Eine Kleine

「では、明日九時に迎えに来る。良いな?」
 低く穏やかな声。そこに揺らぎはなかった。
「うん…」
 メリッサは微かな声で応じた。
 触れられる距離にいながら、シオンは彼女へ一度も手を伸ばさなかった。抱きしめることも、名を呼ぶこともなく、背を向けて静かに去っていく。その足音が遠ざかるたび、胸の奥で何かが崩れ落ちていくように感じられた。
 扉が閉じられ、部屋に再び静寂が戻る。途端に、支えを失った心は堰を切ったように揺れ、メリッサはその場に崩れ落ちた。頬を伝う涙は止まらず、絞り出すような嗚咽が、夜気に沈んだ部屋を満たしていく。

 ――セージくん。

 呼んでも、もう彼は戻らない。彼はセージではなく、教皇シオンなのだ。
 あの優しい笑顔も、親しげに交わした会話も、最初から影に過ぎなかったのだと突きつけられる。
 恋は、始まる前から叶わないと決まっていた。
 蜜のように甘い記憶は、いまや刃となって彼女を傷付ける。
 それでも胸の奥に息づく想いは消せず、ただ痛みに変わって泣き続けるしかなかった。
 窓の外では、遅い夏の風がカーテンを揺らしていた。その音だけが、彼女の泣き声を慰めるように寄り添っていた。

 午前九時。
 港町の路地に、聖域の紋章を刻んだ黒塗りの車が滑り込んできた。夏の朝の光は既に強く、白壁の家々や石畳を鋭く照り返している。
 玄関前に立つメリッサは、青のスカートをそっと掌で押さえた。あの日、アテネのモールで――彼と並んで歩き、彼に選んでもらったもの。
 試着室から出た瞬間、シオンが見せた柔らかな微笑みが胸に甦る。
『よく似合っている』
 その一言に、心の奥まで暖かな光が差し込んだ。いつかこのスカートをはいて、彼とどこかへ出かけたい。小さな願いを抱きながらあの時、彼の横顔を見上げたのだ。
 けれど――その“どこか”は、夢見た街でも海でもなく、よりによって聖域だった。
 皮肉な現実に胸を締めつけられながらも、彼に気付いてほしくて選んだ服装だった。
 車から降り立ったシオンは、長身をすっと伸ばし、怜悧に整った面差しを崩すことなく彼女の前に立つ。
 蜂蜜色の瞳で見上げる彼女に、ほんのわずかの揺らぎも見せず、淡々と告げた。
「時間だ。行こう」

 ――何も、言ってくれない。

 スカートに宿した小さな願いも、胸に忍ばせた淡い憧れも、彼の目には映らなかった。
 事務的に扉を開けられ、促されるまま車内に足を踏み入れる。窓の外を過ぎていく港町の風景が滲み、視界の奥で揺れた。
 落胆の色を隠そうと微笑みを装っても、心の奥では声にならぬ嘆きが繰り返されていた。

 ――どうして、何も言ってくれないの。

 車のシートに背を預けながら、窓の外を流れていく町並みを見つめる。朝の光は透明で、海からの風も心地よいはずなのに、彼女の胸には冷たい鉛のような重みしか広がっていなかった。

 ――結局、あたしは“その程度の存在”でしかなかったんだ。

 シオンの優しさを、何度信じたのだろう。彼の眼差しの柔らかさに救われ、言葉の一つ一つに支えられた気がしていた。けれど、それは全て“聖域にとって必要な駒”に対するものだったのだ。
 彼が本当に慈しんでいたのは、メリッサ・ドラコペトラという一人の人間ではなく、聖域のために利用できる一つの力に過ぎなかった。

 セージくんは――シオン様で。
 シオン様は――教皇様で。

 その事実が、何よりも容赦なく突きつけられる。

 優しさに触れるたび、期待してしまった。セージと過ごした時間を、ひと時でも“互いを想う関係”だと夢見てしまった。けれどそれは、図々しい思い上がりに過ぎなかったのだ。

 ――あたしが、何かの情を受けようだなんて。
 ――笑止千万とはこの事だ。身の程知らずにも程がある。

 吐き気のように込み上げてくる羞恥と絶望に、唇を噛みしめる。窓に映った自分の顔は、ひどく幼く、愚かに見えた。

 ――あたしは、ただの駒。
 ――あたしは、身の程というのを嫌というほど認識させられた。

 胸の奥で小さく、微かな音を立てて、憧れが砕けていくのがわかった。

 隣に座る彼女は、朝の光を浴びながらもどこか影を背負っていた。白いフリルブラウスに淡い青のスカート。かつて二人で訪れたモールで、試着室のカーテンを開けた瞬間に目を奪われた姿が、そのままそこにあった。

 ――覚えている。忘れようがない。

 あのとき、自分は確かに『よく似合っている』と言った。心からの言葉だった。
 しかし今、メリッサの表情に浮かんでいるのは、あの時のような柔らかな微笑みではなかった。伏せられた睫毛の奥に沈むのは、疑念と、拒絶と、諦念。彼女の中で、何かが決定的に断ち切られてしまったのだと、シオンは悟った。
 「……」
 言葉が喉までせり上がり、しかしそこで止まる。慰めも、謝罪も、もはや届かぬと分かっていた。むしろ何を告げても、彼女の心をさらに傷つけるだけだろう。
 窓の外に視線を移しながらも、耳は彼女の沈黙を拾い続けている。呼吸の浅さ、指先の強ばり。全てが、彼女の胸の奥に冷たい棘が突き刺さっている証だった。

 ――私が、壊した。

 彼女の信頼も、憧れも、名前を呼ぶときのあの眼差しも。
 セージという仮面を被り、近づいたことが間違いだったのかもしれない。
 だが、そうでなければ彼女を護ることもできなかった。
 矛盾に引き裂かれながら、ただ無言で彼女の横顔を見つめるしかなかった。
 (……メリッサ)
 心の中で呼んだ名は、唇を越えることなく消えた。

 舗装の甘い道を、車はゆっくりと進んでいく。窓の外では、晩夏の陽射しが地中海の海面を白く照らし、ゆらめく光の帯が遠くまで伸びていた。陽光は眩しいはずなのに、車内にはどこか薄暗い影が漂っていた。
 互いに言葉を発しない。
 エンジンの低い唸りと、時折のタイヤの跳ねる音だけが、二人を繋いでいた。
 メリッサは膝の上で両手を固く組み、視線を落としたままだった。唇には薄く紅をさしているが、かすかに噛み締める仕草がそこに痛々しさを滲ませていた。かつて『似合っている』と告げられたスカートは、今では彼女の心を慰めるどころか、むしろ重しのようになっている。
 シオンは、その横顔を盗み見ることもできず、真正面を見据えていた。もし視線を送れば、僅かにでも触れようとすれば、彼女の心にひびが入ってしまう。いや、もうひびなど、とっくに走っているのだ。そこへ自分が指を掛ければ、容易く砕け散ってしまう。

 ――これ以上、壊してはならぬ。

 そう自らを律しながらも、胸奥で膨れ上がるのはどうしようもない後悔と、言葉にできない焦燥だった。
 「……」
 沈黙は鉛のように重く、時の流れを歪ませる。車窓の外では風がオリーブの葉を揺らし、青い空に舞い上がっていく。けれど、二人の間を吹き抜ける風はどこにもなかった。
 やがて前方に、聖域の白大理石の門がちらりと見えてくる。
 その瞬間、メリッサの肩が僅かに震えた。

 ――これ以上、彼女に負わせてはならぬ。

 シオンの心は切実にそう叫んでいた。だが、既に車は後戻りできぬ道を進んでいた。

 視界の先に、白亜の門が見えた。
 太陽に照らされて輝くはずのその光景は、メリッサの瞳には異様な眩しさを帯びて映る。透き通る大理石の白は、美しさと同時に、冷酷な拒絶の象徴のようでもあった。
 胸の奥で何かがぎゅう、と音を立てて縮こまる。喉が渇いて、呼吸がうまくできない。指先は冷え、膝に置いた両手が震えを抑えきれずにいた。

 ――帰りたい。

 心の奥底で小さな声が囁く。だが、その願いが叶うことはないと分かっていた。聖域は、彼女にとって“居場所”ではなく、“監獄”だったから。
 忘れたかった記憶が、鮮烈に蘇ってくる。荒々しい笑い声、押さえつけられた地面の土の匂い、耳を塞ぎたくても塞げなかった嘲弄。肌を切り裂かれる恐怖と痛み。その一つ一つが、門の姿に重なり、彼女の心を抉る。
 「……っ」
 声にならない声が喉の奥で詰まった。涙はまだ零れていないのに、頬が濡れているような錯覚に襲われる。

 ――どうして、セージくんは何も言ってくれないの。

 隣にいるはずの彼は、教皇という仮面を被ったまま、冷たく正面を見据えている。
 その横顔が近いのに、あまりにも遠かった。
 もしも。
 もしも彼が『もう帰ろう』と言ってくれたなら、自分は迷わず頷いただろう。
 けれど、そんな言葉は決して口から零れないと知っていた。彼は聖域の頂点に立つ人なのだから。

 ――あたしは、ただの駒。

 その思いが胸を圧し潰す。
 門は迫り、彼女の心は後ずさりを続ける。だが、体はもう逃げられない。

 車窓の向こうを、光と影が滑るように流れていく。
 海の蒼、乾いた土の色、遠くに霞む山影――そのどれもが、透明な硝子越しにある別世界の景色のようだった。
 もはや吐き気もなければ、胸を締めつける痛みもない。代わりにあったのは、あまりに澄み切った虚無だった。
 心が感じることをやめてしまえば、こんなにも楽なのだと、メリッサは初めて知った。

 雑兵たちに蹂躙された夜ですら、まだ怒りがあった。恐怖も、絶望も、僅かにだが生きたいと願う心も残っていた。だが今は、そのどれもが消えてしまっている。燃え尽きた後の灰が、風も起きず、ただ静かに積もっている。

 ――これでいい。

 そう思おうとした。
 けれど、『いい』と思うための力さえ残っていなかった。
 横顔に視線を向けることはなかった。
 すぐ隣に彼がいるのに、心はどこにも結びつかない。伸ばせば届く距離にあるのに、もう触れたいとも思わなかった。どうせ、その手は振り払われるのだから。
 ただ虚ろな瞳で、流れ去る景色を見つめ続ける。
 その目には最早、海の色も、空の青さも映ってはいなかった。

 助手席に座る少女の横顔は、まるで彫像のように動かなかった。
 青白い肌、虚ろな瞳。そこには感情の波立ちさえなく、静かにすり減り、すでに限界を超えてしまった魂だけが座っているように見えた。
 シオンは視線を落とし、拳を膝の上で固く握った。
 声をかけたい。励ましの言葉でも、慰めの言葉でも、何かを口にしてやりたかった。だが、どんな言葉も、彼女にとっては新たな痛みになるだけだと分かっていた。

 ――そなたをここまで追い詰めたのは、この私だ。

 その事実が胸の奥で静かに重くのしかかる。
 セージと名乗り、彼女の傍にいた時、彼女はいつも笑っていた。小さな冗談に目を細めたり、子どものように無邪気に笑うことさえあった。それを思い出せば思い出すほど、今の姿は痛烈に胸を抉った。
 窓の外には、白い陽光を受けてきらめく海が広がっている。だが、その光は彼女の瞳には映っていない。心を閉ざした彼女にとって、この世界はただ通り過ぎていく風景にすぎないのだろう。

 ――声をかければ、壊れてしまう。
 ――声をかけなければ、遠ざかってしまう。

 シオンは喉元までせり上がった言葉を、苦い鉄の味と共に飲み込んだ。
 彼の横顔は静かで、何も語らない。その沈黙の裏で、罪と後悔だけが、彼を内側からじわじわと蝕んでいた。

 聖域医療班の研究所は、外界の陽射しとは無縁の無機質な灯りと静寂に包まれていた。白い硬質な壁、消毒液の匂い。窓はなく、ただ整然と並んだ器具や資料が、ここが感情を排した実験の場であることを雄弁に物語っている。
 椅子に腰掛けたメリッサは、まるで糸を失った人形のようだった。背筋は辛うじて伸びているが、瞳はどこにも焦点を結ばず、唇には色も熱もなかった。
 数日前まで海風と陽光の下で明るく笑っていた少女の面影は、そこにはない。
 アフロディーテは立ち尽くした。
 メリッサの沈黙、その虚ろな眼差しに息を呑む。
「メリッサ、私で良ければ話をきくよ?」
 柔らかく問いかけた声には、いつもの気品も余裕もなかった。驚きと戸惑い、そして痛みが混じっていた。
 しかし、返ってきたのは小さな首の振りだけだった。唇は閉ざされたまま、声を生む力はとうに失われている。
 アフロディーテの胸に、苛立ちにも似た無力感が広がった。彼が放つ花々のような鮮やかな言葉も、この少女の凍りついた心を溶かすことはできないのだ。
 その様子を、シオンは一歩離れた場所から見つめていた。視線は氷のように冷たく、それでいて底知れぬ悔恨を湛えている。彼女をこの場に連れてきたのは他ならぬ自分であり、その結果がこの有り様だ。

 ――そなたの笑顔を、私が奪った。

 心の奥で呟いた言葉は、誰にも届かない。

 研究所の時計が静かに刻を打つ。白い蛍光灯の下、少女は沈黙を貫き、男たちはただその沈黙の重さに押し潰されていった。
 研究室の空気は冷たく澄み切っている。蛍光灯の白い光が、整然と並んだ器具や試料の瓶に反射して、緊張感をさらに強める。
 メリッサは椅子に座ったまま、指示に従い淡々と手を動かす。試験官が『その試料に小宇宙を注入して』と告げれば、手順通りに注入する。だが、目は虚ろで、内面の揺れはまるで外に出てこない。呼吸も整然としており、感情の乱れはない。
 一方、アフロディーテは自らの小宇宙を送り、対象植物と柔らかく接続する。指先に伝わる微細な反応に目を細め、表情に緊張と集中が混じる。小宇宙の強弱を調整しながら、植物の反応を探る。その一挙手一投足に、研究員たちは感嘆の声を漏らす。
 メリッサはそれを横目で見て、淡々と指示をこなすのみだ。試験官が質問を投げかけても、答えは短く、機械的。自発性がまるで欠落しているように映る。
 「評価結果としては、機械的遵守は十分。しかし、自己発動による触媒作用は認められず。自発性の欠如が課題。」
 研究者の冷静な声が部屋に響く。

 メリッサは頷くだけで、感情を露わにすることはない。手順を完了したという事実だけが、存在の確認のように残る。
 アフロディーテは彼女の傍らで小さく息を吐いた。
 「…メリッサ、君の小宇宙は十分に強い。ただ、心が閉ざされている限り、最大限の能力は発揮できないよ」
 メリッサは目も動かさず、静かに頷く。返す言葉はない。
 シオンの顔が思い浮かぶ。優しさも、温もりも、もう届かない距離にある。
 試験の時間は淡々と流れ、白い光の下で、二人の小宇宙は静かに測定され続けた。
 一つの光、一つの波動、全てが正確に、しかし冷たく評価されていく。

 時間にして一刻ほどだろうか。
 冷たく整った研究室に、小宇宙の測定結果が次々と印字されていく。白い紙が機械から吐き出され、研究員たちはそれを無言で回し読みし、細い鉛筆で数字に下線を引いたり、記録表に転記していく。
 「魚座黄金聖闘士の小宇宙、触媒効果は安定的。ただし反応速度は鈍い」
 「…対して、彼女の小宇宙は――」
 紙を持った研究主任が小さく息を呑む。
 「強い反応だ。植物のエネルギー伝達が顕著に増幅されている。触媒としては、彼女の小宇宙が最適と判断できる」
 静かな声だったが、その場の空気が僅かに揺れる。アフロディーテも視線を落とし、無言でメリッサの横顔を見た。
 だが当のメリッサは反応しない。白衣の人々の言葉も、結果も、全て彼女には遠い世界の音にしか聞こえなかった。
 「ただし――」
 研究主任の声が再び響く。
 「自発性の欠如が顕著である。彼女は外部の指示に従い正確に小宇宙を用いることはできるが、自己の意志でそれを起こそうとはしない。触媒能力は顕著ながら、この心理的状態では継続使用に耐えられない可能性が高い」
 冷静な言葉に、誰も反論できなかった。
 アフロディーテが小さく首を振り、低く呟く。
 「…メリッサ。君はただの器じゃない。君の心そのものが力なんだ。だが、その心が閉じている限り……」
 メリッサは俯いたまま動かない。頬にかかる髪の陰に、表情は隠れてしまっている。
 研究員たちは記録をまとめ、判定を報告書に書き込む。

 ――触媒として最適、小宇宙の適合率は高い。
 ――しかし、精神的要因により発揮は不安定。

 シオンのもとへ、この報告が届けられることになるだろう。
 彼女をこれ以上巻き込みたくないという彼の思惑とは裏腹に、結果は冷徹に『メリッサが必要だ』と告げていた。
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