Eine Kleine Ⅲ
ホテルに戻る頃には、空はすっかり朝の色になっていた。
ガラス張りのエントランスに差し込む光は柔らかく、先ほどまでの張り詰めた静けさとは、少し質が違う。
メリッサは足を止め、無意識に息を吐いた。
「……歩いたら、お腹が空きました」
独り言のようなその言葉に、辰巳はさりげなく応じる。
「朝食の時間でございますね」
ロビーを抜け、朝食会場へ向かう。
先ほどよりも人の気配が増えてはいるが、騒がしさはなく、どこか節度が保たれている。
案内された席は、窓際だった。
庭の緑と、朝の光。
それだけで、胸の内が落ち着いていく。
「辰巳さんも……」
席に着いたあと、メリッサは小さく声をかける。
「ご一緒していただけませんか?」
一瞬の間。
執事としての立場を考えれば、辞退してもおかしくはない。けれど、辰巳は静かに頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
その言葉に、メリッサの肩から、目に見えない力が抜けていく。
料理は、和と洋が整然と並んでいた。
焼き魚、白いご飯、味噌の香り。一方で、卵料理やパン、果物も揃っている。
「……選ぶのが、難しいですね」
そう言って笑うと、辰巳はわずかに口元を緩めた。
「少しずつ、召し上がるのがよろしいかと」
勧められるままに皿を取り、席に戻る。食器の触れ合う音は控えめで、会話も低く抑えられているそれが、心地よかった。一口食べるごとに、身体の内側に、確かな温度が戻ってくる。冷え切っていた指先も、少しずつ感覚を取り戻していく。
「……美味しい」
思わず、そう漏れた。
辰巳は、何も言わずに頷く。
食事という、ごく当たり前の行為が、こんなにも心を安定させるものなのだと、メリッサは初めて意識した。異国の地で知らない格式に囲まれていても、隣で静かに同じ朝食をとる人がいる。それだけで、「ここにいていい」と思えた。
窓の外では、朝の東京が、ゆっくりと動き始めていた。
メリッサは、カップを両手で包みながら、穏やかな気持ちで、その景色を眺めていた。
この朝は、きっと、忘れない。
そう静かに思いながら。
朝食を終え、メリッサの表情はすっかり明るくなっていた。身体も心も温まり、朝の冷たい空気で固まっていた緊張はどこへやら消えている。
「……せっかくですし、少し観光に出かけたいのですが」
メリッサはカップを置き、軽く笑みを浮かべた。
「辰巳さん、お願いできますか?」
「承知いたしました。お任せください」
窓の外には朝の光が溢れ、街は少しずつ動き始めている。エントランスを出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。
辰巳が先導するように歩き、ホテルの車寄せまで向かう。車のドアが開くと、後部座席にメリッサを招き入れた。
「お邪魔します」
静かに座席に身を沈めるメリッサ。目線を外に向けると、街の景色が流れ始める。
そのとき、少し離れた場所で、シオンはふと視線を止めた。
(ん……?あれは……辰巳殿か?)
停めてある車の前に、見覚えのある大柄な男の姿。
間違いない、城戸邸の執事・辰巳徳丸だ。
後部座席のドアが開き、中の人物と何か言葉を交わしている。だが、車の陰で相手の姿は確認できない。
(そうか……辰巳殿はお客人を迎えておられたのか)
城戸邸に辰巳の姿がなかった理由が、瞬時に腑に落ちる。彼はこのホテルで、しっかりと務めを果たしていたのだ。
辰巳は静かに車のドアを閉め、助手席に乗り込む。車はゆっくりと走り出した。
その背を、シオンは見送る。
ただそれだけだった。
辰巳が、誰かを案内している。それは、何の不思議もないことだ。
シオンは視線を戻し、ホテルのエントランスへと歩き出す。ガラスの向こうに広がる、整えられた空間。
すれ違った気配がほんの一瞬、風のように過ぎたことなど意識の表には上らなかった。シオンもメリッサも、まだ、同じホテルにいることを知らない。
プレチェックインを終え、シオンはホテルを出た。
ガラス扉の向こうで、東京の朝が確かな動きを見せている。
さて、どこへ行くか。
行き先を考えていたわけではない。ただ、メリッサに何かを贈りたい。それだけが、胸の内に残っていた。受け取ってもらえるかは、分からない。そもそも、彼女がそれを望むかどうかすら、分からない。それでも、どこにいても、何をしていても、彼女を思っているのだと、せめて形にしておきたかった。
本来、護衛すべきだったヘスティアは、「護衛は不要ですから」と言い残し、さっさと実家へ里帰りしてしまった。
それは構わない。彼女らしい判断でもある。しかし、それなら、シオンや他の護衛官まで随行する必要はなかったはずだ。一人で東京を歩くこと自体は、悪くない。異国の街を、誰にも縛られずに歩く。それは、久しく忘れていた感覚でもある。だが、タイミングが悪すぎる。メリッサを置き去りにしたまま、彼女がどんな朝を迎えているのかも知らぬまま、どうして自分だけが、休暇などと呼べる時間を楽しめるというのか。
足は、自然と止まっていた。
シオンは、スーツの胸ポケットに手を伸ばす。
薄く、冷たい感触。
端末を取り出し、画面を確認する。
(……やはり)
メリッサからの連絡は、届いていなかった。
それは、拒絶ではない。分かっている。彼女は、そんなことをする人間ではない。それでも、沈黙は時に言葉よりも重く、雄弁だ。
シオンは、画面を消しゆっくりと息を吐いた。
東京の空は、すでに完全な朝だった。
その光の下で、彼だけが、少し取り残されているような気がしてならなかった。
日本橋へ向かう足取りは、自然なものだった。理由を探せば、いくらでも後付けできる。シオン自身が、ただ「こちらだ」と感じただけだった。
川の上を渡る風は冷たい。けれど、街の空気は、どこか落ち着いている。
高い建物はあっても、視線を奪い合うような主張はない。
ここは、人が“暮らすために”整えられてきた街だ。老舗の看板が、控えめに軒を連ねている。新年の飾りはあっても過度ではない。
「……正月三日でも、開いているのだな」
独り言は風に消えた。ふと足を止めたのは、古い店構えの前だった。派手な陳列はないが、硝子越しに見える品々には、不思議な落ち着きがあった。
香り袋。
小さな硝子細工。
掌に収まる、控えめな美しさ。
それが、まず良いと思った。
メリッサは、重いものを受け取ることに慣れていない。
守られることも、与えられることも、彼女にとっては、常に緊張を伴う。だからこそ、そっと、置けるものがいい。存在を主張せず、でも、確かに“想われている”と分かるもの。
シオンは、一つの品の前で立ち止まった。
淡い色合い。冬の光を受けてなお、静かに光を放つ。
(美しい…)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが定まった。受け取ってもらえるかどうかは、分からない。それでも、この気持ちだけは形にしておきたかった。
シオンは、店内へと足を踏み入れた。
日本橋の朝は、何も急かさず、ただ静かに彼の選択を見守っていた。
店内は、正月の賑わいから切り離されたような、柔らかな静寂があった。琴の音のBGMが小さく聴こえる。
木の棚に並ぶ和雑貨は、どれも控えめで、声高に何かを訴えることはない。それが、かえって選ぶ者を困らせる。
シオンは、一つ一つを、必要以上に真剣な目で見ていた。
手鏡。
掌に収まる大きさのそれは、外側に淡い意匠が施されている。鏡というものは、どうしても“見る”“見られる”という意味を帯びる。彼女が、それを使うたびに、自分の姿を確かめることになる。
(……重たいか)
思ったよりも早く、候補から外れた。
次に視線が向いたのは、櫛だった。木製のもの艶はあるが、派手な主張はない。櫛は髪に触れるものだ。女性の最も私的で繊細な時間に使われる。
シオンは、わずかに眉をひそめた。
(これはさすがに…まずいだろうな)
彼女の生活に踏み込みすぎる。自分がそこまでの位置に立っていると、勘違いしてはいないか。
そう考えると、櫛を手に取ることすら躊躇われた。
――おかしい。
教皇として、黄金聖闘士として、数えきれぬほどの贈答を受け取り、また渡してきた。
公式な品や儀礼としての贈り物。意味が決められた、形式のあるもの。その中で、個人的な贈り物など、記憶を探っても思い当たらない。
恋人に贈るものを選ぶという行為が、これほどまでに難しいとは、思ってもみなかった。
まるで――
胸の奥に浮かんだ言葉に、シオンは小さく息を呑んだ。
まるで、初めての彼女に贈り物をする少年のようだ。
期待してはいけない。
勘違いしてはいけない。
重荷になってはいけない。
それでも、何も渡さず済ませることだけはどうしてもしたくなかった。
棚の隅に、小さな布包みが置かれているのが目に入った。
香り袋だった。
開かずとも、ほのかに伝わってくるやさしい香。強くはない。主張もしない。ただ、そこにある。
メリッサに、似ている。
そう思ってしまった瞬間、胸の奥が苦しくなった。
これは、使わなくてもいい。持っていてもいいし、引き出しにしまったままでもいい。必要なときだけ、ふと思い出すような。これなら彼女の時間を、奪わない。それでいて、確かに“想われている”ことだけは残る。
シオンは、香り袋を手に取った。
受け取ってもらえなくてもいい。
その可能性を、ようやく、静かに受け入れられた気がした。メリッサが穏やかな一瞬を過ごせるなら、それだけでこの朝の逡巡は、十分に意味を持つ。
会計を済ませ、包みを受け取ったとき、シオンは、自分が思っていた以上に、緊張していることに気づいた。それは、長い年月を生きてきた男には、あまりにも不釣り合いな感覚で。けれど同時に、ひどく大切なもののようにも思えた。
正月の東京の朝は、少しずつ動き始めていた。
その中で、彼の胸には小さく、確かな想いが一つ、収まっていた。
お台場の空は、広かった。海から吹き抜ける風を、そのまま受け止めているかのような青空だった。その下で、メリッサはもう、朝のホテルで見せていた遠慮がちな姿ではなかった。
「……すごい。ここ、全部、遊んでいいんですか?」
スポッチャの入口で、目を見開く。色とりどりの案内板、天井の高い空間、響くボールの音や笑い声。
ギリシャの港町にも、遊び場はあった。だが、ここまで“遊ぶこと”に特化した場所は、さすがにない。
「はい。時間内でしたら、一通り体験できます」
辰巳は、いつもの落ち着いた声で答えながら、靴を履き替える手際も無駄がない。スーツ姿からは想像しづらいが、動きに迷いがない。
「……辰巳さん、こういうところ、慣れてます?」
「いえ。正直に申し上げますと、初めてです」
そう言いながらも、戸惑っている様子はほとんどなかった。
バスケットボールやローラースケートなど、いくつかの遊びを巡るうち、メリッサの表情は次第にやわらいでいった。
身体を動かすたび、余計な緊張が抜けていくのがわかる。
一通り遊び終えた頃、彼女はベンチに腰を下ろし、晴れやかな声で笑った。
「楽しかった!」
そこには、朝の不安も、背負っていた重さも残っていなかった。ただ、心から楽しんだあとの、軽やかな余韻だけがあった。
東京の空は変わらず高い。
その下で、彼女はようやく、自分の速度を取り戻していた。
遅めの昼食はあくまで軽く、温かいスープと、簡単な主菜だけで済ませた。
遊び疲れた身体に、重いものは要らない。
辰巳の判断だったし、メリッサ自身もそれに異論はなかった。
「……もう、眠いです」
笑いながらそう言っていたが、それは冗談ではなかったらしい。
車は、運転手付きの落ち着いたセダンだった。ドアが閉まる音も静かで、外界を切り離す。後部座席に腰を下ろしたメリッサは、最初はきちんと背すじを伸ばしていた。
シートベルトを締め、窓の外に流れていく湾岸の景色を目で追う。
信号待ちの間、ふっと瞬きをしたその次の瞬間、頭がわずかに揺れた。
辰巳は、それにすぐ気づいたが、声はかけなかった。運転席越しに、運転手に視線を送る。速度は維持され、揺れも極力抑えられている。
数分後、メリッサの呼吸が変わった。深く、ゆっくりした、意識が現実から離れていくときのそれだった。首が少し傾き、窓ガラスに触れそうで触れない位置で止まる。眉間の力が抜け、口元も、わずかに緩んでいた。
辰巳は、無言で自分の上着を外すと、音を立てないよう、慎重に動いた。
肩にそっと掛けても、起きる気配はない。
(……よほど、緊張しておられたのだな)
思い返せば、朝のホテル。あの居心地の悪そうな様子。場違いだと感じながらも、それを言葉にせず、飲み込んでいた。
今はもう、身体が正直になっている。安心した場所で、信頼できる誰かがそばにいる。だから、眠れる。
車は、東京の夕方へ向かって走っていく。窓の外、空の色が少しずつ変わり始めていた。
メリッサは、そのことも知らない。ただ、眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、口元が動いた。誰かの名前を呼びかけるように。
音にはならなかったが、辰巳は、なぜかそれが誰の名か分かった気がした。
(……教皇猊下)
答える者のいない呼びかけを、車内の静けさが、そのまま包み込む。
初日の東京は、彼女にとって、もう十分だった。あとは、静かにホテルへ戻るだけだ。夕方の光の中で、車は、何事もなかったかのように走り続けていた。
贈り物を選び終えたあとも、シオンはすぐには店を出なかった。
紙袋を手に持ちながらも、それを持つ理由が、今はもう失われてしまったかのような感覚があった。これで、何かが満たされるわけではない。ただ、渡せるかもしれない、という可能性だけが、そこに残っていた。
店を出て、日本橋の通りに立つ。
昼を少し過ぎた時間の街は、正月特有の、どこか緩んだ空気を纏っている。人は多いが、急いでいる者は少ない。
歩調を合わせる必要のない街で、シオンは目的もなく歩いた。高層のビルと低い屋根の店が、不思議な調和を保っている。古いものが新しいものに駆逐されず、ただ隣にある。過去も現在も、ここでは同時に息をしている。
橋の上で、足を止めた。川面は冬の光を反射し、穏やかに流れている。流れを眺めることに、理由はいらなかった。
聖戦も、教皇の責務も、ここには、直接関わってこない。
メリッサは、今、何をしているだろう。
問いは、答えを持たないまま、何度も胸を巡った。
橋の上でどれほど立っていたのか、昼食の時間になっても食欲はなかった。代わりに、小さな喫茶店に入り、窓際の席を選ぶ。
出された珈琲は、深く苦い。砂糖もミルクも入れずに飲んだ。
それが、今の自分に一番近い味だと思えた。
しばらく、何もせずに過ごす。端末を見ることも、本を開くこともなく。ただ、時間が過ぎていくのを許した。
やがて、外の光が傾き始める。
(戻るか)
理由はない。ただ、そう思った。
通りに出てタクシーを止める。行き先は、朝と同じ場所だった。
同じ頃、湾岸から戻る車の中で、メリッサは深く眠っていた。
辰巳は、彼女の呼吸が乱れないよう、揺れの少ない道を選ぶよう、運転手に指示している。
夕方の都心は、少しずつ、明日からの仕事の顔を取り戻しつつあった。やがて、車はホテルの車寄せに滑り込む。ほぼ同時に、もう一台の車が、同じ場所に入ってくる。タイミングは、偶然にしてはあまりにも正確だった。
シオンは、まだ気づかない。後部座席から降りてくるのが、自分の名を、無意識に呼んだかもしれない女性だとは。
眠気を抱えたままのメリッサもまた、ここが、彼と同じ滞在先であるとは知らない。
回転扉が、二度、静かに回る。
同じホテル。
同じ夜。
それぞれが相手を思いながら、まだ、すれ違ったままだった。
ガラス張りのエントランスに差し込む光は柔らかく、先ほどまでの張り詰めた静けさとは、少し質が違う。
メリッサは足を止め、無意識に息を吐いた。
「……歩いたら、お腹が空きました」
独り言のようなその言葉に、辰巳はさりげなく応じる。
「朝食の時間でございますね」
ロビーを抜け、朝食会場へ向かう。
先ほどよりも人の気配が増えてはいるが、騒がしさはなく、どこか節度が保たれている。
案内された席は、窓際だった。
庭の緑と、朝の光。
それだけで、胸の内が落ち着いていく。
「辰巳さんも……」
席に着いたあと、メリッサは小さく声をかける。
「ご一緒していただけませんか?」
一瞬の間。
執事としての立場を考えれば、辞退してもおかしくはない。けれど、辰巳は静かに頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
その言葉に、メリッサの肩から、目に見えない力が抜けていく。
料理は、和と洋が整然と並んでいた。
焼き魚、白いご飯、味噌の香り。一方で、卵料理やパン、果物も揃っている。
「……選ぶのが、難しいですね」
そう言って笑うと、辰巳はわずかに口元を緩めた。
「少しずつ、召し上がるのがよろしいかと」
勧められるままに皿を取り、席に戻る。食器の触れ合う音は控えめで、会話も低く抑えられているそれが、心地よかった。一口食べるごとに、身体の内側に、確かな温度が戻ってくる。冷え切っていた指先も、少しずつ感覚を取り戻していく。
「……美味しい」
思わず、そう漏れた。
辰巳は、何も言わずに頷く。
食事という、ごく当たり前の行為が、こんなにも心を安定させるものなのだと、メリッサは初めて意識した。異国の地で知らない格式に囲まれていても、隣で静かに同じ朝食をとる人がいる。それだけで、「ここにいていい」と思えた。
窓の外では、朝の東京が、ゆっくりと動き始めていた。
メリッサは、カップを両手で包みながら、穏やかな気持ちで、その景色を眺めていた。
この朝は、きっと、忘れない。
そう静かに思いながら。
朝食を終え、メリッサの表情はすっかり明るくなっていた。身体も心も温まり、朝の冷たい空気で固まっていた緊張はどこへやら消えている。
「……せっかくですし、少し観光に出かけたいのですが」
メリッサはカップを置き、軽く笑みを浮かべた。
「辰巳さん、お願いできますか?」
「承知いたしました。お任せください」
窓の外には朝の光が溢れ、街は少しずつ動き始めている。エントランスを出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。
辰巳が先導するように歩き、ホテルの車寄せまで向かう。車のドアが開くと、後部座席にメリッサを招き入れた。
「お邪魔します」
静かに座席に身を沈めるメリッサ。目線を外に向けると、街の景色が流れ始める。
そのとき、少し離れた場所で、シオンはふと視線を止めた。
(ん……?あれは……辰巳殿か?)
停めてある車の前に、見覚えのある大柄な男の姿。
間違いない、城戸邸の執事・辰巳徳丸だ。
後部座席のドアが開き、中の人物と何か言葉を交わしている。だが、車の陰で相手の姿は確認できない。
(そうか……辰巳殿はお客人を迎えておられたのか)
城戸邸に辰巳の姿がなかった理由が、瞬時に腑に落ちる。彼はこのホテルで、しっかりと務めを果たしていたのだ。
辰巳は静かに車のドアを閉め、助手席に乗り込む。車はゆっくりと走り出した。
その背を、シオンは見送る。
ただそれだけだった。
辰巳が、誰かを案内している。それは、何の不思議もないことだ。
シオンは視線を戻し、ホテルのエントランスへと歩き出す。ガラスの向こうに広がる、整えられた空間。
すれ違った気配がほんの一瞬、風のように過ぎたことなど意識の表には上らなかった。シオンもメリッサも、まだ、同じホテルにいることを知らない。
プレチェックインを終え、シオンはホテルを出た。
ガラス扉の向こうで、東京の朝が確かな動きを見せている。
さて、どこへ行くか。
行き先を考えていたわけではない。ただ、メリッサに何かを贈りたい。それだけが、胸の内に残っていた。受け取ってもらえるかは、分からない。そもそも、彼女がそれを望むかどうかすら、分からない。それでも、どこにいても、何をしていても、彼女を思っているのだと、せめて形にしておきたかった。
本来、護衛すべきだったヘスティアは、「護衛は不要ですから」と言い残し、さっさと実家へ里帰りしてしまった。
それは構わない。彼女らしい判断でもある。しかし、それなら、シオンや他の護衛官まで随行する必要はなかったはずだ。一人で東京を歩くこと自体は、悪くない。異国の街を、誰にも縛られずに歩く。それは、久しく忘れていた感覚でもある。だが、タイミングが悪すぎる。メリッサを置き去りにしたまま、彼女がどんな朝を迎えているのかも知らぬまま、どうして自分だけが、休暇などと呼べる時間を楽しめるというのか。
足は、自然と止まっていた。
シオンは、スーツの胸ポケットに手を伸ばす。
薄く、冷たい感触。
端末を取り出し、画面を確認する。
(……やはり)
メリッサからの連絡は、届いていなかった。
それは、拒絶ではない。分かっている。彼女は、そんなことをする人間ではない。それでも、沈黙は時に言葉よりも重く、雄弁だ。
シオンは、画面を消しゆっくりと息を吐いた。
東京の空は、すでに完全な朝だった。
その光の下で、彼だけが、少し取り残されているような気がしてならなかった。
日本橋へ向かう足取りは、自然なものだった。理由を探せば、いくらでも後付けできる。シオン自身が、ただ「こちらだ」と感じただけだった。
川の上を渡る風は冷たい。けれど、街の空気は、どこか落ち着いている。
高い建物はあっても、視線を奪い合うような主張はない。
ここは、人が“暮らすために”整えられてきた街だ。老舗の看板が、控えめに軒を連ねている。新年の飾りはあっても過度ではない。
「……正月三日でも、開いているのだな」
独り言は風に消えた。ふと足を止めたのは、古い店構えの前だった。派手な陳列はないが、硝子越しに見える品々には、不思議な落ち着きがあった。
香り袋。
小さな硝子細工。
掌に収まる、控えめな美しさ。
それが、まず良いと思った。
メリッサは、重いものを受け取ることに慣れていない。
守られることも、与えられることも、彼女にとっては、常に緊張を伴う。だからこそ、そっと、置けるものがいい。存在を主張せず、でも、確かに“想われている”と分かるもの。
シオンは、一つの品の前で立ち止まった。
淡い色合い。冬の光を受けてなお、静かに光を放つ。
(美しい…)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが定まった。受け取ってもらえるかどうかは、分からない。それでも、この気持ちだけは形にしておきたかった。
シオンは、店内へと足を踏み入れた。
日本橋の朝は、何も急かさず、ただ静かに彼の選択を見守っていた。
店内は、正月の賑わいから切り離されたような、柔らかな静寂があった。琴の音のBGMが小さく聴こえる。
木の棚に並ぶ和雑貨は、どれも控えめで、声高に何かを訴えることはない。それが、かえって選ぶ者を困らせる。
シオンは、一つ一つを、必要以上に真剣な目で見ていた。
手鏡。
掌に収まる大きさのそれは、外側に淡い意匠が施されている。鏡というものは、どうしても“見る”“見られる”という意味を帯びる。彼女が、それを使うたびに、自分の姿を確かめることになる。
(……重たいか)
思ったよりも早く、候補から外れた。
次に視線が向いたのは、櫛だった。木製のもの艶はあるが、派手な主張はない。櫛は髪に触れるものだ。女性の最も私的で繊細な時間に使われる。
シオンは、わずかに眉をひそめた。
(これはさすがに…まずいだろうな)
彼女の生活に踏み込みすぎる。自分がそこまでの位置に立っていると、勘違いしてはいないか。
そう考えると、櫛を手に取ることすら躊躇われた。
――おかしい。
教皇として、黄金聖闘士として、数えきれぬほどの贈答を受け取り、また渡してきた。
公式な品や儀礼としての贈り物。意味が決められた、形式のあるもの。その中で、個人的な贈り物など、記憶を探っても思い当たらない。
恋人に贈るものを選ぶという行為が、これほどまでに難しいとは、思ってもみなかった。
まるで――
胸の奥に浮かんだ言葉に、シオンは小さく息を呑んだ。
まるで、初めての彼女に贈り物をする少年のようだ。
期待してはいけない。
勘違いしてはいけない。
重荷になってはいけない。
それでも、何も渡さず済ませることだけはどうしてもしたくなかった。
棚の隅に、小さな布包みが置かれているのが目に入った。
香り袋だった。
開かずとも、ほのかに伝わってくるやさしい香。強くはない。主張もしない。ただ、そこにある。
メリッサに、似ている。
そう思ってしまった瞬間、胸の奥が苦しくなった。
これは、使わなくてもいい。持っていてもいいし、引き出しにしまったままでもいい。必要なときだけ、ふと思い出すような。これなら彼女の時間を、奪わない。それでいて、確かに“想われている”ことだけは残る。
シオンは、香り袋を手に取った。
受け取ってもらえなくてもいい。
その可能性を、ようやく、静かに受け入れられた気がした。メリッサが穏やかな一瞬を過ごせるなら、それだけでこの朝の逡巡は、十分に意味を持つ。
会計を済ませ、包みを受け取ったとき、シオンは、自分が思っていた以上に、緊張していることに気づいた。それは、長い年月を生きてきた男には、あまりにも不釣り合いな感覚で。けれど同時に、ひどく大切なもののようにも思えた。
正月の東京の朝は、少しずつ動き始めていた。
その中で、彼の胸には小さく、確かな想いが一つ、収まっていた。
お台場の空は、広かった。海から吹き抜ける風を、そのまま受け止めているかのような青空だった。その下で、メリッサはもう、朝のホテルで見せていた遠慮がちな姿ではなかった。
「……すごい。ここ、全部、遊んでいいんですか?」
スポッチャの入口で、目を見開く。色とりどりの案内板、天井の高い空間、響くボールの音や笑い声。
ギリシャの港町にも、遊び場はあった。だが、ここまで“遊ぶこと”に特化した場所は、さすがにない。
「はい。時間内でしたら、一通り体験できます」
辰巳は、いつもの落ち着いた声で答えながら、靴を履き替える手際も無駄がない。スーツ姿からは想像しづらいが、動きに迷いがない。
「……辰巳さん、こういうところ、慣れてます?」
「いえ。正直に申し上げますと、初めてです」
そう言いながらも、戸惑っている様子はほとんどなかった。
バスケットボールやローラースケートなど、いくつかの遊びを巡るうち、メリッサの表情は次第にやわらいでいった。
身体を動かすたび、余計な緊張が抜けていくのがわかる。
一通り遊び終えた頃、彼女はベンチに腰を下ろし、晴れやかな声で笑った。
「楽しかった!」
そこには、朝の不安も、背負っていた重さも残っていなかった。ただ、心から楽しんだあとの、軽やかな余韻だけがあった。
東京の空は変わらず高い。
その下で、彼女はようやく、自分の速度を取り戻していた。
遅めの昼食はあくまで軽く、温かいスープと、簡単な主菜だけで済ませた。
遊び疲れた身体に、重いものは要らない。
辰巳の判断だったし、メリッサ自身もそれに異論はなかった。
「……もう、眠いです」
笑いながらそう言っていたが、それは冗談ではなかったらしい。
車は、運転手付きの落ち着いたセダンだった。ドアが閉まる音も静かで、外界を切り離す。後部座席に腰を下ろしたメリッサは、最初はきちんと背すじを伸ばしていた。
シートベルトを締め、窓の外に流れていく湾岸の景色を目で追う。
信号待ちの間、ふっと瞬きをしたその次の瞬間、頭がわずかに揺れた。
辰巳は、それにすぐ気づいたが、声はかけなかった。運転席越しに、運転手に視線を送る。速度は維持され、揺れも極力抑えられている。
数分後、メリッサの呼吸が変わった。深く、ゆっくりした、意識が現実から離れていくときのそれだった。首が少し傾き、窓ガラスに触れそうで触れない位置で止まる。眉間の力が抜け、口元も、わずかに緩んでいた。
辰巳は、無言で自分の上着を外すと、音を立てないよう、慎重に動いた。
肩にそっと掛けても、起きる気配はない。
(……よほど、緊張しておられたのだな)
思い返せば、朝のホテル。あの居心地の悪そうな様子。場違いだと感じながらも、それを言葉にせず、飲み込んでいた。
今はもう、身体が正直になっている。安心した場所で、信頼できる誰かがそばにいる。だから、眠れる。
車は、東京の夕方へ向かって走っていく。窓の外、空の色が少しずつ変わり始めていた。
メリッサは、そのことも知らない。ただ、眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、口元が動いた。誰かの名前を呼びかけるように。
音にはならなかったが、辰巳は、なぜかそれが誰の名か分かった気がした。
(……教皇猊下)
答える者のいない呼びかけを、車内の静けさが、そのまま包み込む。
初日の東京は、彼女にとって、もう十分だった。あとは、静かにホテルへ戻るだけだ。夕方の光の中で、車は、何事もなかったかのように走り続けていた。
贈り物を選び終えたあとも、シオンはすぐには店を出なかった。
紙袋を手に持ちながらも、それを持つ理由が、今はもう失われてしまったかのような感覚があった。これで、何かが満たされるわけではない。ただ、渡せるかもしれない、という可能性だけが、そこに残っていた。
店を出て、日本橋の通りに立つ。
昼を少し過ぎた時間の街は、正月特有の、どこか緩んだ空気を纏っている。人は多いが、急いでいる者は少ない。
歩調を合わせる必要のない街で、シオンは目的もなく歩いた。高層のビルと低い屋根の店が、不思議な調和を保っている。古いものが新しいものに駆逐されず、ただ隣にある。過去も現在も、ここでは同時に息をしている。
橋の上で、足を止めた。川面は冬の光を反射し、穏やかに流れている。流れを眺めることに、理由はいらなかった。
聖戦も、教皇の責務も、ここには、直接関わってこない。
メリッサは、今、何をしているだろう。
問いは、答えを持たないまま、何度も胸を巡った。
橋の上でどれほど立っていたのか、昼食の時間になっても食欲はなかった。代わりに、小さな喫茶店に入り、窓際の席を選ぶ。
出された珈琲は、深く苦い。砂糖もミルクも入れずに飲んだ。
それが、今の自分に一番近い味だと思えた。
しばらく、何もせずに過ごす。端末を見ることも、本を開くこともなく。ただ、時間が過ぎていくのを許した。
やがて、外の光が傾き始める。
(戻るか)
理由はない。ただ、そう思った。
通りに出てタクシーを止める。行き先は、朝と同じ場所だった。
同じ頃、湾岸から戻る車の中で、メリッサは深く眠っていた。
辰巳は、彼女の呼吸が乱れないよう、揺れの少ない道を選ぶよう、運転手に指示している。
夕方の都心は、少しずつ、明日からの仕事の顔を取り戻しつつあった。やがて、車はホテルの車寄せに滑り込む。ほぼ同時に、もう一台の車が、同じ場所に入ってくる。タイミングは、偶然にしてはあまりにも正確だった。
シオンは、まだ気づかない。後部座席から降りてくるのが、自分の名を、無意識に呼んだかもしれない女性だとは。
眠気を抱えたままのメリッサもまた、ここが、彼と同じ滞在先であるとは知らない。
回転扉が、二度、静かに回る。
同じホテル。
同じ夜。
それぞれが相手を思いながら、まだ、すれ違ったままだった。
