Eine Kleine Ⅲ
聖域の結界を越えた瞬間、空気が変わった。
張り詰めるというより、余分なものがそぎ落とされる——そんな感覚だった。
十二宮を抜け、教皇宮の奥へ進む。
かつては謁見のためだけに使われていたという静かな広間に、メリッサは足を踏み入れた。
天井は高く、白い石の壁には過度な装飾がない。
それでも空気は澄んでいて、居心地の悪い緊張はない。
香炉から漂う、かすかな清浄の香りが、呼吸を整えてくれた。
「……メリッサ・ドラコペトラ、参りました」
名を告げると、自然と背すじが伸びる。
奥に設えられた椅子に、一人の女性が腰掛けていた。
艶のある黒髪に、穏やかな微笑。
だがその存在は、教皇でさえ補佐に過ぎないのだと、無言のまま理解させる。
「よく来てくれましたね、メリッサさん」
ヘスティアだった。
白を基調とした簡素な衣。宝飾はほとんどない。
それでも、視線は自然と彼女に引き寄せられる。
「急に呼び立ててしまって、ごめんなさい」
声音はあくまで柔らかく、責める響きはなかった。
だからこそ、メリッサの胸の奥に、静かな緊張が生まれる。
「いえ……驚きはしましたが」
形式に則りながらも、過度に畏まらない所作で一礼する。
ヘスティアはそれを見て、わずかに頷いた。
「顔を上げて。今日は、裁くためでも、命じるためでもありません」
そう言って、向かいの椅子を示す。
「座ってください。少し、話がしたいのです」
一瞬だけ迷い、それからメリッサは腰を下ろした。
「……緊張していますね」
「はい。正直に言えば」
隠すつもりはなかった。
ヘスティアは、くすりと小さく笑う。
「単刀直入に言うわ。シオンのこと、気にしているのでしょう」
核心を突く問いだった。
けれど、その声に糾弾の色はない。
メリッサは視線を落とし、息を整える。
「……はい」
それだけで十分だったのだろう。
ヘスティアは、それ以上踏み込まなかった。
「彼は不器用な人です。立場も、責務も、背負いすぎるほどに背負っている」
指先を軽く組み、言葉を選ぶように続ける。
「でもね、あなたを軽んじたことは、一度もありません」
その言葉は、慰めでも断言でもなく、
ただ事実として、胸の奥に落ちてきた。
「今日はその話をするために呼んだわけではありませんが……無関係とも言えないわね」
ヘスティアは、わずかに姿勢を正す。
「年が明けてすぐ、私は日本へ向かいます。私的な帰省です」
メリッサは、思わず顔を上げた。
「その際、あなたにも同行してほしいと思っています」
一瞬、言葉を失う。
「……私が、ですか」
「ええ。招待です。命令ではありません。私と行動を共にする必要もないわ」
はっきりとした言い方だった。
「理由はいくつかあります。でも、一番大切なのは——あなたが、自分の気持ちを見失わないため」
逃げ道を残した言葉だった。押しつけでも、誘導でもない。
「離れたまま考えるより、同じ空の下で考えるほうが、答えは見つかりやすい。そう思わない?」
ヘスティアは、微笑んだまま言った。
それから、立ち上がり際に、小さな紙をメリッサへ差し出す。
「私の連絡先よ。返事は、あなたのタイミングで構わない」
「ただ、覚えていて。あなたは、誰かの都合のために存在しているわけではない」
その一言が、メリッサの胸に、静かに、しかし確かに残った。
聖域を辞した後も、メリッサの胸の内は静まらなかった。
帰りの道すがら、石畳を踏む感触すらどこか現実味を欠いている。結界を抜け、見慣れた空気に戻っても、ヘスティアの言葉が穏やかな余韻としてまとわりついて離れなかった。
同じ空の下で、考える。
簡単なようで、残酷な提案だ。会えば、きっと揺らぐ。顔を見れば、声を聞けば、心は理屈を置き去りにする。それが怖い。
家に戻り、コートを脱いでも、スマホを手に取ることができなかった。
ヘスティアから渡された紙には、端末の番号が書き留めてある。
女神の私用の連絡先。
軽々しく触れていいものではないと分かっている。
ソファに腰を下ろし、天井を見つめる。考えようとすると、どうしても行き着くのは同じところだった。
シオンの立場。
聖域。
自分との、あまりにも隔たった場所。
「……価値が違う、なんて」
呟いて、苦く笑う。
それを言い訳にして、向き合うことから目を逸らしているのは、自分自身だと分かっている。彼が忙しいことも、自由が利かないことも、理解している。それでも、放置された時間が心に影を落としたのも事実だ。
(文句を言いたい訳じゃない)
ただ、置き去りにされた不安を放置したくないだけだ。
テーブルの上に置かれたラッピングが目に入る。アルバムには、シオンに向けて撮ったことが一目でわかるセルフィーが貼られている。
(あのときは、信じてた)
信じることが、こんなにも心細いものだとは思わなかった。
スマホを手に取り画面を点けると、既読のついたまま、返していないシオンからのメッセージが、そこにある。
一度、深く息を吸う。そして、もう一度。
逃げたまま、年を越すのは嫌だ。会わないまま東京へ行く。それは、距離を置くためではない。同じ時間を、同じ場所で、それぞれが考えるための猶予だ。
シオンと向き合う前に、まず自分と向き合う。ヘスティアは、そのための場を用意してくれたのだ。
指先が、静かに動く。
ヘスティアの番号を、連絡先に登録する。
名前は一瞬迷ってから、『ヘスティア様』と入力した。
送信画面を開く。短い文でいい。決意は、言葉を飾らなくても伝わる。
《お招きありがとうございます。東京へ同行させてください》
送信。
画面が切り替わるのを見届けてから、メリッサはスマホを胸に抱いた。不安は消えていない。迷いも、まだある。それでも——
(前に進むって、こういうことなんだ)
そう思えた自分に少しだけ驚きながら、メリッサは、静かに目を閉じた。
12月31日。
窓の外は静かな冬の曇り空。一年の終わりが近づき、薄く冷たい風が部屋のカーテンをわずかに揺らす。
机の上には、開きっぱなしのノートとペン。
メリッサは深呼吸をひとつしてから、ペンを握り直した。
東京でやりたいことリスト。
先に何も書かれていない白紙が、少しだけ頼りなく見える。でも、これからここに書き込む言葉は、彼女自身の気持ちを確かめる指針になるはずだ。
まずは、前から気になっていた場所。
浅草寺。
東京でもっとも古い寺のひとつ。年間で多くの参拝者が訪れる、歴史ある場所だ。
どんな雰囲気なのだろう。香の煙の匂い、木々のざわめき、参道を行き交う人々。写真や動画で見てきたけれど、実際の空気はどう違うのか確かめたい。
明治神宮。
対照的に、広い森に囲まれた神社だ。
都会にありながら静謐な空気が漂うと聞く。
寺と神社、仏と神。同じ都市に、まったく別の空気が共存していることに、強い興味を覚える。
次に、ずっと遠くから見てみたかった光景。
渋谷スクランブル交差点。
映像では何度も観た。信号が変わるたびに、四方八方から人が流れるように渡り始め、ぶつからずにすれ違う。どんな気分になるのだろう。自分もその中に身を置いて、人波を往来したい。
そして、少しだけ現実的な欲望。
日本限定モデルのスニーカー。
メリッサが好きなブランドのショップで、日本限定モデルが出るという情報を見つけた。
買えるか分からない。でも、欲しいと思う。その気持ちで胸が少しだけ高鳴るのは、確かなものだ。
リストを眺める。
自分の字、自分の興味。どれも人に見せるためではなく、自分自身のために書いたものだ。
(楽しみになってきたかも)
東京行きには、まだ緊張も不安もある。でも、それ以上に、未知の数日間を自分の足で歩こうという気持ちが、確かに沸き起こっている。
年の瀬の静けさのなか、メリッサの心に小さな灯がともった。その灯はきっと、東京での時間を、今より少しだけ温かいものにしてくれるだろう。
1月2日 早朝。
夜明け前の聖域は、音を失ったように静かだった。石畳に霜が降り、吐く息が白く煙る。
シオンは私室で外套を羽織り、最後に机の上を見渡した。通信端末は伏せたままだ。
メリッサからの返信は、なかった。
それを責める気持ちは、ない。
むしろ、自分の側にある不手際を、数えきれないほど思い知っている。
今回の東京行きは護衛だ。ヘスティアの帰省に帯同する、形式上は穏やかな任務だ。だが国外、それも長距離移動となれば、私情を挟む余地はない。だから、これ以上の連絡はしなかった。彼女の時間を、これ以上縛らぬために。
教皇宮の回廊を抜ける途中、足が一瞬だけ止まる。理由は分かっている。
もし、会えていたら。
そんな仮定は、今さら意味を持たない。シオンは小さく息を整え、前を向いた。
今日から数日、彼は"教皇"ではなく"護衛"だ。
1月2日 朝。
目覚ましが鳴る前に、メリッサは目を覚ました。まだ薄暗い部屋で、天井を見つめたまま、しばらく動けない。
スーツケースは昨夜のうちに用意してある。着替えも、持ち物も最低限だ。東京行きは突然だったが、決めた以上、迷いはなかった。
——否。
迷いが消えたわけではない。会わずに行くと決めたのに、それが正しいのかどうか分からないままだ。ただ、今のまま会えば、きっと自分は何もなかったふりをして笑顔を作るのだろう。
それだけは、したくなかった。
スマホを手に取る。
シオンからのメッセージは、まだ返していない。最後に届いた一文が、画面の上に静かに灯っている。
《年明けに、東京へ滞在する予定がある。しばらく時差が生じる。会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。それだけを伝えておきたかった》
会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。
その言葉が、今は少しだけ遠い。
メリッサは起き上がり、髪を結び直した。
逃げているのではない。
鏡の中の自分に、そう言い聞かせる。
同時刻。
シオンは後部座席で目を閉じ、移動経路を頭の中でなぞっていた。要人動線、警備配置、現地合流の段取り。ヘスティアの身に万一があってはならない。その一点に、思考は集中している。
メリッサは、今、何を思っているだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。だがすぐに打ち消した。返らない言葉。それが、彼女の答えなのだと受け止めている。
シオンは知らない。この同じ朝、同じ空港へ向かう車の中に、メリッサが乗っていることを。
一方で、メリッサは後部座席から冬の海を見ていた。車窓の向こう、灰色がかった水面は穏やかで、風も弱い。フライトには問題なさそうだ、と冷静に思う。
ヘスティアだけが知っている。二台の車が、同じ目的地へと向かっていることを。
再会は、まだ先だ。
機内。
シートベルト着用のサインが点灯し、機内にわずかな緊張が生まれる。シオンの姿勢は崩れないままだった。深く腰掛け、肘掛けに手を置き、目を閉じる。
離陸の振動が、身体にはっきりと伝わる。重力で背が押し付けられ、やがてふっと軽くなる感覚。ギリシャの大地が下に遠のいたとき、胸の奥で何かが置き去りにされた気がした。
メリッサの既読が、頭から離れない。
拒絶ではない。だが、受容でもない。
("待つ"とは、これほど不確かなものだったか)
かつて幾度となく経験した。
聖戦の合間。
別れの前夜。
帰還の保証などない時間。
だが今回の"待ち"は、それらと質が違う。命を賭すわけでもない。世界の命運を背負っているわけでもない。ただ、一人の人間の返事を待っているだけだ。
それが、こんなにも彼の心を乱している。
シオンはゆっくりと息を吐く。
感情を鎮める術は知っている。長い年月、そうして生きてきた。だが、今の身体は正直すぎた。心拍が、勝手に速まる。胸の奥が、空虚で冷えている。
(私は、急ぎすぎたのか)
《会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい》
あの一文は、彼女にとってどう響いただろう。
救いだったか。それとも、追い詰める言葉だったか。
決定権を委ねた。
そう言いながら、実際には選択肢を狭めていたのではないか。
(教皇である前に、私は恋人として未熟だ)
窓側のカバーを少しだけ開ける。雲海が広がり、陽光を反射している。どこまでも均質で、冷静な景色。
(メリッサは、今、何をしているのだろう)
答えは分からない。知らない。知る術も、選ばなかった。
それが彼女の沈黙を尊重するということだと、自分に言い聞かせる。
シオンは再び目を閉じ、ただ心の中で静かに願う。
——どうか、この距離が、彼女を失うためのものではありませんように。
機体は東へ進む。
彼は知らない。同じ機内に、同じ思いを胸に抱いた彼女がいることを。
再会の時刻へと、確実に近づいていることを。
水平飛行に入った機内は、先ほどまでの緊張が嘘のように静かだった。エンジン音は一定で、気圧も安定している。
その穏やかな空気を破ったのは、後方からの小さな衝撃だった。
つんつん、後ろの席から、つむじ付近を軽くつつかれる。
「ねえ、シオン」
「……なんでしょうか」
振り返らずに答えたが、声の調子で誤魔化せたとは思えなかった。
「……機嫌悪い?」
「いえ。そのようなことは」
即答だった。あまりにも早すぎた。
しまった。
シオンは内心で舌打ちする。公務に臨むときの自分なら、もう一拍、間を置いたはずだ。今の反応は、感情が先に立っている証拠だった。
(完全に、乱れているな)
若返ったのは身体だけではない。心まで、年相応になってしまったかのようだ。
ヘスティアは小さく鼻を鳴らす。
「ふーん。じゃあいいけど」
軽い声音。だが、次の言葉は少しだけ真面目だった。
「私ね、空港に家族が迎えに来るから、別々にゲート出るわよ」
「それは……」
思わず、言葉が出る。
「ご家族様へのご挨拶を——」
最後まで言い切る前に、即座に遮られた。
「やめて」
普段の柔らかな声とは違う、はっきりとした拒絶だった。
「家族には、いろいろ伏せているのだから」
その言葉に、シオンは息を詰めた。
そうか。
彼女もまた、神である前に、一人の人間として生きている。そして、その生活の中に、決して明かせない領域を抱えている。
(私と、同じだ)
聖域教皇。地上代行者。神々の意思を背負う存在。だが、それを家族にどう説明するのか。できるはずがない。説明しないという結論を、どれほどの覚悟で選んでいるのか。
「……失礼しました」
声を低く、静かに詫びる。
「配慮が足りませんでした」
ヘスティアは少し間を置いてから、肩をすくめた。
「いいの。分かってて言ったわけじゃないでしょ」
それから、少しだけ声を落とす。
「私だってね、全部を切り捨てたわけじゃないの」
家族。日常。過去の名前。
守りたいものがあるからこそ、隠す。
(……彼女もまた、孤独なのだな)
シオンは目を閉じたまま、そう思った。
そして、メリッサも。
自分は、彼女の"守ってきた日常"に、どれほど配慮できていただろうか。自分の立場を理由に、知らず知らずのうちに、踏み込んではいけない領域を侵してはいなかったか。
機体は、安定した高度を保ったまま進んでいく。
「シオン」
再び、ヘスティアが呼ぶ。今度は、少しだけ柔らかい。
「東京では、少しは肩の力抜きなさい」
「……努力は、いたします」
「"努力"ねぇ」
小さく笑う気配。
シオンは答えなかった。ただ、胸の奥で、静かに思う。
本当に、力を抜くべきなのは、公務ではなく、彼女への向き合い方なのかもしれない、と。
張り詰めるというより、余分なものがそぎ落とされる——そんな感覚だった。
十二宮を抜け、教皇宮の奥へ進む。
かつては謁見のためだけに使われていたという静かな広間に、メリッサは足を踏み入れた。
天井は高く、白い石の壁には過度な装飾がない。
それでも空気は澄んでいて、居心地の悪い緊張はない。
香炉から漂う、かすかな清浄の香りが、呼吸を整えてくれた。
「……メリッサ・ドラコペトラ、参りました」
名を告げると、自然と背すじが伸びる。
奥に設えられた椅子に、一人の女性が腰掛けていた。
艶のある黒髪に、穏やかな微笑。
だがその存在は、教皇でさえ補佐に過ぎないのだと、無言のまま理解させる。
「よく来てくれましたね、メリッサさん」
ヘスティアだった。
白を基調とした簡素な衣。宝飾はほとんどない。
それでも、視線は自然と彼女に引き寄せられる。
「急に呼び立ててしまって、ごめんなさい」
声音はあくまで柔らかく、責める響きはなかった。
だからこそ、メリッサの胸の奥に、静かな緊張が生まれる。
「いえ……驚きはしましたが」
形式に則りながらも、過度に畏まらない所作で一礼する。
ヘスティアはそれを見て、わずかに頷いた。
「顔を上げて。今日は、裁くためでも、命じるためでもありません」
そう言って、向かいの椅子を示す。
「座ってください。少し、話がしたいのです」
一瞬だけ迷い、それからメリッサは腰を下ろした。
「……緊張していますね」
「はい。正直に言えば」
隠すつもりはなかった。
ヘスティアは、くすりと小さく笑う。
「単刀直入に言うわ。シオンのこと、気にしているのでしょう」
核心を突く問いだった。
けれど、その声に糾弾の色はない。
メリッサは視線を落とし、息を整える。
「……はい」
それだけで十分だったのだろう。
ヘスティアは、それ以上踏み込まなかった。
「彼は不器用な人です。立場も、責務も、背負いすぎるほどに背負っている」
指先を軽く組み、言葉を選ぶように続ける。
「でもね、あなたを軽んじたことは、一度もありません」
その言葉は、慰めでも断言でもなく、
ただ事実として、胸の奥に落ちてきた。
「今日はその話をするために呼んだわけではありませんが……無関係とも言えないわね」
ヘスティアは、わずかに姿勢を正す。
「年が明けてすぐ、私は日本へ向かいます。私的な帰省です」
メリッサは、思わず顔を上げた。
「その際、あなたにも同行してほしいと思っています」
一瞬、言葉を失う。
「……私が、ですか」
「ええ。招待です。命令ではありません。私と行動を共にする必要もないわ」
はっきりとした言い方だった。
「理由はいくつかあります。でも、一番大切なのは——あなたが、自分の気持ちを見失わないため」
逃げ道を残した言葉だった。押しつけでも、誘導でもない。
「離れたまま考えるより、同じ空の下で考えるほうが、答えは見つかりやすい。そう思わない?」
ヘスティアは、微笑んだまま言った。
それから、立ち上がり際に、小さな紙をメリッサへ差し出す。
「私の連絡先よ。返事は、あなたのタイミングで構わない」
「ただ、覚えていて。あなたは、誰かの都合のために存在しているわけではない」
その一言が、メリッサの胸に、静かに、しかし確かに残った。
聖域を辞した後も、メリッサの胸の内は静まらなかった。
帰りの道すがら、石畳を踏む感触すらどこか現実味を欠いている。結界を抜け、見慣れた空気に戻っても、ヘスティアの言葉が穏やかな余韻としてまとわりついて離れなかった。
同じ空の下で、考える。
簡単なようで、残酷な提案だ。会えば、きっと揺らぐ。顔を見れば、声を聞けば、心は理屈を置き去りにする。それが怖い。
家に戻り、コートを脱いでも、スマホを手に取ることができなかった。
ヘスティアから渡された紙には、端末の番号が書き留めてある。
女神の私用の連絡先。
軽々しく触れていいものではないと分かっている。
ソファに腰を下ろし、天井を見つめる。考えようとすると、どうしても行き着くのは同じところだった。
シオンの立場。
聖域。
自分との、あまりにも隔たった場所。
「……価値が違う、なんて」
呟いて、苦く笑う。
それを言い訳にして、向き合うことから目を逸らしているのは、自分自身だと分かっている。彼が忙しいことも、自由が利かないことも、理解している。それでも、放置された時間が心に影を落としたのも事実だ。
(文句を言いたい訳じゃない)
ただ、置き去りにされた不安を放置したくないだけだ。
テーブルの上に置かれたラッピングが目に入る。アルバムには、シオンに向けて撮ったことが一目でわかるセルフィーが貼られている。
(あのときは、信じてた)
信じることが、こんなにも心細いものだとは思わなかった。
スマホを手に取り画面を点けると、既読のついたまま、返していないシオンからのメッセージが、そこにある。
一度、深く息を吸う。そして、もう一度。
逃げたまま、年を越すのは嫌だ。会わないまま東京へ行く。それは、距離を置くためではない。同じ時間を、同じ場所で、それぞれが考えるための猶予だ。
シオンと向き合う前に、まず自分と向き合う。ヘスティアは、そのための場を用意してくれたのだ。
指先が、静かに動く。
ヘスティアの番号を、連絡先に登録する。
名前は一瞬迷ってから、『ヘスティア様』と入力した。
送信画面を開く。短い文でいい。決意は、言葉を飾らなくても伝わる。
《お招きありがとうございます。東京へ同行させてください》
送信。
画面が切り替わるのを見届けてから、メリッサはスマホを胸に抱いた。不安は消えていない。迷いも、まだある。それでも——
(前に進むって、こういうことなんだ)
そう思えた自分に少しだけ驚きながら、メリッサは、静かに目を閉じた。
12月31日。
窓の外は静かな冬の曇り空。一年の終わりが近づき、薄く冷たい風が部屋のカーテンをわずかに揺らす。
机の上には、開きっぱなしのノートとペン。
メリッサは深呼吸をひとつしてから、ペンを握り直した。
東京でやりたいことリスト。
先に何も書かれていない白紙が、少しだけ頼りなく見える。でも、これからここに書き込む言葉は、彼女自身の気持ちを確かめる指針になるはずだ。
まずは、前から気になっていた場所。
浅草寺。
東京でもっとも古い寺のひとつ。年間で多くの参拝者が訪れる、歴史ある場所だ。
どんな雰囲気なのだろう。香の煙の匂い、木々のざわめき、参道を行き交う人々。写真や動画で見てきたけれど、実際の空気はどう違うのか確かめたい。
明治神宮。
対照的に、広い森に囲まれた神社だ。
都会にありながら静謐な空気が漂うと聞く。
寺と神社、仏と神。同じ都市に、まったく別の空気が共存していることに、強い興味を覚える。
次に、ずっと遠くから見てみたかった光景。
渋谷スクランブル交差点。
映像では何度も観た。信号が変わるたびに、四方八方から人が流れるように渡り始め、ぶつからずにすれ違う。どんな気分になるのだろう。自分もその中に身を置いて、人波を往来したい。
そして、少しだけ現実的な欲望。
日本限定モデルのスニーカー。
メリッサが好きなブランドのショップで、日本限定モデルが出るという情報を見つけた。
買えるか分からない。でも、欲しいと思う。その気持ちで胸が少しだけ高鳴るのは、確かなものだ。
リストを眺める。
自分の字、自分の興味。どれも人に見せるためではなく、自分自身のために書いたものだ。
(楽しみになってきたかも)
東京行きには、まだ緊張も不安もある。でも、それ以上に、未知の数日間を自分の足で歩こうという気持ちが、確かに沸き起こっている。
年の瀬の静けさのなか、メリッサの心に小さな灯がともった。その灯はきっと、東京での時間を、今より少しだけ温かいものにしてくれるだろう。
1月2日 早朝。
夜明け前の聖域は、音を失ったように静かだった。石畳に霜が降り、吐く息が白く煙る。
シオンは私室で外套を羽織り、最後に机の上を見渡した。通信端末は伏せたままだ。
メリッサからの返信は、なかった。
それを責める気持ちは、ない。
むしろ、自分の側にある不手際を、数えきれないほど思い知っている。
今回の東京行きは護衛だ。ヘスティアの帰省に帯同する、形式上は穏やかな任務だ。だが国外、それも長距離移動となれば、私情を挟む余地はない。だから、これ以上の連絡はしなかった。彼女の時間を、これ以上縛らぬために。
教皇宮の回廊を抜ける途中、足が一瞬だけ止まる。理由は分かっている。
もし、会えていたら。
そんな仮定は、今さら意味を持たない。シオンは小さく息を整え、前を向いた。
今日から数日、彼は"教皇"ではなく"護衛"だ。
1月2日 朝。
目覚ましが鳴る前に、メリッサは目を覚ました。まだ薄暗い部屋で、天井を見つめたまま、しばらく動けない。
スーツケースは昨夜のうちに用意してある。着替えも、持ち物も最低限だ。東京行きは突然だったが、決めた以上、迷いはなかった。
——否。
迷いが消えたわけではない。会わずに行くと決めたのに、それが正しいのかどうか分からないままだ。ただ、今のまま会えば、きっと自分は何もなかったふりをして笑顔を作るのだろう。
それだけは、したくなかった。
スマホを手に取る。
シオンからのメッセージは、まだ返していない。最後に届いた一文が、画面の上に静かに灯っている。
《年明けに、東京へ滞在する予定がある。しばらく時差が生じる。会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。それだけを伝えておきたかった》
会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。
その言葉が、今は少しだけ遠い。
メリッサは起き上がり、髪を結び直した。
逃げているのではない。
鏡の中の自分に、そう言い聞かせる。
同時刻。
シオンは後部座席で目を閉じ、移動経路を頭の中でなぞっていた。要人動線、警備配置、現地合流の段取り。ヘスティアの身に万一があってはならない。その一点に、思考は集中している。
メリッサは、今、何を思っているだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。だがすぐに打ち消した。返らない言葉。それが、彼女の答えなのだと受け止めている。
シオンは知らない。この同じ朝、同じ空港へ向かう車の中に、メリッサが乗っていることを。
一方で、メリッサは後部座席から冬の海を見ていた。車窓の向こう、灰色がかった水面は穏やかで、風も弱い。フライトには問題なさそうだ、と冷静に思う。
ヘスティアだけが知っている。二台の車が、同じ目的地へと向かっていることを。
再会は、まだ先だ。
機内。
シートベルト着用のサインが点灯し、機内にわずかな緊張が生まれる。シオンの姿勢は崩れないままだった。深く腰掛け、肘掛けに手を置き、目を閉じる。
離陸の振動が、身体にはっきりと伝わる。重力で背が押し付けられ、やがてふっと軽くなる感覚。ギリシャの大地が下に遠のいたとき、胸の奥で何かが置き去りにされた気がした。
メリッサの既読が、頭から離れない。
拒絶ではない。だが、受容でもない。
("待つ"とは、これほど不確かなものだったか)
かつて幾度となく経験した。
聖戦の合間。
別れの前夜。
帰還の保証などない時間。
だが今回の"待ち"は、それらと質が違う。命を賭すわけでもない。世界の命運を背負っているわけでもない。ただ、一人の人間の返事を待っているだけだ。
それが、こんなにも彼の心を乱している。
シオンはゆっくりと息を吐く。
感情を鎮める術は知っている。長い年月、そうして生きてきた。だが、今の身体は正直すぎた。心拍が、勝手に速まる。胸の奥が、空虚で冷えている。
(私は、急ぎすぎたのか)
《会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい》
あの一文は、彼女にとってどう響いただろう。
救いだったか。それとも、追い詰める言葉だったか。
決定権を委ねた。
そう言いながら、実際には選択肢を狭めていたのではないか。
(教皇である前に、私は恋人として未熟だ)
窓側のカバーを少しだけ開ける。雲海が広がり、陽光を反射している。どこまでも均質で、冷静な景色。
(メリッサは、今、何をしているのだろう)
答えは分からない。知らない。知る術も、選ばなかった。
それが彼女の沈黙を尊重するということだと、自分に言い聞かせる。
シオンは再び目を閉じ、ただ心の中で静かに願う。
——どうか、この距離が、彼女を失うためのものではありませんように。
機体は東へ進む。
彼は知らない。同じ機内に、同じ思いを胸に抱いた彼女がいることを。
再会の時刻へと、確実に近づいていることを。
水平飛行に入った機内は、先ほどまでの緊張が嘘のように静かだった。エンジン音は一定で、気圧も安定している。
その穏やかな空気を破ったのは、後方からの小さな衝撃だった。
つんつん、後ろの席から、つむじ付近を軽くつつかれる。
「ねえ、シオン」
「……なんでしょうか」
振り返らずに答えたが、声の調子で誤魔化せたとは思えなかった。
「……機嫌悪い?」
「いえ。そのようなことは」
即答だった。あまりにも早すぎた。
しまった。
シオンは内心で舌打ちする。公務に臨むときの自分なら、もう一拍、間を置いたはずだ。今の反応は、感情が先に立っている証拠だった。
(完全に、乱れているな)
若返ったのは身体だけではない。心まで、年相応になってしまったかのようだ。
ヘスティアは小さく鼻を鳴らす。
「ふーん。じゃあいいけど」
軽い声音。だが、次の言葉は少しだけ真面目だった。
「私ね、空港に家族が迎えに来るから、別々にゲート出るわよ」
「それは……」
思わず、言葉が出る。
「ご家族様へのご挨拶を——」
最後まで言い切る前に、即座に遮られた。
「やめて」
普段の柔らかな声とは違う、はっきりとした拒絶だった。
「家族には、いろいろ伏せているのだから」
その言葉に、シオンは息を詰めた。
そうか。
彼女もまた、神である前に、一人の人間として生きている。そして、その生活の中に、決して明かせない領域を抱えている。
(私と、同じだ)
聖域教皇。地上代行者。神々の意思を背負う存在。だが、それを家族にどう説明するのか。できるはずがない。説明しないという結論を、どれほどの覚悟で選んでいるのか。
「……失礼しました」
声を低く、静かに詫びる。
「配慮が足りませんでした」
ヘスティアは少し間を置いてから、肩をすくめた。
「いいの。分かってて言ったわけじゃないでしょ」
それから、少しだけ声を落とす。
「私だってね、全部を切り捨てたわけじゃないの」
家族。日常。過去の名前。
守りたいものがあるからこそ、隠す。
(……彼女もまた、孤独なのだな)
シオンは目を閉じたまま、そう思った。
そして、メリッサも。
自分は、彼女の"守ってきた日常"に、どれほど配慮できていただろうか。自分の立場を理由に、知らず知らずのうちに、踏み込んではいけない領域を侵してはいなかったか。
機体は、安定した高度を保ったまま進んでいく。
「シオン」
再び、ヘスティアが呼ぶ。今度は、少しだけ柔らかい。
「東京では、少しは肩の力抜きなさい」
「……努力は、いたします」
「"努力"ねぇ」
小さく笑う気配。
シオンは答えなかった。ただ、胸の奥で、静かに思う。
本当に、力を抜くべきなのは、公務ではなく、彼女への向き合い方なのかもしれない、と。
