Eine Kleine Ⅲ
羽田空港。
機体を降りてからの動線は、事前に頭へ叩き込んだ通りだった。
入国審査、警備の配置、家族動線との分離。
視線を上げることなく歩きながら、シオンは淡々と状況を確認していく。
――問題なし。
そう結論づけた、そのときだった。
広いホールの向こう、ガラス越しに人の流れが見えた。
一般レーン。観光客。帰省客。
雑多な色彩の中で、一つだけ、視界に引っかかる影があった。
栗色の髪。華奢な身体。人混みの中にあっても、なぜか輪郭が際立って見えた。
一瞬、呼吸が止まる。
(……馬鹿な)
思考が、先に否定した。
東京にいるはずがない。来る理由も、必要もない。何より――知らせもなかった。
それでも、視線は離れなかった。
横顔が見えた瞬間、胸の奥が微かにざわつく。
似ている。あまりにも、よく似ている。だが、服装も髪型も彼女のイメージと少し違っている。
護衛の声が、低く響いた。
「猊下、こちらです」
シオンは足を止めかけたが、足取りを乱すことなく、進行方向へと視線を戻す。
(……考えすぎだ)
機内で、ずっと彼女のことを考えていた。
返事のない通信端末。
「気持ちを整理する時間」という言葉。
その余韻が、現実に影を落としただけだ。
人は、会いたい相手ほど、いない場所に見てしまうものだ。歩きながら、背後に意識を残したまま、しかし振り返ることはしなかった。
もし振り返って、もしそれが本当にメリッサだったら。
そんな仮定を考えること自体が、愚かに思えた。
(他人の空似だ)
そう結論づけることでしか、今の自分は、公務を続けられなかった。
ガラスの向こうの人影は、やがて視界から消えた。
胸の奥に残った違和感だけを、理由のないものとして封じ込め、シオンは、要人動線の奥へと進んでいった。
人の波が、絶え間なく流れていく。到着ロビーは思っていたよりも明るく、冬の朝の光が、ガラス越しに床へ反射していた。
メリッサは立ち止まり、自分の立ち位置をもう一度確かめる。
一般レーン。
(……ほんとに、来ちゃったんだ。東京)
胸の奥で、少し遅れて実感が追いつく。けれど、シオンには知らせていない。知らせる資格があるのか、分からなかった。
そのとき、向こう側の動線に、見覚えのある姿を見つけた。
姿勢よい歩き方。
人混みの中でも、揺るがない輪郭。
短い金髪が、空港の照明を受けて淡く光る。
(シオン様…!)
心臓が、はっきりと跳ねた。
こんなに近い。
ガラス一枚の向こうにいる。
一歩、前に出そうになって、止まる。
(……だめ)
彼は、こちらを見ていない。護衛に囲まれ、公務の顔をしたまま、歩いている。
今、呼び止めたら混乱させる。
予定を狂わせる。
彼の立場を、脅かす。
それに、自分は、まだ「会いたい」と言い切れるほど気持ちを整理できていない。
視線が、ほんの一瞬、絡んだ気がした。
気のせいかもしれない。ただの錯覚かもしれない。指先が、無意識にコートの袖口を掴む。喉が、きゅっと詰まる。
シオンの背中が、人の流れに紛れて遠ざかっていく。
最後まで、彼は振り返らなかった。それが、少しだけ、救いだった。
見送るという行為は、別れではなく保留だ。
そう言い聞かせながら、メリッサは、ガラスの向こうの動線から目を離した。
再会は、まだ先だ。
到着ロビーの喧騒から少し離れた、空港内の会議室。
ガラス越しに朝の光が差し込み、長時間の飛行で重くなった身体に、現実を引き戻すようだった。
ヘスティアは椅子に腰掛けると、手早く資料を開く。
「じゃあ、最終確認ね」
その声音は、女神というよりも、実家に帰省する一人の娘のものに近い。聖域では聞かない種類の声だった。
「私と家族は、空港からそのまま車で都内の実家へ向かいます。運転は父。護衛の同行は不要です」
数名の護衛が一瞬、視線を交わす。異を唱える者はいない。事前の打ち合わせ通りだ。
「皆さん――」
ヘスティアは一度、全員を見渡し、それからシオンへと視線を移した。
「宿泊は、こちらで手配した施設。合流の必要はありません。何かあれば、即時この連絡網を使って」
配布された紙には、国内用の緊急連絡経路、暗号化された通信番号、想定事案が簡潔にまとめられている。
「日本出発は1月6日・夜。集合は――」
ヘスティアは日時と場所を読み上げる。
「1月6日 19時30分、指定ターミナル内ラウンジ。それまでは、原則として各自自由行動。ただし、所在は常に共有すること」
護衛たちが一斉に頷く。
「シオン」
名を呼ばれ、視線を上げる。
「あなたは……まあ、言わなくてもいいわね。護衛は不要。むしろ、あなたが一番安全」
小さな笑み。冗談めいているが、事実でもある。
「御意」
短く応じると、ヘスティアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、ここで解散。ロビーには、ばらばらで出ましょう。家族がいるから」
「御意」
それぞれが立ち上がり、資料を片付ける。統率の取れた動き。任務の終わりと、私的時間の始まりを分ける合図でもあった。
シオンは最後に立ち上がった。
会議室を出ると、通路はすでに一般客の流れに溶け込んでいる。ヘスティアの姿は、別方向へ――もう見えない。
(ここからは、それぞれの時間か)
ロビーへ向かう足取りは、自然と人の波に紛れる。誰も、彼が聖域教皇であることなど知らない。ただの、異国人の青年として、朝の空港を歩いていく。
胸の奥に、言葉にならない感覚が残っていた。それが疲労なのか、未練なのか。
考えることは、やめた。
シオンは、自分が進むべき動線へと、静かに足を進めた。
ロビーを出た――確かに出たのだ。だが、その先が問題だった。
(……広すぎない?)
メリッサは立ち止まり、きょろきょろと視線を巡らせる。
天井は高く、光は明るく、人の流れは絶えない。頭上にも壁にも、床の上にまで案内表示があるのに、それがかえって混乱を招いていた。
「Domestic… International… Transfer……?」
英語表記があるのは、ありがたい。いかんせん、情報量が多すぎる。
手元の旅程表を開く。
集合場所、移動方法、利用予定の交通機関。ちゃんと書いてある。丁寧に。理路整然と。
それなのに、現実の空間がそれを上回ってくる。
案内板を見る。旅程表を見る。もう一度、案内板を見る。
(……大学の講義の方が、まだ筋が通ってる)
薬学部の難解な代謝経路図の方が、よほど親切だと思う。少なくとも、突然分岐が五方向同時に現れたりはしない。
人の流れに乗ると、どこかへ行ってしまいそうで怖い。かといって、止まっていると、後ろから来た人に軽く避けられる。
「え、えっと……」
思わず小さく声が漏れた。
(落ち着け。大丈夫、大丈夫)
もう一度、旅程表の最初の行を見る。
「到着後、案内係と合流」
……案内係。
(その“案内係”は、どこにいるの?)
視線を上げると、また新しい案内板が目に入った。
日本語、英語、中国語、韓国語。
どれも正しく、どれも親切で、どれも今の自分には決定打にならない。
メリッサは、軽く息を吐いた。
(焦るな。ここは日本。治安もいい。人も優しい――はず)
一歩、また一歩。慎重に、しかし立ち止まりすぎないように。
(……まずは、落ち着いて行動しよう)
メリッサは、案内板と旅程表を改めて見比べながら、巨大な羽田空港の中を歩き出した。
人の流れを避けるように歩いているうちに、ふと、聞き覚えのある声が耳に届いた。
足が止まる。
視線を向けたその先にいたのは、ヘスティアだった。
それも、一人ではない。
隣には、初老の男性。穏やかながら、長年人の上に立ってきた者特有の落ち着きがある。父親だろう、と直感した。さらにもう一人、落ち着いた雰囲気の女性。年齢はヘスティアより少し上に見える。
(……お姉さん、だよね)
そう思った理由は、理屈ではなかった。ヘスティアが、その女性の腕に軽く身を寄せ、ほんの少しだけ声の調子を変えている。
甘えている。
それは、聖域で見せる“女神”の顔ではない。補佐官たちの前でも、シオンの前でも、決して見せない、完全に私的な表情。
胸の奥が凍りついた感覚が走る。それは、見てはいけないものを見てしまった、という感覚。
ヘスティアのことだ。こんな場面、知られたくないに決まっている。ましてや、聖域に関わる人間に。
メリッサは、反射的に顔を背けた。音を立てないように、視線を合わせないように、そっと、背を向ける。
(……大丈夫。気付かれてない)
人の流れに紛れるように歩き出しながら、胸の鼓動を抑える。羽田空港は広い。ほんの数歩で、景色は簡単に切り替わる。
メリッサは、再び案内表示へと視線を向け、何事もなかったかのように、歩みを進めた。
人波に紛れながら歩き続けていると、さきほどの光景が、遅れて胸の奥に沈んできた。
お父さんと、お姉さん。じゃあ……お母さんは、家で待っているのだろうか。
温かい食卓。
久しぶりの帰宅を喜ぶ声。
「おかえり」と迎えられる場所。
聖域でのヘスティアは、誰にも寄りかからず、誰の判断も仰がず、ただ毅然としてそこに立つ存在だ。シオンと並び、あるいはそれ以上に、孤高の女神だと思っていた。
けれど、違った。
ヘスティアには、帰る家がある。
肩の力を抜いて、名も役割も脱ぎ捨てていられる場所がある。そして、何も言わなくても受け入れてくれる家族がいる。
(……いいな)
ぽつりと、心の中で呟く。
それは羨望であり、嫉妬であり、そして何より、自分にはもう二度と戻れない世界への、静かな憧れだった。
両親も、兄も、待っている人は一人もいない。
誰かに「おかえり」と言われるために帰る家ではない。自分で鍵を開け、灯りを点け、静けさを受け入れる場所。
東京行きだって、そうだ。誘われたから来ただけで、迎えに来てくれる人がいるわけではない。
ここでも、自分だけが少し遅れている。輪の外に立って、遠巻きに眺めている。
シオンもヘスティアも、それぞれに役割があり、居場所があり、帰る先がある。
(じゃあ、あたしには何があるの…?)
メリッサは歩きながら、無意識に胸元を押さえた。痛みというほどではない。けれど、確かに空いたままの場所が、そこにある。
置き去りにされたような心持ち。
その感情を抱えてはいけない、と分かっている。比べるべきではない。誰のせいでもない。
それでも。
歩幅を崩さないまま、メリッサは唇を噛みしめ、ただ前だけを見て進んだ。
この旅は、まだ始まったばかりだ。
しかし、胸の奥に溜め込んでいたものは、理性だけでは抑えきれなかった。
心細さ。
寂しさ。
そして、どうしようもない孤独。
(子どもじゃあるまいし)
自分で自分を叱る。
こんな場所で、こんな理由で泣くなんて。いい年をして、情けない。
けれど、頬を伝う涙は、気丈でいようとする意思とは裏腹に、次から次へと溢れてきた。視界が滲み、案内表示の文字が揺れる。
すれ違う人々が、ちらりとこちらを見る。
心配そうな視線。だが、誰も立ち止まらず、声もかけない。
それでいい。
声をかけてほしかったわけではない。
慰められたいわけでも、助けを求めているわけでもない。
ただ
――寂しかった。
誰かの帰る場所を見てしまったあとで、自分にはそれがないことを、改めて突きつけられてしまっただけだ。
涙を拭おうとしても、追いつかない。立ち止まるわけにもいかず、人の流れに合わせて歩き続ける。
空港は広く、明るく、賑やかだ。年始の喧騒の中で、ここだけが切り離されたように感じられた。
メリッサは唇を結び、声を殺して泣いた。嗚咽が漏れないように、必死に呼吸を整えながら。
誰にも見せたくない弱さと、誰にも預けられない感情。
それを抱えたまま、彼女はただ、前に進むしかなかった。
泣き終える場所も、立ち止まる理由もまだ見つからないまま。
少し気持ちを落ち着かせようと、メリッサは人通りの少ないベンチに腰を下ろした。背もたれに身を預けると、張り詰めていた肩がわずかに落ちる。
スマホを取り出し、空港内の案内図を開く。それから、鞄に入れていた旅程表。画面と紙を何度も見比べながら、指で現在地をなぞった。
(……ここじゃない)
合流場所は、もう少し先。到着ロビーを抜けた先の、指定されたポイントだ。迷っているつもりはなかったが、心が追いついていなかっただけらしい。
ゆっくりと息を吐く。
ハンカチで目元を押さえ、頬に残った涙を丁寧に拭う。続けてティッシュを取り出し、静かに鼻をかんだ。周囲に気を配りながらの動作は、どこか習慣めいている。
ペットボトルの水を開け、一口。冷たい水が喉を通り、身体の内側に落ちていく。
(……大丈夫)
そう言い聞かせるように、もう一口飲む。呼吸が少しずつ整っていくのが分かった。
ここは異国だ。言葉も、文化も、空気も違う。それでも、自分はちゃんとここにいる。
メリッサはスマホを閉じ、ベンチから立ち上がった。旅程表をもう一度確認し、進む方向を確かめる。
涙の跡は、もう残っていない。
胸の奥の痛みは消えていないけれど、それを抱えたままでも歩ける。
そうして彼女は、静かに合流地点へ向かって歩き出した。
「え……まさか……あの人……?」
合流地点の向こう。人の流れの中に、明らかに異質な存在があった。
スキンヘッドに、聖闘士に負けないほどがっしりした体躯。黒のスーツがぱつぱつになるほどの肩幅。
(シオン様より……でかくない?)
一瞬、思考が止まる。
(なんなの、あのおっさん……)
年齢は分からない。若いのか、そうでないのか判別がつかない。しかし、ただ者ではない雰囲気だけは、嫌というほど伝わってくる。
(いやいやいや……落ち着け。あの人が案内係って決まったわけじゃないし……)
そう思った、次の瞬間。
――視線が、合った。
(……見てる)
一秒。
二秒。
(見てる見てる見てる!!)
目を逸らそうとしたのに、身体が固まる。その間にも、大柄な男は迷いなくこちらへ歩いてくる。
(やめて、来ないで……!)
完全にこちらに向かっている。逃げ道を探そうにも、周囲は人、人、人。
(終わった……)
男は、メリッサの前でぴたりと足を止めた。
「……失礼」
低く、よく通る声。
次の瞬間――
「あなたが、メリッサ・ドラコペトラさんですね?」
流暢なギリシャ語だった。
「……え?」
驚きで言葉が出ない。男は一度だけ軽く会釈をし、名乗った。
「私は辰巳徳丸。城戸沙織お嬢様――アテナ様にお仕えする執事です」
(……執事!?アテナ様の!?格闘家とか反社じゃなくて!?)
「長旅、お疲れでしょう。合流地点はこちらで間違いありません」
声も、言葉遣いも、想像していた“強面のおっさん”とは違う。むしろ、無駄がなく、礼儀正しい。
「日本へようこそ。これより、私がご案内を担当いたします」
一瞬の沈黙のあと、メリッサはようやく我に返った。
「あ……えっと……よろしく、お願いします」
声が少し裏返ったが、辰巳はそれを気にする様子もなく、淡々と続ける。
「ご安心ください。アテナ様からは『威圧しないように』と、くれぐれも言われております」
(……もう遅いです)
そう心の中で突っ込みながらも、なぜか胸の奥の緊張は少しずつ解けていった。
少なくとも、この“スキンヘッドの強面の大男”は、敵ではない。
メリッサは小さく息を整え、辰巳の後に続いて歩き出した。
羽田を出てしばらく、車は都心へ向かって静かに流れていた。運転席と後部座席の間に会話はない。それで構わない、とシオンは思った。
護衛は不要。
少なくとも“この世界”において、彼の身に危険が及ぶ可能性は極めて低い。むしろ、随行の方が目立つ。
(新年の挨拶、か)
アテナ城戸沙織。
この世界において、聖域と最も深い因縁と信頼を持つ存在。形式としては私的な訪問だが、象徴的な意味は小さくない。
窓の外を流れる景色は、どこまでも人工的だった。
無数の光、整備された道路、規則正しい標識。聖域とは、まるで別の世界だ。
それなのに、不思議と落ち着く。この国は、神話を現実に引き戻す術を知っている。
だが、思考は、どうしても一人の女性に引き寄せられる。
(……メリッサ)
日本に来る前から、心のどこかで期待していた。もしかしたら、返事が来るのではないか。搭乗前、着陸後、移動の合間。何度も端末を確認したが、画面は沈黙したままだ。
拒絶ではない。しかし、距離は確かに存在している。
それを、痛いほど理解している。
自分が選んだ道だ。
教皇として、公務を優先し、言葉を控え、決断を委ねた。それが、彼女を不安にさせたのだとしても。
(……臆病だな)
若返った身体は、正直だ。感情を抑え込む術を、かつてほど巧みに使えない。
会いたい。
声を聞きたい。
顔を見て、謝りたい。
だが同時に、彼女の時間を奪う資格が、自分にあるのか分からない。
やがて、車が減速する。
門の向こうに見えたのは、この国においては異質なほど静謐で広大な邸宅。
アテナ城戸沙織の住む屋敷。
「到着しました」
運転手の声に、シオンは小さく頷いた。
ドアが開く。冬の空気が、頬を撫でる。
(今は、役目を果たすのみ)
それだけを胸に刻み、シオンは車を降りた。
屋敷内に足を踏み入れた瞬間、シオンはわずかな違和感を覚えた。
静かすぎる。
城戸邸は常に整然としているが、今日はその整い方が、どこか“人の気配”を欠いている。
玄関先に出迎えの影は少なく、あの威圧感すら漂う巨躯も見当たらない。
(……辰巳殿がいない)
執事であり、護衛であり、城戸家の日常そのもののような存在。彼が不在であることに、シオンは即座に気付いた。
だがすぐに思い至る。
(そうか。今日は三賀日の最終日か)
日本では、正月三賀日は特別だ。
近年は年中無休が当たり前になりつつあるとはいえ、こうした伝統的な休みを厳格に守るのは、むしろ城戸家のような旧き格式を持つ家柄だろう。
案内された応接室で待つこと数分。扉が静かに開いた。
「お久しぶりです、シオン」
柔らかな声。
城戸沙織――今代のアテナ。
変わらぬ亜麻色の髪と澄んだ眼差しを前に、シオンは一歩進み、静かに膝を折る。
「新年、明けましておめでとうございます。本年も、女神の御加護が遍く世界に行き渡りますよう」
形式ばった言葉ではある。だが、その声には心からの祈りがこもっていた。
アテナもまた、年相応に、しかしきちんと背すじを伸ばして応える。
「明けましておめでとうございます、シオン。本年も、どうかよろしくお願いいたします」
互いに礼を終え、そこでようやく場の空気が少し和らいだ。
(……成長されたな)
改めて向き合うと、以前よりも纏う雰囲気に落ち着きがある。幼さは残しつつも、その奥に確かな意志と知性が宿っているのが分かる。
「今年は高校生になられるとか」
「はい。大学までの一貫校なので、受験はないのですが」
少し照れたように微笑む姿に、シオンは内心で小さく息を吐いた。
(知の女神に受験の苦労がないというのも、皮肉な話だ)
だが、学業においても抜きん出ていることは、聖域でも周知の事実だ。
知を誇示せず、力として扱う姿勢。
将来、表ではグラード財団総帥として経済界に立ち、裏では人類の平和を静かに支える――その未来が、容易に思い描ける。
(……恵まれておられる)
今代のアテナは、環境に支えられ、人としての時間を奪われることなく成長している。
先代を思えば、なおさらだ。孤児として生き、戦いの中で己を磨き上げたアテナ。
そして、恵まれているからこそ、このアテナは別の形で修行を重ねているのかもしれない。
守られること。
選択肢を持つこと。
戦わないという選択を、あえて選び続けること。
それもまた、女神に課された試練なのだろう。
機体を降りてからの動線は、事前に頭へ叩き込んだ通りだった。
入国審査、警備の配置、家族動線との分離。
視線を上げることなく歩きながら、シオンは淡々と状況を確認していく。
――問題なし。
そう結論づけた、そのときだった。
広いホールの向こう、ガラス越しに人の流れが見えた。
一般レーン。観光客。帰省客。
雑多な色彩の中で、一つだけ、視界に引っかかる影があった。
栗色の髪。華奢な身体。人混みの中にあっても、なぜか輪郭が際立って見えた。
一瞬、呼吸が止まる。
(……馬鹿な)
思考が、先に否定した。
東京にいるはずがない。来る理由も、必要もない。何より――知らせもなかった。
それでも、視線は離れなかった。
横顔が見えた瞬間、胸の奥が微かにざわつく。
似ている。あまりにも、よく似ている。だが、服装も髪型も彼女のイメージと少し違っている。
護衛の声が、低く響いた。
「猊下、こちらです」
シオンは足を止めかけたが、足取りを乱すことなく、進行方向へと視線を戻す。
(……考えすぎだ)
機内で、ずっと彼女のことを考えていた。
返事のない通信端末。
「気持ちを整理する時間」という言葉。
その余韻が、現実に影を落としただけだ。
人は、会いたい相手ほど、いない場所に見てしまうものだ。歩きながら、背後に意識を残したまま、しかし振り返ることはしなかった。
もし振り返って、もしそれが本当にメリッサだったら。
そんな仮定を考えること自体が、愚かに思えた。
(他人の空似だ)
そう結論づけることでしか、今の自分は、公務を続けられなかった。
ガラスの向こうの人影は、やがて視界から消えた。
胸の奥に残った違和感だけを、理由のないものとして封じ込め、シオンは、要人動線の奥へと進んでいった。
人の波が、絶え間なく流れていく。到着ロビーは思っていたよりも明るく、冬の朝の光が、ガラス越しに床へ反射していた。
メリッサは立ち止まり、自分の立ち位置をもう一度確かめる。
一般レーン。
(……ほんとに、来ちゃったんだ。東京)
胸の奥で、少し遅れて実感が追いつく。けれど、シオンには知らせていない。知らせる資格があるのか、分からなかった。
そのとき、向こう側の動線に、見覚えのある姿を見つけた。
姿勢よい歩き方。
人混みの中でも、揺るがない輪郭。
短い金髪が、空港の照明を受けて淡く光る。
(シオン様…!)
心臓が、はっきりと跳ねた。
こんなに近い。
ガラス一枚の向こうにいる。
一歩、前に出そうになって、止まる。
(……だめ)
彼は、こちらを見ていない。護衛に囲まれ、公務の顔をしたまま、歩いている。
今、呼び止めたら混乱させる。
予定を狂わせる。
彼の立場を、脅かす。
それに、自分は、まだ「会いたい」と言い切れるほど気持ちを整理できていない。
視線が、ほんの一瞬、絡んだ気がした。
気のせいかもしれない。ただの錯覚かもしれない。指先が、無意識にコートの袖口を掴む。喉が、きゅっと詰まる。
シオンの背中が、人の流れに紛れて遠ざかっていく。
最後まで、彼は振り返らなかった。それが、少しだけ、救いだった。
見送るという行為は、別れではなく保留だ。
そう言い聞かせながら、メリッサは、ガラスの向こうの動線から目を離した。
再会は、まだ先だ。
到着ロビーの喧騒から少し離れた、空港内の会議室。
ガラス越しに朝の光が差し込み、長時間の飛行で重くなった身体に、現実を引き戻すようだった。
ヘスティアは椅子に腰掛けると、手早く資料を開く。
「じゃあ、最終確認ね」
その声音は、女神というよりも、実家に帰省する一人の娘のものに近い。聖域では聞かない種類の声だった。
「私と家族は、空港からそのまま車で都内の実家へ向かいます。運転は父。護衛の同行は不要です」
数名の護衛が一瞬、視線を交わす。異を唱える者はいない。事前の打ち合わせ通りだ。
「皆さん――」
ヘスティアは一度、全員を見渡し、それからシオンへと視線を移した。
「宿泊は、こちらで手配した施設。合流の必要はありません。何かあれば、即時この連絡網を使って」
配布された紙には、国内用の緊急連絡経路、暗号化された通信番号、想定事案が簡潔にまとめられている。
「日本出発は1月6日・夜。集合は――」
ヘスティアは日時と場所を読み上げる。
「1月6日 19時30分、指定ターミナル内ラウンジ。それまでは、原則として各自自由行動。ただし、所在は常に共有すること」
護衛たちが一斉に頷く。
「シオン」
名を呼ばれ、視線を上げる。
「あなたは……まあ、言わなくてもいいわね。護衛は不要。むしろ、あなたが一番安全」
小さな笑み。冗談めいているが、事実でもある。
「御意」
短く応じると、ヘスティアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、ここで解散。ロビーには、ばらばらで出ましょう。家族がいるから」
「御意」
それぞれが立ち上がり、資料を片付ける。統率の取れた動き。任務の終わりと、私的時間の始まりを分ける合図でもあった。
シオンは最後に立ち上がった。
会議室を出ると、通路はすでに一般客の流れに溶け込んでいる。ヘスティアの姿は、別方向へ――もう見えない。
(ここからは、それぞれの時間か)
ロビーへ向かう足取りは、自然と人の波に紛れる。誰も、彼が聖域教皇であることなど知らない。ただの、異国人の青年として、朝の空港を歩いていく。
胸の奥に、言葉にならない感覚が残っていた。それが疲労なのか、未練なのか。
考えることは、やめた。
シオンは、自分が進むべき動線へと、静かに足を進めた。
ロビーを出た――確かに出たのだ。だが、その先が問題だった。
(……広すぎない?)
メリッサは立ち止まり、きょろきょろと視線を巡らせる。
天井は高く、光は明るく、人の流れは絶えない。頭上にも壁にも、床の上にまで案内表示があるのに、それがかえって混乱を招いていた。
「Domestic… International… Transfer……?」
英語表記があるのは、ありがたい。いかんせん、情報量が多すぎる。
手元の旅程表を開く。
集合場所、移動方法、利用予定の交通機関。ちゃんと書いてある。丁寧に。理路整然と。
それなのに、現実の空間がそれを上回ってくる。
案内板を見る。旅程表を見る。もう一度、案内板を見る。
(……大学の講義の方が、まだ筋が通ってる)
薬学部の難解な代謝経路図の方が、よほど親切だと思う。少なくとも、突然分岐が五方向同時に現れたりはしない。
人の流れに乗ると、どこかへ行ってしまいそうで怖い。かといって、止まっていると、後ろから来た人に軽く避けられる。
「え、えっと……」
思わず小さく声が漏れた。
(落ち着け。大丈夫、大丈夫)
もう一度、旅程表の最初の行を見る。
「到着後、案内係と合流」
……案内係。
(その“案内係”は、どこにいるの?)
視線を上げると、また新しい案内板が目に入った。
日本語、英語、中国語、韓国語。
どれも正しく、どれも親切で、どれも今の自分には決定打にならない。
メリッサは、軽く息を吐いた。
(焦るな。ここは日本。治安もいい。人も優しい――はず)
一歩、また一歩。慎重に、しかし立ち止まりすぎないように。
(……まずは、落ち着いて行動しよう)
メリッサは、案内板と旅程表を改めて見比べながら、巨大な羽田空港の中を歩き出した。
人の流れを避けるように歩いているうちに、ふと、聞き覚えのある声が耳に届いた。
足が止まる。
視線を向けたその先にいたのは、ヘスティアだった。
それも、一人ではない。
隣には、初老の男性。穏やかながら、長年人の上に立ってきた者特有の落ち着きがある。父親だろう、と直感した。さらにもう一人、落ち着いた雰囲気の女性。年齢はヘスティアより少し上に見える。
(……お姉さん、だよね)
そう思った理由は、理屈ではなかった。ヘスティアが、その女性の腕に軽く身を寄せ、ほんの少しだけ声の調子を変えている。
甘えている。
それは、聖域で見せる“女神”の顔ではない。補佐官たちの前でも、シオンの前でも、決して見せない、完全に私的な表情。
胸の奥が凍りついた感覚が走る。それは、見てはいけないものを見てしまった、という感覚。
ヘスティアのことだ。こんな場面、知られたくないに決まっている。ましてや、聖域に関わる人間に。
メリッサは、反射的に顔を背けた。音を立てないように、視線を合わせないように、そっと、背を向ける。
(……大丈夫。気付かれてない)
人の流れに紛れるように歩き出しながら、胸の鼓動を抑える。羽田空港は広い。ほんの数歩で、景色は簡単に切り替わる。
メリッサは、再び案内表示へと視線を向け、何事もなかったかのように、歩みを進めた。
人波に紛れながら歩き続けていると、さきほどの光景が、遅れて胸の奥に沈んできた。
お父さんと、お姉さん。じゃあ……お母さんは、家で待っているのだろうか。
温かい食卓。
久しぶりの帰宅を喜ぶ声。
「おかえり」と迎えられる場所。
聖域でのヘスティアは、誰にも寄りかからず、誰の判断も仰がず、ただ毅然としてそこに立つ存在だ。シオンと並び、あるいはそれ以上に、孤高の女神だと思っていた。
けれど、違った。
ヘスティアには、帰る家がある。
肩の力を抜いて、名も役割も脱ぎ捨てていられる場所がある。そして、何も言わなくても受け入れてくれる家族がいる。
(……いいな)
ぽつりと、心の中で呟く。
それは羨望であり、嫉妬であり、そして何より、自分にはもう二度と戻れない世界への、静かな憧れだった。
両親も、兄も、待っている人は一人もいない。
誰かに「おかえり」と言われるために帰る家ではない。自分で鍵を開け、灯りを点け、静けさを受け入れる場所。
東京行きだって、そうだ。誘われたから来ただけで、迎えに来てくれる人がいるわけではない。
ここでも、自分だけが少し遅れている。輪の外に立って、遠巻きに眺めている。
シオンもヘスティアも、それぞれに役割があり、居場所があり、帰る先がある。
(じゃあ、あたしには何があるの…?)
メリッサは歩きながら、無意識に胸元を押さえた。痛みというほどではない。けれど、確かに空いたままの場所が、そこにある。
置き去りにされたような心持ち。
その感情を抱えてはいけない、と分かっている。比べるべきではない。誰のせいでもない。
それでも。
歩幅を崩さないまま、メリッサは唇を噛みしめ、ただ前だけを見て進んだ。
この旅は、まだ始まったばかりだ。
しかし、胸の奥に溜め込んでいたものは、理性だけでは抑えきれなかった。
心細さ。
寂しさ。
そして、どうしようもない孤独。
(子どもじゃあるまいし)
自分で自分を叱る。
こんな場所で、こんな理由で泣くなんて。いい年をして、情けない。
けれど、頬を伝う涙は、気丈でいようとする意思とは裏腹に、次から次へと溢れてきた。視界が滲み、案内表示の文字が揺れる。
すれ違う人々が、ちらりとこちらを見る。
心配そうな視線。だが、誰も立ち止まらず、声もかけない。
それでいい。
声をかけてほしかったわけではない。
慰められたいわけでも、助けを求めているわけでもない。
ただ
――寂しかった。
誰かの帰る場所を見てしまったあとで、自分にはそれがないことを、改めて突きつけられてしまっただけだ。
涙を拭おうとしても、追いつかない。立ち止まるわけにもいかず、人の流れに合わせて歩き続ける。
空港は広く、明るく、賑やかだ。年始の喧騒の中で、ここだけが切り離されたように感じられた。
メリッサは唇を結び、声を殺して泣いた。嗚咽が漏れないように、必死に呼吸を整えながら。
誰にも見せたくない弱さと、誰にも預けられない感情。
それを抱えたまま、彼女はただ、前に進むしかなかった。
泣き終える場所も、立ち止まる理由もまだ見つからないまま。
少し気持ちを落ち着かせようと、メリッサは人通りの少ないベンチに腰を下ろした。背もたれに身を預けると、張り詰めていた肩がわずかに落ちる。
スマホを取り出し、空港内の案内図を開く。それから、鞄に入れていた旅程表。画面と紙を何度も見比べながら、指で現在地をなぞった。
(……ここじゃない)
合流場所は、もう少し先。到着ロビーを抜けた先の、指定されたポイントだ。迷っているつもりはなかったが、心が追いついていなかっただけらしい。
ゆっくりと息を吐く。
ハンカチで目元を押さえ、頬に残った涙を丁寧に拭う。続けてティッシュを取り出し、静かに鼻をかんだ。周囲に気を配りながらの動作は、どこか習慣めいている。
ペットボトルの水を開け、一口。冷たい水が喉を通り、身体の内側に落ちていく。
(……大丈夫)
そう言い聞かせるように、もう一口飲む。呼吸が少しずつ整っていくのが分かった。
ここは異国だ。言葉も、文化も、空気も違う。それでも、自分はちゃんとここにいる。
メリッサはスマホを閉じ、ベンチから立ち上がった。旅程表をもう一度確認し、進む方向を確かめる。
涙の跡は、もう残っていない。
胸の奥の痛みは消えていないけれど、それを抱えたままでも歩ける。
そうして彼女は、静かに合流地点へ向かって歩き出した。
「え……まさか……あの人……?」
合流地点の向こう。人の流れの中に、明らかに異質な存在があった。
スキンヘッドに、聖闘士に負けないほどがっしりした体躯。黒のスーツがぱつぱつになるほどの肩幅。
(シオン様より……でかくない?)
一瞬、思考が止まる。
(なんなの、あのおっさん……)
年齢は分からない。若いのか、そうでないのか判別がつかない。しかし、ただ者ではない雰囲気だけは、嫌というほど伝わってくる。
(いやいやいや……落ち着け。あの人が案内係って決まったわけじゃないし……)
そう思った、次の瞬間。
――視線が、合った。
(……見てる)
一秒。
二秒。
(見てる見てる見てる!!)
目を逸らそうとしたのに、身体が固まる。その間にも、大柄な男は迷いなくこちらへ歩いてくる。
(やめて、来ないで……!)
完全にこちらに向かっている。逃げ道を探そうにも、周囲は人、人、人。
(終わった……)
男は、メリッサの前でぴたりと足を止めた。
「……失礼」
低く、よく通る声。
次の瞬間――
「あなたが、メリッサ・ドラコペトラさんですね?」
流暢なギリシャ語だった。
「……え?」
驚きで言葉が出ない。男は一度だけ軽く会釈をし、名乗った。
「私は辰巳徳丸。城戸沙織お嬢様――アテナ様にお仕えする執事です」
(……執事!?アテナ様の!?格闘家とか反社じゃなくて!?)
「長旅、お疲れでしょう。合流地点はこちらで間違いありません」
声も、言葉遣いも、想像していた“強面のおっさん”とは違う。むしろ、無駄がなく、礼儀正しい。
「日本へようこそ。これより、私がご案内を担当いたします」
一瞬の沈黙のあと、メリッサはようやく我に返った。
「あ……えっと……よろしく、お願いします」
声が少し裏返ったが、辰巳はそれを気にする様子もなく、淡々と続ける。
「ご安心ください。アテナ様からは『威圧しないように』と、くれぐれも言われております」
(……もう遅いです)
そう心の中で突っ込みながらも、なぜか胸の奥の緊張は少しずつ解けていった。
少なくとも、この“スキンヘッドの強面の大男”は、敵ではない。
メリッサは小さく息を整え、辰巳の後に続いて歩き出した。
羽田を出てしばらく、車は都心へ向かって静かに流れていた。運転席と後部座席の間に会話はない。それで構わない、とシオンは思った。
護衛は不要。
少なくとも“この世界”において、彼の身に危険が及ぶ可能性は極めて低い。むしろ、随行の方が目立つ。
(新年の挨拶、か)
アテナ城戸沙織。
この世界において、聖域と最も深い因縁と信頼を持つ存在。形式としては私的な訪問だが、象徴的な意味は小さくない。
窓の外を流れる景色は、どこまでも人工的だった。
無数の光、整備された道路、規則正しい標識。聖域とは、まるで別の世界だ。
それなのに、不思議と落ち着く。この国は、神話を現実に引き戻す術を知っている。
だが、思考は、どうしても一人の女性に引き寄せられる。
(……メリッサ)
日本に来る前から、心のどこかで期待していた。もしかしたら、返事が来るのではないか。搭乗前、着陸後、移動の合間。何度も端末を確認したが、画面は沈黙したままだ。
拒絶ではない。しかし、距離は確かに存在している。
それを、痛いほど理解している。
自分が選んだ道だ。
教皇として、公務を優先し、言葉を控え、決断を委ねた。それが、彼女を不安にさせたのだとしても。
(……臆病だな)
若返った身体は、正直だ。感情を抑え込む術を、かつてほど巧みに使えない。
会いたい。
声を聞きたい。
顔を見て、謝りたい。
だが同時に、彼女の時間を奪う資格が、自分にあるのか分からない。
やがて、車が減速する。
門の向こうに見えたのは、この国においては異質なほど静謐で広大な邸宅。
アテナ城戸沙織の住む屋敷。
「到着しました」
運転手の声に、シオンは小さく頷いた。
ドアが開く。冬の空気が、頬を撫でる。
(今は、役目を果たすのみ)
それだけを胸に刻み、シオンは車を降りた。
屋敷内に足を踏み入れた瞬間、シオンはわずかな違和感を覚えた。
静かすぎる。
城戸邸は常に整然としているが、今日はその整い方が、どこか“人の気配”を欠いている。
玄関先に出迎えの影は少なく、あの威圧感すら漂う巨躯も見当たらない。
(……辰巳殿がいない)
執事であり、護衛であり、城戸家の日常そのもののような存在。彼が不在であることに、シオンは即座に気付いた。
だがすぐに思い至る。
(そうか。今日は三賀日の最終日か)
日本では、正月三賀日は特別だ。
近年は年中無休が当たり前になりつつあるとはいえ、こうした伝統的な休みを厳格に守るのは、むしろ城戸家のような旧き格式を持つ家柄だろう。
案内された応接室で待つこと数分。扉が静かに開いた。
「お久しぶりです、シオン」
柔らかな声。
城戸沙織――今代のアテナ。
変わらぬ亜麻色の髪と澄んだ眼差しを前に、シオンは一歩進み、静かに膝を折る。
「新年、明けましておめでとうございます。本年も、女神の御加護が遍く世界に行き渡りますよう」
形式ばった言葉ではある。だが、その声には心からの祈りがこもっていた。
アテナもまた、年相応に、しかしきちんと背すじを伸ばして応える。
「明けましておめでとうございます、シオン。本年も、どうかよろしくお願いいたします」
互いに礼を終え、そこでようやく場の空気が少し和らいだ。
(……成長されたな)
改めて向き合うと、以前よりも纏う雰囲気に落ち着きがある。幼さは残しつつも、その奥に確かな意志と知性が宿っているのが分かる。
「今年は高校生になられるとか」
「はい。大学までの一貫校なので、受験はないのですが」
少し照れたように微笑む姿に、シオンは内心で小さく息を吐いた。
(知の女神に受験の苦労がないというのも、皮肉な話だ)
だが、学業においても抜きん出ていることは、聖域でも周知の事実だ。
知を誇示せず、力として扱う姿勢。
将来、表ではグラード財団総帥として経済界に立ち、裏では人類の平和を静かに支える――その未来が、容易に思い描ける。
(……恵まれておられる)
今代のアテナは、環境に支えられ、人としての時間を奪われることなく成長している。
先代を思えば、なおさらだ。孤児として生き、戦いの中で己を磨き上げたアテナ。
そして、恵まれているからこそ、このアテナは別の形で修行を重ねているのかもしれない。
守られること。
選択肢を持つこと。
戦わないという選択を、あえて選び続けること。
それもまた、女神に課された試練なのだろう。
