Eine Kleine Ⅲ

 廊下を進みながら、シオンは、少しだけ歩調を緩めた。
「……メリッサ」
 呼び止める声はどこか探るようでありながら、意を決した響きを含んでいる。
「明日なのだが……私は、特に予定がなくて……だな……」
 言い終えたあと、何と回りくどいのだろう、と自分でも思った。メリッサは一瞬きょとんとし、それから、くすっと笑う。
「シオン様、暇なの?」
「……暇と言えば、暇だな……」
 苦笑まじりの返答に、彼女の表情が、ぱっと明るくなる。
「そしたらさ、一緒に原宿と渋谷、行かない?」
 その地名を聞いた瞬間、シオンの脳裏に、いくつもの光景がよぎる。溢れる人。途切れない流れ。視線、雑踏、予測不能な動き。
 正直に言えば、気は進まない。あの人混みにメリッサを連れて行くこと自体が、本能的に避けたい選択だった。この時期の渋谷や原宿は、彼女の想像している以上に人の密度が高いはずだ。
 もっとも、治安という一点で見れば、世界の名だたる繁華街と比べても日本は際立って安全だ。加えて、自分が傍にいる限り、彼女が危険な目に遭う可能性は限りなく低い。
 問題はそこではない。そもそも、他人の悪意や負の感情に敏感なメリッサは人混みが苦手なはずだ。もし、冥闘士の本能が刺激されたらどうする?あの時のように、また、冥衣を纏ってしまったら?一般人に危害を加えてしまったら?
 それらをすべて受け止める覚悟が自分にあるのか。だが、せっかくの旅行だ。異国の街で、彼女が「行きたい」と言った場所。それを、自分の都合と杞憂だけで退けていいのか。
 シオンはしばし黙考したあと、ゆっくりと口を開いた。
「……人が多いぞ」
 それは牽制でも、条件提示でもあった。
「覚悟はいる」
 メリッサは一瞬だけ考え、それから、あっさりと笑った。
「大丈夫。シオン様が一緒なら迷子にならないし」
 そこか。思わず、内心で息を吐く。冥闘士に変貌するなどという可能性は、彼女の中で微塵もないらしい。
「……分かった」
 シオンは頷いた。
「明日、行こう。ただし無理はしないこと。人が多すぎると感じたら、すぐに引き返すからな」
「やった!」
 声を弾ませるメリッサを見て、シオンは目を細めた。気は進まない。だが、後悔もしないだろう。
 彼女の「楽しい」を、自分が隣で見届けられるなら、それだけで十分に意味がある。
 今はそう思えた。

 朝の空気は、まだ冷たさを保っていた。けれど、それは夜の名残というより、目を覚ます前の街が静かに息を整えているような澄んだ冷え方だった。
 原宿駅を出ると、すぐに空気の質が清澄になった。都会のざわめきは背後に置き去りにされ、代わりに、深く落ち着いた静けさが満ちてくる。
「……わ」
 メリッサは、思わず足を止めた。目の前に広がるのは、都心とは思えないほどの緑。高く伸びる木々が、冬の光をやわらかく受け止めている。
「ここが、明治神宮……」
「そうだ」
 シオンは、歩幅を合わせて答えた。
「東京の中心にありながら、意図的に“世俗”から切り離された場所だ」
 砂利を踏みしめる音が、一定のリズムで続く。それが、不思議と心を落ち着かせる。
 メリッサは、周囲をきょろきょろと見回しながら、自然と声を潜めていた。
「なんだか……声を張るのが、悪いことみたい」
「そう感じる者は多いかもしれぬな」
 鳥居の前で二人は足を止める。巨大な鳥居。メリッサはその脚元で真上を見上げた。
「うわ……おっきいね……」
 シオンは、さりげなく横に立ち、静かに一礼した。それを見て、メリッサも慌てて真似をする。ぎこちないが、真剣だ。
「……合ってる?」
「問題ない」
 そう答えながら、メリッサの所作を横目で確かめていた。
 参道を進むにつれ、都会の気配が少しずつ遠ざかっていく。靴底から砂利を踏みしめる感触が伝わってくる。
 じゃり…じゃり…
 しゃり…しゃり…
 二人の身体の重みの差分、砂利のこすれる音もまた違っていた。
 空は高く雑音が少ない。風の気配さえ穏やかだ。
 手水舎で立ち止まり、メリッサは、シオンの動きをじっと観察した。
「こう?」
「そうだ。柄杓は丁寧に扱うのだぞ」
 冷たい水に触れ、彼女は小さく息を呑む。
「冷た……でも、なんか、しゃきっとするね」
「心身を整えるためのものだからな」
 拝殿の前に立つと、自然と背すじが伸びる。
 二礼、二拍手、一礼。
 メリッサは、目を閉じ短く祈った。

 ——東京で、楽しい思い出がちゃんと残りますように。

 そして、言葉にはしなかったが胸の奥で、もう一つの願い事をした。

 ——シオン様と、今日一日を楽しく過ごせますように。

 目を開けると、隣でシオンもまた、静かに祈りを終えたところだった。
 視線が合い、どちらともなく小さく頷き合う。
「……なんか、いいスタートだね」
 メリッサがそう言うと、シオンは、わずかに口元を緩めた。
「ああ。賑やかな場所へ向かう前に、ここを選んだのは、正解だった」
 再び歩き出す。この静けさを背に、やがて、原宿と表参道の喧騒へ。
 だが今はまだ、朝の神域が二人の歩調を静かに整えてくれていた。
 参道を進むうち、メリッサの視線が、何度も同じ方向へ引き寄せられていることにシオンは気づいた。
「どうした?」
 彼女が見ている先には、和装姿の人々がいた。
 淡い色の振袖。
 落ち着いた色合いの訪問着。
 羽織袴の男性や、鮮やかな被布を羽織った幼子。
 日本人だけではない。金色の髪、褐色の肌、明らかに外国人と分かる人々も着物に身を包み、ゆっくりと境内を歩いている。
「……綺麗」
 思わず零れた声は、素直だった。
「着物、だよね?あたし、写真でしか見たことなかった」
「最近は、参拝や記念に和装を選ぶ者も多い」
 シオンは、淡々と答えながらも彼女の表情から目を離せなかった。
「外国の人も普通に着てるんだね」
「文化として尊重しているのだろうな」
 そう言ってから、少し間を置く。
「本来は正装に近い装いだ。この場所には、よく合っている」
 メリッサは、一人の女性に目を留めた。
 薄桃色の着物。背中に結ばれた帯が大きな花のように広がっている。
「すごく綺麗……」
 その言葉は、着物だけに向けられたものではない。自分とは、まったく違う世界に属する美しさ。
時間をかけて受け継がれてきた、“様式”そのもの。
「着てみたいか?」
 不意に、シオンが尋ねた。
「え?」
「興味があるのだろう?」
 図星を突かれ、メリッサは小さく笑った。
「うん……ちょっと。でも、難しそう」
「確かに、一人で着るのは容易ではないな」
 彼は、和装の一団から視線を戻し彼女を見下ろした。
「だが、よく似合うと思う」
「……ほんと?」
「ああ」
 即答だった。理由を説明する必要などなかった。
 メリッサは、少し照れたように視線を逸らす。
「考えておく」
 和装の人々が行き交う中、メリッサはもう一度だけ振り返る。着物の裾が静かに揺れるのを見つめながら、明日の予定に組み込んでみようかな、と想像に胸を膨らませた。
 境内の奥へと歩みを進めるにつれ、空気が一段と静まっていく。玉砂利を踏む音さえ、どこか慎ましくなる場所だった。
 メリッサは、拝殿の前で立ち止まりその佇まいを仰ぐ。
「ここって……?」
「明治天皇と昭憲皇太后のお二人が祀られている。この国が近代へ踏み出す礎を築いたお二人だ」
 メリッサは、少し意外そうにシオンを見る。
「詳しいね」
「無縁ではないからな」
 短くそう言ってから、彼は一拍置いた。
「明治神宮は、明治天皇崩御の後、国民の強い願いによって建立されたのだ」
 ゆっくりと、思い出をなぞるような口調だった。
「生前、陛下はこの地を深く愛された。だからこそ、亡き後もこの森と共に在られるようにと」
「……じゃあ、最初から神社を建てる予定だったわけじゃないんだ」
「ああ。人々の意思だったと聞いている」
 メリッサは、拝殿を見つめながら小さく息を吐いた。
「すごいね。亡くなった後もそんなふうに想ってもらえるなんて」
 シオンは、視線を前に向けたまま静かに続ける。
「昭憲皇太后は、慈愛深い方だった。教育、医療、福祉。表に出ぬところで多くを支えられた」
 それは、教科書の知識ではない。実際に“知っている”者の言葉だった。
「……会ったこと、あるの?」
 問いは、半ば冗談のようで半ば本気だった。
 シオンは、暫しの沈黙のあと、ゆっくり頷いた。
「……ああ。お若い頃の明治天皇と皇后両陛下に」
 メリッサは、目を丸くする。
「え、ほんとにそうなんだ……」
「まあ、常識で考えれば突飛な話だ。驚くのも無理はない。だが、ここに祀られているお二人は、“私が知る姿”とはまた別の存在だ」
 時間を超え、人々の祈りを受け、神として在る存在。
「……縁結びにご利益があるって、書いてあったよ」
 メリッサが、少しだけ冗談めかして言う。
「そう言われているな」
「シオン様、お願いとかする?」
「私は——」
 言いかけて、言葉を選び直す。
「願うより、見守っていただく立場だ」
 その言葉に重みが宿る。
 メリッサは、少しだけ背すじを伸ばし手を合わせた。何を願ったのか彼女は言わなかった。
 シオンもまた、静かに手を合わせる。
 どうか……
 願いとも祈りともつかぬ思いが胸の奥をよぎる。
 彼女が、自分の歩む道の先で孤独に晒されることのないように。
 それだけは、神に委ねることなく自分の意思で守りたいと。
 二人は言葉を交わさぬまま拝殿を後にした。

 二百五十年。
 その数字をメリッサは心の中でなぞってみる。
 二百五十年も生きるということは、出会いの数だけ別れを重ねるということだ。
 しかも、そのほとんどは、彼よりもずっと年若い人々。
 自分より後に生まれ、自分より先に去っていく命など、数えるほどしか知らないメリッサには、それがどれほどの重みを持つのか、想像することすら難しかった。
 家族。
 仲間。
 友。
 名も残らぬ人々。
 彼は、その一人一人をどうやって見送ってきたのだろう。涙を流したのか。あるいは流さぬことを選んだのか。「仕方のないことだ」と、心に言い聞かせる術を身につけてしまったのだろうか。それとも、見送るたびに胸のどこかが確実に削れていったのだろうか。
 シオンの横顔を盗み見る。
 穏やかで、落ち着いていて、揺らぎのない横顔。それは、失うことを知り尽くした者の静けさだ。

 ——長く、孤独だったのだろうか。

 問いは声にならなかった。もしそうだとしたら、その孤独はあまりにも深く、あまりにも長い。
 自分が踏み込んでいい場所ではないと、本能的に分かってしまう。二百五十年という時間は、恋や、不安や、寂しさを口にすることで埋められるものではない。
 メリッサは、小さく息を吐いた。
 彼の人生は、到底、自分の想像の及ばない領域にある。
 それでも、こうして隣を歩いている。それだけが確かな事実だった。過去の重さも、積み重ねた孤独も、自分には量れない。けれど、今この瞬間だけは、同じ時間の中にいる。
 メリッサは、何も言わず歩調をほんの少しだけ、
彼に合わせた。
 それが今の自分にできる精一杯だった。

 明治神宮を出ると、空気は一気に色を変えた。
 静謐から、喧騒へ。
 木々のざわめきの代わりに、人の声と音楽と、溢れるような街の熱。
「すごい……一気に都会だ…!」
 メリッサは目を輝かせ、行き交う人々や看板を忙しなく見渡す。外国語が飛び交い、笑い声とシャッター音が重なり合うこの場所は、彼女にとっては“知っている世界”に近かった。
 まず立ち寄ったのは、ナイキショップ。
 ガラス張りの店内に足を踏み入れた瞬間、メリッサの視線は一直線に壁面の一角へ吸い寄せられた。
「……あれ!」
 指差した先には、日本限定モデルのスニーカーが展示してあった。色使いもラインも、彼女の好みにぴたりとはまっている。
「これ……欲しかったやつ……!」
 嬉しさを隠しきれず弾む声。店員が近づいてくる。英語でサイズや在庫を尋ねてくる。英語は分かる。だが、それほど得意でもないメリッサは、戸惑った。
「……シオン様」
 小さく袖を引く。
「通訳、お願いしてもいい?」
 わずかな躊躇と、それ以上の甘えが滲んだ声。シオンは一瞬、彼女の顔を見下ろしてから静かに頷いた。
「承知した」
 流暢に、よどみなく日本語を紡ぐ。
 サイズ確認、試着、在庫の有無。必要なことを、過不足なく伝える。店員が驚いたように目を瞬かせるのを、メリッサは横目で見て誇らしげだった。
 (どう?どう?あたしのシオン様は!)
 そんな感情が胸に浮かび、慌てて打ち消す。
 試着したスニーカーは、驚くほどしっくりきた。
「これにする!」
 レジに向かう背中は軽い。
 シオンが差し出された箱を受け取る。
「ありがとう、シオン様」
「気に入ったようで、何よりだ」
 それだけの会話なのに、胸の奥が温まる。
 店を出て、竹下通りへ。人の波はさらに濃くなる。カラフルな菓子、派手な服、クレープの甘い匂い。
 メリッサは歩きながら何度も振り返り、写真を撮り、時折、シオンの腕に軽く触れてはぐれないようにする。
 彼は何も言わない。ただ、その距離を許していて彼もまた、この雑多な雰囲気を楽しんでいるようでもあった。
 表参道に出る頃には喧騒は少し洗練されたものに変わり、街路樹の影が歩道に落ちていた。
 ランチに選んだのは、ガラス張りの落ち着いたレストランだった。
 窓際の席で行き交う人々を眺めながら、パスタとサラダで軽めのランチをすませる。
「こういうお店、好き」
 メリッサはフォークを動かしながら言う。
「気取ってるけど、でも、冷たくない感じ」
「よく分からぬが……気に入ったなら良かった」
「うん。それに——」
 少しだけ、声を落とす。
「今日、ずっと一緒にいられてるのが、嬉しい」
 シオンは、すぐには答えなかった。だが、視線を外したまま、静かに言う。
「……私もだ」
 メリッサにはその一言で十分だった。
 立場上、一緒に過ごせる時間は限定的だ。だが、この昼の時間は、二人だけのものだった。

 渋谷へ向かう途中、人の流れが少し緩む場所で、メリッサはふと足を止めた。
「……ね」
 言いかけて、言葉を引っ込める。代わりに、シオンの横顔を盗み見る。
 この街。
 この光。
 この一日。
 残しておきたい。
 そう思った瞬間、胸の奥で小さく跳ねた感情に自分でも驚いた。
 写真を撮りたい。シオンと一緒に。
 それは、ごく自然な願いだった。恋人同士が当たり前のようにすることだ。けれど、すぐに現実が追いつく。デジタルは駄目だ。位置情報、顔認識。どこから漏れるか分からない。教皇という立場には極秘行動が必要不可欠だ。長年積み重ねてきた慎重さを崩させるわけにはいかない。
 それは、分かっている。
(そうだよね……)
 そこで、はっと思い出した。
 チェキ。
 シオンへのクリスマスプレゼントとして、散々悩んでようやく選んだもの。
 少しでも早く渡したかった。
 写真が形として残るのがいい。
 そう思って日本まで持ってきたのに、ホテルに置いたままだ。
(……持ってくれば良かった)
 心の中で、嘆息した。
 メリッサは視線を落とし、歩きながらぎゅっと拳を握った。
「どうした?」
 メリッサの様子に気づいたシオンが穏やかに尋ねる。
「ううん、なんでもない」
 笑顔で答える。
 写真がなくても、この時間は確かにここにある。
 そう自分に言い聞かせながらも、胸のどこかで重たい後悔が残っていた。
 若いカップルがスマートフォンを構えて笑い合う姿。友人同士が肩を寄せ、何気ない一瞬を切り取っているシャッター音。画面を覗き込む笑顔。どれも当たり前の光景だし、メリッサも友人とはそうして写真を撮ったりすることも少なくない。
 でも、一番望む相手とはそれができない。
 それが、胸に深く刺さっているのだと、彼女自身が一番よく分かっていた。
(いいな……)
 思ってはいけないと分かっていても、思ってしまう。
 一緒に写真を撮る。
 それだけのことが。
 誰にも咎められず、誰にも隠す必要のない関係が。
(……羨ましいな)
 その考えをすぐに、首を振る。
 制限のある付き合いになるのは、最初から分かっていたし承知したはずだ。
 立場。
 年齢。
 背負っているもの。
 一つ一つを思い出して、自分に言い聞かせる。
 自分たちはそういう関係なのだと。
 欲しいものを全部欲しがってはいけない。望めないことを数え上げてはいけない。それでも、胸の奥に残る小さな寂しさは、なかったことにはならない。
 メリッサは、その感情を抱えたまま何も言わずに歩いた。
 
 人の流れに身を委ねながら、シオンは、メリッサの小さな変化を逃さなかった。
 声の高さ。
 歩幅。
 隣を歩く距離。
 どれも決定的ではない。だが、確かにメリッサのテンションが少しだけ落ちている。
(……何か、あったか)
 そう思っても、理由までは辿り着けない。問いただすほどでもなく、かといって見過ごすには近すぎる。
 彼女は、黙って半歩前を歩いている。
 シオンは、彼女の沈黙の意味を測りかねながら、ただ歩調を合わせる。
 言葉にされない想いが二人の間を流れていく。
 賑やかな渋谷の街の中で、それだけがひどく静かだった。
 原宿から表参道を抜け、渋谷の街へ足を踏み入れると空気の密度が、明らかに変わった。
 音が多い。
 人の声、靴音、ビルの隙間から溢れる音楽。
 それでも、まだ“渋谷の中心”ではない。
 大通りを一本外れた通りには、古い喫茶店と新しいセレクトショップが混在し、壁一面に描かれたグラフィティが、無遠慮に自己主張している。
「……すごいね」
 メリッサが呟く。
 原宿とはまた違う。可愛いではなく、洗練でもなく、もっと、生々しい。
「人が多くて、みんな好き勝手に生きてる感じがする」
 シオンは、周囲を見渡しながら頷いた。
「秩序がないようで、暗黙の了解がある街だな」
「うん。ぶつかりそうでぶつからないよね。こんなに人がいるのに」
 言葉を交わしながら二人はゆっくりと歩く。
 古着屋の前で足を止めショーウィンドウを覗く。
「これ、あたし似合うかな」
「……色は、悪くない。だが、私が持つそなたのイメージとは少し…異なるように思う」
 即答しないところに彼なりの真剣さが滲む。メリッサはそれがおかしくて、くすりと笑った。
 通りを進めば、小さなギャラリーやレコードショップ。昼間から営業しているバー。まだ、夜ではないのに、夜の気配はすでに街の奥に潜んでいる。
(こういう場所、初めてかも)
 そう思いながら、シオンが隣を歩く感覚を確かめる。人混みの中でもはぐれない距離にいる。
 近すぎず離れすぎず。けれど、確かに隣にいる。
 通りに面した小さな店を気の向くままに覗いていく。看板は控えめでも、扉を開けるとぎゅっと個性が詰まった空間が広がる。
 雑貨屋。
 アクセサリー店。
 香水の専門店。
「これ、可愛い」
 メリッサが手に取ったのは、小ぶりなイヤーカフだった。主張しすぎない金属の光。
「似合うと思う」
 シオンの返答は短いが迷いがない。
「即答だね」
「そなたの好みは大体分かってきた」
 その言葉に、メリッサは一瞬言葉を失う。
 分かってきた。
 それは、時間を重ねてきた者だけが言える言葉だ。
 別の店では、布の手触りを確かめながらスカーフを広げる。
「これ、ギリシャでも使えそう」
「大学の雰囲気に合いそうだな」
 色を選び柄を比べ、ほんの些細なことで立ち止まる。買い物そのものより、一緒に悩む時間が不思議と楽しい。通りの角で焼き菓子の香りに足を止める。
「甘いもの、好きだったな」
「好き。でも、量はそんなに食べられないよ」
「では、二人で分けよう」
 その一言に、胸の奥がきゅっとなる。二人で分ける前提。それだけで特別な感じがする。
 紙袋が少しずつ増えていく。重さよりも時間が積み重なっていく感覚。通りを歩くカップルや友人たちと同じことをしているはずなのに、どこか慎重で、どこか遠慮がある。それでも、今は渋谷の街で肩を並べて、同じものを見て、同じ店に入っている。
 メリッサは、ふとシオンを見上げる。
「今日は……楽しいね」
「……ああ」
 その返事は静かで確かだった。スクランブル交差点はまだ見えていない。けれど、その手前の渋谷は十分に賑やかで、十分に二人の記憶になっていった。
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