Eine Kleine Ⅱ

 公務は、シオンにとっても決して楽なものではなかった。
 予定が過密だったから、というだけではない。各国を巡るにつれ、地図の端に追いやられるような辺境地域で、不穏な気配が共通して濃くなっていることに気づいたからだ。
 報告は断片的だった。
 夜の森で方位が狂う。
 干上がったはずの井戸に、突然、水が満ちる。
 誰も触れていない扉が、同じ時刻に別々の国で軋む。
 どれも致命的ではない。だが、無視してよい兆候でもなかった。
 シオンは随行の者を最小限に絞り、予定を調整させると、自らその地へ足を運んだ。教皇としての公的訪問ではない。名も立場も伏せ、ただ一人の調査者として。
 原因はすぐに掴めた。
 時空に細い亀裂が走っていたのだ。
 それは裂け目というほど荒々しいものではなく、まるで布地に生じたほつれのような、ごく繊細な歪みだった。問題は、その亀裂が偶然にも二国の辺境同士を繋いでしまっていたことだ。
 本来、交わるはずのない位相。
 重なるはずのない時間の流れ。
 そこから漏れ出す気配が、土地の感覚を狂わせていた。
(……なるほど)
 シオンは静かに息を吐いた。
 危険性は低い。暴走の兆しもない。今すぐ閉じなければならない類のものではなかった。だが、このまま放置すれば、いずれ人の認識が追いつかなくなる。噂となり、伝承となり、やがては“説明できない現象”として、表の世界に痕跡を残してしまう。
 それだけは避けなければならない。
「修復は、年が明けてからだな」
 独り言のように呟き、シオンは結論を下した。
 聖域が動くべき案件だ。だが、今は時期が悪い。各国の年末情勢、信仰の気配、人心の揺らぎ——全てが微妙な均衡の上にあった。
 触れれば、波紋が広がる。
 ならば、今は見極め、封じ、年明けに確実に処理する。それが最善だった。
 調査を終えた帰路、空はすでに白み始めていた。凍えるような冷気の中で、シオンはふと、自分の胸の奥に残る別の“歪み”に気づく。
 メリッサ。
 名を呼ぶことすらしないまま、彼女の存在が思考の隙間に滲み出てくる。
 今、どこで、何をしているのか。
 無事だと分かっていても、確かめずにはいられない衝動が、若返った身体の奥で静かに疼いた。だが、シオンはその衝動を押し留める。
(今は、まだだ)
 公務を終え聖域へ帰還してから。
 全てを片付けてから。
 そう己に言い聞かせ、彼は再び歩き出した。
 年の瀬の空気は冷たく、澄んでいて、どこか張り詰めている。この静けさの裏で、世界は確かに揺れている。そして、彼自身の心もまた、同じように——。

 12月28日、未明。
 夜と朝の境目が、まだ曖昧な刻だった。
 聖域へ帰還したシオンは、最低限の報告だけを済ませると、そのまま私室へ引き上げた。
 旅装を脱ぎ、湯殿へ向かう。湯気に包まれながら、張りつめていた感覚が少しずつ解けていくのが分かる。肩に溜まった疲労、背に残る緊張、深いところで無意識に握りしめていたものまで、熱い湯に溶け出していった。
 長く浸かる気力はない。
 髪を拭き、簡素な寝間着に身を通す頃には、思考はもう、断片的にしか働いていなかった。
 私室に戻ると、大きなベッドが静かに待っている。シオンはその縁まで歩くのがやっとで、体裁を整える余裕もなく、身体を預けるように倒れ込んだ。
 柔らかな寝具が受け止める感触。その瞬間、意識が急速に沈み込んでゆく。
(……メリッサ……)
 名を呼んだつもりだったが、声にはならなかった。瞼は重く、もう少しも開けてはいられない。疲労と安堵が一緒になって、意識を深く引き込んでいく。
 溶けるように、沈むように。
 シオンはそのまま、深い眠りへと落ちていった。

 眠りは短かったが、深かった。
 目を覚ましたとき、私室には既に朝の気配が満ちていた。
 今日も公務はある。だが、昨夜までの張り詰めた外交や極秘会合とは性質の異なるものだ。
 ロドリオ村の視察と祈祷。
 そこは聖域と古くから交流のある小さな村だ。
 シオンがまだ若かった頃には、子どもたちの声が絶えず、祭りのたびに人が集い、素朴ながらも活気に満ちていた場所だ。今は過疎化が進み、家屋の数も村人も随分と減っている。それでも、この村は聖域にとって重要な存在であり続けている。だからこそ、聖闘士候補生や訓練生、見習いの男女官たち——義務教育年齢の子どもたちを、あえて村の学校に通わせているのだ。
 村に生活のリズムを取り戻すためであり、同時に、聖域の子どもたちが“外の世界”と自然に触れるためでもある。

 ムウの弟子である貴鬼もその一人だ。週に三、四日ほど村の小学校へ通っている。
(あれは、さぞや元気なのだろうな)
 思い浮かぶのは、あの落ち着きのない性格と真っ直ぐすぎる瞳。孫弟子と呼ぶにはまだ幼く未熟で、けれど確かに次代を担う存在だ。
 年末の祈祷は、村の安寧と来たる年の無事を祈る、それだけの穏やかな務め。
 外交の駆け引きも、相手の思惑を測る必要もない。誰かを警戒することも、言葉を選び抜く緊張もない。
 シオンは静かに身支度を整えながら、胸の奥でほっと息をついた。
 この仕事は、負担にならない。
 むしろ、長い公務の合間に与えられた、束の間の安らぎのようなものだった。
 聖域を離れ、山道を下り、ロドリオ村へ向かう。
 冬の空気は澄んでいて冷たいのに、どこか柔らかさを感じる。
(……こういう日も、必要だな)
 そう思いながら、シオンは静かに歩みを進めた。

 ロドリオ村に入ると、空気がわずかに変わった。
 山に囲まれた静かな集落は、冬の陽を受けてひっそりと息づいている。人の往来は少ないが、道や家々は丁寧に手入れされ、ここが今も“生きている村”であることを静かに主張していた。
 年末の祈祷を終えたあと、シオンは村長と簡単な挨拶を交わし、案内を受けて小学校へ向かう。
 校舎は古いが、窓ガラスは磨かれ、木の床もきちんと手入れされている。使われていない冬休みの校内には、子どもたちの気配だけが残されていた。
「こちらが教室になります」
 扉を開けると、静まり返った空間に外の光が柔らかく差し込む。机と椅子はきちんと整えられ、黒板には消された文字の跡がうっすらと見えた。
 シオンの視線が、自然と壁へ向かう。
 そこには、子どもたちの写生画がずらりと貼られていた。村の風景、山道、古い井戸、羊の群れ。どれも拙さはあるが、見たものを一生懸命に写し取ろうとした痕跡が残っている。
 その中に、ひときわ勢いのある線の絵が一枚あった。
(……貴鬼だな)
 一目で分かる。
 大胆な構図、迷いのない筆運び。山と村を大きく捉え、細部は思い切って省かれている。大雑把といえばそうだが、臆しない表現力はあの少年らしい。
 シオンはしばしその絵の前に立ち、静かに考え込む。
(修復師を目指すなら……もう少し、繊細さが欲しい)
 肉眼では見えない亀裂、聖衣の欠損の補修、そして聖衣が持つ戦の記憶。
 それらを読み取るには勢いだけでは足りない。聖衣の呼吸を感じ取るような繊細さと共鳴力、観察眼が必要になる。とはいえ、今はまだ子どもだ。この伸びやかさを失わせる必要はない。粗削りなまま積み重ねていけばいい。
 シオンとて、初めから修復師として正しい道を歩んでいたわけではなかった。
「お知り合いの子の作品でしょうか」
 村長が、控えめに声をかける。
「ええ。私の弟子の弟子で……孫弟子にあたる子です」
 そう答える声は、自然と柔らいでいた。
「さようでございましたか」
 ロドリオ村の村長は、選挙はあるものの、ほぼ世襲されている。現村長が何期目なのか、はっきり覚えていないが、“あの時”よりも以前から村長を務めていたのは確かだ。そのため、彼はシオンの事情をある程度は承知している。
 教室を一通り見て回り、校舎を出る。校庭には誰もいない。冬の風に揺れる木々の音だけが、静かに耳に届く。
(この場所が、あの子たちの“日常”なのだな)
 シオンは校舎を振り返り、心の中で子どもたちの安寧をそっと祈った。
 村長に案内され、石畳の道をゆっくりと進む。
 家々の軒先からは冬支度を終えた気配が漂い、ところどころで村人たちが足を止め、静かに頭を下げた。誰もが過剰に騒ぎ立てることはない。ロドリオ村らしい、慎ましやかな距離感だった。
 やがて、ひらけた広場に出る。
 そこで聞こえてきたのは、乾いた足音と、弾む声だった。
 子どもたちがサッカーをしている。
 即席のゴールを前に、年齢も体格もまちまちな子どもたちが、真剣な顔でボールを追いかけていた。
 その中に一人だけ、ひときわ素早く地面を蹴る少年の姿があった。
「……貴鬼ではないか」
 思わず、声が漏れる。
「あの子が、教皇様の……」
 村長が小さく目を見開き、すぐに合点がいったように頷いた。
「村長殿、しばし、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
 二人は足を止め、少し離れた場所から広場を見守る。
 貴鬼はサッカーに夢中だ。周囲の体格の良い子どもたちに囲まれながらも、臆することなくボールに食らいつき、隙を見て素早く抜ける。重心が低く、反応も早い。
(ふむ……さすがだな)
 聖闘士の修行を積んでいるだけあって、身体能力は並の子どもとは明らかに違う。念動力を使っている様子も一切ない。あくまで、自分の足と判断力だけで勝負している。
 それが、シオンには嬉しかった。
 勝ち負けよりも、今はただ、この時間を楽しんでいる。仲間の声に応じ、転べば笑い、転ばせてしまえば慌てて手を差し伸べる。
 少年らしい、健やかな姿だった。
(……よい顔をしている)
 教皇としてではなく、師としてでもなく、ただ一人の大人として。その光景を見つめながら、シオンの口元が自然と綻ぶ。
 この村に、こうして子どもたちの声があること。争いではなく、遊びに体力を使える日常があること。
 それだけで、この年末の公務は、十分に意味を持っていた。
 しばらくして、ゴールが決まる。
 歓声が上がり、貴鬼が両手を上げて跳ねる。
 その瞬間、シオンはそっと踵を返した。今は、声をかける必要はない。遠くから見守るだけでいい。
それもまた、教皇の——そして、師の役目なのだから。
 村が、子どもたちが、そして聖域とこの地を結ぶ穏やかな循環が、来年も変わらず続くように——。
 それは教皇としての祈りであり、同時に一人の大人としてのささやかな願いでもあった。

「なぁ、お前ら、さっき向こうに村長と一緒にいた兄ちゃん見たか?」
 ボールを抱えたまま、上級生の一人が言った。
「見た見た!すっげぇ、イケメンだったな!!」
「マジそれな!背ぇ高くて、金髪でさ!」
「女子いなくて良かったな!あいつらいたら絶対うるせぇぞ」
「それな!!」
 どっと笑い声が起きる。
「……誰か来てたんだ……?」
 貴鬼は首を傾げた。さっきまでボールしか見ていなかった。人の気配なんて、まるで覚えがない。
「貴鬼は気付かなかった側か」
「すげぇイケメンいたぜ。金髪の兄ちゃん!」
「聖域の人が着てる、あの長いやつ着てた」
「……あの長いやつ?」
 貴鬼は首を傾げる。
「ほら、全体にダブっとしたやつ!」
「黒っぽくて、ひらひらしてるやつ!」
「法衣のこと?」
「多分それ!法衣って言うのか、アレ!」
 法衣を着て、金髪で、村長と一緒。
 貴鬼の中で点と点が繋がった。恐る恐る上級生に訊ねる。
「あのさ……その人、髪、長かった?」
 長髪ならサガだ。法衣を着て村に来るなら補佐官の可能性だってあるのだ。貴鬼は半ば祈るような気持ちだった。
「いや、短かったぜ」
 貴鬼の顔が、みるみるうちに青褪める。
「……あばばばば……それ、教皇様だよ」
「え?」
「は?」
「教皇様!?」
 一瞬、広場の空気が止まり、次の瞬間ざわっと騒がしくなる。
「マジかよ!?」
「顔出しで!?」
「昔は顔隠れる冠かぶってたよな!?」
「あ、そうそう!」
「じゃあさ、女子がいないから安心して顔出せたとか?」
「あるかも!!」
「あんだけ男前だもんな!!女子に囲まれたら大変だぞ!!」
「襲われるわ!!」
「いや、それはないでしょ……」
 貴鬼は思わず突っ込んだ。
 さすがに“襲われる”は言い過ぎだ。でも、女子がいたら、確実に騒ぎになっていただろうとは思う。
(シオン様……来てたんだ……)
 気付かなかったのが悔しいような、気付かなくて良かったような。
 貴鬼は複雑な顔で、もう一度広場の端を見る。そこにはもう、村長もシオンもいなかった。
「……帰っちゃったのかな」
 誰にともなくそう呟いた声は、少し寂しさが滲んでいた。

 日が傾き、ボールの輪郭が土の色に溶けはじめた頃、即席のサッカーチームは自然と解散になった。
「またなー!」と手を振り合い、それぞれの家路につく。
 聖域へ続く道には街灯がない。
 貴鬼はポケットから小さなライトを取り出し、足元を照らしながら歩いた。白い光の円の中に、石ころや凍った土が浮かび上がる。
 今日は風が強い。
 頬に当たる空気は鋭く、耳の先がじんじんと痛む。
(寒……)
 肩をすくめながら歩きつつ、貴鬼は昼間のことを思い出す。
 シオン様が来ていた。
 そんな大事なことを、全く知らずにボールを追いかけていた自分。考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
 シオンの公務の予定を知っているのは、聖域でもごく限られた上の人たちだけだ。今日、ロドリオ村に視察に来るなんて、貴鬼が知るはずもない。
 それでも。
(……遊びすぎちゃった)
 今日は、聖闘士の修行も修復師の修行もしていない。丸一日、思いきり遊んでしまった。
 きっとムウに叱られる。もしかしたらシオンにも。
 それを想像するだけで、背すじが少し伸びる。
 師の叱責は怖い。
 でもそれ以上に、期待されていることを分かっているから、余計に胸に来る。
 聖衣修復師の技は、失われてはいけない。血筋も、知識も、経験も、簡単に継げるものじゃない。だからこそ、厳しく教えられるのは当然だ。
(シオン様にも……呆れられたかな)
 昼間、楽しそうにサッカーをしている自分を見られていた。子どもたちがあれだけ動き回っていても、シオンが貴鬼に気付かないはずがない。
 そう思うと、急に落ち着かなくなる。
(……帰ったら、基礎練習だけでもやろ)
 石を削る手順。
 工具の持ち方。
 欠けた聖衣を想定した簡単な補修。
 完璧じゃなくてもいい。せめて、何もしないまま眠るのはやめよう。
 そう決めた途端、足取りが自然と速くなった。ライトの光が、小刻みに揺れる。
 冷たい風の中、貴鬼は唇をきゅっと結び、聖域へ続く暗い道を進んでいった。

 白羊宮の居住区画には、暖炉の温もりが柔らかく満ちていた。
 炉の火は強すぎず、羊毛の敷物に落ちる影も穏やかだ。卓上には湯気を立てる二つの茶碗。乳と塩の香りが混じった、馴染み深いバター茶。
 シオンは法衣を緩め、ソファの背もたれに身を預けていた。長い旅程の緊張が、ようやくほどけていくのを感じながら、茶を一口含む。
「ご公務は、今日で終わりですか?」
 向かいに座るムウが、控えめに尋ねる。
「ああ。最後がロドリオ村の視察と祈祷で助かった。貴鬼の学校へも行ってきた」
 その名を聞いた瞬間、ムウはわずかに苦笑した。
「あの子は……まるで鉄砲玉です。一度外へ出たら、なかなか帰ってきません」
 言葉は軽いが、声音には疲労と心配が滲んでいる。
「村の広場でサッカーをしていたぞ。大きな子どもたちに混じって、よく走っていた。元気で良いではないか」
 シオンはそう言って、穏やかに微笑んだ。
 あの時の光景——夢中でボールを追い、歓声の中で笑う貴鬼の姿が、自然と脳裏に浮かぶ。
 だが、ムウは素直に頷けない。
「元気なのは良いのですが……修行もせずに遊びばかり、というのは困ります。あの子には、背負っているものがあります」
「修行ばかりでも、良くはならぬ」
 シオンは静かに言葉を重ねる。
「友の存在が、心の支えになることもある。孤独は……人を摩耗させる」
 その言葉に、ムウは返す言葉を失った。茶碗を持つ指先に、わずかな力がこもる。
 分かっている。
 理屈では、よく分かっているのだ。
 自分自身が、孤独の中で修復師の道を歩んできたから。
「……それは、分かっています」
 ムウは視線を落とし、湯気の向こうで小さく息を吐いた。
「ですが、聖衣修復師の技は、遊び半分で継がせて良いものではありません。甘やかせば、あの子はすぐに楽な方へ流れるでしょう」
 厳しくするのは、突き放すためではない。守るためだ。失わせないためだ。
 その葛藤を、シオンは痛いほど理解していた。
「……難しいものだな」
 ぽつりと、独り言のようにシオンが言う。
「導く者であるほど、選ばねばならぬ。厳しさと、余白と」
 ムウはゆっくりと顔を上げ、シオンを見た。その瞳には、迷いと責任と、そして確かな愛情が宿っている。
「……今夜は、何も言わずに様子を見ます。帰ってきたら、せめて体を冷やさぬよう、声をかけるくらいで」
「それで良い」
 シオンは穏やかに頷いた。
「貴鬼は、思っている以上に多くを見ている。遊びの中で学ぶことも、きっとある」
 白羊宮に、再び静けさが戻る。バター茶の湯気が細く立ちのぼり、二人の間に漂った。
 それぞれの立場で、それぞれの想いを抱えながら。師も、教皇も、ただ一人の少年の成長を同じように案じていた。

 白羊宮の回廊に、ばたばたと軽い足音が響いた。冷えた外気をまとったまま、扉が勢いよく開く。
「ただいま帰りました!」
 弾む声に、ムウが振り返り、穏やかに微笑む。
「お帰り、貴鬼。シオン様がいらしてますよ」
「えっ?」
 一瞬きょとんとしたあと、貴鬼の視線が部屋の奥へ飛ぶ。
「シオン様!こんにちは!」
「うむ。お帰り、貴鬼」
 シオンは杯を置き、ゆるやかに頷いた。その眼差しは責める色を含まず、ただ静かだ。
「サッカーは楽しかったか?」
「あ!」
 貴鬼は目を見開き、ぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり、シオン様だったんですね!」
「……知っていたのか?」
「いえ!おいらは全然気付かなかったんですけど、友達が教えてくれました!」
「ほう」
 シオンはわずかに眉を上げる。
「お前の友人は、私のことを知っていたのか?」
「ていうか……」
 貴鬼は少し考えるように首を傾げ、それからあっけらかんと続けた。
「『法衣を着てる、短い金髪のイケメンの兄ちゃん』って言われて。それ、もうシオン様しかいないじゃないですか!」
 一瞬、沈黙。
 ムウは咳払いで笑いを堪え、視線を逸らした。シオンは、わずかに目を伏せる。
(……私は、そのように呼ばれていたのか)
 内心で静かに呟きながら、なんとも言えぬ居心地の悪さを覚える。教皇として畏れられることは慣れているが、“イケメンの兄ちゃん”という評価には、どう反応すべきか分からない。
「……そうか」
 ようやく絞り出した声は、いつもよりわずかに低かった。
「村の者たちが、騒がなかったのは幸いだな」
「はい!多分、女子がいなかったから、平和でした!」
 無邪気に断言する貴鬼に、シオンは小さく息を吐いた。また、女子か……。
「貴鬼」
「はい!」
「遊ぶこと自体を、私は咎めぬ。だが……体を冷やしたままでは、明日の修行に響く」
「……!」
 貴鬼は背すじを伸ばし、ぴしっと立つ。
「帰ったら、基礎練習やろうと思ってました!」
「そうか。それなら良い」
 その言葉に、貴鬼はほっとしたように笑った。
 シオンは、少年の額にかかる冷たい風の名残を見て、ふと、村の広場で見たあの生き生きとした姿を思い出す。
(……元気であること。それ自体が、何よりだ)
 そう思いながら、彼は静かに微笑んだ。
31/31ページ
スキ