Eine Kleine Ⅲ
鍵を受け取ったとき、シオンの中で、この一日はようやく「終わる」はずだった。
フロントのやり取りは、事務的で、過不足がない。名を告げ、確認を受け、カードキーを受け取る。全てが予定通りだった。
専用エレベーターへ向かうため、踵を返した、そのときだった。
背後から、不意に、空気の質が変わる。
耳に馴染んだ声。
聞き間違えるはずもない。
音の抑揚。
語尾の癖。
そして、何より。
この国では、ほとんど耳にすることのない言語。
――ギリシャ語。
心臓が、一拍遅れて反応する。
「……メリッサ……?」
思考よりも先に、名が口をついて出ていた。振り返った先、フロントカウンターの前に見覚えのある後ろ姿があった。
コートのデザイン。
髪の色、長さ。
無意識に重心を前に置く立ち方。
間違うはずがない。そこにいたのは、メリッサだった。その隣に、ひときわ大柄な男がいる。
辰巳徳丸。
その顔を認識した瞬間、反射的に警戒が解ける。
彼は知っている人物だ。城戸邸の執事であり、アテナの護衛。信用に足る人間であることも理解している。だからこそ、なおさら、理解が追いつかなかった。
なぜ。
なぜ、彼女が、ここにいる。
なぜ、東京に。
なぜ、辰巳と一緒に。
思考が、音を立てて空回りする。二人の間に、個人的な関係があるとは、到底考えられない。辰巳は、職務に忠実な男だ。私情を挟むことを、何よりも嫌う。メリッサもまた、そういう形で人に頼ることを、しない。
では、なぜ。理由が、どこにも見当たらない。
カウンター越しに、メリッサが、辰巳に何かを言っている。
表情は、穏やかだ。少し疲れているようにも見えるが、朝に想像していたような、不安げな影はない。それが、胸の奥に、微かな違和感を残す。
安心、している。
その事実が、どうしてか、ひどく現実味をもって迫ってきた。
自分の知らない場所で、自分の知らない時間に、彼女は誰かに守られ、誰かと過ごし、こうして、立っている。
それは、本来、望むべきことのはずなのに。シオンは、一歩も動けずにいた。
声をかけるべきか、それとも、まだ早いのか。自分がここにいる理由も、彼女がここにいる理由も、まだ、何ひとつ分からなかった。
辰巳と笑顔で短く言葉を交わし、メリッサはフロントカウンターを離れた。昼の遊興の余韻が残っているせいか、それとも、ホテルに戻れた安堵のせいか、足取りは軽かった。
一歩、二歩と足を運ぶその途中で、ふと、視線が前方に吸い寄せられる。
視線がぶつかった次の瞬間、彼女の顔色がはっきりと変わった。血の気が引く、という表現がこれほど正確に当てはまることもない。
「……シオン……さ、ま……?」
名を呼ぶ声が、かすかに震えた。それは、驚きか、困惑か。あるいは、もっと複雑で、整理のつかない感情か。少なくとも、無邪気な歓喜ではなかった。
そのことが、シオンの胸に、静かに、しかし確実に突き刺さる。
彼は、何も言わなかった。代わりに、手にしていた紙袋の紐を、ぎゅっと握り締める。和紙の感触が、指に食い込む。
贈り物の重みが、今になってやけに生々しい。
視線を逸らした。
それは、拒絶ではない。感情の揺らぎを、誰にも見られたくなかったのだ。
特に、辰巳徳丸に。
彼は、こちらを見ている。視線の端で、その気配を感じる。城戸邸の執事。忠誠と職務を生きる男。
この場で、教皇として取り乱すわけにはいかない。
(……落ち着け)
内心で、自分に言い聞かせる。
冷静に考えれば、辰巳がメリッサと行動を共にしている理由は、一つしかない。アテナ、あるいは、ヘスティア。
恐らく、十中八九、ヘスティアの采配だろう。
彼女なら、説明もなくこういうことをやってのける。「必要だと思ったから」その一言で済ませる姿が、容易に想像できた。それなら、それで構わない。メリッサが、安全で守られているのなら。だが、なぜ、教えてくれなかったのか。事前に、一言でもあれば、心構えも整理もできたはずなのに。
不意打ちのような再会は、心の奥に押し込めていた想いを否応なく揺さぶる。
視線を戻すと、メリッサはまだそこに立っていた。
逃げてもいない。
近づいてもこない。
ただ、どうしていいか分からない、という顔でその場に立ち尽くしていた。その距離が、二人の今を正確に表しているようだった。
フロントの空気は、何事もなかったかのように流れている。
チェックインの声、荷物を運ぶスタッフの足音。その中で、この一角だけ時間が止まっていた。
シオンは、ようやく、小さく息を吸う。教皇としてではなく、一人の男として。
次に言葉を発するのはどちらになるのか、それすらまだ、分からなかった。
先に動いたのは、辰巳だった。
「猊下、ご無沙汰いたしております」
深く、だが過剰ではない一礼は、仕える者として、過不足のない所作だった。
「……いや。息災だったか」
返した声は、思いのほか低かった。感情を抑えたつもりでも、完全には隠しきれていない。
「はい。お陰様で」
辰巳は、そこで一度、間を置く。視線を上げるかどうか、ほんの一瞬だけ迷ってから、続けた。
「今朝、羽田にてメリッサ様をお迎えし、そのままこちらへ」
説明が、始まった。それが必要であることを、この場の誰よりも理解しているのは、彼自身だ。
「朝、アテナ様にお会いしてきた――存じておろう?」
シオンは、言葉を選びながらそう言った。
事実確認。
それ以上でも以下でもないはずの問い。
「はい」
短く、曖昧さのない返答。そこで、会話は一度、行き止まる。本来なら、この程度の間など、いくらでも埋められた。外交の場でも、聖戦後の混乱でも、敵意と疑念が渦巻く会談の席でも。言葉は、常に武器であり、盾だった。
場をもたせるための言葉など、労せずいくらでも出てくるはずだった。
なのに。
今は、出てこない。
頭の中に無数の選択肢は浮かぶ。
「長旅だったろう」
「東京は寒い」
「無事で何よりだ」
どれも間違いではない。だが、どれも正しくもない。一言でも発すれば、この空気が決定的に変わってしまう。それを無意識のうちに理解していた。
沈黙の中で、メリッサは、二人のやり取りを見ていた。口を開かず、だが、視線だけは逸らさない。
自分の存在がこの場の均衡を崩していることを、彼女自身が誰よりも分かっていた。
辰巳はそのことにも気づいている。だからこそ、半歩分だけ前に出た。
「本日は、こちらで休まれるご予定です。長旅でしたので、これ以上のご挨拶は——」
「……そうだな」
シオンは、かぶせるように言った。それ以上、言わせてはならない気がした。説明が進めば進むほど、自分が耐えられなくなる。理由が筋道立てて明らかになる前に、この場を収めるべきなのだろう。
「それなら、今日はもう、休ませるといい」
それは、教皇としての判断だ。そう言い聞かせる。辰巳は、静かに目を伏せ、再び一礼した。
「お心遣い、感謝いたします」
形式は完璧だった。しかしその間、メリッサとシオンの視線は、一度も、正面から重ならなかった。
確かにそこにいるのに。確かに再会しているのに、言葉が追いつかないまま、時間だけが静かに進んでいく。
沈黙は不和の兆しではない。二人に長く積もりすぎた感情が、まだ、言葉の形を見つけられずにいるだけだった。
「参りましょう」
辰巳が、低く、しかし迷いのない声で促した。
メリッサは、はっとしたように肩を揺らし、一瞬だけシオンの方を見る。何かを言おうとして、結局、言葉にはならなかった。
小さく、会釈だけをして、辰巳の隣へと身を寄せる。
一般客室へ向かうエレベーターは、ロビーの奥、視線を少し外した位置にある。シオンが使う特別客室の動線とは、最初から交わらないよう、設計されている。
同じ場所にいても、同じ道を行くことはない。
辰巳が、シオンの横を通り過ぎる。
「……」
言葉はない。ただ、深く、短い一礼。その所作は、城戸邸の執事としてではなく、一人の仕える者としての、最大限の敬意だった。
その瞬間、ふっと、空気が揺れた。
辰巳の上着から、ほのかに、香りが立つ。すぐに、それが彼自身の香水ではないと分かった。
もっと柔らかく、懐かしく、陽だまりに咲いた花のような、瑞々しく甘い香り。
胸の奥が爪を立てられたように軋んだ。
それは、メリッサの香りだった。
辰巳が先に歩き出し、その半歩後ろを、メリッサがついていく。彼女が、シオンの横を通り過ぎる、そのとき。
今度は、逆だった。
辰巳が使っているはずの控えめな香水の気配が、一瞬、彼女からも香った。
錯覚だ。
そう、思おうとした。
同じ車に乗り、同じ空間で過ごせば、香りが移ることなど、珍しくもない。
頭では、分かっている。
それでも、胸の奥に説明のつかない違和感が残る。
嫉妬ではなく、疑念でもない。
ただ、自分の知らない時間を、彼女が確かに過ごしていたという事実。その痕跡が、香りという形で否応なく突きつけられただけだ。
一般客室へ向かうエレベーターの扉が閉まる。
静かに、完全に、視界から二人が消える。ロビーには、再び整った静寂が戻った。
シオンは、まだ動けずにいた。
手にした紙袋が、わずかに音を立てる。贈り物は、まだ渡されていない。胸の内だけが、ひどくざわついていた。
同じホテルにいながら、違う階へ。違う扉の向こうへ。
この距離が、思っていた以上に遠いものに感じられてならなかった。
特別客室は、静かすぎた。
扉が閉まると同時に、外界の気配は完全に断ち切られる。
天井は高く、窓は広く、家具の配置も、完璧に計算されている。
それなのに。
——何ひとつ、満たされない。
シオンは、靴も脱がぬまま室内を横切った。ソファも、書斎机も、用意されたすべてが、ただの「空間」に過ぎない。孤独だけが、はっきりと形を持って、そこにあった。
テーブルの上に、紙袋をそっと置く。音を立てぬようにしたつもりだったが、紙がわずかに擦れる。その小さな音が、妙に大きく感じられた。
贈るつもりだった。渡せるかどうかは別として。それでも、彼女の手に届く未来を、どこかで信じていた。
今日の再会は、あまりにも想定外だった。心の準備も、言葉の準備も、何ひとつできていないまま。
シオンは、ベッドルームへ向かう。足取りは重く、どこか頼りない。
キングサイズのベッドは、過剰なほどに広い。彼は、その中央へ身を投げた。柔らかなマットレスが、衝撃を吸い込む。だが、心までは受け止めきれない。
天井を見つめる。見慣れない模様。見慣れない照明。
ここは、どこだ。
東京。
日本。
そう、分かっている。
それでも、現実感が、遠い。
(……話すべきだ)
頭では、分かっている。誤解があれば、解くべきだ。理由があるなら、聞くべきだ。教皇としても、一人の男としても。
分かっている。それなのに、身体が動かない。
ほんの数分前の光景が、何度も脳裏に蘇る。
驚きに揺れた彼女の声。言葉にならなかった間。そして、こちらを見つめながら、踏み出さなかった足。あれは、拒絶だったのか。それとも、戸惑いだったのか。
判断がつかない。いや、判断できない自分が情けなかった。聖域の頂点に立ち、数え切れぬ決断を下してきた。
命の重さを天秤にかけることさえ、厭わずに。それなのに、たった一人の女性の前で言葉を失い、動けなくなっている。自分でも笑うしかない。だが、笑えなかった。
目を閉じると、ロビーの照明が浮かぶ。
あの距離、あの空気。
同じホテルにいる。それだけが、かろうじて現実だった。
今日のこの動揺は、誰のせいでもない。彼女のせいでも、辰巳のせいでも、ヘスティアのせいでもない。
自分自身のせいだ。
そう理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
広すぎるベッドの上でシオンは、ただ静かに呼吸を繰り返す。贈り物は、まだテーブルの上にある。
その存在が、今はただ重かった。
辰巳に導かれ、メリッサは客室の前で足を止めた。廊下は静かで、足音さえ絨毯に吸い込まれていく。
「こちらのお部屋でございます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
差し出されたカードキーを、両手で受け取る。金属の感触が、ひやりと冷たい。
「ありがとうございます」
声は、思ったよりも落ち着いていた。けれど、胸の奥はまだざわついている。
「では、私はこれで」
辰巳が一歩、引く。
その背中を見送ろうとして、メリッサは、思わず声をかけた。
「あ、……明日は?」
振り返った辰巳の表情は、穏やかだった。
「明日も、辰巳さんいらっしゃるんですか?」
ほんの少しの不安が、その問いに滲んでいる。
「もし、猊下と合流されないようでしたら、お供いたします」
一瞬、言葉の意味を咀嚼する。
「……シオン様と?」
「はい」
辰巳は、はっきりと頷いた。
「どうぞ、猊下へご連絡差し上げてください」
その声は、命令でも、催促でもない。あくまで、選択肢として差し出されている。
「男という生き物は、女性の想像以上に臆病なものです」
意外な言葉だった。
「特に、好いた女性に対しては」
その一言で、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「あたしから……連絡しても、いいんでしょうか」
自信のなさがそのまま声になる。
辰巳は、少しだけ目を細めた。
「もちろんです」
迷いのない答え。
「猊下は、お待ちになっているはずです。ただ——」
言葉を選ぶように、一拍、間を置く。
「どう踏み出せばよいか、分からずにおられるだけで」
メリッサは、カードキーを握る指に、力を込めた。ロビーで見た、あの一瞬の視線の逸らし方。紙袋を強く握っていた、彼の手。
あれは、拒絶ではなかった。そう、思えてくる。
「……分かりました」
小さく、しかし確かな声で言った。
「連絡、してみます」
その言葉に、辰巳は、深く一礼する。
「ご無理はなさらず。ですが、お心のままに」
それだけを残し、彼は静かに去っていった。廊下に一人きりになる。
メリッサは、カードキーをかざし扉を開けた。室内に入っても、すぐには扉を閉めなかった。胸の鼓動が、まだ、少し速い。端末を取り出す。画面に表示される名前を、しばらく見つめてから。
送信。
短い文面だった。
けれど、それは確かに、辰巳の言葉に背を押され、
彼女自身が選んだ一歩だった。
ベッドに伏せたまま、シオンは、しばらく動かなかった。脱いだ上着のポケットから、微かな振動音がする。一度。そして、もう一度。
分かっている。このタイミングで、他に考えられる相手などいない。
上着に手を伸ばし、ポケットから端末を取り出す。画面が灯る。そこに表示されていたのは、予想通りの名前だった。
メリッサ。
短い文面が、静かに、しかし確かな重さをもって並んでいる。
《話したいことがあります。会ってください》
読み終えた瞬間、胸の奥が、軋むように音を立てた。
会いたいです、ではない。
会えませんか、でもない。
《会ってください》
中途半端な逃げ道を、最初から残していない言葉。選択肢は、二つだけだ。
イエスか、ノーか。
もし、ここでノーと返せば、それは、今日の再会を、ただの偶然で終わらせるということ。彼女の勇気を、そのまま退けるということ。
——決別。
その可能性を、彼女は理解していないはずがない。それでも、この言葉を送ってきた。覚悟の上なのか。それとも、ノーが返らないと、どこかで信じているのか。今のシオンには、それさえ判断がつかなかった。
端末を握る手に自然と力が入る。親指が返信欄の上で止まったまま、動かない。言葉はいくらでも浮かぶ。
「今は少し時間が欲しい」
「落ち着いてから話そう」
「今日は、やめておこう」
どれも、優しさを装った逃避だ。そして、彼女はそれを望んでいない。再会の場で一歩も踏み出せなかったのは、自分のほうだった。彼女は、踏み出してきた。
臆病なのは、どちらだ。
教皇として何百年も生きてきた男が、たった一行のメッセージを前に、身動きが取れなくなっている。
天井を見つめたまま、シオンは、ゆっくりと息を吸った。逃げる理由はいくらでもある。
だが、逃げ続けてきた結果が、今の距離なのだとしたら、これ以上、遠ざかるわけにはいかない。
指がようやく動いた。画面に短い返事を打つ。余計な言葉は、選ばない。彼女が求めているのは、説明でも弁解でもない。ただ、向き合うことだ。
送信。
その音は、驚くほど小さかった。だが、その一音で、シオンは、もう後戻りできない場所へ足を踏み入れたのだと、理解していた。
ベッドから身を起こす。胸の奥で、不安と、覚悟が、静かに拮抗している。
——会う。
その事実だけが、今は、確かだった。
フロントのやり取りは、事務的で、過不足がない。名を告げ、確認を受け、カードキーを受け取る。全てが予定通りだった。
専用エレベーターへ向かうため、踵を返した、そのときだった。
背後から、不意に、空気の質が変わる。
耳に馴染んだ声。
聞き間違えるはずもない。
音の抑揚。
語尾の癖。
そして、何より。
この国では、ほとんど耳にすることのない言語。
――ギリシャ語。
心臓が、一拍遅れて反応する。
「……メリッサ……?」
思考よりも先に、名が口をついて出ていた。振り返った先、フロントカウンターの前に見覚えのある後ろ姿があった。
コートのデザイン。
髪の色、長さ。
無意識に重心を前に置く立ち方。
間違うはずがない。そこにいたのは、メリッサだった。その隣に、ひときわ大柄な男がいる。
辰巳徳丸。
その顔を認識した瞬間、反射的に警戒が解ける。
彼は知っている人物だ。城戸邸の執事であり、アテナの護衛。信用に足る人間であることも理解している。だからこそ、なおさら、理解が追いつかなかった。
なぜ。
なぜ、彼女が、ここにいる。
なぜ、東京に。
なぜ、辰巳と一緒に。
思考が、音を立てて空回りする。二人の間に、個人的な関係があるとは、到底考えられない。辰巳は、職務に忠実な男だ。私情を挟むことを、何よりも嫌う。メリッサもまた、そういう形で人に頼ることを、しない。
では、なぜ。理由が、どこにも見当たらない。
カウンター越しに、メリッサが、辰巳に何かを言っている。
表情は、穏やかだ。少し疲れているようにも見えるが、朝に想像していたような、不安げな影はない。それが、胸の奥に、微かな違和感を残す。
安心、している。
その事実が、どうしてか、ひどく現実味をもって迫ってきた。
自分の知らない場所で、自分の知らない時間に、彼女は誰かに守られ、誰かと過ごし、こうして、立っている。
それは、本来、望むべきことのはずなのに。シオンは、一歩も動けずにいた。
声をかけるべきか、それとも、まだ早いのか。自分がここにいる理由も、彼女がここにいる理由も、まだ、何ひとつ分からなかった。
辰巳と笑顔で短く言葉を交わし、メリッサはフロントカウンターを離れた。昼の遊興の余韻が残っているせいか、それとも、ホテルに戻れた安堵のせいか、足取りは軽かった。
一歩、二歩と足を運ぶその途中で、ふと、視線が前方に吸い寄せられる。
視線がぶつかった次の瞬間、彼女の顔色がはっきりと変わった。血の気が引く、という表現がこれほど正確に当てはまることもない。
「……シオン……さ、ま……?」
名を呼ぶ声が、かすかに震えた。それは、驚きか、困惑か。あるいは、もっと複雑で、整理のつかない感情か。少なくとも、無邪気な歓喜ではなかった。
そのことが、シオンの胸に、静かに、しかし確実に突き刺さる。
彼は、何も言わなかった。代わりに、手にしていた紙袋の紐を、ぎゅっと握り締める。和紙の感触が、指に食い込む。
贈り物の重みが、今になってやけに生々しい。
視線を逸らした。
それは、拒絶ではない。感情の揺らぎを、誰にも見られたくなかったのだ。
特に、辰巳徳丸に。
彼は、こちらを見ている。視線の端で、その気配を感じる。城戸邸の執事。忠誠と職務を生きる男。
この場で、教皇として取り乱すわけにはいかない。
(……落ち着け)
内心で、自分に言い聞かせる。
冷静に考えれば、辰巳がメリッサと行動を共にしている理由は、一つしかない。アテナ、あるいは、ヘスティア。
恐らく、十中八九、ヘスティアの采配だろう。
彼女なら、説明もなくこういうことをやってのける。「必要だと思ったから」その一言で済ませる姿が、容易に想像できた。それなら、それで構わない。メリッサが、安全で守られているのなら。だが、なぜ、教えてくれなかったのか。事前に、一言でもあれば、心構えも整理もできたはずなのに。
不意打ちのような再会は、心の奥に押し込めていた想いを否応なく揺さぶる。
視線を戻すと、メリッサはまだそこに立っていた。
逃げてもいない。
近づいてもこない。
ただ、どうしていいか分からない、という顔でその場に立ち尽くしていた。その距離が、二人の今を正確に表しているようだった。
フロントの空気は、何事もなかったかのように流れている。
チェックインの声、荷物を運ぶスタッフの足音。その中で、この一角だけ時間が止まっていた。
シオンは、ようやく、小さく息を吸う。教皇としてではなく、一人の男として。
次に言葉を発するのはどちらになるのか、それすらまだ、分からなかった。
先に動いたのは、辰巳だった。
「猊下、ご無沙汰いたしております」
深く、だが過剰ではない一礼は、仕える者として、過不足のない所作だった。
「……いや。息災だったか」
返した声は、思いのほか低かった。感情を抑えたつもりでも、完全には隠しきれていない。
「はい。お陰様で」
辰巳は、そこで一度、間を置く。視線を上げるかどうか、ほんの一瞬だけ迷ってから、続けた。
「今朝、羽田にてメリッサ様をお迎えし、そのままこちらへ」
説明が、始まった。それが必要であることを、この場の誰よりも理解しているのは、彼自身だ。
「朝、アテナ様にお会いしてきた――存じておろう?」
シオンは、言葉を選びながらそう言った。
事実確認。
それ以上でも以下でもないはずの問い。
「はい」
短く、曖昧さのない返答。そこで、会話は一度、行き止まる。本来なら、この程度の間など、いくらでも埋められた。外交の場でも、聖戦後の混乱でも、敵意と疑念が渦巻く会談の席でも。言葉は、常に武器であり、盾だった。
場をもたせるための言葉など、労せずいくらでも出てくるはずだった。
なのに。
今は、出てこない。
頭の中に無数の選択肢は浮かぶ。
「長旅だったろう」
「東京は寒い」
「無事で何よりだ」
どれも間違いではない。だが、どれも正しくもない。一言でも発すれば、この空気が決定的に変わってしまう。それを無意識のうちに理解していた。
沈黙の中で、メリッサは、二人のやり取りを見ていた。口を開かず、だが、視線だけは逸らさない。
自分の存在がこの場の均衡を崩していることを、彼女自身が誰よりも分かっていた。
辰巳はそのことにも気づいている。だからこそ、半歩分だけ前に出た。
「本日は、こちらで休まれるご予定です。長旅でしたので、これ以上のご挨拶は——」
「……そうだな」
シオンは、かぶせるように言った。それ以上、言わせてはならない気がした。説明が進めば進むほど、自分が耐えられなくなる。理由が筋道立てて明らかになる前に、この場を収めるべきなのだろう。
「それなら、今日はもう、休ませるといい」
それは、教皇としての判断だ。そう言い聞かせる。辰巳は、静かに目を伏せ、再び一礼した。
「お心遣い、感謝いたします」
形式は完璧だった。しかしその間、メリッサとシオンの視線は、一度も、正面から重ならなかった。
確かにそこにいるのに。確かに再会しているのに、言葉が追いつかないまま、時間だけが静かに進んでいく。
沈黙は不和の兆しではない。二人に長く積もりすぎた感情が、まだ、言葉の形を見つけられずにいるだけだった。
「参りましょう」
辰巳が、低く、しかし迷いのない声で促した。
メリッサは、はっとしたように肩を揺らし、一瞬だけシオンの方を見る。何かを言おうとして、結局、言葉にはならなかった。
小さく、会釈だけをして、辰巳の隣へと身を寄せる。
一般客室へ向かうエレベーターは、ロビーの奥、視線を少し外した位置にある。シオンが使う特別客室の動線とは、最初から交わらないよう、設計されている。
同じ場所にいても、同じ道を行くことはない。
辰巳が、シオンの横を通り過ぎる。
「……」
言葉はない。ただ、深く、短い一礼。その所作は、城戸邸の執事としてではなく、一人の仕える者としての、最大限の敬意だった。
その瞬間、ふっと、空気が揺れた。
辰巳の上着から、ほのかに、香りが立つ。すぐに、それが彼自身の香水ではないと分かった。
もっと柔らかく、懐かしく、陽だまりに咲いた花のような、瑞々しく甘い香り。
胸の奥が爪を立てられたように軋んだ。
それは、メリッサの香りだった。
辰巳が先に歩き出し、その半歩後ろを、メリッサがついていく。彼女が、シオンの横を通り過ぎる、そのとき。
今度は、逆だった。
辰巳が使っているはずの控えめな香水の気配が、一瞬、彼女からも香った。
錯覚だ。
そう、思おうとした。
同じ車に乗り、同じ空間で過ごせば、香りが移ることなど、珍しくもない。
頭では、分かっている。
それでも、胸の奥に説明のつかない違和感が残る。
嫉妬ではなく、疑念でもない。
ただ、自分の知らない時間を、彼女が確かに過ごしていたという事実。その痕跡が、香りという形で否応なく突きつけられただけだ。
一般客室へ向かうエレベーターの扉が閉まる。
静かに、完全に、視界から二人が消える。ロビーには、再び整った静寂が戻った。
シオンは、まだ動けずにいた。
手にした紙袋が、わずかに音を立てる。贈り物は、まだ渡されていない。胸の内だけが、ひどくざわついていた。
同じホテルにいながら、違う階へ。違う扉の向こうへ。
この距離が、思っていた以上に遠いものに感じられてならなかった。
特別客室は、静かすぎた。
扉が閉まると同時に、外界の気配は完全に断ち切られる。
天井は高く、窓は広く、家具の配置も、完璧に計算されている。
それなのに。
——何ひとつ、満たされない。
シオンは、靴も脱がぬまま室内を横切った。ソファも、書斎机も、用意されたすべてが、ただの「空間」に過ぎない。孤独だけが、はっきりと形を持って、そこにあった。
テーブルの上に、紙袋をそっと置く。音を立てぬようにしたつもりだったが、紙がわずかに擦れる。その小さな音が、妙に大きく感じられた。
贈るつもりだった。渡せるかどうかは別として。それでも、彼女の手に届く未来を、どこかで信じていた。
今日の再会は、あまりにも想定外だった。心の準備も、言葉の準備も、何ひとつできていないまま。
シオンは、ベッドルームへ向かう。足取りは重く、どこか頼りない。
キングサイズのベッドは、過剰なほどに広い。彼は、その中央へ身を投げた。柔らかなマットレスが、衝撃を吸い込む。だが、心までは受け止めきれない。
天井を見つめる。見慣れない模様。見慣れない照明。
ここは、どこだ。
東京。
日本。
そう、分かっている。
それでも、現実感が、遠い。
(……話すべきだ)
頭では、分かっている。誤解があれば、解くべきだ。理由があるなら、聞くべきだ。教皇としても、一人の男としても。
分かっている。それなのに、身体が動かない。
ほんの数分前の光景が、何度も脳裏に蘇る。
驚きに揺れた彼女の声。言葉にならなかった間。そして、こちらを見つめながら、踏み出さなかった足。あれは、拒絶だったのか。それとも、戸惑いだったのか。
判断がつかない。いや、判断できない自分が情けなかった。聖域の頂点に立ち、数え切れぬ決断を下してきた。
命の重さを天秤にかけることさえ、厭わずに。それなのに、たった一人の女性の前で言葉を失い、動けなくなっている。自分でも笑うしかない。だが、笑えなかった。
目を閉じると、ロビーの照明が浮かぶ。
あの距離、あの空気。
同じホテルにいる。それだけが、かろうじて現実だった。
今日のこの動揺は、誰のせいでもない。彼女のせいでも、辰巳のせいでも、ヘスティアのせいでもない。
自分自身のせいだ。
そう理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
広すぎるベッドの上でシオンは、ただ静かに呼吸を繰り返す。贈り物は、まだテーブルの上にある。
その存在が、今はただ重かった。
辰巳に導かれ、メリッサは客室の前で足を止めた。廊下は静かで、足音さえ絨毯に吸い込まれていく。
「こちらのお部屋でございます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
差し出されたカードキーを、両手で受け取る。金属の感触が、ひやりと冷たい。
「ありがとうございます」
声は、思ったよりも落ち着いていた。けれど、胸の奥はまだざわついている。
「では、私はこれで」
辰巳が一歩、引く。
その背中を見送ろうとして、メリッサは、思わず声をかけた。
「あ、……明日は?」
振り返った辰巳の表情は、穏やかだった。
「明日も、辰巳さんいらっしゃるんですか?」
ほんの少しの不安が、その問いに滲んでいる。
「もし、猊下と合流されないようでしたら、お供いたします」
一瞬、言葉の意味を咀嚼する。
「……シオン様と?」
「はい」
辰巳は、はっきりと頷いた。
「どうぞ、猊下へご連絡差し上げてください」
その声は、命令でも、催促でもない。あくまで、選択肢として差し出されている。
「男という生き物は、女性の想像以上に臆病なものです」
意外な言葉だった。
「特に、好いた女性に対しては」
その一言で、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「あたしから……連絡しても、いいんでしょうか」
自信のなさがそのまま声になる。
辰巳は、少しだけ目を細めた。
「もちろんです」
迷いのない答え。
「猊下は、お待ちになっているはずです。ただ——」
言葉を選ぶように、一拍、間を置く。
「どう踏み出せばよいか、分からずにおられるだけで」
メリッサは、カードキーを握る指に、力を込めた。ロビーで見た、あの一瞬の視線の逸らし方。紙袋を強く握っていた、彼の手。
あれは、拒絶ではなかった。そう、思えてくる。
「……分かりました」
小さく、しかし確かな声で言った。
「連絡、してみます」
その言葉に、辰巳は、深く一礼する。
「ご無理はなさらず。ですが、お心のままに」
それだけを残し、彼は静かに去っていった。廊下に一人きりになる。
メリッサは、カードキーをかざし扉を開けた。室内に入っても、すぐには扉を閉めなかった。胸の鼓動が、まだ、少し速い。端末を取り出す。画面に表示される名前を、しばらく見つめてから。
送信。
短い文面だった。
けれど、それは確かに、辰巳の言葉に背を押され、
彼女自身が選んだ一歩だった。
ベッドに伏せたまま、シオンは、しばらく動かなかった。脱いだ上着のポケットから、微かな振動音がする。一度。そして、もう一度。
分かっている。このタイミングで、他に考えられる相手などいない。
上着に手を伸ばし、ポケットから端末を取り出す。画面が灯る。そこに表示されていたのは、予想通りの名前だった。
メリッサ。
短い文面が、静かに、しかし確かな重さをもって並んでいる。
《話したいことがあります。会ってください》
読み終えた瞬間、胸の奥が、軋むように音を立てた。
会いたいです、ではない。
会えませんか、でもない。
《会ってください》
中途半端な逃げ道を、最初から残していない言葉。選択肢は、二つだけだ。
イエスか、ノーか。
もし、ここでノーと返せば、それは、今日の再会を、ただの偶然で終わらせるということ。彼女の勇気を、そのまま退けるということ。
——決別。
その可能性を、彼女は理解していないはずがない。それでも、この言葉を送ってきた。覚悟の上なのか。それとも、ノーが返らないと、どこかで信じているのか。今のシオンには、それさえ判断がつかなかった。
端末を握る手に自然と力が入る。親指が返信欄の上で止まったまま、動かない。言葉はいくらでも浮かぶ。
「今は少し時間が欲しい」
「落ち着いてから話そう」
「今日は、やめておこう」
どれも、優しさを装った逃避だ。そして、彼女はそれを望んでいない。再会の場で一歩も踏み出せなかったのは、自分のほうだった。彼女は、踏み出してきた。
臆病なのは、どちらだ。
教皇として何百年も生きてきた男が、たった一行のメッセージを前に、身動きが取れなくなっている。
天井を見つめたまま、シオンは、ゆっくりと息を吸った。逃げる理由はいくらでもある。
だが、逃げ続けてきた結果が、今の距離なのだとしたら、これ以上、遠ざかるわけにはいかない。
指がようやく動いた。画面に短い返事を打つ。余計な言葉は、選ばない。彼女が求めているのは、説明でも弁解でもない。ただ、向き合うことだ。
送信。
その音は、驚くほど小さかった。だが、その一音で、シオンは、もう後戻りできない場所へ足を踏み入れたのだと、理解していた。
ベッドから身を起こす。胸の奥で、不安と、覚悟が、静かに拮抗している。
——会う。
その事実だけが、今は、確かだった。
