キオクノカケラ
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オリンポス十二神の一柱である女神ヘスティア。家では、生活の中心である炉を守ることで家内安全を司り、家の最大単位である国家には、繁栄と安寧を与える神である。また、全ての孤児の守り神として、子供達に幸を給する存在。
ヘスティアは、孤児やそれに準ずる立場の子等に恩恵を与え、守り慈しむ。
地上を守護するアテナを守り闘う聖闘士。その聖闘士の多くを守るのは、国家守護の役割を担うヘスティアに課された命であった。なぜなら、聖闘士になるための訓練を受ける子供達の多くは、親兄弟との縁が薄い。その為か、問題行動を起こす子供が少なくない。それは聖域内も例外ではなかった。
聖戦が近付くと地上に降臨するアテナ。
ヘスティアはアテナに先んじて降誕し、聖闘士達に加護を授ける。
「ルゴニス、そなたの弟子のアルバフィカ、あれは何歳になった?」
「先日、七歳に…」
教皇宮へ任務完了の報告に訪れた魚座の黄金聖闘士ルゴニスは、教皇から愛弟子のアルバフィカについて質問され、思わず頬を緩めた。
「教皇様のお弟子のマニゴルドも、確か同じ年頃では?」
教皇が蟹座の後継者に、と連れてきた少年。聖域内ではその粗暴さが問題視されていたのだが、教皇の直弟子であるため、マニゴルドに注意する人間は、ごく一部の者だけだった。
「全く、あれは乱暴者でいかん。そなたの弟子とは比べ物にならない」
つい昨日も、訓練の最中に候補生の一人に大怪我を負わせたにも関わらず、『あいつのガードが甘いからいけない』と悪びれもしない弟子を思い出し、教皇はため息混じりに言った。
「何を仰いますか。アルバフィカが、マニゴルドはとても優しいと申しておりました」
「ほう…。あの二人は仲が良いのか?」
興味深い様子で教皇は尋ねた。
「どうやらその様です」
「そうか、そうか」
お互い愛弟子の事に関しては、何かと心配になる。師である自分が親代わりになり育てているが、果たしてどの程度役割を全うできているのか、時折不安になる
「ルゴニスよ。これからも、マニゴルドがアルバフィカと仲良くする事を許してやってはくれないだろうか。信頼できる者がいれば、きっと、あやつも変われるのではないかと思うのだ」
「は!アルバフィカにとっても、友人の存在が不可欠になるかと…。魚座を継ぐとなれば、尚更…」
魚座は毒の体を持つ事が宿命。蟹座は死界と通じる力を身に付ける。彼らがその人外の能力の為に、孤独の中で生きていく事は望まない。
「お互い、親バカだな」
同じ年頃の弟子を持つ男達は、明るく笑いあった。
「おーい!組み手しようぜ、アルバちゃん!」
「その呼び方はやめろ」
闘技場で訓練をしていたマニゴルドが、通りかかったアルバフィカに声をかけた。
「いいじゃん」
「良くない!」
いかにも悪戯好きで粗野な雰囲気のマニゴルドと、花の様に可憐で少女の様な容姿のアルバフィカ。正反対のタイプに見える二人だが、何故か気が合う。
どちらともなく誘いあって、手合わせをする事も多かった。
「今日はダメ」
「何で?」
「教皇様に呼ばれている」
「えー!ジジイに呼び出し食らうなんて、何やらかしたんだよ、アルバちゃん?」
アルバフィカは、人一倍口の悪い友人を軽く睨んだ。
「お前、教皇様の事ジジイって呼ぶなよ。それと、私の名前はアルバフィカ。省略するな」
マニゴルドには前から何度も注意しているのに、一向に改善される気配がない。
「こっちの方が親しげで良くないか?」
「…お前、マニちゃんって呼ばれたいと思うの?」
「それは俺には似合わねーな」
そう言いながら、マニゴルドは大笑いをした。
アルバフィカは盛大なため息をつき、肩を竦めた。そして、「またな」とマニゴルドに片手を上げると、教皇宮に向けて歩き出した。
教皇宮では、アルバフィカの師、ルゴニスも待っていた。
「遅くなってすみません」
ペコリと頭を下げるアルバフィカに教皇は、「アルバフィカは行儀が良いな」と、感心した。
「ルゴニス、これならば大丈夫であろう。早速、明日にでもお目通りできるよう、私から頼んでおこう」
「恐れ入ります」
教皇と師の会話が見えてこず、きょとんとしているアルバフィカの頭を撫でながらルゴニスは説明をした。
「アルバフィカ、明日はヘスティア様にお目通りできる日だ。聖闘士や訓練生は教皇様からの推薦があると、月に一度、ヘスティア様への謁見が許されているんだよ」
「ヘスティア様?」
「ルゴニスよ、後は私から説明しよう」
そう言うと教皇は、ヘスティアが世界を安寧に導く神である事、家族との縁が薄い子供の守り神である事、そして、聖闘士や訓練生はヘスティアから加護を受けられる事を説明した。
「お前は七歳になったから、謁見をさせて頂けるよう、教皇様にお頼み申し上げていたんだよ」
ルゴニスの説明によると、ヘスティアに拝謁できるのは、七歳から十七歳の最後の月までと決まっているそうだ。
だが、アルバフィカはアテナ以外の神に謁見するなど、正直どうでも良い事だと思った。聖闘士を目指す自分にとって神はアテナだけなのだから。
そう、思っていた。
聖域内の特別区に、ヘスティアが滞在する宮殿があった。絢爛ではないが、入口の花壇には色とりどりの花が咲いており、訪れた者の目を楽しませてくれる。
アルバフィカは、教皇とルゴニスに連れられ宮殿に来ていた。アルバフィカの他にも、多くの聖闘士や訓練生達が拝謁の為、宮殿前に集まっていた。
「アルバちゃん!」
アルバフィカは、この呼び方をする人物を一人しか知らない。振り返ると案の定、逆立った髪の毛の友人がニカッと笑って手を振っていた。
友人は小走りで寄ってくると、「おはよう!」と元気に言った。
「マニゴルド、『アルバちゃん』は無し!今日は絶対に禁止!」
指でバツを作り、マニゴルドに見せた。
「分かってる。今日はナシな」
案外、あっさりと言うことを聞いてくれた友人に、少し拍子抜けした。
「ははっ、びっくりしてるだろ?」
「うん」
アルバフィカが頷くと、マニゴルドは少し偉そうに胸を張って言った。
「仮にも、教皇セージの弟子である俺様だぜ?場を弁える事くらいは知っている!」
傍若無人なこの友人の口から出た、まさかの常識発言。
「お前、意外と常識あるんだね」
「意外、は余計だっつーの」
二人は顔を見合せて笑った。
ところでさ、と不意にマニゴルドがに真顔になった。
「お前、ヘスティア様に拝謁するの初めてだろ?」
「ああ」
「どんな女神様か聞いてるか?」
マニゴルドの言いたいことがよく分からないが、アルバフィカは、昨日教皇とルゴニスから聞かされた事を話した。それを聞いてマニゴルドは、「それならお前、びっくりするぜ?」とニヤリと笑った。
謁見は、年長者から順番に行われるのが慣例だった。子供達は、年齢順に整列させられ、自分の番が来るまで控えの間で待たされる。
アルバフィカとマニゴルドは最年少の為、謁見は最後になる。
「随分と待たされるんだね」
アルバフィカが、隣で大あくびをしているマニゴルドに小声で話しかけた。
「ん?そうなんだよ。この前なんて二時間も待たされたんだぜ?俺なんて、教皇の弟子だから絶対来なくちゃいけないんだ」
耳を掻きながらマニゴルドは、さも面倒と言わんばかりの視線を、謁見の間に向けた。
確かに二時間も待たされるのはかなわない。アルバフィカは心の中でそっと友人に同情した。
『そこまでして謁見する必要、あるのかな…?』
子供心にも納得しない物を感じながら、アルバフィカはただ、じっと椅子に座っていた。
「アルバフィカ、起きなさい」
ルゴニスに肩を揺すられてアルバフィカは目を覚ました。どうやらいつの間にか眠っていたようだ。
マニゴルドは謁見の間の入口で、順番を待っていた。
「マニゴルドが入ったら、入口前に移動する。扉が開いたら入室するんだぞ。私は一緒に入れないが、お前なら大丈夫だろう」
そう言って、ルゴニスはアルバフィカに謁見の作法を説明した。
マニゴルドの順番になったようだ。ちらりとアルバフィカを見ると、親指を立てて、扉の向こうへ消えていった。アルバフィカは、先程マニゴルドが立っていた位置で待機する。
『ヘスティア様ってどんな方なんだろう』
分厚い扉に耳を当ててみるが、当然中の様子など分からない。
『マニゴルドは、びっくりするって言っていたけど…』
首を傾げていると、しばらくして内側から扉が開いた。
「待たせたな、アルバフィカ。お前で最後だから、ゆっくり話ができるぜ」
アルバフィカの肩にポンと手を置いたマニゴルドは、「お先に」と言うと、ルゴニスに一礼して帰って行った。
「失礼します」
一礼して入室したアルバフィカに、伝統的なキトンに身を包み、髪の毛を結い上げた美しい女官が「そのまま、玉座前までお進みなさいませ」と教えてくれた。
アルバフィカは、緊張しながら言われた通りに玉座前まで進んだ。
壇上に女神がいるはずだが、薄いカーテンで仕切られていて、姿の確認が出来ない。だが、気配で誰かいるのは分かる。アルバフィカは膝を着き、頭を垂れた。
「ヘスティア様、お初にお目にかかります。私は魚座の黄金聖闘士ルゴニスの弟子で、アルバフィカと申します。本日は拝謁のお許しをいただき、ありがとうございました」
ルゴニスに教えられた通りの挨拶をする。すると、カーテンの内側から人が出てくる気配がした。
「面を上げなさい。アルバフィカ」
『え!?子供?』
幼い声に驚いて顔を上げた。目の前の壇上には、自分と同じ年頃の少女が笑顔で立っていた。
「初めまして。私がヘスティアです」
「ふふ、こんな子供で驚いた?でも、私も驚いているの。さっきマニゴルド君が教えてくれたの。すっごく可愛い子が最後に待っているって」
ニコニコと話すヘスティアに、嫌な予感がした。
「本当にすっごく可愛いわね。だけど、アルバフィカちゃんはどうして仮面をしていないの?」
やっぱりだ!!あいつ、ふざけやがって!
アルバフィカは、心の中でマニゴルドに悪態をついた。
「…ヘスティア様。恐れながら、私は男子ですので、仮面は必要ないのです」
「え!?男の子?」
「はい」
「そうなんだ…」
ヘスティアは、幾分落胆した声で肩を落とした。
がっかりしているヘスティアに、自分が悪い事をしている気持ちになってしまった。それにしても、何と神らしくない神なのだろうか。小宇宙の片鱗も感じない。
「ヘスティア様、余計なお喋りは、そのくらいになさいませ」
「…はい」
先程の女官が厳しい口調で諌めた。アルバフィカは、シュンとしてしまったヘスティアに少し同情した。
「ヘスティア様、アルバフィカに加護の印を」
「はい」
ヘスティアはアルバフィカの前に進むと、同じ様に膝を着いた。自分の人差し指と中指を唇に当て、次にアルバフィカの額にその指をそっと触れた。
「貴方に加護の印を授けます。今後も修行に励んで下さい」
謁見を終え、アルバフィカはルゴニスと共に、宮殿を後にした。
「アルバフィカ、驚いたであろう?ヘスティア様はな、お前と同い年なんだよ」
「私と?」
ヘスティアはアテネ郊外にある田舎町の農家に産まれた、アミリアと名付けられた少女だったという。
アミリアには産まれつき稀有な力があり、地元では『奇跡の少女』と呼ばれていたそうだ。だが成長するにつれて、その力を本人も制御出来ない程になっていったという。
噂を聞き付けた聖域が少女を引き取り、こちらに住まわせたところ、女神ヘスティアとして覚醒した。
アルバフィカは幼い女神が隔離された宮殿で友もなく、畏敬の対象として特別に扱われる運命である事に、少しばかり胸が痛んだ。
『だからあんなに嬉しそうだったんだ』
自分を少女だと勘違いした幼い女神。きっと、自分と友達になりたかったに違いない。
ヘスティアに謁見できるのは月に一度だけと決まっている。
「どうしたら会えるかな…」
マニゴルドに相談してみるか、と闘技場にやって来た。
だが、組み手をしている訓練生の中に、マニゴルドの姿はなかった。
「用事があるときに限っていないんだよね…」
『取り敢えず、宮殿の近くまで行ってみよう』
アルバフィカはヘスティアの宮殿へ向かった。
宮殿の入口には護衛が立っていて、正面からは入れない。また、周辺にも数名の見廻りがいて警備は厳重だった。
『どこか入れそうな場所は…』
辺りの岩に隠れながら伺うものの、まだ幼いアルバフィカは突破口を見つけられずにいた。
アルバフィカは小さな体がすっかり隠れてしまう岩にもたれ、困り果てていた。
『…ん…ィカ…君、ルバ…カ君』
何処からかアルバフィカの小宇宙に直接声がかかる。
「誰?」
『あ、聴こえる?』
「ヘスティア様?」
立ち上がり周囲を見回してみるが誰の姿も見当たらない。
『アルバフィカ君、私ね、小宇宙に直接話しかけているの。貴方も小宇宙を使って?』
小宇宙を使った会話をするのは初めてだ。目を閉じて、意識を集中する。
『ヘスティア様、聞こえますか?』
『うん。大丈夫』
『私が近くまで来ていたのが分かったんですか?』
『うん。アルバフィカ君の小宇宙って、すっごく優しくて綺麗だからすぐわかったの。でも、どうして此処に来たの?』
『あ、あの…私は…』
アルバフィカは一瞬躊躇ったが、思い切って自分の願いを言ってみた。
『い、今からお会いできませんか!?』
『いいよ』
『え?』
想像していたよりもあっさりと事態は運んだ事に面喰らう。
『でも、今は宮殿に入れない時だから、そうだな…闘技場で待っててくれる?』
『はい!』
アルバフィカが闘技場に戻った頃は、昼の休憩時間のためか人影はなかった。少しだけ鼓動が早まった胸を鎮めるため、深呼吸をしながら石段に座っていると、アルバフィカの目の前の空間がスパークし歪みが出来た。
バチン!
閃光が走り、何かが弾ける音がした。眩しさに思わず目を閉じる。
「アルバフィカ君」
名前を呼ばれ目を開けると、そこにはヘスティアが笑顔で立っていた。
「ヘスティア、様…」
「えへへ、来ちゃった」
いたずらっぽく笑ったヘスティアがアルバフィカの横にすとん、と座った。
アルバフィカは驚きのあまり、言葉が出てこなかった。
自分と並んで石段に腰掛けている少女は、長い睫毛に縁取られた大きな瞳と、形の良い紅い唇の、可愛らしい顔をしている。
アルバフィカ自身も少女の様な風貌をしているが、本当の少女と並ぶと、やはり男子である自分は全く異なる造作をしていると思う。
『女の子って、可愛いんだな…』
隣の少女に思わず見惚れてしまう。
「ねえ、アルバフィカ君」
「え!は、はい!」
名前を呼ばれ、過剰に反応してしまった。
「やだ、そんなに驚かないで?…あのね、どうして宮殿に来たの?」
至極当たり前の質問だった。もし「友達になりたかったから」と言ったら、この幼い女神はどのような反応をするのだろうか。
「私ね、この前の謁見の時、あなたを女の子と間違えてしまったでしょ?だから、悪い事しちゃったなって思って。ずっと、謝りたかったの。ごめんなさい」
ペコリと頭を下げた女神は、やはり自分と変わらない、年相応の普通の少女にしか見えなかった。
年齢は一緒だが、自分と彼女は立場が違う。本来であれば、こうして隣り合わせに座るなど非礼極まりない。
まだ幼いながらも、聖域育ちのアルバフィカはそういった序列を弁えている。勢いで彼女を呼び出してしまったが、やはりまずかったのではないかと不安になる。
そんなアルバフィカの心情を察したのか、女神の少女は、にっこりと笑うと「これあげる」と焼き菓子を差し出した。
「これは…?」
アルバフィカが怪訝な表情をする。
「宮殿にはね、色々な人が来るの。外国の偉い人とか、大金持ちの人とか。そういう人がお土産で持ってくるの。私ね、アルバフィカ君とお友達になりたくて、もしよかったら…と思って持ってきたの」
本当にごくごく普通の少女だ。アルバフィカは、立場や身分の違いに関係なく、この少女と友達になりたと強く思った。
二人は闘技場の石段に座って、色々な話をした。少女は、生い立ちの事や自分に備わった能力の事、聖域に来た経緯を教えてくれた。
「アルバフィカ君は?どうして聖闘士になろうと思ったの?」
「え?どうして…って訊かれても…」
至極当たり前の質問ではあった。彼女の様に、選択の余地が無かった…という訳ではない。きっと師ルゴニスは、アルバフィカが聖闘士の道を選ばなかったとしても、彼を育ててくれたに違いない。だが、自ら師と同じ道を進もうと思った。それは、きっと…
「先生みたいに、立派な聖闘士になりたいって思ったから」
それは偽りのない気持ちだった。
「聖域に捨てられていた私を拾って、ずっと育ててくれているんだ。だからね、先生の為にも立派な聖闘士になって、恩返しをしたいんだ」
「そうだったの…。ごめんね、嫌な質問しちゃったね?」
少女は俯いて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「そんな事ないよ!ただ、今までそういうことって訊かれなかったから、余り考えた事がなかったって言うか…」
アルバフィカは慌てて首をブンブン振った。必死に否定したのは、彼女のこんな顔は見たくないと思ったからだ。
「で、でも、魚座の黄金聖闘士になったら、ヘスティア様の事、必ずお守りします!」
思わず口をついて出た言葉に、アルバフィカ自身驚き赤面した。
「ありがとう。すごく嬉しい!」
アルバフィカの言葉に、少女は花が綻ぶように笑った。その何とも言えない愛らしい笑顔に、アルバフィカの瞳は釘づけになった。幼い胸がドキドキする。
「じゃあ、私も立派な女神様になれるように頑張るね」
少女は「約束ね」と小指を立てた。アルバフィカは、その指に自分の小指を絡めて「約束するよ」と満面の笑みで答えた。
楽しい時間ほど過ぎるのが早い。闘技場にも人影が戻ってきた。少女は立ち上がり、服の埃を払いながら言った。
「じゃあ、私そろそろ戻るね。女官長のサラさん怖いんだ」
「あの綺麗な人?」
謁見の間にいた美しい女官。彼女から少し冷たい印象を受けたのは間違いない。
「うん。でも、私が神様っぽくないから怖くしちゃうんだと思うの。こうして脱走しちゃうしね」
「でもそれは、私が誘ったからで…」
「そうなんだけどね、そのお誘いを断らなかったのは私だから。アルバフィカ君が悪い訳じゃないの」
「そうは言っても、それでヘスティア様が叱られるのは、申し訳ないよ」
「気にしないで」
シュンとして俯くアルバフィカに、少女は笑って言った。
「って言っても無理かな…?じゃあ、一つ私の我儘を聞いてくれる?」
「…我儘?」
「私ね、本当の名前はアミリアっていうの。だから、これからはヘスティアでなくアミリアって呼んでほしいな」
少女は可愛らしく首を傾げて「いい?」と訊いてきた。
「…勿論だよ!」
アルバフィカは大きく頷いた。大人には内緒の秘密の共有。少しばかりの背徳感が、却って胸を高揚させる。
アミリアは「またね」と言うと、キトンの裾を翻し宮殿まで走って行った。
アルバフィカは走り去るアミリアの華奢な背中を、いつまでも見つめていた。
『あ、お菓子のお礼言ってないや』
貰った菓子を一口齧ると、バターの豊かな風味と、アーモンドの香ばしさが口の中に広がった。
アミリアが戻ると、宮殿は上を下への大騒ぎになっていた。女官長のサラは、頭の血管が切れるのではないかと心配になるほどの大激怒で、警備の兵達を怒鳴りつけていた。
「うわあ…、どうしよう…」
ある程度想像していたとは言え、ここまでとは思っていなかった。正面から堂々と行くか、テレポーテーションをするか、いずれにしても女官長からの叱責と追及は免れないだろう。
アミリアはきゅっと目を瞑り、一つ息を吐いた。意を決し、あくまでも女神らしく凛とした態度で帰りを告げた。
「ただいま戻りました」
アミリアの姿を認めたサラは、表情を強張らせたままツカツカと大股で歩み寄ってきた。アミリアはこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、サラを見据えたまま一歩も動かなかった。
「ヘスティア様、どちらへお出かけでしたか?」
平静を保とうとしているが、サラの声は怒りに震えている。
アミリアはゴクリと唾を飲み込んでゆっくりと口を開いた。
「…人と会っていました」
その答えにサラのアーチ形に整えられた眉毛がピクリと動いた。癇に障った時の彼女の癖だ。
「人と会っていたですと!?一体、何をお考えなのですか!勝手に外の人間に接触するなど、どれほど重大な過ちかお分かりではないのですか?お戯れも大概になさいませ!ヘスティア様!!」
甲高い声で叱責したサラは、アミリアを睨みつけると今度は鼻を鳴らした。
「大層ご立派な女神様でございます。ご自分のお立場を全く弁えていらっしゃらない!」
これだけ皮肉たっぷりに叱りつけられるのはいつもの事だ。これまでなら縮こまって肩を竦めるアミリアだが、今日は違った。
『私、立派な女神様になるんだ。約束したもの!』
アミリアは怒りに震えるサラを見上げ笑顔を作った。
「サラ、貴女に断りもなく外出した事や勝手に人間と接触したことは謝りましょう。ですが、先程から黙って聞いていれば、何ですか?」
アルバフィカと繋いだ小指には、微かに彼の小宇宙が残っている。
『アルバフィカ君、私に…私に勇気を頂戴』
拳をギュッと握り、震える膝に力を入れた。
「お前、私にそのような口を利いて、どういうつもりですか?私を誰だと思っているのです。お前こそ立場を弁え、口を慎みなさい!」
いつもなら、サラから叱責を受けると小さな体を一層小さくして涙を流していた幼い女神が、今日は堂々とした態度できっぱりと言い返した。
これには、今度はサラの方が言葉に詰まってしまった。サラは悔しさを抑え「大変に申し訳ございませんでした」と震える声で答えるのが精一杯だった。
自室に戻ってからも、まだ胸がドキドキしていた。
「サラさんに凄い事言っちゃった…」
神以前に、人としても未熟な自分が随分と立派な事を言ったものだ。
『あんな事言って良かったのかな…?』
寝台に身を投げ出し枕に顔を埋めると、一気に疲労感が押し寄せる。昼食を食べていないし、午後には勉強の時間もある。それはわかっていたが、アミリアは暫く動く事が出来なかった。
アミリアが脱走劇を演じ誰かと密会した上に、「あの」女官長を一喝した事は、翌日には聖域内の噂になっていた。
護衛の兵士が広めたのか、お喋り好きな女官の立ち話から広まったのか。
いずれにしても、娯楽の少ない聖域では、ゴシップは意図も簡単に知れ渡ってしまう。
「なあ、アルバちゃん」
「何だよ」
「お前だろ?ヘスティア様と会ってたの」
この友人は大雑把な性格だが、妙に勘が良い。
「…そうだよ」
「やっぱりな…。まずいだろ、それ」
マニゴルドは顔を顰めた。
「……」
アルバフィカは返す言葉が出てこなかった。
「もうするなよ」
マニゴルドはアルバフィカの肩を小さく叩くと『これからジジイのところに行くから』と怠そうに言いながら行ってしまった。
マニゴルドの言わんとする事は理解出来た。相手は女神だ。特定の誰か─特に加護の対象者─と親しくするなど御法度だ。
アルバフィカは、心に芽生えたばかりの淡い気持ちの芽を、自ら摘み取るしかないのだと、幼心に理解していた。
アミリアが宮殿を脱走してから半年が過ぎた。
アルバフィカは修行に明け暮れ、アミリアもまた、女神修行で多忙な日々を送っていた。
月に一度の謁見は形通りに行われ、相変わらず女官長のサラが、ツンと澄ました顔で場を取り仕切っていた。常に儀式は滞りなく済まされ、アミリアとアルバフィカの間にも、余計な言葉が交わされる事はなかった。
それでもアミリアは構わないと思っていた。月に一度は必ず会える。それが、アミリアの心の支えだった。
ところが─
アルバフィカはある月を境に、姿を見せなくなった。それはアミリアの心に深い深い傷を付けた。
『もう、会えないのかな…』
寂しさばかりが募る。
会いに行きたい気持ちはやまやまだが、脱走事件以来、監視の目が厳しくなっている。外出を打診したところで、あのサラが首を縦に振るはずがない。残る手段は一つ。
「呼び出そう!」
それしかない。アミリアは彼女の背丈には随分大きい豪奢な机の前に座ると、早速教皇への手紙をしたため始めた。
ヘスティアの宮殿から遣いの者がやってきた。
そろそろ何らかのアクションがあるだろうと思ってはいたが
「ほう…手紙とはまた、正統な手段をとられましたな、あの女神様は」
教皇は感心したように顎を撫でた。
封蝋を外して内容を確認する。少女らしい柔らかな文字で、丁寧に書かれた文面だった。
時候の挨拶から始まり、自分への機嫌伺と自身の近況報告。非常に形式ばったもので、まだ10歳にも満たない幼い女神の苦心の跡が目に見える。その後に続く本題は、教皇の想像通り魚座の弟子についてだった。
数ヶ月前からアルバフィカが謁見を欠席しているが、自分の加護印の効力は直に失われてしまう。一度宮殿に出向く様に伝えてもらえないか。
建前としては十分すぎるくらいだ。しかも、余分な事は一切書いていない。万が一、自分以外の誰かがこの手紙を読んだところで、何ら差し障りはない。だが、教皇はその裏に隠れている女神の本心を察していた。
「さて、どうしたものかの…」
魚座の血の儀式。魚座の聖闘士と後継者の間で行われる、互いの血の交換。自らの命を懸けての儀式。
「…が、はっ」
「…苦しかろう、アルバフィカよ…」
師ルゴニスの毒の血を受け、アルバフィカの幼い体は悲鳴を上げ続けていた。
「せ、せん…せ、い…耐え、ます…。耐えて、みせます…。ごほっ」
毒が体を蝕み、焼き鏝を当てられたかのように全身が痛む。肺の血管が破れ、喀血を繰り返す。呼吸が苦しい。呼吸をする度に、ゼイゼイと喉の奥が鳴る。
苦しむ弟子を見守るルゴニスもまた、苦悶の表情をしている。細い体を抱きしめ、背中を擦ってやることしかできなかった。
日に日にアルバフィカの呼吸が浅く、弱くなっていく。手首を取るが、脈拍を確認することは難しかった。
『…もはや、これまでか…アルバフィカ』
ルゴニスは愛弟子の死を覚悟した。
その時だった─
「ルゴニス!」
空間に走った光の中から飛び出して来たのは、栗色の髪の毛をした少女だった。
「ヘスティア様!!」
特別区の宮殿にいるはずの女神が、この場に突然現れた。
「ヘスティア様、どうして、ここに!?…いえ、それよりも早くお引き取り下さい!ここは危のうございます!」
ルゴニス達の暮らす場所は、毒薔薇に囲まれた小さな家屋で、聖域内でも立入禁止区域に指定されている場所だ。
魔宮薔薇の香気が満ちていて、ここにいられるのは耐毒体質の自分と弟子だけなのだ。
「用を済ませたら帰ります。アルバフィカに会いに来ました」
「アルバフィカに?いけません!」
「ルゴニス、私を早く帰したいのでしょう?なら、私をアルバフィカに会わせなさい。教皇から事情は聞いています!」
アミリアは引き留めようとしたルゴニスの手を払いのけた。
『何だ…この小宇宙は…?この少女、いつの間にこのような強大な小宇宙を…?』
黄金聖闘士である自分を遥に凌ぐ小宇宙にルゴニスは跪いた。
「ヘスティア様、恐れながらアルバフィカは魚座を継ぐための儀式の最中です。私の血をその身に受け…」
「ルゴニス、御託はいりません。アルバフィカに用事があるのです」
アミリアは、ルゴニスの言葉を遮り、凛とした口調で言った。
「…こちらです」
アミリアが発する小宇宙を間近で感じたルゴニスは、少女が女神として覚醒した事を悟った。そして、今のアミリアなら瀕死の弟子を救えるかもしれない、と一縷の望みを託し、女神をアルバフィカが寝ているベッドの前に連れて行った。
「…!アルバフィカ君!!」
アミリアはベッドに駆け寄る。
「いけませんヘスティア様!今、アルバフィカの体には毒の血が!触れてはなりません!」
しかし、アミリアは構わずにアルバフィカの手を取る。そして、その手の甲にそっと口付けた。
「この試練を超えられるよう、貴方に加護の印を授けましょう。アルバフィカ」
力の抜け切ったアルバフィカの手を暫く握っていたアミリアだったが、一度、ギュッと力強く握った後に手を離した。そして、そっと掛け物を直しルゴニスの方に向き直った。
「ルゴニス、神である私には魚座の毒は効きません。心配は無用です」
弟子よりも華奢で小柄な女神はにっこり微笑むと「邪魔しましたね」と、再び空間に作った光の輪の中へ消えた。
「…せ、ん…せい?」
程なく、ベッドから弱々しいながらも弟子の声が聞こえた。振り返るとアルバフィカが口元に笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「今…ヘスティア様が…」
「ああ。お前を心配して来て下さったんだよ。御加護の印も頂いた。きっと、大丈夫だろう」
ルゴニスはホッとした表情を浮かべ、目の前でベッドに横たわっている弟子の頭を優しく撫でた。
アミリアが強引にアルバフィカに加護印を与えてから、あれ程までに衰弱していた体は、目に見えて回復していた。
『…あの女神…。あの方であれば、あるいはアルバフィカを孤独の道から救って下さるかもしれない…。』
およそ十年後─
初めて会ってから何年経っただろうか。
アミリアは気高く美しい女神へと成長し、聖域を陰から支えるのに十分な力を備えるまでに至っていた。
一方のアルバフィカも、強さと美を兼ね備えた孤高の魚座の聖闘士になっていた。
互いに幼い子供ではなく、それぞれに重要な役割を担うようになった。時折、何かの儀式や公務で顔を合わせることもあったが、気安く話ができる間柄ではなくなってしまった。
「なあ、アルバフィカ」
「何だ」
昔馴染みの友は、いつの間にか蟹座の黄金聖衣をその身に纏うようになり、自分を『アルバちゃん』と呼ばなくなった。お互いに大人になったということだろうか。
「今でもヘスティア様と話したりするのか?」
この友人は、大体昔から妙なところに勘が働くのが厄介なのだ。自分でも気付かないうちにアミリアの姿を目で追っている事に、こいつはいとも簡単に気がつく。
「…いや。そうでもない。最近話をしたのがいつだったかも思い出せない」
「それでいいのかよ?」
「いいも悪いもあるまい。最初から気安く話ができるようなお方ではなかっただけだ」
だけどさ、とマニゴルドはアルバフィカの言い分を打ち消すように言った。
「取られちまうかもよ?若い燕に」
「燕?」
彼が顎でしゃくるように指したのは白羊宮だった。
「最近、シオンと一緒にいることが多いみたいだぜ?お前の女神様」
「なっ…!誰が誰の女神だ!口を慎め、マニゴルド」
友の言葉に少しばかり動揺したのは、アミリアを自分の所有物の様な表現をされたからだけではなかった。
『シオン…。牡羊座か』
数年前に聖域にやってきた黄金聖闘士。聖衣を修復する能力があるのは、彼の一族の不思議な力の所以か…。
第一宮の守護者であるシオンは、自然と他の黄金聖闘士とも顔を合わす機会が多くなる。しかも人当たりがよく、天秤座の童虎と並んで最年少の黄金ということもあって、同僚達からも随分と可愛がられている。
いつの頃からか人を遠ざけ、笑うことなどなくなってしまった自分とは正反対の存在だった。
「ヘスティア様の交友関係に口を差し挟むつもりなど、元よりない」
マニゴルドにはそう言ったものの、アルバフィカの心中は穏やかでなかった。
青銅や白銀が任務に赴いた後は忙しくなる。聖衣は小さな傷であれば自己修復してくれるが、大きく損傷したものは修復師が手を加えてやらないといけない。
牡羊座の黄金聖闘士シオンの下には、そのような聖衣の修復依頼が次々と舞い込んでくる。
「どちらが本業だか分からんな…」
彼の黄金色の聖衣と同じく黄金色に輝く工具箱。その中から必要な道具を取り出す。
「さて、どうしたものか…」
目の前の聖衣は原形を止めないほどに激しく破壊されていた。
床に座り込んで腕組みをしたまま、聖衣を見つめていた。未だ、彼の師のように微塵の迷いもなく槌を振るえるほど卓越した技術は身についていない。
「シオン」
名を呼ばれて顔を上げると、キトンを纏った女がいた。
「…ヘスティア様。また、このようなところへ…」
「だって、聖衣の修復をするんでしょう?見たいわ」
「見せ物ではありません」
シオンはプイとそっぽを向く。
「見られていると集中できない?」
「…そういう訳では…」
口篭るシオンを見て、アミリアは「じゃあ、構わないわね」と言いながら少し離れた所に座り込んでしまった。
シオンは小さくため息をつくと、仕方なしに槌を握った。
コーン、コーン─
十二宮の階段に槌を振るう音が響く。アミリアがシオンをじっと見つめている。
一瞬、その視線に集中が途切れた。
「っ!」
手元が狂ったようだ。珍しく錐で指を傷つけてしまった。
「シオン!」
シオンの指を伝って流れる血を見て、アミリアが走り寄ってきた。
「大変!血が…!」
「この程度の傷、なんでもありません。大丈夫です」
シオンは手を引っ込めようとしたが、その手をアミリアがギュッと握りしめていた。
「いけません。見せなさい」
そう言って、アミリアはキトンの端で血を拭うとシオンの手を自分の両手で包み込んだ。
アミリアの両手が白金色に光り、シオンは傷の痛みが癒えていくのを感じた。
「もう大丈夫ですよ」
シオンは自分の手を優しく握って微笑む美しい女神に瞳を奪われていた。
アミリアから目を離せない。
ゴクリと唾を飲み込む音と早鐘の様に鳴っている心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「ヘスティア、様…」
喉も渇いていないのに口の中はカラカラだ。名を呼ぶ声が掠れる。
『ダメだ!何を考えているんだ私は!よせ!!』
頭の中でもう一人の自分が理性を保てと叫んでいる。だが、甘美な誘惑に動き出した体は止めることができなかった。
空いている方の手でアミリアの頬にそっと触れ、ゆっくりと顔を近づける…。
アルバフィカは白羊宮への階段を急ぎ足で上がっていく。微かにアミリアの小宇宙が感じられたのだ。
『取られちまうかもよ?若い燕に』
マニゴルドの言葉が頭の中で繰り返される。
『アミリアは、私の…』
白羊宮が見えた。すると、アルバフィカの目に飛び込んできたのは、シオンの手を握り締めているアミリアと頬を赤く染めてアミリアを熱く見つめるシオンだった。鼓動が早まる。
シオンの手がアミリアの頬におずおずと添えられ、二人の唇が近付いていく。
それを見たアルバフィカは全身の血が逆流するのを感じた。
『シオンのやつ…!何をやっている!!』
「アミリア!」
突然聞こえた声にシオンの動きが止まった。そちらの方に目をやると、声の主は優雅に微笑みながら歩いてきた。
「捜したよ、アミリア。ここにいたんだね。だめじゃないか、シオンの邪魔をしては」
アルバフィカは子供を諭すかのような優しい声色で話しながら、アミリアに手を差し出した。
「アルバフィカ君…」
「さあ、お手をどうぞ、お嬢様」
アミリアは戸惑いながらアルバフィカの手を取り立ち上がった。
アルバフィカがシオンを見ると、まだ幼さの残る端正な顔に、ばつの悪そうな表情を浮かべて視線をさ迷わせている。
この男はアミリアに恋をしているのか?一瞬の気の迷いだったのか?いずれにしても、このままにしてはおけない。
アルバフィカはアミリアの肩を抱き寄せるとシオンを一瞥した。
「シオン、私のアミリア#が最近お前を煩わせているようだな。申し訳ない」
「…いや、こちらこそ…」
シオンはそう言ったきり俯いてしまった。
「アミリア、行くよ。シオン、邪魔したな」
アルバフィカはアミリア#を抱き上げると、白羊宮に背を向けて階段を下っていった。
アミリアには、アルバフィカが何を考えているのか全く分からない。
整いすぎているくらい綺麗な顔は無表情で、何の感情も見てとれなかった。
「あの…、アルバフィカ君?私、歩けるわ」
機嫌を窺うように声をかけてみたが返事はない。
「…怒っているの?」
「……ああ、怒っているよ」
「ごめんなさい」
階段を下りきると、アルバフィカはアミリアを降ろした。そしてアミリアを自分の方に向かせ形の良い顎に指を掛け、そっと顔を持ち上げた。
アルバフィカの少し緑がかった蒼い瞳が、アミリアを捕えて離さない。いたたまれなくなったアミリアは思わず目を逸らしてしまう。
「…これからは、シオンのお仕事の邪魔はしないわ…」
アルバフィカは小さく息をつくと、「私を見てくれないか」と真剣な声で言った。
それに応えるように、アミリアはそっとアルバフィカに視線を戻した。間近に見る美貌の男は優しい瞳をしていた。ゆっくりと、端正な顔が近付く。
薔薇の香りのする柔らかい唇が、アミリアの唇にそっと押し当てられた。
アミリアは、驚きのあまり反射的に身を固くしてしまった。
唇を離したアルバフィカは、ふわりと包み込むようにアミリアを抱きしめ、耳元で囁いた。
「違うよ…。私が怒っているのはシオンだよ。私のアミリアに手を出そうとした」
ドクン!
アミリアの心臓が大きな音を立てた。
「アミリアは誰にも渡さない。渡したくないんだ…」
呻くように言ったアルバフィカは、アミリアを抱きしめている腕に力を込めた。
「あ、あの!アルバフィカ君…!私…」
アミリアは泣きそうになる。子供の頃からずっと好きだったアルバフィカ。
「ねえ、アミリア。君は立派な女神様になったよ。だけどね、無防備すぎる」
「無防備…?」
「ああ、そうだよ。私以外の男の前で女の子の顔を見せてはだめだ。…例えば、シオンだって一人の男だ。君を力づくでどうにかしてしまう事もできるんだよ?」
「……」
シオンが自分を傷付けるような行為に及ぶとは考え難い。だが先程、彼に口付けられそうになったのは事実だ。あそこにアルバフィカが来なければ、きっとシオンはそのままアミリアに口付をしていただろう。
シオンのことを嫌いな訳ではない。器用な手先や、光の加減で淡い翠色に見える豊かな金髪も好きだった。だが、異性として意識するかと言うと、それは全く別の問題だった。
例えば、今アルバフィカから受けた告白をシオンにされたら、自分はどう思っただろうか…。
「…うん、私もアルバフィカ君の傍にいたい」
自分から今できる精一杯の返事。
アルバフィカは嬉しそうに微笑んで、もう一度アミリアに優しく口付けをした
アミリアとアルバフィカはお互いの想いを確認し、晴れて恋人同士となった、はずだった。
「なあ、アルバフィカ」
「何だ」
二人の会話は、大抵マニゴルドの方から話しかけて始まる。
「お前、ヘスティア様と付き合ってんの?」
「馬鹿なことを言うな。そんなことあるわけなかろう」
「え!?違うの?じゃあ、何?燕に掻っ攫われたのか?」
アルバフィカは、興味津津で訊いてくるマニゴルドに呆れ顔を隠そうともせずに答えた。
「私はアミリアを愛しているし、アミリアも私を愛してくれている。ただそれだけだ」
「それだけ!?じゃあ何よ、ひとっつも手を出してないのか?プラトニックな関係なのか?」
「何が言いたい…?」
「ハグしたりキスしたりとか、それ以上の事はしねえの?」
「…勝手に想像してろ」
マニゴルドは『信じらんねえ!』と大袈裟に肩を竦めていたが、自分は聖闘士。いつ闘いの中で命を落とすかも知れないのに、無責任に恋人を作ることはできない。ましてや、アルバフィカの想い人は本物の女神なのだ。
結局、アミリアとは今まで通りの関係だった。アミリアもそれは十分に理解して納得している。
今の聖域にはアテナがいる。いつ冥王軍との闘いが始まってもおかしくない状況なのだ。
恐らく近い内にアミリアは聖域を出る事になるだろう。聖戦が始まれば聖域は戦場となる。アミリアを留まらせておく訳にはいくまい。
互いの細い指を絡めて誓った幼い日の約束をまだ覚えている。
「私は何があっても君を守るよ、アミリア」
ヘスティアの宮殿では、いつになく女官達が忙しく動き回っていた。
「ヘスティア様」
女官長のサラが硬い表情で部屋にやって来た。やや青ざめた顔のサラの手には、教皇からの親書が携えられていた。
「どうしました、サラ?何やら女官達に落ち着きがないようですが…」
「ヘスティア様、こちらをご覧下さいませ」
差し出された親書を読んだアミリアは、きつく目を閉じると数回深呼吸をした。
「サラ、至急伝令を!教皇へ『親書の内容、了解した』と伝えるように!それと下位の女官達には暇を出します。各々荷物を纏め、一両日中には聖域から出ていくように」
「ヘスティア様…もしや」
アミリアは頷いた。
「…聖戦です」
教皇からの親書には、間も無く聖戦が始まる事、アミリアは聖域から退避し、保養地の離宮に拠点を移して欲しい、といった内容が書かれていた。
「遂に、この時が来てしまいましたね」
アミリアは、自室のバルコニーから十二宮の方角を見て呟いた。
見上げた夜空には多くの星たちが瞬いている。あの星々はアテナの聖闘士達を守ってくれるだろうか…?
「ヘスティア様、明朝は夜明けと共に出立致します。今宵は、お早めに休まれます様にお願い致します」
サラが一礼して退室した。
サラを見送り、アミリアが室内に入ろうと踵を返した時だった。
「アミリア」
後ろから声をかけられ、驚いて振り返った。
「アミリア」
そこには黄金聖衣を纏った愛しい男が立っていた。
「アルバフィカ君!どうしたの?こんな時間に!それに、双魚宮を離れては─!?」
アルバフィカはアミリアの口を塞ぐように、強い口付けをした。
「会いたかったんだ、アミリア」
「アルバフィカ君…」
切な気に形の良い細い眉を寄せたアルバフィカはアミリアの体を掻き抱いた。
「初めて会った時からずっと君が好きだった。今でもその気持ちは変わらない。だからお願いだ。君の全てを私にくれないか?君が欲しいんだ、アミリア」
今までにない情熱的な囁きにアミリアの体が震える。
「アルバフィカ君…、私も同じ気持ちよ。貴方が、貴方が欲しい…。貴方が欲しいの…」
アミリアは熱に浮かされたように囁く。それに応えるようにアルバフィカの唇が、額に瞼に頬に鼻に、優しく口付けを施してゆく。
「…は、んっ…」
その余りの心地好さにアミリアの口から吐息が漏れる。
自分が口付ける毎に漏れ出てくる、今まで聴いたこともない、愛しい女神の官能的な声は、アルバフィカの脳髄を甘く痺れさせた。
理性が持たない…
アルバフィカは口付けをしたままアミリアを抱き上げると、躊躇うことなく部屋に入りベッドまで進んだ。
そっとアミリアを横たえると、次は自分の聖衣を脱ぎ始めた。アミリアは頬を紅く染めて目を逸らしたが、上半身裸になったアルバフィカが真上から覆い被さるようにしてアミリアの体の自由を奪った。
そして再び口付ける。先程よりも深く激しく、互いの唇を貪りあい、口の中まで犯す乱暴な口付けが繰り返される。
二人は理性を何処かに置いてきてしまった。今はただ、互いの体を求め合い、互いの存在と愛を確認するだけだった。
アミリアは何度も何度も、アルバフィカの滾る愛を全身で受け止めた。
アルバフィカは思いの丈を全てアミリアの中に放った。
繰返し繰返し─
ヘスティアは、孤児やそれに準ずる立場の子等に恩恵を与え、守り慈しむ。
地上を守護するアテナを守り闘う聖闘士。その聖闘士の多くを守るのは、国家守護の役割を担うヘスティアに課された命であった。なぜなら、聖闘士になるための訓練を受ける子供達の多くは、親兄弟との縁が薄い。その為か、問題行動を起こす子供が少なくない。それは聖域内も例外ではなかった。
聖戦が近付くと地上に降臨するアテナ。
ヘスティアはアテナに先んじて降誕し、聖闘士達に加護を授ける。
「ルゴニス、そなたの弟子のアルバフィカ、あれは何歳になった?」
「先日、七歳に…」
教皇宮へ任務完了の報告に訪れた魚座の黄金聖闘士ルゴニスは、教皇から愛弟子のアルバフィカについて質問され、思わず頬を緩めた。
「教皇様のお弟子のマニゴルドも、確か同じ年頃では?」
教皇が蟹座の後継者に、と連れてきた少年。聖域内ではその粗暴さが問題視されていたのだが、教皇の直弟子であるため、マニゴルドに注意する人間は、ごく一部の者だけだった。
「全く、あれは乱暴者でいかん。そなたの弟子とは比べ物にならない」
つい昨日も、訓練の最中に候補生の一人に大怪我を負わせたにも関わらず、『あいつのガードが甘いからいけない』と悪びれもしない弟子を思い出し、教皇はため息混じりに言った。
「何を仰いますか。アルバフィカが、マニゴルドはとても優しいと申しておりました」
「ほう…。あの二人は仲が良いのか?」
興味深い様子で教皇は尋ねた。
「どうやらその様です」
「そうか、そうか」
お互い愛弟子の事に関しては、何かと心配になる。師である自分が親代わりになり育てているが、果たしてどの程度役割を全うできているのか、時折不安になる
「ルゴニスよ。これからも、マニゴルドがアルバフィカと仲良くする事を許してやってはくれないだろうか。信頼できる者がいれば、きっと、あやつも変われるのではないかと思うのだ」
「は!アルバフィカにとっても、友人の存在が不可欠になるかと…。魚座を継ぐとなれば、尚更…」
魚座は毒の体を持つ事が宿命。蟹座は死界と通じる力を身に付ける。彼らがその人外の能力の為に、孤独の中で生きていく事は望まない。
「お互い、親バカだな」
同じ年頃の弟子を持つ男達は、明るく笑いあった。
「おーい!組み手しようぜ、アルバちゃん!」
「その呼び方はやめろ」
闘技場で訓練をしていたマニゴルドが、通りかかったアルバフィカに声をかけた。
「いいじゃん」
「良くない!」
いかにも悪戯好きで粗野な雰囲気のマニゴルドと、花の様に可憐で少女の様な容姿のアルバフィカ。正反対のタイプに見える二人だが、何故か気が合う。
どちらともなく誘いあって、手合わせをする事も多かった。
「今日はダメ」
「何で?」
「教皇様に呼ばれている」
「えー!ジジイに呼び出し食らうなんて、何やらかしたんだよ、アルバちゃん?」
アルバフィカは、人一倍口の悪い友人を軽く睨んだ。
「お前、教皇様の事ジジイって呼ぶなよ。それと、私の名前はアルバフィカ。省略するな」
マニゴルドには前から何度も注意しているのに、一向に改善される気配がない。
「こっちの方が親しげで良くないか?」
「…お前、マニちゃんって呼ばれたいと思うの?」
「それは俺には似合わねーな」
そう言いながら、マニゴルドは大笑いをした。
アルバフィカは盛大なため息をつき、肩を竦めた。そして、「またな」とマニゴルドに片手を上げると、教皇宮に向けて歩き出した。
教皇宮では、アルバフィカの師、ルゴニスも待っていた。
「遅くなってすみません」
ペコリと頭を下げるアルバフィカに教皇は、「アルバフィカは行儀が良いな」と、感心した。
「ルゴニス、これならば大丈夫であろう。早速、明日にでもお目通りできるよう、私から頼んでおこう」
「恐れ入ります」
教皇と師の会話が見えてこず、きょとんとしているアルバフィカの頭を撫でながらルゴニスは説明をした。
「アルバフィカ、明日はヘスティア様にお目通りできる日だ。聖闘士や訓練生は教皇様からの推薦があると、月に一度、ヘスティア様への謁見が許されているんだよ」
「ヘスティア様?」
「ルゴニスよ、後は私から説明しよう」
そう言うと教皇は、ヘスティアが世界を安寧に導く神である事、家族との縁が薄い子供の守り神である事、そして、聖闘士や訓練生はヘスティアから加護を受けられる事を説明した。
「お前は七歳になったから、謁見をさせて頂けるよう、教皇様にお頼み申し上げていたんだよ」
ルゴニスの説明によると、ヘスティアに拝謁できるのは、七歳から十七歳の最後の月までと決まっているそうだ。
だが、アルバフィカはアテナ以外の神に謁見するなど、正直どうでも良い事だと思った。聖闘士を目指す自分にとって神はアテナだけなのだから。
そう、思っていた。
聖域内の特別区に、ヘスティアが滞在する宮殿があった。絢爛ではないが、入口の花壇には色とりどりの花が咲いており、訪れた者の目を楽しませてくれる。
アルバフィカは、教皇とルゴニスに連れられ宮殿に来ていた。アルバフィカの他にも、多くの聖闘士や訓練生達が拝謁の為、宮殿前に集まっていた。
「アルバちゃん!」
アルバフィカは、この呼び方をする人物を一人しか知らない。振り返ると案の定、逆立った髪の毛の友人がニカッと笑って手を振っていた。
友人は小走りで寄ってくると、「おはよう!」と元気に言った。
「マニゴルド、『アルバちゃん』は無し!今日は絶対に禁止!」
指でバツを作り、マニゴルドに見せた。
「分かってる。今日はナシな」
案外、あっさりと言うことを聞いてくれた友人に、少し拍子抜けした。
「ははっ、びっくりしてるだろ?」
「うん」
アルバフィカが頷くと、マニゴルドは少し偉そうに胸を張って言った。
「仮にも、教皇セージの弟子である俺様だぜ?場を弁える事くらいは知っている!」
傍若無人なこの友人の口から出た、まさかの常識発言。
「お前、意外と常識あるんだね」
「意外、は余計だっつーの」
二人は顔を見合せて笑った。
ところでさ、と不意にマニゴルドがに真顔になった。
「お前、ヘスティア様に拝謁するの初めてだろ?」
「ああ」
「どんな女神様か聞いてるか?」
マニゴルドの言いたいことがよく分からないが、アルバフィカは、昨日教皇とルゴニスから聞かされた事を話した。それを聞いてマニゴルドは、「それならお前、びっくりするぜ?」とニヤリと笑った。
謁見は、年長者から順番に行われるのが慣例だった。子供達は、年齢順に整列させられ、自分の番が来るまで控えの間で待たされる。
アルバフィカとマニゴルドは最年少の為、謁見は最後になる。
「随分と待たされるんだね」
アルバフィカが、隣で大あくびをしているマニゴルドに小声で話しかけた。
「ん?そうなんだよ。この前なんて二時間も待たされたんだぜ?俺なんて、教皇の弟子だから絶対来なくちゃいけないんだ」
耳を掻きながらマニゴルドは、さも面倒と言わんばかりの視線を、謁見の間に向けた。
確かに二時間も待たされるのはかなわない。アルバフィカは心の中でそっと友人に同情した。
『そこまでして謁見する必要、あるのかな…?』
子供心にも納得しない物を感じながら、アルバフィカはただ、じっと椅子に座っていた。
「アルバフィカ、起きなさい」
ルゴニスに肩を揺すられてアルバフィカは目を覚ました。どうやらいつの間にか眠っていたようだ。
マニゴルドは謁見の間の入口で、順番を待っていた。
「マニゴルドが入ったら、入口前に移動する。扉が開いたら入室するんだぞ。私は一緒に入れないが、お前なら大丈夫だろう」
そう言って、ルゴニスはアルバフィカに謁見の作法を説明した。
マニゴルドの順番になったようだ。ちらりとアルバフィカを見ると、親指を立てて、扉の向こうへ消えていった。アルバフィカは、先程マニゴルドが立っていた位置で待機する。
『ヘスティア様ってどんな方なんだろう』
分厚い扉に耳を当ててみるが、当然中の様子など分からない。
『マニゴルドは、びっくりするって言っていたけど…』
首を傾げていると、しばらくして内側から扉が開いた。
「待たせたな、アルバフィカ。お前で最後だから、ゆっくり話ができるぜ」
アルバフィカの肩にポンと手を置いたマニゴルドは、「お先に」と言うと、ルゴニスに一礼して帰って行った。
「失礼します」
一礼して入室したアルバフィカに、伝統的なキトンに身を包み、髪の毛を結い上げた美しい女官が「そのまま、玉座前までお進みなさいませ」と教えてくれた。
アルバフィカは、緊張しながら言われた通りに玉座前まで進んだ。
壇上に女神がいるはずだが、薄いカーテンで仕切られていて、姿の確認が出来ない。だが、気配で誰かいるのは分かる。アルバフィカは膝を着き、頭を垂れた。
「ヘスティア様、お初にお目にかかります。私は魚座の黄金聖闘士ルゴニスの弟子で、アルバフィカと申します。本日は拝謁のお許しをいただき、ありがとうございました」
ルゴニスに教えられた通りの挨拶をする。すると、カーテンの内側から人が出てくる気配がした。
「面を上げなさい。アルバフィカ」
『え!?子供?』
幼い声に驚いて顔を上げた。目の前の壇上には、自分と同じ年頃の少女が笑顔で立っていた。
「初めまして。私がヘスティアです」
「ふふ、こんな子供で驚いた?でも、私も驚いているの。さっきマニゴルド君が教えてくれたの。すっごく可愛い子が最後に待っているって」
ニコニコと話すヘスティアに、嫌な予感がした。
「本当にすっごく可愛いわね。だけど、アルバフィカちゃんはどうして仮面をしていないの?」
やっぱりだ!!あいつ、ふざけやがって!
アルバフィカは、心の中でマニゴルドに悪態をついた。
「…ヘスティア様。恐れながら、私は男子ですので、仮面は必要ないのです」
「え!?男の子?」
「はい」
「そうなんだ…」
ヘスティアは、幾分落胆した声で肩を落とした。
がっかりしているヘスティアに、自分が悪い事をしている気持ちになってしまった。それにしても、何と神らしくない神なのだろうか。小宇宙の片鱗も感じない。
「ヘスティア様、余計なお喋りは、そのくらいになさいませ」
「…はい」
先程の女官が厳しい口調で諌めた。アルバフィカは、シュンとしてしまったヘスティアに少し同情した。
「ヘスティア様、アルバフィカに加護の印を」
「はい」
ヘスティアはアルバフィカの前に進むと、同じ様に膝を着いた。自分の人差し指と中指を唇に当て、次にアルバフィカの額にその指をそっと触れた。
「貴方に加護の印を授けます。今後も修行に励んで下さい」
謁見を終え、アルバフィカはルゴニスと共に、宮殿を後にした。
「アルバフィカ、驚いたであろう?ヘスティア様はな、お前と同い年なんだよ」
「私と?」
ヘスティアはアテネ郊外にある田舎町の農家に産まれた、アミリアと名付けられた少女だったという。
アミリアには産まれつき稀有な力があり、地元では『奇跡の少女』と呼ばれていたそうだ。だが成長するにつれて、その力を本人も制御出来ない程になっていったという。
噂を聞き付けた聖域が少女を引き取り、こちらに住まわせたところ、女神ヘスティアとして覚醒した。
アルバフィカは幼い女神が隔離された宮殿で友もなく、畏敬の対象として特別に扱われる運命である事に、少しばかり胸が痛んだ。
『だからあんなに嬉しそうだったんだ』
自分を少女だと勘違いした幼い女神。きっと、自分と友達になりたかったに違いない。
ヘスティアに謁見できるのは月に一度だけと決まっている。
「どうしたら会えるかな…」
マニゴルドに相談してみるか、と闘技場にやって来た。
だが、組み手をしている訓練生の中に、マニゴルドの姿はなかった。
「用事があるときに限っていないんだよね…」
『取り敢えず、宮殿の近くまで行ってみよう』
アルバフィカはヘスティアの宮殿へ向かった。
宮殿の入口には護衛が立っていて、正面からは入れない。また、周辺にも数名の見廻りがいて警備は厳重だった。
『どこか入れそうな場所は…』
辺りの岩に隠れながら伺うものの、まだ幼いアルバフィカは突破口を見つけられずにいた。
アルバフィカは小さな体がすっかり隠れてしまう岩にもたれ、困り果てていた。
『…ん…ィカ…君、ルバ…カ君』
何処からかアルバフィカの小宇宙に直接声がかかる。
「誰?」
『あ、聴こえる?』
「ヘスティア様?」
立ち上がり周囲を見回してみるが誰の姿も見当たらない。
『アルバフィカ君、私ね、小宇宙に直接話しかけているの。貴方も小宇宙を使って?』
小宇宙を使った会話をするのは初めてだ。目を閉じて、意識を集中する。
『ヘスティア様、聞こえますか?』
『うん。大丈夫』
『私が近くまで来ていたのが分かったんですか?』
『うん。アルバフィカ君の小宇宙って、すっごく優しくて綺麗だからすぐわかったの。でも、どうして此処に来たの?』
『あ、あの…私は…』
アルバフィカは一瞬躊躇ったが、思い切って自分の願いを言ってみた。
『い、今からお会いできませんか!?』
『いいよ』
『え?』
想像していたよりもあっさりと事態は運んだ事に面喰らう。
『でも、今は宮殿に入れない時だから、そうだな…闘技場で待っててくれる?』
『はい!』
アルバフィカが闘技場に戻った頃は、昼の休憩時間のためか人影はなかった。少しだけ鼓動が早まった胸を鎮めるため、深呼吸をしながら石段に座っていると、アルバフィカの目の前の空間がスパークし歪みが出来た。
バチン!
閃光が走り、何かが弾ける音がした。眩しさに思わず目を閉じる。
「アルバフィカ君」
名前を呼ばれ目を開けると、そこにはヘスティアが笑顔で立っていた。
「ヘスティア、様…」
「えへへ、来ちゃった」
いたずらっぽく笑ったヘスティアがアルバフィカの横にすとん、と座った。
アルバフィカは驚きのあまり、言葉が出てこなかった。
自分と並んで石段に腰掛けている少女は、長い睫毛に縁取られた大きな瞳と、形の良い紅い唇の、可愛らしい顔をしている。
アルバフィカ自身も少女の様な風貌をしているが、本当の少女と並ぶと、やはり男子である自分は全く異なる造作をしていると思う。
『女の子って、可愛いんだな…』
隣の少女に思わず見惚れてしまう。
「ねえ、アルバフィカ君」
「え!は、はい!」
名前を呼ばれ、過剰に反応してしまった。
「やだ、そんなに驚かないで?…あのね、どうして宮殿に来たの?」
至極当たり前の質問だった。もし「友達になりたかったから」と言ったら、この幼い女神はどのような反応をするのだろうか。
「私ね、この前の謁見の時、あなたを女の子と間違えてしまったでしょ?だから、悪い事しちゃったなって思って。ずっと、謝りたかったの。ごめんなさい」
ペコリと頭を下げた女神は、やはり自分と変わらない、年相応の普通の少女にしか見えなかった。
年齢は一緒だが、自分と彼女は立場が違う。本来であれば、こうして隣り合わせに座るなど非礼極まりない。
まだ幼いながらも、聖域育ちのアルバフィカはそういった序列を弁えている。勢いで彼女を呼び出してしまったが、やはりまずかったのではないかと不安になる。
そんなアルバフィカの心情を察したのか、女神の少女は、にっこりと笑うと「これあげる」と焼き菓子を差し出した。
「これは…?」
アルバフィカが怪訝な表情をする。
「宮殿にはね、色々な人が来るの。外国の偉い人とか、大金持ちの人とか。そういう人がお土産で持ってくるの。私ね、アルバフィカ君とお友達になりたくて、もしよかったら…と思って持ってきたの」
本当にごくごく普通の少女だ。アルバフィカは、立場や身分の違いに関係なく、この少女と友達になりたと強く思った。
二人は闘技場の石段に座って、色々な話をした。少女は、生い立ちの事や自分に備わった能力の事、聖域に来た経緯を教えてくれた。
「アルバフィカ君は?どうして聖闘士になろうと思ったの?」
「え?どうして…って訊かれても…」
至極当たり前の質問ではあった。彼女の様に、選択の余地が無かった…という訳ではない。きっと師ルゴニスは、アルバフィカが聖闘士の道を選ばなかったとしても、彼を育ててくれたに違いない。だが、自ら師と同じ道を進もうと思った。それは、きっと…
「先生みたいに、立派な聖闘士になりたいって思ったから」
それは偽りのない気持ちだった。
「聖域に捨てられていた私を拾って、ずっと育ててくれているんだ。だからね、先生の為にも立派な聖闘士になって、恩返しをしたいんだ」
「そうだったの…。ごめんね、嫌な質問しちゃったね?」
少女は俯いて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「そんな事ないよ!ただ、今までそういうことって訊かれなかったから、余り考えた事がなかったって言うか…」
アルバフィカは慌てて首をブンブン振った。必死に否定したのは、彼女のこんな顔は見たくないと思ったからだ。
「で、でも、魚座の黄金聖闘士になったら、ヘスティア様の事、必ずお守りします!」
思わず口をついて出た言葉に、アルバフィカ自身驚き赤面した。
「ありがとう。すごく嬉しい!」
アルバフィカの言葉に、少女は花が綻ぶように笑った。その何とも言えない愛らしい笑顔に、アルバフィカの瞳は釘づけになった。幼い胸がドキドキする。
「じゃあ、私も立派な女神様になれるように頑張るね」
少女は「約束ね」と小指を立てた。アルバフィカは、その指に自分の小指を絡めて「約束するよ」と満面の笑みで答えた。
楽しい時間ほど過ぎるのが早い。闘技場にも人影が戻ってきた。少女は立ち上がり、服の埃を払いながら言った。
「じゃあ、私そろそろ戻るね。女官長のサラさん怖いんだ」
「あの綺麗な人?」
謁見の間にいた美しい女官。彼女から少し冷たい印象を受けたのは間違いない。
「うん。でも、私が神様っぽくないから怖くしちゃうんだと思うの。こうして脱走しちゃうしね」
「でもそれは、私が誘ったからで…」
「そうなんだけどね、そのお誘いを断らなかったのは私だから。アルバフィカ君が悪い訳じゃないの」
「そうは言っても、それでヘスティア様が叱られるのは、申し訳ないよ」
「気にしないで」
シュンとして俯くアルバフィカに、少女は笑って言った。
「って言っても無理かな…?じゃあ、一つ私の我儘を聞いてくれる?」
「…我儘?」
「私ね、本当の名前はアミリアっていうの。だから、これからはヘスティアでなくアミリアって呼んでほしいな」
少女は可愛らしく首を傾げて「いい?」と訊いてきた。
「…勿論だよ!」
アルバフィカは大きく頷いた。大人には内緒の秘密の共有。少しばかりの背徳感が、却って胸を高揚させる。
アミリアは「またね」と言うと、キトンの裾を翻し宮殿まで走って行った。
アルバフィカは走り去るアミリアの華奢な背中を、いつまでも見つめていた。
『あ、お菓子のお礼言ってないや』
貰った菓子を一口齧ると、バターの豊かな風味と、アーモンドの香ばしさが口の中に広がった。
アミリアが戻ると、宮殿は上を下への大騒ぎになっていた。女官長のサラは、頭の血管が切れるのではないかと心配になるほどの大激怒で、警備の兵達を怒鳴りつけていた。
「うわあ…、どうしよう…」
ある程度想像していたとは言え、ここまでとは思っていなかった。正面から堂々と行くか、テレポーテーションをするか、いずれにしても女官長からの叱責と追及は免れないだろう。
アミリアはきゅっと目を瞑り、一つ息を吐いた。意を決し、あくまでも女神らしく凛とした態度で帰りを告げた。
「ただいま戻りました」
アミリアの姿を認めたサラは、表情を強張らせたままツカツカと大股で歩み寄ってきた。アミリアはこの場から逃げ出したい衝動に駆られたが、サラを見据えたまま一歩も動かなかった。
「ヘスティア様、どちらへお出かけでしたか?」
平静を保とうとしているが、サラの声は怒りに震えている。
アミリアはゴクリと唾を飲み込んでゆっくりと口を開いた。
「…人と会っていました」
その答えにサラのアーチ形に整えられた眉毛がピクリと動いた。癇に障った時の彼女の癖だ。
「人と会っていたですと!?一体、何をお考えなのですか!勝手に外の人間に接触するなど、どれほど重大な過ちかお分かりではないのですか?お戯れも大概になさいませ!ヘスティア様!!」
甲高い声で叱責したサラは、アミリアを睨みつけると今度は鼻を鳴らした。
「大層ご立派な女神様でございます。ご自分のお立場を全く弁えていらっしゃらない!」
これだけ皮肉たっぷりに叱りつけられるのはいつもの事だ。これまでなら縮こまって肩を竦めるアミリアだが、今日は違った。
『私、立派な女神様になるんだ。約束したもの!』
アミリアは怒りに震えるサラを見上げ笑顔を作った。
「サラ、貴女に断りもなく外出した事や勝手に人間と接触したことは謝りましょう。ですが、先程から黙って聞いていれば、何ですか?」
アルバフィカと繋いだ小指には、微かに彼の小宇宙が残っている。
『アルバフィカ君、私に…私に勇気を頂戴』
拳をギュッと握り、震える膝に力を入れた。
「お前、私にそのような口を利いて、どういうつもりですか?私を誰だと思っているのです。お前こそ立場を弁え、口を慎みなさい!」
いつもなら、サラから叱責を受けると小さな体を一層小さくして涙を流していた幼い女神が、今日は堂々とした態度できっぱりと言い返した。
これには、今度はサラの方が言葉に詰まってしまった。サラは悔しさを抑え「大変に申し訳ございませんでした」と震える声で答えるのが精一杯だった。
自室に戻ってからも、まだ胸がドキドキしていた。
「サラさんに凄い事言っちゃった…」
神以前に、人としても未熟な自分が随分と立派な事を言ったものだ。
『あんな事言って良かったのかな…?』
寝台に身を投げ出し枕に顔を埋めると、一気に疲労感が押し寄せる。昼食を食べていないし、午後には勉強の時間もある。それはわかっていたが、アミリアは暫く動く事が出来なかった。
アミリアが脱走劇を演じ誰かと密会した上に、「あの」女官長を一喝した事は、翌日には聖域内の噂になっていた。
護衛の兵士が広めたのか、お喋り好きな女官の立ち話から広まったのか。
いずれにしても、娯楽の少ない聖域では、ゴシップは意図も簡単に知れ渡ってしまう。
「なあ、アルバちゃん」
「何だよ」
「お前だろ?ヘスティア様と会ってたの」
この友人は大雑把な性格だが、妙に勘が良い。
「…そうだよ」
「やっぱりな…。まずいだろ、それ」
マニゴルドは顔を顰めた。
「……」
アルバフィカは返す言葉が出てこなかった。
「もうするなよ」
マニゴルドはアルバフィカの肩を小さく叩くと『これからジジイのところに行くから』と怠そうに言いながら行ってしまった。
マニゴルドの言わんとする事は理解出来た。相手は女神だ。特定の誰か─特に加護の対象者─と親しくするなど御法度だ。
アルバフィカは、心に芽生えたばかりの淡い気持ちの芽を、自ら摘み取るしかないのだと、幼心に理解していた。
アミリアが宮殿を脱走してから半年が過ぎた。
アルバフィカは修行に明け暮れ、アミリアもまた、女神修行で多忙な日々を送っていた。
月に一度の謁見は形通りに行われ、相変わらず女官長のサラが、ツンと澄ました顔で場を取り仕切っていた。常に儀式は滞りなく済まされ、アミリアとアルバフィカの間にも、余計な言葉が交わされる事はなかった。
それでもアミリアは構わないと思っていた。月に一度は必ず会える。それが、アミリアの心の支えだった。
ところが─
アルバフィカはある月を境に、姿を見せなくなった。それはアミリアの心に深い深い傷を付けた。
『もう、会えないのかな…』
寂しさばかりが募る。
会いに行きたい気持ちはやまやまだが、脱走事件以来、監視の目が厳しくなっている。外出を打診したところで、あのサラが首を縦に振るはずがない。残る手段は一つ。
「呼び出そう!」
それしかない。アミリアは彼女の背丈には随分大きい豪奢な机の前に座ると、早速教皇への手紙をしたため始めた。
ヘスティアの宮殿から遣いの者がやってきた。
そろそろ何らかのアクションがあるだろうと思ってはいたが
「ほう…手紙とはまた、正統な手段をとられましたな、あの女神様は」
教皇は感心したように顎を撫でた。
封蝋を外して内容を確認する。少女らしい柔らかな文字で、丁寧に書かれた文面だった。
時候の挨拶から始まり、自分への機嫌伺と自身の近況報告。非常に形式ばったもので、まだ10歳にも満たない幼い女神の苦心の跡が目に見える。その後に続く本題は、教皇の想像通り魚座の弟子についてだった。
数ヶ月前からアルバフィカが謁見を欠席しているが、自分の加護印の効力は直に失われてしまう。一度宮殿に出向く様に伝えてもらえないか。
建前としては十分すぎるくらいだ。しかも、余分な事は一切書いていない。万が一、自分以外の誰かがこの手紙を読んだところで、何ら差し障りはない。だが、教皇はその裏に隠れている女神の本心を察していた。
「さて、どうしたものかの…」
魚座の血の儀式。魚座の聖闘士と後継者の間で行われる、互いの血の交換。自らの命を懸けての儀式。
「…が、はっ」
「…苦しかろう、アルバフィカよ…」
師ルゴニスの毒の血を受け、アルバフィカの幼い体は悲鳴を上げ続けていた。
「せ、せん…せ、い…耐え、ます…。耐えて、みせます…。ごほっ」
毒が体を蝕み、焼き鏝を当てられたかのように全身が痛む。肺の血管が破れ、喀血を繰り返す。呼吸が苦しい。呼吸をする度に、ゼイゼイと喉の奥が鳴る。
苦しむ弟子を見守るルゴニスもまた、苦悶の表情をしている。細い体を抱きしめ、背中を擦ってやることしかできなかった。
日に日にアルバフィカの呼吸が浅く、弱くなっていく。手首を取るが、脈拍を確認することは難しかった。
『…もはや、これまでか…アルバフィカ』
ルゴニスは愛弟子の死を覚悟した。
その時だった─
「ルゴニス!」
空間に走った光の中から飛び出して来たのは、栗色の髪の毛をした少女だった。
「ヘスティア様!!」
特別区の宮殿にいるはずの女神が、この場に突然現れた。
「ヘスティア様、どうして、ここに!?…いえ、それよりも早くお引き取り下さい!ここは危のうございます!」
ルゴニス達の暮らす場所は、毒薔薇に囲まれた小さな家屋で、聖域内でも立入禁止区域に指定されている場所だ。
魔宮薔薇の香気が満ちていて、ここにいられるのは耐毒体質の自分と弟子だけなのだ。
「用を済ませたら帰ります。アルバフィカに会いに来ました」
「アルバフィカに?いけません!」
「ルゴニス、私を早く帰したいのでしょう?なら、私をアルバフィカに会わせなさい。教皇から事情は聞いています!」
アミリアは引き留めようとしたルゴニスの手を払いのけた。
『何だ…この小宇宙は…?この少女、いつの間にこのような強大な小宇宙を…?』
黄金聖闘士である自分を遥に凌ぐ小宇宙にルゴニスは跪いた。
「ヘスティア様、恐れながらアルバフィカは魚座を継ぐための儀式の最中です。私の血をその身に受け…」
「ルゴニス、御託はいりません。アルバフィカに用事があるのです」
アミリアは、ルゴニスの言葉を遮り、凛とした口調で言った。
「…こちらです」
アミリアが発する小宇宙を間近で感じたルゴニスは、少女が女神として覚醒した事を悟った。そして、今のアミリアなら瀕死の弟子を救えるかもしれない、と一縷の望みを託し、女神をアルバフィカが寝ているベッドの前に連れて行った。
「…!アルバフィカ君!!」
アミリアはベッドに駆け寄る。
「いけませんヘスティア様!今、アルバフィカの体には毒の血が!触れてはなりません!」
しかし、アミリアは構わずにアルバフィカの手を取る。そして、その手の甲にそっと口付けた。
「この試練を超えられるよう、貴方に加護の印を授けましょう。アルバフィカ」
力の抜け切ったアルバフィカの手を暫く握っていたアミリアだったが、一度、ギュッと力強く握った後に手を離した。そして、そっと掛け物を直しルゴニスの方に向き直った。
「ルゴニス、神である私には魚座の毒は効きません。心配は無用です」
弟子よりも華奢で小柄な女神はにっこり微笑むと「邪魔しましたね」と、再び空間に作った光の輪の中へ消えた。
「…せ、ん…せい?」
程なく、ベッドから弱々しいながらも弟子の声が聞こえた。振り返るとアルバフィカが口元に笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「今…ヘスティア様が…」
「ああ。お前を心配して来て下さったんだよ。御加護の印も頂いた。きっと、大丈夫だろう」
ルゴニスはホッとした表情を浮かべ、目の前でベッドに横たわっている弟子の頭を優しく撫でた。
アミリアが強引にアルバフィカに加護印を与えてから、あれ程までに衰弱していた体は、目に見えて回復していた。
『…あの女神…。あの方であれば、あるいはアルバフィカを孤独の道から救って下さるかもしれない…。』
およそ十年後─
初めて会ってから何年経っただろうか。
アミリアは気高く美しい女神へと成長し、聖域を陰から支えるのに十分な力を備えるまでに至っていた。
一方のアルバフィカも、強さと美を兼ね備えた孤高の魚座の聖闘士になっていた。
互いに幼い子供ではなく、それぞれに重要な役割を担うようになった。時折、何かの儀式や公務で顔を合わせることもあったが、気安く話ができる間柄ではなくなってしまった。
「なあ、アルバフィカ」
「何だ」
昔馴染みの友は、いつの間にか蟹座の黄金聖衣をその身に纏うようになり、自分を『アルバちゃん』と呼ばなくなった。お互いに大人になったということだろうか。
「今でもヘスティア様と話したりするのか?」
この友人は、大体昔から妙なところに勘が働くのが厄介なのだ。自分でも気付かないうちにアミリアの姿を目で追っている事に、こいつはいとも簡単に気がつく。
「…いや。そうでもない。最近話をしたのがいつだったかも思い出せない」
「それでいいのかよ?」
「いいも悪いもあるまい。最初から気安く話ができるようなお方ではなかっただけだ」
だけどさ、とマニゴルドはアルバフィカの言い分を打ち消すように言った。
「取られちまうかもよ?若い燕に」
「燕?」
彼が顎でしゃくるように指したのは白羊宮だった。
「最近、シオンと一緒にいることが多いみたいだぜ?お前の女神様」
「なっ…!誰が誰の女神だ!口を慎め、マニゴルド」
友の言葉に少しばかり動揺したのは、アミリアを自分の所有物の様な表現をされたからだけではなかった。
『シオン…。牡羊座か』
数年前に聖域にやってきた黄金聖闘士。聖衣を修復する能力があるのは、彼の一族の不思議な力の所以か…。
第一宮の守護者であるシオンは、自然と他の黄金聖闘士とも顔を合わす機会が多くなる。しかも人当たりがよく、天秤座の童虎と並んで最年少の黄金ということもあって、同僚達からも随分と可愛がられている。
いつの頃からか人を遠ざけ、笑うことなどなくなってしまった自分とは正反対の存在だった。
「ヘスティア様の交友関係に口を差し挟むつもりなど、元よりない」
マニゴルドにはそう言ったものの、アルバフィカの心中は穏やかでなかった。
青銅や白銀が任務に赴いた後は忙しくなる。聖衣は小さな傷であれば自己修復してくれるが、大きく損傷したものは修復師が手を加えてやらないといけない。
牡羊座の黄金聖闘士シオンの下には、そのような聖衣の修復依頼が次々と舞い込んでくる。
「どちらが本業だか分からんな…」
彼の黄金色の聖衣と同じく黄金色に輝く工具箱。その中から必要な道具を取り出す。
「さて、どうしたものか…」
目の前の聖衣は原形を止めないほどに激しく破壊されていた。
床に座り込んで腕組みをしたまま、聖衣を見つめていた。未だ、彼の師のように微塵の迷いもなく槌を振るえるほど卓越した技術は身についていない。
「シオン」
名を呼ばれて顔を上げると、キトンを纏った女がいた。
「…ヘスティア様。また、このようなところへ…」
「だって、聖衣の修復をするんでしょう?見たいわ」
「見せ物ではありません」
シオンはプイとそっぽを向く。
「見られていると集中できない?」
「…そういう訳では…」
口篭るシオンを見て、アミリアは「じゃあ、構わないわね」と言いながら少し離れた所に座り込んでしまった。
シオンは小さくため息をつくと、仕方なしに槌を握った。
コーン、コーン─
十二宮の階段に槌を振るう音が響く。アミリアがシオンをじっと見つめている。
一瞬、その視線に集中が途切れた。
「っ!」
手元が狂ったようだ。珍しく錐で指を傷つけてしまった。
「シオン!」
シオンの指を伝って流れる血を見て、アミリアが走り寄ってきた。
「大変!血が…!」
「この程度の傷、なんでもありません。大丈夫です」
シオンは手を引っ込めようとしたが、その手をアミリアがギュッと握りしめていた。
「いけません。見せなさい」
そう言って、アミリアはキトンの端で血を拭うとシオンの手を自分の両手で包み込んだ。
アミリアの両手が白金色に光り、シオンは傷の痛みが癒えていくのを感じた。
「もう大丈夫ですよ」
シオンは自分の手を優しく握って微笑む美しい女神に瞳を奪われていた。
アミリアから目を離せない。
ゴクリと唾を飲み込む音と早鐘の様に鳴っている心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「ヘスティア、様…」
喉も渇いていないのに口の中はカラカラだ。名を呼ぶ声が掠れる。
『ダメだ!何を考えているんだ私は!よせ!!』
頭の中でもう一人の自分が理性を保てと叫んでいる。だが、甘美な誘惑に動き出した体は止めることができなかった。
空いている方の手でアミリアの頬にそっと触れ、ゆっくりと顔を近づける…。
アルバフィカは白羊宮への階段を急ぎ足で上がっていく。微かにアミリアの小宇宙が感じられたのだ。
『取られちまうかもよ?若い燕に』
マニゴルドの言葉が頭の中で繰り返される。
『アミリアは、私の…』
白羊宮が見えた。すると、アルバフィカの目に飛び込んできたのは、シオンの手を握り締めているアミリアと頬を赤く染めてアミリアを熱く見つめるシオンだった。鼓動が早まる。
シオンの手がアミリアの頬におずおずと添えられ、二人の唇が近付いていく。
それを見たアルバフィカは全身の血が逆流するのを感じた。
『シオンのやつ…!何をやっている!!』
「アミリア!」
突然聞こえた声にシオンの動きが止まった。そちらの方に目をやると、声の主は優雅に微笑みながら歩いてきた。
「捜したよ、アミリア。ここにいたんだね。だめじゃないか、シオンの邪魔をしては」
アルバフィカは子供を諭すかのような優しい声色で話しながら、アミリアに手を差し出した。
「アルバフィカ君…」
「さあ、お手をどうぞ、お嬢様」
アミリアは戸惑いながらアルバフィカの手を取り立ち上がった。
アルバフィカがシオンを見ると、まだ幼さの残る端正な顔に、ばつの悪そうな表情を浮かべて視線をさ迷わせている。
この男はアミリアに恋をしているのか?一瞬の気の迷いだったのか?いずれにしても、このままにしてはおけない。
アルバフィカはアミリアの肩を抱き寄せるとシオンを一瞥した。
「シオン、私のアミリア#が最近お前を煩わせているようだな。申し訳ない」
「…いや、こちらこそ…」
シオンはそう言ったきり俯いてしまった。
「アミリア、行くよ。シオン、邪魔したな」
アルバフィカはアミリア#を抱き上げると、白羊宮に背を向けて階段を下っていった。
アミリアには、アルバフィカが何を考えているのか全く分からない。
整いすぎているくらい綺麗な顔は無表情で、何の感情も見てとれなかった。
「あの…、アルバフィカ君?私、歩けるわ」
機嫌を窺うように声をかけてみたが返事はない。
「…怒っているの?」
「……ああ、怒っているよ」
「ごめんなさい」
階段を下りきると、アルバフィカはアミリアを降ろした。そしてアミリアを自分の方に向かせ形の良い顎に指を掛け、そっと顔を持ち上げた。
アルバフィカの少し緑がかった蒼い瞳が、アミリアを捕えて離さない。いたたまれなくなったアミリアは思わず目を逸らしてしまう。
「…これからは、シオンのお仕事の邪魔はしないわ…」
アルバフィカは小さく息をつくと、「私を見てくれないか」と真剣な声で言った。
それに応えるように、アミリアはそっとアルバフィカに視線を戻した。間近に見る美貌の男は優しい瞳をしていた。ゆっくりと、端正な顔が近付く。
薔薇の香りのする柔らかい唇が、アミリアの唇にそっと押し当てられた。
アミリアは、驚きのあまり反射的に身を固くしてしまった。
唇を離したアルバフィカは、ふわりと包み込むようにアミリアを抱きしめ、耳元で囁いた。
「違うよ…。私が怒っているのはシオンだよ。私のアミリアに手を出そうとした」
ドクン!
アミリアの心臓が大きな音を立てた。
「アミリアは誰にも渡さない。渡したくないんだ…」
呻くように言ったアルバフィカは、アミリアを抱きしめている腕に力を込めた。
「あ、あの!アルバフィカ君…!私…」
アミリアは泣きそうになる。子供の頃からずっと好きだったアルバフィカ。
「ねえ、アミリア。君は立派な女神様になったよ。だけどね、無防備すぎる」
「無防備…?」
「ああ、そうだよ。私以外の男の前で女の子の顔を見せてはだめだ。…例えば、シオンだって一人の男だ。君を力づくでどうにかしてしまう事もできるんだよ?」
「……」
シオンが自分を傷付けるような行為に及ぶとは考え難い。だが先程、彼に口付けられそうになったのは事実だ。あそこにアルバフィカが来なければ、きっとシオンはそのままアミリアに口付をしていただろう。
シオンのことを嫌いな訳ではない。器用な手先や、光の加減で淡い翠色に見える豊かな金髪も好きだった。だが、異性として意識するかと言うと、それは全く別の問題だった。
例えば、今アルバフィカから受けた告白をシオンにされたら、自分はどう思っただろうか…。
「…うん、私もアルバフィカ君の傍にいたい」
自分から今できる精一杯の返事。
アルバフィカは嬉しそうに微笑んで、もう一度アミリアに優しく口付けをした
アミリアとアルバフィカはお互いの想いを確認し、晴れて恋人同士となった、はずだった。
「なあ、アルバフィカ」
「何だ」
二人の会話は、大抵マニゴルドの方から話しかけて始まる。
「お前、ヘスティア様と付き合ってんの?」
「馬鹿なことを言うな。そんなことあるわけなかろう」
「え!?違うの?じゃあ、何?燕に掻っ攫われたのか?」
アルバフィカは、興味津津で訊いてくるマニゴルドに呆れ顔を隠そうともせずに答えた。
「私はアミリアを愛しているし、アミリアも私を愛してくれている。ただそれだけだ」
「それだけ!?じゃあ何よ、ひとっつも手を出してないのか?プラトニックな関係なのか?」
「何が言いたい…?」
「ハグしたりキスしたりとか、それ以上の事はしねえの?」
「…勝手に想像してろ」
マニゴルドは『信じらんねえ!』と大袈裟に肩を竦めていたが、自分は聖闘士。いつ闘いの中で命を落とすかも知れないのに、無責任に恋人を作ることはできない。ましてや、アルバフィカの想い人は本物の女神なのだ。
結局、アミリアとは今まで通りの関係だった。アミリアもそれは十分に理解して納得している。
今の聖域にはアテナがいる。いつ冥王軍との闘いが始まってもおかしくない状況なのだ。
恐らく近い内にアミリアは聖域を出る事になるだろう。聖戦が始まれば聖域は戦場となる。アミリアを留まらせておく訳にはいくまい。
互いの細い指を絡めて誓った幼い日の約束をまだ覚えている。
「私は何があっても君を守るよ、アミリア」
ヘスティアの宮殿では、いつになく女官達が忙しく動き回っていた。
「ヘスティア様」
女官長のサラが硬い表情で部屋にやって来た。やや青ざめた顔のサラの手には、教皇からの親書が携えられていた。
「どうしました、サラ?何やら女官達に落ち着きがないようですが…」
「ヘスティア様、こちらをご覧下さいませ」
差し出された親書を読んだアミリアは、きつく目を閉じると数回深呼吸をした。
「サラ、至急伝令を!教皇へ『親書の内容、了解した』と伝えるように!それと下位の女官達には暇を出します。各々荷物を纏め、一両日中には聖域から出ていくように」
「ヘスティア様…もしや」
アミリアは頷いた。
「…聖戦です」
教皇からの親書には、間も無く聖戦が始まる事、アミリアは聖域から退避し、保養地の離宮に拠点を移して欲しい、といった内容が書かれていた。
「遂に、この時が来てしまいましたね」
アミリアは、自室のバルコニーから十二宮の方角を見て呟いた。
見上げた夜空には多くの星たちが瞬いている。あの星々はアテナの聖闘士達を守ってくれるだろうか…?
「ヘスティア様、明朝は夜明けと共に出立致します。今宵は、お早めに休まれます様にお願い致します」
サラが一礼して退室した。
サラを見送り、アミリアが室内に入ろうと踵を返した時だった。
「アミリア」
後ろから声をかけられ、驚いて振り返った。
「アミリア」
そこには黄金聖衣を纏った愛しい男が立っていた。
「アルバフィカ君!どうしたの?こんな時間に!それに、双魚宮を離れては─!?」
アルバフィカはアミリアの口を塞ぐように、強い口付けをした。
「会いたかったんだ、アミリア」
「アルバフィカ君…」
切な気に形の良い細い眉を寄せたアルバフィカはアミリアの体を掻き抱いた。
「初めて会った時からずっと君が好きだった。今でもその気持ちは変わらない。だからお願いだ。君の全てを私にくれないか?君が欲しいんだ、アミリア」
今までにない情熱的な囁きにアミリアの体が震える。
「アルバフィカ君…、私も同じ気持ちよ。貴方が、貴方が欲しい…。貴方が欲しいの…」
アミリアは熱に浮かされたように囁く。それに応えるようにアルバフィカの唇が、額に瞼に頬に鼻に、優しく口付けを施してゆく。
「…は、んっ…」
その余りの心地好さにアミリアの口から吐息が漏れる。
自分が口付ける毎に漏れ出てくる、今まで聴いたこともない、愛しい女神の官能的な声は、アルバフィカの脳髄を甘く痺れさせた。
理性が持たない…
アルバフィカは口付けをしたままアミリアを抱き上げると、躊躇うことなく部屋に入りベッドまで進んだ。
そっとアミリアを横たえると、次は自分の聖衣を脱ぎ始めた。アミリアは頬を紅く染めて目を逸らしたが、上半身裸になったアルバフィカが真上から覆い被さるようにしてアミリアの体の自由を奪った。
そして再び口付ける。先程よりも深く激しく、互いの唇を貪りあい、口の中まで犯す乱暴な口付けが繰り返される。
二人は理性を何処かに置いてきてしまった。今はただ、互いの体を求め合い、互いの存在と愛を確認するだけだった。
アミリアは何度も何度も、アルバフィカの滾る愛を全身で受け止めた。
アルバフィカは思いの丈を全てアミリアの中に放った。
繰返し繰返し─
