Eine Kleine Ⅲ

 鍵を受け取ったとき、シオンの中で、この一日はようやく「終わる」はずだった。
 フロントのやり取りは、事務的で、過不足がない。名を告げ、確認を受け、カードキーを受け取る。全てが予定通りだった。
 専用エレベーターへ向かうため、踵を返した、そのときだった。
 背後から、不意に、空気の質が変わる。
 耳に馴染んだ声。
 聞き間違えるはずもない。
 音の抑揚。
 語尾の癖。
 そして、何より。
 この国では、ほとんど耳にすることのない言語。

 ――ギリシャ語。

 心臓が、一拍遅れて反応する。
「……メリッサ……?」
 思考よりも先に、名が口をついて出ていた。振り返った先、フロントカウンターの前に見覚えのある後ろ姿があった。
 コートのデザイン。
 髪の色、長さ。
 無意識に重心を前に置く立ち方。
 間違うはずがない。そこにいたのは、メリッサだった。その隣に、ひときわ大柄な男がいる。
 辰巳徳丸。
 その顔を認識した瞬間、反射的に警戒が解ける。
 彼は知っている人物だ。城戸邸の執事であり、アテナの護衛。信用に足る人間であることも理解している。だからこそ、なおさら、理解が追いつかなかった。
 なぜ。
 なぜ、彼女が、ここにいる。
 なぜ、東京に。
 なぜ、辰巳と一緒に。
 思考が、音を立てて空回りする。二人の間に、個人的な関係があるとは、到底考えられない。辰巳は、職務に忠実な男だ。私情を挟むことを、何よりも嫌う。メリッサもまた、そういう形で人に頼ることを、しない。
 では、なぜ。理由が、どこにも見当たらない。
 カウンター越しに、メリッサが、辰巳に何かを言っている。
 表情は、穏やかだ。少し疲れているようにも見えるが、朝に想像していたような、不安げな影はない。それが、胸の奥に、微かな違和感を残す。
 安心、している。
 その事実が、どうしてか、ひどく現実味をもって迫ってきた。
 自分の知らない場所で、自分の知らない時間に、彼女は誰かに守られ、誰かと過ごし、こうして、立っている。
 それは、本来、望むべきことのはずなのに。シオンは、一歩も動けずにいた。
 声をかけるべきか、それとも、まだ早いのか。自分がここにいる理由も、彼女がここにいる理由も、まだ、何ひとつ分からなかった。
 
 辰巳と笑顔で短く言葉を交わし、メリッサはフロントカウンターを離れた。昼の遊興の余韻が残っているせいか、それとも、ホテルに戻れた安堵のせいか、足取りは軽かった。
 一歩、二歩と足を運ぶその途中で、ふと、視線が前方に吸い寄せられる。
 視線がぶつかった次の瞬間、彼女の顔色がはっきりと変わった。血の気が引く、という表現がこれほど正確に当てはまることもない。
「……シオン……さ、ま……?」
 名を呼ぶ声が、かすかに震えた。それは、驚きか、困惑か。あるいは、もっと複雑で、整理のつかない感情か。少なくとも、無邪気な歓喜ではなかった。
 そのことが、シオンの胸に、静かに、しかし確実に突き刺さる。
 彼は、何も言わなかった。代わりに、手にしていた紙袋の紐を、ぎゅっと握り締める。和紙の感触が、指に食い込む。
 贈り物の重みが、今になってやけに生々しい。
 視線を逸らした。
 それは、拒絶ではない。感情の揺らぎを、誰にも見られたくなかったのだ。
 特に、辰巳徳丸に。
 彼は、こちらを見ている。視線の端で、その気配を感じる。城戸邸の執事。忠誠と職務を生きる男。
 この場で、教皇として取り乱すわけにはいかない。
(……落ち着け)
 内心で、自分に言い聞かせる。
 冷静に考えれば、辰巳がメリッサと行動を共にしている理由は、一つしかない。アテナ、あるいは、ヘスティア。
 恐らく、十中八九、ヘスティアの采配だろう。
 彼女なら、説明もなくこういうことをやってのける。「必要だと思ったから」その一言で済ませる姿が、容易に想像できた。それなら、それで構わない。メリッサが、安全で守られているのなら。だが、なぜ、教えてくれなかったのか。事前に、一言でもあれば、心構えも整理もできたはずなのに。
 不意打ちのような再会は、心の奥に押し込めていた想いを否応なく揺さぶる。
 視線を戻すと、メリッサはまだそこに立っていた。
 逃げてもいない。
 近づいてもこない。
 ただ、どうしていいか分からない、という顔でその場に立ち尽くしていた。その距離が、二人の今を正確に表しているようだった。
 フロントの空気は、何事もなかったかのように流れている。
 チェックインの声、荷物を運ぶスタッフの足音。その中で、この一角だけ時間が止まっていた。
 シオンは、ようやく、小さく息を吸う。教皇としてではなく、一人の男として。
 次に言葉を発するのはどちらになるのか、それすらまだ、分からなかった。

 先に動いたのは、辰巳だった。
「猊下、ご無沙汰いたしております」
 深く、だが過剰ではない一礼は、仕える者として、過不足のない所作だった。
「……いや。息災だったか」
 返した声は、思いのほか低かった。感情を抑えたつもりでも、完全には隠しきれていない。
「はい。お陰様で」
 辰巳は、そこで一度、間を置く。視線を上げるかどうか、ほんの一瞬だけ迷ってから、続けた。
「今朝、羽田にてメリッサ様をお迎えし、そのままこちらへ」
 説明が、始まった。それが必要であることを、この場の誰よりも理解しているのは、彼自身だ。
「朝、アテナ様にお会いしてきた――存じておろう?」
 シオンは、言葉を選びながらそう言った。
 事実確認。
 それ以上でも以下でもないはずの問い。
「はい」
 短く、曖昧さのない返答。そこで、会話は一度、行き止まる。本来なら、この程度の間など、いくらでも埋められた。外交の場でも、聖戦後の混乱でも、敵意と疑念が渦巻く会談の席でも。言葉は、常に武器であり、盾だった。
 場をもたせるための言葉など、労せずいくらでも出てくるはずだった。
 なのに。
 今は、出てこない。
 頭の中に無数の選択肢は浮かぶ。
「長旅だったろう」
「東京は寒い」
「無事で何よりだ」
 どれも間違いではない。だが、どれも正しくもない。一言でも発すれば、この空気が決定的に変わってしまう。それを無意識のうちに理解していた。
 沈黙の中で、メリッサは、二人のやり取りを見ていた。口を開かず、だが、視線だけは逸らさない。
 自分の存在がこの場の均衡を崩していることを、彼女自身が誰よりも分かっていた。
 辰巳はそのことにも気づいている。だからこそ、半歩分だけ前に出た。
「本日は、こちらで休まれるご予定です。長旅でしたので、これ以上のご挨拶は——」
「……そうだな」
 シオンは、かぶせるように言った。それ以上、言わせてはならない気がした。説明が進めば進むほど、自分が耐えられなくなる。理由が筋道立てて明らかになる前に、この場を収めるべきなのだろう。
「それなら、今日はもう、休ませるといい」
 それは、教皇としての判断だ。そう言い聞かせる。辰巳は、静かに目を伏せ、再び一礼した。
「お心遣い、感謝いたします」
 形式は完璧だった。しかしその間、メリッサとシオンの視線は、一度も、正面から重ならなかった。
 確かにそこにいるのに。確かに再会しているのに、言葉が追いつかないまま、時間だけが静かに進んでいく。
 沈黙は不和の兆しではない。二人に長く積もりすぎた感情が、まだ、言葉の形を見つけられずにいるだけだった。

「参りましょう」
 辰巳が、低く、しかし迷いのない声で促した。
 メリッサは、はっとしたように肩を揺らし、一瞬だけシオンの方を見る。何かを言おうとして、結局、言葉にはならなかった。
 小さく、会釈だけをして、辰巳の隣へと身を寄せる。
 一般客室へ向かうエレベーターは、ロビーの奥、視線を少し外した位置にある。シオンが使う特別客室の動線とは、最初から交わらないよう、設計されている。
 同じ場所にいても、同じ道を行くことはない。
 辰巳が、シオンの横を通り過ぎる。
「……」
 言葉はない。ただ、深く、短い一礼。その所作は、城戸邸の執事としてではなく、一人の仕える者としての、最大限の敬意だった。
 その瞬間、ふっと、空気が揺れた。
 辰巳の上着から、ほのかに、香りが立つ。すぐに、それが彼自身の香水ではないと分かった。
 もっと柔らかく、懐かしく、陽だまりに咲いた花のような、瑞々しく甘い香り。
 胸の奥が爪を立てられたように軋んだ。
 それは、メリッサの香りだった。
 辰巳が先に歩き出し、その半歩後ろを、メリッサがついていく。彼女が、シオンの横を通り過ぎる、そのとき。
 今度は、逆だった。
 辰巳が使っているはずの控えめな香水の気配が、一瞬、彼女からも香った。
 錯覚だ。
 そう、思おうとした。
 同じ車に乗り、同じ空間で過ごせば、香りが移ることなど、珍しくもない。
 頭では、分かっている。
 それでも、胸の奥に説明のつかない違和感が残る。
 嫉妬ではなく、疑念でもない。
 ただ、自分の知らない時間を、彼女が確かに過ごしていたという事実。その痕跡が、香りという形で否応なく突きつけられただけだ。

 一般客室へ向かうエレベーターの扉が閉まる。

 静かに、完全に、視界から二人が消える。ロビーには、再び整った静寂が戻った。
 シオンは、まだ動けずにいた。
 手にした紙袋が、わずかに音を立てる。贈り物は、まだ渡されていない。胸の内だけが、ひどくざわついていた。
 同じホテルにいながら、違う階へ。違う扉の向こうへ。
 この距離が、思っていた以上に遠いものに感じられてならなかった。


 特別客室は、静かすぎた。
 扉が閉まると同時に、外界の気配は完全に断ち切られる。 
 天井は高く、窓は広く、家具の配置も、完璧に計算されている。
 それなのに。

 ——何ひとつ、満たされない。

 シオンは、靴も脱がぬまま室内を横切った。ソファも、書斎机も、用意されたすべてが、ただの「空間」に過ぎない。孤独だけが、はっきりと形を持って、そこにあった。
 テーブルの上に、紙袋をそっと置く。音を立てぬようにしたつもりだったが、紙がわずかに擦れる。その小さな音が、妙に大きく感じられた。
 贈るつもりだった。渡せるかどうかは別として。それでも、彼女の手に届く未来を、どこかで信じていた。
 今日の再会は、あまりにも想定外だった。心の準備も、言葉の準備も、何ひとつできていないまま。
 シオンは、ベッドルームへ向かう。足取りは重く、どこか頼りない。
 キングサイズのベッドは、過剰なほどに広い。彼は、その中央へ身を投げた。柔らかなマットレスが、衝撃を吸い込む。だが、心までは受け止めきれない。
 天井を見つめる。見慣れない模様。見慣れない照明。
 ここは、どこだ。
 東京。
 日本。
 そう、分かっている。
 それでも、現実感が、遠い。
(……話すべきだ)
 頭では、分かっている。誤解があれば、解くべきだ。理由があるなら、聞くべきだ。教皇としても、一人の男としても。
 分かっている。それなのに、身体が動かない。
 ほんの数分前の光景が、何度も脳裏に蘇る。
 驚きに揺れた彼女の声。言葉にならなかった間。そして、こちらを見つめながら、踏み出さなかった足。あれは、拒絶だったのか。それとも、戸惑いだったのか。
 判断がつかない。いや、判断できない自分が情けなかった。聖域の頂点に立ち、数え切れぬ決断を下してきた。
 命の重さを天秤にかけることさえ、厭わずに。それなのに、たった一人の女性の前で言葉を失い、動けなくなっている。自分でも笑うしかない。だが、笑えなかった。
 目を閉じると、ロビーの照明が浮かぶ。
 あの距離、あの空気。
 同じホテルにいる。それだけが、かろうじて現実だった。
 今日のこの動揺は、誰のせいでもない。彼女のせいでも、辰巳のせいでも、ヘスティアのせいでもない。
 自分自身のせいだ。
 そう理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
 広すぎるベッドの上でシオンは、ただ静かに呼吸を繰り返す。贈り物は、まだテーブルの上にある。
 その存在が、今はただ重かった。

 辰巳に導かれ、メリッサは客室の前で足を止めた。廊下は静かで、足音さえ絨毯に吸い込まれていく。
「こちらのお部屋でございます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
 差し出されたカードキーを、両手で受け取る。金属の感触が、ひやりと冷たい。
「ありがとうございます」
 声は、思ったよりも落ち着いていた。けれど、胸の奥はまだざわついている。
「では、私はこれで」
 辰巳が一歩、引く。
 その背中を見送ろうとして、メリッサは、思わず声をかけた。
「あ、……明日は?」
 振り返った辰巳の表情は、穏やかだった。
「明日も、辰巳さんいらっしゃるんですか?」
 ほんの少しの不安が、その問いに滲んでいる。
「もし、猊下と合流されないようでしたら、お供いたします」
 一瞬、言葉の意味を咀嚼する。
「……シオン様と?」
「はい」
 辰巳は、はっきりと頷いた。
「どうぞ、猊下へご連絡差し上げてください」
 その声は、命令でも、催促でもない。あくまで、選択肢として差し出されている。
「男という生き物は、女性の想像以上に臆病なものです」
 意外な言葉だった。
「特に、好いた女性に対しては」
 その一言で、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「あたしから……連絡しても、いいんでしょうか」
 自信のなさがそのまま声になる。
 辰巳は、少しだけ目を細めた。
「もちろんです」
 迷いのない答え。
「猊下は、お待ちになっているはずです。ただ——」
 言葉を選ぶように、一拍、間を置く。
「どう踏み出せばよいか、分からずにおられるだけで」
 メリッサは、カードキーを握る指に、力を込めた。ロビーで見た、あの一瞬の視線の逸らし方。紙袋を強く握っていた、彼の手。
 あれは、拒絶ではなかった。そう、思えてくる。
「……分かりました」
 小さく、しかし確かな声で言った。
「連絡、してみます」
 その言葉に、辰巳は、深く一礼する。
「ご無理はなさらず。ですが、お心のままに」
 それだけを残し、彼は静かに去っていった。廊下に一人きりになる。
 メリッサは、カードキーをかざし扉を開けた。室内に入っても、すぐには扉を閉めなかった。胸の鼓動が、まだ、少し速い。端末を取り出す。画面に表示される名前を、しばらく見つめてから。
 送信。
 短い文面だった。
 けれど、それは確かに、辰巳の言葉に背を押され、
彼女自身が選んだ一歩だった。

 ベッドに伏せたまま、シオンは、しばらく動かなかった。脱いだ上着のポケットから、微かな振動音がする。一度。そして、もう一度。
 分かっている。このタイミングで、他に考えられる相手などいない。
 上着に手を伸ばし、ポケットから端末を取り出す。画面が灯る。そこに表示されていたのは、予想通りの名前だった。
 メリッサ。
 短い文面が、静かに、しかし確かな重さをもって並んでいる。

《話したいことがあります。会ってください》

 読み終えた瞬間、胸の奥が、軋むように音を立てた。
 会いたいです、ではない。
 会えませんか、でもない。
《会ってください》
 中途半端な逃げ道を、最初から残していない言葉。選択肢は、二つだけだ。
 イエスか、ノーか。
 もし、ここでノーと返せば、それは、今日の再会を、ただの偶然で終わらせるということ。彼女の勇気を、そのまま退けるということ。

 ——決別。

 その可能性を、彼女は理解していないはずがない。それでも、この言葉を送ってきた。覚悟の上なのか。それとも、ノーが返らないと、どこかで信じているのか。今のシオンには、それさえ判断がつかなかった。
 端末を握る手に自然と力が入る。親指が返信欄の上で止まったまま、動かない。言葉はいくらでも浮かぶ。
「今は少し時間が欲しい」
「落ち着いてから話そう」
「今日は、やめておこう」
 どれも、優しさを装った逃避だ。そして、彼女はそれを望んでいない。再会の場で一歩も踏み出せなかったのは、自分のほうだった。彼女は、踏み出してきた。
 臆病なのは、どちらだ。
 教皇として何百年も生きてきた男が、たった一行のメッセージを前に、身動きが取れなくなっている。
 天井を見つめたまま、シオンは、ゆっくりと息を吸った。逃げる理由はいくらでもある。
 だが、逃げ続けてきた結果が、今の距離なのだとしたら、これ以上、遠ざかるわけにはいかない。
 指がようやく動いた。画面に短い返事を打つ。余計な言葉は、選ばない。彼女が求めているのは、説明でも弁解でもない。ただ、向き合うことだ。
 送信。
 その音は、驚くほど小さかった。だが、その一音で、シオンは、もう後戻りできない場所へ足を踏み入れたのだと、理解していた。

 ベッドから身を起こす。胸の奥で、不安と、覚悟が、静かに拮抗している。

 ——会う。

 その事実だけが、今は、確かだった。
6/13ページ
スキ