Eine Kleine Ⅲ

 スマートフォンを伏せ、シオンは一度、天井を見上げた。深く息を吸っても、胸の奥の重さは変わらない。
《ラウンジで》
 それだけを返した。余計な言葉を添えなかったのは、添えられる言葉がどれも嘘になりそうだったからだ。
 身を起こし、上着を羽織る。テーブルの上の紙袋が、視界の端に入る。

 ——今は、持っていかない。

 そう決めた。渡すかどうかを決める前に、まず、彼女の声を聞かなければならない。
 特別客室専用のエレベーターは、音もなく下降していく。鏡に映る自分の顔は、自分が思っていたより、ずっと若かった。
 若く、そして、迷っている顔だった。

 カードキーを置き、メリッサはソファに腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
《ラウンジで》
 短い返事だったが、拒まれていないのだと理解した。それだけで、胸の奥が安堵で緩む。
 それでも、立ち上がるまでに少し時間がかかった。
 鏡の前に立ち、髪を整える。整えながら、思う。

 ——何を話すんだろう。

 決めてきたはずだった。
 言うべきことは、頭の中に並べてきた。それなのに、彼の顔を思い浮かべた途端、その順番がすべて崩れてしまった。
 エレベーターの中、階数表示が下がるのを見つめながら、メリッサは小さく息を吐いた。
 逃げない、と決めた。
 それだけは、はっきりしていた。

 ラウンジは、まだ混み合ってはいなかった。
 夕方と夜の境目の空。窓の外の光が、少しずつ色を変えていく時間帯だ。
 先にいたのは、シオンだった。
 奥の席で壁に背中を預けるように座っている。その姿を見つけた瞬間、メリッサの足が、一瞬、止まった。
 やっぱり会いたかった。でも、それと同じくらい、会うのが怖かった。
 シオンもまた、彼女に気づく。立ち上がるべきか迷い、結局、立ち上がらなかった。
 視線だけが絡む。名前を呼ぶまでに数秒の間があった。けれど、その数秒は、今日一日の出来事をすべて詰め込めるほど、長かった。
「……メリッサ」
 呼ばれて、彼女は、ようやく一歩前へ進んだ。
 化粧直しをしてきたのだろう。普段より少しだけ大人びた顔に見えた。
「シオン様……お待たせ」
 その声は、控えめで、けれど確かに、彼を呼んでいた。
「いや、私も今、来たところだ」
 咄嗟にそう返し、シオンは立ち上がった。
 ソファを少し引く動作は丁寧だったが、どこかぎこちない。
「座ってくれ」
「あ……うん……ありがとう」
 メリッサは小さく頷き、彼の示した席に腰を下ろす。一拍遅れてシオンもソファに戻った。
 距離は、さきほどより近い。その分、視線の置きどころが分からなくなる。
 言葉が、続かない。
 どちらも、話したいことは山ほどあるはずなのに、最初の一言を越えた先が、見えない。
 メリッサは膝の上で指を絡め、シオンはテーブルの縁に視線を落とした。
 沈黙が、気まずさというより、慎重さの色を帯びて、二人の間に横たわる。
 壊したくない。
 間違えたくない。
 そんな思いだけが言葉よりも先に、そこにあった。
 シオンは、一度だけ短く息を整え視線を上げる。
「……先に、詫びさせてほしい」
 その声音は低く、慎重で、けれど逃げ場をつくらないものだった。
 メリッサは驚いたように顔を上げ、数回、目を瞬かせる。
「連絡を入れられなかったことだ」
 言い切るまでに、わずかな間があった。
 言葉を選んでいるのが、はっきりと分かる沈黙。
「クリスマス前後からの公務は、国外だった。時差もあり……何より、要人との極秘会談が目的だったため、行き先も日程も、共有できなかった」
 それは説明であって、弁明ではない。
「結果として、そなたを不安にさせた。理由があったとしても、それは変わらない」
 テーブルの上で、シオンの指が静かに組まれる。
「……すまなかった」
 その一言は、軽くない。
 教皇としてではなく、一人の男としての謝罪だった。
 メリッサは、すぐには何も言えなかった。
 胸の奥で、いくつもの感情が行き交う。
 理解できる理由。
 けれど、理由があっても消えなかった不安。そして今、真正面から向けられる、まっすぐな言葉。
「……そう、だったんだ」
 ようやく、それだけを口にする。
 責める調子でも、赦す調子でもない。ただ、事実を受け取ろうとする声だった。
 シオンは、その反応に安堵したわけでもなく、次の言葉を急ぐこともしなかった。
「本当は――」
 そこまで言いかけて、止める。
 今はまだ、伝えるべき順番があると、彼自身が分かっていたからだ。
 ラウンジには、静かな時間が流れている。けれど、先ほどまでの沈黙とは違い、それはもう、互いを遠ざけるものではなかった。

「何日も会えなかったのは仕方ないけど、連絡もとれなくてあたしはとても寂しかった。シオン様は?少しでも寂しいとか、あたしと会いたいとか…思ってくれた?」
 シオンは、即座に答えなかった。
 それは迷いではなく、その問いに軽い言葉を与えたくなかったからだ。
 メリッサの視線を、逃げずに正面から受け止める。
「……思わなかった日など、ない」
 低く、静かな声だった。
「会えないこと自体よりも、そなたが、どんな顔で朝を迎えているのか。誰と話し、何を見ているのか。それを知らずにいることが……耐え難かった」
 指先が、わずかに緊張を帯びる。
「寂しい、という感情を私は長く遠ざけてきた。それを口にする立場でもなかった」
 一拍、間を置く。
「だが――」
 視線が、ほんのわずかに和らぐ。
「そなたにだけは、違った。会いたいと思った。声を聞きたいとも、触れたいとも思った」
 そこで初めて、シオンの言葉にためらいが混じる。
「……それが許される感情なのかどうか、判断できずにいた」
 ラウンジの空気が、少しだけ張り詰める。
 しかしそれは、拒絶の緊張ではない。
「私は、自分で思っていたよりも遥かに不器用だと知った。そなたを想うほど、どう振る舞えばよいのか分からなくなる。それでも……寂しかったかと問われれば――」
 シオンは、はっきりと答えた。
「私は、確かに寂しかった。そなたに、会いたかった」
 その言葉は、教皇のものではない。一人の男が、好いた女性に向けて差し出した、偽りのない本心だった。
 
 メリッサは、膝の上で組んでいた指をほどき、少しだけ、背筋を伸ばす。
「……あの時」
 声は、思っていたより落ち着いていた。けれど、それは平静というより、崩れないように力を込めた結果だった。
「シオン様から《会いたい》ってメッセージが来たとき、正直……すごく嬉しかったの」
 視線を伏せる。まるで、自分の感情を見つめ直すように。
「でもね、同時に、怖くもなった」
 顔を上げる。逃げずに、シオンを見る。
「会いたいって言われたら、あたし、何も考えずに会いに行ってしまうって分かってたから」
 唇を噛みしめ、それから、ゆっくりと言葉を続ける。
「それでいいのか、分からなくなったの。シオン様の立場も、あたしの立場も……ちゃんと考えないまま、気持ちだけで会ってしまっていいのかって」
 少しだけ、息を吸う。
「だから、《気持ちを整理する時間がほしい》って返した」
 それは拒絶ではなかった。距離を取るための言葉でもなかった。それだけは知ってほしかった。
「逃げたかったわけじゃない。むしろ逆で……」
 声が、ほんのわずかに揺れる。
「ちゃんと向き合いたかったの。シオン様の《会いたい》に、同じ重さで《会いたい》って答えられるように」
 沈黙が落ちる。だが、それはもう、冷たいものではなかった。
「整理する時間が必要だったのは、シオン様の気持ちじゃない……あたし自身の気持ち」
 その言葉を聞きながら、シオンはようやく理解する。あの短い一文の裏にあったのが、ためらいでも、拒絶でもなく、誠実さだったのだということを。
 ラウンジの静けさが、二人を包み込む。
 今はまだ、すべてが解けたわけではない。けれど、同じ方向を見ようとしているその確かな感触だけは、
はっきりと、そこにあった。
 メリッサは、少し照れたように視線を逸らしながら続けた。
「東京に来たのは……ヘスティア様が、ご招待してくださったからなの」
 そう言いながら、自分でも可笑しいと思ったのか、かすかに笑う。
「まさか、同じホテルだなんて思ってなかった。本当に、偶然で……」
 そこで言葉を切り、今度は、逃げずにシオンを見る。
「でも――」
 一拍胸の奥で、気持ちを確かめるような間。
「会えて、嬉しい」
 その言葉は、飾り気がなく、駆け引きもなかった。
 シオンの胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
「……そうか」
 それだけを返すのが精一杯だった。
 ヘスティアの名が出たことで、状況は一気に腑に落ちた。辰巳が彼女と共にいた理由も、東京にいる理由も。だが、それ以上に彼の心を強く打ったのは、最後の一言だった。
 会えて、嬉しい。
「私も……」
 シオンは、言葉を探すように、ほんの少し視線を落とす。
「会えたことを、嬉しく思っている」
 簡単な言葉なのに、それを口にするまでにどれほどの時間を要したことか。
「同じホテルだと知っていたら、もっと早く――」
 言いかけて、止める。
 過去を悔やむより、今、こうして向き合っていることの方が、大切だと分かっていた。
 ラウンジの向こうで、静かな音楽が流れている。
 東京の夜がゆっくりと近づいてくる。
 二人の間には、まだ越えるべきものがある。
 けれど今は、同じ場所に立ち同じ時間を共有している。それだけで十分に意味があった。
 メリッサは、ふと思いついたように身を乗り出した。
 さっきまでの張りつめた空気が、少しだけ緩む。
「ね、ね、シオン様が泊まるのって……スイートルームなんでしょ?」
 好奇心を隠しきれない声音。
「どんな感じなの?見てみたい」
 その言葉に、シオンは一瞬、言葉を失う。
 スイートルーム。
 それは彼にとって、慣れきった、何の感慨も生まない空間だ。広く、整えられ、過不足ない、ただ“用意された場所”。だが、それを彼女が「見てみたい」と言うだけで、意味が変わってしまう。
 軽く咳払いをして、視線を逸らす。
「大したものではない。広いだけで、面白みもない」
 事実だ。だが、それは彼自身の感覚に過ぎない。
「それに……」
 シオンは言い淀む。彼女を自分の私的な空間に招くこと。その意味を、シオンはよく分かっていた。
「軽々しく、勧めてよいものか……」
 そう言いながらも、拒絶の色は、声には含まれていない。メリッサは、その様子を見て、ほんの少し首を傾げる。
「だめ、かな」
 責めるでもなく、試すでもなく。ただ、残念そうに。その表情に、シオンの胸がかすかに軋む。
「……だめ、というわけではないが」
 ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「ただ――私にとっては、そなたを通すこと自体が、少し……特別なのだ」
 その一言にメリッサは目を瞬かせ、それから、小さく息を呑む。ラウンジの空気が、また静かに変わる。先ほどまでの緊張とは違う、近づきすぎることへの、慎重な戸惑い。
 シオンは、テーブルの上に置いた手を、わずかに握りしめた。
「もし……それでも見たいと言うのなら」
 視線を、彼女へ戻す。
「少しだけだ。休憩がてら、立ち寄る程度であれば」
 それは、許可というより勇気を振り絞った提案だった。メリッサの返事ひとつで、この距離は、もう一段階、近づいてしまう。
 メリッサは、ぱっと表情を明るくした。さっきまでの慎重さが、嘘のようにほどける。
「やった! ありがとう!」
 それから、少しだけ照れ隠しのように付け足す。
「……社会勉強のためにね!」
 その言い方があまりに彼女らしくて、シオンは思わず、わずかに口元を緩めた。
「社会勉強、か」
 低く呟くように繰り返し、立ち上がる。
「では……案内しよう。もっとも、期待するほどのものではないが」
「えー、絶対すごいでしょ」
 メリッサも立ち上がり、少し弾む足取りで並ぶ。
 ラウンジを出ると、周囲の気配が静まった。
 廊下の絨毯が足音を吸い込み、二人の距離が、自然と近づく。専用エレベーターの前で立ち止まると、シオンはカードキーを取り出した。その仕草を、メリッサは興味深そうに見ている。
「……なんか、大人って感じ」
 ぽつりと零れた言葉に、シオンは一瞬、返答に迷う。
「そう見えるだけだろ」
 そう言って、エレベーターのボタンを押した。静かに扉が開き、二人は中へ入る。
 上昇を知らせる、かすかな感覚。
 表示が階を上げていくたび、メリッサはそっと息を吸い、シオンは、無意識に背すじを正した。
 彼にとっては、何度も通ったはずの道。
 それなのに今日は、妙に落ち着かない。
 メリッサを連れている。
 その事実だけで、空間の意味が変わってしまう。
 やがて、エレベーターが静かに止まった。
「……着いたぞ」
 扉が開く。
 そこに広がるのは、人の気配を極限まで排した静謐なフロア。
 メリッサは、思わず小さく息を呑んだ。
「……わ」
 その一音だけで、彼女が感じたすべてが伝わる。
 シオンは一歩先に立ち、振り返って言った。
「どうぞ。短い時間だが……歓迎する」
 それは、部屋への招待であると同時に、彼の内側へ、一歩踏み込むことを許す言葉でもあった。
メリッサは部屋に一歩足を踏み入れた途端、目を輝かせた。
「うわぁ……貴族の部屋だ!凄いね!!あたしには、一生無縁のお部屋だ!」
 無邪気な感嘆と悪気のない率直な言葉。
 一生無縁。
その一言が、シオンの胸の奥に、静かに、しかし確実に突き刺さった。
 彼女は、ここを「一時的に覗く場所」として見ている。自分の人生とは交わらない遠い世界の象徴として。
 それはつまり、彼女の未来の中に自分が立っている光景を、想定していないということだ。恋人である今。想いを通わせている今でさえ、その先に続く時間を彼女はまだ描いていない。
 当然だ。
 そう、頭の中では理解できている。
 彼女は若い。自由で、可能性に満ちていて、本来なら、誰かの立場や宿命に縛られる必要などない。ましてや、教皇という名を背負った男の人生など。
「……そうだな」
 シオンは、あくまで穏やかに答えた。
「この部屋は、役目に付随して用意されているだけだ。私自身のものではない」
 それは事実であり、同時に、彼自身への言い聞かせでもあった。
 それでも。
 いつか。
 もしも。
 教皇ではなく、ただの一人の男として彼女の隣に立ち、彼女を伴侶として迎え、同じ空間で朝を迎える日が来れば——
 その願いは、生涯に一度だけ密やかに抱く、シオン個人のあまりにも私的な夢だった。だが今は、その夢を口にすることすら許されない。
 メリッサは窓辺に近づき、ガラス越しに広がる東京の景色を見下ろしている。
「ねえ、シオン様。ここから見る街、全然違って見えるね」
 その背中を見つめながらシオンは思う。彼女は、未来を閉ざしているわけではない。ただ、まだ知らないだけだ。自分がどれほど深く、どれほど長い時間をかけて彼女の人生を共に歩みたいと願っているのかを。
 焦るな。
 そう、己に言い聞かせる。
 今はただ、彼女がこの部屋で感じる驚きと楽しさを壊さずに見守ること。それができる距離に彼女がいてくれる。それだけで今は十分なのだと。
「お風呂場も見せて!」
 その一言に、シオンの思考がほんの一瞬だけ停止した。
「……湯殿?」
「うん! だってスイートでしょ?大理石? それとも日本なら木のお風呂とか?」
 期待に満ちた目で見上げられ、シオンは小さく息を吐く。
「……普通の湯殿だぞ」
「ユドノ…?」
「バスルームのことだ」
「ああ!お風呂場のことユドノって言うんだ。勉強になるね。でも広いんでしょ?ね、ダメ?」
 見上げながら無自覚に距離を詰めてくるその仕草に、シオンは一歩分、精神的に後退した。
「……いや……」
 断る理由はない。ない、はずなのだが。逡巡する間に、メリッサは首を傾げ、じっと彼を見る。
 居た堪れなくなったシオンは、思わず視線を逸らしてしまった。
「………むむ?もしかして、誰か浴室に隠れてるの?」
「いるはずなかろう」
 思わず即答した。
 その反応がおかしかったのか、メリッサはくすっと笑う。
「じゃあ、問題ないね!」
 そう言うと、許可を取るより早く、浴室の扉に手をかける。
「待――」
 制止の言葉は、間に合わなかった。扉が開き、照明が自動で点く。メリッサの目の前に広がったのは、清潔で、確かに広めではあるが、あくまで機能的なバスルームだった。
「……あ」
「……」
 数秒の沈黙。
「……本当に、普通だね」
「そう言っただろう」
 少し肩の力が抜けたように、シオンはそう返す。
 メリッサは中を一周見渡し、洗面台、バスタブ、シャワーを確認してから、満足そうに頷いた。
「でも、広い!二人でも余裕だね!」
 その一言で、空気がぴたりと止まる。
「……」
「……」
 メリッサは、自分の言葉の意味に気づいたのか、息を呑んで目を見開いた。
「ち、違う!そういう意味じゃなくて!あくまで広さの話!」
 慌てて両手を振る。
「分かっている」
 シオンはそう答えたが、声はわずかに低かった。
「……だが、不用意な発言は、心臓に悪い」
「ご、ごめん……」
 耳まで赤くなったメリッサが、そそくさと浴室を出る。その背中を見送りながら、シオンは深く息を吐いた。
 危ない。
 感情の均衡が簡単に崩れてしまいそうになった。
 浴室の灯りを消し、静かに扉を閉める。
「……他に、見たいものは?」
 そう問いかける声は、先ほどよりほんの少しだけ柔らかかった。メリッサは振り返り、にっと笑う。
「次は、ベッド!」
「……それは、“見るだけ”にしてくれ」
「もちろん!」
 即答だった。その軽さに救われつつ、先ほどからじりじりと胸を焦がす熱を、どうにかやり過ごすのに少しばかり苦労する。
 メリッサは、目を輝かせたままベッドの前に立ち尽くしていた。
「うわぁ……おっきいベッド!これは、何サイズ?」
「……キングサイズだ」
「キング!?王様だ!凄い凄い!」
 感嘆の勢いのまま、メリッサは靴を脱ぎ、ためらいなくベッドへ上がろうとする。
「……見るだけと言ったろ」
「んー、でもちょっと体感したい」
 軽い調子でそう言って、彼女はマットレスに手をつき、スプリングの反発を確かめるように、四つ這いの姿勢で進んでいく。
 沈み、返る。
 その感触が楽しいのか、小さく声を上げながら、ベッドの中程まで進んだ。
「ね、ね、枕も見せて!」
 振り返った、その瞬間。シオンは、反射的に視線を逸らした。
 まずい。
 理性が、はっきりと警鐘を鳴らす。意図せず強調される、柔らかな曲線を描く下半身。
 無防備すぎる距離感。
 彼女は何も意図していない。誘惑などもってのほかで、ただ、初めて触れる高級ホテルの寝具に、純粋にはしゃいでいるだけだ。
 分かっている。分かっているからこそ、なおさら視線の置き場に困る。
「……メリッサ」
 声が、思ったより低くなった。
「それ以上は……だめだ」
「え?」
 きょとんとした顔で首を傾げ、ようやく自分の体勢に気づいたのか、少しだけ動きを止める。
「……あ」
 遅れて、理解が追いつく。
「ご、ごめん!全然そういうつもりじゃ……!」
 慌てて起き上がり、ベッドに正座する。
 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かっている」
 その言葉に、責める響きはない。
「だが……私の忍耐にも、限度はある」
 メリッサは、思わず口を押さえ、それから、気まずそうに笑った。
「……じゃあ、やっぱり“見るだけ”だね」
「そうしてくれ」
 そう答えながらも、シオンは、まだ胸の奥に残るざわめきを、静かに鎮めることができずにいた。
 この距離は近すぎる。
 それを改めて思い知らされるほどに、メリッサの存在はシオンの理性を試していた。
 スイートルームに、微妙な沈黙が落ちた。
 さきほどまでの高揚が嘘のように、空気だけが静まり返っている。
 メリッサは、その重さをごまかすように、明るめの声を作った。
「……あ、じゃあ……あたしは自分の部屋に戻るね。こんなに豪華じゃないけど、デラックスツインなの」
 そう言って、視線を逸らす。自分でも、少し照れているのが分かっている。
「……うむ」
 シオンは短く応じ、それから、ごく自然な調子で続けた。
「では、部屋まで送ろう」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 メリッサは首を振る。
 これ以上シオンの空間に踏み込むのが、少しだけ怖くなっていた。
「いや」
 だが、シオンは引かなかった。声音は穏やかだが、有無を言わせないような強さがあった。
「私がついていた方が、万が一にも見咎められることはないだろう」
「そうなの?」
 思わず聞き返すと、シオンは一瞬だけ視線を外す。
「……可能性の問題だが」
 それは、理屈としては正しい。立場上、彼と一緒にいる方が安全なのも、確かだ。けれど、その言葉の奥にある本音を、シオン自身がいちばんよく分かっていた。
 少しでも長く、もう少しだけ長く、彼女の隣にいたい。
 それだけだった。
 メリッサは、数秒考え、それからふっと力を抜いた。
「じゃあ、お願いしようかな」
 その返事に、シオンの胸の奥が温かくなった。
「承知した」
 そう言って、先に立つ。
 部屋を出る直前、テーブルの上に置かれた紙袋に一瞬だけ視線を向けた。
 今ではない。
 そう心の中で区切りをつけ、彼は扉を開ける。廊下に出ると、夜のホテル特有の静けさが広がっていた。
 二人分の足音が柔らかな絨毯に吸い込まれていく。
 並んで歩く距離は、触れ合わず離れすぎない。
 その曖昧さが、今の二人を、何より正確に表していた。
7/13ページ
スキ