Eine Kleine

 海の匂いがする朝。
 水面の揺らぎが空を映していた。港町の朝は早い。薄明のうちから船が出て、空の白みと共に市場に魚が並ぶ。
 潮騒にまぎれて聞こえてくるのは、魚の箱を運ぶ木箱の軋み、男たちの威勢のいい声、そして、パキッ、と乾いた音を立てる氷の破片。
「ほら、ここ、もっと詰めて。サバ、しっぽは見えないように入れてね」
 威勢のいい声に振り返れば、栗色のショートヘアを揺らした少女が、発泡スチロール製の箱を抱えて走り回っていた。
 市場の看板娘――それがメリッサのもう一つの顔だった。 
 見る者をどきりとさせるほど、大きく澄んだ蜂蜜色の瞳は、どこか大人びている。だが、その声は高く弾み、仕草には明るさと、年齢相応の茶目っ気がある。
「いらっしゃい!今日のカレイは肉厚だよ、おじさん!」
 今日もメリッサの声は市場で元気に響いていた。
 その日、市場に“彼”が現れたのは、日が高く昇ってからのことだった。
 客足も一段落し、メリッサが手を止めて額の汗を拭ったとき、不意に背後から声がかけられた。
「魚を買いたいのだが――ここで良いか?」
 振り返った瞬間、メリッサの動きが止まった。
 陽を受けて煌めく長い金髪。だが、光の加減でその色は青とも緑ともつかない淡い彩を帯びていた。背の高い、とても品のある男だった。白いシャツの袖をまくり、ひときわ深い菫色の瞳が、メリッサをじっと見ている。
「魚……え?あ、うん、ここで合ってるよ」
 思わず目を瞬いたメリッサは、慌てて笑顔を作った。
「もう雑魚しか残ってないけど、それでもいい?」
「問題ない。それで構わない」
 男の声はよく通るが、どこか芝居がかった調子だった。高貴な雰囲気を纏っていて、市場という場所には酷く不釣り合いだった。
「そうなの?……お兄さん、観光客?それとも、料理人さん?」
「……セージと言う。買い物に来ただけだ」
「セージ……なんか、ハーブの名前みたいだね」
「それはよく言われる」
 返す声に、どこか自嘲の響きがあったような気がして、メリッサは箱詰めの手を止める。
「じゃあ、このへんの小魚、氷詰めにしとくね。ちょっと待ってて」
 彼女はてきぱきと動き、雑魚を丁寧に分けて発泡スチロールに詰めていく。その間も男はまったく動じず、静かに佇んでいた。
「はい、どうぞ。これ、意外と重いけど……」
 差し出された箱を、男――セージは片手で軽々と持ち上げた。
「ふむ。丁寧な仕事だ。礼を言う」
「えっ、そんな軽々と……!?お兄さん、スゴイね!」
 思わず問いかけてしまうが、セージは口の端を少しだけ上げて言った。
「次回は、もっと早く来るとしよう。良い魚が残っているようにな」
「そ、そうして。開場のときなら、もっと選べるから」
 セージは頷くと、踵を返す動作一つでさえ優雅に、軽快な足取りで去っていった。その背を見送りながら、メリッサはぽかんと口を開ける。
「……なんなの、あの人……」
 不思議な男だった。やけに偉そうで、妙に礼儀正しくて、そしてどこか浮世離れしていた。けれど――なぜか、記憶に残る声だった。光の中で髪が揺れた瞬間の、どこか懐かしいような匂いも。
 数日後、彼はまた現れた。
 今度は開場とほぼ同時だった。ひときわ目立つその容貌は、地元の漁師たちの視線を集めていた。
「メリッサちゃん、あれ……こないだの男じゃねえか?」
「ほんとだ。今日は早いじゃん」
 彼女は笑いながら声をかけた。
「おはよう、セージさん。今日の魚はばっちりだよ。何が欲しい?」
「この箱のもの、全てもらおう。二箱分だな。全て持ち帰る」
 セージはボディバッグから財布を取り出すと、現金をメリッサへ手渡した。
「ふ、二箱!?ちょ、待って。さすがに重たいから、配送した方が――」
「いや、構わぬ。持てる」
 またもや当然のように、彼は発泡スチロールの箱を片腕ずつで持ち上げた。メリッサは目を丸くした。
「……あのね、普通は無理だよ、それ……!?」
「ありがとう、メリッサ。また来る」
「あっ、ちょっと!」
 振り返らず、彼は歩いて行った。紫色の瞳の残像が、太陽の下で溶けていく。
「あたし…名前、教えたっけ……?」
 市場の喧騒が戻ってきたとき、メリッサは息を吐いた。
「え、なんなの……ほんとにあの人……しまった!お釣り渡してない!」
 釣り銭を掴み急いで追いかけたが、時既に遅く、セージという名の青年は、人波の彼方へ消えていた。

 その日の午後、教皇宮の回廊に魚の匂いが漂った。潮と氷の混じったような、湿った香り。
 書簡を手に歩いていたサガは、角を曲がった途端に眉をひそめた。
「……まさか」
「帰ったぞ。良い品だった」
 羽織っている白いシャツの裾を翻して現れたのは、いつものように涼しげな顔をした教皇シオンだった。だがその両手には、明らかに場違いな白い箱が抱えられていた。魚市場でよく見かける、あの発泡スチロールの箱である。そして、魚の匂いはそこから発せられていた。
「また港町へ行かれてたのですか……?」
「ああ。お前たちにも新鮮な魚を食べさせたいと思ってな」
 サガは深くため息をつき、手にしていた書簡を無言で抱え直した。
「……どうぞ、ほどほどに願います。教皇が魚くさいのは、少々……体裁が悪いかと…」
「この魚で夕餉を賄えば、皆の疲れも取れるだろう」
 明るい調子でそう言うと、シオンは足元の滴を一瞥し「ここは私が掃除しておく」と言い残し、軽やかに歩を進めた。
(全く…困ったものだ…)
 サガはその背を見送りながら、こめかみを軽く押さえた。
 彼がなぜ、そこまでして港町に通うのか。真の理由をサガは知らなかったが、ただの気まぐれや慈善心とは思えなかった。
 実際、シオンの心を占めているのは“関心”だった。
 薬師の島に縁深い唯一の血筋。かつての聖域が“咎”とし、表立って触れることを避けてきた家系。その末裔が、港町で生きている――まるで、そこに置き去りにされた記憶を体現しているかのように。
 それがメリッサだった。
 18歳の彼女を市場で見たとき、シオンの胸を掻きむしるものがあった。彼女の視線。人に向けられるときの明るさと、ふとした瞬間に灯る翳り。その奥に、長く静かに沈んでいた傷のようなものを感じた。
「聖域の“忘れ物”だな、あの娘は……」
 誰にともなく漏らした言葉が、教皇宮の高い天井に吸い込まれていった。

 メリッサが次にセージに再会したのは、それから一週間ほど経った夕暮れ時だった。
 港の夕暮れは、静かな金色に包まれていた。
 潮風が石畳の小道を抜け、市場のランタンをかすかに揺らしていく。行商人たちの声も、今はもうほとんど残っていなかった。
 船着き場の近く、小さな石造りの階段の縁に、セージと名乗った男が腰を下ろしていた。
 ビニール袋の中から野菜と果物が覗いている。それと魚の尾びれも。
 メリッサは、少し離れたところに立っていた。市場で見かけたときと同じ、控えめだが芯のあるまなざしで彼を見ている。
「また来たんだね。良かった」
 メリッサは腰に巻いている、スポーツブランドのロゴ入りバッグからビニールの小袋を取り出した。
「この前のお釣り。渡し忘れてたの。ごめんね」
「それは気付かなかった。ありがとう」
 釣り銭を受け取ったセージは、菫色の瞳を細め、柔らかに微笑んだ。
「港町は居心地がいい。魚も、野菜も、果物も、空も、香りも、どれも素晴らしい――それに、そなたがいる」
「……どうしてそんなにさらっと言えるのかな、そういうこと」
 メリッサは肩をすくめたが、その目はどこか楽しげだった。近くに腰を下ろすと、紙袋に包んだパンを差し出した。あまりに自然な仕草に、セージは少し驚いたように眉を上げる。
「売れ残り。もらいものだけど、どうぞ」
「ありがたい。そなたの手から渡されたものなら、なおのこと」
「……本当に変な人」
 けれどその声には、どこか愉快そうな音色が混ざっていた。
 沈黙がひととき、二人の間に流れた。
 港に沈む夕陽が、空と海とを同じ色に染めている。船の帆が柔らかく揺れていた。そのうちの何隻かの船には、聖域の紋章が描かれた旗がはためいている。
「あの旗は……?」
 セージが指差す。
「この町はさ、古くから聖域に信仰を持っているんだよ。聖域っていうのは、平たく言うと宗教団体みたいなもの」
 メリッサが言った。
 セージは、パンの端をちぎって口に運びながら、黙って続きを待った。
「でも……例外もあるけどね」
 それだけを言って、彼女はパンを齧った。それ以上を語るつもりは、今はないという静かな拒絶のようにも聞こえた。
 セージは、それに頷くだけだった。無理に言葉を引き出そうとはしない。ただ、風に舞う髪が彼女の頬をかすめるのを、そっと目で追った。
「……じゃあ、そろそろ戻らないと」
「そなたの家まで送ろう」
「ううん、ここで大丈夫。まだ明るいから」
 立ち上がりかけた彼女の足元に、一陣の風が舞った。
 その風の音にかき消されるように、セージがつぶやく。
「また来る」
「いつでもどうぞ」
「世辞でもそう言われると嬉しいものだ」
 返ってきた答えには、微かな笑みが滲んでいた。

 夕刻、教皇宮の階段を上がってきたシオンの姿に、サガは思わず眉をひそめた。
「また港町へ行かれてたのですか?」
 教皇の法衣ではなく、街で見かける若者のような流行りの服。手にはビニール袋。やはり中から魚の香りが漂っている。
「ああ。お前たちにも、新鮮な魚を食べさせたいと思ってな」
「……どうぞ、程々に。次は私に一言お声がけを」
 サガは視線を落とし、ため息交じりに言う。その後ろから、アイオロスが鼻をくんくんさせて顔を覗かせる。
「おや、これは……今晩の食卓に期待できそうですね」
「焼きでも煮込みでも好みで良い。港の老婦人に勧められてな、これが一番うまいと言っていた」
「お、それは“トリグオス”ではありませんか。アイオリアが好きな魚です」
「ふむ。では、彼にも届けてやってくれ」
 そう言って、シオンはアイオロスへビニール袋を手渡すと、ゆっくりと階段を上っていった。
 その背中を見送りながら、サガは小さくつぶやく。
「……教皇が市場通いとは、世も末だな」
 アイオロスは肩をすくめて笑い、ビニール袋を手に厨房へと向かった。

 セージは、週に1、2度姿を見せるようになった。
 会えば決まって、彼は小さな土産を持っていた。時には月桂樹の葉を練り込んだパン。またある時は、ドライフルーツとクルミがたっぷり入った焼き菓子。メリッサが「どこでこんなの買ってくるの?」と聞けば、彼は少し考えるような顔をしてから、「古い友人から教わった」とだけ答えるのだった。
 彼は不思議な人だ。
 この前は閉場した後の市場で、数匹の猫を侍らせてご満悦そうだった。
 長く豊かな金髪の毛先を、猫がハグハグ言いながら齧っていても、決して嫌がることはなく「食べ物ではないぞ」と言いながら、その髪で猫たちをじゃらしていた。そう言えば、彼自身も猫に似ているように思う。大型で長毛の純血種なんかがぴったりだ。
「ほんっとに変わった人だよね、セージくんって」
 初めのうちは「セージさん」と呼んでいた。けれど数週間も経ったある午後、ふいに「セージくん」と呼び方を変えた彼女に、彼はわずかに目を瞬いた。
「……呼び方が、変わったな」
「え、あ……なんとなく。“さん”って呼ぶほど大人びてもないし、あたしと同じくらいだなって思ったから」
「同じくらい……か」
 その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。そう、彼の肉体年齢は確かに“同じくらい”だった。だが、真実の年月は、その軽やかな笑みに背負わせるにはあまりにも重すぎた。
 それでも、彼は笑った。心の底に真実をひっそりしまい込むようにして。
 「私は、18だ」
 メリッサの顔がぱっと輝く。
 「ほんと?あたしも!」
 目を細めて無邪気に笑うその顔は、港町の陽差しよりも明るく眩しく、目を逸らすことができなかった。
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