Eine Kleine Ⅲ
12月28日。
声に出さず、ただその数字を心のうちで辿る。年の瀬という響きは街をどこか浮き立たせるのに、メリッサの胸の中だけが取り残されたように静まり返っていた。
付き合い始めたばかりだというのに、四日、あるいは五日。シオンからの連絡は、ない。
スマートフォンの画面を開いては閉じる。その動作を何度繰り返したのか、もう数えていない。通知欄に新しい名前は現れず、履歴も変わらないまま光っている。分かっている。彼は忙しい。忙しいどころではない立場にいる。
――聖域教皇。
その肩書きは、恋人という言葉のやわらかさを、いとも容易く押し潰してしまう。
怒るのは違う気がする。泣くのも、何かを責めるみたいで嫌だ。何も感じないふりをすることが大人の振る舞いなのだとすれば、きっと自分はまだひどく未熟だ。
友人に打ち明けるという選択肢は、最初からなかった。彼の立場を知る者は限られているし、知らない者に話せるほど軽い悩みでもない。愚痴に変換してしまえば一時は楽になれるかもしれないが、それは彼を安売りすることのように思えた。
だから結局、いつもと同じだ。自分の中で考えて、考えて、答えの出ない問いを一人で抱え込む。
視線が、テーブルの上に置かれた小さな包みへと落ちる。
アテネのショッピングモールで選んだチェキ。派手でもなく、けれど安っぽくもない、落ち着いた色のアルバム。最初の一枚はアテネの港で撮ったセルフィー。二枚目は二人で一緒に撮ろうと決めていた。まだ空白のままのページ。彼の名を思い浮かべる。
日付も、添える言葉も、何度も書き直した。たった一行のメッセージに何度も躊躇して、ようやく手放した言葉。誰にも見せない、彼だけのために綴った文字。
いつ、渡せるんだろう。
問いは声にならず、胸の奥へと沈んでいく。水底に落とした石のように、確かな重みだけを残して。
「……待つしかないのかな」
独り言は、冬の乾いた空気にあっさりと吸い込まれた。カーテンの隙間から差し込む夕刻の光が、室内の埃を淡く照らしている。世界はちゃんと動いているのに、自分だけが置いてけぼりを食らっているようだった。
冬休みの課題は、全て終えてある。追われるべきことは、もうない。何かに駆り立てられていれば、余計なことを考えずに済むのに。
メリッサはノートパソコンの電源を落とした。シャットダウンの電子音が、静まり返った部屋に思いのほか大きく響く。暗くなった画面に、自分の顔がうっすらと映り込んだ。強がっているつもりなのに、今にも泣き出しそうな顔をしている。
区切りの音のはずなのに、何も終わらない。むしろ、静寂がいっそう形を持って、部屋の隅々にまで満ちていく。
待つことは、信じることなのだろうか。それとも、自分を試される時間なのだろうか。
答えは、どこにも見当たらなかった。
12月28日 夜。
夜の帳が下りた教皇宮は、ひっそりと静まり返っていた。
昼の公務を終え、ムウとも貴鬼とも別れ、ようやく一人になった私室で、シオンは椅子に腰を下ろした。法衣を脱ぎ、無造作に机の端へ置く。そして通信端末へと視線を落とした瞬間、眉間に深いしわが刻まれた。
未読。しかも、一通や二通ではない。
指先が一瞬だけ動きを止める。画面を見つめたまま息を一つ整え、時刻を確認した。その短い沈黙の間に、胸の奥で嫌な予感だけが、静かに輪郭を帯びはじめていた。
最後のメッセージは、数日前。短く、控えめな文面。それが、かえって胸に深く刺さった。
《忙しいよね。無理しないでください》
逆に、こちらがメリッサへ無理をさせているのだという自覚は、ずっとあった。
私的な通信を断たざるを得ない公務だった。だが、理由があることと、相手を傷つけても許されることは、決して同義ではない。それは免罪符にも言い訳にもならない。
若返った心臓が、はっきりと痛みを訴えてくる。
電話に手を伸ばしかけて、止めた。声を聞けば、理性が揺らぐ。それがよく分かっているから。
シオンは短く息を吐き、静かに文字を打ち込んだ。
《遅くなった。無事に戻った。心配をかけてすまない。近いうちに、会いたい》
それ以上は、書けなかった。
送信。
椅子に深く身を沈め、天井を仰ぐ。静寂が、重くのしかかるように降りてくる。
(拒まれても、仕方あるまい)
それほどのことを、私はしてしまったのだから。
同日 夜。
ノートパソコンを閉じた余韻が、まだ指先に残っていた。
そのときだった。伏せて置いていたスマートフォンが、机の隅で小さく震えた。
規則正しく、しかしどこか控えめな振動。心臓が、遅れて大きく跳ねた。
まさか。
視線は向けているのに、手が伸びない。たった数秒。けれどその数秒の間に、期待と恐れが激しくせめぎ合う。
もし違ったら。もし、また別の通知だったら。
希望を抱いた分だけ深く落ちるのが怖いと、いつから覚えてしまったのだろう。
そっと、画面を点ける。
暗闇に浮かぶ白い文字。
――シオン様。
その名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。呼吸が浅くなり、視界の端がわずかに滲む。
《遅くなった。無事に戻った。心配をかけてすまない。近いうちに、会いたい》
簡潔で、飾り気のない言葉。けれど確かに、そこに彼の声があった。理性を保ったまま、ぎりぎりのところで差し出された手のひら。
既読の表示がつく。
それだけのことなのに、身体が動かない。指も、喉も、呼吸さえも。
嬉しい、と言えば嬉しいのだろう。安心した、と言えば、たしかに胸に積もっていた重石は少し軽くなった。
けれど、最初に浮かんだ言葉は、どちらでもなかった。
(……遅いよ)
胸の奥で、幼い声が呟く。
責めたいわけじゃない。怒りたいわけでもない。ただ、暗い道に一人で置き去りにされたような、あの時間の感触がまだ消えていない。待っている間、何度も何度も自分を納得させた。彼には立場がある。教皇という重みがある。そう言い聞かせるたびに、恋人である自分は果たしてそこに含まれているのだろうかと、不安が膨らんだ。
返信画面を開く。白い入力欄が、何も書かれないまま光っている。
「……」
言葉はいくつも浮かぶのに、どれも的外れな気がした。
おかえりなさい。心配してた。会いたい。
どれも本心で、どれも足りない。この数日間の、置き去りにされたような静かな痛みまで、一行の文字で伝えられる気がしなかった。
結局、何も打たないまま画面を閉じる。
逃げたのだと、自分でも分かっている。
視線をゆっくりとテーブルへ移す。丁寧に包まれたラッピング。リボンの結び目は、何度もやり直したせいで結びジワが残っていて、少し不格好だ。
中には、チェキとアルバム。最初の一枚は、港で撮った笑顔のセルフィー。冬の海風に髪を乱されながら、それでも笑っていた自分の顔。隣には、まだいない彼の分の余白。
空白は、未来のためにある。
(会えたら……ちゃんと言おう)
遅かったことも。寂しかったことも。それでも、待っていたことも。
文字ではなく、目を見て。逃げずに。
スマートフォンをそっと伏せる。今度は、振動しない。
部屋は静まり返っている。けれど先ほどまでの静寂とは違う。ほんのわずか、温度が戻ったような気がした。
会いたい、と書いてくれた。
その一文だけで、完全には許せない自分も、完全には突き放せない自分も、どちらもいる。
メリッサは小さく息を吐き、ラッピングの端をそっと指で整えた。これを渡す日を、まだ思い描けない夜だった。
12月29日 昼。
シオンの公務は、午前でひと区切りを迎えた。昼食の席に着いても、彼の意識は料理よりも手元の通信端末へ引き寄せられてしまう。
まだ、返事はない。
急がせるつもりはない。
本心からそう思っている。だが、"待つ"という行為が、これほど心をざわつかせるものだとは知らなかった。胸の奥に、小さな緊張が常に張り付いている。
(……そなたも、同じ思いをしていたのだな)
数日、理由を告げられぬまま音沙汰のない時間。それがどれほどの不安を育てるか、今ならよく分かる。
端末を置き、静かに思案する。
二人きりで、落ち着いて話せる場所がいい。だが、メリッサに余計な緊張を強いてはならない。
港町は彼女の地元だ。顔見知りが多すぎる。聖域は論外。アテネだと、距離がある。往復だけで疲れさせてしまう。どこかのホテルの一室を押さえるか。いや、それでは他ならぬ勘違いを招く恐れがある。
考えるべきは、場所よりも時よりも、まず何より、今日、会いたいかどうか。その権利を持つのは、彼女だけだ。
シオンは端末を取り、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。言葉一つで彼女を縛ってしまう可能性がある。だからこそ慎重に、慎重に、打ち込む一文字一文字を選ぶ。
やがて、静かに指を動かし始めた。
《昼の公務が終わった。もし今日どこかで会えるなら、時間も場所も、そなたの都合に合わせたい。無理をする必要はない。今日が難しければ、それでも構わない》
それだけ。言い訳も、感情も、詫びの重ね書きもしない。判断を委ねるという意思だけを、静かに置いた。
送信。
端末を伏せ、椅子の背に身を委ねる。
待とう。
答えが来るかどうかではない。彼女が、自分の気持ちを選び取るまで。その沈黙のひとつひとつさえも、今は受け入れる覚悟だった。
12月29日 昼。
通信アプリの画面を開いたまま、メリッサは手を止めていた。送信も、閉じることもできない。ただ、名前を見つめている。
(シオン様……)
会いたくないわけじゃない。嫌いになったわけでも、気持ちが冷めたわけでもない。それははっきり分かっている。
(……じゃあ、なんで返せないんだろう)
胸の奥を静かに探る。
苛立ちでも、怒りでも、失望でもない。どれも、決定打にはならなかった。
あたしは、何が嫌なんだろう。あたしを躊躇わせているのは、何なんだろう。
忙しい立場なんだから仕方ない。
教皇なんだから当然だ。
頭では、いくらでも理由を並べられる。でも、それらはすべて後から作り上げた言葉だ。もっと単純で、もっと強い感情が、ずっと奥に沈んでいる。
――置いていかれた。
そう思った瞬間、胸がしんと痛んだ。
連絡のなかった数日間、「今、何をしているんだろう」「無事でいるかな」そう思うたびに、返ってくるはずのない沈黙に、一人で向き合っていた。
(……あたし、待ってたんだ)
待つこと自体が辛かったわけじゃない。辛かったのは、待つしかない立場に押し込められたこと。何も知らされず、何も選べず、ただ“理解する側”でいることを当然のように求められたこと。
それが、怖かったのかもしれない。
このまま会いに行けば、「お疲れ様」「忙しかったんだね」と、無理に笑顔を作ってしまいそうな気がする。本当は「寂しかった」「一言でいいから連絡が欲しかった」と言いたいのに。でもそれを口にしたら、彼の立場を責めることになる気がする。重荷になる気がする。
会いたい気持ちは確かにある。けれど、それはまだ今じゃない。
ようやく、感情の輪郭が見え始めた。
画面に指を置き、深く息を吸う。返事は短く、簡潔に。
《連絡ありがとう。今日は少し、気持ちを整理する時間がほしいです。また、改めてこちらから連絡します》
送信。
胸の奥がかすかに震える。それでも、これは拒絶ではない。自分を守るための静かな選択だ。
(……ちゃんとシオン様のことを好きでいたいから)
そのために、今は一歩立ち止まらなければならなかった。
12月29日 昼。
通信端末が、静かに振動した。
シオンは反射的に手を伸ばし、画面を確かめる。メリッサからの返信だ。その事実だけで、胸に固まっていた焦燥感がわずかに緩んだ。だが、表示された文章を読み終えた瞬間、その安堵はまた別の形に変わって胸に沈んだ。
《今日は少し、気持ちを整理する時間がほしい》
気持ちを整理する。
その言葉が、予想以上の重みをもって迫ってくる。
(……整理、か)
怒りではない。拒絶でもない。だが、猶予でもない。
これは、「今は会いたくない」という意思表示だ。そして同時に、「何かが揺らいでいる」という静かな告知。
(私が、揺らがせてしまった)
理由は分かっている。だからこそ、言い訳も反論も出てこない。
数日。たった数日。だが、恋が始まったばかりの時間としては、あまりにも長い沈黙だった。彼女は、待っていたのだ。自分から責めることもなく、不安をぶつけることもなく。理解しようとして、一人で。
それがどれほど孤独な時間だったかを、自分は知っていたはずなのに。
(私は、彼女の優しさに甘えた)
通信端末を伏せ、椅子に深く身を沈める。天井を仰いでも、答えは降ってこない。
気持ちを整理する時間。それは、このまま二人の関係をやり過ごすことはできないという意志の表れだ。
彼女は迷っている。だからこそ、こちらが追いかけてはならない。
(今、手を伸ばせば――壊す)
教皇としての判断ではない。一人の男としての、本能に近い直感だった。
シオンは短く息を整え、返信欄を開く。だが、文字は打たない。代わりに、そっと画面を閉じた。
(……待とう)
彼女が、自分の言葉で戻ってくるまで。それが今の自分に許された、唯一の誠実さだ。
それでも胸の奥では、小さく確かに、不安が疼いている。整理の先にある答えが、自分の望まぬものであったとしても、それでも受け止める覚悟を今から持てと。
静かな私室に、時を刻む音だけが残った。
12月29日 夜。
夜更けの教皇宮は深い静寂に包まれていた。
机上のランプだけが淡く灯り、シオンは書類に目を落としている。しかし内容は、ほとんど頭に入っていなかった。通信端末は、音もなく伏せられたままだ。夜になっても、メリッサからの返信はない。
当然だ。
昼に届いた、あの一文。
《気持ちを整理する時間がほしい》
それを尊重すると決めたのは自分だ。
それでも、時間が過ぎるにつれ、胸の奥に別の計算が忍び寄ってくる。
残された日数は多くない。
12月30日。31日。1月1日。
そして、2日からは日本だ。
ヘスティアの護衛という名目だが、実際は穏やかな帰省であり、東京での滞在も長くはない。しかし、距離と時差は確実に二人の間に壁を作る。
(私は……また、同じことを繰り返すのか)
理由のある沈黙と、正当な不在。
結果として、彼女を一人にしてしまう。それを、もう一度。
シオンはゆっくりと背もたれに身を預け、目を閉じた。
会うべきか、待つべきか。会えば彼女に決断を迫ることになる。待てば日本行きで、さらに時間が空く。どちらも、正解とは言えない。
選べる立場ではない。決定権は彼女にある。それは最初から変わらない。だが、選択肢を無用に狭めることだけは、避けなければならない。
シオンは通信端末を取り、今度は慎重に画面を開いた。新着は、ない。
一度、指が入力欄に触れる。だが、長い文は打たなかった。短く、極めて抑えた言葉だけを送る。
《年明けに、東京へ滞在する予定がある。しばらく時差が生じる。会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。それだけを伝えておきたかった》
言い訳はしない。寂しさも書かない。今度は「会いたい」という言葉すら、封じた。
送信。
端末を置き、深く息を吐く。
(……これ以上は、踏み込めない)
今の彼女に必要なのは、説得でも、謝罪の重ね書きでもない。選べる余白だ。その余白が彼女を自分から遠ざける結果になったとしても、これ以上彼女の心を追い詰めるわけにはいかなかった。
夜は、静かに更けていく。12月30日まで、あと数時間。シオンに残された時間は、思っていた以上に少なかった。
12月29日 夜。
スマホの画面に残る、シオンからの新しいメッセージ。短く、丁寧で、いつも通りの言葉遣い。
内容は理解できた。頭では、全て。しかし、感情は別の話だった。
年内に会えるのは実質あと二日。30日と31日。それを逃せば、日本行き。また距離と時間が二人の間に横たわる。
メリッサは分かっている。公務が優先なのは当然だ。聖域教皇という立場が、個人の感情より重いことも。分かっているからこそ、苦しい。
それでも。
《会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい》
その一文が、胸の奥で静かに痛んだ。
優先しているようでいて、選択肢は最初から絞られている。会うなら今。会わないなら、またしばらく先。それは選択というより、提示された条件の受諾か拒否かだ。シオンの予定は動かない。
メリッサはソファに腰を下ろし、背中を丸めた。スマホを胸の前で両手に包む。
自分は、ただの大学生だ。薬学部に通い、課題に追われ、将来の不安を胸に抱えながら生きている、ありふれた一人。
一方で、彼は聖域教皇。世界の均衡に関わる存在で、国家と国家の思惑が絡み合う立場にある。
釣り合わない。それは、最初から分かっていたことだ。それでも、好きになってしまった。
存在の重みが違う。背負っているものの大きさが違う。
同じ土俵に立っていない二人が、“恋人”という言葉で並ぼうとすること自体が、どこかに無理を生んでいるのではないか。
ラッピングされた箱が、視界の端に映る。チェキとアルバム。何度も見返した写真。セルフィーのあの笑顔は、本物だった。一緒に過ごした時間も、嘘じゃない。
なのに。
(……あたし、何に傷ついているんだろう)
会えなかったこと?連絡がなかったこと?それとも、何も選べない立場に置かれている自分自身?
メリッサは目を閉じた。
会えば、きっと安心する。顔を見たら、こんな悩みなんて全部どうでもよくなってしまうかもしれない。でも同時に、「これからも、こうなんだ」と改めて突きつけられる気もしていた。
好きだからこそ、流されるのが怖い。
スマホの画面を見つめたまま、指は動かない。今はまだ、答えを送れなかった。
会いたい気持ちと、会ってしまうことへの怖さが、いつまでもせめぎ合っていた。
12月30日 9時。
庭に干した洗濯物が、冬の乾いた風を受けてかすかに揺れていた。白いシャツ。セーター。厚手のタオル。
年末だという実感は、こうした日常の営みの中には宿らない。普段と変わらない休日の過ごし方だ。
パチン、と洗濯ばさみを留めた、そのときだった。
ピンポーン。
不意に鳴った呼び鈴に、メリッサの手が止まった。時計を見ると、まだ朝の九時だった。
(こんな時間に?)
年の瀬の挨拶は、もう済ませてある。市場にも漁協にも顔を出した。友人と約束した覚えもない。胸の奥に、かすかな警戒が走る。
玄関へ向かい、ドア越しに声をかけた。
「どなたですか?」
一拍の間の後、落ち着いた女性の声が返ってきた。
「聖域の使いの者です」
一瞬、空気が止まった。
(聖域?)
言葉の意味を理解するより先に、心臓が早鐘を打ち始める。
「ご用件は?」
声が震えないよう、意識して落ち着かせながら問う。
「あなた様に、招集がかかっております」
招集。
その単語は、あまりにも公的で、メリッサの心に冷たく落ちた。呼び出し。命令。拒否の余地はない、という含み。
(シオン様が?)
反射的に浮かんだ名を、メリッサはすぐに打ち消した。この言い方は違う。あの人なら、こんな形での呼び出しはしない。
ドアノブに手をかける前に、一瞬だけ迷う。だが、聖域の名を出されて無視できるほど、彼女はもう“外部”の人間ではなかった。
静かに鍵を外し、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。年齢は二十代半ばほど。控えめな装いだが、立ち居振る舞いに一切の無駄がない。
女官だ、と直感する。
「メリッサ・ドラコペトラ様ですね」
「……はい」
「女神ヘスティア様より、直接の招集です」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
女神ヘスティア。聖域を統べる存在。教皇の上位に立つ、神。
「どういった、ご用件ですか」
問いは、思ったよりも静かに出た。
女官は一礼し、淡々と告げる。
「詳細は、ヘスティア様ご本人より直接お話しされます。本日中に、聖域へお越しいただきたいとのことです」
本日中。逃げ場のない時間指定だ。にもかかわらず、その声音には圧も強制もない。命令というより、招待に近い。そう感じてしまうことが、余計に不安だった。
「準備の時間は……」
「十分にございます。急がせる意図はございません」
女官は一拍置いて、こう付け加えた。
「これは、懲罰でも詮議でもありません」
その言葉に、メリッサはわずかに目を伏せた。
じゃあ、何なんだろう。
答えは分からない。ただ一つ確かなのは、この呼び鈴が鳴った瞬間から、静かに保っていた均衡が確実に動き出したということだけだった。
メリッサは一度だけ深く息を吸った。
急がせない、とは言われた。それでも現実として、女神が待っているのだ。のんびり構えていい理由にはならない。
(でも、この格好はないな)
自分の服装を見下ろす。ローゲージのニットにジーンズ。近所着としては問題ないが、女神への謁見ともなれば話は別だ。
「支度しますので、上がってお待ちください」
そう言ってから、ふと立場の差を思い出す。聖域の使者を軽々しく家へ上げていいものか。だが返ってきた答えは、即座だった。
「いえ。外でお待ちします」
言葉も態度も、あくまで控えめだ。それがかえって緊張を煽る。
「分かりました。すぐ戻ります」
玄関を離れ、二階の自室へ向かう。
クローゼットを開け、ざっと中を見渡す。派手な服は論外だ。かといって、地味すぎるのも違う。
選んだのは、落ち着いた色合いのツイードのセットアップ。硬すぎず、軽すぎない。大学の式典や改まった場でも使える一着だ。
着替えを済ませ、鏡の前に立つ。メイクも少しはした方がいいだろう。
下地を整え、ファンデーションを薄く伸ばす。眉を少し整え、アイシャドウは肌なじみのいい色をひと刷け乗せ、マスカラも控えめにつける。女神相手に、目元で主張する必要はない。最後にリップを軽く乗せ、鏡を見つめた。
(……うん)
十分だった。これ以上手を加えたら、かえって不自然になる。
髪は手早くまとめ、低めのポニーテールにする。首元がすっきりして、視線も落ち着く。アクセサリー類は着けない。そもそも手持ちが少ない上に、どれもカジュアルに寄ったものばかりだ。
時計を見る。思ったより時間はかかっていない。
階段を下りながら、胸の奥がしんと静かにざわめく。
(ヘスティア様……何の用件なんだろう)
シオンのこと。東京のこと。それとも、自分自身の立場のこと。
どれもあり得て、どれも決定打にならない。
玄関の扉を開けると、女官は先ほどと同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。こちらを一瞥し、わずかに目を細める。
「……よろしいかと存じます」
評価でも許可でもない、静かな事実確認だけを含むその一言に、思わず背筋が伸びた。
「では、参りましょうか」
メリッサは小さく頷く。
こうして彼女は、自分の意思とは別のところで、再び聖域へと足を向けることになった。
それが、ずっと避けてきた再会への道と、静かに繋がっていることを、まだ彼女は知らなかった。
声に出さず、ただその数字を心のうちで辿る。年の瀬という響きは街をどこか浮き立たせるのに、メリッサの胸の中だけが取り残されたように静まり返っていた。
付き合い始めたばかりだというのに、四日、あるいは五日。シオンからの連絡は、ない。
スマートフォンの画面を開いては閉じる。その動作を何度繰り返したのか、もう数えていない。通知欄に新しい名前は現れず、履歴も変わらないまま光っている。分かっている。彼は忙しい。忙しいどころではない立場にいる。
――聖域教皇。
その肩書きは、恋人という言葉のやわらかさを、いとも容易く押し潰してしまう。
怒るのは違う気がする。泣くのも、何かを責めるみたいで嫌だ。何も感じないふりをすることが大人の振る舞いなのだとすれば、きっと自分はまだひどく未熟だ。
友人に打ち明けるという選択肢は、最初からなかった。彼の立場を知る者は限られているし、知らない者に話せるほど軽い悩みでもない。愚痴に変換してしまえば一時は楽になれるかもしれないが、それは彼を安売りすることのように思えた。
だから結局、いつもと同じだ。自分の中で考えて、考えて、答えの出ない問いを一人で抱え込む。
視線が、テーブルの上に置かれた小さな包みへと落ちる。
アテネのショッピングモールで選んだチェキ。派手でもなく、けれど安っぽくもない、落ち着いた色のアルバム。最初の一枚はアテネの港で撮ったセルフィー。二枚目は二人で一緒に撮ろうと決めていた。まだ空白のままのページ。彼の名を思い浮かべる。
日付も、添える言葉も、何度も書き直した。たった一行のメッセージに何度も躊躇して、ようやく手放した言葉。誰にも見せない、彼だけのために綴った文字。
いつ、渡せるんだろう。
問いは声にならず、胸の奥へと沈んでいく。水底に落とした石のように、確かな重みだけを残して。
「……待つしかないのかな」
独り言は、冬の乾いた空気にあっさりと吸い込まれた。カーテンの隙間から差し込む夕刻の光が、室内の埃を淡く照らしている。世界はちゃんと動いているのに、自分だけが置いてけぼりを食らっているようだった。
冬休みの課題は、全て終えてある。追われるべきことは、もうない。何かに駆り立てられていれば、余計なことを考えずに済むのに。
メリッサはノートパソコンの電源を落とした。シャットダウンの電子音が、静まり返った部屋に思いのほか大きく響く。暗くなった画面に、自分の顔がうっすらと映り込んだ。強がっているつもりなのに、今にも泣き出しそうな顔をしている。
区切りの音のはずなのに、何も終わらない。むしろ、静寂がいっそう形を持って、部屋の隅々にまで満ちていく。
待つことは、信じることなのだろうか。それとも、自分を試される時間なのだろうか。
答えは、どこにも見当たらなかった。
12月28日 夜。
夜の帳が下りた教皇宮は、ひっそりと静まり返っていた。
昼の公務を終え、ムウとも貴鬼とも別れ、ようやく一人になった私室で、シオンは椅子に腰を下ろした。法衣を脱ぎ、無造作に机の端へ置く。そして通信端末へと視線を落とした瞬間、眉間に深いしわが刻まれた。
未読。しかも、一通や二通ではない。
指先が一瞬だけ動きを止める。画面を見つめたまま息を一つ整え、時刻を確認した。その短い沈黙の間に、胸の奥で嫌な予感だけが、静かに輪郭を帯びはじめていた。
最後のメッセージは、数日前。短く、控えめな文面。それが、かえって胸に深く刺さった。
《忙しいよね。無理しないでください》
逆に、こちらがメリッサへ無理をさせているのだという自覚は、ずっとあった。
私的な通信を断たざるを得ない公務だった。だが、理由があることと、相手を傷つけても許されることは、決して同義ではない。それは免罪符にも言い訳にもならない。
若返った心臓が、はっきりと痛みを訴えてくる。
電話に手を伸ばしかけて、止めた。声を聞けば、理性が揺らぐ。それがよく分かっているから。
シオンは短く息を吐き、静かに文字を打ち込んだ。
《遅くなった。無事に戻った。心配をかけてすまない。近いうちに、会いたい》
それ以上は、書けなかった。
送信。
椅子に深く身を沈め、天井を仰ぐ。静寂が、重くのしかかるように降りてくる。
(拒まれても、仕方あるまい)
それほどのことを、私はしてしまったのだから。
同日 夜。
ノートパソコンを閉じた余韻が、まだ指先に残っていた。
そのときだった。伏せて置いていたスマートフォンが、机の隅で小さく震えた。
規則正しく、しかしどこか控えめな振動。心臓が、遅れて大きく跳ねた。
まさか。
視線は向けているのに、手が伸びない。たった数秒。けれどその数秒の間に、期待と恐れが激しくせめぎ合う。
もし違ったら。もし、また別の通知だったら。
希望を抱いた分だけ深く落ちるのが怖いと、いつから覚えてしまったのだろう。
そっと、画面を点ける。
暗闇に浮かぶ白い文字。
――シオン様。
その名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。呼吸が浅くなり、視界の端がわずかに滲む。
《遅くなった。無事に戻った。心配をかけてすまない。近いうちに、会いたい》
簡潔で、飾り気のない言葉。けれど確かに、そこに彼の声があった。理性を保ったまま、ぎりぎりのところで差し出された手のひら。
既読の表示がつく。
それだけのことなのに、身体が動かない。指も、喉も、呼吸さえも。
嬉しい、と言えば嬉しいのだろう。安心した、と言えば、たしかに胸に積もっていた重石は少し軽くなった。
けれど、最初に浮かんだ言葉は、どちらでもなかった。
(……遅いよ)
胸の奥で、幼い声が呟く。
責めたいわけじゃない。怒りたいわけでもない。ただ、暗い道に一人で置き去りにされたような、あの時間の感触がまだ消えていない。待っている間、何度も何度も自分を納得させた。彼には立場がある。教皇という重みがある。そう言い聞かせるたびに、恋人である自分は果たしてそこに含まれているのだろうかと、不安が膨らんだ。
返信画面を開く。白い入力欄が、何も書かれないまま光っている。
「……」
言葉はいくつも浮かぶのに、どれも的外れな気がした。
おかえりなさい。心配してた。会いたい。
どれも本心で、どれも足りない。この数日間の、置き去りにされたような静かな痛みまで、一行の文字で伝えられる気がしなかった。
結局、何も打たないまま画面を閉じる。
逃げたのだと、自分でも分かっている。
視線をゆっくりとテーブルへ移す。丁寧に包まれたラッピング。リボンの結び目は、何度もやり直したせいで結びジワが残っていて、少し不格好だ。
中には、チェキとアルバム。最初の一枚は、港で撮った笑顔のセルフィー。冬の海風に髪を乱されながら、それでも笑っていた自分の顔。隣には、まだいない彼の分の余白。
空白は、未来のためにある。
(会えたら……ちゃんと言おう)
遅かったことも。寂しかったことも。それでも、待っていたことも。
文字ではなく、目を見て。逃げずに。
スマートフォンをそっと伏せる。今度は、振動しない。
部屋は静まり返っている。けれど先ほどまでの静寂とは違う。ほんのわずか、温度が戻ったような気がした。
会いたい、と書いてくれた。
その一文だけで、完全には許せない自分も、完全には突き放せない自分も、どちらもいる。
メリッサは小さく息を吐き、ラッピングの端をそっと指で整えた。これを渡す日を、まだ思い描けない夜だった。
12月29日 昼。
シオンの公務は、午前でひと区切りを迎えた。昼食の席に着いても、彼の意識は料理よりも手元の通信端末へ引き寄せられてしまう。
まだ、返事はない。
急がせるつもりはない。
本心からそう思っている。だが、"待つ"という行為が、これほど心をざわつかせるものだとは知らなかった。胸の奥に、小さな緊張が常に張り付いている。
(……そなたも、同じ思いをしていたのだな)
数日、理由を告げられぬまま音沙汰のない時間。それがどれほどの不安を育てるか、今ならよく分かる。
端末を置き、静かに思案する。
二人きりで、落ち着いて話せる場所がいい。だが、メリッサに余計な緊張を強いてはならない。
港町は彼女の地元だ。顔見知りが多すぎる。聖域は論外。アテネだと、距離がある。往復だけで疲れさせてしまう。どこかのホテルの一室を押さえるか。いや、それでは他ならぬ勘違いを招く恐れがある。
考えるべきは、場所よりも時よりも、まず何より、今日、会いたいかどうか。その権利を持つのは、彼女だけだ。
シオンは端末を取り、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。言葉一つで彼女を縛ってしまう可能性がある。だからこそ慎重に、慎重に、打ち込む一文字一文字を選ぶ。
やがて、静かに指を動かし始めた。
《昼の公務が終わった。もし今日どこかで会えるなら、時間も場所も、そなたの都合に合わせたい。無理をする必要はない。今日が難しければ、それでも構わない》
それだけ。言い訳も、感情も、詫びの重ね書きもしない。判断を委ねるという意思だけを、静かに置いた。
送信。
端末を伏せ、椅子の背に身を委ねる。
待とう。
答えが来るかどうかではない。彼女が、自分の気持ちを選び取るまで。その沈黙のひとつひとつさえも、今は受け入れる覚悟だった。
12月29日 昼。
通信アプリの画面を開いたまま、メリッサは手を止めていた。送信も、閉じることもできない。ただ、名前を見つめている。
(シオン様……)
会いたくないわけじゃない。嫌いになったわけでも、気持ちが冷めたわけでもない。それははっきり分かっている。
(……じゃあ、なんで返せないんだろう)
胸の奥を静かに探る。
苛立ちでも、怒りでも、失望でもない。どれも、決定打にはならなかった。
あたしは、何が嫌なんだろう。あたしを躊躇わせているのは、何なんだろう。
忙しい立場なんだから仕方ない。
教皇なんだから当然だ。
頭では、いくらでも理由を並べられる。でも、それらはすべて後から作り上げた言葉だ。もっと単純で、もっと強い感情が、ずっと奥に沈んでいる。
――置いていかれた。
そう思った瞬間、胸がしんと痛んだ。
連絡のなかった数日間、「今、何をしているんだろう」「無事でいるかな」そう思うたびに、返ってくるはずのない沈黙に、一人で向き合っていた。
(……あたし、待ってたんだ)
待つこと自体が辛かったわけじゃない。辛かったのは、待つしかない立場に押し込められたこと。何も知らされず、何も選べず、ただ“理解する側”でいることを当然のように求められたこと。
それが、怖かったのかもしれない。
このまま会いに行けば、「お疲れ様」「忙しかったんだね」と、無理に笑顔を作ってしまいそうな気がする。本当は「寂しかった」「一言でいいから連絡が欲しかった」と言いたいのに。でもそれを口にしたら、彼の立場を責めることになる気がする。重荷になる気がする。
会いたい気持ちは確かにある。けれど、それはまだ今じゃない。
ようやく、感情の輪郭が見え始めた。
画面に指を置き、深く息を吸う。返事は短く、簡潔に。
《連絡ありがとう。今日は少し、気持ちを整理する時間がほしいです。また、改めてこちらから連絡します》
送信。
胸の奥がかすかに震える。それでも、これは拒絶ではない。自分を守るための静かな選択だ。
(……ちゃんとシオン様のことを好きでいたいから)
そのために、今は一歩立ち止まらなければならなかった。
12月29日 昼。
通信端末が、静かに振動した。
シオンは反射的に手を伸ばし、画面を確かめる。メリッサからの返信だ。その事実だけで、胸に固まっていた焦燥感がわずかに緩んだ。だが、表示された文章を読み終えた瞬間、その安堵はまた別の形に変わって胸に沈んだ。
《今日は少し、気持ちを整理する時間がほしい》
気持ちを整理する。
その言葉が、予想以上の重みをもって迫ってくる。
(……整理、か)
怒りではない。拒絶でもない。だが、猶予でもない。
これは、「今は会いたくない」という意思表示だ。そして同時に、「何かが揺らいでいる」という静かな告知。
(私が、揺らがせてしまった)
理由は分かっている。だからこそ、言い訳も反論も出てこない。
数日。たった数日。だが、恋が始まったばかりの時間としては、あまりにも長い沈黙だった。彼女は、待っていたのだ。自分から責めることもなく、不安をぶつけることもなく。理解しようとして、一人で。
それがどれほど孤独な時間だったかを、自分は知っていたはずなのに。
(私は、彼女の優しさに甘えた)
通信端末を伏せ、椅子に深く身を沈める。天井を仰いでも、答えは降ってこない。
気持ちを整理する時間。それは、このまま二人の関係をやり過ごすことはできないという意志の表れだ。
彼女は迷っている。だからこそ、こちらが追いかけてはならない。
(今、手を伸ばせば――壊す)
教皇としての判断ではない。一人の男としての、本能に近い直感だった。
シオンは短く息を整え、返信欄を開く。だが、文字は打たない。代わりに、そっと画面を閉じた。
(……待とう)
彼女が、自分の言葉で戻ってくるまで。それが今の自分に許された、唯一の誠実さだ。
それでも胸の奥では、小さく確かに、不安が疼いている。整理の先にある答えが、自分の望まぬものであったとしても、それでも受け止める覚悟を今から持てと。
静かな私室に、時を刻む音だけが残った。
12月29日 夜。
夜更けの教皇宮は深い静寂に包まれていた。
机上のランプだけが淡く灯り、シオンは書類に目を落としている。しかし内容は、ほとんど頭に入っていなかった。通信端末は、音もなく伏せられたままだ。夜になっても、メリッサからの返信はない。
当然だ。
昼に届いた、あの一文。
《気持ちを整理する時間がほしい》
それを尊重すると決めたのは自分だ。
それでも、時間が過ぎるにつれ、胸の奥に別の計算が忍び寄ってくる。
残された日数は多くない。
12月30日。31日。1月1日。
そして、2日からは日本だ。
ヘスティアの護衛という名目だが、実際は穏やかな帰省であり、東京での滞在も長くはない。しかし、距離と時差は確実に二人の間に壁を作る。
(私は……また、同じことを繰り返すのか)
理由のある沈黙と、正当な不在。
結果として、彼女を一人にしてしまう。それを、もう一度。
シオンはゆっくりと背もたれに身を預け、目を閉じた。
会うべきか、待つべきか。会えば彼女に決断を迫ることになる。待てば日本行きで、さらに時間が空く。どちらも、正解とは言えない。
選べる立場ではない。決定権は彼女にある。それは最初から変わらない。だが、選択肢を無用に狭めることだけは、避けなければならない。
シオンは通信端末を取り、今度は慎重に画面を開いた。新着は、ない。
一度、指が入力欄に触れる。だが、長い文は打たなかった。短く、極めて抑えた言葉だけを送る。
《年明けに、東京へ滞在する予定がある。しばらく時差が生じる。会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい。それだけを伝えておきたかった》
言い訳はしない。寂しさも書かない。今度は「会いたい」という言葉すら、封じた。
送信。
端末を置き、深く息を吐く。
(……これ以上は、踏み込めない)
今の彼女に必要なのは、説得でも、謝罪の重ね書きでもない。選べる余白だ。その余白が彼女を自分から遠ざける結果になったとしても、これ以上彼女の心を追い詰めるわけにはいかなかった。
夜は、静かに更けていく。12月30日まで、あと数時間。シオンに残された時間は、思っていた以上に少なかった。
12月29日 夜。
スマホの画面に残る、シオンからの新しいメッセージ。短く、丁寧で、いつも通りの言葉遣い。
内容は理解できた。頭では、全て。しかし、感情は別の話だった。
年内に会えるのは実質あと二日。30日と31日。それを逃せば、日本行き。また距離と時間が二人の間に横たわる。
メリッサは分かっている。公務が優先なのは当然だ。聖域教皇という立場が、個人の感情より重いことも。分かっているからこそ、苦しい。
それでも。
《会うかどうかは、そなたの気持ちを優先したい》
その一文が、胸の奥で静かに痛んだ。
優先しているようでいて、選択肢は最初から絞られている。会うなら今。会わないなら、またしばらく先。それは選択というより、提示された条件の受諾か拒否かだ。シオンの予定は動かない。
メリッサはソファに腰を下ろし、背中を丸めた。スマホを胸の前で両手に包む。
自分は、ただの大学生だ。薬学部に通い、課題に追われ、将来の不安を胸に抱えながら生きている、ありふれた一人。
一方で、彼は聖域教皇。世界の均衡に関わる存在で、国家と国家の思惑が絡み合う立場にある。
釣り合わない。それは、最初から分かっていたことだ。それでも、好きになってしまった。
存在の重みが違う。背負っているものの大きさが違う。
同じ土俵に立っていない二人が、“恋人”という言葉で並ぼうとすること自体が、どこかに無理を生んでいるのではないか。
ラッピングされた箱が、視界の端に映る。チェキとアルバム。何度も見返した写真。セルフィーのあの笑顔は、本物だった。一緒に過ごした時間も、嘘じゃない。
なのに。
(……あたし、何に傷ついているんだろう)
会えなかったこと?連絡がなかったこと?それとも、何も選べない立場に置かれている自分自身?
メリッサは目を閉じた。
会えば、きっと安心する。顔を見たら、こんな悩みなんて全部どうでもよくなってしまうかもしれない。でも同時に、「これからも、こうなんだ」と改めて突きつけられる気もしていた。
好きだからこそ、流されるのが怖い。
スマホの画面を見つめたまま、指は動かない。今はまだ、答えを送れなかった。
会いたい気持ちと、会ってしまうことへの怖さが、いつまでもせめぎ合っていた。
12月30日 9時。
庭に干した洗濯物が、冬の乾いた風を受けてかすかに揺れていた。白いシャツ。セーター。厚手のタオル。
年末だという実感は、こうした日常の営みの中には宿らない。普段と変わらない休日の過ごし方だ。
パチン、と洗濯ばさみを留めた、そのときだった。
ピンポーン。
不意に鳴った呼び鈴に、メリッサの手が止まった。時計を見ると、まだ朝の九時だった。
(こんな時間に?)
年の瀬の挨拶は、もう済ませてある。市場にも漁協にも顔を出した。友人と約束した覚えもない。胸の奥に、かすかな警戒が走る。
玄関へ向かい、ドア越しに声をかけた。
「どなたですか?」
一拍の間の後、落ち着いた女性の声が返ってきた。
「聖域の使いの者です」
一瞬、空気が止まった。
(聖域?)
言葉の意味を理解するより先に、心臓が早鐘を打ち始める。
「ご用件は?」
声が震えないよう、意識して落ち着かせながら問う。
「あなた様に、招集がかかっております」
招集。
その単語は、あまりにも公的で、メリッサの心に冷たく落ちた。呼び出し。命令。拒否の余地はない、という含み。
(シオン様が?)
反射的に浮かんだ名を、メリッサはすぐに打ち消した。この言い方は違う。あの人なら、こんな形での呼び出しはしない。
ドアノブに手をかける前に、一瞬だけ迷う。だが、聖域の名を出されて無視できるほど、彼女はもう“外部”の人間ではなかった。
静かに鍵を外し、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。年齢は二十代半ばほど。控えめな装いだが、立ち居振る舞いに一切の無駄がない。
女官だ、と直感する。
「メリッサ・ドラコペトラ様ですね」
「……はい」
「女神ヘスティア様より、直接の招集です」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
女神ヘスティア。聖域を統べる存在。教皇の上位に立つ、神。
「どういった、ご用件ですか」
問いは、思ったよりも静かに出た。
女官は一礼し、淡々と告げる。
「詳細は、ヘスティア様ご本人より直接お話しされます。本日中に、聖域へお越しいただきたいとのことです」
本日中。逃げ場のない時間指定だ。にもかかわらず、その声音には圧も強制もない。命令というより、招待に近い。そう感じてしまうことが、余計に不安だった。
「準備の時間は……」
「十分にございます。急がせる意図はございません」
女官は一拍置いて、こう付け加えた。
「これは、懲罰でも詮議でもありません」
その言葉に、メリッサはわずかに目を伏せた。
じゃあ、何なんだろう。
答えは分からない。ただ一つ確かなのは、この呼び鈴が鳴った瞬間から、静かに保っていた均衡が確実に動き出したということだけだった。
メリッサは一度だけ深く息を吸った。
急がせない、とは言われた。それでも現実として、女神が待っているのだ。のんびり構えていい理由にはならない。
(でも、この格好はないな)
自分の服装を見下ろす。ローゲージのニットにジーンズ。近所着としては問題ないが、女神への謁見ともなれば話は別だ。
「支度しますので、上がってお待ちください」
そう言ってから、ふと立場の差を思い出す。聖域の使者を軽々しく家へ上げていいものか。だが返ってきた答えは、即座だった。
「いえ。外でお待ちします」
言葉も態度も、あくまで控えめだ。それがかえって緊張を煽る。
「分かりました。すぐ戻ります」
玄関を離れ、二階の自室へ向かう。
クローゼットを開け、ざっと中を見渡す。派手な服は論外だ。かといって、地味すぎるのも違う。
選んだのは、落ち着いた色合いのツイードのセットアップ。硬すぎず、軽すぎない。大学の式典や改まった場でも使える一着だ。
着替えを済ませ、鏡の前に立つ。メイクも少しはした方がいいだろう。
下地を整え、ファンデーションを薄く伸ばす。眉を少し整え、アイシャドウは肌なじみのいい色をひと刷け乗せ、マスカラも控えめにつける。女神相手に、目元で主張する必要はない。最後にリップを軽く乗せ、鏡を見つめた。
(……うん)
十分だった。これ以上手を加えたら、かえって不自然になる。
髪は手早くまとめ、低めのポニーテールにする。首元がすっきりして、視線も落ち着く。アクセサリー類は着けない。そもそも手持ちが少ない上に、どれもカジュアルに寄ったものばかりだ。
時計を見る。思ったより時間はかかっていない。
階段を下りながら、胸の奥がしんと静かにざわめく。
(ヘスティア様……何の用件なんだろう)
シオンのこと。東京のこと。それとも、自分自身の立場のこと。
どれもあり得て、どれも決定打にならない。
玄関の扉を開けると、女官は先ほどと同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。こちらを一瞥し、わずかに目を細める。
「……よろしいかと存じます」
評価でも許可でもない、静かな事実確認だけを含むその一言に、思わず背筋が伸びた。
「では、参りましょうか」
メリッサは小さく頷く。
こうして彼女は、自分の意思とは別のところで、再び聖域へと足を向けることになった。
それが、ずっと避けてきた再会への道と、静かに繋がっていることを、まだ彼女は知らなかった。
