Eine Kleine

 聖域にとって、あたしは徹頭徹尾、道具なのだ。
 小宇宙が触媒になるとかならないとか、そんなものはどうでもいい。あたしの意思がどうかなんて、誰も気にしない。
 あの時だってそうだった。
 四人がかりで自由を奪われて、逃げることもできず、泣くことすら許されなかった。ただ、あいつらの欲のはけ口にされただけだった。あたしが何を思おうが、何を願おうが、そこには関係がなかった。

 ――あたしは、四人の男に凌辱されたのだ。

 セージくん。
 ううん、教皇様。
 彼だって、結局はあたしの能力を見極めるために近付いてきたのだろう。聖域に利するか否か。それだけ。あたしが警戒しないように、わざわざ正体を隠して。そう…それはきっと正解だったんだと思う。そうでなければ、あたしは頑なに拒んで、話さえ聞こうとしなかっただろうから。

 でも――その結果がこれだ。
 所詮、あたしの存在価値なんてそれだけだ。

 もう……疲れちゃった。
 何をしても、どこへ行っても、あたしは“誰かのための駒”でしかない。心の奥で、少しでも温もりを夢見た自分が、ただ愚かだった。

 なんで――あたし、聖戦の後に生き返らされたんだろう。
 こんなことなら、死んだままで良かったのに。
 戦いの果てに眠り続けられたのなら、こんな痛みを覚えなくて済んだのに。

 薄暗い実験室の片隅で、目の前に並ぶ白い器具が揺らんで見える。
 涙なんて、もう出ない。
 泣く力さえ、もうどこかに置き去りにしてしまったのだ。

 ――生きる気力というものは、こんなふうに、少しずつ剥がれていくのだろうか。

 最初は小さな亀裂だった。
 あたしの言葉が誰にも届かない時、ひっそりと入ったひび。
 その後、積み重なった出来事が、ひびを広げていった。
 吐き気、過呼吸、涙。
 それすらも、今はもう起きなくなった。
 感情が麻痺していく。まるで身体が、心が、痛みに耐えかねて感覚を閉じるように。
 研究所の白い光は、あまりに冷たく、どこまでも無機質だ。
 機械の規則正しい音と、研究者の無関心な視線。
 “標本”と“被験体”の間でしか呼ばれないあたし。
 そこに人間としての温もりはなかった。
 昔は、花を見れば嬉しかった。
 海の匂いは気分を高揚させたし、森の匂いを吸い込めば、胸の奥が少し膨らむような気がした。
 でも今は、白い小花を目にしても、香りを吸い込んでも、何も感じない。
 色彩は色彩のまま、音は音のまま、ただ通り過ぎていく。
 あたしは生きている。
 けれど、それはただ“呼吸をしている”だけ。
 心臓が動き、血が巡っているだけ。
 本当はもう、魂なんてとっくに擦り切れてなくなってしまったのではないか。

 蘇ったあの日から、少しずつ少しずつ、余計なものを抱え込まされて、とうとう、もう立ち上がる力もなくなってしまった。
 生きる理由。
 探そうとしても、どこにも見当たらない。
 あたしが生きていることで救われる誰かなんて、本当にいるのだろうか。
 それさえも、分からなくなってしまった。

 椅子に座ったまま、メリッサの瞳は虚空を彷徨う。
 研究員の声も、アフロディーテの呼びかけも、もう遠い。自分の輪郭が、少しずつ淡い靄に溶けて希薄になっていくようだった。

 白光灯の下、すべては予定通りに進んでいく。
 記録係のペンが紙を擦る音。測定器の電子音。実験者の抑揚のない指示。
 そのどれもが、研究所という閉ざされた空間を支配していた。
 「メリッサ・ドラコペトラ嬢、小宇宙の放射、第三段階に移行してください」
 機械の声と変わらぬ調子で告げられた指示に、メリッサはただ頷く。
 瞳に光はない。けれども、言われた通りに椅子に座り直し、規定の姿勢をとり、小宇宙を解放する。
 そこに迷いも、拒絶もなかった。ただ命じられた行動を遂行するだけの、静かな従順。

 ――人間というより、装置の一部。

 傍らで見ていた研究員が、無意識にそう思ったとしても不思議はない。
 感情の介在しない応答。誤差のない反応。
 それは、長年扱ってきた器材の操作と何ら変わらなかった。
 実験は粛々と進む。
 小宇宙の放射量、周波数の揺らぎ、薬草成分との共鳴反応――。
 一つ一つのデータが淡々と蓄積されていく。数字とグラフが整然と並び、研究員の眼差しは満足げに輝きを増す。
 そこに、彼女の心の有無は問われない。
 成果が得られるならば、それで良い。
 彼らにとってメリッサは“人”ではなく“触媒”であり、目的のために用いるべき“媒体”に過ぎなかった。
 メリッサ自身も、それを理解している。
 だからこそ、何も言わない。
 反論すれば無駄に体力を削るだけ。問い質しても答えは一つ。

 ――聖域のため。

 ならば、黙って従うほうが楽だ。
 感情を閉ざしてしまえば、痛みも迷いも生じない。
 心を無人の部屋にしてしまえば、誰も踏み込むことはできないのだから。
 試験は滞りなく進み、次のフェーズへ。
 研究員たちの口元にわずかな安堵が浮かぶ。
 ただ一人、中心に座る少女だけが、機械のように無表情のまま、白光の下に置き去りにされていた。
 数値が揃った瞬間、研究室の空気がわずかに熱を帯びた。
 「……出たぞ」
 低く押し殺した声で、主任研究員が呟く。モニターに映し出されたグラフは、予想以上の反応を示していた。
 小宇宙の共鳴値、抽出成分との親和率――どれもが理論上の最適解を超えている。
 「間違いない。触媒は彼女だ」
 「これで一気に進展する」
 研究員たちの声に、抑えきれない高揚が混じった。
 白衣の裾が揺れ、ペンがせわしなく走り、モニターに映る数値に視線が吸い寄せられる。
 その場にいる誰もが、科学者としての興奮を隠せなかった。

 ――ただ一人を除いて。

 椅子に腰掛ける少女の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
 喜びも、安堵も、戸惑いもない。
 無人の部屋の窓を開け放ったように、空虚なまなざしだけが白光灯の下に晒されていた。
 「メリッサ・ドラコペトラ嬢、休憩を取ってください。君は立派に役目を果たした」
 誰かが声を掛ける。
 しかし彼女は、ただ小さく頷いただけだった。
 功績を讃える言葉は届かない。
 研究員たちの歓喜も耳に入らない。
 ただ“命じられたことを終えた”という事実が残るだけ。

 ――成果が出たことに、何の意味があるのだろう。

 彼女の胸の内には、そんな問いさえ湧かなかった。
 喜びを奪われ、怒りも封じられ、感情という感情の全てを手放した今の彼女にとって、世界はただ灰色の連続でしかなかった。

 数値は踊る。
 人々は沸き立つ。
 だが、肝心の“触媒”は、冷たい人形のように沈黙していた。

 研究室の白光灯が薄く揺れる中、モニターに映る数値を前にシオンは立ち尽くしていた。
 小宇宙の触媒としてのメリッサの反応は完璧であり、医療班の報告も示す通り、これでカノンを元の姿に戻せる見込みは十分にある。
 だが、問題は彼女の心情だ。
 試験の間、メリッサは無言で、表情を変えず、まるで機械のように任務をこなしていた。
 小宇宙の反応が優れていることが、彼女にどれほどの負担を強いているか――シオンには痛いほど理解できる。
 「――しかし、待ってはくれぬ」
 地中海、穏やかに見える海面の下では、既に不穏な潮流がうねっていた。
 小さな異変はまだ表面化していないが、カノンの幼児化を放置すれば、海域の安寧に取り返しのつかない影響を与えるだろう。
 シオンは眉を寄せ、拳を軽く握った。
 メリッサの負担と、幼児化した双子座の安全――二つの天秤を前に、答えは一つしかない。
 「…よし」
 低く、確信に満ちた声が室内に響いた。
 決断は迷わず下された。

 「カノンの幼児化解消を最優先事項とする」

 シオンは、メリッサへの負荷を最小限に抑える方法を模索しながらも、行動の先頭には必ず自分が立つ覚悟を固めた。
 小宇宙の波動が揺れる研究室の空気の中で、彼の瞳は静かに、しかし鋭く未来を見据えていた。

 ──これ以上、誰も傷つけたくはない。
 ──だが、時間は待ってくれない。

 決断は、無言の重さを伴いながらも、避けられぬ現実の前に確実に踏み出されたのだった。

 教皇宮に備えられた客室の扉が静かに閉じられる。
 重厚な木製の床、淡い月光に映える銀縁の燭台、壁際には緻密な彫刻が施されたアンティーク家具が並ぶ。メリッサは黙ったまま、荷物をそっと置いた。視線は床へ落ち、心の奥では何も動かない。
 シオンは、彼女の隣に立ち、低く穏やかな声で告げる。
 「今日はここに泊まってくれ。明朝、改めて評価試験を行うことになる。無理はさせぬ」
 メリッサは頷くだけで、返事はない。
 心は既に閉ざされ、感情の起伏も、期待も、拒絶も、いずれも存在しないかのようだった。
 ただ、与えられた任務を淡々とこなすだけの機械のように、身体を動かす。
 シオンは彼女の無表情な背中を見つめながら、胸の奥に静かな痛みを感じる。
 目の前に立つメリッサの瞳に、自分の姿は映らない。
 彼女の視界の中で、シオンはただの通過点に過ぎず、教皇としての任務や責任の象徴にすぎなかった。
 「…安心しろ、何も強いることはない」
 低く呟く声が、空間にだけ吸い込まれる。
 メリッサはそれすら受け止めず、窓の外の夜景にぼんやり目をやる。
 遥か遠く、港町の灯が淡く揺れ、海面に反射する光が静かに流れていた。

 シオンは、決して手を差し伸べることはしなかった。
 触れれば心の均衡を崩すかもしれない。言葉をかければ、負担になるかもしれない。
 彼女の心が、少しでも静まるならば、距離を置くことこそ最良の慰めであると、理解していた。
 メリッサはベッドに腰を下ろし、手元の書類に目を落とす。
 けれど文字は頭に入らず、指先で紙をなぞるだけ。
 無心――いや、もはや無の世界に身を置いているのかもしれない。
 シオンはそっと部屋を離れ、扉の向こうで待機する。
 誰も、何も、彼女の心を急かすことはない。
 それが、現状で最も彼女を守る手立てであることを、彼は痛感していた。

 翌日、研究所の白く整然とした空間に、カノンが手を引かれて入ってきた。
 小さな体をサガが支え、3歳児の姿に縮んだ幼い双子座は、ぎこちなくもメリッサの方へ視線を向ける。
 「メリッサ嬢、カノンだ。身体のみならず、記憶の退行も認められる。今、カノンは3歳だ。…カノン、挨拶しなさい」
 サガの声は落ち着いていて、事務的だが、冷たくはない。
 「おねえしゃん、おはようごじゃいましゅ」
 小さな声が響く。舌足らずで、しかし一生懸命に言おうとする様子が、メリッサの胸を微かに打つ。
 メリッサは僅かに息を呑み、言葉が詰まる。目の前の子どもは、確かにサガとよく似ている。しかし、その表情や動作は全く無垢で、幼さに満ちている。
 「おはよう、カノン…くん?」
 ぎこちなく声に出す。自分でも驚くほど、震えが混じっていた。
 「はい!」
 小さな手を挙げるカノンに、メリッサの胸の奥で何かが僅かに揺れる。
 心の奥底で閉ざされていた感情の扉が、微かに、ほんの少しだけ開いたような気がした。
 けれど、その感情はまだ不安定で、容易には表に出せない。
 メリッサは深く息を吸い、僅かに緊張した肩を落とすようにして、淡く微笑む。
 その微笑は、微かに光を失いかけていた彼女の内面に、小さな温もりを届ける。
 白く澄んだ研究所の光が、カノンの髪や肌に反射し、まるで時間が少しだけ緩やかに流れたかのように感じられた。
 メリッサは、胸の奥のかすかな動揺を抑えつつ、今日、この子にできることを、静かに考え始めていた。

 白い研究室の光は午前の柔らかな日差しとともに、室内を静かに照らしていた。
 机の上には小型の薬草標本、計測器、触媒用の小宇宙を測定する装置が整然と並ぶ。
 メリッサは深呼吸し、指先で椅子の縁を軽く握る。心はまだ重く、閉ざされたまま。だが、目の前の幼いカノンを前にして、僅かながらも責任感が胸に差し込む。
 「カノンくん、そろそろ始めるよ」
 声は低く、静かに、しかし確かに届くように意識して発した。カノンは小さく頷き、無垢な瞳でメリッサを見上げる。
 研究員の指示に従い、メリッサは手のひらを軽くカノンの肩にかざす。
 小宇宙が指先から流れ、カノンの体表に触れるか触れないかの微かな振動となって伝わる。

 ――深く、しかし穏やかに。

 メリッサは意識して呼吸を整え、心を空にするように努める。心の扉は閉ざされているが、今日だけは、この小さな命に触れるために、感情の奥底で薄い糸を手繰る。
 計測器が反応を示す。小さな光の波動が、カノンの体表から微かに弾ける。
 研究者が手元の数値を読み上げる。「触媒反応、初期段階は良好です」
 メリッサは声を出さず、僅かに頷く。表情は無表情のままだが、瞳の奥に微かな光が差した。
 カノンは無邪気に「おねえしゃん、あつい?」と小さな声で訊ねる。
 その瞬間、メリッサの胸に、微かな熱が広がる。何も答えず、ただ手のひらをそっと動かす。小宇宙の波動が柔らかくカノンを包み込む。
 次の段階では、メリッサは自身の小宇宙をより精密に制御し、触媒としての強度を調整する。
 波のように押し寄せる疲労、心を閉ざしたままの無感情は、今日に限って、任務として淡々と振る舞う力へと変換される。
 メリッサは自分の感情を切り離し、ただ小宇宙をカノンへ届ける。
 計測器の数値が徐々に安定し、研究員の声が再び響く。「触媒適合度、良好。現状で最適な条件が確認できた」
 メリッサは目を伏せ、無言のまま軽く肩の力を抜く。
 心は閉ざされ、何も感じないまま、しかし、手元の小さな生命を確かに守るために、役目を果たした。
 カノンは無垢な笑顔を浮かべ、手を握り返すこともなく、ただ静かにメリッサを見上げる。
 その視線が、わずかにメリッサの胸を揺さぶったが、言葉には出さず、任務を終えた静かな空気が室内に広がった。

 試験台を離れ、空調の柔らかな冷気が室内を漂う。計測器の機械音は徐々に遠のき、研究室は静寂に包まれる。メリッサは椅子に腰掛け、目を閉じて呼吸を整えた。心はまだ閉ざされたまま、ただ任務をこなした疲労だけが残る。
 ふと、足元に小さな影が近づく。高い声で呼ばれた。
 「おねえしゃん」
 メリッサは眉間の力を抜き、そっと視線を落とす。
 カノンは、まだたった三歳の小さな身体を、無邪気に揺らしながらこちらを見上げていた。
 「ん?」
 自然と口元が綻ぶ。心の奥底ではまだ感情を閉ざしている自分を自覚しているが、それでも、柔らかな温度を宿した瞳を見つめると、微かな微笑みが返ってきた。
 「おねえしゃん、とってもかわいいね。ぼく、おねえしゃんのことしゅき!」
 小さな言葉は、軽やかな風のようにメリッサの胸を通り抜ける。
 思わず手を伸ばしてカノンの頭を撫でそうになるが、指先を止め、ただ視線で応える。
 無言のまま、小さな命の純粋な感情を受け止める。
 頬に淡い熱が差すのを感じる。心はまだ完全には開かれていない。だが、冷え切った世界に、僅かに春の光が差し込むような瞬間だった。
 メリッサは息を整えながら、静かに頭を下げる。
 「…ありがとう、カノンくん」
 カノンは満足そうに小さく頷き、足元でちょこんと座る。
 メリッサはその姿を見守りながら、初めて、自分の中でほんの少しだけ、感情の余白を許すことができた。

 二次適合試験も、淡々と、しかし確実に進んだ。カノンは小さな身体でメリッサの指示や触媒の反応に素直に従い、研究チームの観測器も安定した数値を示す。メリッサは依然として心を閉ざしたままだったが、任務としての自覚と、目の前の小さな命を守るという最低限の感情だけは、静かに働いていた。
 試験室の空気は、午前の淡い光を通した冷房の涼しさと、微かに漂う植物由来の薬効の香りで満たされる。メリッサは椅子に腰掛けたまま、目の前で動くカノンを見守る。小さな手が無邪気に揺れる様子に、無理やり閉ざした心の隙間から、微かな温もりが流れ込む。
 研究者の指示に従い、カノンの体内での触媒反応のデータを逐一確認する。数値は安定しており、これなら最終段階も問題なく進める見込みだ。メリッサは淡々と作業を行うが、心の奥底では、僅かに高鳴る期待があった。

 翌日の三次適合試験。いよいよ、抗アレルギー成分をメリッサの小宇宙で増幅させ、カノンへ吸収させる段階が待っている。研究室内の空気は張り詰め、淡い光の中で計器のランプが規則正しく点滅する。小さなカノンは無邪気に振る舞うが、メリッサはその背後で緊張を隠せない。
 心の中では、これまでの試験が順調に進んだことへの安堵と、カノンを元の姿へ戻せる期待が静かに膨らんでいた。目の前の小さな存在を守り、救うための力を、自分が持っていること。その実感が、僅かに閉ざされた心を震わせる。
 メリッサは深呼吸を一つし、明日への試験に向けて心を整える。表情は変わらず無表情のまま。だが、胸の奥底では、久しぶりに小さな希望が、静かに芽吹いていた。
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