キオクノカケラ
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貴鬼は牡羊座の黄金聖闘士ムウの弟子で、時々万里亜が勤務する星の子学園に来ていた。
きっかけは、ムウが冥王軍との聖戦で命を落としたためだ。聖域は貴鬼を一人置いておく場所として、今はまだ相応しくないからと沙織が連れてきたのだ。
事実、学園に来たばかりの頃の貴鬼は、誰とも話をせず笑いもせず、食事も殆ど食べないような有り様だった。あまりにも悲痛な幼子の様子に万里亜は心を痛め、とにかく貴鬼の心の傷を癒すことに注力した。少しずつ貴鬼に表情が戻ってきた頃、女神アテナの加護により亡くなった聖闘士達が全員蘇った。
やはり、師であり親であるムウの帰還は絶大だった。このまま死んでしまうのではないかと心配するくらいに衰弱していた貴鬼は、みるみる元の活発な少年に戻ったのである。
聖域に帰ってからも、ムウが任務で聖域を離れる時は星の子学園に顔を出すようになった。修復師や聖闘士の修行の進捗が心配になるが、ムウがその方が安心だと言うのだ。
万里亜は仕事柄、様々な理由で親からの愛情を受けられず傷つき苦しむ子ども達を知っている。ムウと貴鬼には血の繋がりこそないが、まるで本当の親子のように互いを大切にしているのがよくわかる。
「貴鬼君、元気にしてるみたいね。嬉しいわ」
「だって、先生に会えたんだよ!オイラもすっごく嬉しい!」
満面の笑みで見上げる貴鬼の頭を撫でる。明るい茶色の髪は癖っ毛で少し硬い。
「万里亜先生、これから教皇の間に行くんでしょ?」
「教皇の間?そうなの?」
「うん、ムウ様がそう言ってた。ムウ様もちょっと前に教皇宮に行かれたよ」
「そうなんだ。ごめん、私、何も知らなかったわ」
「え、それで聖域まで来ちゃったの?すごいね」
貴鬼は驚いて丸い瞳を更に丸くする。
「ほんと、すごいよね…」
万里亜は返す言葉がなくて苦笑した。
「貴鬼、すまないが私達は先を急ぐんだ。積もる話はまた後にしてくれないかな?」
アフロディーテが柔らかなトーンで声をかける。
「へへ、ごめんなさーい」
貴鬼は舌をぺろりと出して謝った。何とも可愛らしい仕草だ。
「貴鬼君、また後でね」
万里亜は貴鬼の頭をもう一度撫でると、「お待たせしました」とアフロディーテへ向き直った。
「それじゃあ、ここから先は急いで行くよ」
そう言って、アフロディーテは再び万里亜を抱き上げた。
聖闘士というのは一体どういう体の仕組みをしているのだろう。
万里亜を抱えて石段を駆け上がるアフロディーテは呼吸一つ乱さないし、万里亜の荷物を持ったサガも涼しい顔をして並走している。何と常人離れしているのだろう。しかし、こんなのはまだ彼らの実力の一端ですらない。地上を守るため、彼らは己の身一つで戦うのだ。どれほど過酷な訓練に耐えてきたのか、万里亜の想像力や常識では到底理解が及ばない。それだけははっきりわかるのだ。
白羊宮、金牛宮を抜けると双児宮が見えて来た。
「ここ、サガさんの宮殿…」
万里亜の小さな呟きにアフロディーテが僅かに目を見開いた。
「よくここがサガの守護宮だとわかったね」
サガの表情も少し強張る。
「私が双子座の聖闘士だとご存知でしたか?」
「いいえ、サガさんも聖闘士だと城戸総帥から聞かされていましたけど、守護星座までは…」
小さく頭を振る。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。どうしよう。
内心で焦る。
「やっぱり君で間違いない。サガ、納得したかい?」
しかし、アフロディーテは得意気にサガを見る。
「どうやらそのようだな」
サガは小さく頷いた。彼らの気分を害した訳ではないようで、ひとまず安堵した。しかし、万里亜は何故自分がこの双児宮がサガの守護宮だと分かったのか、自分でも理由が分からなかった。
「何か困ったことがあれば、いつでも訪ねてきていただいて構いません。私が不在でも弟か宮仕えがおりますので」
サガは何故か居住まいを正してそう言った。
「はい、わかりました…弟…」
「私には双子の弟がおります」
双子座の聖闘士はやはり双子だったのか。感心しても驚きはしなかった。それが当たり前のように、それとも昔から知っていたかのように、ごく自然と万里亜の胸に収まった。
3人は双児宮を通り抜け巨蟹宮へ向かう。
万里亜は双児宮を抜けた直後から、何とも形容しがたい悪寒を感じていた。産毛が逆立ち皮膚がざわざわする奇妙な感覚に襲われる。
これ以上近付きたくない。この先は怖い。
本能が拒絶する。
知らず、身体は小刻みに震え、アフロディーテの首に回した腕に力が入る。全身が硬くなる。
万里亜の異変に気付いたアフロディーテが足を止めた。
「君にはわかるんだね?あの気配が」
気遣うような言葉に無言で頷く。
万里亜の顔は血の気が引いて青ざめている。
「サガ」
アフロディーテの視線を受け、サガも何事か承知したようだ。
「上から行くぞ」
「OK。万里亜嬢、少し跳ぶよ」
「え?跳ぶ?どういう事?」
万里亜が言い終わらないうちに、アフロディーテとサガが石畳を蹴る。身体が高く宙に舞う。
「うそー!」
信じられない大跳躍で、3人は巨蟹宮の屋根に降り立った。アフロディーテが万里亜をそっと屋根に降ろす。
「驚かせてごめんね。さっきの様子だと中を通るのは無理だと思って」
「あ、いえ…何だかもう、驚くことばかりです…。言葉が出てこない…」
万里亜はその場にへたり込んだ。
「私の知らなかった世界だわ…」
吐息をつく。それと同時に、自分の言葉に違和感を覚えた。
これ、本当に知らなかったの?単に忘れていただけのような気がする。
眼前に広がった雄大な景色には既視感がある。初めて訪れたギリシャなのに、初めての気がしないのは何故だろう。
よろりと立ち上がる。隣のアフロディーテを見上げる。アフロディーテが万里亜を見る。
ああ、何だろう。凄く大切な何かを忘れている気がする。
思い出そうとすればするほど、その何かは深みへ沈んでしまう。右手の人差し指と中指で眉間を押さえる。
「わからないわ…」
「大丈夫?万里亜嬢」
アフロディーテが気遣わしげに言葉をかける。
「大丈夫です。私の理解の範疇を超える事ばかりなので、かなり動揺してますけど」
顔が強張ってしまい、笑顔を作るのが難しい。もう一度、大きく息を吐く。
「お待たせしてすみません。もう大丈夫なので、先へ進みましょう」
「無理を押しつけてごめんよ。教皇宮に着いたら全て説明があるから、それまで辛抱してくれないか?」
「わかりました。多分もう平気だと思います。それに…」
「それに?」
「ううん、何でもないです」
慌てて首を横に振る。
『あなたに抱かれていると安心します』
そう言いそうになった。
巨蟹宮の不穏な空気は屋根の上にいても感じてしまうのだが、下にいたときよりは幾分マシに思える。
それにしても、ここはどうしてこんなにも空気が淀んでいるのだろう。あまりにも聖域という場所に馴染まない空気だ。この宮殿にだって、守護者たる蟹座の黄金聖闘士がいるだろうに。
果たしてどんな聖闘士なのだろう。
巨蟹宮の屋根から飛び降り、獅子宮への階段を駆けていくアフロディーテの腕の中、眼下に遠ざかる巨蟹宮を見送りながらそう思った。
獅子宮からはどの宮殿も思っていたよりスムーズに通り抜けられた。
「アフロディーテさん、どこの宮殿も黄金聖闘士が不在みたいなんですけど、どうしてなんですか?」
「黄金聖闘士には一斉招集がかかっていてね、今頃は教皇の間にいるよ」
「へぇ…え!てことは、私これから黄金聖闘士の皆さんにもお会いするんですか!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「ははっ、随分な驚きようだね。君は聖域の賓客だからね、黄金聖闘士達も君に会えるのを楽しみにしているはずだよ。大丈夫。サガも私も列席するし、もちろんムウもいるから」
「なんてこと…」
聖域のマナーや国際マナーはもとより、日本国内の一般的マナーすら身についていない未熟者なのに、一体どうしろと言うのだ。ここでとんでもない粗相をしてしまえばグラード財団の名前に傷が付く。とにかく、沙織の顔に泥を塗る真似だけは全力で回避しなければ。
十一の壮麗な宮殿を通過し、やがて見えてきた十二番目の宮殿。
「最後は私が守護する双魚宮だよ」
「ここが双魚宮…」
風に乗ってバラの甘い香りが届く。
「バラ、咲いてるんですか?」
「双魚宮には代々の魚座が引き継ぐバラ園があるんだ。魚座はバラの花を武器にするから」
「それじゃあ、城戸邸のバラも武器用だったんですか?」
「いや、あれは観賞用。武器用に育てるには、私の小宇宙を注いでおく必要があるんだ。時々訪ねるだけの城戸の屋敷では育成できないんだよ」
「へぇ…」
「良かったら今度見においで。バラの花びらを使ったお茶もあるよ」
「バラのお茶なんて素敵ですね。ぜひお邪魔したいです」
万里亜が破顔した。
教皇の間には既に黄金聖闘士が居並んでいる。玉座に伸びる深紅の絨毯の両脇に、煌めく黄金聖衣を纏った男達が整列する姿は華々しく圧巻だ。
この後、聖域にとって重要な人物がやって来る。
通達によれば、崩れかけている世界のバランスを正すために不可欠な人物で、謂わば女神代行とのことだ。日本まで迎えに行っているのはサガとアフロディーテだ。二人の小宇宙が近づいて来ているのは黄金聖闘士の誰もが察知している。しかし、その二人の小宇宙と共にあるのは、どう見積もっても一般人の小宇宙だ。いや、小宇宙と言うにはおこがましい、微弱な気配だった。
万が一にも人違いということはないだろうが、果たしてどのような人物がやってくるのか。期待よりも不安が掻き立てられる。
特に蟹座のデスマスクに至っては、自宮に起こっている難題を解決するに相応しい人物が来てくれなくては困るのだ。悪友とも言うべき仲間の目を信じていないわけではない。それなのに、それなのにだ。
「デスマスク、何をどう思おうとお前の勝手だが、今回ばかりは顔に出すなよ」
隣にいる双子座のカノンが小声で注意する。サガは教皇補佐官の立場で列席するため、今日はカノンが双子座の黄金聖衣を装着している。
「ああ、わかってる」
「なら良い」
デスマスクがため息をつこうとしたその時、ようやく客人が到着した。
教皇の間の重厚な扉がギギ、と音を立てながらゆっくり開いた。
場の全員の視線が入口に注がれる。
「教皇補佐官文官筆頭双子座のサガ、魚座のアフロディーテ、ただいま帰還いたしました」
サガが帰還を報告した。
「御苦労だった」
声の主は中央の玉座に座っている男だ。
男の顔は、頭頂部にドラゴンのオブジェが装飾された黄金のマスクに半分隠されていてよくわからない。ただ、声の感じはとても若々しい。
その男が教皇なのは間違いないのだろうが、想像していたよりも随分年若い。マスクから見える顔の下半分は、肌の張りが若者のそれだった。万里亜はそのことに驚いた。
聖闘士の総本山、聖域に君臨する教皇ともなれば、老成した人物を想像して当然だ。想定していなかったことに困惑する。
その教皇が玉座から降りてこちらへ歩いてくる。
黄金聖闘士達が一斉に万里亜の方へ向き直り跪く。同行していたサガとアフロディーテも例外ではなかった。
万里亜の前まで進んできた教皇もまた、恭しく膝をつき頭を垂れた。
「聖域へ無事にご帰還されましたこと、心からお慶び申し上げます。女神ヘスティア様」
「はい!?」
「驚かれるのも無理なきことと存じます。本来であれば十分な説明とヘスティア様のご覚醒が必要なのですが、事態が急を要することから、甚だご無礼と承知の上、このように慌ただしいお迎えになりました。この教皇シオン、聖域を代表し深くお詫び申し上げます」
教皇は徐ろに目深に被っていたマスクを脱ぎ、顔を上げた。
シオンと名乗ったその教皇は、目尻の切れ上がった大きな瞳と引眉が印象的な、高貴な面立ちをしていた。彼にもまた、アフロディーテと会った時に抱いた既視感を覚える。
シオンという名も、彼の美しい顔も心地よい響きの声も、どれもがひどく懐かしく、深く心に響く。
涙が零れた。
「…私、わかりません。自分が何を知っているのか、どうして知っているのか…。だけど、間違いなく教皇様を存じ上げています」
涙が止まらない。胸が切なく苦しく締めつけられる。鼓動が速くなり呼吸が浅くなっていく。頭が痛い。しかも、その痛みは急激に強くなり眼前暗黒感に襲われる。暗闇の中にチカチカと閃光が弾けるのが見えた。平衡感覚が失われ、空間の上下も、果たして自分が立位を保持できているのかもわからない。
「万里亜嬢!」
アフロディーテの声が聞こえた。はっと我に返る。危うく倒れそうになったところを、彼が支えてくれたのだ。
「大丈夫?」
「え、ええ、どうにか」
本当はあまり大丈夫ではないのだが、このような出迎え方をされている以上、すぐに場を辞するのも憚られる。
「アフロディーテ」
シオンの声が響く。
「は!」
「即刻黄金聖衣を着用して参れ」
アフロディーテが一瞬息を呑んだ。
「恐れながら、阿倍万里亜嬢は長旅でお疲れのご様子。ご休憩いただく方が先かと」
「今一度命ずる。即刻黄金聖衣の着用を」
シオンの言葉には有無を言わせぬ圧を感じる。まだ20歳前後と思しき教皇。一体どのようにしたら、ここまで圧倒的威圧感を身に付けられるのか。
これ以上の反論は許さない。
シオンの佇まいはそう告げていた。
「…御意」
万里亜をサガに託し、教皇の間を出た。聖衣は双魚宮にある。アフロディーテは、黄金聖闘士だけが持つとされる光の速さで瞬時に双魚宮へ戻った。
あの状態の万里亜に聖衣姿を見せるのは気乗りしない。シオンの姿にさえあれだけ動揺していたのに。
それでも教皇からの命令となれば従わざるを得ない。
「クソッ」
手近の柱を拳でなぐると、砕けた石の欠片がパラパラと床に落ちた。
万里亜の記憶の深く遠いところで響く声がする。大きな幸福感とそれ以上の喪失感。鈍く軋む心。知らないはずなのに何故か知っている景色。それらは全てが曖昧で捉えどころがなく、万里亜を不安にさせる。このままこのまま心をかき乱されるのは怖い。そして、黄金聖衣を装着したアフロディーテに会うのも怖い。自分が自分でなくなりそうな予感がする。小さく震える身体を自分の腕で抱きしめる。
しばらくすると、アフロディーテが戻ってきた。その身に黄金聖衣を纏って。
「魚座のアフロディーテ、参上仕りました」
遠目にもわかる煌びやかさに万里亜は目を見張った。二重のショルダーガードや鰭を象った装飾は、何という華やかさ。黄金聖衣の輝きさえも霞むようなアフロディーテの美貌に、万里亜は呼吸をするのも忘れた。
彼のことを確かに知っている。
曖昧な記憶が確信に変わった。その瞬間、これまでにない頭痛が万里亜を襲った。頭が割れるような激痛に悲鳴を上げた。
「あああー!!」
頭を抱え床にうずくまる。
そこで意識が途絶えた――
きっかけは、ムウが冥王軍との聖戦で命を落としたためだ。聖域は貴鬼を一人置いておく場所として、今はまだ相応しくないからと沙織が連れてきたのだ。
事実、学園に来たばかりの頃の貴鬼は、誰とも話をせず笑いもせず、食事も殆ど食べないような有り様だった。あまりにも悲痛な幼子の様子に万里亜は心を痛め、とにかく貴鬼の心の傷を癒すことに注力した。少しずつ貴鬼に表情が戻ってきた頃、女神アテナの加護により亡くなった聖闘士達が全員蘇った。
やはり、師であり親であるムウの帰還は絶大だった。このまま死んでしまうのではないかと心配するくらいに衰弱していた貴鬼は、みるみる元の活発な少年に戻ったのである。
聖域に帰ってからも、ムウが任務で聖域を離れる時は星の子学園に顔を出すようになった。修復師や聖闘士の修行の進捗が心配になるが、ムウがその方が安心だと言うのだ。
万里亜は仕事柄、様々な理由で親からの愛情を受けられず傷つき苦しむ子ども達を知っている。ムウと貴鬼には血の繋がりこそないが、まるで本当の親子のように互いを大切にしているのがよくわかる。
「貴鬼君、元気にしてるみたいね。嬉しいわ」
「だって、先生に会えたんだよ!オイラもすっごく嬉しい!」
満面の笑みで見上げる貴鬼の頭を撫でる。明るい茶色の髪は癖っ毛で少し硬い。
「万里亜先生、これから教皇の間に行くんでしょ?」
「教皇の間?そうなの?」
「うん、ムウ様がそう言ってた。ムウ様もちょっと前に教皇宮に行かれたよ」
「そうなんだ。ごめん、私、何も知らなかったわ」
「え、それで聖域まで来ちゃったの?すごいね」
貴鬼は驚いて丸い瞳を更に丸くする。
「ほんと、すごいよね…」
万里亜は返す言葉がなくて苦笑した。
「貴鬼、すまないが私達は先を急ぐんだ。積もる話はまた後にしてくれないかな?」
アフロディーテが柔らかなトーンで声をかける。
「へへ、ごめんなさーい」
貴鬼は舌をぺろりと出して謝った。何とも可愛らしい仕草だ。
「貴鬼君、また後でね」
万里亜は貴鬼の頭をもう一度撫でると、「お待たせしました」とアフロディーテへ向き直った。
「それじゃあ、ここから先は急いで行くよ」
そう言って、アフロディーテは再び万里亜を抱き上げた。
聖闘士というのは一体どういう体の仕組みをしているのだろう。
万里亜を抱えて石段を駆け上がるアフロディーテは呼吸一つ乱さないし、万里亜の荷物を持ったサガも涼しい顔をして並走している。何と常人離れしているのだろう。しかし、こんなのはまだ彼らの実力の一端ですらない。地上を守るため、彼らは己の身一つで戦うのだ。どれほど過酷な訓練に耐えてきたのか、万里亜の想像力や常識では到底理解が及ばない。それだけははっきりわかるのだ。
白羊宮、金牛宮を抜けると双児宮が見えて来た。
「ここ、サガさんの宮殿…」
万里亜の小さな呟きにアフロディーテが僅かに目を見開いた。
「よくここがサガの守護宮だとわかったね」
サガの表情も少し強張る。
「私が双子座の聖闘士だとご存知でしたか?」
「いいえ、サガさんも聖闘士だと城戸総帥から聞かされていましたけど、守護星座までは…」
小さく頭を振る。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。どうしよう。
内心で焦る。
「やっぱり君で間違いない。サガ、納得したかい?」
しかし、アフロディーテは得意気にサガを見る。
「どうやらそのようだな」
サガは小さく頷いた。彼らの気分を害した訳ではないようで、ひとまず安堵した。しかし、万里亜は何故自分がこの双児宮がサガの守護宮だと分かったのか、自分でも理由が分からなかった。
「何か困ったことがあれば、いつでも訪ねてきていただいて構いません。私が不在でも弟か宮仕えがおりますので」
サガは何故か居住まいを正してそう言った。
「はい、わかりました…弟…」
「私には双子の弟がおります」
双子座の聖闘士はやはり双子だったのか。感心しても驚きはしなかった。それが当たり前のように、それとも昔から知っていたかのように、ごく自然と万里亜の胸に収まった。
3人は双児宮を通り抜け巨蟹宮へ向かう。
万里亜は双児宮を抜けた直後から、何とも形容しがたい悪寒を感じていた。産毛が逆立ち皮膚がざわざわする奇妙な感覚に襲われる。
これ以上近付きたくない。この先は怖い。
本能が拒絶する。
知らず、身体は小刻みに震え、アフロディーテの首に回した腕に力が入る。全身が硬くなる。
万里亜の異変に気付いたアフロディーテが足を止めた。
「君にはわかるんだね?あの気配が」
気遣うような言葉に無言で頷く。
万里亜の顔は血の気が引いて青ざめている。
「サガ」
アフロディーテの視線を受け、サガも何事か承知したようだ。
「上から行くぞ」
「OK。万里亜嬢、少し跳ぶよ」
「え?跳ぶ?どういう事?」
万里亜が言い終わらないうちに、アフロディーテとサガが石畳を蹴る。身体が高く宙に舞う。
「うそー!」
信じられない大跳躍で、3人は巨蟹宮の屋根に降り立った。アフロディーテが万里亜をそっと屋根に降ろす。
「驚かせてごめんね。さっきの様子だと中を通るのは無理だと思って」
「あ、いえ…何だかもう、驚くことばかりです…。言葉が出てこない…」
万里亜はその場にへたり込んだ。
「私の知らなかった世界だわ…」
吐息をつく。それと同時に、自分の言葉に違和感を覚えた。
これ、本当に知らなかったの?単に忘れていただけのような気がする。
眼前に広がった雄大な景色には既視感がある。初めて訪れたギリシャなのに、初めての気がしないのは何故だろう。
よろりと立ち上がる。隣のアフロディーテを見上げる。アフロディーテが万里亜を見る。
ああ、何だろう。凄く大切な何かを忘れている気がする。
思い出そうとすればするほど、その何かは深みへ沈んでしまう。右手の人差し指と中指で眉間を押さえる。
「わからないわ…」
「大丈夫?万里亜嬢」
アフロディーテが気遣わしげに言葉をかける。
「大丈夫です。私の理解の範疇を超える事ばかりなので、かなり動揺してますけど」
顔が強張ってしまい、笑顔を作るのが難しい。もう一度、大きく息を吐く。
「お待たせしてすみません。もう大丈夫なので、先へ進みましょう」
「無理を押しつけてごめんよ。教皇宮に着いたら全て説明があるから、それまで辛抱してくれないか?」
「わかりました。多分もう平気だと思います。それに…」
「それに?」
「ううん、何でもないです」
慌てて首を横に振る。
『あなたに抱かれていると安心します』
そう言いそうになった。
巨蟹宮の不穏な空気は屋根の上にいても感じてしまうのだが、下にいたときよりは幾分マシに思える。
それにしても、ここはどうしてこんなにも空気が淀んでいるのだろう。あまりにも聖域という場所に馴染まない空気だ。この宮殿にだって、守護者たる蟹座の黄金聖闘士がいるだろうに。
果たしてどんな聖闘士なのだろう。
巨蟹宮の屋根から飛び降り、獅子宮への階段を駆けていくアフロディーテの腕の中、眼下に遠ざかる巨蟹宮を見送りながらそう思った。
獅子宮からはどの宮殿も思っていたよりスムーズに通り抜けられた。
「アフロディーテさん、どこの宮殿も黄金聖闘士が不在みたいなんですけど、どうしてなんですか?」
「黄金聖闘士には一斉招集がかかっていてね、今頃は教皇の間にいるよ」
「へぇ…え!てことは、私これから黄金聖闘士の皆さんにもお会いするんですか!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「ははっ、随分な驚きようだね。君は聖域の賓客だからね、黄金聖闘士達も君に会えるのを楽しみにしているはずだよ。大丈夫。サガも私も列席するし、もちろんムウもいるから」
「なんてこと…」
聖域のマナーや国際マナーはもとより、日本国内の一般的マナーすら身についていない未熟者なのに、一体どうしろと言うのだ。ここでとんでもない粗相をしてしまえばグラード財団の名前に傷が付く。とにかく、沙織の顔に泥を塗る真似だけは全力で回避しなければ。
十一の壮麗な宮殿を通過し、やがて見えてきた十二番目の宮殿。
「最後は私が守護する双魚宮だよ」
「ここが双魚宮…」
風に乗ってバラの甘い香りが届く。
「バラ、咲いてるんですか?」
「双魚宮には代々の魚座が引き継ぐバラ園があるんだ。魚座はバラの花を武器にするから」
「それじゃあ、城戸邸のバラも武器用だったんですか?」
「いや、あれは観賞用。武器用に育てるには、私の小宇宙を注いでおく必要があるんだ。時々訪ねるだけの城戸の屋敷では育成できないんだよ」
「へぇ…」
「良かったら今度見においで。バラの花びらを使ったお茶もあるよ」
「バラのお茶なんて素敵ですね。ぜひお邪魔したいです」
万里亜が破顔した。
教皇の間には既に黄金聖闘士が居並んでいる。玉座に伸びる深紅の絨毯の両脇に、煌めく黄金聖衣を纏った男達が整列する姿は華々しく圧巻だ。
この後、聖域にとって重要な人物がやって来る。
通達によれば、崩れかけている世界のバランスを正すために不可欠な人物で、謂わば女神代行とのことだ。日本まで迎えに行っているのはサガとアフロディーテだ。二人の小宇宙が近づいて来ているのは黄金聖闘士の誰もが察知している。しかし、その二人の小宇宙と共にあるのは、どう見積もっても一般人の小宇宙だ。いや、小宇宙と言うにはおこがましい、微弱な気配だった。
万が一にも人違いということはないだろうが、果たしてどのような人物がやってくるのか。期待よりも不安が掻き立てられる。
特に蟹座のデスマスクに至っては、自宮に起こっている難題を解決するに相応しい人物が来てくれなくては困るのだ。悪友とも言うべき仲間の目を信じていないわけではない。それなのに、それなのにだ。
「デスマスク、何をどう思おうとお前の勝手だが、今回ばかりは顔に出すなよ」
隣にいる双子座のカノンが小声で注意する。サガは教皇補佐官の立場で列席するため、今日はカノンが双子座の黄金聖衣を装着している。
「ああ、わかってる」
「なら良い」
デスマスクがため息をつこうとしたその時、ようやく客人が到着した。
教皇の間の重厚な扉がギギ、と音を立てながらゆっくり開いた。
場の全員の視線が入口に注がれる。
「教皇補佐官文官筆頭双子座のサガ、魚座のアフロディーテ、ただいま帰還いたしました」
サガが帰還を報告した。
「御苦労だった」
声の主は中央の玉座に座っている男だ。
男の顔は、頭頂部にドラゴンのオブジェが装飾された黄金のマスクに半分隠されていてよくわからない。ただ、声の感じはとても若々しい。
その男が教皇なのは間違いないのだろうが、想像していたよりも随分年若い。マスクから見える顔の下半分は、肌の張りが若者のそれだった。万里亜はそのことに驚いた。
聖闘士の総本山、聖域に君臨する教皇ともなれば、老成した人物を想像して当然だ。想定していなかったことに困惑する。
その教皇が玉座から降りてこちらへ歩いてくる。
黄金聖闘士達が一斉に万里亜の方へ向き直り跪く。同行していたサガとアフロディーテも例外ではなかった。
万里亜の前まで進んできた教皇もまた、恭しく膝をつき頭を垂れた。
「聖域へ無事にご帰還されましたこと、心からお慶び申し上げます。女神ヘスティア様」
「はい!?」
「驚かれるのも無理なきことと存じます。本来であれば十分な説明とヘスティア様のご覚醒が必要なのですが、事態が急を要することから、甚だご無礼と承知の上、このように慌ただしいお迎えになりました。この教皇シオン、聖域を代表し深くお詫び申し上げます」
教皇は徐ろに目深に被っていたマスクを脱ぎ、顔を上げた。
シオンと名乗ったその教皇は、目尻の切れ上がった大きな瞳と引眉が印象的な、高貴な面立ちをしていた。彼にもまた、アフロディーテと会った時に抱いた既視感を覚える。
シオンという名も、彼の美しい顔も心地よい響きの声も、どれもがひどく懐かしく、深く心に響く。
涙が零れた。
「…私、わかりません。自分が何を知っているのか、どうして知っているのか…。だけど、間違いなく教皇様を存じ上げています」
涙が止まらない。胸が切なく苦しく締めつけられる。鼓動が速くなり呼吸が浅くなっていく。頭が痛い。しかも、その痛みは急激に強くなり眼前暗黒感に襲われる。暗闇の中にチカチカと閃光が弾けるのが見えた。平衡感覚が失われ、空間の上下も、果たして自分が立位を保持できているのかもわからない。
「万里亜嬢!」
アフロディーテの声が聞こえた。はっと我に返る。危うく倒れそうになったところを、彼が支えてくれたのだ。
「大丈夫?」
「え、ええ、どうにか」
本当はあまり大丈夫ではないのだが、このような出迎え方をされている以上、すぐに場を辞するのも憚られる。
「アフロディーテ」
シオンの声が響く。
「は!」
「即刻黄金聖衣を着用して参れ」
アフロディーテが一瞬息を呑んだ。
「恐れながら、阿倍万里亜嬢は長旅でお疲れのご様子。ご休憩いただく方が先かと」
「今一度命ずる。即刻黄金聖衣の着用を」
シオンの言葉には有無を言わせぬ圧を感じる。まだ20歳前後と思しき教皇。一体どのようにしたら、ここまで圧倒的威圧感を身に付けられるのか。
これ以上の反論は許さない。
シオンの佇まいはそう告げていた。
「…御意」
万里亜をサガに託し、教皇の間を出た。聖衣は双魚宮にある。アフロディーテは、黄金聖闘士だけが持つとされる光の速さで瞬時に双魚宮へ戻った。
あの状態の万里亜に聖衣姿を見せるのは気乗りしない。シオンの姿にさえあれだけ動揺していたのに。
それでも教皇からの命令となれば従わざるを得ない。
「クソッ」
手近の柱を拳でなぐると、砕けた石の欠片がパラパラと床に落ちた。
万里亜の記憶の深く遠いところで響く声がする。大きな幸福感とそれ以上の喪失感。鈍く軋む心。知らないはずなのに何故か知っている景色。それらは全てが曖昧で捉えどころがなく、万里亜を不安にさせる。このままこのまま心をかき乱されるのは怖い。そして、黄金聖衣を装着したアフロディーテに会うのも怖い。自分が自分でなくなりそうな予感がする。小さく震える身体を自分の腕で抱きしめる。
しばらくすると、アフロディーテが戻ってきた。その身に黄金聖衣を纏って。
「魚座のアフロディーテ、参上仕りました」
遠目にもわかる煌びやかさに万里亜は目を見張った。二重のショルダーガードや鰭を象った装飾は、何という華やかさ。黄金聖衣の輝きさえも霞むようなアフロディーテの美貌に、万里亜は呼吸をするのも忘れた。
彼のことを確かに知っている。
曖昧な記憶が確信に変わった。その瞬間、これまでにない頭痛が万里亜を襲った。頭が割れるような激痛に悲鳴を上げた。
「あああー!!」
頭を抱え床にうずくまる。
そこで意識が途絶えた――
