真夏の海と不機嫌なマーメイド

 海から上がってきたメリッサと、はた、と視線が合った。彼女は濡れた髪を頬に張り付かせたまま、少し乱暴な手つきでゴーグルとスイムキャップを外すと、こちらへ向かってまっすぐ歩いてくる。その表情を見た瞬間、シオンには何となく嫌な予感がした。
「メリッサ!」
 ようやく戻ってきた恋人の姿に、シオンは立ち上がると、両側に侍る女性たちから逃れるように彼女のもとへ歩み寄った。
「お帰り、メリッサ。随分遠くまで泳いでいたな」
 そう言って濡れた身体をそっと抱き寄せる。ところが、腕の中に収まったメリッサは嬉しそうに笑うどころか、ぷうっと頬を膨らませていた。
「……随分といいご身分だね、シオン様。あんなキレイなお姉さんたちに囲まれて、楽しそうじゃないの」
 尖らせた唇からこぼれる言葉には、隠そうともしていない不機嫌さと、恋人に対する拗ねた気持ちが滲んでいる。
 シオンは一瞬、言葉を失った。
 メリッサが先ほどのやり取りを最初から見ていたわけではないことは分かる。沖から戻ってくる途中で、砂浜にいる自分の姿を見つけたのだろう。しかし、二人の女性に両側から腕を絡ませられ、身体を寄せられているところだけは、どうやらしっかりと目撃されていたらしい。
 まずは彼女の機嫌を直すことから始めなければならない。
 シオンは困ったように眉を下げながらも、目の前であからさまに拗ねている恋人がどうにも愛おしく感じられ、思わず表情を和らげた。濡れた栗色の髪にそっと手を添え、海水で絡んだ毛先を慈しむように撫でる。
「何が楽しいものか。私は大いに困っていたのだぞ?」
「どうだか。あんなに熱心に腕にしがみつかれて、悪い気はしなかったんじゃないの?」
 メリッサは上目遣いにシオンを睨む。
 その視線には怒りというより、好きな人を取られたくないという気持ちがそのまま表れていた。
 シオンはそんな彼女を見つめ、わずかに口元を緩める。
「そんなはずあるまい。あのような恥じらいのない者に、私が惹かれると思うか?」
「……本当に?」
「ああ」
 シオンは迷いなく答えた。そして、まだ少し膨れたままの頬に指先を添える。
「私が唯一心を奪われているのは――他の誰でもない、ここにいる不機嫌なマーメイドだけだ」
「……マーメイド?」
 メリッサが瞬きをする。
「そなたは海の中では人魚そのものだったぞ。あれほど楽しそうに泳ぐ姿を見せられて、他の誰に目を向けるというのだ」
 さっきまでの不機嫌そうな表情が、少しだけ揺らいだ。
「……でもさ」
「まだ何かあるのか?」
「シオン様は口が上手だもん」
 メリッサはそう言うと、ぷい、と顔を背けた。濡れた栗色の髪から大粒の雫がぽたり、ぽたりと落ち、足元の砂に小さな染みを作っていく。腕を組んだまま明後日の方向を見つめる姿は、どう見ても機嫌を直すつもりがないらしい。
「メリッサ……」
 呼びかけても返事はない。
 シオンは額に手を当てた。冥界三巨頭を相手にした時ですら、もう少し話が通じた気がする。
 少なくとも、こちらが何かを説明すれば、それが敵対する意見であろうと一度くらいは聞く耳を持ってくれたはずだ。ところが今のメリッサには、いくら言葉を尽くしても暖簾に腕押しである。
「私は本心を述べているのだがな……」
「はいはい」
 間髪入れずに返ってきた。しかも、これ以上ないほど信じていない声だった。
 シオンは口を閉ざした。
 何を言っても逆効果らしい。
 美しいと言えば「口が上手い」と言われ、他の女性には興味がないと伝えれば「どうせあたしを安心させるために言ってるんでしょ」と返される。かといって黙っていれば、それはそれで何を考えているのか分からないと言われそうだ。
 聖域の教皇として、言葉を武器に幾多の難局を乗り越えてきた自分が、たった一人の恋人を前に完全に手詰まりになっている。
 何とも皮肉な話だった。
 シオンは隣に立つメリッサを見つめる。
 相変わらず顔はこちらを向かない。けれど、組んだ腕に力が入っているわけでもなく、本気で怒っているというよりは、もう少し自分を気に掛けてほしいという気持ちが拗ねた形になって表れているのだろう。
 それが分かってしまうから、なおさら困る。
「……どうすれば機嫌を直してくれる?」
「知らない」
「何か望みはないのか?」
「ない」
 また即答だった。
 シオンは小さく息を吐く。
 困った。
 本当に困った。
 しかし、ここで諦めるわけにもいかない。何しろ相手は、他の誰でもない自分の恋人なのだから。
 しばらく考え込んだ末、シオンは小さく息を吐いた。どうやら今の自分が何を言っても、メリッサの機嫌を直すことはできそうにない。ならば、いったん距離を置いて頭を冷やすのも一つの手だ。
「……少し待っていてくれ」
「どこ行くの?」
 メリッサが振り返る。
「すぐ戻る」
 それだけを告げると、シオンは踵を返した。
「ちょっと、シオン様……」
 呼び止める間もなく、長身の背中が白い砂浜を歩いていく。サングラスを掛け直し、人の間を縫うように進んでいく姿は、海水浴に来た若者たちの中にあってもひときわ目を引いたが、やがてその姿は色とりどりのパラソルと人波の向こうへ見えなくなった。
「……何なの」
 メリッサは取り残されたような気持ちになり、少しだけ唇を尖らせた。
 まだ怒っている。
 そう思っていたはずなのに、シオンがいなくなった途端、胸の奥が落ち着かなくなってくる。さっきまで隣にいた人の気配がなくなっただけなのに、無人のパラソルの下が急に広く感じられた。
 シオンにくっついていた二人の女性は、いつの間にかいなくなっていた。
 メリッサはレジャーシートに腰を下ろし、膝を抱える。
 本当はシオンに怒っているわけではない。
 自分でも分かっている。
 ただ、少しだけ嫉妬してしまったのだ。
 あんな綺麗なお姉さんたちが、何のためらいもなくシオンの腕に絡みつき、身体を寄せていた。その光景を海から目にした瞬間、胸の奥がざわついて、どうにも嫌な気持ちになってしまった。
 シオンが困っていたことも、あの女性たちを自分から誘ったのではないことも、本当は分かっている。
 それなのに、彼の顔を見たらつい意地を張ってしまった。
「別に……本気で怒ってるわけじゃないんだけどな」
 膝に頬を乗せたまま、メリッサは小さく呟いた。
 返事をする人はいない。ただ、寄せては返す波の音が一定のリズムで聞こえている。
 少し離れた場所では若者たちが笑い合い、誰かが水の中へ飛び込んだらしく、大きな水しぶきが上がった。
 いつもなら楽しいはずの夏の海なのに、今はどうにも気持ちが晴れない。
 メリッサは海を眺めながら、ふと先ほどのシオンの言葉を思い出した。
 ――私が唯一心を奪われているのは、他の誰でもない、ここにいる不機嫌なマーメイドだけだ。
「……ほんと、口が上手いんだから」
 そう呟いたものの、頬が少しだけ緩んでしまう。
 信じていないのではない。むしろ、信じているからこそ、あんな女性たちに囲まれている姿を見たことが嫌だったのだ。
 自分でも少し面倒くさいと思う。けれど、好きな人のこととなれば、いつだって理屈通りにはいかない。
 メリッサは膝を抱えたまま、波間を見つめた。
 そして、もう一度だけ小さく呟く。
「……早く戻ってきてよ、シオン様」
 その声は誰にも聞かれることないまま、周囲の喧騒に掻き消された。

 メリッサは膝を抱えたまま、さっきの女性たちの姿を思い浮かべた。
(やっぱりビキニにすれば良かったかな……でも、あたしのビキニ、あんなセクシーなのじゃないし)
 実のところ、メリッサが買ったのは競泳用水着だけではない。水着売り場ではビキニの棚の前でもかなり長い時間悩んでいて、最終的には二着とも購入していた。ただ、今日どちらを着るかと考えたとき、泳ぐことを優先して競泳用水着を選んだのである。
 もう一着は、赤のギンガムチェック柄にフリルが付いた三角ビキニだった。可愛らしいデザインで、肌の露出はそれなりにあるものの、全体の印象はセクシーというより健康的でキュート。メリッサ自身も、鏡の前で試着したときには「これなら着てもいいかな」と思えた。
 もっとも、そこに至るまでには少々紆余曲折があった。
 メリッサは、自分が異性から好意を向けられやすい容姿をしていることくらいは自覚している。小学生の頃から何度となく告白された経験があり、胸が大きく、身体のラインも同年代の女性と比べて整っている方だということも、さすがに分かっていた。
 だからといって、自分をセクシーな女性だと思っていない。むしろ、どちらかといえば自分は健康的で、飾り気がなく、可愛いものの方がしっくりくる。今回だって、少しくらい普段とのギャップを狙ってみようかと、売り場では大胆なデザインのビキニを手に取ってみた。ところが、試着室で実際に身につけて鏡の前に立ってみると、想像していた以上に肌の露出が多く、自分自身が恥ずかしくなってしまった。
 結局、その水着はそっと棚へ戻した。
(無理無理。あんなの、あたしには無理だって)
 今になって思い返しても、あの判断は正しかったと思う。
 さっきシオンに絡んでいた女性たちは、身体の魅力を隠すどころか、むしろ積極的に見せることを楽しんでいるようだった。堂々としていて、自信に満ちていて、ああいう振る舞いが自然にできるのは素直にすごいと思う。けれど、メリッサには到底真似できそうにない。
 自分の女性らしさを前面に押し出して、好きな男性の前で堂々とアピールするなんて、考えただけで顔が熱くなる。まして、それをシオンに対してやれと言われたら、彼がさっきの女性たちの誘いに応じるのと同じくらい、自分にとっては無理難題だった。
 そもそも、あんな布面積の小さなビキニを自分が着たところで、シオンの反応はだいたい想像がつく。
 たとえば、二人きりの更衣スペースで着替えを終え、「どう?」と振り返った瞬間。あるいは、パラソルの下で着ていた服を脱いで水着が見えた瞬間。
 シオンは一度こちらを見て、数秒ほど固まったあと、きっと困ったように眉を寄せる。そして何を言うでもなく、自分が着ていたシャツを脱いでメリッサの肩に掛けるか、近くにあるバスタオルを身体に巻き付けてくるに違いない。
(……あり得る)
 想像すると、非常に現実味があった。
 しかも本人は大真面目な顔で、「その水着では日差しが強すぎる」とか、「身体を冷やさぬように」などと、もっともらしい理由を並べるのだろう。そして自分はきっと、「水着の意味がない!」と抗議する。
 やっぱり、競泳用水着で正解だったのかもしれない。少なくとも、これならシオンが妙な心配をすることもないし、自分だって思いきり泳げる。
 そう考えてから、メリッサはふと海の向こうへ視線を向けた。
 それでも――
 赤いギンガムチェックのビキニを着た自分を見たシオンが、どんな顔をするのか。
 それだけは、少し気になった。

* * *

 シオンが立ち去ってから、思ったよりも時間が経っていた。最初はすぐ戻ってくるものだと思っていた。本人もそう言っていたし、シオンの性格からして、わざわざ嘘をつくとも思えない。
 数分ほど待てば姿を見せるだろうと考えていたのだが、海岸を見渡しても、あの美しい金髪の長身の姿はどこにも見当たらなかった。
 メリッサはパラソルの下で膝を抱えたまま海を眺める。波は変わらず寄せては返し、人々の笑い声も途切れない。
 周囲には楽しそうな光景が溢れているのに、自分だけ取り残されたような気分だった。
「遅いなあ……」
 ぽつりと呟く。
 怒っているわけではない。たぶん。いや、少しは怒っているかもしれない。でも、それ以上に寂しかった。
 一緒に泳ぎたかったのだ。
 シオンは本格的に泳ぐつもりはないと言っていたが、水遊びくらいなら付き合うと言っていた。せっかくムウから借りたサーフパンツまで履いてきたのだから、波打ち際で水を掛け合うくらいはできたはずである。それに、砂のお城だって作りたかった。
 子どもみたいだと言われるかもしれないが、海へ来ると何故かやりたくなるのだ。小さくても良い。二人で城を作って、堀を掘って、潮が満ちてきて崩れるまで眺める。
 そんなくだらないことが楽しい。
 名物のレモンシャーベットも食べたかった。この時期に海岸の売店や港の市場で売られている名物で、本物のレモンの皮を器にした冷たいシャーベットだ。爽やかな酸味とハチミツの甘みが絶妙で、子どもの頃から大好きだった。それを、シオンにも食べさせたかった。
 けれど。
「どれもできなかったな……」
 思わず唇が尖る。
 もちろん、シオンが悪いのではない。何か考えがあって席を外したのかもしれない。
 それでも、一緒にやりたかったことを頭の中で並べているうちに、少し切ない気持ちになってしまう。
 メリッサは立ち上がった。
 じっとしていても仕方がない。
 どうせ待つなら何かしていた方がいい。
 そう考えて、波打ち際に近い湿った砂の場所へ移動する。
「……よし」
 しゃがみ込み、両手で砂をかき集める。
 まずは土台だ。
 乾いた砂では崩れるので、少し湿った砂を選んで山を作る。ぎゅっ、ぎゅっと手のひらで押し固めながら積み上げていく。
 気付けば随分真剣になっていた。
 塔はどう配置するか。
 城壁はどのくらいの高さにするか。
 堀には海水を引き込もうか。
 子どもの頃から何度もやっている作業だが、考え始めると意外と奥が深い。
「ここをもう少し高くして……」
 独り言を呟きながら作業を続ける。しかし、一人で作っていると、どうしても隣にいるはずの人物を意識してしまう。
 本当なら、今頃はシオンが隣で呆れた顔をしながらも付き合ってくれていたかもしれない。
『そなたは本当に十九歳か?』
 などと言われたかもしれない。
『シオン様だってやってみたら楽しいって』
 笑いながら反論するのだ。
 結局、誰より真剣に城壁の強度を考え始めるのはシオンの方だったりして。
 そんな光景を想像してしまい、メリッサは小さく笑った。だが、その笑みはすぐに寂しさへ変わる。
 砂山の頂上を指で整えながら、ぽつりと呟いた。
「……早く戻ってきてよ」
 シオンはまだ戻らない。

 気付けば、砂の山はかなり大きくなっていた。
 両手で砂を積み上げ、形を整え、崩れた部分を補強する。その単純な作業を、メリッサはほとんど無意識に繰り返していた。
 本来なら楽しいはずだった。子どもの頃から好きだった砂遊びだ。けれど今は違う。
 隣にいてほしい人がいない。
 それだけで、同じ景色も、同じ海も、すべてが色褪せて見えた。
 シオンは「すぐ戻る」と言った。だから待っていた。待っていれば戻ってくると思っていた。なのに、なかなか戻ってこない。
 海岸は相変わらず賑やかだった。
 そこかしこから若者たちの笑い声が聞こえる。波打ち際では恋人同士らしい男女が水を掛け合っている。少し離れた場所では家族連れが砂の城を作っていた。
 どこを見ても楽しそうで、自分だけ取り残されたような気がした。
「……っ」
 鼻の奥がつんと痛む。
 視界が滲む。
 駄目だと思った時にはもう遅かった。
 ぽろり、と涙が零れ落ちる。
 慌てて拭ったのに、次の一粒が頬を伝い、その次も、その次も続いた。
「……なんで」
 自分でも分からない。
 怒っているわけではない。
 嫌いになったわけでもない。
 それなのに胸の奥が苦しくて、どうしようもなく寂しい。ぽろぽろと零れた涙が砂山の斜面に落ちる柔らかな砂はそれを受け止め、吸い込んでいった。
 メリッサは唇を噛む。
 泣くつもりなんてないのに。
 泣きたくなんてないのに。
 こんなことで泣くなんて子どもみたいだ。
 そう思うのに、涙はなかなか止まらない。
 手元の作業へ意識を向ける。砂を固めなければ城は崩れてしまう。
 メリッサは脱いでいたスイムキャップを手に取った。本来の使い方ではないが、即席の容器としては十分だった。
 立ち上がって波打ち際まで行き、海水をすくう。水面をすくった瞬間、太陽の光を受けた海がきらきらと揺れた。その輝きさえ、今は遠く感じる。
 戻ってくると、砂山へ海水をそっとかけた。乾いた砂が色を変え、しっとりと締まる。
 また波打ち際へ行く。
 また海水をすくう。
 そして砂へかける。
 黙々と。ただ黙々とメリッサはそれを繰り返した。
 頬には涙の跡が残っているが、それを拭おうともしない。ただ砂山だけを見つめ、城を作り続ける。
 まるで何かに夢中になっていなければ、胸の奥の寂しさに押し潰されてしまいそうだった。
 指先で表面を整えるそのたびに涙が落ち、砂へ消えていく。
 波音は変わらず穏やかだった。青い海も、真夏の太陽も、周囲の笑い声も何一つ変わらない。
 変わったのは、自分の気持ちだけだった。
 メリッサはうつむいたまま、震える声で小さく呟く。
「……シオン様のばか」
 もちろん、本気でそう思っているのではない。それでも今は、そう言わずにはいられなかった。
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