずかしそうに笑う。
「ごめんなさい……でも、どこに横たわればいいのか分からなくて」
 シオンは少し微笑みながら、ベッドの端に座ったまま手を差し伸べる。
「ここにしろ。私の隣だ」
 メリッサは、シオンの手を取り、やっと安心して横になる。それでも、まだベッドの広さに驚き、体を少しずつ転がしながら位置を調整する。
 シオンはその度に、静かに裾を直したり、枕の位置を整えたりする。
 その間、二人に言葉はほとんどない。けれど、布団を押さえる手、肩越しの視線、指先の軽い触れ合いだけで、互いの存在を確かめ合っていた。
 ようやく落ち着く位置を見つけたメリッサは、深く息をつき、シオンに体を寄せる。
 シオンもまた、少し背を丸め、彼女の体温を感じながら目を閉じる。メリッサの髪をそっと撫で、呼吸のリズムを確かめる。恐怖で硬直していた心と体が、徐々に解けていくのが手に伝わる。目を閉じれば、耳に入るのは自分の心臓の鼓動と、彼女のかすかな息づかいだけ。
「眠れるか?」
 低く囁く声にメリッサは小さく頷き、もう言葉はいらないと伝えるように目を閉じる。
 シオンも、彼女の顔をそっと胸に寄せ、肩を抱きしめたまま目を閉じた。
 広いベッドの中に二人だけの空間が生まれ、外の世界の喧騒も、恐怖も、遠くに溶けていった。
 二人の間に漂うのは、恐怖から解放された安堵と、互いを確かめ合う温もりだけだった。

 早朝の光が、薄くカーテンの隙間から差し込む。
 メリッサは目を覚ました。
 もうすっかり時差には慣れ、体も心も穏やかだった。隣で、シオンはまだ深い眠りの中にある。長い睫毛が微かに揺れ、滑らかな頬に朝の光が当たる。
 高すぎずすっきりとした鼻梁、血色の良い唇は、上下の厚みが絶妙にバランスをとっている。その姿を、メリッサはただ見つめていた。
「はわぁ……シオン様、すごくキレイ」
 小さな声は、自分でも驚くほど自然に出ていた。無防備な寝顔に触れることは、特別な瞬間だ。
 メリッサは、そっと唇を近づけ軽くキスを落とした。唇に触れた感触は、柔らかく、温かい。
 目を閉じれば、静かな呼吸と穏やかな寝息が耳に届く。
恐怖や不安の夜を経て、今、この瞬間の安らぎと幸せが、胸の奥にじんわり広がった。
 シオンはまだ眠ったままだ。
 けれど、メリッサの心の中には、彼に対する愛情と、守られているという確かな安心感が満ちていた。
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