キオクノカケラ
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アミリアが目を覚ましたのは、東の空が白み始めたころだった。隣を見ると、すでに愛しい男の姿はなく、寝乱れた寝具はとうに冷えてしまっていた。
まるで夢のような一夜の出来事だった。それでも、シーツに微かに残る薔薇の香りと胸元に付けられた紅い痣、そして破瓜の痛みが夢でなかったことを教えてくれる。
アミリアは痛む体を労わるように、アルバフィカとの情事の余韻が消えてしまわないように、ゆっくりと身支度を整えた。
聖域から遠く離れた保養地にある離宮。教皇からの進言に従ってこの地にやってきた。
もう、冥王は覚醒したのであろう。アミリアの目には、聖域を覆っていく闇がはっきりと見える。
「アルバフィカ君…」
情を交わした魚座の黄金聖闘士は今頃戦火に身を投じているのだろう。
その身を案じることしかできない己がもどかしい。不安で胸が押し潰されそうだ。
小宇宙の探索─
脳裏に浮かんだのは、聖域にいた頃から決してするまいと思っていた事。対象の吉事も凶事も、神の力をもってすれば容易く知る事ができる。
「…私の力が及ぶことであれば手助けしたい…」
アミリアは人払いを済ませると、聖域方向を臨めるテラスに立った。目を閉じ、意識を集中させる。アルバフィカの小宇宙ならすぐに探し当てられる。
『…!闘っているの!?でも、聖域の外れの方…。冥闘士の侵入を阻止するつもりなんだわ』
アルバフィカの近くに複数の冥闘士の小宇宙を感じる。だが、あの程度であれば、彼にとっては全く問題にならないはず。ただ…
『一人、とても強い小宇宙を持っている冥闘士がいるわ…もしかして、三巨頭!?』
アミリアが感じたのは、まさに冥界三巨頭の一人、天貴星グリフォンのミーノスの小宇宙だった。
アルバフィカの小宇宙が強くなった。そして、いくつかの冥闘士の小宇宙が消えた後に、漆黒の強大な小宇宙が膨れ上がるのを感じた。ミーノスが自ら参戦したのだった。
巨大な小宇宙と小宇宙のぶつかり合いが続く。黄金と漆黒のせめぎあいが続くが、徐々にアルバフィカの形勢が不利になっていく。
そして─
漆黒の小宇宙を持った冥闘士が、聖域から離れたのが感じ取れた。一方でアルバフィカの小宇宙は弱っている。
『アルバフィカ君!!』
アミリアは必死にアルバフィカに呼びかけた。
『アルバフィカ君!聞こえる!?アミリアよ!アルバフィカ君!!』
『…アミリア?どうして…?』
『良かった。わかるのね?ねえ、大怪我しているんでしょ?大丈夫!?』
『全身の、骨が…砕けている…』
「!!」
その言葉で、アミリアは心臓が握りつぶされるような感覚に襲われた。
瞳から大粒の涙がボロボロと零れ出す。
『ああ…アミリア、君は今、泣いているんだね。でもね、私は大丈夫だよ…。だから、泣かないで…』
自身の身が死に瀕しているというのに、アルバフィカはアミリアに優しい言葉をかけ労わってくれる。
せめて、この体が動けるようにしてくれないか─
アミリアには分かっていた。怪我を治せばまた彼が闘いに赴くことも、その中で命を落とすであろう事も。それは嫌だ。だが、怪我を治さなければ、彼はそのまま息絶えてしまうだろう…。
アミリアは奥歯をギリッと噛みしめた。自分も覚悟をしなければ。
『…分かったわ』
アミリアは聖域に向けて、アルバフィカに向けて意識を集中した。
アルバフィカと愛し合った夜、彼の体に何箇所か加護印を付けておいたのだ。
アミリアの小宇宙の高まりに呼応するように、アルバフィカの体に刻まれた加護印が光りだす。
泉が湧きだすように、温かい光が次々と溢れ出してくる。
全身の痛みが薄れていく。腕を、脚を動かすことができる。
『ありがとう、アミリア…。もう、いいよ。私は、奴を倒しに行く』
『ええ、お行きなさい。武運を祈っています』
再び相まみえたアルバフィカと冥闘士の小宇宙。命の全てを燃やすかのようにアルバフィカの小宇宙が膨れ上がった。そして、漆黒の小宇宙が一つ消えた。アルバフィカの小宇宙も、最早消え入りそうなほどまでに弱まっていた。
「…アルバ、フィカ…」
アミリアの頬をとめどもなく涙が流れていく。
『アミリア…。君の、お陰だ…。ミーノスを…倒せた…。でも、もう、さよならだ…』
『っ!嫌よ!!そんなこと…言わないで…』
『愛しているよ、アミリア。心から…』
そして、アルバフィカの小宇宙は地上から消えた。
聖戦の結末がどうだったかなんて興味がない。目の前にある現実は、ただ残酷な色で私を苦しめ続ける。
冥王軍との闘いは熾烈を極めた。聖闘士達は次々と倒れ、勝利と引き換えに多くの命を失った。アミリアの恋人も、まだ若い命を儚く散らした。
「ヘスティア様、聖域より遣いの者が参っておりますが…」
「…そうですか。サラ、貴女がお相手なさい。私は体調が優れません」
聖域からの遣い?今更自分に何の用があろうというのか。もう、あそこに戻る意味もないというのに。
この頃、アミリアは全身の倦怠感と嘔気に悩まされていた。食欲もなく体が熱っぽい。
「風邪でも引いたのかしら…?」
おもだるい体を引きずって、ベッドに潜り込む。ゆっくり眠って体を休めたいが、眠ると夢を見る。
アルバフィカと別れる夢。今はもう、夢の中でしか会えなくなってしまった愛しい人。どんなに手を伸ばしても、決して届かない恋人。
その度に涙を流す。言葉にできない悲しみと消えることのない胸の痛み。
いつか、この喪失感と悲しみは癒えていくのだろうか…。私は、この痛みと共存していけるのだろうか…。
救われたいのは、私…。
どの位時間が経ったのだろう。女官長のサラがやって来た。
「ヘスティア様、聖域から帰還を請われました。如何いたしましょう?」
「…今更私など、必要もないでしょうに…」
聖域で生き残った聖闘士は牡羊座のシオンと天秤座の童虎だけだった。
童虎は冥王軍を封じた魔塔の監視役を、シオンは教皇として聖域の建て直しに奔走していると聞いている。
教皇職を務めるにはシオンは若過ぎる。頼るものはなく心細い思いをしているかもしれない。彼自信も過酷な喪失体験に苛まれているだろうに。
頭では分かっているが、心も体も付いていかない。
『ああ…気分が悪い…』
「サラ、下がりなさい。私は休みます。食事も要りません」
サラは何か言いたげにしながらも、一礼してから退室した。
聖域からの使者へ、サラは一通の手紙を託した。
『恐らくヘスティア様は…』
何れは聖域に戻らねばなるまい。時期は早い方が良いが、今はアミリアの体調が整わない。長時間の移動は避けたいところだ。
『牡羊座様は聞き届けて下さるだろうか』
教皇職に就いたシオンの指揮の下、聖域は少しずつだが、確実に着実に復興が進んでいた。共に闘った仲間も、自分を育て導いてくれた師も、彼らの神でさえも、既にこの世から去ってしまった。生き残りの片割れであり、親友でもある天秤座の戦士は、彼の故郷である東の国へと戻り、その地からアテナが冥闘士達を封じた魔塔の監視をしている。
自分一人の力で、これからどうして聖域を立て直せばよいのか。弱冠齢にも満たないシオンにとっては困難極まりない事であった。
聖域には、教皇以外立入ることが許されていない場所がいくつかある。その中の一つに聖なる祠がある。そこには、神話の時代にヘスティアがアテナに贈ったという『守護の炎』が祀られている。この聖火を絶やすことは即ち、国家の衰退或いは滅亡に繋がる。
シオンは教皇になった後、すぐ祠へ炎を見に行った。そこで、聖火台の一部が聖戦の影響で破損しており、火勢が弱まっていることに気がついた。このままでは、聖域の秩序と安定を維持できない。
「せめて、ヘスティア様がお戻りくだされば…」
恐らく女神がこの地へ戻りたがらないだろう事は、シオンにも容易に想像ができた。
使者を立てたが、果たして良い返事が来るかは望みが薄い。
「どうすればよいのだろうか…」
未だ座り慣れない玉座に腰を掛けて、シオンはため息をつく。
「教皇様」
そこに、ヘスティアの滞在地へ遣わせた使者が戻ってきた。
「ああ、無事に戻ったか。で、ヘスティア様は何と仰っていた?」
立ち上がりながら急かすように尋ねた。使者の男は懐から手紙を取り出しすと、シオンへ差し出した。
「ヘスティア様はご体調が優れずお目通りは叶いませんでした。ですが、女官長のサラ様より教皇様宛に親書を預かって参りました」
シオンは「ご苦労だったな」と言い手紙を受け取ると、男を下がらせた。
封蝋を外し中身を検める。
「…何だって…!?」
シオンの手が震える。
『どういう事だ…、こんな事があってはならないのに…!!』
シオンは明らかに手紙の内容に動揺をしていた。
『ヘスティア様が…、ヘスティア様が、御懐妊だと!?』
サラからの親書には、女神に懐妊の兆候がみられる事、それに伴う体調不良で床に伏せりがちである事、聖域に戻るのは待っていて欲しいという内容が書かれてあった。
「誰か!誰かいないか!?」
シオンは教皇宮の廊下を大股で歩きながら官吏を呼びつけた。
「は、教皇様。お呼びでしょうか!」
シオンの声に驚いた数人の官吏が慌ててやってきた。
「私はこれからヘスティア様の離宮へ拝謁に伺う!重大事だ!」
教皇が聖域から離れることは避けなければならないが、今は悠長なことなど言っていられない。シオンは法衣を脱ぎ棄てて牡羊座の聖衣を纏うと、光の速さでヘスティアの離宮へと飛んだ。
「これは、牡羊座様!」
「女官長のサラ殿にお目通り願いたい!」
衛兵に伝えると、近くにいた女官が慌てて迎賓の間へと案内をした。
シオンは出された茶と菓子には手を付けずに、ただサラからの親書を読み返していた。
部屋の扉が音を立てて開いた。
「大変お待たせいたしました。教皇シオン様」
サラは恭しく頭を垂れ挨拶をすると、自分も椅子に腰かけた。
「突然訪問をした御無礼をお許し下さい」
頭を下げたシオンを遮る様にサラが口を開いた。
「いえ、きっといらしていただけると思っておりました」
サラはホッとしたような声色で、気にしないようにと言った。
「サラ殿、この親書の内容なのですが…」
未だ信じられないといった風情でシオンが尋ねる。
「…間違いございません。あの後、侍医の診察を受けていただきました」
アミリアの懐妊は間違いなかった。と、なると…。
「御子の父親は…もしや…」
「…魚座様であると」
シオンは大きな息を吐くと天を仰いだ。
「教皇様、私どもはヘスティア様のご体調が整い次第、聖域に入るよう調整中でございます。ですが、神力に幾分影響が…」
シオンは眉間に指を当て、何かを考えていたが、
「承知しました。では、今暫くお待ち申し上げます。何かありましたら連絡をお願いします」
そう言うと、シオンはアミリアには会わずに宮殿を後にした。
処女神であるヘスティアが人の子を身籠った。処女である事を条件に神の特権を手に入れたと言うのに、それが失われたとなれば、サラが言うように神力の衰えがあっても何の不思議もない。もしやそのために聖火の火勢が弱まっているのだろうか。それでは聖域は…世界の国々の安寧はどうなるのだ。
シオンは心の中にもたげる不安を振り払うように大きく頭を振ると、教皇の間へ入って行った。
二ヶ月も経つと、アミリアの体調は回復してきた。食事も摂れる様になり、体を動かすことも億劫ではなくなった。
「ヘスティア様、そろそろ聖域へ戻りましょう。」
唐突とも思えるタイミングでサラが申し出た。
「サラ、私は戻る気は…」
「そうは参りません。聖域にある守護の炎が消えかかっていると聞き及んでおります。このままでは聖域は衰退していきましょう。そうなれば地上の守りも崩壊いたします。アテナ様や聖闘士達が命を賭けて守った地上です。この平和を繋がずにどうなさるおつもりですか?魚座様とのお約束がございましたでしょう」
アミリアはサラの言葉にはっとした。
アルバフィカとの約束。まだ、未来が残酷なものだと知らなかった幼い日に、立派な女神になると彼に誓った。
何時までも悲しんでばかりいられない。
『この身に宿った子に未来を繋がなければ』
アミリアは意を決した。
「サラ、速やかに聖域行きの手筈を整えなさい。早急に出立します」
「御意」
こうして、アミリアは聖域へと戻ることになった。
聖域では常に誰かが傍に付き、身重の体にも不自由のない暮らしを送れた。シオンも教皇職で忙しい身であるにも関わらず、数日と開けずに様子を見に宮殿まで足を運んでいた。
「随分と大きくなりましたね」
アミリアの腹をしげしげと眺めながら、シオンが感心した口ぶりで言った。
「ふふっ…、そうね。良く動くのよ。元気な子だわ」
胎内で動き回る子を宥めるかのように腹をさすりながら、アミリアはティーカップに口を付けた。
「もうすぐ産まれるみたいよ」
「楽しみですね。どちらに似ても、この上なく可愛らしい御子でしょう」
口ではそう言ってみるが、シオンの胸中は複雑だった。もう何年も前からこの女神には思慕の念を抱いている。女神の恋人は既に鬼籍となったが、それでも彼の武器であった薔薇の花々の様な鮮烈さでもって、未だに女神の心を離さない。
まさか、自分がその座を取って代わろうなどとは思っていないが、薔薇の刺でチクチクと刺されるような胸の痛みは覚えるのだった。
『いつまでも未練がましい事だ』
シオンは心の中で苦笑をした。
満月が煌々と輝く穏やかな晩に、アミリアは子を産んだ。
「ヘスティア様、元気な女の子でございます。まあ、お父上に良く似た可愛らしい御子でございます。間違いなく見目麗しいお嬢様にご成長あそばされますよ」
サラが赤子を抱いてアミリアに見せる。
「本当に…。あの人に、アルバフィカに良く似ている事…」
この世にこれ程までに愛おしい存在があるとは知らなかった。
あの人にもこの子を抱かせてあげたかった…。
「ヘスティア様、今宵はゆっくりとお休み下さいませ。さぞ、お疲れの事でしょう」
「ええ、ありがとうサラ。貴女もゆっくり休みなさい」
自分に付き添って長時間介抱をしていたサラ。少女の頃はあんなにも怖いと思っていた存在が、今は母の様な、姉の様な、長年の友の様な存在になった。
『サラにならあの子を託せる…』
アミリアは娘にセシリアと名付けた。
セシリアは父親に良く似ていて、とても可愛らしい。そんな娘に、かつての友の面影を偲んでか、度々シオンが会いにやって来る。
「それにしても、セシリア様はお会いするたびに可愛らしく成長されておいでですね」
シオンはいつもにこにこして、セシリアを抱っこしてくれる。
「そうね。アルバフィカも幼い頃はこういう感じだったのかしらね?」
「ははっ、そうだったかも知れませんね。『よく女の子に間違われた』と本人から聞かされた事もありますよ」
そうだった。長じて類稀なる美男になったが、初めて会った七歳のあの日…
「私も女の子と間違えたわ」
懐かしく思い出す、幸せだったあの頃。
「ほう、神の目でも見切れなかった訳ですね?」
くっくっと笑いをかみ殺すシオン。
「いえ、あの頃はまだ見習い期間でしたから…。彼には未だに申し訳なかったと思っているわ?」
苦笑いを隠さず、ティーカップに口を付ける。
「…ところでシオン」
真剣な口調になったアミリアにシオンが居住まいを正す。
「『守護の炎』はどうですか?」
「…恐れながら申し上げますが、火勢はさらに弱まってきているかと…」
「やはりそうですか…」
アミリアは目を閉じて息を吐き出すように呟いた。
「シオン、勘の良い貴方の事です。私の神力が失われつつあることは察しているのでしょう?」
「…はい」
その言葉にシオンは頷いた。
「あまり悠長にしてもいられません。今一度、火を灯しましょう」
にっこりとシオンに微笑むと「これから祠へ行きます」と立ち上がった。
シオンにはアミリアの考えを計りかねていたが、妙な胸騒ぎを感じていた。
祠に到着すると、アミリアはシオンに一通の書簡を手渡し言った。
「全てが終わったら読んで頂戴」
アミリアは手紙を持ったシオンの手を握り、慈しむように撫で擦った。
「貴方の手は綺麗ね。細くて長い指…。誰かの命を奪ったり物を壊すような手ではないわ。この手は、人を守り生かすための手なのね。シオン、貴方の手で世界を守っていって頂戴。次代の為にも…」
「ヘスティア様…!」
アミリアはシオンに背を向けると祠の中へ入り、内側から鍵を掛けた。
「さようならシオン。さようならサラ。さようなら…私の愛しい子…」
ヘスティア様は死ぬ気だ!
慌てて扉を開けようとするが、黄金聖闘士であるシオンの力をもってしても、神話の時代から神の加護を受け、更にその中央に神を取り込んだ祠は、最早びくともしない。
祠の中からはアミリアの小宇宙を感じる。神力が衰えているとはいえ、人間の自分では到底及ばない程に懐深く包みこまれる様な、温かく強い小宇宙。
シオンはなす術もなくその場に立ち尽くしていた。
アミリアは聖火台の前に進むと、目の前の炎をじっと見つめていた。遥か遠い記憶の糸を手繰る。
「そうだったわね…。神話の時代に、あの泣き虫の戦女神にあげたんだったわ…。私達がいなくとも、地上が守られるようにと…。今代のアテナもよく泣く子だったわ」
見飽きるほどに見たアテナの泣き顔を思い浮かべて、ふっと口元を緩めた。
「私達のいない時代が、また始まります。人の子よ、神の心を忘れてはなりませんよ…」
アミリアは残った全ての小宇宙を解放した。全身が白金色の光に包まれ、空間の全てが揺らめく。祠の中に満ち溢れた光は、やがて一筋の光となり聖火台に注がれる。
小さく揺れていた炎は油を注がれたようにやがて大きくなり、女神の色と同化する。
「もう…、大丈夫でしょう…」
どの位時間がたったのだろう…?
アミリアがゆっくりと扉を開けると、涙で頬を濡らしたシオンが立っていた。シオンはアミリアを認め駆け寄ると、よろめくその体を強く抱きしめた。
「ヘスティア様…!!」
アミリアはシオンの顔を見上げ、微笑んだ。
「ねえ、シオン…。貴方は優しいわね…。こんな私に、今でも想いを寄せてくれている…。誰かを悲しませる事が、こんなにもつらい事だとは、知らなかったわ…。シオン…泣かないで…」
力の入らない指先でシオンの涙を拭う。シオンは肩を震わせて嗚咽を漏らす。
アミリアの体から徐々に光が失われていく。
「!?」
抱きしめたアミリアの体が不意に小さくなった。
シオンが驚いて腕を緩めると、そこには幼い少女の姿があった。
「…これは一体?」
『シオン』
頭上から声が降ってきた。弾かれたように見上げると、そこにはまるで少女の様な風貌をした少年が一人。シオンはこの少年の面影を知っている。
「…アルバフィカ?」
『ああ。久しぶりだね、シオン。すっかり立派になったじゃないか。』
「お前、どうして…」
『…アミリアを迎えに来たんだよ』
そう言ったアルバフィカは、シオンの腕に抱かれているアミリアの手を取った。閉じられていた瞳がうっすらと開く。
『…アルバフィカ君?来てくれたの?』
『そうだよ。アミリア、よく頑張ったね。さあ、一緒に行こう。後は、生きている彼らに託すんだ。全てを…』
「待ってくれ!!」
シオンが伸ばした手は、二人の体を捕えることなく宙を掠めた。
『シオン、少しの間お別れだよ』
『ちゃんと手紙読んでね、シオン。また、会いましょうね』
初恋の日の姿に戻った恋人達は、光の塊に変わると、シオンの体を愛しむ様に、労わる様に、名残惜しむ様に包んだ。
そしてゆっくりと天高く昇っていき、夕暮れの空へと、やがて溶けて行った…。
かつての恋人との間には、一夜限りの契りで授かった娘がいた。
愛しい人と結ばれるならば神の力など惜しくないとあの時は思い、注がれる愛を受け入れた。
だがその選択は、他の大切な人を傷付けた。自分の中に残る記憶の欠片がそれを教えてくれた。
万里亜は教皇の間で倒れ、朝まで昏々と眠り続けた。
目を覚ますと天蓋付きのベッドに寝かされていた。
長い夢を見た。それは240年以上も前の夢。
「…何だか、大河ドラマでも見ていたみたい」
ドレッサーの鏡を覗くと、髪はボサボサで浮腫んだ顔の自分が映っていた。そして、眠りながら泣いていたことがはっきり分かるほど、頬に涙の痕が残っていた。
「…酷い顔。これじゃあ、誰とも顔を合わせられないわ」
部屋はスイートになっていて、バスルームとパウダールームも完備されていた。シンプルな造りが好ましい。
万里亜はスーツケースからバスアメニティを一揃い取り出すと、熱いシャワーを浴びた。自分の記憶の中にある聖域とは随分様変わりしたと思う。
私服に着替え部屋から出た。教皇宮内だとは思うが、どの辺りなのか全く分からない。仕方なく部屋に戻ると、バルコニーから外を見た。
心に馴染んだ景色が目に映る。初めて来たギリシャを懐かしく感じる奇妙な感覚。やはり自分は、かつてこの地の住人であったと確信する。
大きく息を吸い込むと、清々しい朝の空気が肺胞の毛細血管から溶け込み、全身に染み渡る。
「ヘスティア様、お目覚めでしょうか」
ノックの音に続いて声が聞こえた。
「はい。どうぞ」
ドアが開き、入ってきたのはサガだった。
「おはようございます。御気分はいかがでしょうか?昨日は突然倒れられて…。こちらの客間にお運び致しました」
「ああ、そうでしたか。それは、お手数をお掛けしまして申し訳ありません」
万里亜はペコリとサガに頭を下げた。
「いや、そういう意味で言ったのではないのですが…」
少し困ったようなサガの顔は、何だか可愛らしいと思った。昨日の様な緊張感は感じない。
サガは万里亜を食堂まで案内した。
広いその部屋は天井が高く、大きな窓からは朝日が気持ちよく差し込む場所だった。中央のテーブルには、イングリッシュブレックファーストが用意されていた。
サガが椅子を引いて、座る様に促してくれた。「ありがとうございます」と言うと、少し驚いたような顔をした後に優しく微笑んでくれる。とても素敵な笑顔だと、素直に思った。
テーブルの上には二人分の朝食が用意されている。
「あの、サガさんがご一緒して下さるんですか?」
万里亜がサガを見上げ尋ねると、サガは首を振った。
「いえ、私ではなく教皇が…」
「教皇様が?」
「はい。今朝は少々遅れておりますが…」
「そうなんですか…」
その時、廊下を走って来る足音が聞こえた。
バタン!と大きな音を立てて食堂のドアが開いた。
「教皇!」
「ヘスティア様、大変申し訳ございません。寝過してしまって…」
何かあると、ばつが悪そうに口篭りながら言うシオンは、昔と変わらない。
「ふふっ、私も今来たところです。お気になさらないで下さい」
「…相変わらずお優しくていらっしゃる」
シオンは懐かしそうに目を細めて万里亜を見る。
過去、シオンと食事を共にした事があった。何処かの晩餐会だった気がする。あれはあれで良かったが、こういう形の食事も悪くない。
「ところで、私が聖域に呼ばれた理由って何ですか?」
食事の途中でシオンに尋ねた。シオンは食事の手を一瞬止めたが、「後ほど説明させていただきます」と言ったきり、黙ってしまった。
食事が終わり客間に戻ると、今度は女官がやってきて何かの説明を始めた。英語で話してくれたので辛うじて理解できたが、着替えをして髪を結わなければならないらしい。どうすればよいか分からずおろおろしていると、女官たちが手伝ってくれた。
繊細な刺繍が施されたキトンと皮のサンダル。髪の毛は綺麗に結いあげられて、宝石がついた細い髪飾りを付けてくれた。
鏡で自分の姿を見ると、そこにはまるで別人のように美しく着飾られた自分の姿があった。
その格好で今度は会議室に通された。部屋には既にシオンが待っていた。
シオンは万里亜の姿を見ると、わずかに目を見開いて息をのんだ。そして、万里亜の前に跪く。
「お待ち申しあげておりました、ヘスティア様。何卒、地上を守るために今一度、お力添えを頂きたく存じ上げます」
昔と変わらない、ソフトなよく通る声で言った。
シオンは一体何を言っているのだろうか。地上を守るというなら、アテナがいるはずだが…。
「もしかして、『守護の炎』が消えそうになっているとか?」
先代で命と引き換えに灯した聖火に問題が発生したのだろうか。
「いいえ、炎は未だに衰える事なく、燃え盛っています。聖域においては…」
「聖域においては?」
シオンの言い方が気になる。こんなにも回りくどい話し方をする男ではなかったはずだが。
「では、何が問題なんですか?アテナがご健在ですよね?ごめんなさい、私には何が何だかさっぱり…」
拳を握り締め、言葉を選ぶようにシオンが話し出した。
「…先の聖戦で、聖闘士達は冥王ハーデスを倒しました。それは既に御存知の通りかと。ですが、あれは…我々の失態だったのです」
「失態?」
地上を死の世界にしようとした冥王を倒した事が、何故失態だったというのか。
「昨日、第四宮の気配をお察しいただいたかと思います。」
「第四宮?ええ、聖域には似つかわしくない気配が…」
万里亜は昨日、教皇宮に来る途中で巨蟹宮から、冥界の瘴気を思わせる空気を感じた。
「冥界の裁判官である三巨頭と冥王を倒した事で、冥界は崩壊し、今や無秩序な世界になってしまったのです」
冥界の事はよく知らないが、シオンの口ぶりから察すると、かなり良くない事態になっているようだ。
「行き場をなくした亡者が、第四宮の巨蟹宮から地上に出ようと、あの場所に集中するようになりました」
「だから、あそこに嫌な空気が漂っていたんですね」
「はい。今は蟹座のデスマスクが結界を張って監視をしていますが…」
蟹座といえば、積尸気の使い手だ。しかし、一人で数え切れない亡者を押さえ続けるにも限界がある。
「デスマスクの消耗が最近著しいのです。結界を張り続けるのは如何に黄金聖闘士と言えども、容易ではありません」
「ええ、そうでしょうね。それで?」
「…実は」
言い淀むシオンの言葉を遮るように、聞き慣れた声が響いた。
「後は私からお話させて頂きます」
その声の方を見ると、そこには日本にいるはずの城戸沙織が立っていた。
「アテナ!」
「総帥!」
シオンと万里亜は同時に驚きの声を上げた。
「シオン、ご苦労でしたね。後は私が引き受けます。下がって結構ですよ」
「はっ」
シオンは立ち上がると一礼してから退室した。
「阿倍先生、先代のご記憶は戻られたようですね」
「…ええ」
二人はテーブルを挟むようにして着座すると、懐かしむように微笑みあった。
「まさかの展開でした」
「ええ、本当に。まさか、あなたがヘスティアだったとは…」
「ですが、私は23年間も阿倍万里亜として生きていますので、何とも複雑な気分です」
記憶が蘇ったとは言っても、今は別人格だと自覚している。戸惑いはやはり隠せない。
「ええ、そうですね。私も最初はそうでした。お気持ちはお察しいたします」
自分が勤務する団体のトップと、このような形で話をする事になるとは、何という運命の悪戯だろうか。
「で、私は何をすれば宜しいのでしょうか?」
「さすがですね。話が早くて助かります」
そう言うと、沙織は改まった口調で話始めた。
「冥界に赴き、まずは三巨頭を復活させる事。次に、冥界の『浄罪の炎』が消えていたら、再び灯していただきたいのです。その後、ハーデスを蘇らせるところまでお願いしたいのです」
万里亜は、沙織の申し出に愕然とした。
「ちょ…!総帥…いえアテナ!ご自分が何を仰っているのかお分かりですか?三巨頭の復活?ハーデスの蘇生?また地上に危機が訪れますよ!?神話の時代からの悲願が、ようやく、ようやく果たされたのに!」
思わずテーブルを叩いて立ち上がる。沙織は目を伏せながらも言葉を続けた。
「ええ…。過去、聖戦で命を散らした聖闘士達には申し訳ないと思います。もちろんあなたにも…。ですが、今のままでもそう遠くない将来に、地上と冥界が通じてしまいます。そうなれば、地上の混乱は必至です」
「……」
万里亜は力なく椅子に腰を落とした。沙織の言う事は理解できた。巨蟹宮の現状も体感している。作り話でないという事は十分に分かった。暫くの沈黙の後、万里亜は口を開いた。
「…三巨頭とハーデスの復活を私に依頼する理由は何ですか?」
「…今の私には、その力がないのです」
うなだれた沙織の声は、僅かに震えていた。
「力がない、と仰いますと?」
「阿倍先生も御存知のように、私は黄金聖闘士達を復活させました。冥界に肉体も魂も囚われていた彼らを地上に導く事は、いかに神である私の力を以てしても容易ではありませんでした」
沙織はここまで言うと、視線を#万里亜から外し、しばし黙り込んだ。万里亜には、この後の説明をどのようにするか悩んでいるように見えた。
「私には、三巨頭を復活させる力はおろか、冥界に行く力も残っていないのです」
衝撃の告白に思わず息を呑んだ。
そういうことだったのか。
万里亜は強く目を閉じ、額に手を当てた。
アテナは、自分の聖闘士達を生き返らせるために小宇宙を注ぎすぎてしまった。恐らく、その過程で自らの血液も使っているのだろう。そして今は年相応の少女でしかなくなった。時間をかけていずれは回復するだろうが、今はその時間がないという事か…。
「…これは、何と申し上げればよいのか…」
万里亜は言葉が続かなかった。
聖戦に勝利しようと敗北しようと、いずれにしても地上は崩壊の道を辿るしかない。つまり、聖戦は終結が永遠に許されない運命の歯車だったのだ。
『何て残酷な…』
万里亜は息を吐くと、沙織をまっすぐに見た。
「分かりました。お引き受けしましょう」
「本当ですか!?」
沙織の顔がぱっと輝いた。
「良かった…。断られたらどうしようかと思っていました」
「今、目の前に危機的状況があって、それを回避するためには私しかいない。そんな状況で断れる道理もありません」
沙織は申し訳なさそうな顔をしていたが、万里亜から見れば沙織は義務教育も終わらない年頃の少女だし、女神という立場で考えてもヘスティアの方が年長なのだ。やはり、自分よりも年若い少女に何もかも背負わせているのは心苦しく思う。
万里亜が冥界へ行くに当たり、アフロディーテが護衛の為に供をする事になった。
「うーん…。嬉しいとは思うけど、なんかビミョーな気持ちになるなぁ」
万里亜は複雑な気持ちを抱きつつ、普段から持ち歩いている御守りを握りしめる。
『無事にお勤めを果たせますように!』
長年の習慣ではあるが、神である自分が神頼みをしてしまう事に、万里亜は苦笑せずにいられなかった。
冥界には、巨蟹宮に繋がった空間の歪みから入る事になっていた。
沙織に連れられて巨蟹宮に来た万里亜は、その禍々しい雰囲気に思わず足が竦んだ。
宮の中央広間まで来ると、ぽっかりと宙に漆黒の口が大きく開いていた。
向こう側には、時折揺らめきながら、かつて人であったと思われる物体が蠢いていた。どのモノもこちらに来ようと恨めしそうに手を伸ばしたり、這い出そうと空間の隙間を探している。
「…こ…ここ、です…か?」
引き攣る顔で沙織を見ると、彼女は心配そうな表情を浮かべながら、小さく頷いた。
まさにあの世への入口が目の前に自分を飲み込もうと開いている。万里亜はゴクリと生唾を飲み込む。
「へっ!こんなんでビビってんじゃ、話にならねえぞ!ヘスティア様よ」
薄暗い宮殿に男の声が響いた。
万里亜の体がビクッと震えた。恐怖感から、思わず隣にいたアフロディーテのマントを掴んでしまった。
「デスマスク、口を慎め!」
アフロディーテが睨みつけると、暗闇の方から、蟹座の黄金聖衣を纏った眼光の鋭い男が歩いてきた。
「よう、アテナ様、アフロディーテ。このお方がヘスティア様か?大丈夫か、こいつ?かなりビビってるじゃねえかよ」
デスマスクと呼ばれた男は万里亜の顔を舐めるように見ると、あからさまに小馬鹿にしたな口調で言った。
「お前、口が過ぎるぞ。それ以上言うと私が許さんぞ」
アフロディーテが間に割って入った。その様子を見て、デスマスクは声を立てて笑った。
「何だよアフロちゃん、冗談だよ!悪かったな、お嬢さん」
そう言うと、デスマスクは徐に万里亜の前に跪いた。
「御無礼をお許しください、ヘスティア様。俺が、巨蟹宮を守護する蟹座のデスマスクです」
「あ、初めまして。私が今代のヘスティアで阿倍万里亜です!」
ペコリと頭を下げると、デスマスクはまた声を立てて笑った。
「おもしれー女神様だな、あんた」
くっくと肩を揺らして笑う蟹座の男もまた、万里亜の記憶に残る先代の蟹座とよく似ていた。
「阿倍先生、くれぐれもお気を付け下さい。アフロディーテ、頼みましたよ」
心配そうに二人を見る沙織に、「頑張って来ます」と笑顔で言うと、結界内へ足を踏み入れた。
デスマスクが張った結界は、生者には何ら影響を及ぼさないと説明されていた。恐々と足を踏み出した万里亜だったが、スムーズに冥界へと入れる。
薄暗い空間に入ると、先程見た亡者がわらわらと寄ってくる。何かを口々に言っているが聞き取れない。
一匹の亡者が万里亜の腕を掴もうとした。
「!…嫌っ!」
その手を振り払うと、恐らく腐っていたのだろう、いとも簡単にボロリと肘から崩れ落ちた。
これが死の世界なのか。
万里亜は喉が緊張し、声を発する事も出来なかった。膝はガクガク震え、目には涙が滲んでくる。
『どうしよう、怖い…!』
その時、何かが体に掛けられ強い力で引き寄せられた。
俯いていた顔を上げると、すぐ上にアフロディーテの端正な顔があった。どうやら、マントを掛けて周囲が見えないようにしてくれたようだ。
「あ、あの…?」
「万里亜、私がいるから心配しないで」
「アフロディーテさん…」
掛けられたマントからは、懐かしい薔薇の香りがする。自分が守られているという安心感。アフロディーテの優しい声と温もりに思わず寄り添ってしまいたい衝動に駆られる。
『いやいや、私には仕事がある!!』
弱気になる自分に無理矢理言い聞かせ、両頬をペチペチと叩いてみる。少し頭がすっきりした気がする。そこでアフロディーテのマントからするりと抜け出すと、「もう大丈夫です」と言い再び歩き出した。
冥界は万里亜が想像していたよりも静寂な、そして荒廃した世界だった。
剥き出しの岩々は不気味さな形状をしていて、そこには雑草の一本も生えていなかった。空は暗赤色に染まり、紫色の雲が垂れ込めている。
重苦しい雰囲気が漂う中を歩いているが、舗装された道が続いているわけではなく非常に歩きづらい。時折、建造物の残骸と思しき瓦礫の山が目に止まった。だが、他には何もなかった。
「冥界にも、建物ってあったんですね」
「ああ。ハーデスがいなくなったことで、今は崩れてしまっているけどね」
「じゃあ、ハーデスを蘇生したらこれらも元通りになるのかしら…?」
恐らく冥界には冥界の掟や秩序があって、それらの良し悪しはともかく、ここで暮らしていた者たちもいたのだろう。
死者は裁かれ、生前の罪を償うためにそれぞれの罪に応じた地獄へ落とされる。
今は死者を裁く者も導く者もない。死んだ者の魂はどこへ行ったのだろう。巨蟹宮で見た亡者はごく一部に過ぎないはずだ。
「ねえ、アフロディーテさん。今って、死んだ人達はどこに行くのかしら。ここに来るまでの間、誰にも会っていないでしょ?冥界なのに死んだ人がいないなんて…」
「恐らくは地上に留まったままか、或いは巨蟹宮の様に地上と通じている場所を探して彷徨っているか…。」
「ふーん…」
地獄は救いにならないが、死者の行き場がなかったり、生きている人々に影響が出るのは良い事だと思えなかった。地上と冥界は共存共栄の世界で、その均衡は非常に脆弱なものだったのだ。
恐らく、冥王軍が勝利を収めていたとしても、別の問題が発生していたに違いない。
「アフロディーテさん、私達はどこに向かっているんですか?」
今更な質問であるとは思ったが、目的地が分からないというのも、歩き通しの身にはつらいものがある。
「今向かっているのは、第八獄のコキュートスというところだよ。そこに三巨頭が治めていた宮殿がある。そこに彼らの冥衣があるはずだ」
「遠いんですか?」
「まだ、三分の一も来ていないよ?」
「…はあ…訊かなきゃよかったかも…。どっと疲れちゃった…」
肩を落とす万里亜を見て、アフロディーテはくすりと笑った。
「じゃあ、私が抱っこしてあげるよ。疲れただろ?」
「え!それは…ちょっと…」
たじろぐ万里亜を見たアフロディーは、今度は声を出して笑った。
「今更?聖域に行くときだって、こうして抱えて行ったじゃないか」
と言うや否や、ひょいと万里亜を抱き上げた。
「それに」
アフロディーテは万里亜の耳元に形の良い唇を近付け、「昔はもっといい事しただろ?」と甘い声で囁いた。
「な…!」
万里亜は恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆った。きっと首まで真っ赤になっているに違いない。
『別の人に来てもらえば良かった!!』
心の中で後悔をする。
一方、万里亜を抱えたアフロディーテは上機嫌で、その足取りは軽やかだった。
アフロディーテは一向にペースを落とすことなく、どんどんと先へ進む。
「アフロディーテさん、休憩しなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。それにあまり時間がないしね。早く先に進みたいんだ」
万里亜を抱えながら悪路を行くのは、いかに聖闘士といえども楽ではないだろう。そう思い少しの休息を提案してみたが、あっさりと却下された。
確かにアフロディーテの言うとおりだ。あの時、巨蟹宮の空気は悪かったし、守護人を務めるデスマスクには疲労の色が見えていた。アフロディーテが、『あいつが、あれ程消耗したところは初めて見た』と言っていた事を思い出す。
『それだけ、切羽詰まっているってことなのね…』
この先、自分の力が役に立つのだろうか。そんな不安が、万里亜の心の中で頭をもたげていた。
冥界三巨頭を蘇らせ、『浄罪の炎』が消えていればそれを灯す。そして、ハーデスを復活させる事。
女神として覚醒したばかりの自分にそんな大仕事が務まるのだろうか…。
冥界は薄暗く、どのくらいの時間が経過したのか、今が何時なのか全く分からない。それでも、万里亜を抱えたアフロディーテは全く気に留める様子もなく歩き続ける。
「アフロディーテさんは、いつからアルバフィカの記憶があるんですか?」
「え?」
万里亜の唐突な質問にアフロディーテの足が止まった。
「私、アフロディーテさんと会って色々お話して、それで漸くアミリアの記憶を思い出しました。だから、アフロディーテさんはどうだったのかな、と思って…」
「…私は、聖戦の後だよ。生き返ってからだ」
今まで万里亜の質問には淀みなく答えてくれていたアフロディーテが、これについてはやけに歯切れが悪かった。
『訊いちゃいけなかったかな…?』
別に「物心がついたときから」とか「魚座の聖衣を頂いたときに」といった叙情的な答えが欲しかったわけではない。それでも、彼の答えに些かの寂しさを感じたのは、自分の我儘だからなのかもしれない。万里亜はそう思った。
吹いてくる風が少し冷気を含んだものになった。ぶるっと体が震える。
「寒い?」
「ええ、少し」
万里亜は自分で自分の腕を擦る。その様子を見たアフロディーテは、マントを外して万里亜の体に巻いてやる。
「うわ、あったかい…」
思わずマントに顔を埋める。
「それに、薔薇のいい香り…」
うっとりと目を閉じて、アフロディーテの温もりに甘える。
「君は、アミリアと似ていないね」
不意にアフロディーテの口から零れた言葉。
「え…?」
「いや…、何でもない」
『アミリアと似ていない』とはどういう意味なのか。アフロディーテは今でもアミリアを恋い慕っているのだろうか。自分はアミリアのように品があるわけではないし、ヘスティアのように毅然としているわけでもない。もしかしたら、彼をがっかりさせてしまったのかもしれない。
そう考えると、万里亜は少しだけ胸が痛むのだった。
「万里亜、ここからコキュートスだ。もっと行くとカイーナが見える。天猛星ワイバーンのラダマンティスが治める宮殿だよ」
氷地獄のコキュートスを満たす冷気は体を芯まで凍えさせる。口から吐き出す息は真っ白だ。
「アフロディーテさん、寒くないですか?私ばっかり温かくて…」
万里亜はアフロディーテのマントに巻かれて抱きかかえられているため、さほどの寒さは感じない。しかし、アフロディーテは魚座の聖衣のみで防寒具を身に付けている訳ではない。
「黄金聖衣は、太陽の恵みを神話の時代から受けていて、防寒にも優れているんだ。絶対零度にならないと凍りつかないくらいだから、心配はいらないよ」
万里亜に笑いかけると、そっと額に口付けた。
「な、ななな!何ですか!いきなり」
万里亜は不意打ちを食らって、慌てふためいてしまった。
「元気は出た?」
涼しい顔で答えるアフロディーテを睨みつけるものの、それが何も効果のない事は分かり切っていた。
『アフロディーテさんもアルバフィカとは違うなあ…』
冷たい空気に触れているはずなのに、万里亜の顔は火照りっぱなしだった。
見上げたカイーナの屋根には翼竜の像が居座っている。恐ろしげな顔をした翼竜たちは、そこを訪れる者を隙あらば食い殺そうと、虎視眈々と狙っているように見える。
「屋根の上のあれが、ワイバーンですか?」
「ああ。かなり厳めしいだろ?ラダマンティスという冥闘士にはぴったりかもしれない」
万里亜は翼竜みたいに恐ろしげな男を想像し、『ちょっと嫌かも…』と考えていた。
カイーナに入ったら、まずはワイバーンの冥衣を見つけなければならない。外観を見ただけでも、随分な広さがあると想像できる。アフロディーテと手分けをした方が良いのか、一緒に探した方が良いのか判断に迷う。
「万里亜、何を難しい顔をしているの?」
「えっ?」
普段の癖で、また眉間にシワを寄せて考えていたらしい。シワを指先で伸ばすと、アフロディーテに言った。
「いえ、冥衣をどうやって探そうかと考えていたんです」
『中は広そうだから…』と困ったように呟くと、アフロディーテがカイーナの入口を見るように言った。
万里亜が言われた方に目を向けると、そこには冥界の宝石の様に黒く輝くワイバーンの冥衣が、カイーナへの侵入者を威嚇するかの様に鎮座していた。
「あれがワイバーンの冥衣…」
アフロディーテの腕から下りた万里亜は、ワイバーンが襲いかかって来るのではないかと怯えながら、そろそろと冥衣に近づいた。
指で冥衣をつついてみるが、当然の如く何も反応はない。ホッと息を漏らすと、今度は冥衣に手を翳す。何かの気配を探るように、感じ取ろうとしているかのように、じっと冥衣を見つめ集中している。
「アフロディーテさん、ラダマンティスって言いましたっけ?ワイバーンの冥闘士の名前…」
「…何か分かったのか?」
こくんと頷いた万里亜は、笑顔でアフロディーテの方を振り返った。
「はい。この人、真面目で熱い人だったんだなって感じます。もう、笑っちゃうくらいに。融通がきかない頑固者っていう印象です」
確かにそういう男なのだろう。感情的と言えば感情的だった様な気もする。
「早速始めましょうか」
再び冥衣に手を翳し意識を集中させ始めた万里亜を見ながら、アフロディーテは考えていた。
聖戦のときはハーデスの支配下にあり、聖闘士としての力を封じ込められていた。それは、ハーデスが決して本心からアテナの聖闘士である自分達を信用していなかったからに他ならない。それでも、冥闘士の前に成す術もなく敗れ去った過去は思い出したくもないし、万里亜に知られるのも嫌だった。
万里亜はアルバフィカと自分を同一視しているとアフロディーテは感じていた。彼にはそれがつらかった。
アルバフィカとは違う生き方、死に方をした自分を彼女は赦してくれるだろうか。
まるで夢のような一夜の出来事だった。それでも、シーツに微かに残る薔薇の香りと胸元に付けられた紅い痣、そして破瓜の痛みが夢でなかったことを教えてくれる。
アミリアは痛む体を労わるように、アルバフィカとの情事の余韻が消えてしまわないように、ゆっくりと身支度を整えた。
聖域から遠く離れた保養地にある離宮。教皇からの進言に従ってこの地にやってきた。
もう、冥王は覚醒したのであろう。アミリアの目には、聖域を覆っていく闇がはっきりと見える。
「アルバフィカ君…」
情を交わした魚座の黄金聖闘士は今頃戦火に身を投じているのだろう。
その身を案じることしかできない己がもどかしい。不安で胸が押し潰されそうだ。
小宇宙の探索─
脳裏に浮かんだのは、聖域にいた頃から決してするまいと思っていた事。対象の吉事も凶事も、神の力をもってすれば容易く知る事ができる。
「…私の力が及ぶことであれば手助けしたい…」
アミリアは人払いを済ませると、聖域方向を臨めるテラスに立った。目を閉じ、意識を集中させる。アルバフィカの小宇宙ならすぐに探し当てられる。
『…!闘っているの!?でも、聖域の外れの方…。冥闘士の侵入を阻止するつもりなんだわ』
アルバフィカの近くに複数の冥闘士の小宇宙を感じる。だが、あの程度であれば、彼にとっては全く問題にならないはず。ただ…
『一人、とても強い小宇宙を持っている冥闘士がいるわ…もしかして、三巨頭!?』
アミリアが感じたのは、まさに冥界三巨頭の一人、天貴星グリフォンのミーノスの小宇宙だった。
アルバフィカの小宇宙が強くなった。そして、いくつかの冥闘士の小宇宙が消えた後に、漆黒の強大な小宇宙が膨れ上がるのを感じた。ミーノスが自ら参戦したのだった。
巨大な小宇宙と小宇宙のぶつかり合いが続く。黄金と漆黒のせめぎあいが続くが、徐々にアルバフィカの形勢が不利になっていく。
そして─
漆黒の小宇宙を持った冥闘士が、聖域から離れたのが感じ取れた。一方でアルバフィカの小宇宙は弱っている。
『アルバフィカ君!!』
アミリアは必死にアルバフィカに呼びかけた。
『アルバフィカ君!聞こえる!?アミリアよ!アルバフィカ君!!』
『…アミリア?どうして…?』
『良かった。わかるのね?ねえ、大怪我しているんでしょ?大丈夫!?』
『全身の、骨が…砕けている…』
「!!」
その言葉で、アミリアは心臓が握りつぶされるような感覚に襲われた。
瞳から大粒の涙がボロボロと零れ出す。
『ああ…アミリア、君は今、泣いているんだね。でもね、私は大丈夫だよ…。だから、泣かないで…』
自身の身が死に瀕しているというのに、アルバフィカはアミリアに優しい言葉をかけ労わってくれる。
せめて、この体が動けるようにしてくれないか─
アミリアには分かっていた。怪我を治せばまた彼が闘いに赴くことも、その中で命を落とすであろう事も。それは嫌だ。だが、怪我を治さなければ、彼はそのまま息絶えてしまうだろう…。
アミリアは奥歯をギリッと噛みしめた。自分も覚悟をしなければ。
『…分かったわ』
アミリアは聖域に向けて、アルバフィカに向けて意識を集中した。
アルバフィカと愛し合った夜、彼の体に何箇所か加護印を付けておいたのだ。
アミリアの小宇宙の高まりに呼応するように、アルバフィカの体に刻まれた加護印が光りだす。
泉が湧きだすように、温かい光が次々と溢れ出してくる。
全身の痛みが薄れていく。腕を、脚を動かすことができる。
『ありがとう、アミリア…。もう、いいよ。私は、奴を倒しに行く』
『ええ、お行きなさい。武運を祈っています』
再び相まみえたアルバフィカと冥闘士の小宇宙。命の全てを燃やすかのようにアルバフィカの小宇宙が膨れ上がった。そして、漆黒の小宇宙が一つ消えた。アルバフィカの小宇宙も、最早消え入りそうなほどまでに弱まっていた。
「…アルバ、フィカ…」
アミリアの頬をとめどもなく涙が流れていく。
『アミリア…。君の、お陰だ…。ミーノスを…倒せた…。でも、もう、さよならだ…』
『っ!嫌よ!!そんなこと…言わないで…』
『愛しているよ、アミリア。心から…』
そして、アルバフィカの小宇宙は地上から消えた。
聖戦の結末がどうだったかなんて興味がない。目の前にある現実は、ただ残酷な色で私を苦しめ続ける。
冥王軍との闘いは熾烈を極めた。聖闘士達は次々と倒れ、勝利と引き換えに多くの命を失った。アミリアの恋人も、まだ若い命を儚く散らした。
「ヘスティア様、聖域より遣いの者が参っておりますが…」
「…そうですか。サラ、貴女がお相手なさい。私は体調が優れません」
聖域からの遣い?今更自分に何の用があろうというのか。もう、あそこに戻る意味もないというのに。
この頃、アミリアは全身の倦怠感と嘔気に悩まされていた。食欲もなく体が熱っぽい。
「風邪でも引いたのかしら…?」
おもだるい体を引きずって、ベッドに潜り込む。ゆっくり眠って体を休めたいが、眠ると夢を見る。
アルバフィカと別れる夢。今はもう、夢の中でしか会えなくなってしまった愛しい人。どんなに手を伸ばしても、決して届かない恋人。
その度に涙を流す。言葉にできない悲しみと消えることのない胸の痛み。
いつか、この喪失感と悲しみは癒えていくのだろうか…。私は、この痛みと共存していけるのだろうか…。
救われたいのは、私…。
どの位時間が経ったのだろう。女官長のサラがやって来た。
「ヘスティア様、聖域から帰還を請われました。如何いたしましょう?」
「…今更私など、必要もないでしょうに…」
聖域で生き残った聖闘士は牡羊座のシオンと天秤座の童虎だけだった。
童虎は冥王軍を封じた魔塔の監視役を、シオンは教皇として聖域の建て直しに奔走していると聞いている。
教皇職を務めるにはシオンは若過ぎる。頼るものはなく心細い思いをしているかもしれない。彼自信も過酷な喪失体験に苛まれているだろうに。
頭では分かっているが、心も体も付いていかない。
『ああ…気分が悪い…』
「サラ、下がりなさい。私は休みます。食事も要りません」
サラは何か言いたげにしながらも、一礼してから退室した。
聖域からの使者へ、サラは一通の手紙を託した。
『恐らくヘスティア様は…』
何れは聖域に戻らねばなるまい。時期は早い方が良いが、今はアミリアの体調が整わない。長時間の移動は避けたいところだ。
『牡羊座様は聞き届けて下さるだろうか』
教皇職に就いたシオンの指揮の下、聖域は少しずつだが、確実に着実に復興が進んでいた。共に闘った仲間も、自分を育て導いてくれた師も、彼らの神でさえも、既にこの世から去ってしまった。生き残りの片割れであり、親友でもある天秤座の戦士は、彼の故郷である東の国へと戻り、その地からアテナが冥闘士達を封じた魔塔の監視をしている。
自分一人の力で、これからどうして聖域を立て直せばよいのか。弱冠齢にも満たないシオンにとっては困難極まりない事であった。
聖域には、教皇以外立入ることが許されていない場所がいくつかある。その中の一つに聖なる祠がある。そこには、神話の時代にヘスティアがアテナに贈ったという『守護の炎』が祀られている。この聖火を絶やすことは即ち、国家の衰退或いは滅亡に繋がる。
シオンは教皇になった後、すぐ祠へ炎を見に行った。そこで、聖火台の一部が聖戦の影響で破損しており、火勢が弱まっていることに気がついた。このままでは、聖域の秩序と安定を維持できない。
「せめて、ヘスティア様がお戻りくだされば…」
恐らく女神がこの地へ戻りたがらないだろう事は、シオンにも容易に想像ができた。
使者を立てたが、果たして良い返事が来るかは望みが薄い。
「どうすればよいのだろうか…」
未だ座り慣れない玉座に腰を掛けて、シオンはため息をつく。
「教皇様」
そこに、ヘスティアの滞在地へ遣わせた使者が戻ってきた。
「ああ、無事に戻ったか。で、ヘスティア様は何と仰っていた?」
立ち上がりながら急かすように尋ねた。使者の男は懐から手紙を取り出しすと、シオンへ差し出した。
「ヘスティア様はご体調が優れずお目通りは叶いませんでした。ですが、女官長のサラ様より教皇様宛に親書を預かって参りました」
シオンは「ご苦労だったな」と言い手紙を受け取ると、男を下がらせた。
封蝋を外し中身を検める。
「…何だって…!?」
シオンの手が震える。
『どういう事だ…、こんな事があってはならないのに…!!』
シオンは明らかに手紙の内容に動揺をしていた。
『ヘスティア様が…、ヘスティア様が、御懐妊だと!?』
サラからの親書には、女神に懐妊の兆候がみられる事、それに伴う体調不良で床に伏せりがちである事、聖域に戻るのは待っていて欲しいという内容が書かれてあった。
「誰か!誰かいないか!?」
シオンは教皇宮の廊下を大股で歩きながら官吏を呼びつけた。
「は、教皇様。お呼びでしょうか!」
シオンの声に驚いた数人の官吏が慌ててやってきた。
「私はこれからヘスティア様の離宮へ拝謁に伺う!重大事だ!」
教皇が聖域から離れることは避けなければならないが、今は悠長なことなど言っていられない。シオンは法衣を脱ぎ棄てて牡羊座の聖衣を纏うと、光の速さでヘスティアの離宮へと飛んだ。
「これは、牡羊座様!」
「女官長のサラ殿にお目通り願いたい!」
衛兵に伝えると、近くにいた女官が慌てて迎賓の間へと案内をした。
シオンは出された茶と菓子には手を付けずに、ただサラからの親書を読み返していた。
部屋の扉が音を立てて開いた。
「大変お待たせいたしました。教皇シオン様」
サラは恭しく頭を垂れ挨拶をすると、自分も椅子に腰かけた。
「突然訪問をした御無礼をお許し下さい」
頭を下げたシオンを遮る様にサラが口を開いた。
「いえ、きっといらしていただけると思っておりました」
サラはホッとしたような声色で、気にしないようにと言った。
「サラ殿、この親書の内容なのですが…」
未だ信じられないといった風情でシオンが尋ねる。
「…間違いございません。あの後、侍医の診察を受けていただきました」
アミリアの懐妊は間違いなかった。と、なると…。
「御子の父親は…もしや…」
「…魚座様であると」
シオンは大きな息を吐くと天を仰いだ。
「教皇様、私どもはヘスティア様のご体調が整い次第、聖域に入るよう調整中でございます。ですが、神力に幾分影響が…」
シオンは眉間に指を当て、何かを考えていたが、
「承知しました。では、今暫くお待ち申し上げます。何かありましたら連絡をお願いします」
そう言うと、シオンはアミリアには会わずに宮殿を後にした。
処女神であるヘスティアが人の子を身籠った。処女である事を条件に神の特権を手に入れたと言うのに、それが失われたとなれば、サラが言うように神力の衰えがあっても何の不思議もない。もしやそのために聖火の火勢が弱まっているのだろうか。それでは聖域は…世界の国々の安寧はどうなるのだ。
シオンは心の中にもたげる不安を振り払うように大きく頭を振ると、教皇の間へ入って行った。
二ヶ月も経つと、アミリアの体調は回復してきた。食事も摂れる様になり、体を動かすことも億劫ではなくなった。
「ヘスティア様、そろそろ聖域へ戻りましょう。」
唐突とも思えるタイミングでサラが申し出た。
「サラ、私は戻る気は…」
「そうは参りません。聖域にある守護の炎が消えかかっていると聞き及んでおります。このままでは聖域は衰退していきましょう。そうなれば地上の守りも崩壊いたします。アテナ様や聖闘士達が命を賭けて守った地上です。この平和を繋がずにどうなさるおつもりですか?魚座様とのお約束がございましたでしょう」
アミリアはサラの言葉にはっとした。
アルバフィカとの約束。まだ、未来が残酷なものだと知らなかった幼い日に、立派な女神になると彼に誓った。
何時までも悲しんでばかりいられない。
『この身に宿った子に未来を繋がなければ』
アミリアは意を決した。
「サラ、速やかに聖域行きの手筈を整えなさい。早急に出立します」
「御意」
こうして、アミリアは聖域へと戻ることになった。
聖域では常に誰かが傍に付き、身重の体にも不自由のない暮らしを送れた。シオンも教皇職で忙しい身であるにも関わらず、数日と開けずに様子を見に宮殿まで足を運んでいた。
「随分と大きくなりましたね」
アミリアの腹をしげしげと眺めながら、シオンが感心した口ぶりで言った。
「ふふっ…、そうね。良く動くのよ。元気な子だわ」
胎内で動き回る子を宥めるかのように腹をさすりながら、アミリアはティーカップに口を付けた。
「もうすぐ産まれるみたいよ」
「楽しみですね。どちらに似ても、この上なく可愛らしい御子でしょう」
口ではそう言ってみるが、シオンの胸中は複雑だった。もう何年も前からこの女神には思慕の念を抱いている。女神の恋人は既に鬼籍となったが、それでも彼の武器であった薔薇の花々の様な鮮烈さでもって、未だに女神の心を離さない。
まさか、自分がその座を取って代わろうなどとは思っていないが、薔薇の刺でチクチクと刺されるような胸の痛みは覚えるのだった。
『いつまでも未練がましい事だ』
シオンは心の中で苦笑をした。
満月が煌々と輝く穏やかな晩に、アミリアは子を産んだ。
「ヘスティア様、元気な女の子でございます。まあ、お父上に良く似た可愛らしい御子でございます。間違いなく見目麗しいお嬢様にご成長あそばされますよ」
サラが赤子を抱いてアミリアに見せる。
「本当に…。あの人に、アルバフィカに良く似ている事…」
この世にこれ程までに愛おしい存在があるとは知らなかった。
あの人にもこの子を抱かせてあげたかった…。
「ヘスティア様、今宵はゆっくりとお休み下さいませ。さぞ、お疲れの事でしょう」
「ええ、ありがとうサラ。貴女もゆっくり休みなさい」
自分に付き添って長時間介抱をしていたサラ。少女の頃はあんなにも怖いと思っていた存在が、今は母の様な、姉の様な、長年の友の様な存在になった。
『サラにならあの子を託せる…』
アミリアは娘にセシリアと名付けた。
セシリアは父親に良く似ていて、とても可愛らしい。そんな娘に、かつての友の面影を偲んでか、度々シオンが会いにやって来る。
「それにしても、セシリア様はお会いするたびに可愛らしく成長されておいでですね」
シオンはいつもにこにこして、セシリアを抱っこしてくれる。
「そうね。アルバフィカも幼い頃はこういう感じだったのかしらね?」
「ははっ、そうだったかも知れませんね。『よく女の子に間違われた』と本人から聞かされた事もありますよ」
そうだった。長じて類稀なる美男になったが、初めて会った七歳のあの日…
「私も女の子と間違えたわ」
懐かしく思い出す、幸せだったあの頃。
「ほう、神の目でも見切れなかった訳ですね?」
くっくっと笑いをかみ殺すシオン。
「いえ、あの頃はまだ見習い期間でしたから…。彼には未だに申し訳なかったと思っているわ?」
苦笑いを隠さず、ティーカップに口を付ける。
「…ところでシオン」
真剣な口調になったアミリアにシオンが居住まいを正す。
「『守護の炎』はどうですか?」
「…恐れながら申し上げますが、火勢はさらに弱まってきているかと…」
「やはりそうですか…」
アミリアは目を閉じて息を吐き出すように呟いた。
「シオン、勘の良い貴方の事です。私の神力が失われつつあることは察しているのでしょう?」
「…はい」
その言葉にシオンは頷いた。
「あまり悠長にしてもいられません。今一度、火を灯しましょう」
にっこりとシオンに微笑むと「これから祠へ行きます」と立ち上がった。
シオンにはアミリアの考えを計りかねていたが、妙な胸騒ぎを感じていた。
祠に到着すると、アミリアはシオンに一通の書簡を手渡し言った。
「全てが終わったら読んで頂戴」
アミリアは手紙を持ったシオンの手を握り、慈しむように撫で擦った。
「貴方の手は綺麗ね。細くて長い指…。誰かの命を奪ったり物を壊すような手ではないわ。この手は、人を守り生かすための手なのね。シオン、貴方の手で世界を守っていって頂戴。次代の為にも…」
「ヘスティア様…!」
アミリアはシオンに背を向けると祠の中へ入り、内側から鍵を掛けた。
「さようならシオン。さようならサラ。さようなら…私の愛しい子…」
ヘスティア様は死ぬ気だ!
慌てて扉を開けようとするが、黄金聖闘士であるシオンの力をもってしても、神話の時代から神の加護を受け、更にその中央に神を取り込んだ祠は、最早びくともしない。
祠の中からはアミリアの小宇宙を感じる。神力が衰えているとはいえ、人間の自分では到底及ばない程に懐深く包みこまれる様な、温かく強い小宇宙。
シオンはなす術もなくその場に立ち尽くしていた。
アミリアは聖火台の前に進むと、目の前の炎をじっと見つめていた。遥か遠い記憶の糸を手繰る。
「そうだったわね…。神話の時代に、あの泣き虫の戦女神にあげたんだったわ…。私達がいなくとも、地上が守られるようにと…。今代のアテナもよく泣く子だったわ」
見飽きるほどに見たアテナの泣き顔を思い浮かべて、ふっと口元を緩めた。
「私達のいない時代が、また始まります。人の子よ、神の心を忘れてはなりませんよ…」
アミリアは残った全ての小宇宙を解放した。全身が白金色の光に包まれ、空間の全てが揺らめく。祠の中に満ち溢れた光は、やがて一筋の光となり聖火台に注がれる。
小さく揺れていた炎は油を注がれたようにやがて大きくなり、女神の色と同化する。
「もう…、大丈夫でしょう…」
どの位時間がたったのだろう…?
アミリアがゆっくりと扉を開けると、涙で頬を濡らしたシオンが立っていた。シオンはアミリアを認め駆け寄ると、よろめくその体を強く抱きしめた。
「ヘスティア様…!!」
アミリアはシオンの顔を見上げ、微笑んだ。
「ねえ、シオン…。貴方は優しいわね…。こんな私に、今でも想いを寄せてくれている…。誰かを悲しませる事が、こんなにもつらい事だとは、知らなかったわ…。シオン…泣かないで…」
力の入らない指先でシオンの涙を拭う。シオンは肩を震わせて嗚咽を漏らす。
アミリアの体から徐々に光が失われていく。
「!?」
抱きしめたアミリアの体が不意に小さくなった。
シオンが驚いて腕を緩めると、そこには幼い少女の姿があった。
「…これは一体?」
『シオン』
頭上から声が降ってきた。弾かれたように見上げると、そこにはまるで少女の様な風貌をした少年が一人。シオンはこの少年の面影を知っている。
「…アルバフィカ?」
『ああ。久しぶりだね、シオン。すっかり立派になったじゃないか。』
「お前、どうして…」
『…アミリアを迎えに来たんだよ』
そう言ったアルバフィカは、シオンの腕に抱かれているアミリアの手を取った。閉じられていた瞳がうっすらと開く。
『…アルバフィカ君?来てくれたの?』
『そうだよ。アミリア、よく頑張ったね。さあ、一緒に行こう。後は、生きている彼らに託すんだ。全てを…』
「待ってくれ!!」
シオンが伸ばした手は、二人の体を捕えることなく宙を掠めた。
『シオン、少しの間お別れだよ』
『ちゃんと手紙読んでね、シオン。また、会いましょうね』
初恋の日の姿に戻った恋人達は、光の塊に変わると、シオンの体を愛しむ様に、労わる様に、名残惜しむ様に包んだ。
そしてゆっくりと天高く昇っていき、夕暮れの空へと、やがて溶けて行った…。
かつての恋人との間には、一夜限りの契りで授かった娘がいた。
愛しい人と結ばれるならば神の力など惜しくないとあの時は思い、注がれる愛を受け入れた。
だがその選択は、他の大切な人を傷付けた。自分の中に残る記憶の欠片がそれを教えてくれた。
万里亜は教皇の間で倒れ、朝まで昏々と眠り続けた。
目を覚ますと天蓋付きのベッドに寝かされていた。
長い夢を見た。それは240年以上も前の夢。
「…何だか、大河ドラマでも見ていたみたい」
ドレッサーの鏡を覗くと、髪はボサボサで浮腫んだ顔の自分が映っていた。そして、眠りながら泣いていたことがはっきり分かるほど、頬に涙の痕が残っていた。
「…酷い顔。これじゃあ、誰とも顔を合わせられないわ」
部屋はスイートになっていて、バスルームとパウダールームも完備されていた。シンプルな造りが好ましい。
万里亜はスーツケースからバスアメニティを一揃い取り出すと、熱いシャワーを浴びた。自分の記憶の中にある聖域とは随分様変わりしたと思う。
私服に着替え部屋から出た。教皇宮内だとは思うが、どの辺りなのか全く分からない。仕方なく部屋に戻ると、バルコニーから外を見た。
心に馴染んだ景色が目に映る。初めて来たギリシャを懐かしく感じる奇妙な感覚。やはり自分は、かつてこの地の住人であったと確信する。
大きく息を吸い込むと、清々しい朝の空気が肺胞の毛細血管から溶け込み、全身に染み渡る。
「ヘスティア様、お目覚めでしょうか」
ノックの音に続いて声が聞こえた。
「はい。どうぞ」
ドアが開き、入ってきたのはサガだった。
「おはようございます。御気分はいかがでしょうか?昨日は突然倒れられて…。こちらの客間にお運び致しました」
「ああ、そうでしたか。それは、お手数をお掛けしまして申し訳ありません」
万里亜はペコリとサガに頭を下げた。
「いや、そういう意味で言ったのではないのですが…」
少し困ったようなサガの顔は、何だか可愛らしいと思った。昨日の様な緊張感は感じない。
サガは万里亜を食堂まで案内した。
広いその部屋は天井が高く、大きな窓からは朝日が気持ちよく差し込む場所だった。中央のテーブルには、イングリッシュブレックファーストが用意されていた。
サガが椅子を引いて、座る様に促してくれた。「ありがとうございます」と言うと、少し驚いたような顔をした後に優しく微笑んでくれる。とても素敵な笑顔だと、素直に思った。
テーブルの上には二人分の朝食が用意されている。
「あの、サガさんがご一緒して下さるんですか?」
万里亜がサガを見上げ尋ねると、サガは首を振った。
「いえ、私ではなく教皇が…」
「教皇様が?」
「はい。今朝は少々遅れておりますが…」
「そうなんですか…」
その時、廊下を走って来る足音が聞こえた。
バタン!と大きな音を立てて食堂のドアが開いた。
「教皇!」
「ヘスティア様、大変申し訳ございません。寝過してしまって…」
何かあると、ばつが悪そうに口篭りながら言うシオンは、昔と変わらない。
「ふふっ、私も今来たところです。お気になさらないで下さい」
「…相変わらずお優しくていらっしゃる」
シオンは懐かしそうに目を細めて万里亜を見る。
過去、シオンと食事を共にした事があった。何処かの晩餐会だった気がする。あれはあれで良かったが、こういう形の食事も悪くない。
「ところで、私が聖域に呼ばれた理由って何ですか?」
食事の途中でシオンに尋ねた。シオンは食事の手を一瞬止めたが、「後ほど説明させていただきます」と言ったきり、黙ってしまった。
食事が終わり客間に戻ると、今度は女官がやってきて何かの説明を始めた。英語で話してくれたので辛うじて理解できたが、着替えをして髪を結わなければならないらしい。どうすればよいか分からずおろおろしていると、女官たちが手伝ってくれた。
繊細な刺繍が施されたキトンと皮のサンダル。髪の毛は綺麗に結いあげられて、宝石がついた細い髪飾りを付けてくれた。
鏡で自分の姿を見ると、そこにはまるで別人のように美しく着飾られた自分の姿があった。
その格好で今度は会議室に通された。部屋には既にシオンが待っていた。
シオンは万里亜の姿を見ると、わずかに目を見開いて息をのんだ。そして、万里亜の前に跪く。
「お待ち申しあげておりました、ヘスティア様。何卒、地上を守るために今一度、お力添えを頂きたく存じ上げます」
昔と変わらない、ソフトなよく通る声で言った。
シオンは一体何を言っているのだろうか。地上を守るというなら、アテナがいるはずだが…。
「もしかして、『守護の炎』が消えそうになっているとか?」
先代で命と引き換えに灯した聖火に問題が発生したのだろうか。
「いいえ、炎は未だに衰える事なく、燃え盛っています。聖域においては…」
「聖域においては?」
シオンの言い方が気になる。こんなにも回りくどい話し方をする男ではなかったはずだが。
「では、何が問題なんですか?アテナがご健在ですよね?ごめんなさい、私には何が何だかさっぱり…」
拳を握り締め、言葉を選ぶようにシオンが話し出した。
「…先の聖戦で、聖闘士達は冥王ハーデスを倒しました。それは既に御存知の通りかと。ですが、あれは…我々の失態だったのです」
「失態?」
地上を死の世界にしようとした冥王を倒した事が、何故失態だったというのか。
「昨日、第四宮の気配をお察しいただいたかと思います。」
「第四宮?ええ、聖域には似つかわしくない気配が…」
万里亜は昨日、教皇宮に来る途中で巨蟹宮から、冥界の瘴気を思わせる空気を感じた。
「冥界の裁判官である三巨頭と冥王を倒した事で、冥界は崩壊し、今や無秩序な世界になってしまったのです」
冥界の事はよく知らないが、シオンの口ぶりから察すると、かなり良くない事態になっているようだ。
「行き場をなくした亡者が、第四宮の巨蟹宮から地上に出ようと、あの場所に集中するようになりました」
「だから、あそこに嫌な空気が漂っていたんですね」
「はい。今は蟹座のデスマスクが結界を張って監視をしていますが…」
蟹座といえば、積尸気の使い手だ。しかし、一人で数え切れない亡者を押さえ続けるにも限界がある。
「デスマスクの消耗が最近著しいのです。結界を張り続けるのは如何に黄金聖闘士と言えども、容易ではありません」
「ええ、そうでしょうね。それで?」
「…実は」
言い淀むシオンの言葉を遮るように、聞き慣れた声が響いた。
「後は私からお話させて頂きます」
その声の方を見ると、そこには日本にいるはずの城戸沙織が立っていた。
「アテナ!」
「総帥!」
シオンと万里亜は同時に驚きの声を上げた。
「シオン、ご苦労でしたね。後は私が引き受けます。下がって結構ですよ」
「はっ」
シオンは立ち上がると一礼してから退室した。
「阿倍先生、先代のご記憶は戻られたようですね」
「…ええ」
二人はテーブルを挟むようにして着座すると、懐かしむように微笑みあった。
「まさかの展開でした」
「ええ、本当に。まさか、あなたがヘスティアだったとは…」
「ですが、私は23年間も阿倍万里亜として生きていますので、何とも複雑な気分です」
記憶が蘇ったとは言っても、今は別人格だと自覚している。戸惑いはやはり隠せない。
「ええ、そうですね。私も最初はそうでした。お気持ちはお察しいたします」
自分が勤務する団体のトップと、このような形で話をする事になるとは、何という運命の悪戯だろうか。
「で、私は何をすれば宜しいのでしょうか?」
「さすがですね。話が早くて助かります」
そう言うと、沙織は改まった口調で話始めた。
「冥界に赴き、まずは三巨頭を復活させる事。次に、冥界の『浄罪の炎』が消えていたら、再び灯していただきたいのです。その後、ハーデスを蘇らせるところまでお願いしたいのです」
万里亜は、沙織の申し出に愕然とした。
「ちょ…!総帥…いえアテナ!ご自分が何を仰っているのかお分かりですか?三巨頭の復活?ハーデスの蘇生?また地上に危機が訪れますよ!?神話の時代からの悲願が、ようやく、ようやく果たされたのに!」
思わずテーブルを叩いて立ち上がる。沙織は目を伏せながらも言葉を続けた。
「ええ…。過去、聖戦で命を散らした聖闘士達には申し訳ないと思います。もちろんあなたにも…。ですが、今のままでもそう遠くない将来に、地上と冥界が通じてしまいます。そうなれば、地上の混乱は必至です」
「……」
万里亜は力なく椅子に腰を落とした。沙織の言う事は理解できた。巨蟹宮の現状も体感している。作り話でないという事は十分に分かった。暫くの沈黙の後、万里亜は口を開いた。
「…三巨頭とハーデスの復活を私に依頼する理由は何ですか?」
「…今の私には、その力がないのです」
うなだれた沙織の声は、僅かに震えていた。
「力がない、と仰いますと?」
「阿倍先生も御存知のように、私は黄金聖闘士達を復活させました。冥界に肉体も魂も囚われていた彼らを地上に導く事は、いかに神である私の力を以てしても容易ではありませんでした」
沙織はここまで言うと、視線を#万里亜から外し、しばし黙り込んだ。万里亜には、この後の説明をどのようにするか悩んでいるように見えた。
「私には、三巨頭を復活させる力はおろか、冥界に行く力も残っていないのです」
衝撃の告白に思わず息を呑んだ。
そういうことだったのか。
万里亜は強く目を閉じ、額に手を当てた。
アテナは、自分の聖闘士達を生き返らせるために小宇宙を注ぎすぎてしまった。恐らく、その過程で自らの血液も使っているのだろう。そして今は年相応の少女でしかなくなった。時間をかけていずれは回復するだろうが、今はその時間がないという事か…。
「…これは、何と申し上げればよいのか…」
万里亜は言葉が続かなかった。
聖戦に勝利しようと敗北しようと、いずれにしても地上は崩壊の道を辿るしかない。つまり、聖戦は終結が永遠に許されない運命の歯車だったのだ。
『何て残酷な…』
万里亜は息を吐くと、沙織をまっすぐに見た。
「分かりました。お引き受けしましょう」
「本当ですか!?」
沙織の顔がぱっと輝いた。
「良かった…。断られたらどうしようかと思っていました」
「今、目の前に危機的状況があって、それを回避するためには私しかいない。そんな状況で断れる道理もありません」
沙織は申し訳なさそうな顔をしていたが、万里亜から見れば沙織は義務教育も終わらない年頃の少女だし、女神という立場で考えてもヘスティアの方が年長なのだ。やはり、自分よりも年若い少女に何もかも背負わせているのは心苦しく思う。
万里亜が冥界へ行くに当たり、アフロディーテが護衛の為に供をする事になった。
「うーん…。嬉しいとは思うけど、なんかビミョーな気持ちになるなぁ」
万里亜は複雑な気持ちを抱きつつ、普段から持ち歩いている御守りを握りしめる。
『無事にお勤めを果たせますように!』
長年の習慣ではあるが、神である自分が神頼みをしてしまう事に、万里亜は苦笑せずにいられなかった。
冥界には、巨蟹宮に繋がった空間の歪みから入る事になっていた。
沙織に連れられて巨蟹宮に来た万里亜は、その禍々しい雰囲気に思わず足が竦んだ。
宮の中央広間まで来ると、ぽっかりと宙に漆黒の口が大きく開いていた。
向こう側には、時折揺らめきながら、かつて人であったと思われる物体が蠢いていた。どのモノもこちらに来ようと恨めしそうに手を伸ばしたり、這い出そうと空間の隙間を探している。
「…こ…ここ、です…か?」
引き攣る顔で沙織を見ると、彼女は心配そうな表情を浮かべながら、小さく頷いた。
まさにあの世への入口が目の前に自分を飲み込もうと開いている。万里亜はゴクリと生唾を飲み込む。
「へっ!こんなんでビビってんじゃ、話にならねえぞ!ヘスティア様よ」
薄暗い宮殿に男の声が響いた。
万里亜の体がビクッと震えた。恐怖感から、思わず隣にいたアフロディーテのマントを掴んでしまった。
「デスマスク、口を慎め!」
アフロディーテが睨みつけると、暗闇の方から、蟹座の黄金聖衣を纏った眼光の鋭い男が歩いてきた。
「よう、アテナ様、アフロディーテ。このお方がヘスティア様か?大丈夫か、こいつ?かなりビビってるじゃねえかよ」
デスマスクと呼ばれた男は万里亜の顔を舐めるように見ると、あからさまに小馬鹿にしたな口調で言った。
「お前、口が過ぎるぞ。それ以上言うと私が許さんぞ」
アフロディーテが間に割って入った。その様子を見て、デスマスクは声を立てて笑った。
「何だよアフロちゃん、冗談だよ!悪かったな、お嬢さん」
そう言うと、デスマスクは徐に万里亜の前に跪いた。
「御無礼をお許しください、ヘスティア様。俺が、巨蟹宮を守護する蟹座のデスマスクです」
「あ、初めまして。私が今代のヘスティアで阿倍万里亜です!」
ペコリと頭を下げると、デスマスクはまた声を立てて笑った。
「おもしれー女神様だな、あんた」
くっくと肩を揺らして笑う蟹座の男もまた、万里亜の記憶に残る先代の蟹座とよく似ていた。
「阿倍先生、くれぐれもお気を付け下さい。アフロディーテ、頼みましたよ」
心配そうに二人を見る沙織に、「頑張って来ます」と笑顔で言うと、結界内へ足を踏み入れた。
デスマスクが張った結界は、生者には何ら影響を及ぼさないと説明されていた。恐々と足を踏み出した万里亜だったが、スムーズに冥界へと入れる。
薄暗い空間に入ると、先程見た亡者がわらわらと寄ってくる。何かを口々に言っているが聞き取れない。
一匹の亡者が万里亜の腕を掴もうとした。
「!…嫌っ!」
その手を振り払うと、恐らく腐っていたのだろう、いとも簡単にボロリと肘から崩れ落ちた。
これが死の世界なのか。
万里亜は喉が緊張し、声を発する事も出来なかった。膝はガクガク震え、目には涙が滲んでくる。
『どうしよう、怖い…!』
その時、何かが体に掛けられ強い力で引き寄せられた。
俯いていた顔を上げると、すぐ上にアフロディーテの端正な顔があった。どうやら、マントを掛けて周囲が見えないようにしてくれたようだ。
「あ、あの…?」
「万里亜、私がいるから心配しないで」
「アフロディーテさん…」
掛けられたマントからは、懐かしい薔薇の香りがする。自分が守られているという安心感。アフロディーテの優しい声と温もりに思わず寄り添ってしまいたい衝動に駆られる。
『いやいや、私には仕事がある!!』
弱気になる自分に無理矢理言い聞かせ、両頬をペチペチと叩いてみる。少し頭がすっきりした気がする。そこでアフロディーテのマントからするりと抜け出すと、「もう大丈夫です」と言い再び歩き出した。
冥界は万里亜が想像していたよりも静寂な、そして荒廃した世界だった。
剥き出しの岩々は不気味さな形状をしていて、そこには雑草の一本も生えていなかった。空は暗赤色に染まり、紫色の雲が垂れ込めている。
重苦しい雰囲気が漂う中を歩いているが、舗装された道が続いているわけではなく非常に歩きづらい。時折、建造物の残骸と思しき瓦礫の山が目に止まった。だが、他には何もなかった。
「冥界にも、建物ってあったんですね」
「ああ。ハーデスがいなくなったことで、今は崩れてしまっているけどね」
「じゃあ、ハーデスを蘇生したらこれらも元通りになるのかしら…?」
恐らく冥界には冥界の掟や秩序があって、それらの良し悪しはともかく、ここで暮らしていた者たちもいたのだろう。
死者は裁かれ、生前の罪を償うためにそれぞれの罪に応じた地獄へ落とされる。
今は死者を裁く者も導く者もない。死んだ者の魂はどこへ行ったのだろう。巨蟹宮で見た亡者はごく一部に過ぎないはずだ。
「ねえ、アフロディーテさん。今って、死んだ人達はどこに行くのかしら。ここに来るまでの間、誰にも会っていないでしょ?冥界なのに死んだ人がいないなんて…」
「恐らくは地上に留まったままか、或いは巨蟹宮の様に地上と通じている場所を探して彷徨っているか…。」
「ふーん…」
地獄は救いにならないが、死者の行き場がなかったり、生きている人々に影響が出るのは良い事だと思えなかった。地上と冥界は共存共栄の世界で、その均衡は非常に脆弱なものだったのだ。
恐らく、冥王軍が勝利を収めていたとしても、別の問題が発生していたに違いない。
「アフロディーテさん、私達はどこに向かっているんですか?」
今更な質問であるとは思ったが、目的地が分からないというのも、歩き通しの身にはつらいものがある。
「今向かっているのは、第八獄のコキュートスというところだよ。そこに三巨頭が治めていた宮殿がある。そこに彼らの冥衣があるはずだ」
「遠いんですか?」
「まだ、三分の一も来ていないよ?」
「…はあ…訊かなきゃよかったかも…。どっと疲れちゃった…」
肩を落とす万里亜を見て、アフロディーテはくすりと笑った。
「じゃあ、私が抱っこしてあげるよ。疲れただろ?」
「え!それは…ちょっと…」
たじろぐ万里亜を見たアフロディーは、今度は声を出して笑った。
「今更?聖域に行くときだって、こうして抱えて行ったじゃないか」
と言うや否や、ひょいと万里亜を抱き上げた。
「それに」
アフロディーテは万里亜の耳元に形の良い唇を近付け、「昔はもっといい事しただろ?」と甘い声で囁いた。
「な…!」
万里亜は恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆った。きっと首まで真っ赤になっているに違いない。
『別の人に来てもらえば良かった!!』
心の中で後悔をする。
一方、万里亜を抱えたアフロディーテは上機嫌で、その足取りは軽やかだった。
アフロディーテは一向にペースを落とすことなく、どんどんと先へ進む。
「アフロディーテさん、休憩しなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。それにあまり時間がないしね。早く先に進みたいんだ」
万里亜を抱えながら悪路を行くのは、いかに聖闘士といえども楽ではないだろう。そう思い少しの休息を提案してみたが、あっさりと却下された。
確かにアフロディーテの言うとおりだ。あの時、巨蟹宮の空気は悪かったし、守護人を務めるデスマスクには疲労の色が見えていた。アフロディーテが、『あいつが、あれ程消耗したところは初めて見た』と言っていた事を思い出す。
『それだけ、切羽詰まっているってことなのね…』
この先、自分の力が役に立つのだろうか。そんな不安が、万里亜の心の中で頭をもたげていた。
冥界三巨頭を蘇らせ、『浄罪の炎』が消えていればそれを灯す。そして、ハーデスを復活させる事。
女神として覚醒したばかりの自分にそんな大仕事が務まるのだろうか…。
冥界は薄暗く、どのくらいの時間が経過したのか、今が何時なのか全く分からない。それでも、万里亜を抱えたアフロディーテは全く気に留める様子もなく歩き続ける。
「アフロディーテさんは、いつからアルバフィカの記憶があるんですか?」
「え?」
万里亜の唐突な質問にアフロディーテの足が止まった。
「私、アフロディーテさんと会って色々お話して、それで漸くアミリアの記憶を思い出しました。だから、アフロディーテさんはどうだったのかな、と思って…」
「…私は、聖戦の後だよ。生き返ってからだ」
今まで万里亜の質問には淀みなく答えてくれていたアフロディーテが、これについてはやけに歯切れが悪かった。
『訊いちゃいけなかったかな…?』
別に「物心がついたときから」とか「魚座の聖衣を頂いたときに」といった叙情的な答えが欲しかったわけではない。それでも、彼の答えに些かの寂しさを感じたのは、自分の我儘だからなのかもしれない。万里亜はそう思った。
吹いてくる風が少し冷気を含んだものになった。ぶるっと体が震える。
「寒い?」
「ええ、少し」
万里亜は自分で自分の腕を擦る。その様子を見たアフロディーテは、マントを外して万里亜の体に巻いてやる。
「うわ、あったかい…」
思わずマントに顔を埋める。
「それに、薔薇のいい香り…」
うっとりと目を閉じて、アフロディーテの温もりに甘える。
「君は、アミリアと似ていないね」
不意にアフロディーテの口から零れた言葉。
「え…?」
「いや…、何でもない」
『アミリアと似ていない』とはどういう意味なのか。アフロディーテは今でもアミリアを恋い慕っているのだろうか。自分はアミリアのように品があるわけではないし、ヘスティアのように毅然としているわけでもない。もしかしたら、彼をがっかりさせてしまったのかもしれない。
そう考えると、万里亜は少しだけ胸が痛むのだった。
「万里亜、ここからコキュートスだ。もっと行くとカイーナが見える。天猛星ワイバーンのラダマンティスが治める宮殿だよ」
氷地獄のコキュートスを満たす冷気は体を芯まで凍えさせる。口から吐き出す息は真っ白だ。
「アフロディーテさん、寒くないですか?私ばっかり温かくて…」
万里亜はアフロディーテのマントに巻かれて抱きかかえられているため、さほどの寒さは感じない。しかし、アフロディーテは魚座の聖衣のみで防寒具を身に付けている訳ではない。
「黄金聖衣は、太陽の恵みを神話の時代から受けていて、防寒にも優れているんだ。絶対零度にならないと凍りつかないくらいだから、心配はいらないよ」
万里亜に笑いかけると、そっと額に口付けた。
「な、ななな!何ですか!いきなり」
万里亜は不意打ちを食らって、慌てふためいてしまった。
「元気は出た?」
涼しい顔で答えるアフロディーテを睨みつけるものの、それが何も効果のない事は分かり切っていた。
『アフロディーテさんもアルバフィカとは違うなあ…』
冷たい空気に触れているはずなのに、万里亜の顔は火照りっぱなしだった。
見上げたカイーナの屋根には翼竜の像が居座っている。恐ろしげな顔をした翼竜たちは、そこを訪れる者を隙あらば食い殺そうと、虎視眈々と狙っているように見える。
「屋根の上のあれが、ワイバーンですか?」
「ああ。かなり厳めしいだろ?ラダマンティスという冥闘士にはぴったりかもしれない」
万里亜は翼竜みたいに恐ろしげな男を想像し、『ちょっと嫌かも…』と考えていた。
カイーナに入ったら、まずはワイバーンの冥衣を見つけなければならない。外観を見ただけでも、随分な広さがあると想像できる。アフロディーテと手分けをした方が良いのか、一緒に探した方が良いのか判断に迷う。
「万里亜、何を難しい顔をしているの?」
「えっ?」
普段の癖で、また眉間にシワを寄せて考えていたらしい。シワを指先で伸ばすと、アフロディーテに言った。
「いえ、冥衣をどうやって探そうかと考えていたんです」
『中は広そうだから…』と困ったように呟くと、アフロディーテがカイーナの入口を見るように言った。
万里亜が言われた方に目を向けると、そこには冥界の宝石の様に黒く輝くワイバーンの冥衣が、カイーナへの侵入者を威嚇するかの様に鎮座していた。
「あれがワイバーンの冥衣…」
アフロディーテの腕から下りた万里亜は、ワイバーンが襲いかかって来るのではないかと怯えながら、そろそろと冥衣に近づいた。
指で冥衣をつついてみるが、当然の如く何も反応はない。ホッと息を漏らすと、今度は冥衣に手を翳す。何かの気配を探るように、感じ取ろうとしているかのように、じっと冥衣を見つめ集中している。
「アフロディーテさん、ラダマンティスって言いましたっけ?ワイバーンの冥闘士の名前…」
「…何か分かったのか?」
こくんと頷いた万里亜は、笑顔でアフロディーテの方を振り返った。
「はい。この人、真面目で熱い人だったんだなって感じます。もう、笑っちゃうくらいに。融通がきかない頑固者っていう印象です」
確かにそういう男なのだろう。感情的と言えば感情的だった様な気もする。
「早速始めましょうか」
再び冥衣に手を翳し意識を集中させ始めた万里亜を見ながら、アフロディーテは考えていた。
聖戦のときはハーデスの支配下にあり、聖闘士としての力を封じ込められていた。それは、ハーデスが決して本心からアテナの聖闘士である自分達を信用していなかったからに他ならない。それでも、冥闘士の前に成す術もなく敗れ去った過去は思い出したくもないし、万里亜に知られるのも嫌だった。
万里亜はアルバフィカと自分を同一視しているとアフロディーテは感じていた。彼にはそれがつらかった。
アルバフィカとは違う生き方、死に方をした自分を彼女は赦してくれるだろうか。
