Eine Kleine Ⅲ

 羽田空港。
 機体を降りてからの動線は、事前に頭へ叩き込んだ通りだった。
 入国審査、警備の配置、家族動線との分離。
 視線を上げることなく歩きながら、シオンは淡々と状況を確認していく。

 ――問題なし。

 そう結論づけた、そのときだった。
 広いホールの向こう、ガラス越しに人の流れが見えた。
 一般レーン。観光客。帰省客。
 雑多な色彩の中で、一つだけ、視界に引っかかる影があった。
 栗色の髪。華奢な身体。人混みの中にあっても、なぜか輪郭が際立って見えた。
 一瞬、呼吸が止まる。
(……馬鹿な)
 思考が、先に否定した。
 東京にいるはずがない。来る理由も、必要もない。何より――知らせもなかった。
 それでも、視線は離れなかった。
 横顔が見えた瞬間、胸の奥が微かにざわつく。
 似ている。あまりにも、よく似ている。だが、服装も髪型も彼女のイメージと少し違っている。
 護衛の声が、低く響いた。
「猊下、こちらです」
 シオンは足を止めかけたが、足取りを乱すことなく、進行方向へと視線を戻す。
(……考えすぎだ)
 機内で、ずっと彼女のことを考えていた。
 返事のない通信端末。
「気持ちを整理する時間」という言葉。
 その余韻が、現実に影を落としただけだ。
 人は、会いたい相手ほど、いない場所に見てしまうものだ。歩きながら、背後に意識を残したまま、しかし振り返ることはしなかった。
 もし振り返って、もしそれが本当にメリッサだったら。
 そんな仮定を考えること自体が、愚かに思えた。
(他人の空似だ)
 そう結論づけることでしか、今の自分は、公務を続けられなかった。
 ガラスの向こうの人影は、やがて視界から消えた。
 胸の奥に残った違和感だけを、理由のないものとして封じ込め、シオンは、要人動線の奥へと進んでいった。


 人の波が、絶え間なく流れていく。到着ロビーは思っていたよりも明るく、冬の朝の光が、ガラス越しに床へ反射していた。
 メリッサは立ち止まり、自分の立ち位置をもう一度確かめる。
 一般レーン。
(……ほんとに、来ちゃったんだ。東京)
 胸の奥で、少し遅れて実感が追いつく。けれど、シオンには知らせていない。知らせる資格があるのか、分からなかった。
 そのとき、向こう側の動線に、見覚えのある姿を見つけた。
 姿勢よい歩き方。
 人混みの中でも、揺るがない輪郭。
 短い金髪が、空港の照明を受けて淡く光る。
(シオン様…!)
 心臓が、はっきりと跳ねた。
 こんなに近い。
 ガラス一枚の向こうにいる。
 一歩、前に出そうになって、止まる。
(……だめ)
 彼は、こちらを見ていない。護衛に囲まれ、公務の顔をしたまま、歩いている。
 今、呼び止めたら混乱させる。
 予定を狂わせる。
 彼の立場を、脅かす。
 それに、自分は、まだ「会いたい」と言い切れるほど気持ちを整理できていない。
 視線が、ほんの一瞬、絡んだ気がした。
 気のせいかもしれない。ただの錯覚かもしれない。指先が、無意識にコートの袖口を掴む。喉が、きゅっと詰まる。
 シオンの背中が、人の流れに紛れて遠ざかっていく。
 最後まで、彼は振り返らなかった。それが、少しだけ、救いだった。
 見送るという行為は、別れではなく保留だ。
 そう言い聞かせながら、メリッサは、ガラスの向こうの動線から目を離した。
 再会は、まだ先だ。


 到着ロビーの喧騒から少し離れた、空港内の会議室。
 ガラス越しに朝の光が差し込み、長時間の飛行で重くなった身体に、現実を引き戻すようだった。
 ヘスティアは椅子に腰掛けると、手早く資料を開く。
「じゃあ、最終確認ね」
 その声音は、女神というよりも、実家に帰省する一人の娘のものに近い。聖域では聞かない種類の声だった。
「私と家族は、空港からそのまま車で都内の実家へ向かいます。運転は父。護衛の同行は不要です」
 数名の護衛が一瞬、視線を交わす。異を唱える者はいない。事前の打ち合わせ通りだ。
「皆さん――」
 ヘスティアは一度、全員を見渡し、それからシオンへと視線を移した。
「宿泊は、こちらで手配した施設。合流の必要はありません。何かあれば、即時この連絡網を使って」
 配布された紙には、国内用の緊急連絡経路、暗号化された通信番号、想定事案が簡潔にまとめられている。
「日本出発は1月6日・夜。集合は――」
 ヘスティアは日時と場所を読み上げる。
「1月6日 19時30分、指定ターミナル内ラウンジ。それまでは、原則として各自自由行動。ただし、所在は常に共有すること」
 護衛たちが一斉に頷く。
「シオン」
 名を呼ばれ、視線を上げる。
「あなたは……まあ、言わなくてもいいわね。護衛は不要。むしろ、あなたが一番安全」
 小さな笑み。冗談めいているが、事実でもある。
「御意」
 短く応じると、ヘスティアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、ここで解散。ロビーには、ばらばらで出ましょう。家族がいるから」
「御意」
 それぞれが立ち上がり、資料を片付ける。統率の取れた動き。任務の終わりと、私的時間の始まりを分ける合図でもあった。
 シオンは最後に立ち上がった。
 会議室を出ると、通路はすでに一般客の流れに溶け込んでいる。ヘスティアの姿は、別方向へ――もう見えない。
(ここからは、それぞれの時間か)
 ロビーへ向かう足取りは、自然と人の波に紛れる。誰も、彼が聖域教皇であることなど知らない。ただの、異国人の青年として、朝の空港を歩いていく。
 胸の奥に、言葉にならない感覚が残っていた。それが疲労なのか、未練なのか。
 考えることは、やめた。
 シオンは、自分が進むべき動線へと、静かに足を進めた。


 ロビーを出た――確かに出たのだ。だが、その先が問題だった。
(……広すぎない?)
 メリッサは立ち止まり、きょろきょろと視線を巡らせる。
 天井は高く、光は明るく、人の流れは絶えない。頭上にも壁にも、床の上にまで案内表示があるのに、それがかえって混乱を招いていた。
「Domestic… International… Transfer……?」
 英語表記があるのは、ありがたい。いかんせん、情報量が多すぎる。
 手元の旅程表を開く。
 集合場所、移動方法、利用予定の交通機関。ちゃんと書いてある。丁寧に。理路整然と。
 それなのに、現実の空間がそれを上回ってくる。
 案内板を見る。旅程表を見る。もう一度、案内板を見る。
(……大学の講義の方が、まだ筋が通ってる)
 薬学部の難解な代謝経路図の方が、よほど親切だと思う。少なくとも、突然分岐が五方向同時に現れたりはしない。
 人の流れに乗ると、どこかへ行ってしまいそうで怖い。かといって、止まっていると、後ろから来た人に軽く避けられる。
「え、えっと……」
 思わず小さく声が漏れた。
(落ち着け。大丈夫、大丈夫)
 もう一度、旅程表の最初の行を見る。
「到着後、案内係と合流」

 ……案内係。

(その“案内係”は、どこにいるの?)
 視線を上げると、また新しい案内板が目に入った。
 日本語、英語、中国語、韓国語。
 どれも正しく、どれも親切で、どれも今の自分には決定打にならない。
 メリッサは、軽く息を吐いた。
(焦るな。ここは日本。治安もいい。人も優しい――はず)
 一歩、また一歩。慎重に、しかし立ち止まりすぎないように。
(……まずは、落ち着いて行動しよう)
 メリッサは、案内板と旅程表を改めて見比べながら、巨大な羽田空港の中を歩き出した。

 人の流れを避けるように歩いているうちに、ふと、聞き覚えのある声が耳に届いた。
 足が止まる。
 視線を向けたその先にいたのは、ヘスティアだった。
 それも、一人ではない。
 隣には、初老の男性。穏やかながら、長年人の上に立ってきた者特有の落ち着きがある。父親だろう、と直感した。さらにもう一人、落ち着いた雰囲気の女性。年齢はヘスティアより少し上に見える。
(……お姉さん、だよね)
 そう思った理由は、理屈ではなかった。ヘスティアが、その女性の腕に軽く身を寄せ、ほんの少しだけ声の調子を変えている。

 甘えている。

 それは、聖域で見せる“女神”の顔ではない。補佐官たちの前でも、シオンの前でも、決して見せない、完全に私的な表情。
 胸の奥が凍りついた感覚が走る。それは、見てはいけないものを見てしまった、という感覚。
 ヘスティアのことだ。こんな場面、知られたくないに決まっている。ましてや、聖域に関わる人間に。
 メリッサは、反射的に顔を背けた。音を立てないように、視線を合わせないように、そっと、背を向ける。
(……大丈夫。気付かれてない)
 人の流れに紛れるように歩き出しながら、胸の鼓動を抑える。羽田空港は広い。ほんの数歩で、景色は簡単に切り替わる。
 メリッサは、再び案内表示へと視線を向け、何事もなかったかのように、歩みを進めた。
 人波に紛れながら歩き続けていると、さきほどの光景が、遅れて胸の奥に沈んできた。
 お父さんと、お姉さん。じゃあ……お母さんは、家で待っているのだろうか。
 温かい食卓。
 久しぶりの帰宅を喜ぶ声。
「おかえり」と迎えられる場所。
 聖域でのヘスティアは、誰にも寄りかからず、誰の判断も仰がず、ただ毅然としてそこに立つ存在だ。シオンと並び、あるいはそれ以上に、孤高の女神だと思っていた。
 けれど、違った。
 ヘスティアには、帰る家がある。
 肩の力を抜いて、名も役割も脱ぎ捨てていられる場所がある。そして、何も言わなくても受け入れてくれる家族がいる。
(……いいな)
 ぽつりと、心の中で呟く。
 それは羨望であり、嫉妬であり、そして何より、自分にはもう二度と戻れない世界への、静かな憧れだった。
 両親も、兄も、待っている人は一人もいない。
 誰かに「おかえり」と言われるために帰る家ではない。自分で鍵を開け、灯りを点け、静けさを受け入れる場所。
 東京行きだって、そうだ。誘われたから来ただけで、迎えに来てくれる人がいるわけではない。
 ここでも、自分だけが少し遅れている。輪の外に立って、遠巻きに眺めている。
 シオンもヘスティアも、それぞれに役割があり、居場所があり、帰る先がある。
(じゃあ、あたしには何があるの…?)
 メリッサは歩きながら、無意識に胸元を押さえた。痛みというほどではない。けれど、確かに空いたままの場所が、そこにある。

 置き去りにされたような心持ち。

 その感情を抱えてはいけない、と分かっている。比べるべきではない。誰のせいでもない。
 それでも。
 歩幅を崩さないまま、メリッサは唇を噛みしめ、ただ前だけを見て進んだ。
 この旅は、まだ始まったばかりだ。
 しかし、胸の奥に溜め込んでいたものは、理性だけでは抑えきれなかった。
 心細さ。
 寂しさ。
 そして、どうしようもない孤独。
(子どもじゃあるまいし)
 自分で自分を叱る。
 こんな場所で、こんな理由で泣くなんて。いい年をして、情けない。
 けれど、頬を伝う涙は、気丈でいようとする意思とは裏腹に、次から次へと溢れてきた。視界が滲み、案内表示の文字が揺れる。
 すれ違う人々が、ちらりとこちらを見る。
 心配そうな視線。だが、誰も立ち止まらず、声もかけない。
 それでいい。
 声をかけてほしかったわけではない。
 慰められたいわけでも、助けを求めているわけでもない。
 ただ

 ――寂しかった。

 誰かの帰る場所を見てしまったあとで、自分にはそれがないことを、改めて突きつけられてしまっただけだ。
 涙を拭おうとしても、追いつかない。立ち止まるわけにもいかず、人の流れに合わせて歩き続ける。
 空港は広く、明るく、賑やかだ。年始の喧騒の中で、ここだけが切り離されたように感じられた。
 メリッサは唇を結び、声を殺して泣いた。嗚咽が漏れないように、必死に呼吸を整えながら。
 誰にも見せたくない弱さと、誰にも預けられない感情。
 それを抱えたまま、彼女はただ、前に進むしかなかった。
 泣き終える場所も、立ち止まる理由もまだ見つからないまま。
 少し気持ちを落ち着かせようと、メリッサは人通りの少ないベンチに腰を下ろした。背もたれに身を預けると、張り詰めていた肩がわずかに落ちる。
 スマホを取り出し、空港内の案内図を開く。それから、鞄に入れていた旅程表。画面と紙を何度も見比べながら、指で現在地をなぞった。
(……ここじゃない)
 合流場所は、もう少し先。到着ロビーを抜けた先の、指定されたポイントだ。迷っているつもりはなかったが、心が追いついていなかっただけらしい。
 ゆっくりと息を吐く。
 ハンカチで目元を押さえ、頬に残った涙を丁寧に拭う。続けてティッシュを取り出し、静かに鼻をかんだ。周囲に気を配りながらの動作は、どこか習慣めいている。
 ペットボトルの水を開け、一口。冷たい水が喉を通り、身体の内側に落ちていく。
(……大丈夫)
 そう言い聞かせるように、もう一口飲む。呼吸が少しずつ整っていくのが分かった。
 ここは異国だ。言葉も、文化も、空気も違う。それでも、自分はちゃんとここにいる。
 メリッサはスマホを閉じ、ベンチから立ち上がった。旅程表をもう一度確認し、進む方向を確かめる。
 涙の跡は、もう残っていない。
 胸の奥の痛みは消えていないけれど、それを抱えたままでも歩ける。
 そうして彼女は、静かに合流地点へ向かって歩き出した。
「え……まさか……あの人……?」
 合流地点の向こう。人の流れの中に、明らかに異質な存在があった。
 スキンヘッドに、聖闘士に負けないほどがっしりした体躯。黒のスーツがぱつぱつになるほどの肩幅。
(シオン様より……でかくない?)
 一瞬、思考が止まる。
(なんなの、あのおっさん……)
 年齢は分からない。若いのか、そうでないのか判別がつかない。しかし、ただ者ではない雰囲気だけは、嫌というほど伝わってくる。
(いやいやいや……落ち着け。あの人が案内係って決まったわけじゃないし……)
 そう思った、次の瞬間。

 ――視線が、合った。

(……見てる)
 一秒。
 二秒。
(見てる見てる見てる!!)
 目を逸らそうとしたのに、身体が固まる。その間にも、大柄な男は迷いなくこちらへ歩いてくる。
(やめて、来ないで……!)
 完全にこちらに向かっている。逃げ道を探そうにも、周囲は人、人、人。
(終わった……)
 男は、メリッサの前でぴたりと足を止めた。
「……失礼」
 低く、よく通る声。
 次の瞬間――

「あなたが、メリッサ・ドラコペトラさんですね?」

 流暢なギリシャ語だった。
「……え?」
 驚きで言葉が出ない。男は一度だけ軽く会釈をし、名乗った。
「私は辰巳徳丸。城戸沙織お嬢様――アテナ様にお仕えする執事です」
(……執事!?アテナ様の!?格闘家とか反社じゃなくて!?)
「長旅、お疲れでしょう。合流地点はこちらで間違いありません」
 声も、言葉遣いも、想像していた“強面のおっさん”とは違う。むしろ、無駄がなく、礼儀正しい。
「日本へようこそ。これより、私がご案内を担当いたします」
 一瞬の沈黙のあと、メリッサはようやく我に返った。
「あ……えっと……よろしく、お願いします」
 声が少し裏返ったが、辰巳はそれを気にする様子もなく、淡々と続ける。
「ご安心ください。アテナ様からは『威圧しないように』と、くれぐれも言われております」
(……もう遅いです)
 そう心の中で突っ込みながらも、なぜか胸の奥の緊張は少しずつ解けていった。
 少なくとも、この“スキンヘッドの強面の大男”は、敵ではない。
 メリッサは小さく息を整え、辰巳の後に続いて歩き出した。


 羽田を出てしばらく、車は都心へ向かって静かに流れていた。運転席と後部座席の間に会話はない。それで構わない、とシオンは思った。
 護衛は不要。
 少なくとも“この世界”において、彼の身に危険が及ぶ可能性は極めて低い。むしろ、随行の方が目立つ。
(新年の挨拶、か)
 アテナ城戸沙織。
 この世界において、聖域と最も深い因縁と信頼を持つ存在。形式としては私的な訪問だが、象徴的な意味は小さくない。
 窓の外を流れる景色は、どこまでも人工的だった。
無数の光、整備された道路、規則正しい標識。聖域とは、まるで別の世界だ。
 それなのに、不思議と落ち着く。この国は、神話を現実に引き戻す術を知っている。
 だが、思考は、どうしても一人の女性に引き寄せられる。
(……メリッサ)
 日本に来る前から、心のどこかで期待していた。もしかしたら、返事が来るのではないか。搭乗前、着陸後、移動の合間。何度も端末を確認したが、画面は沈黙したままだ。
 拒絶ではない。しかし、距離は確かに存在している。
 それを、痛いほど理解している。
 自分が選んだ道だ。
 教皇として、公務を優先し、言葉を控え、決断を委ねた。それが、彼女を不安にさせたのだとしても。
(……臆病だな)
 若返った身体は、正直だ。感情を抑え込む術を、かつてほど巧みに使えない。

 会いたい。
 声を聞きたい。
 顔を見て、謝りたい。

 だが同時に、彼女の時間を奪う資格が、自分にあるのか分からない。

 やがて、車が減速する。
 門の向こうに見えたのは、この国においては異質なほど静謐で広大な邸宅。
 アテナ城戸沙織の住む屋敷。
「到着しました」
 運転手の声に、シオンは小さく頷いた。
 ドアが開く。冬の空気が、頬を撫でる。
(今は、役目を果たすのみ)
 それだけを胸に刻み、シオンは車を降りた。
 屋敷内に足を踏み入れた瞬間、シオンはわずかな違和感を覚えた。
 静かすぎる。
 城戸邸は常に整然としているが、今日はその整い方が、どこか“人の気配”を欠いている。
 玄関先に出迎えの影は少なく、あの威圧感すら漂う巨躯も見当たらない。
(……辰巳殿がいない)
 執事であり、護衛であり、城戸家の日常そのもののような存在。彼が不在であることに、シオンは即座に気付いた。
 だがすぐに思い至る。
(そうか。今日は三賀日の最終日か)
 日本では、正月三賀日は特別だ。
 近年は年中無休が当たり前になりつつあるとはいえ、こうした伝統的な休みを厳格に守るのは、むしろ城戸家のような旧き格式を持つ家柄だろう。
 案内された応接室で待つこと数分。扉が静かに開いた。
「お久しぶりです、シオン」
 柔らかな声。
 城戸沙織――今代のアテナ。
 変わらぬ亜麻色の髪と澄んだ眼差しを前に、シオンは一歩進み、静かに膝を折る。
「新年、明けましておめでとうございます。本年も、女神の御加護が遍く世界に行き渡りますよう」
 形式ばった言葉ではある。だが、その声には心からの祈りがこもっていた。
 アテナもまた、年相応に、しかしきちんと背すじを伸ばして応える。
「明けましておめでとうございます、シオン。本年も、どうかよろしくお願いいたします」
 互いに礼を終え、そこでようやく場の空気が少し和らいだ。
(……成長されたな)
 改めて向き合うと、以前よりも纏う雰囲気に落ち着きがある。幼さは残しつつも、その奥に確かな意志と知性が宿っているのが分かる。
「今年は高校生になられるとか」
「はい。大学までの一貫校なので、受験はないのですが」
 少し照れたように微笑む姿に、シオンは内心で小さく息を吐いた。
(知の女神に受験の苦労がないというのも、皮肉な話だ)
 だが、学業においても抜きん出ていることは、聖域でも周知の事実だ。
 知を誇示せず、力として扱う姿勢。
 将来、表ではグラード財団総帥として経済界に立ち、裏では人類の平和を静かに支える――その未来が、容易に思い描ける。
(……恵まれておられる)
 今代のアテナは、環境に支えられ、人としての時間を奪われることなく成長している。
 先代を思えば、なおさらだ。孤児として生き、戦いの中で己を磨き上げたアテナ。
 そして、恵まれているからこそ、このアテナは別の形で修行を重ねているのかもしれない。
 守られること。
 選択肢を持つこと。
 戦わないという選択を、あえて選び続けること。
 それもまた、女神に課された試練なのだろう。
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