キオクノカケラ
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子供の頃、隣家には立派なバラの生け垣があった。季節ごとに色々な形や色のバラが咲いていて、私は毎日飽きもせずにそのバラを眺めていたものだ。
私の家は両親が共働きだったため、ガーデニングに手をかける時間的余裕などなく、四季折々に花が咲き乱れるような少女漫画的風景とは、残念ながら縁がなかった。
要するに殺風景な庭だった。
イングリッシュガーデンは私の憧れであり、いつかは自分でも挑戦したい分野であった。
だが、社会人となった今は仕事優先で、とてもそこまでの余裕がない。私の両親も恐らく同じだったのだろう。
「大人になったらやりたいことは何でもできると思っていたけど、案外できないものよね…」
今は、星の子学園の医務室で鉢植えのバラを細々と育てている。イングリッシュガーデンは無理だけど、これくらいならば…と思い、少し前に園芸店で購入したものだ。
出勤すると、まずはこのバラを日当たりのよい窓際に移し、必要であれば水やりをすることから一日が始まる。
今朝も小さなジョウロで水遣りをしながら、なんとなく溜息をついてしまった。
「さて、セシリアちゃん、今日も綺麗に咲いていてね」
中輪の花に顔を近づけると、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。育てているのはセント・セシリアと言う品種だ。色も形も一目惚れして、即決購入したものだ。名前も非常に可愛らしく、とても良い。
私はあまりガーデニングの知識がないので、上手に育てられるか心配だった。
しかし、私の心配とは裏腹に、バラの花はとても元気にしていて、束の間の癒しになっている。
セシリアに癒されつつも、溜息は次から次へと出るばかりだ。何しろ、今日は月例報告のため城戸沙織嬢と会うことになっている。
この学園はグラード財団が資金提供し運営に関わっている。
それにしたって、どうして養護教諭の私までが報告に参上しなければならないのかわからない。
「はあ、めんどくさ。理事長と園長だけでいけばいいのに」
一応、児童の健康面については私が一番把握しているからという理由で、私も行かなければならない『らしい』のだ。しかも、城戸のお屋敷まで出向かなければならない。世界有数の大企業であるグラード財団グループの総帥の私邸なんて、庶民の私には想像もできない程の大豪邸なのだ。
以前お邪魔した時などは、余りの豪邸っぷりにそのまま回れ右をしたくらいだ。わざわざ気疲れしに行くようなもので、どうにも気が進まない。出されるお茶やお菓子は美味しいんだけど…。
「星矢君たち、よくあんな豪邸で生活していられるわよね…。やっぱり、そういう心の強さも聖闘士だからなのかしら…」
ブツブツ言いながら、昨日のうちに纏めておいた報告書を最終確認してからバッグの中に入れ、鏡で身だしなみをチェックすると、私は医務室を出た。
わざわざ迎えに黒塗りの高級車を寄越してくるとは、金持ちの考えることはよく分からない。どんよりした気持ちのまま車に乗り込む。一緒に来るはずだった園長は、都からの緊急の呼び出しがあったとかで、私が一人で行く羽目になった。
『ホント、勘弁して欲しいわ…』
暗澹たる気持ちの私を乗せた高級車は、それはそれは静かに城戸邸まで私を運んできた。エントランスに横付けされた車から降りようとしたところ、誰かが外側からドアを開けてくれた。ふと見ると、そこには見慣れた笑顔があった。
「あ、瞬君!」
「お早うございます、万里亜先生。お待ちしていました」
「おはよう。ちょっと瞬君、学校は?」
「ああ、今日は振替えなんです。土曜日に学校公開があったんですよ」
「えー、中学校って公開日なんかあったっけ?」
「ありますよー」
大げさに驚く私を見て瞬君は可笑しそうに笑っている。
「そっかあ。もう忘れちゃったわー、10年も前の事なんて。じゃあ、今日はお兄さんも星矢君もいるの?」
「はい。兄さんはどこか行っちゃいましたけど。星矢は万里亜先生に会えるって喜んでましたよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない?」
月例報告など面倒くさすぎると思っていたが、今日はちょっと楽しそうだし、園長がいないのもついている。
瞬君に案内されて応接室に入ると、既に城戸沙織嬢がお待ちだった。
「沙織さん、万里亜先生をご案内しました」
「ありがとう、瞬。阿倍先生、御足労有難うございます。さ、こちらへお掛け下さい」
私は促され、ふかふかのソファに腰を掛けた。
「では、さっそく報告を伺いましょうか」
沙織嬢は品良く微笑むと、私が差し出した報告書に目を通し始めた。
今回は特段の問題事項も検討事項もなかったため、報告は1時間もかからずに終了した。沙織嬢はこれから会議があるとかで、執事の辰巳さんを伴って出て行ってしまった。
「先生、バラをお育てになっていると星矢から聞きました。もし御興味がおありでしたら、庭のバラ園をご覧なって下さいませ。腕の良いガーデナーがおりますから」
沙織嬢は出がけに、私にそう声をかけていった。
「折角だから見ていこうかしら…」
私は、バラ園があるという方へ歩いて行った。
城戸邸は江戸時代の大名屋敷跡に建てられているため、邸宅だけでなく庭も驚くほど広大だった。これは最早、庭園と表現しても差し支えないレベルだ。
「あ、あそこかしら」
大理石の敷石がある広いスペースが見える。数段のステップがあって、そこにバラのアーチがかかっていた。小ぶりのバラがいくつも纏まって咲いていて、とても見栄えがする。
「うわぁ、このバラ可愛いー」
思わず感嘆の声を上げ、咲いている花に触れて顔を近づけた。
「それは、アルバ・メイディランドという品種だよ。四季咲きだから秋頃まで良く咲くんだ。お気に召していただけたかな?」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると、そこには息を呑むほど見目麗しい青年が立っていた。
「ああ、驚かせてしまったようだね。すまなかった」
「…あ…いえ…」
背後から声を掛けれたことよりも、見たこともないほどの美貌を持った青年に驚いてしまったのが正直なところだった。
「君が阿倍万里亜嬢?」
「どうして…私の名前を?」
「君のボスからね。君にここのバラを見せてあげてほしいと頼まれたんだ」
「あ、じゃあ、総帥の仰っていた腕のいいガーデナーって…」
青年は口角を上げて微笑んだ。
「私の事だね、それは。時々、ここのバラの手入れをしにくるんだよ」
私は辺りに漂うバラの芳香と、目の前の超絶美形の青年が浮かべる眩いほどの微笑みのせいで、目の前がくらくらするような、足元がふわふわするような不思議な感覚に包まれていた。
「もし良かったら、ここにあるバラたちの事を紹介しようか?珍しい品種も植えてあるんだ」
青年が私に一歩近づいた。私は思わず一歩退いた。
つもりだった。
「きゃっ!」
足を後ろに引いた際、ステップに引っかかった。グラリと体が後ろに倒れる。
「危ない」
青年が倒れそうになった私の腕をとっさに掴んで、自分のほうに引き寄せた。
私は、抱き寄せられる形で青年の腕の中にスッポリと納まった。
「大丈夫だった?万里亜嬢」
もう、私は顔を上げられないくらい自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。心臓は未だかつてないくらいバクバクしていて、呼吸もできなくなりそうだった。
でも…この感覚…?
私は軽い既視感を覚えていた。
「万里亜嬢?」
怪訝そうに青年が私の顔を覗き込んでくる。
その表情、顔の角度、少し緑がかった蒼の瞳。左にある泣きぼくろも。なぜ?私、知ってる…。
「あ、あの…。私、あなたの名前…」
「ああ、これは失礼をした。私の名前はアフロディーテ。聖闘士のことは御存知でしょう?私も、聖闘士なんだ。魚座 の黄金聖衣を戴いている」
魚座 ─!
一瞬息が止まるのを感じた。心臓が『ドクン!』と大きく跳ね上がった。
体がガクガクと震えだす。
私の体の震えに気づいたアフロディーテさんは、申し訳なさそうに私の体を解放してくれた。
「そんなに怖がらないで。君は城戸家の大事な客人だ。何もしないよ」
彼は困ったような表情をしていた。だが違うのだ。私の体の震えは、この人を怖がっているからではないし、こんな美男にうっかり抱きしめられたからでもない。
違うという事は分かっている。わかっているけれども…
じゃあ、どうして?
「あー!アフロディーテ、何やってんだよ!気安く#万里亜先生に触ってんじゃねーよ!」
星矢君が怒りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「星矢君…」
星矢君が来てくれホッとしたのは事実だが、自分の声が予想外に落胆の色を強く含んでいたことに驚いた。
私、どうしちゃったのかしら…?
「あ、星矢君違うのよ。私が転びそうになったのを助けてもらっただけだから…」
慌てて言い繕う。
「ホントに?」
訝しげに星矢君はアフロディーテさんを見る。
「本当よ」
「先生がそう言うなら信じるけどさ、おいアフロディーテ!万里亜先生に手ェ出すなよ!」
噛みつきそうな勢いの星矢君を見てアフロディーテさんは肩を竦めた。
「君は相変わらずだな。もう少し落ち着きなよ」
「何だってー!このやろー!」
星矢君はキーキー怒っているが、アフロディーテさんは全く相手にしていない。その情景を見ていて、先ほどの緊張が解れるのを感じた。
「まあまあ星矢君、私に何か用事だったんじゃないの?」
このまま放っておくわけにもいかず、話題を変えるため、星矢君に声を掛けた。
「あ、そうそう。お茶の準備ができたから二人を呼んで来いって、瞬に言われたんだよ。ここにいるはずだからって…」
星矢君はふくれっ面で『あんたも来いよ』とアフロディーテさんに言った。
「ほう、私もお招きいただけるのかい?」
「ああ。瞬のヤツ、今紅茶の入れ方を勉強してるんだって。あんたに味見してもらいたいんだろ?」
「ふっ、それは光栄だね。では、御相伴に与ろうか」
その後、私たちはサロンで瞬君の淹れてくれた紅茶と、城戸邸のパティシエ特製のベリーのタルトをいただいた。私は、向かいの席で洗練された優雅な所作で紅茶を飲んでいるアフロディーテさんを見ながら考えた。
『こんなに綺麗な人、一度会ったら絶対に忘れるわけないわよね…。さっきの既視感…。勘違いとも思えないけど、でも…』
「万里亜先生?もしかして、お口に合いませんでしたか?」
難しい顔をしていた上に、手が止まっていたらしく、瞬君が不安そうに訊いてきた。
「え!?ああ、そうじゃないの。ちょっと考え事をしていて…。紅茶はとっても美味しいわよ」
「そうですか、良かった」
瞬君はホッとしたように笑った。
「万里亜先生、眉間に皺寄せなくちゃいけないくらい難しい事考えてたのかよ?」
星矢君が自分の眉間に皺を寄せて『こんな顔だったぜ?』と私の顔真似をして見せた。
「星矢、それはレディに対して失礼というもの。沙織嬢のお側にいながら、まだそんな事も分からないのか?」
アフロディーテさんが星矢君を苦々しく見て言った。
「あ、いいんですよ。私、すぐに眉間に皺寄せちゃって…。考え事をしていると特にそうなんです」
「何考え事していたんですか?」
瞬君に尋ねられてしまった。まさか、『アフロディーテさんと初めて会った気がしない』などと、時代錯誤で恥ずかしいだけのフレーズを口にするのも躊躇われる。どうしようかと逡巡したが
「聖闘士って見た目も重要なの?」
全くもって我ながら恥ずべき発言だと思う。そもそも彼らに失礼極まりないではないか。
「え!?」
案の定の反応と言うか、聖闘士たちはキョトンとして私を見つめた。私はいたたまれなくなり、俯いてしまった。
「だ…だって、私、何人か聖闘士を知っているけれど、みんなカッコイイな…って…」
これは本当。嘘ではないけれど、いい大人がこんな事を当の本人たちを前に言うのも、随分と恥ずかしいものだ。
「う~ん…。外見でいえば、玉石混交っつーか、ピンキリだよな」
「でも、みんな平和を守るために命を懸けて闘う気概は持ってるからね」
「大事なのは、外見ではないということだ。私たちは地上の平和を守るのが使命だからね」
星矢君は『お前が言うなよ』と言って、またアフロディーテさんに噛みついていたが、あまり相手にされていないようだ。
暫く他愛のない話をし、ティータイムを楽しんだ。私は昼までに学園に戻らなければならないからと、名残惜しかったが、退席させてもらった。
三人がエントランスまで見送りに来てくれた。帰りも黒塗りの高級車が送ってくれることになっていた。
車に乗り込み、挨拶をしようと窓を開けた私に、アフロディーテさんが顔を近づけた。
そして、耳元で優しく囁いた。
「私を覚えていてくれて嬉しいよ」
「え、あ、あの!」
驚いて見上げたが、アフロディーテさんはすっと後ろに下がり、右手を上げて運転手に合図した。
それと同時に、車は静かに滑り出した。
帰りの車の中、私はアフロディーテさんの言葉を反芻していた。
『あれって、どういうこと…?』
私の眉間の皺は、暫く消えそうにない。
万里亜は帰りの車中でも、アフロディーテの事ばかりを思い返していた。彼に感じた既視感は思い違いでは無いはず。
しかし、どれだけ過去の記憶を辿ってみたところで、かの美貌の青年には行き着かない。
しかも、アフロディーテは去り際に自分に言ったのだ。確かに、はっきりと。
『私の事を覚えていてくれて嬉しいよ』
という事は、やはり彼とはどこかで会っているのだ。いつ?どこで?
自問を繰り返しても、答えは見つからない。ただ、彼を思い出すと、胸が切なさを感じて苦しくなるのだった。
今日は屋敷に万里亜が来ることになっている。
沙織からそう聞かされていた星矢は、朝から機嫌が良かった。今日は月曜日だが、土曜日に授業参観があったため、振替えで休みなのだ。
『今日が休みで良かったぜ!』
星矢は間違いなく、機嫌が良かった。
あの時までは。
「あー!アフロディーテ、何やってんだよ!気安く万里亜先生に触ってんじゃねーよ!」
沙織との報告会議が終わった後、万里亜は庭のバラ園を散策しに来ていた。
そのはずなのに、星矢が万里亜を追いかけてきてみれば、バラ園ではあの美貌の男が万里亜を抱きしめているではないか。
万里亜は、転びそうになったところを助けてもらっただけと言っていたが…
『それにしたって、あんなにしっかりと抱きしめてるって、おかしくね?』
自分が声を掛けなかったら、あの男は万里亜を抱きしめ続けていたかもしれない。そう考えると、たまらなく腹立たしかった。しかも、万里亜が帰るときには耳元で何かを囁いていた。初対面のはずなのに、いちいち万里亜に近づくあの男が気に入らなかった。
星矢は、自分が幼稚な嫉妬をしてるだけなのはよく分かっていた。万里亜と自分には、どうあがいても突き崩すことのできない年齢差の壁が存在している。しかし、あの男と万里亜には年齢差はない。それが余計に胸を苦しくさせている事も。
星矢は唇を噛みしめることしかできなかった。
夕方になり沙織が帰宅した。可能な時は、夕食は皆で揃って食べることになっている。最初は『同じ食卓につくことは恐れ多い』と、辞退を申し出たアフロディーテだったが、沙織が『命令だ』と言うと、恐縮しながらも同席するようになった。
星矢は、アフロディーテと顔を合わせる気分には到底なれなかったものの、沙織の気持ちを踏みにじるような行為は躊躇われた。
いつもならよく食べよく喋る星矢が、今日は黙々と食べ、終わると『御馳走様でした』と一言言って、さっさと自室に引き上げてしまった。
「星矢ったらどうしたのかしら?」
沙織が首を傾げ、瞬の方を見る。大体の事情を知っている瞬ではあったが、それを全て話せるわけでもない。
「うーん、僕にもよく分からなくて…。ちょっと、話をしてこようかな」
そう言うと、瞬は星矢の部屋に向かった。
少年二人が出ていき、食堂には沙織とアフロディーテが残された。
暫く無言で食後の紅茶を飲んでいた二人だったが、先に沈黙を破ったのは沙織の方だった。
「アフロディーテ、阿倍万里亜さんの件ですが…」
「…私の拝見した限り、間違いないかと」
ティーカップを静かにソーサーに置いたアフロディーテは、真剣な面持ちで沙織を見据えて言った。
万里亜が城戸邸を訪れてから数日たったある日、今度は沙織が学園を訪ねてきた。
園長に呼び出された万里亜が応接室へ入ると、沙織とアフロディーテ、そしてもう一人、長身で随分と整った顔立ちの長髪の男がいた。切れ長の瞳と形の良い鼻梁のその男は、アフロディーテよりもやや歳は上だろうか。欧米人の年齢は見た目で判断がつきづらいが、非常に落ち着いた雰囲気がそう判断させた。
「阿倍さん、城戸総帥が貴女にお話があると、直々にいらっしゃったのです。私は外しますので、粗相のないようにして下さいよ」
万里亜だけに聞こえるよう、小声で言った園長はそそくさと応接室を出て行った。
「阿倍先生、アポもとらずに申し訳ありません」
沙織はに万里亜頭を下げた。総帥である立場の人間からこのように謝罪される意味も分からず、万里亜は困惑した。
「そ、そんな…。総帥、どうかそのようなことはお止め下さい。私が困ります」
慌てる万里亜を一瞥し、長身の男が沙織に尋ねた。
「失礼ながら、本当にこの女性が…?」
「ええ、間違いありません」
万里亜は、自分の知らない何か重大な事が起こりそうな予感がし、一抹の不安を覚えた。
沙織は改めて万里亜を見た。
「阿倍先生は、先日アフロディーテとお会いになっていらっしゃいますけれども、その時、彼にどのような印象をお持ちになりましたか?正直にお答えいただきたいのですが」
沙織の質問に万里亜は驚いた。質問の意図が全く読めない。この少女、何を考えているのだ…?
「……どのように、と仰られてましても…。随分と御綺麗な方だと…」
「それだけですか?」
沙織の口調は、決して威圧的ではないものの、誤魔化しなどは通用しないと思わせる強さが滲んでいる。
万里亜は、この年下の少女に畏怖の念を感じていた。
「…それと、…以前にお会いしたことがあるように…思いました」
本人を前にしてこのような事を言うのは、非常に恥ずかしい。万里亜は自分の頬が紅潮するのを感じていた。戸惑うばかりの万里亜に、沙織はグラード財団総帥らしく、凛とした口調ではっきりと言った。
「阿倍先生、どうか、私たちと共にギリシャまで来てください。時間の猶予がないので、正式な辞令は後日になりますが」
「…は、はい?ギリシャ…?ですか?」
財団のギリシャ支部は特殊業務を取り扱っており、本部職員でも詳細を知る者は少ないと噂されている。
万里亜のように、末端組織の一職員に辞令が出されるなど有り得ない。まさに、青天の霹靂とも言うべき出来事だった。
ギリシャ─地中海性気候の乾燥した温暖な土地。農業、鉱工業、輸送業、観光が主な産業。オリーブや綿、葉タバコが有名。通貨はユーロ。最近の国内情勢は財政改革が喫緊の課題。首都はアテネ。
万里亜が持っているギリシャの知識はこの程度だ。学生時代に、世界史で古代ギリシャの事を勉強したものの、今ではすっかり忘れてしまった。
ギリシャ語も分からない自分に、一体何ができるのだろうか。頼みの綱の沙織は、今抱えている重要案件が片付き次第の渡航となるため、一緒に行くのはアフロディーテともう一人、先日会ったばかりの長身の男─名前はサガと言った─だった。
日本からギリシャまでの直行便はないため、フランクフルトで乗り継ぎをする予定になっている。渡航には半日以上かかる。エコノミークラスで行くには負担が大きい。
だが、世界に誇るグラード財団が万里亜のために手配したのは、ファーストクラスだった。さすがにエコノミークラスと違い、座っているシートは圧倒的に快適だった。体に程よくフィットしフルフラットになるものだから、目を瞑れば自然と意識が落ちてゆく。
『フランクフルトまで寝ていよう』
何しろここ数日は、仕事の整理と後任への引き継ぎや自宅の引っ越し作業に追われ、ゆっくり眠る暇もなかったのだ。万里亜が眠りに落ちるまでに、時間はかからなかった。
夢の中で『ああ、これは夢なんだな』と気づくことがある。妙に客観的で、まるで自分を主人公にしたドラマか映画を鑑賞しているような感覚。
万里亜は、今まさにそんな状況にあった。
自分がいるのは、ギリシャ建築の白亜の神殿で、周囲は同じような建物がいくつも建っている。着衣はキトンと言ったか、踝までの長い衣を身に着け、ヒマティオンを羽織っている。
『いくらこれからギリシャに行くからって、この夢はあんまりじゃない?』
自分はこんなにも影響されやすい人間だったのかと、可笑しくなってしまう。
自意識はあるが、夢の中の自分はそれと関係なく、どこかに向かって歩いている。やや歩調が速い。息を弾ませて歩いていた自分が辿り着いたのは、大理石の階段が遥か上まで続いている丘の麓だった。
丘と言うよりも、山と言った方がしっくりくる。
階段の途中には、一定の間隔で神殿がいくつも建っている。
万里亜は夢の中の自分が、誰かに会うためにここに来たと分かっていた。また、その相手が万里亜にとって特別な存在であることも。
夢の中の万里亜は乱れた呼吸を整えると、大理石の階段を見上げた。
ギリシャの空はどこまでも高く、青く冴えわたっていた。太陽の眩しさに目を細めながら、暫く階段を見上げていた。
『誰か降りてくる』
自分の鼓動が速くなるのを感じるが、決して不快なものではない。
『誰との待ち合わせなのかしら?』
自分に向かってくる人は、照りつける陽光を反射させ、眩いばかりに煌めく黄金の鎧を身に着けていた。歩くたびに揺れる空色の髪は
万里亜の胸を更に高鳴らせた。
『ああ、そうだ。そうだった…。私は、いつも彼を待ち焦がれていたんだった…』
目の前に立った男に近付こうと一歩踏み出した刹那─
「万里亜嬢、そろそろ到着します。シートベルトを着用してください」
万里亜は、サガに肩を揺さぶられて目を覚ました。
「う…ん?」
少々寝惚けているのか、辺りをキョロキョロと見渡し現状の把握に努める。
「ああ、そうだ…。飛行機だった…」
今がギリシャへの道中であった事を思い出した。起こしてくれたサガに礼を言うと、大きく伸びをし、シートベルトを着用した。
乗り換え地であるフランクフルトに到着したが、一度空港に降りて次の搭乗時間まで待たなければならない。
どのように時間を潰そうか万里亜は思案していた。免税店などは大抵どこも似たような品揃えだし、空港内を見ると言っても、迷ってはいけないので遠くまで行けない。喉も乾いていないし、お腹も空いていない。
『と、なると…』
自分の保護者代わりに付いている二人と少しばかり話をしてみるか。アフロディーテとは三度目ましてだ。彼の美貌には緊張し腰が引けてしまうが、話しかけてみようと一回息を大きく吸い込んだが、それをすぐに吐き出した。
『いや、やっぱり止めよう…。でも、何も会話しないのも…』
そんな風に迷っていたのが、顔に出ていたのだろう。アフロディーテが愉快そうに笑いながら声を掛けてきた。
「万里亜嬢、さっきから百面相してるけど、どうしたの?」
「え、ど、どうもしませんけど!」
驚いて声が裏返ってしまい、更に恥ずかしくなってしまった。両手で頬を抑えると火照っているのが自分でも分かる。
『やっぱり、緊張しちゃうなあ。そんなに百面相だったのかな…ん?』
万里亜は、ふと一つ疑問に思った。それを尋ねても大丈夫か不安に思ったが、好奇心がその不安を上回った。
「あの、アフロディーテさん。一つ質問していいですか?」
「もちろん、どうぞ」
にっこりと美しく微笑む彼に、幾分たじろいでしまう。
「あ、あの、日本語がとてもお上手ですけど、どうしてですか?サガさんも流暢に話されますし」
アフロディーテは『ああ』と言うと、万里亜の隣に腰を掛けた。
「私達はね、世界中から仲間が集まっているから、そうだな…5、6か国語くらいは大抵話せるんだよ。それに、日本語はアテナが日本育ちだからね。どうしても必要なんだ」
「そうなんですか…。何と言うか、文武両道なんですね、聖闘士って」
そう言えば、あの星矢だってギリシャ語はペラペラだし、実は英語の成績も優秀らしい。幼少期をギリシャで過ごしていたから、国語は苦手なのかと思えばそうでもないみたいで、先日も漢字のテストで満点を取ったりしている。
「だから、これから会う連中とは日本語で会話できるよ。言葉は慣れだから、少しずつ覚えていくといい。みんな面倒見がいいしね。話しはしやすいと思うよ」
アフロディーテは万里亜の頭をくしゃっと撫でると、『何か飲み物を買ってくるよ』と席を立った。
アフロディーテが近くのカフェでコーヒーを三人分買ってきた。
万里亜は「ありがとう」と言って受け取ると、アフロディーテは「どういたしまして」とにっこり微笑んだ。受け取ったコーヒーのカップを揺らしながら、ふと思ったことがあった。
アフロディーテの方を見ると、眉間に皺を寄せ新聞を読んでいるサガにコーヒーを渡し、何かを話しをしている。
『聖闘士同士だとギリシャ語で話すのかな。聞いたこともない言葉…』
そっと手元のコーヒーに目を移し、一口飲んだ。
しばらくすると、アフロディーテは万里亜の横に戻ってきた。
「サガさんとは、お話終わったんですか?」
「ん?ああ、ごめんね、一人にしてしまって」
「いえ、そういう事ではないんです。ただ、ギリシャ語で会話していたのかな…とか、そういう事を考えていました」
「そうだよ。サガはギリシャ人だし、大抵はギリシャ語での会話だね。気になったの?」
「うーん…。私は日本人の友人しかいないから、外国語で会話をする機会なんてなかったんですよね。今だって、アフロディーテさんと日本語で会話をしているし…。そう言えば、前にムウさんがいらしたときだって日本語でお話ししました。貴鬼君もあんなに小さいのに、日本語上手だったし。だから、外国の人と共通の言葉で話す感覚ってどんな感じなのかなって、思ったんです」
「そうか。私は子供の頃から多言語の中で育っているから、そんなことは考えたこともなかったけど…。でも、相手の国の言葉で話しかけると喜ばれたり、全く違う母国語を持っている者同士なのに、共通の言葉でコミュニケーションが取れたりするのは、とても楽しい事だと思うよ」
アフロディーテが微笑みながら万里亜の頭を優しく撫でると、万里亜は少し擽ったそうにはにかんだ。
「そう言えば、アフロディーテさんはどちらの国の御出身ですか?」
「私はスウェーデンだよ」
「スウェーデン!なんか分かる!北欧っぽいもの!IKEAとH&Mとノーベル賞ですね?!」
「IKEAもH&Mも日本ではすっかり馴染みになっているようで、スウェーデン人としては嬉しいよ。ノーベル賞も日本人はすごいね。2000年代に入ってから、何人も化学賞や物理学賞を受賞しているよね」
「はあ…、そんなことまで御存知なんですね。聖闘士って、世界の事を色々知っていないといけないんですか?」
「まあ、世界各国に任務で行かないといけないからね。各国の社会情勢とかは、ある程度把握しているつもりだよ」
万里亜は、只々、感心するばかりだ。
「凄いなあ…!私も、皆さんに負けないように沢山勉強しなきゃですね」
アフロディーテに笑顔を向けると、彼は「その気持ちがあれば、大丈夫だよ」とウインクして見せた。
暫くアフロディーテと話をしていると、アテネ便の搭乗アナウンスが流れた。
「さ、行こうか」
アフロディーテは立ち上がると、万里亜にスッと手を差し出した。その動作は洗練されており、彼の外見と相まって非常に優雅に映った。思わぬ事に万里亜が戸惑っていると「お手をどうぞ、お嬢様」とアフロディーテがいたずらっぽく笑った。
万里亜は「ありがとう」と言うと、その手をとって立ち上がった。
搭乗口まで歩いていく間も、アフロディーテは万里亜の手を握ったままだった。
「私、迷子になりそうに見えますか?」
「迷子?」
「だって…手…」
女性と見間違えてしまいそうな顔の造作をしてはいるが、アフロディーテの手は間違いなく男性のそれで、万里亜の小さくて細い手をいとも簡単に包んでしまっている。それを意識してしまうと、頬が上気してくる。離してほしいような、そうでないような気持ちだ。
「アフロディーテ」
サガが見かねた様子で一つ息を吐くと、万里亜に分からないようギリシャ語でアフロディーテと話をする。何事かを話した後、「Ναί」と言って、アフロディーテは万里亜の手を離し、残念そうな様子で
「気を悪くしたのなら申し訳なかった」と言った。
「い、いえ、別に嫌じゃなかったです。むしろ嬉しかったというか…、懐かしい感じがしました」
万里亜が笑顔で首を横に振ると、アフロディーテは安堵の表情を見せた。
先程から見ていると、アフロディーテは随分と親しげに阿倍万里亜嬢と話をしている。彼女の調査はあいつの任務で、それを命じたのは私だ。しかし、彼女が当該人物だった場合には、十分に立場を弁えるよう注意していたのだが…。
「サガ、コーヒー」
「ああ、すまない」
コーヒーを持ってきたアフロディーテを見て、息を一つついた。
「なあ、アフロディーテ」
万が一にも彼女に話の内容を聞かれないよう、ギリシャ語で話をした。
「彼女と話しをすることを咎める気は毛頭ないが、少しは立場を弁えろ。まだ覚醒していないとはいえ、彼女は…」
「ああ、分かっているさ。だが、今はまだ阿倍万里亜だ。自分の立場も重要性も知らないでいる。せめて、緊張しないように配慮することは必要じゃないか?」
「それはそうだが…」
「無礼な真似はしないよ」
「当たり前だ」
アフロディーテは片手を挙げると彼女の方へと歩いて行った。
「全く…」
私は深く溜息をついた。
「サガよ、『あのお方』が日本で見つかったとの報告を受けた。至急確認をしてもらいたい。詳細はここに書いてある。人選はお前に任せる」
「承知いたしました」
教皇宮にある執務室で仕事をしていると、教皇シオンから呼び出され、日本での任務を命じられた。
渡された封筒には、当該人物の調査報告書と何枚かの写真が添付されていた。経歴は至って平凡で、添付された写真を見てもごく普通の日本人女性であった。
「どうも今代の聖域は、日本と縁が深いな…」
苦笑しながら報告書に目を通したサガは『さて、誰を確認に行かせるか』と部下にあたる黄金聖闘士達を思い浮かべる。
シオンは人選は任せると言ったが、この女性が『あのお方』だという確証を得なければならない。
となると…ここはやはり、老師に御頼みするのが確実であろう…。老師であれば、『あのお方』の小宇宙を御存知のはず
サガは執務室を出ると、天秤宮へ向かった。
「老師、サガです。いらっしゃいますか?」
天秤宮にある私室の扉をノックすると、中から小柄な東洋人の男が顔を出した。
「おお、サガか。お主がわしの所に来るなど珍しいのう。ま、中に入れ」
サガは促されて室内に入った。
「茶でも飲むか?」
「は、頂きます」
丁寧に頭を下げるサガを見て、男はからからと笑った。
「相変わらず堅い奴じゃのう!少しは肩の力を抜けぬのか?」
「恐れながら、元々の性分故…」
「仕方のない奴じゃのう」
呆れたように言いながらも、男はにこにこと笑顔を浮かべていた。サガが椅子に座ったのを確認すると、男は香りのよい中国茶を丁寧に淹れ、茶器をサガの前に置いた。
「で、わしに何の用じゃ?」
「実は…老師に御頼みしたいことがございまして」
サガはそう言うと、シオンから渡された書類をテーブルの上に広げた。老師と呼ばれた年若い男は、その書類に目を通した。
「ほう?これはこれは…」
「真偽の確認に日本へ行っていただきたいのです。お引き受けいただけますでしょうか」
男は顎に手を当てて暫く考えていたが、その書類をサガの方へ差し戻した。
「この任務はわしよりも適任がおる。そいつに頼むと良いじゃろう」
「……教皇、ですか?」
「ははっ、シオンも悪くはないが、あやつが聖域から離れる訳にもいくまい。『あのお方』はな、ずっと待っておられるのじゃ。あの男を…」
「あの男、とは?」
窓の外を見るように遠い目をした男の目は、僅かに悲しみの色を宿しているように見えた。
老師の推薦でアフロディーテを任務にあたらせたが…
『なぜ、手まで繋がんといけないのだ!やり過ぎだぞ!』
立場を弁えろと注意した傍からこれでは、先が思いやられる。
「アフロディーテ」
背後から声を掛ける。ギリシャ語で話せば、彼女は会話の内容を理解できない。彼女にしてみれば、気分は良くないだろうが仕方がない。
「お前、何を考えている。任務中だと忘れた訳でもないだろう。彼女は我々にとって最重要人物だぞ。お前個人の感情でどうこうして良いお方ではない。それはお前とて重々承知しているのではないのか?」
「言われなくても分かっている。だけどね、サガ。これは彼女の覚醒を促すためでもあるんだよ。そこは理解してほしいね」
「それは、聖域に着いてからで良いのではないか?逆に、こんなところで覚醒されても困るだろう。何より彼女が戸惑っている」
「…分かったよ」
珍しく拗ねたような口調でそういうと、アフロディーテは繋いでいた手を離した。
『全く…。どうかしてるぞ、アフロディーテの奴は』
サガは心の中で大きく溜息をついたのだった。
フランクフルトからアテネまでの所要時間は、3時間ほどだった。
日本からフランクフルトまでの間にたっぷりと睡眠をとったので、今は眠くない。
万里亜は仕方なしに、映画を見ることにした。当然、日本語字幕も吹き替えもない。言葉が分からなくても観られそうなジャンルと言えば、アクション系か。
時間も2時間程度であれば丁度良い。適当にチャンネル番号を合わせて観るともなしにモニターを眺めていた。
『アフロディーテさんとサガさんって、何しているんだろう?』
ふと、二人の事が気になってちらっと見てみると、アフロディーテはヘッドフォンをして目を閉じている。
『音楽でも聴いてるのかな?サガさんは…』
とサガの方を見ると、難しい顔をして書類を見ている。時々何かチェックを入れたり、タブレット端末で何やら作業をしている。
『あ、お仕事持ってきてるんだ。サガさんも聖闘士だって聞いたけど、デスクワークもするのね。何か、中間管理職っぽいなあ。眉間に皺寄せちゃってるし。気苦労が多いのかも。……それにしてもCAのお姉さんたち、やたらと二人の傍を行ったり来たりしてる気がする。やっぱり、外国人さんから見てもあの二人、イケメンなんだわ』
妙に納得した万里亜は、再び映画を見始めた。
アテネに到着し入国手続きが終わると、今度は車で移動すると言われた。
「目的地の近くまで車で行くよ。そこからは歩いてもらわないといけなんだ。少し距離があるから、もし疲れたらすぐに言うんだよ」
アフロディーテは迎えの車のドアを開けると、乗るように手で促した。
「はい、わかりました」
万里亜の隣にはサガが、助手席にはアフロディーテが乗った。
『アフロディーテさんに横に座ってもらいたかったけど、仕方ないか…』
万里亜から見ると、サガも見た事もないくらい美形なのだが、始終顰め面をしていてどうにも話しかけづらい。それに、折角アテネに来たのに、空港から目的地までが車での移動と言うのも、もったいない気がしてしまう。観光がてら歩きたかったのだが、それも仕方ない。
ぼんやりと車窓からの景色を眺めていたが、段々と市街地から離れ、郊外に向かっている事に気が付いた。こんな郊外の町に財団の施設があるのだろうか。
すると、車はある町で停まった。そこは、懐かしい匂いのするとてものどかな雰囲気の町だった。
「ここからは徒歩です」
サガが下車するよう促した。
「え?ここからですか?」
サガは「そうです」と頷くと、車のトランクから荷物を下ろし、運転手にチップを渡した。
町を通り抜けると、次第に舗装されていないデコボコ道になってきた。
万里亜は、慣れないパンプスのせいでペースが落ちていく。
『こんなことならスニーカー持ってくるんだった』
万里亜の拳ほどもある石がゴロゴロしている道は、少し気を抜くと転倒しそうになる。足元に注意を払って歩いていると遅くなるし、前を歩く男たちに着いていこうとすると、石に躓く。
次第に息が上がってくる。おまけに靴擦れができているようで、左右ともアキレス腱の辺りがひりつく様に痛い。きっと、出血もしているのだろう。
更にペースの落ちてきた万里亜を見かねて、アフロディーテが立ち止まった。
「万里亜嬢、足が痛いならそう言って?」
「あ…ごめんなさい…」
「謝ってほしいんじゃないんだよ。もう少し、頼りにしてくれてもいいんじゃないかと思ってね」
そう言うとアフロディーテは、万里亜を軽々と抱きかかえた。
万里亜はびっくりして、降りようともがいたが、アフロディーテは全くびくともしなかった。
「お、お、降ろして下さい」
無駄とは分かっていたが、一応抗議の声を上げてみる。
「何を言っているんだ。君、その足で歩けるの?」
「…歩けないかも…」
「だろ?それなら、大人しく私に抱っこされてるといいよ」
優しい口調でそう言ったアフロディーテは、再び歩き始めた。
万里亜を抱えているのにも関わらず、アフロディーテは先程までより歩くペースが速い。
万里亜は、自分の体が安定するようにアフロディーテの首に両腕を回し、彼に抱きつくような格好になっている。かなり恥ずかしいが、その方が歩きやすいと言われてしまっては、その通りにする他はない。
「あの…、すみません…。私、重くて…」
遠慮がちに言うと、アフロディーテはくすりと笑った。
「これでも私はアテナの聖闘士だよ?君一人をこうして抱いて歩くぐらい造作もない事だ。それに、君は身長の割に随分と軽いね。まあ、東洋人女性は大抵スリムだからね。それにしたって、驚くほどだよ。ちゃんと食べているの?」
「は、はい。日々、三食食べるようには心掛けています。お料理も嫌いじゃないので」
「そうか。じゃあ、いつか私にも料理を作ってくれないか?」
「は、はい。お口に合うと良いですけど…」
「約束だよ?」
アフロディーテは、とろけてしまいそうな程の極上の微笑みを万里亜に向ける。
『ああ、気絶しそうなくらいの恥ずかしさって本当にあるんだわ。いっその事、このまま気絶してしまいたい…』
万里亜だって、男性と付き合った経験がない訳ではないし、その時は多少のスキンシップも当然あった。
だが、美し過ぎるアフロディーテにこのまま抱えられていたら、自分の心臓が爆発するのではないかと心配になる程、限界まで鼓動が早まっている。
万里亜は降ろして貰おうと思い、俯いていた顔を上げアフロディーテを見た。
彼の横顔は、まるでギリシャ彫刻の様に整っていて、肌は絹のように滑らかだった。一瞬、その顔に別の陰が重なった様に見えたのは気のせいか。
『…あ、れ?何だろう?今何か思い出しかけた気がする…』
「私の顔に何か付いている?」
アフロディーテが前を見たまま、口元を緩ませた。
「え!」
「さっきから、じっと見ているよね」
「ご、ごめんなさい!私ったら…あ、あの、もう降ろして下さい。歩けますから」
「残念だけど、そういう訳にはいかないな。君の事はくれぐれも丁重にお連れするように、とアテナから仰せつかっている。傷めている足で歩かせたとあっては、後でどの様な御叱りを頂戴する事になるか…。サガと私を助けると思って、もう少し我慢してくれないか?」
「う゛…」
稀代の美男からそう言われてしまうと、万里亜としては観念するしかない。こうなった以上、早く到着するよう願うだけだ。
程なくすると、随分開けた場所に出た。
「これから、あの上まで行くよ。教皇がお待ちかねだ」
アフロディーテの視線の先には、高い丘の頂上まで続く大理石の階段があり、一定の間隔で宮殿が建っている。
『夢で見た景色とそっくり!』
万里亜は息を飲んだ。
飛行機の中で見た夢で、万里亜は確かに酷似した景色の中にいたのだ。
『あの階段を降りてきた人、顔は見えなかったな…。それにしても…』と、見上げてみれば頭上には延々と続く階段。
「あの、アフロディーテさん…。もしかして、このままで上まで?」
「当たり前だろ?その足では、どの道歩けやしないんだから」
おずおずと尋ねる万里亜に対して、アフロディーテは笑いながら答えた。
このまま厄介になるしかないかと、腹を括った時だった。階段の上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「万里亜先生ー!」
「この声!貴鬼君!?」
階段を駆け下りてきたのは、貴鬼だった。
万里亜は、今度こそ降ろしてもらうと、自分に飛び付いてきた貴鬼をしっかりと抱き締めた。
私の家は両親が共働きだったため、ガーデニングに手をかける時間的余裕などなく、四季折々に花が咲き乱れるような少女漫画的風景とは、残念ながら縁がなかった。
要するに殺風景な庭だった。
イングリッシュガーデンは私の憧れであり、いつかは自分でも挑戦したい分野であった。
だが、社会人となった今は仕事優先で、とてもそこまでの余裕がない。私の両親も恐らく同じだったのだろう。
「大人になったらやりたいことは何でもできると思っていたけど、案外できないものよね…」
今は、星の子学園の医務室で鉢植えのバラを細々と育てている。イングリッシュガーデンは無理だけど、これくらいならば…と思い、少し前に園芸店で購入したものだ。
出勤すると、まずはこのバラを日当たりのよい窓際に移し、必要であれば水やりをすることから一日が始まる。
今朝も小さなジョウロで水遣りをしながら、なんとなく溜息をついてしまった。
「さて、セシリアちゃん、今日も綺麗に咲いていてね」
中輪の花に顔を近づけると、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。育てているのはセント・セシリアと言う品種だ。色も形も一目惚れして、即決購入したものだ。名前も非常に可愛らしく、とても良い。
私はあまりガーデニングの知識がないので、上手に育てられるか心配だった。
しかし、私の心配とは裏腹に、バラの花はとても元気にしていて、束の間の癒しになっている。
セシリアに癒されつつも、溜息は次から次へと出るばかりだ。何しろ、今日は月例報告のため城戸沙織嬢と会うことになっている。
この学園はグラード財団が資金提供し運営に関わっている。
それにしたって、どうして養護教諭の私までが報告に参上しなければならないのかわからない。
「はあ、めんどくさ。理事長と園長だけでいけばいいのに」
一応、児童の健康面については私が一番把握しているからという理由で、私も行かなければならない『らしい』のだ。しかも、城戸のお屋敷まで出向かなければならない。世界有数の大企業であるグラード財団グループの総帥の私邸なんて、庶民の私には想像もできない程の大豪邸なのだ。
以前お邪魔した時などは、余りの豪邸っぷりにそのまま回れ右をしたくらいだ。わざわざ気疲れしに行くようなもので、どうにも気が進まない。出されるお茶やお菓子は美味しいんだけど…。
「星矢君たち、よくあんな豪邸で生活していられるわよね…。やっぱり、そういう心の強さも聖闘士だからなのかしら…」
ブツブツ言いながら、昨日のうちに纏めておいた報告書を最終確認してからバッグの中に入れ、鏡で身だしなみをチェックすると、私は医務室を出た。
わざわざ迎えに黒塗りの高級車を寄越してくるとは、金持ちの考えることはよく分からない。どんよりした気持ちのまま車に乗り込む。一緒に来るはずだった園長は、都からの緊急の呼び出しがあったとかで、私が一人で行く羽目になった。
『ホント、勘弁して欲しいわ…』
暗澹たる気持ちの私を乗せた高級車は、それはそれは静かに城戸邸まで私を運んできた。エントランスに横付けされた車から降りようとしたところ、誰かが外側からドアを開けてくれた。ふと見ると、そこには見慣れた笑顔があった。
「あ、瞬君!」
「お早うございます、万里亜先生。お待ちしていました」
「おはよう。ちょっと瞬君、学校は?」
「ああ、今日は振替えなんです。土曜日に学校公開があったんですよ」
「えー、中学校って公開日なんかあったっけ?」
「ありますよー」
大げさに驚く私を見て瞬君は可笑しそうに笑っている。
「そっかあ。もう忘れちゃったわー、10年も前の事なんて。じゃあ、今日はお兄さんも星矢君もいるの?」
「はい。兄さんはどこか行っちゃいましたけど。星矢は万里亜先生に会えるって喜んでましたよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない?」
月例報告など面倒くさすぎると思っていたが、今日はちょっと楽しそうだし、園長がいないのもついている。
瞬君に案内されて応接室に入ると、既に城戸沙織嬢がお待ちだった。
「沙織さん、万里亜先生をご案内しました」
「ありがとう、瞬。阿倍先生、御足労有難うございます。さ、こちらへお掛け下さい」
私は促され、ふかふかのソファに腰を掛けた。
「では、さっそく報告を伺いましょうか」
沙織嬢は品良く微笑むと、私が差し出した報告書に目を通し始めた。
今回は特段の問題事項も検討事項もなかったため、報告は1時間もかからずに終了した。沙織嬢はこれから会議があるとかで、執事の辰巳さんを伴って出て行ってしまった。
「先生、バラをお育てになっていると星矢から聞きました。もし御興味がおありでしたら、庭のバラ園をご覧なって下さいませ。腕の良いガーデナーがおりますから」
沙織嬢は出がけに、私にそう声をかけていった。
「折角だから見ていこうかしら…」
私は、バラ園があるという方へ歩いて行った。
城戸邸は江戸時代の大名屋敷跡に建てられているため、邸宅だけでなく庭も驚くほど広大だった。これは最早、庭園と表現しても差し支えないレベルだ。
「あ、あそこかしら」
大理石の敷石がある広いスペースが見える。数段のステップがあって、そこにバラのアーチがかかっていた。小ぶりのバラがいくつも纏まって咲いていて、とても見栄えがする。
「うわぁ、このバラ可愛いー」
思わず感嘆の声を上げ、咲いている花に触れて顔を近づけた。
「それは、アルバ・メイディランドという品種だよ。四季咲きだから秋頃まで良く咲くんだ。お気に召していただけたかな?」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると、そこには息を呑むほど見目麗しい青年が立っていた。
「ああ、驚かせてしまったようだね。すまなかった」
「…あ…いえ…」
背後から声を掛けれたことよりも、見たこともないほどの美貌を持った青年に驚いてしまったのが正直なところだった。
「君が阿倍万里亜嬢?」
「どうして…私の名前を?」
「君のボスからね。君にここのバラを見せてあげてほしいと頼まれたんだ」
「あ、じゃあ、総帥の仰っていた腕のいいガーデナーって…」
青年は口角を上げて微笑んだ。
「私の事だね、それは。時々、ここのバラの手入れをしにくるんだよ」
私は辺りに漂うバラの芳香と、目の前の超絶美形の青年が浮かべる眩いほどの微笑みのせいで、目の前がくらくらするような、足元がふわふわするような不思議な感覚に包まれていた。
「もし良かったら、ここにあるバラたちの事を紹介しようか?珍しい品種も植えてあるんだ」
青年が私に一歩近づいた。私は思わず一歩退いた。
つもりだった。
「きゃっ!」
足を後ろに引いた際、ステップに引っかかった。グラリと体が後ろに倒れる。
「危ない」
青年が倒れそうになった私の腕をとっさに掴んで、自分のほうに引き寄せた。
私は、抱き寄せられる形で青年の腕の中にスッポリと納まった。
「大丈夫だった?万里亜嬢」
もう、私は顔を上げられないくらい自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。心臓は未だかつてないくらいバクバクしていて、呼吸もできなくなりそうだった。
でも…この感覚…?
私は軽い既視感を覚えていた。
「万里亜嬢?」
怪訝そうに青年が私の顔を覗き込んでくる。
その表情、顔の角度、少し緑がかった蒼の瞳。左にある泣きぼくろも。なぜ?私、知ってる…。
「あ、あの…。私、あなたの名前…」
「ああ、これは失礼をした。私の名前はアフロディーテ。聖闘士のことは御存知でしょう?私も、聖闘士なんだ。
一瞬息が止まるのを感じた。心臓が『ドクン!』と大きく跳ね上がった。
体がガクガクと震えだす。
私の体の震えに気づいたアフロディーテさんは、申し訳なさそうに私の体を解放してくれた。
「そんなに怖がらないで。君は城戸家の大事な客人だ。何もしないよ」
彼は困ったような表情をしていた。だが違うのだ。私の体の震えは、この人を怖がっているからではないし、こんな美男にうっかり抱きしめられたからでもない。
違うという事は分かっている。わかっているけれども…
じゃあ、どうして?
「あー!アフロディーテ、何やってんだよ!気安く#万里亜先生に触ってんじゃねーよ!」
星矢君が怒りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「星矢君…」
星矢君が来てくれホッとしたのは事実だが、自分の声が予想外に落胆の色を強く含んでいたことに驚いた。
私、どうしちゃったのかしら…?
「あ、星矢君違うのよ。私が転びそうになったのを助けてもらっただけだから…」
慌てて言い繕う。
「ホントに?」
訝しげに星矢君はアフロディーテさんを見る。
「本当よ」
「先生がそう言うなら信じるけどさ、おいアフロディーテ!万里亜先生に手ェ出すなよ!」
噛みつきそうな勢いの星矢君を見てアフロディーテさんは肩を竦めた。
「君は相変わらずだな。もう少し落ち着きなよ」
「何だってー!このやろー!」
星矢君はキーキー怒っているが、アフロディーテさんは全く相手にしていない。その情景を見ていて、先ほどの緊張が解れるのを感じた。
「まあまあ星矢君、私に何か用事だったんじゃないの?」
このまま放っておくわけにもいかず、話題を変えるため、星矢君に声を掛けた。
「あ、そうそう。お茶の準備ができたから二人を呼んで来いって、瞬に言われたんだよ。ここにいるはずだからって…」
星矢君はふくれっ面で『あんたも来いよ』とアフロディーテさんに言った。
「ほう、私もお招きいただけるのかい?」
「ああ。瞬のヤツ、今紅茶の入れ方を勉強してるんだって。あんたに味見してもらいたいんだろ?」
「ふっ、それは光栄だね。では、御相伴に与ろうか」
その後、私たちはサロンで瞬君の淹れてくれた紅茶と、城戸邸のパティシエ特製のベリーのタルトをいただいた。私は、向かいの席で洗練された優雅な所作で紅茶を飲んでいるアフロディーテさんを見ながら考えた。
『こんなに綺麗な人、一度会ったら絶対に忘れるわけないわよね…。さっきの既視感…。勘違いとも思えないけど、でも…』
「万里亜先生?もしかして、お口に合いませんでしたか?」
難しい顔をしていた上に、手が止まっていたらしく、瞬君が不安そうに訊いてきた。
「え!?ああ、そうじゃないの。ちょっと考え事をしていて…。紅茶はとっても美味しいわよ」
「そうですか、良かった」
瞬君はホッとしたように笑った。
「万里亜先生、眉間に皺寄せなくちゃいけないくらい難しい事考えてたのかよ?」
星矢君が自分の眉間に皺を寄せて『こんな顔だったぜ?』と私の顔真似をして見せた。
「星矢、それはレディに対して失礼というもの。沙織嬢のお側にいながら、まだそんな事も分からないのか?」
アフロディーテさんが星矢君を苦々しく見て言った。
「あ、いいんですよ。私、すぐに眉間に皺寄せちゃって…。考え事をしていると特にそうなんです」
「何考え事していたんですか?」
瞬君に尋ねられてしまった。まさか、『アフロディーテさんと初めて会った気がしない』などと、時代錯誤で恥ずかしいだけのフレーズを口にするのも躊躇われる。どうしようかと逡巡したが
「聖闘士って見た目も重要なの?」
全くもって我ながら恥ずべき発言だと思う。そもそも彼らに失礼極まりないではないか。
「え!?」
案の定の反応と言うか、聖闘士たちはキョトンとして私を見つめた。私はいたたまれなくなり、俯いてしまった。
「だ…だって、私、何人か聖闘士を知っているけれど、みんなカッコイイな…って…」
これは本当。嘘ではないけれど、いい大人がこんな事を当の本人たちを前に言うのも、随分と恥ずかしいものだ。
「う~ん…。外見でいえば、玉石混交っつーか、ピンキリだよな」
「でも、みんな平和を守るために命を懸けて闘う気概は持ってるからね」
「大事なのは、外見ではないということだ。私たちは地上の平和を守るのが使命だからね」
星矢君は『お前が言うなよ』と言って、またアフロディーテさんに噛みついていたが、あまり相手にされていないようだ。
暫く他愛のない話をし、ティータイムを楽しんだ。私は昼までに学園に戻らなければならないからと、名残惜しかったが、退席させてもらった。
三人がエントランスまで見送りに来てくれた。帰りも黒塗りの高級車が送ってくれることになっていた。
車に乗り込み、挨拶をしようと窓を開けた私に、アフロディーテさんが顔を近づけた。
そして、耳元で優しく囁いた。
「私を覚えていてくれて嬉しいよ」
「え、あ、あの!」
驚いて見上げたが、アフロディーテさんはすっと後ろに下がり、右手を上げて運転手に合図した。
それと同時に、車は静かに滑り出した。
帰りの車の中、私はアフロディーテさんの言葉を反芻していた。
『あれって、どういうこと…?』
私の眉間の皺は、暫く消えそうにない。
万里亜は帰りの車中でも、アフロディーテの事ばかりを思い返していた。彼に感じた既視感は思い違いでは無いはず。
しかし、どれだけ過去の記憶を辿ってみたところで、かの美貌の青年には行き着かない。
しかも、アフロディーテは去り際に自分に言ったのだ。確かに、はっきりと。
『私の事を覚えていてくれて嬉しいよ』
という事は、やはり彼とはどこかで会っているのだ。いつ?どこで?
自問を繰り返しても、答えは見つからない。ただ、彼を思い出すと、胸が切なさを感じて苦しくなるのだった。
今日は屋敷に万里亜が来ることになっている。
沙織からそう聞かされていた星矢は、朝から機嫌が良かった。今日は月曜日だが、土曜日に授業参観があったため、振替えで休みなのだ。
『今日が休みで良かったぜ!』
星矢は間違いなく、機嫌が良かった。
あの時までは。
「あー!アフロディーテ、何やってんだよ!気安く万里亜先生に触ってんじゃねーよ!」
沙織との報告会議が終わった後、万里亜は庭のバラ園を散策しに来ていた。
そのはずなのに、星矢が万里亜を追いかけてきてみれば、バラ園ではあの美貌の男が万里亜を抱きしめているではないか。
万里亜は、転びそうになったところを助けてもらっただけと言っていたが…
『それにしたって、あんなにしっかりと抱きしめてるって、おかしくね?』
自分が声を掛けなかったら、あの男は万里亜を抱きしめ続けていたかもしれない。そう考えると、たまらなく腹立たしかった。しかも、万里亜が帰るときには耳元で何かを囁いていた。初対面のはずなのに、いちいち万里亜に近づくあの男が気に入らなかった。
星矢は、自分が幼稚な嫉妬をしてるだけなのはよく分かっていた。万里亜と自分には、どうあがいても突き崩すことのできない年齢差の壁が存在している。しかし、あの男と万里亜には年齢差はない。それが余計に胸を苦しくさせている事も。
星矢は唇を噛みしめることしかできなかった。
夕方になり沙織が帰宅した。可能な時は、夕食は皆で揃って食べることになっている。最初は『同じ食卓につくことは恐れ多い』と、辞退を申し出たアフロディーテだったが、沙織が『命令だ』と言うと、恐縮しながらも同席するようになった。
星矢は、アフロディーテと顔を合わせる気分には到底なれなかったものの、沙織の気持ちを踏みにじるような行為は躊躇われた。
いつもならよく食べよく喋る星矢が、今日は黙々と食べ、終わると『御馳走様でした』と一言言って、さっさと自室に引き上げてしまった。
「星矢ったらどうしたのかしら?」
沙織が首を傾げ、瞬の方を見る。大体の事情を知っている瞬ではあったが、それを全て話せるわけでもない。
「うーん、僕にもよく分からなくて…。ちょっと、話をしてこようかな」
そう言うと、瞬は星矢の部屋に向かった。
少年二人が出ていき、食堂には沙織とアフロディーテが残された。
暫く無言で食後の紅茶を飲んでいた二人だったが、先に沈黙を破ったのは沙織の方だった。
「アフロディーテ、阿倍万里亜さんの件ですが…」
「…私の拝見した限り、間違いないかと」
ティーカップを静かにソーサーに置いたアフロディーテは、真剣な面持ちで沙織を見据えて言った。
万里亜が城戸邸を訪れてから数日たったある日、今度は沙織が学園を訪ねてきた。
園長に呼び出された万里亜が応接室へ入ると、沙織とアフロディーテ、そしてもう一人、長身で随分と整った顔立ちの長髪の男がいた。切れ長の瞳と形の良い鼻梁のその男は、アフロディーテよりもやや歳は上だろうか。欧米人の年齢は見た目で判断がつきづらいが、非常に落ち着いた雰囲気がそう判断させた。
「阿倍さん、城戸総帥が貴女にお話があると、直々にいらっしゃったのです。私は外しますので、粗相のないようにして下さいよ」
万里亜だけに聞こえるよう、小声で言った園長はそそくさと応接室を出て行った。
「阿倍先生、アポもとらずに申し訳ありません」
沙織はに万里亜頭を下げた。総帥である立場の人間からこのように謝罪される意味も分からず、万里亜は困惑した。
「そ、そんな…。総帥、どうかそのようなことはお止め下さい。私が困ります」
慌てる万里亜を一瞥し、長身の男が沙織に尋ねた。
「失礼ながら、本当にこの女性が…?」
「ええ、間違いありません」
万里亜は、自分の知らない何か重大な事が起こりそうな予感がし、一抹の不安を覚えた。
沙織は改めて万里亜を見た。
「阿倍先生は、先日アフロディーテとお会いになっていらっしゃいますけれども、その時、彼にどのような印象をお持ちになりましたか?正直にお答えいただきたいのですが」
沙織の質問に万里亜は驚いた。質問の意図が全く読めない。この少女、何を考えているのだ…?
「……どのように、と仰られてましても…。随分と御綺麗な方だと…」
「それだけですか?」
沙織の口調は、決して威圧的ではないものの、誤魔化しなどは通用しないと思わせる強さが滲んでいる。
万里亜は、この年下の少女に畏怖の念を感じていた。
「…それと、…以前にお会いしたことがあるように…思いました」
本人を前にしてこのような事を言うのは、非常に恥ずかしい。万里亜は自分の頬が紅潮するのを感じていた。戸惑うばかりの万里亜に、沙織はグラード財団総帥らしく、凛とした口調ではっきりと言った。
「阿倍先生、どうか、私たちと共にギリシャまで来てください。時間の猶予がないので、正式な辞令は後日になりますが」
「…は、はい?ギリシャ…?ですか?」
財団のギリシャ支部は特殊業務を取り扱っており、本部職員でも詳細を知る者は少ないと噂されている。
万里亜のように、末端組織の一職員に辞令が出されるなど有り得ない。まさに、青天の霹靂とも言うべき出来事だった。
ギリシャ─地中海性気候の乾燥した温暖な土地。農業、鉱工業、輸送業、観光が主な産業。オリーブや綿、葉タバコが有名。通貨はユーロ。最近の国内情勢は財政改革が喫緊の課題。首都はアテネ。
万里亜が持っているギリシャの知識はこの程度だ。学生時代に、世界史で古代ギリシャの事を勉強したものの、今ではすっかり忘れてしまった。
ギリシャ語も分からない自分に、一体何ができるのだろうか。頼みの綱の沙織は、今抱えている重要案件が片付き次第の渡航となるため、一緒に行くのはアフロディーテともう一人、先日会ったばかりの長身の男─名前はサガと言った─だった。
日本からギリシャまでの直行便はないため、フランクフルトで乗り継ぎをする予定になっている。渡航には半日以上かかる。エコノミークラスで行くには負担が大きい。
だが、世界に誇るグラード財団が万里亜のために手配したのは、ファーストクラスだった。さすがにエコノミークラスと違い、座っているシートは圧倒的に快適だった。体に程よくフィットしフルフラットになるものだから、目を瞑れば自然と意識が落ちてゆく。
『フランクフルトまで寝ていよう』
何しろここ数日は、仕事の整理と後任への引き継ぎや自宅の引っ越し作業に追われ、ゆっくり眠る暇もなかったのだ。万里亜が眠りに落ちるまでに、時間はかからなかった。
夢の中で『ああ、これは夢なんだな』と気づくことがある。妙に客観的で、まるで自分を主人公にしたドラマか映画を鑑賞しているような感覚。
万里亜は、今まさにそんな状況にあった。
自分がいるのは、ギリシャ建築の白亜の神殿で、周囲は同じような建物がいくつも建っている。着衣はキトンと言ったか、踝までの長い衣を身に着け、ヒマティオンを羽織っている。
『いくらこれからギリシャに行くからって、この夢はあんまりじゃない?』
自分はこんなにも影響されやすい人間だったのかと、可笑しくなってしまう。
自意識はあるが、夢の中の自分はそれと関係なく、どこかに向かって歩いている。やや歩調が速い。息を弾ませて歩いていた自分が辿り着いたのは、大理石の階段が遥か上まで続いている丘の麓だった。
丘と言うよりも、山と言った方がしっくりくる。
階段の途中には、一定の間隔で神殿がいくつも建っている。
万里亜は夢の中の自分が、誰かに会うためにここに来たと分かっていた。また、その相手が万里亜にとって特別な存在であることも。
夢の中の万里亜は乱れた呼吸を整えると、大理石の階段を見上げた。
ギリシャの空はどこまでも高く、青く冴えわたっていた。太陽の眩しさに目を細めながら、暫く階段を見上げていた。
『誰か降りてくる』
自分の鼓動が速くなるのを感じるが、決して不快なものではない。
『誰との待ち合わせなのかしら?』
自分に向かってくる人は、照りつける陽光を反射させ、眩いばかりに煌めく黄金の鎧を身に着けていた。歩くたびに揺れる空色の髪は
万里亜の胸を更に高鳴らせた。
『ああ、そうだ。そうだった…。私は、いつも彼を待ち焦がれていたんだった…』
目の前に立った男に近付こうと一歩踏み出した刹那─
「万里亜嬢、そろそろ到着します。シートベルトを着用してください」
万里亜は、サガに肩を揺さぶられて目を覚ました。
「う…ん?」
少々寝惚けているのか、辺りをキョロキョロと見渡し現状の把握に努める。
「ああ、そうだ…。飛行機だった…」
今がギリシャへの道中であった事を思い出した。起こしてくれたサガに礼を言うと、大きく伸びをし、シートベルトを着用した。
乗り換え地であるフランクフルトに到着したが、一度空港に降りて次の搭乗時間まで待たなければならない。
どのように時間を潰そうか万里亜は思案していた。免税店などは大抵どこも似たような品揃えだし、空港内を見ると言っても、迷ってはいけないので遠くまで行けない。喉も乾いていないし、お腹も空いていない。
『と、なると…』
自分の保護者代わりに付いている二人と少しばかり話をしてみるか。アフロディーテとは三度目ましてだ。彼の美貌には緊張し腰が引けてしまうが、話しかけてみようと一回息を大きく吸い込んだが、それをすぐに吐き出した。
『いや、やっぱり止めよう…。でも、何も会話しないのも…』
そんな風に迷っていたのが、顔に出ていたのだろう。アフロディーテが愉快そうに笑いながら声を掛けてきた。
「万里亜嬢、さっきから百面相してるけど、どうしたの?」
「え、ど、どうもしませんけど!」
驚いて声が裏返ってしまい、更に恥ずかしくなってしまった。両手で頬を抑えると火照っているのが自分でも分かる。
『やっぱり、緊張しちゃうなあ。そんなに百面相だったのかな…ん?』
万里亜は、ふと一つ疑問に思った。それを尋ねても大丈夫か不安に思ったが、好奇心がその不安を上回った。
「あの、アフロディーテさん。一つ質問していいですか?」
「もちろん、どうぞ」
にっこりと美しく微笑む彼に、幾分たじろいでしまう。
「あ、あの、日本語がとてもお上手ですけど、どうしてですか?サガさんも流暢に話されますし」
アフロディーテは『ああ』と言うと、万里亜の隣に腰を掛けた。
「私達はね、世界中から仲間が集まっているから、そうだな…5、6か国語くらいは大抵話せるんだよ。それに、日本語はアテナが日本育ちだからね。どうしても必要なんだ」
「そうなんですか…。何と言うか、文武両道なんですね、聖闘士って」
そう言えば、あの星矢だってギリシャ語はペラペラだし、実は英語の成績も優秀らしい。幼少期をギリシャで過ごしていたから、国語は苦手なのかと思えばそうでもないみたいで、先日も漢字のテストで満点を取ったりしている。
「だから、これから会う連中とは日本語で会話できるよ。言葉は慣れだから、少しずつ覚えていくといい。みんな面倒見がいいしね。話しはしやすいと思うよ」
アフロディーテは万里亜の頭をくしゃっと撫でると、『何か飲み物を買ってくるよ』と席を立った。
アフロディーテが近くのカフェでコーヒーを三人分買ってきた。
万里亜は「ありがとう」と言って受け取ると、アフロディーテは「どういたしまして」とにっこり微笑んだ。受け取ったコーヒーのカップを揺らしながら、ふと思ったことがあった。
アフロディーテの方を見ると、眉間に皺を寄せ新聞を読んでいるサガにコーヒーを渡し、何かを話しをしている。
『聖闘士同士だとギリシャ語で話すのかな。聞いたこともない言葉…』
そっと手元のコーヒーに目を移し、一口飲んだ。
しばらくすると、アフロディーテは万里亜の横に戻ってきた。
「サガさんとは、お話終わったんですか?」
「ん?ああ、ごめんね、一人にしてしまって」
「いえ、そういう事ではないんです。ただ、ギリシャ語で会話していたのかな…とか、そういう事を考えていました」
「そうだよ。サガはギリシャ人だし、大抵はギリシャ語での会話だね。気になったの?」
「うーん…。私は日本人の友人しかいないから、外国語で会話をする機会なんてなかったんですよね。今だって、アフロディーテさんと日本語で会話をしているし…。そう言えば、前にムウさんがいらしたときだって日本語でお話ししました。貴鬼君もあんなに小さいのに、日本語上手だったし。だから、外国の人と共通の言葉で話す感覚ってどんな感じなのかなって、思ったんです」
「そうか。私は子供の頃から多言語の中で育っているから、そんなことは考えたこともなかったけど…。でも、相手の国の言葉で話しかけると喜ばれたり、全く違う母国語を持っている者同士なのに、共通の言葉でコミュニケーションが取れたりするのは、とても楽しい事だと思うよ」
アフロディーテが微笑みながら万里亜の頭を優しく撫でると、万里亜は少し擽ったそうにはにかんだ。
「そう言えば、アフロディーテさんはどちらの国の御出身ですか?」
「私はスウェーデンだよ」
「スウェーデン!なんか分かる!北欧っぽいもの!IKEAとH&Mとノーベル賞ですね?!」
「IKEAもH&Mも日本ではすっかり馴染みになっているようで、スウェーデン人としては嬉しいよ。ノーベル賞も日本人はすごいね。2000年代に入ってから、何人も化学賞や物理学賞を受賞しているよね」
「はあ…、そんなことまで御存知なんですね。聖闘士って、世界の事を色々知っていないといけないんですか?」
「まあ、世界各国に任務で行かないといけないからね。各国の社会情勢とかは、ある程度把握しているつもりだよ」
万里亜は、只々、感心するばかりだ。
「凄いなあ…!私も、皆さんに負けないように沢山勉強しなきゃですね」
アフロディーテに笑顔を向けると、彼は「その気持ちがあれば、大丈夫だよ」とウインクして見せた。
暫くアフロディーテと話をしていると、アテネ便の搭乗アナウンスが流れた。
「さ、行こうか」
アフロディーテは立ち上がると、万里亜にスッと手を差し出した。その動作は洗練されており、彼の外見と相まって非常に優雅に映った。思わぬ事に万里亜が戸惑っていると「お手をどうぞ、お嬢様」とアフロディーテがいたずらっぽく笑った。
万里亜は「ありがとう」と言うと、その手をとって立ち上がった。
搭乗口まで歩いていく間も、アフロディーテは万里亜の手を握ったままだった。
「私、迷子になりそうに見えますか?」
「迷子?」
「だって…手…」
女性と見間違えてしまいそうな顔の造作をしてはいるが、アフロディーテの手は間違いなく男性のそれで、万里亜の小さくて細い手をいとも簡単に包んでしまっている。それを意識してしまうと、頬が上気してくる。離してほしいような、そうでないような気持ちだ。
「アフロディーテ」
サガが見かねた様子で一つ息を吐くと、万里亜に分からないようギリシャ語でアフロディーテと話をする。何事かを話した後、「Ναί」と言って、アフロディーテは万里亜の手を離し、残念そうな様子で
「気を悪くしたのなら申し訳なかった」と言った。
「い、いえ、別に嫌じゃなかったです。むしろ嬉しかったというか…、懐かしい感じがしました」
万里亜が笑顔で首を横に振ると、アフロディーテは安堵の表情を見せた。
先程から見ていると、アフロディーテは随分と親しげに阿倍万里亜嬢と話をしている。彼女の調査はあいつの任務で、それを命じたのは私だ。しかし、彼女が当該人物だった場合には、十分に立場を弁えるよう注意していたのだが…。
「サガ、コーヒー」
「ああ、すまない」
コーヒーを持ってきたアフロディーテを見て、息を一つついた。
「なあ、アフロディーテ」
万が一にも彼女に話の内容を聞かれないよう、ギリシャ語で話をした。
「彼女と話しをすることを咎める気は毛頭ないが、少しは立場を弁えろ。まだ覚醒していないとはいえ、彼女は…」
「ああ、分かっているさ。だが、今はまだ阿倍万里亜だ。自分の立場も重要性も知らないでいる。せめて、緊張しないように配慮することは必要じゃないか?」
「それはそうだが…」
「無礼な真似はしないよ」
「当たり前だ」
アフロディーテは片手を挙げると彼女の方へと歩いて行った。
「全く…」
私は深く溜息をついた。
「サガよ、『あのお方』が日本で見つかったとの報告を受けた。至急確認をしてもらいたい。詳細はここに書いてある。人選はお前に任せる」
「承知いたしました」
教皇宮にある執務室で仕事をしていると、教皇シオンから呼び出され、日本での任務を命じられた。
渡された封筒には、当該人物の調査報告書と何枚かの写真が添付されていた。経歴は至って平凡で、添付された写真を見てもごく普通の日本人女性であった。
「どうも今代の聖域は、日本と縁が深いな…」
苦笑しながら報告書に目を通したサガは『さて、誰を確認に行かせるか』と部下にあたる黄金聖闘士達を思い浮かべる。
シオンは人選は任せると言ったが、この女性が『あのお方』だという確証を得なければならない。
となると…ここはやはり、老師に御頼みするのが確実であろう…。老師であれば、『あのお方』の小宇宙を御存知のはず
サガは執務室を出ると、天秤宮へ向かった。
「老師、サガです。いらっしゃいますか?」
天秤宮にある私室の扉をノックすると、中から小柄な東洋人の男が顔を出した。
「おお、サガか。お主がわしの所に来るなど珍しいのう。ま、中に入れ」
サガは促されて室内に入った。
「茶でも飲むか?」
「は、頂きます」
丁寧に頭を下げるサガを見て、男はからからと笑った。
「相変わらず堅い奴じゃのう!少しは肩の力を抜けぬのか?」
「恐れながら、元々の性分故…」
「仕方のない奴じゃのう」
呆れたように言いながらも、男はにこにこと笑顔を浮かべていた。サガが椅子に座ったのを確認すると、男は香りのよい中国茶を丁寧に淹れ、茶器をサガの前に置いた。
「で、わしに何の用じゃ?」
「実は…老師に御頼みしたいことがございまして」
サガはそう言うと、シオンから渡された書類をテーブルの上に広げた。老師と呼ばれた年若い男は、その書類に目を通した。
「ほう?これはこれは…」
「真偽の確認に日本へ行っていただきたいのです。お引き受けいただけますでしょうか」
男は顎に手を当てて暫く考えていたが、その書類をサガの方へ差し戻した。
「この任務はわしよりも適任がおる。そいつに頼むと良いじゃろう」
「……教皇、ですか?」
「ははっ、シオンも悪くはないが、あやつが聖域から離れる訳にもいくまい。『あのお方』はな、ずっと待っておられるのじゃ。あの男を…」
「あの男、とは?」
窓の外を見るように遠い目をした男の目は、僅かに悲しみの色を宿しているように見えた。
老師の推薦でアフロディーテを任務にあたらせたが…
『なぜ、手まで繋がんといけないのだ!やり過ぎだぞ!』
立場を弁えろと注意した傍からこれでは、先が思いやられる。
「アフロディーテ」
背後から声を掛ける。ギリシャ語で話せば、彼女は会話の内容を理解できない。彼女にしてみれば、気分は良くないだろうが仕方がない。
「お前、何を考えている。任務中だと忘れた訳でもないだろう。彼女は我々にとって最重要人物だぞ。お前個人の感情でどうこうして良いお方ではない。それはお前とて重々承知しているのではないのか?」
「言われなくても分かっている。だけどね、サガ。これは彼女の覚醒を促すためでもあるんだよ。そこは理解してほしいね」
「それは、聖域に着いてからで良いのではないか?逆に、こんなところで覚醒されても困るだろう。何より彼女が戸惑っている」
「…分かったよ」
珍しく拗ねたような口調でそういうと、アフロディーテは繋いでいた手を離した。
『全く…。どうかしてるぞ、アフロディーテの奴は』
サガは心の中で大きく溜息をついたのだった。
フランクフルトからアテネまでの所要時間は、3時間ほどだった。
日本からフランクフルトまでの間にたっぷりと睡眠をとったので、今は眠くない。
万里亜は仕方なしに、映画を見ることにした。当然、日本語字幕も吹き替えもない。言葉が分からなくても観られそうなジャンルと言えば、アクション系か。
時間も2時間程度であれば丁度良い。適当にチャンネル番号を合わせて観るともなしにモニターを眺めていた。
『アフロディーテさんとサガさんって、何しているんだろう?』
ふと、二人の事が気になってちらっと見てみると、アフロディーテはヘッドフォンをして目を閉じている。
『音楽でも聴いてるのかな?サガさんは…』
とサガの方を見ると、難しい顔をして書類を見ている。時々何かチェックを入れたり、タブレット端末で何やら作業をしている。
『あ、お仕事持ってきてるんだ。サガさんも聖闘士だって聞いたけど、デスクワークもするのね。何か、中間管理職っぽいなあ。眉間に皺寄せちゃってるし。気苦労が多いのかも。……それにしてもCAのお姉さんたち、やたらと二人の傍を行ったり来たりしてる気がする。やっぱり、外国人さんから見てもあの二人、イケメンなんだわ』
妙に納得した万里亜は、再び映画を見始めた。
アテネに到着し入国手続きが終わると、今度は車で移動すると言われた。
「目的地の近くまで車で行くよ。そこからは歩いてもらわないといけなんだ。少し距離があるから、もし疲れたらすぐに言うんだよ」
アフロディーテは迎えの車のドアを開けると、乗るように手で促した。
「はい、わかりました」
万里亜の隣にはサガが、助手席にはアフロディーテが乗った。
『アフロディーテさんに横に座ってもらいたかったけど、仕方ないか…』
万里亜から見ると、サガも見た事もないくらい美形なのだが、始終顰め面をしていてどうにも話しかけづらい。それに、折角アテネに来たのに、空港から目的地までが車での移動と言うのも、もったいない気がしてしまう。観光がてら歩きたかったのだが、それも仕方ない。
ぼんやりと車窓からの景色を眺めていたが、段々と市街地から離れ、郊外に向かっている事に気が付いた。こんな郊外の町に財団の施設があるのだろうか。
すると、車はある町で停まった。そこは、懐かしい匂いのするとてものどかな雰囲気の町だった。
「ここからは徒歩です」
サガが下車するよう促した。
「え?ここからですか?」
サガは「そうです」と頷くと、車のトランクから荷物を下ろし、運転手にチップを渡した。
町を通り抜けると、次第に舗装されていないデコボコ道になってきた。
万里亜は、慣れないパンプスのせいでペースが落ちていく。
『こんなことならスニーカー持ってくるんだった』
万里亜の拳ほどもある石がゴロゴロしている道は、少し気を抜くと転倒しそうになる。足元に注意を払って歩いていると遅くなるし、前を歩く男たちに着いていこうとすると、石に躓く。
次第に息が上がってくる。おまけに靴擦れができているようで、左右ともアキレス腱の辺りがひりつく様に痛い。きっと、出血もしているのだろう。
更にペースの落ちてきた万里亜を見かねて、アフロディーテが立ち止まった。
「万里亜嬢、足が痛いならそう言って?」
「あ…ごめんなさい…」
「謝ってほしいんじゃないんだよ。もう少し、頼りにしてくれてもいいんじゃないかと思ってね」
そう言うとアフロディーテは、万里亜を軽々と抱きかかえた。
万里亜はびっくりして、降りようともがいたが、アフロディーテは全くびくともしなかった。
「お、お、降ろして下さい」
無駄とは分かっていたが、一応抗議の声を上げてみる。
「何を言っているんだ。君、その足で歩けるの?」
「…歩けないかも…」
「だろ?それなら、大人しく私に抱っこされてるといいよ」
優しい口調でそう言ったアフロディーテは、再び歩き始めた。
万里亜を抱えているのにも関わらず、アフロディーテは先程までより歩くペースが速い。
万里亜は、自分の体が安定するようにアフロディーテの首に両腕を回し、彼に抱きつくような格好になっている。かなり恥ずかしいが、その方が歩きやすいと言われてしまっては、その通りにする他はない。
「あの…、すみません…。私、重くて…」
遠慮がちに言うと、アフロディーテはくすりと笑った。
「これでも私はアテナの聖闘士だよ?君一人をこうして抱いて歩くぐらい造作もない事だ。それに、君は身長の割に随分と軽いね。まあ、東洋人女性は大抵スリムだからね。それにしたって、驚くほどだよ。ちゃんと食べているの?」
「は、はい。日々、三食食べるようには心掛けています。お料理も嫌いじゃないので」
「そうか。じゃあ、いつか私にも料理を作ってくれないか?」
「は、はい。お口に合うと良いですけど…」
「約束だよ?」
アフロディーテは、とろけてしまいそうな程の極上の微笑みを万里亜に向ける。
『ああ、気絶しそうなくらいの恥ずかしさって本当にあるんだわ。いっその事、このまま気絶してしまいたい…』
万里亜だって、男性と付き合った経験がない訳ではないし、その時は多少のスキンシップも当然あった。
だが、美し過ぎるアフロディーテにこのまま抱えられていたら、自分の心臓が爆発するのではないかと心配になる程、限界まで鼓動が早まっている。
万里亜は降ろして貰おうと思い、俯いていた顔を上げアフロディーテを見た。
彼の横顔は、まるでギリシャ彫刻の様に整っていて、肌は絹のように滑らかだった。一瞬、その顔に別の陰が重なった様に見えたのは気のせいか。
『…あ、れ?何だろう?今何か思い出しかけた気がする…』
「私の顔に何か付いている?」
アフロディーテが前を見たまま、口元を緩ませた。
「え!」
「さっきから、じっと見ているよね」
「ご、ごめんなさい!私ったら…あ、あの、もう降ろして下さい。歩けますから」
「残念だけど、そういう訳にはいかないな。君の事はくれぐれも丁重にお連れするように、とアテナから仰せつかっている。傷めている足で歩かせたとあっては、後でどの様な御叱りを頂戴する事になるか…。サガと私を助けると思って、もう少し我慢してくれないか?」
「う゛…」
稀代の美男からそう言われてしまうと、万里亜としては観念するしかない。こうなった以上、早く到着するよう願うだけだ。
程なくすると、随分開けた場所に出た。
「これから、あの上まで行くよ。教皇がお待ちかねだ」
アフロディーテの視線の先には、高い丘の頂上まで続く大理石の階段があり、一定の間隔で宮殿が建っている。
『夢で見た景色とそっくり!』
万里亜は息を飲んだ。
飛行機の中で見た夢で、万里亜は確かに酷似した景色の中にいたのだ。
『あの階段を降りてきた人、顔は見えなかったな…。それにしても…』と、見上げてみれば頭上には延々と続く階段。
「あの、アフロディーテさん…。もしかして、このままで上まで?」
「当たり前だろ?その足では、どの道歩けやしないんだから」
おずおずと尋ねる万里亜に対して、アフロディーテは笑いながら答えた。
このまま厄介になるしかないかと、腹を括った時だった。階段の上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「万里亜先生ー!」
「この声!貴鬼君!?」
階段を駆け下りてきたのは、貴鬼だった。
万里亜は、今度こそ降ろしてもらうと、自分に飛び付いてきた貴鬼をしっかりと抱き締めた。
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