Eine Kleine Ⅱ

 シオンが外交に出ることなど知らぬまま、家に戻ってきたメリッサは、買ったばかりのチェキとアルバムを丁寧にラッピングした。
 シオンに渡した時の彼の顔を想像すると、少し心が明るくなる。けれど、スマホの画面には着信を試みた跡と送ったメッセージだけが残る。
 返信はまだ、ない。
(シオン様、忙しいんだろうな。次はいつ会えるんだろう)
 聖域教皇。それも、辺境の異国では重要視される“神職”としての地位だ。季節はクリスマス。外交儀礼も、各国からの招待も増えるはずだ。
 分かっている。分かっているのに、胸の奥が重たく沈む。
「…だめ。言っちゃだめ」
 寂しいと言えば、彼を縛ってしまう。その言葉が、シオンを困らせてしまう。
 口を噤むしかない。
 メリッサは受信ボックスを閉じ、肩で息をついた。
 一人で暮らす生活には慣れたつもりでいた。でも、それは思い込みだと気づかされる夜だった。
 部屋の灯りを落としリビングへ戻ると、視界の隅に“それ”が見える。
 小さな祭壇。両親と兄の写真。
 時折、そこにだけは心を預けてもいいと、メリッサは思える。
「パパ、ママ……お兄ちゃん」
 その名を呼んだ瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ。膝を折り、目を閉じる。
 流れ出した涙は、誰にも見られない。
 祭壇の前だけは泣いてもよかった。泣いても許される場所だった。

 リビングのテーブルには、ラッピングしたチェキがぽつんと置かれている。
 白い包装紙。赤いリボン。シオンの髪の色に合わせて、淡い金のカードも添えた。
「シオン様、喜んでくれるかな……」
 触れたリボンがひどく冷たい。それは、渡せないまま一日を終えた証のようだった。
 メリッサはソファに身を沈めた。スマホをそっと胸に抱き、もう一度だけメッセージを確認する。
 やはり、未読のまま。
「大丈夫……うん、大丈夫」
 わざと声にしてみる。返事は当然返らないのに、その音だけがやけに響いた。
 外では、遠くでクリスマスソングが流れている。誰かの笑い声も聞こえる。
 世界が賑やかであればあるほど、シオンの不在がひどく胸に沁みた。

 夜が明けても、スマホには何の通知もない。画面の上に並ぶのは、昨日送ったメッセージの吹き出しだけ。
 既読がつかない。返信がない。
 例え時差のある遠方にいるのだとしても。
 例え通話を憚られる状況だったとしても。
 “メッセージの一通くらい”
 そう思ってしまう自分がみっともなく感じられて、胸の奥がひりついた。
 シオン様は、今どうしているんだろう。まさかスマホを見る時間すら——。
 考えたくない方へ考えが傾き、メリッサは首を振った。ため息がこぼれる。スマホの画面を伏せ、テーブルに置いた。
「……課題やろ」
 声にしてみると、少しだけ気持ちが落ち着く。現実に手を伸ばすことで、心を繋ぎ止めようとするように。
 朝食の皿を洗い、水切りかごに立てておく。寝不足のせいで欠伸が出るし、瞼も重たい。ふと、テーブルの上のラッピングされたチェキが目に入る。
 いまだ渡せないプレゼント。
 シオンを思い出すだけで胸が締めつけられ、メリッサは視線をそらした。
 足早に階段をのぼり、二階の自室へ。
 柔らかな日差しがレースカーテン越しに机の上へ落ちている。その光の中で、メリッサはノートパソコンを開いた。
 冬休みの課題は少ない。だからこそ、早めに終わらせておけば、後の負担が減る。
 手を動かしていないと、シオン様の事ばかり考えて、不安になっちゃう。
 そう言い訳をするようにノートパソコンに向かう。
 けれど、指先はなかなかキーボードに触れようとしなかった。またスマホを見たくなる。見たところで変わらないのに。
 メリッサは自分の手をぎゅっと握りしめ、画面に視線を落とした。課題ファイルを開くと淡々とした文字列が目の前に並ぶ。モヤモヤとした気持ちを捨てるかのように大きく息を吐き出すと、ゆっくりキーボードを叩き始めた。
 冬の冷たい青空の下、シオンは今どこで何をしているのだろう。彼女の知らない場所で、彼は世界の均衡を背負って立っている。
 メリッサの胸には、連絡がない寂しさと、それでも信じようとする健気な想いが静かに同居していた。

 夜明け前の空気は澄んでいた。高い天井をもつ石造りの客室にわずかな光が射し込み、寝台の白いシーツを淡く照らす。
 シオンは静かに瞼を開く。金の髪に朝の光が差し、菫色の瞳がゆっくりと世界を映し始めた。
 昨夜の喧噪は、まるで遠い昔のことのようだ。音楽も、華やかな会話も、絶え間ない視線も、今はどこにもない。ただ、静寂だけがあった。
 カーテンの向こうから、遠く鳥の囀りが響いていた。翼を広げる音さえ聞こえそうなほど静かな世界は、やがて眠りから目覚めようとしていた。
(……今日も公務か)
 そっと吐いた息の奥に疲れが滲む。だが、その感情は表情に映る前に消えていく。
 教皇とは、そうしたものだ。
 シオンは寝台から身を起こすと、まっすぐに背を伸ばし深く呼吸をした。それからまた目を閉じる。ゆっくりとした呼吸を繰り返すたびに、心の中が凪いでいくのが分かる。雑音も、昨夜の余韻も、胸の内に沈んだ微かな疲れさえも鎮まっていく。
 若返った肉体は、世界を鮮烈すぎるほどに映し出す。光の強さ、風の流れ、人の気配の揺れ。
 全てが、以前とは違う。それが祝福なのか、それとも呪いなのか。シオンにも分からない。
(……メリッサは、どうしているだろう)
 抑えたはずの想いが、静かに胸の底から顔を出す。
 昨夜から一度もスマートフォンを開けていないのは、彼女を想うからこその決断だった。
 外交の場で、私的な感情を優先するわけにはいかない。だが、指先は時折、小さな端末に伸びそうになった。彼女の声を、文字を、一言でも確かめたかった。
 シオンは窓の外を見つめながら自嘲した。数百年の時を生き、数多の星々の運行を見守ってきた。そんな自分が、今はたった一台の端末に届くはずの、数文字の羅列を待ち焦がれている。この若い肉体が私を狂わせるのか、それとも、長い孤独の果てにようやく見つけた“甘い熱”に、魂が焦がれているだけなのか。
「……私は、これほどまでに愚かだったか」
 呟きは暁の空気に消えた。だが、その愚かさを手放すつもりは、毛頭なかった。
 
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 “教皇”という器に戻るための、最後の儀式のように。
 瞑想を終え、シオンは窓辺に寄る。
 窓の外では、冬の薄明がわずかに色づき始めていた。
(……今日も、長い一日になりそうだ)
 細く窓を開けると、冷えた朝の空気が部屋に入り込む。その瞬間、彼の淡い緑を帯びた金髪が静かに揺れた。
 教皇としての一日が、再び始まる。
 そして、この日を境に彼を取り巻く政治と陰謀は、静かに動き始めようとしていた。

 夜が完全に明けきらないうちに、王城の客室の扉が控えめに叩かれた。
「教皇猊下、失礼いたします。朝食をお持ちいたしました」
「入れ」
 シオンは一つ頷き、扉が開くのを待った。
 銀のワゴンに乗せられた朝食は簡素だが、上質だった。しかし、食欲があるわけではなかった。外交の朝は、胃さえも慎重になる。
 淡く湯気の立つ紅茶を口に含みながら、シオンは窓辺へ視線を移す。
(……ここからの一日は、長くなる)
 外では、エルダニア王宮の衛兵たちが交代に動き始めていた。国王アンドレアスの治世がどれほど安定しているのか──衛兵の行動だけでも察せられる。
 朝食後、控室に移ったシオンのもとに聖域から随行した侍従たちが現れた。
「本日のご予定を確認いたします、教皇猊下」
 最年長の老侍従が恭しく頭を下げ、予定表を広げる。
 エルダニア国王との朝の懇談、医療技術研究所の視察、昼食会――
 予定はぎっしりだ。そして、どの場も気を許すことができない。
 シオンは静かに聞き終え、問いかける。
「……例の件、進展は?」
 侍従たちは即座に察した。
 昨夜、国王が発した不穏な命令──“あの若造の身辺を調べろ”
 それを聴いた者がいたのだ。
 老侍従が、少し硬い声で答える。
「猊下。国王側近に不自然な動きが複数ございます。
本日中に、何らかの“探り”が入る可能性が高いかと」
 シオンは瞳を伏せた。
(やはりか……)
 昨夜、王女アリシアが見せた淡い恋情。そして、それを利用しようとする王の思惑。
 国家というものの“浅ましさ”には慣れていたはずだった。だが、今のシオンは若い肉体ゆえか、以前よりも胸の奥がざわつく。
(……メリッサに、余計な心配をかけたくはないのだが)
 胸の奥で、彼女の名前が息のように零れた。
 侍従との打ち合わせが終わると、衣装係がやってきた。
 今日の装いは、純白を基調とした軽装の祭服だった。豪奢な法衣では動きにくすぎるため、外交用の“品格を保ちつつ実用的な一着”が選ばれた。
 若い衣装係が震える手で肩の刺繍を整える。
 シオンが微かに動いただけで、大粒の汗を落としそうだった。威圧的な態度は出さないよう努めているが、自然と醸し出される雰囲気まではどうにもならない。
「……ありがとう。丁寧な手つきだ」
 優しく声をかけられた衣装係は、顔を真っ赤にして頭を下げた。

 石の廊下に、シオンの足音だけが響く。侍従たちは無言のまま後方に付き従う。
 曲がり角の先から、ふと低い声が聞こえた。
「──本当に彼が、“あれ”なのか?」
「年齢は20前だぞ? 外見だけ整えた影武者ではないのか?」
「だが昨夜のあの……何というか……“圧”は……」
 シオンは歩を止めなかった。だが、侍従たちは一瞬だけ険しい目を交わした。
 エルダニア国王の側近たちが、薄暗がりの奥でひそひそと囁いていたのだ。
 シオンの“正体”を探ろうとしている。
(……くだらぬ。こういうのは面倒だな)
 そう胸の奥で呟いたときだった。王城の奥、重厚な扉が静かに左右へ開いた。
 深紅の絨毯が敷かれた小広間。
 格式ある謁見の間ではなく、“特別ゲスト”のみが招かれる親密な懇談室。その選択自体が、王の意図を無言のうちに語っていた。
 シオンが入室すると、国王アンドレアスはすぐ立ち上がった。まだ40代半ばの精悍な男だ。目元の皺よりも、眦に宿る鋭い思慮が先に目に映る。
「ようこそ、聖域教皇シオン猊下。本日はお時間をいただけて光栄です」
 丁寧な物腰。だが、目の奥は不穏な光が宿っている。
 シオンは一礼して席に着いた。王も続いて腰を下ろし、水の入ったグラスが二人の前に置かれる。
 国王の正面ではなく、斜めに位置する“同席者の配置”。格下を座らせる向かい合わせではなく、“同列の立場”を示すための座り方だった。
 聖域を格下に扱ってはならない。その不文律を彼は理解している。
 先に口を開いたのはアンドレアスだ。
「猊下は、聖域のご公務で世界各地へ赴いておられるとか。驚くべきは、そのご年齢……まだ20歳にも満たぬと伺いましたが」
「公的な年齢は、そう記録されております」
 アンドレアスの眼が細くなる。
 記録上の話ではなく、“本当の年齢はどうなのか”。そう問いたいのは分かっていた。
 だが、アンドレアスはあくまで婉然と微笑みながら続ける。
「若さゆえのご苦労もあるでしょう。昨夜など、令嬢方が熱い視線を送っておられましたな」
(……この男、やはり探りを入れるつもりか)
 王は軽口を叩くふりをしながら、シオンの反応を逐一観察している。
 グラスの水をひと口含み、アンドレアスは何気なさを装って言った。
「我が娘アリシアも、猊下のご振る舞いに深く感銘を受けたようでして。……お恥ずかしながら、娘は恋愛とは縁遠い子でしてな。あのように頬を赤らめる姿を、私も初めて見ました」
 その声色は穏やかだ。だが裏にあるのは、明確な政治的意図。
(……ここで、私の反応を見たいのだろう)
 シオンは悟った。
 アリシア王女が恋心を抱いたことを、国王は“利用できる材料”と見ている。だが、シオンは優雅に微笑んだ。
「王女殿下は、実に清らかで優しいお方でした。あのような心を持つ方が、王家の未来を担われること……エルダニアの幸福と言えるでしょう」
 過不足ない回答にアンドレアスの眉が一瞬だけ動く。
 恋を拒んだのか、ただかわしたのか。どちらでもないような、深い間合いを感じ取ったのだ。
 アンドレアスは、自分の言葉をゆっくりと変えた。
先ほどより、さらに一段踏みこんだ声音で。
「……教皇猊下。あなたのような若き人物が、世界の均衡を左右する地位にある。率直に申し上げて、私はあなたを“理解したい”のです」
(ようやく本題か)
 シオンは静かに目を伏せた。
「理解…とは?」
「猊下が、いかなるお考えで世界を眺め、どのような未来を描いておられるのか。我が国は小国ゆえ、聖域の意向に逆らうなど愚行。しかし、ただ従うだけでは国家は育たない」
 今度は真正面からの視線だ。
「猊下。私が知りたいのは──あなたという人物の“意図”だ」
 シオンは目を伏せ沈黙した。
 長い沈黙ののち、シオンはゆっくりとアンドレアスを見返した。瞳の奥にあるのは、深い海のような静けさだった。
「――王よ。聖域は、世界の均衡を保つために存在しております。貴国の繁栄は望むところ。しかし、我らは国家の興亡に関与はいたしません」
 その声は柔らかいが、揺るぎない。
「私の“意図”をお知りになりたいのなら、行いをご覧ください。私の言葉より正確でしょう」
 アンドレアスは、わずかに息を呑んだ。
 若い外見をまとっていても、シオンの内側は数百年を越えた深淵だ。
 この男は操れない。
 そう悟らされた瞬間だった。
 アンドレアスは口元に微笑を戻し、穏やかに頭を下げた。
「本日、猊下と話せたことは貴重なご縁でした。視察先でも、どうかエルダニアの姿をご覧ください」
「そのつもりです。王よ、良き一日を」
 二人は礼を交わし、懇談は静かに幕を閉じた。
(やはり“ただの若者”ではない。娘を近づけるべきか、遠ざけるべきか──)
 聖域教皇シオンは、彼の思惑を越えた存在だった。
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