Eine Kleine Ⅱ
晩餐の準備が進む王城の控えの間。侍従たちが静かに出入りするのを横目に、アンドレアス国王は深く椅子にもたれ、静かに目を閉じた。
(……この機を逃すわけにはいかぬ)
昨夜の夜会から今日に至るまでのシオンを思い返す。
18歳で即位し、まだ20にも満たぬ教皇。それほど若いにも関わらず、威圧ではなく、自然に人を従わせる品位と威厳を纏っている。あれは天性のものだ。
“神域”と呼ばれる地を統べる、若き教皇。
その肩書きだけでも他国への牽制には十分すぎるが、何よりアンドレアスが惹かれたのは、その人柄であった。
柔和だが、簡単に揺らがない。聡明だが、鼻にかけない。若さと老練が同居する、あの得体の知れぬ落ち着き。
(……想定以上だ)
強固な後ろ盾を持たぬ小国エルダニアにとって、“聖域教皇”は喉から手が出るほど欲しい縁戚だ。
世界規模の組織は、理想を掲げる割に非常時には頼りにならない。大国の顔色をうかがい、情勢が不利となればすぐに支援の手を引く。そんな現実を、アンドレアスは嫌というほど知っていた。
(だが聖域は違う。あそこは――どの国にも屈さぬ)
だからこそ、王女を嫁がせられるのなら、これ以上の安泰はない。
何より、幸運なことに――
(あれほどの人物と、アリシアの年齢が近いとは……)
そう、それは偶然にしては出来すぎていた。
アリシアは今年で21歳。シオンは20歳の三か月前。政略結婚としての格差はない。年齢的な違和感もない。
そのうえ、王女が昨夜からずっとシオンに恋心を抱いているのも見え透いている。今日も視察から戻る道すがら、アリシアの頬はいつもより紅が濃かった。
(いつも控えめな娘が、あれほど頬を染めるなど……滅多にないわ)
つまり、“後押し”さえ整えれば、二人は自然と近づく可能性がある。
アンドレアスはゆっくりと目を開け、掌を組んだ。
(今宵の晩餐。猊下のお気に障らぬよう……慎重に、丁寧に。焦ってはならぬ。まずは親睦を深めるだけでよい)
その顔には王としての冷静さと、父親としての期待が入り混じっていた。
侍従が静かに扉を叩く。
「陛下、晩餐のご準備が整っております」
国王は短く頷き、立ち上がる。
(さて……聖域の若き教皇猊下。この小国の誠意と真心を、どう受け取ってくれるか)
王城の廊下は暖かな黄金色の明かりに満ちていた。晩餐の席へ向かう国王の足取りは、普段よりもいくらか軽かった。
王城の大広間の奥に設けられた、王家専用の晩餐室。
夜会とは異なり、招かれたのはわずか数名。
重厚な木製の扉が静かに開くと、淡い琥珀色の光がシオンを迎えた。
王室の紋章が刻まれた長卓。季節の花を控えめにあしらった中央の装飾は、華美ではなく、王家の品位そのものといった趣だ。
アリシア王女はすでに席の近くに立っていた。浅くカールした淡い金髪が、燭台の柔らかな光を受けてほのかに揺れる。両手を前で揃え背を伸ばし、美しい姿勢でシオンを迎えた。
「教皇猊下……ようこそ、お越しくださいました」
少し息を整えるように間を置いたその所作が、彼女の緊張を示していた。控えめな笑みは、無理に作ったものではなく、年頃の娘が憧れの相手を前につい見せてしまうような、初々しいものだった。
シオンは柔らかな眼差しで一礼した。
「こちらこそ、陛下のご厚意に感謝いたします。今宵は、静かに過ごさせていただければ幸いです」
その穏やかな声に、アリシアの肩が、ほとんど分からぬほど僅かに上下した。深い安堵か、それとも喜びか。どちらとも判別できない揺らぎが彼女の胸元に影を落とす。
国王アンドレアスが満足げに笑みを浮かべた。
「堅苦しい席ではございません。どうか肩の力をお抜きください、猊下。アリシアも、ゆっくりとお相手いたせ」
「……はい、お父様」
アリシアは静かに頷く。その声音は控えめだが、王家の娘としての矜持がしっかりと宿っていた。
シオンの席は王女の隣。
国王の意図は明白だったが、シオンは眉一つ動かさず、それでいて無礼にもならぬ落ち着きで席に着いた。
料理が運ばれ、晩餐が始まる。
アリシアはぎこちさを見せぬよう、細やかな所作でフォークを握り、時折シオンに声をかける。
「――本日のメインは、王国伝統のハーブローストでございます。もしお口に合えば、嬉しいのですが……」
「とても香りが良いですね。王国の気候が育むものなのでしょう。興味深い料理です。ありがとうございます、王女殿下」
アリシアの横顔に、淡い紅が差した。それは薄い花弁の下から光が透けるような、繊細な色づきだった。
王女はそっと視線を落とした。伏せた睫毛の影が揺れ、彼女の心の奥を物語っているようだった。
食事は温かな談笑のうちに進み、国王とシオンが要所で静かに意見を交わす。
アリシアは無闇に会話へ割って入ることはしない。王女として相応しいタイミングだけを選び、控えめに、けれど誠実に参加する。
その慎ましさが、かえってシオンの視界に自然と入ってしまう。
(……よく気が回る娘だ)
そう感じさせるほどに、彼女の振る舞いは優雅だった。
晩餐も終盤へ差し掛かった頃、アリシアはほんの一瞬、言葉を選ぶように息を吸い、そして、おずおずとシオンを見た。
「本日は……お忙しい中、お時間を割いていただき……本当に光栄でした」
その声音は上品で、決して露骨な好意を匂わせるものではない。ただ、心を込めて礼を述べた――その一点だけが、揺るぎなく伝わる。
シオンは静かに微笑んだ。
「こちらこそ、殿下。温かいおもてなしを賜りました。王国のご厚意に深く感謝しております」
王女の胸の奥で、そっと花が開くような気配があった。それは、初めての恋の色だった。
晩餐が終わり、案内役の侍従が一礼して下がった。
王宮の奥へと続く廊下を歩きながら、アリシア王女は小さく問いかける。
「……もし、お疲れでなければ。少しだけ、お茶でもしながら……遊戯室をご案内してもよろしいでしょうか」
シオンは穏やかに頷く。
「ええ、殿下。少し時間をいただきましょう」
安堵したように王女が微笑む。その笑みはわずかに花が綻ぶようで、控えめながらも心がこもっていた。
遊戯室の扉が開くと、柔らかな暖炉の灯りが二人を迎えた。壁には年代物のチェスセット、優雅なビリヤード台、古いカードテーブルが整然と並んでいる。
アリシアは迷った末に、チェス盤の前で足を止めた。
「――チェスはお好きでしょうか?夜会の折、少しだけ話題にのぼっていたので……」
「ええ。嫌いではありません」
シオンが席に着くと、王女も正面に座った。品位ある姿勢のまま、真っ白な駒に触れる。
「では、白をお持ちくださいませ。先手は、猊下に」
シオンは柔らかく礼を返し、一手目のポーンを静かに進めた。
駒が盤に触れる軽い音だけが響く。
王宮の遊戯室は広いが、二人の間に漂う空気は穏やかで、どこか親密だった。
アリシアは考える時、長い睫毛をふと伏せる。
そのたびに、暖炉の灯りが影を落とし、彼女の横顔に淡い陰影が生まれる。
「……猊下は、とてもお強いのですね」
「殿下の読みも鋭くていらっしゃる。先ほどの一手は、少し驚きました」
褒められたアリシアは、ほんのわずか頬を染めた。無邪気な誇らしさが混ざった、年相応の反応だった。
やがて、王女が守勢に回った頃。
シオンはゆっくりと王女のキングを追い詰め、穏やかな声で告げた。
「チェックメイトです」
「……負けてしまいましたね。でも、とても楽しかったです」
恥じらいながらも、王女の瞳はどこか嬉しげだった。
「もう少し……ご一緒しても、よろしいでしょうか」
アリシアは恐る恐る立ち上がり、ビリヤード台の前に歩み寄る。淡い青の絨毯に靴音が静かに吸い込まれていく。
「ビリヤードは……あまり得意ではなくて。もし猊下がよければ、少しご指南いただければと思ったのですが……」
王女は無理に近づかない。ただ、教えを請う礼儀正しい姿勢でキューを抱きしめるように持っていた。
シオンは少しだけ目を細める。
(……なるほど。国王の意図はともかく、王女殿下は誠実な娘だ)
「もちろん、お付き合いします」
ビリヤード台の上で、ボールが静かに並べられた。
アリシアがキューを構えるが、角度が少し甘い。
「ここを……もう少し、こう」
シオンが背後から手を添える。王女の肩が一瞬だけ硬直し、すぐに柔らかく呼吸が整った。
触れたのは手の甲だけ。しかし、王女の横顔は紅を帯び、視線はボールから逸れないよう必死だった。
「……こ、こうでしょうか」
「ええ。とても上手ですよ。そのまま、ゆっくりと」
コトン――と軽やかな音が響き、ボールがポケットへ落ちる。
アリシアの瞳が柔らかく揺れた。
「……入った……」
幼い子どもが褒められた時のような、控えめな喜び。だがそれは、上品さを損ねるものではなく、むしろ彼女という人間の本質を静かに照らす光だった。
そして、その全てを見守るシオンの胸には、別の影が落ちていた。
王女の献身も、王の思惑も理解しつつ、彼の心の中心は、遠くギリシャにいる恋人の姿だけが占めていた。
ほとんど音のない遊戯室には、まだチェス盤がそのまま残っていた。
最後の局面で王手をかけられた黒の王──アリシア王女の駒は、淡い灯りに照らされて静かに沈んでいる。
シオンは席を立ち、ゆっくりと手袋を整えた。その動作すら目を見張るほどに端正だった。
「本日は、丁重なおもてなしを賜りました。陛下にもお礼を伝えてください」
柔らかな声でそう告げると、王女は背すじを伸ばしたまま、深く頷いた。彼女の所作は、幼い頃から王家で培った気品そのままだった。
「……こちらこそ、光栄でございました。お相手が教皇猊下ともなれば、つい緊張してしまいまして……その……不手際がありましたら、どうかお許しくださいませ」
王女は感情を乱すこともなく、静かな息づかいで言葉を紡いだ。それでも、その声音の端に宿る微かな震えだけは隠しきれない。
シオンは、その揺らぎを認めつつも、踏み込みはしない。あくまで礼節を損なわない範囲で、しかし誠実な眼差しを返す。
「アリシア王女。あなたは終始、見事なご振る舞いでした。聖域の者としてだけでなく、一人の客として感謝いたします」
その静謐な称賛に、王女の肩が揺れた。驚きか、喜びか。その奥にある感情が淡く滲む。
「……ありがとうございます、猊下。この一日は、わたくしにとって忘れがたいものとなりました」
そう告げる声も、控えめで、どこまでも澄んでいた。
たとえ胸の内にどれほどの想いを抱えていても、それを表に押しつけるようなことはしない。王女としての矜持が、彼女を最後まで上品に保たせていた。
シオンは視線を逸らさず、しかし深く踏み込むこともせず丁寧に頭を下げる。
「あなたのこれからが、良き歩みに満ちているようお祈り申し上げます。……本当に、本日はありがとうございました」
その言葉を終えると、シオンは静かに踵を返した。
王女は、たった一歩だけ後を追うように歩み寄ったものの、すぐに立ち止まり、それ以上は近づかなかった。
決して乱さず、決して求めない。
ただ、別れの瞬間を見届けるためだけに。
退室するシオンの背が扉の向こうへ消える直前、アリシア王女はほんの一瞬だけ、瞳を伏せた。
その仕草すら、抑制された静かな優雅さで満ちていた。
扉が閉まる。
音はひどく小さかったのに、遊戯室の静けさは急に深さを増した。
彼女は誰に見られることもなく、小さく息を吐いた。
それは想いを押し込めた者だけが持つ、微かで、痛むほど慎ましい呼吸だった。
(……まっすぐな方だ)
廊下には王宮特有のほの暗い静けさが、薄青い灯りの中で揺れている。
歩き出したシオンは、数歩分の沈黙を自らに許した。
感情を動かされることなど、もはや久しくなかった。それでも先ほどの王女の表情は、確かに胸のどこかをかすかに震わせていた。
(その想いを拒否せねばならぬのは……酷なことだ)
王女に非はない。
むしろ、あれほど気高く、真摯に相手を敬う姿勢を持つ者は多くない。
だからこそ、応じられない。
決して。
歩を進めるたび、足音が石床に淡く響く。その律動は安定しているのに、胸の内側では別の鼓動がわずかに乱れていた。
夜気を含んだ廊下の冷たさが、目の奥の熱を静かに鎮めていく。
メリッサの声を思い出す時だけ、若返った肉体の感覚がやけに鋭くなる。彼女の笑い声、軽い足取り、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な気配。遠くにいるはずなのに、手を伸ばせば届くような錯覚を覚える。
(早く顔を見たい……)
その願いを認めることさえ、少し怖かった。
教皇としての役目が、日ごとに重さを増すほど、一人の男として抱いてしまうこの願望は、いよいよ抑えがたい。
王女に対してだけではない。メリッサに対してすら、自分はまだ不安定な存在だ。若返り、未来をどう定めるべきかも明瞭でないまま、ただ想いだけが先へ進もうとしている。
廊下の端に差し掛かった時、ふと振り返る。扉の向こうに王女の気配はもう残っていない。それでも、あの慎ましい眼差しは確かに心の奥に印されていた。
(どうか、あの方が傷つくことのありませんように)
祈りにも似たその願いを胸に沈め、シオンは静かに歩みを再開した。
向かう先は自室でも客間でもなく、ただ——窓のある方へ。
遠く聖域の方角を見渡せる場所へ。
(メリッサ……元気でいるか)
言葉には出さない。出してしまえば、戻れなくなる。ただ胸の奥で彼女の名がそっと呼ばれた。
回廊の角を曲がったところで、控えていた老侍従が恭しく頭を下げた。白髪の彼は、青年時代から聖域に仕えてきた古参であり、公務の旅では常に側にいる。
「猊下……本日のご公務、誠にお疲れさまでございました」
「ああ、ありがとう。まだしばらく続くが、お前の助力には感謝している」
侍従は深く一礼し、短い間ののち、躊躇いがちに口を開いた。
「差し出がましいことを伺うようで恐れ多いのですが……本日のアリシア王女のご様子、いかがご覧になりましたでしょうか」
シオンは足を止める。
窓外には淡い月光が落ち、石床に長い影を描いていた。
数拍置いてから、静かに答える。
「上品なお方だ。……礼儀正しく、思慮も深い。それに、お優しい心を持たれている」
そこで一度言葉を切る。胸の奥にわずかな痛みが走るのを、自分でも分かった。
「ただ——あまりに、お心が純粋すぎる」
老侍従は、長年仕えてきたゆえの静かな観察眼で、シオンの声音に含まれた微かな揺らぎに気づいた。
「……王女殿下は、猊下にご好意をお寄せのようにお見受けしました」
「……そうだな。感じていた」
声はあくまで穏やかだったが、どこか遠い。
侍従は一歩近づき、低く問う。
「ご迷惑で……ございますか?」
シオンは短く首を振った。
「迷惑とは思わぬ。むしろ、心苦しい。王女殿下は善良なお方だ。お前も見ただろう。あれほど誠実に接してくださった」
彼は窓の外へ視線を向けた。月光の下、夜の王都が静かに広がっている。
「だが——私は、どなたのお気持ちにも軽率に応じるわけにはいかぬ。お前もよく分かっていることだろう」
侍従は深く頷いた。その横顔には、わずかな安堵と哀惜が入り混じっていた。
「王国側は、王女殿下を近づけようと熱心なご様子にございました。猊下のお立場……決して楽ではございませんな」
「それは承知している。公務は公務として、誠実に務めよう。だが——」
細く息を吐く。その声音には、静かな決意が宿っていた。
「私が進むべき道を、他国の思惑に左右されるつもりはない。それがどれほど慎重を要することであろうと」
侍従は胸に手を当て、深く頭を垂れる。
「……畏れ入りました。猊下らしいお言葉にございます」
シオンは苦笑に近い、ほんの淡い表情を見せた。
「らしい、か。……そう言ってもらえるなら、救われる」
そして歩き出す。
「お前も休むといい。明日も長い一日になる」
「はっ。お先に失礼いたします」
老侍従が去ったあと、シオンは一瞬だけ立ち止まる。胸の奥底に静かに灯り続ける面影へそっと意識を向けた。
(……メリッサは今、何をしているのだろう)
その想いを閉じ込めるように、彼はゆっくりと回廊の奥へ歩を進めた。
老侍従との短い会話を終え、シオンは与えられた客室へ戻った。
厚い扉を閉めた瞬間、喧噪の影もない静けさが訪れる。暖炉には弱い火がくすぶり、ゆっくりと室内の空気を温めていた。
シオンは上着を脱ぎ、丁寧に椅子へ掛ける。
襟元に残る微かな疲労の気配を手で払いながら、ふと天井を見上げた。
(……今日も長い一日だったな)
それでも、公務そのものに不満はない。問題は、胸の奥に巣くう静かな焦燥だった。
袖口のボタンを外しシャツを脱いでいく。衣擦れの音が、広い部屋にひとつだけ響く。
(メリッサ……会いたい)
そう思った瞬間、喉の奥がわずかに熱を帯びた。
彼女の笑った顔、風に揺れる栗色の髪、指先が触れたときのあの温度。
一つ一つが蘇るたび、会えない時間の長さが増していく。
ベッドの傍らに置かれた、王城の侍従が用意したガウンに腕を通しながら、シオンはふっと息をついた。
(連絡も返せず……心配をさせているだろうな)
メリッサを悲しませるのが最も苦しい。そう分かっていながら、公務に追われる自分をどうにもできない。
洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を軽く洗う。水滴をタオルで拭いながら、ふと鏡に映る自分と目が合った。
若返った顔。
19歳の肉体。
そして、菫色の瞳は200年以上の記憶を抱えたまま揺れている。
「……そなたに会いたい」
声にならないほどの低い囁きだった。もし誰かが聞いていたとしても、ただの吐息にしか聞こえないだろう。
シオンはベッドに腰を下ろし、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばした。
画面を点ける。
メリッサからの未読のメッセージは──まだない。
安堵と失望が入り混じった感情が、胸に静かに沈んだ。
(こちらから連絡すべきだが……今の状況では返す時間を約束できぬ。余計に彼女の心を乱してしまうかもしれない)
悩む自分がひどく情けない。けれど、メリッサを想う気持ちが弱まることなど一度もなかった。
シオンはスマホを伏せて置き、ゆっくりと横になった。
ベッドはこれ以上ないほど柔らかく温かいのに、心はわずかに落ち着かない。
目を閉じる。
暗闇の向こうで、彼女の声が小さく響いた気がした。
──シオン様、会いたいな。
胸がしめつけられる。
(公務を終えたらメリッサに会いに行こう)
その想いだけを胸に抱きながら、ようやく、浅い眠りが訪れた。
ノートパソコンを閉じ、メリッサは深く息をついた。冬の冷えた空気が、胸にまで染みるようだった。
スマホを手に取る。
画面には、シオンへのメッセージが一つだけ。送信した日付が、二日前に変わっていた。
(忙しいよね……うん、分かってる)
だから、自分から重ねて連絡するのは控えた。邪魔したくなかった。シオンを困らせたくなかった。
テーブルの上には、丁寧にラッピングしたチェキの箱。リボンだけが、部屋の中でひどく浮いて見える。メリッサはそれをそっと撫で、ぽつりと呟いた。
「……会いたいな」
声に出した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。でも言葉はそこまでだった。それ以上を言葉にしてしまうと、泣いてしまいそうだった。
翌朝。
重厚な石造りの廊下を歩きながら、シオンはポケットの中のスマホを指で触れた。
(……連絡が来ていない)
分かっていた。
メリッサがこちらを気遣い、自分からは連絡してこないであろうことぐらい。
(優しい……彼女は本当に優しすぎる)
だからこそ、シオンは連絡できなかった。
返事が遅れることも、突然途切れてしまうこともある。それで彼女を不安にさせたくなかった。
ただ、その思いやりは二人の距離を逆に押し広げてしまう。
「本日のご出立は10時とのことです。猊下」
侍従に声をかけられ、シオンは小さく頷いた。
「分かった。支度を整えて行く」
王城を出立すればそのまま次の国へ向かう。すぐ聖域には戻れない。
メリッサの顔が浮かぶ。触れられない距離に置いたまま、また日が過ぎてしまう。
(……帰ったら、真っ先に会いに行きたい)
その願いだけを胸に、シオンは王城を後にした。
(……この機を逃すわけにはいかぬ)
昨夜の夜会から今日に至るまでのシオンを思い返す。
18歳で即位し、まだ20にも満たぬ教皇。それほど若いにも関わらず、威圧ではなく、自然に人を従わせる品位と威厳を纏っている。あれは天性のものだ。
“神域”と呼ばれる地を統べる、若き教皇。
その肩書きだけでも他国への牽制には十分すぎるが、何よりアンドレアスが惹かれたのは、その人柄であった。
柔和だが、簡単に揺らがない。聡明だが、鼻にかけない。若さと老練が同居する、あの得体の知れぬ落ち着き。
(……想定以上だ)
強固な後ろ盾を持たぬ小国エルダニアにとって、“聖域教皇”は喉から手が出るほど欲しい縁戚だ。
世界規模の組織は、理想を掲げる割に非常時には頼りにならない。大国の顔色をうかがい、情勢が不利となればすぐに支援の手を引く。そんな現実を、アンドレアスは嫌というほど知っていた。
(だが聖域は違う。あそこは――どの国にも屈さぬ)
だからこそ、王女を嫁がせられるのなら、これ以上の安泰はない。
何より、幸運なことに――
(あれほどの人物と、アリシアの年齢が近いとは……)
そう、それは偶然にしては出来すぎていた。
アリシアは今年で21歳。シオンは20歳の三か月前。政略結婚としての格差はない。年齢的な違和感もない。
そのうえ、王女が昨夜からずっとシオンに恋心を抱いているのも見え透いている。今日も視察から戻る道すがら、アリシアの頬はいつもより紅が濃かった。
(いつも控えめな娘が、あれほど頬を染めるなど……滅多にないわ)
つまり、“後押し”さえ整えれば、二人は自然と近づく可能性がある。
アンドレアスはゆっくりと目を開け、掌を組んだ。
(今宵の晩餐。猊下のお気に障らぬよう……慎重に、丁寧に。焦ってはならぬ。まずは親睦を深めるだけでよい)
その顔には王としての冷静さと、父親としての期待が入り混じっていた。
侍従が静かに扉を叩く。
「陛下、晩餐のご準備が整っております」
国王は短く頷き、立ち上がる。
(さて……聖域の若き教皇猊下。この小国の誠意と真心を、どう受け取ってくれるか)
王城の廊下は暖かな黄金色の明かりに満ちていた。晩餐の席へ向かう国王の足取りは、普段よりもいくらか軽かった。
王城の大広間の奥に設けられた、王家専用の晩餐室。
夜会とは異なり、招かれたのはわずか数名。
重厚な木製の扉が静かに開くと、淡い琥珀色の光がシオンを迎えた。
王室の紋章が刻まれた長卓。季節の花を控えめにあしらった中央の装飾は、華美ではなく、王家の品位そのものといった趣だ。
アリシア王女はすでに席の近くに立っていた。浅くカールした淡い金髪が、燭台の柔らかな光を受けてほのかに揺れる。両手を前で揃え背を伸ばし、美しい姿勢でシオンを迎えた。
「教皇猊下……ようこそ、お越しくださいました」
少し息を整えるように間を置いたその所作が、彼女の緊張を示していた。控えめな笑みは、無理に作ったものではなく、年頃の娘が憧れの相手を前につい見せてしまうような、初々しいものだった。
シオンは柔らかな眼差しで一礼した。
「こちらこそ、陛下のご厚意に感謝いたします。今宵は、静かに過ごさせていただければ幸いです」
その穏やかな声に、アリシアの肩が、ほとんど分からぬほど僅かに上下した。深い安堵か、それとも喜びか。どちらとも判別できない揺らぎが彼女の胸元に影を落とす。
国王アンドレアスが満足げに笑みを浮かべた。
「堅苦しい席ではございません。どうか肩の力をお抜きください、猊下。アリシアも、ゆっくりとお相手いたせ」
「……はい、お父様」
アリシアは静かに頷く。その声音は控えめだが、王家の娘としての矜持がしっかりと宿っていた。
シオンの席は王女の隣。
国王の意図は明白だったが、シオンは眉一つ動かさず、それでいて無礼にもならぬ落ち着きで席に着いた。
料理が運ばれ、晩餐が始まる。
アリシアはぎこちさを見せぬよう、細やかな所作でフォークを握り、時折シオンに声をかける。
「――本日のメインは、王国伝統のハーブローストでございます。もしお口に合えば、嬉しいのですが……」
「とても香りが良いですね。王国の気候が育むものなのでしょう。興味深い料理です。ありがとうございます、王女殿下」
アリシアの横顔に、淡い紅が差した。それは薄い花弁の下から光が透けるような、繊細な色づきだった。
王女はそっと視線を落とした。伏せた睫毛の影が揺れ、彼女の心の奥を物語っているようだった。
食事は温かな談笑のうちに進み、国王とシオンが要所で静かに意見を交わす。
アリシアは無闇に会話へ割って入ることはしない。王女として相応しいタイミングだけを選び、控えめに、けれど誠実に参加する。
その慎ましさが、かえってシオンの視界に自然と入ってしまう。
(……よく気が回る娘だ)
そう感じさせるほどに、彼女の振る舞いは優雅だった。
晩餐も終盤へ差し掛かった頃、アリシアはほんの一瞬、言葉を選ぶように息を吸い、そして、おずおずとシオンを見た。
「本日は……お忙しい中、お時間を割いていただき……本当に光栄でした」
その声音は上品で、決して露骨な好意を匂わせるものではない。ただ、心を込めて礼を述べた――その一点だけが、揺るぎなく伝わる。
シオンは静かに微笑んだ。
「こちらこそ、殿下。温かいおもてなしを賜りました。王国のご厚意に深く感謝しております」
王女の胸の奥で、そっと花が開くような気配があった。それは、初めての恋の色だった。
晩餐が終わり、案内役の侍従が一礼して下がった。
王宮の奥へと続く廊下を歩きながら、アリシア王女は小さく問いかける。
「……もし、お疲れでなければ。少しだけ、お茶でもしながら……遊戯室をご案内してもよろしいでしょうか」
シオンは穏やかに頷く。
「ええ、殿下。少し時間をいただきましょう」
安堵したように王女が微笑む。その笑みはわずかに花が綻ぶようで、控えめながらも心がこもっていた。
遊戯室の扉が開くと、柔らかな暖炉の灯りが二人を迎えた。壁には年代物のチェスセット、優雅なビリヤード台、古いカードテーブルが整然と並んでいる。
アリシアは迷った末に、チェス盤の前で足を止めた。
「――チェスはお好きでしょうか?夜会の折、少しだけ話題にのぼっていたので……」
「ええ。嫌いではありません」
シオンが席に着くと、王女も正面に座った。品位ある姿勢のまま、真っ白な駒に触れる。
「では、白をお持ちくださいませ。先手は、猊下に」
シオンは柔らかく礼を返し、一手目のポーンを静かに進めた。
駒が盤に触れる軽い音だけが響く。
王宮の遊戯室は広いが、二人の間に漂う空気は穏やかで、どこか親密だった。
アリシアは考える時、長い睫毛をふと伏せる。
そのたびに、暖炉の灯りが影を落とし、彼女の横顔に淡い陰影が生まれる。
「……猊下は、とてもお強いのですね」
「殿下の読みも鋭くていらっしゃる。先ほどの一手は、少し驚きました」
褒められたアリシアは、ほんのわずか頬を染めた。無邪気な誇らしさが混ざった、年相応の反応だった。
やがて、王女が守勢に回った頃。
シオンはゆっくりと王女のキングを追い詰め、穏やかな声で告げた。
「チェックメイトです」
「……負けてしまいましたね。でも、とても楽しかったです」
恥じらいながらも、王女の瞳はどこか嬉しげだった。
「もう少し……ご一緒しても、よろしいでしょうか」
アリシアは恐る恐る立ち上がり、ビリヤード台の前に歩み寄る。淡い青の絨毯に靴音が静かに吸い込まれていく。
「ビリヤードは……あまり得意ではなくて。もし猊下がよければ、少しご指南いただければと思ったのですが……」
王女は無理に近づかない。ただ、教えを請う礼儀正しい姿勢でキューを抱きしめるように持っていた。
シオンは少しだけ目を細める。
(……なるほど。国王の意図はともかく、王女殿下は誠実な娘だ)
「もちろん、お付き合いします」
ビリヤード台の上で、ボールが静かに並べられた。
アリシアがキューを構えるが、角度が少し甘い。
「ここを……もう少し、こう」
シオンが背後から手を添える。王女の肩が一瞬だけ硬直し、すぐに柔らかく呼吸が整った。
触れたのは手の甲だけ。しかし、王女の横顔は紅を帯び、視線はボールから逸れないよう必死だった。
「……こ、こうでしょうか」
「ええ。とても上手ですよ。そのまま、ゆっくりと」
コトン――と軽やかな音が響き、ボールがポケットへ落ちる。
アリシアの瞳が柔らかく揺れた。
「……入った……」
幼い子どもが褒められた時のような、控えめな喜び。だがそれは、上品さを損ねるものではなく、むしろ彼女という人間の本質を静かに照らす光だった。
そして、その全てを見守るシオンの胸には、別の影が落ちていた。
王女の献身も、王の思惑も理解しつつ、彼の心の中心は、遠くギリシャにいる恋人の姿だけが占めていた。
ほとんど音のない遊戯室には、まだチェス盤がそのまま残っていた。
最後の局面で王手をかけられた黒の王──アリシア王女の駒は、淡い灯りに照らされて静かに沈んでいる。
シオンは席を立ち、ゆっくりと手袋を整えた。その動作すら目を見張るほどに端正だった。
「本日は、丁重なおもてなしを賜りました。陛下にもお礼を伝えてください」
柔らかな声でそう告げると、王女は背すじを伸ばしたまま、深く頷いた。彼女の所作は、幼い頃から王家で培った気品そのままだった。
「……こちらこそ、光栄でございました。お相手が教皇猊下ともなれば、つい緊張してしまいまして……その……不手際がありましたら、どうかお許しくださいませ」
王女は感情を乱すこともなく、静かな息づかいで言葉を紡いだ。それでも、その声音の端に宿る微かな震えだけは隠しきれない。
シオンは、その揺らぎを認めつつも、踏み込みはしない。あくまで礼節を損なわない範囲で、しかし誠実な眼差しを返す。
「アリシア王女。あなたは終始、見事なご振る舞いでした。聖域の者としてだけでなく、一人の客として感謝いたします」
その静謐な称賛に、王女の肩が揺れた。驚きか、喜びか。その奥にある感情が淡く滲む。
「……ありがとうございます、猊下。この一日は、わたくしにとって忘れがたいものとなりました」
そう告げる声も、控えめで、どこまでも澄んでいた。
たとえ胸の内にどれほどの想いを抱えていても、それを表に押しつけるようなことはしない。王女としての矜持が、彼女を最後まで上品に保たせていた。
シオンは視線を逸らさず、しかし深く踏み込むこともせず丁寧に頭を下げる。
「あなたのこれからが、良き歩みに満ちているようお祈り申し上げます。……本当に、本日はありがとうございました」
その言葉を終えると、シオンは静かに踵を返した。
王女は、たった一歩だけ後を追うように歩み寄ったものの、すぐに立ち止まり、それ以上は近づかなかった。
決して乱さず、決して求めない。
ただ、別れの瞬間を見届けるためだけに。
退室するシオンの背が扉の向こうへ消える直前、アリシア王女はほんの一瞬だけ、瞳を伏せた。
その仕草すら、抑制された静かな優雅さで満ちていた。
扉が閉まる。
音はひどく小さかったのに、遊戯室の静けさは急に深さを増した。
彼女は誰に見られることもなく、小さく息を吐いた。
それは想いを押し込めた者だけが持つ、微かで、痛むほど慎ましい呼吸だった。
(……まっすぐな方だ)
廊下には王宮特有のほの暗い静けさが、薄青い灯りの中で揺れている。
歩き出したシオンは、数歩分の沈黙を自らに許した。
感情を動かされることなど、もはや久しくなかった。それでも先ほどの王女の表情は、確かに胸のどこかをかすかに震わせていた。
(その想いを拒否せねばならぬのは……酷なことだ)
王女に非はない。
むしろ、あれほど気高く、真摯に相手を敬う姿勢を持つ者は多くない。
だからこそ、応じられない。
決して。
歩を進めるたび、足音が石床に淡く響く。その律動は安定しているのに、胸の内側では別の鼓動がわずかに乱れていた。
夜気を含んだ廊下の冷たさが、目の奥の熱を静かに鎮めていく。
メリッサの声を思い出す時だけ、若返った肉体の感覚がやけに鋭くなる。彼女の笑い声、軽い足取り、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な気配。遠くにいるはずなのに、手を伸ばせば届くような錯覚を覚える。
(早く顔を見たい……)
その願いを認めることさえ、少し怖かった。
教皇としての役目が、日ごとに重さを増すほど、一人の男として抱いてしまうこの願望は、いよいよ抑えがたい。
王女に対してだけではない。メリッサに対してすら、自分はまだ不安定な存在だ。若返り、未来をどう定めるべきかも明瞭でないまま、ただ想いだけが先へ進もうとしている。
廊下の端に差し掛かった時、ふと振り返る。扉の向こうに王女の気配はもう残っていない。それでも、あの慎ましい眼差しは確かに心の奥に印されていた。
(どうか、あの方が傷つくことのありませんように)
祈りにも似たその願いを胸に沈め、シオンは静かに歩みを再開した。
向かう先は自室でも客間でもなく、ただ——窓のある方へ。
遠く聖域の方角を見渡せる場所へ。
(メリッサ……元気でいるか)
言葉には出さない。出してしまえば、戻れなくなる。ただ胸の奥で彼女の名がそっと呼ばれた。
回廊の角を曲がったところで、控えていた老侍従が恭しく頭を下げた。白髪の彼は、青年時代から聖域に仕えてきた古参であり、公務の旅では常に側にいる。
「猊下……本日のご公務、誠にお疲れさまでございました」
「ああ、ありがとう。まだしばらく続くが、お前の助力には感謝している」
侍従は深く一礼し、短い間ののち、躊躇いがちに口を開いた。
「差し出がましいことを伺うようで恐れ多いのですが……本日のアリシア王女のご様子、いかがご覧になりましたでしょうか」
シオンは足を止める。
窓外には淡い月光が落ち、石床に長い影を描いていた。
数拍置いてから、静かに答える。
「上品なお方だ。……礼儀正しく、思慮も深い。それに、お優しい心を持たれている」
そこで一度言葉を切る。胸の奥にわずかな痛みが走るのを、自分でも分かった。
「ただ——あまりに、お心が純粋すぎる」
老侍従は、長年仕えてきたゆえの静かな観察眼で、シオンの声音に含まれた微かな揺らぎに気づいた。
「……王女殿下は、猊下にご好意をお寄せのようにお見受けしました」
「……そうだな。感じていた」
声はあくまで穏やかだったが、どこか遠い。
侍従は一歩近づき、低く問う。
「ご迷惑で……ございますか?」
シオンは短く首を振った。
「迷惑とは思わぬ。むしろ、心苦しい。王女殿下は善良なお方だ。お前も見ただろう。あれほど誠実に接してくださった」
彼は窓の外へ視線を向けた。月光の下、夜の王都が静かに広がっている。
「だが——私は、どなたのお気持ちにも軽率に応じるわけにはいかぬ。お前もよく分かっていることだろう」
侍従は深く頷いた。その横顔には、わずかな安堵と哀惜が入り混じっていた。
「王国側は、王女殿下を近づけようと熱心なご様子にございました。猊下のお立場……決して楽ではございませんな」
「それは承知している。公務は公務として、誠実に務めよう。だが——」
細く息を吐く。その声音には、静かな決意が宿っていた。
「私が進むべき道を、他国の思惑に左右されるつもりはない。それがどれほど慎重を要することであろうと」
侍従は胸に手を当て、深く頭を垂れる。
「……畏れ入りました。猊下らしいお言葉にございます」
シオンは苦笑に近い、ほんの淡い表情を見せた。
「らしい、か。……そう言ってもらえるなら、救われる」
そして歩き出す。
「お前も休むといい。明日も長い一日になる」
「はっ。お先に失礼いたします」
老侍従が去ったあと、シオンは一瞬だけ立ち止まる。胸の奥底に静かに灯り続ける面影へそっと意識を向けた。
(……メリッサは今、何をしているのだろう)
その想いを閉じ込めるように、彼はゆっくりと回廊の奥へ歩を進めた。
老侍従との短い会話を終え、シオンは与えられた客室へ戻った。
厚い扉を閉めた瞬間、喧噪の影もない静けさが訪れる。暖炉には弱い火がくすぶり、ゆっくりと室内の空気を温めていた。
シオンは上着を脱ぎ、丁寧に椅子へ掛ける。
襟元に残る微かな疲労の気配を手で払いながら、ふと天井を見上げた。
(……今日も長い一日だったな)
それでも、公務そのものに不満はない。問題は、胸の奥に巣くう静かな焦燥だった。
袖口のボタンを外しシャツを脱いでいく。衣擦れの音が、広い部屋にひとつだけ響く。
(メリッサ……会いたい)
そう思った瞬間、喉の奥がわずかに熱を帯びた。
彼女の笑った顔、風に揺れる栗色の髪、指先が触れたときのあの温度。
一つ一つが蘇るたび、会えない時間の長さが増していく。
ベッドの傍らに置かれた、王城の侍従が用意したガウンに腕を通しながら、シオンはふっと息をついた。
(連絡も返せず……心配をさせているだろうな)
メリッサを悲しませるのが最も苦しい。そう分かっていながら、公務に追われる自分をどうにもできない。
洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を軽く洗う。水滴をタオルで拭いながら、ふと鏡に映る自分と目が合った。
若返った顔。
19歳の肉体。
そして、菫色の瞳は200年以上の記憶を抱えたまま揺れている。
「……そなたに会いたい」
声にならないほどの低い囁きだった。もし誰かが聞いていたとしても、ただの吐息にしか聞こえないだろう。
シオンはベッドに腰を下ろし、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばした。
画面を点ける。
メリッサからの未読のメッセージは──まだない。
安堵と失望が入り混じった感情が、胸に静かに沈んだ。
(こちらから連絡すべきだが……今の状況では返す時間を約束できぬ。余計に彼女の心を乱してしまうかもしれない)
悩む自分がひどく情けない。けれど、メリッサを想う気持ちが弱まることなど一度もなかった。
シオンはスマホを伏せて置き、ゆっくりと横になった。
ベッドはこれ以上ないほど柔らかく温かいのに、心はわずかに落ち着かない。
目を閉じる。
暗闇の向こうで、彼女の声が小さく響いた気がした。
──シオン様、会いたいな。
胸がしめつけられる。
(公務を終えたらメリッサに会いに行こう)
その想いだけを胸に抱きながら、ようやく、浅い眠りが訪れた。
ノートパソコンを閉じ、メリッサは深く息をついた。冬の冷えた空気が、胸にまで染みるようだった。
スマホを手に取る。
画面には、シオンへのメッセージが一つだけ。送信した日付が、二日前に変わっていた。
(忙しいよね……うん、分かってる)
だから、自分から重ねて連絡するのは控えた。邪魔したくなかった。シオンを困らせたくなかった。
テーブルの上には、丁寧にラッピングしたチェキの箱。リボンだけが、部屋の中でひどく浮いて見える。メリッサはそれをそっと撫で、ぽつりと呟いた。
「……会いたいな」
声に出した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。でも言葉はそこまでだった。それ以上を言葉にしてしまうと、泣いてしまいそうだった。
翌朝。
重厚な石造りの廊下を歩きながら、シオンはポケットの中のスマホを指で触れた。
(……連絡が来ていない)
分かっていた。
メリッサがこちらを気遣い、自分からは連絡してこないであろうことぐらい。
(優しい……彼女は本当に優しすぎる)
だからこそ、シオンは連絡できなかった。
返事が遅れることも、突然途切れてしまうこともある。それで彼女を不安にさせたくなかった。
ただ、その思いやりは二人の距離を逆に押し広げてしまう。
「本日のご出立は10時とのことです。猊下」
侍従に声をかけられ、シオンは小さく頷いた。
「分かった。支度を整えて行く」
王城を出立すればそのまま次の国へ向かう。すぐ聖域には戻れない。
メリッサの顔が浮かぶ。触れられない距離に置いたまま、また日が過ぎてしまう。
(……帰ったら、真っ先に会いに行きたい)
その願いだけを胸に、シオンは王城を後にした。
