キオクノカケラ
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聖域で浴びた陽光は、万里亜の想像以上に体力を奪っていた。
まるで日焼けしすぎた後の肌のように、少し触れるだけでもひりついて仕方ない。
自分の体がここまで冥界の闇に浸食されているとは、正直なところ考えていなかった。
一週間ほど地上で普通に過ごす事が出来たのは、ハーデスの指輪の力のおかげだ。
自力では三日も過ごせなかったに違いない。
アフロディーテとの別れは済ませた。
彼は二度と前世を思い出さない。万里亜と過ごした日々の記憶も全て消し去った。
彼は二度と万里亜もアミリアも思い出さない。
それで良かった。それが万里亜の望んだ事だった。
今生でも自分に慈しみの気持ちを向けてくれたシオンとの約束は果たせそうもない。
『ごめんなさい、シオン。もう会えないかもしれない。嘘つきの私を許して…』
ジュデッカに誂えられた自室から陰鬱な冥界の空を眺め、地上にいる煌めきを放つ金の髪を持った旧知の男に、決して届く事のない謝罪の言葉を送る。
静養する万里亜の見舞いにミーノスがやってきた。
「お労しい限りでございます。まさか、ロトスまでご用意されていたとは…」
呆れたように溜息をつくミーノス。
「そうね…。私にもう少し知恵と力があれば、もっと良い方法を見つけられたでしょうね。でも、今の私の力ではこれが精一杯だったの。仕方がないわ」
貴方にも面倒を掛けましたね、と銀髪の冥闘士に柔らかく微笑む。
「…滅相もない事にございます」
恭しく礼をするミーノスに、今は憎しみの気持ちも恨みの気持ちもなくなっていた。
不思議と万里亜の心は穏やかだった。
アフロディーテがロトスの実を食べ万里亜を忘れてしまった事が十二宮内に伝えられ、同時に彼女の存在はアフロディーテに一切伏せられる事となった。
アテナは泣き崩れ、ただひたすらに己の無力を責め続けた。誰にもどうする事も出来ない現実は確かにこの世に存在する。そして無力な存在である彼らは、この理不尽ともいえる酷薄な現実を受け入れるより他はなかった。
8月になり、日本で学生生活を送っているアテナと青銅聖闘士が聖域に滞在することになった。
一般の少年達を遥に凌ぐ身体能力を備えた彼らは、日常生活を送るのにも細心の注意を払わなければならない。
力加減の一つも決して間違う事は許されない。そんなストレス満載の学生生活を送る彼らの、ガス抜きの意味合いも込めた聖域滞在だった。
「アテナが、青銅の小僧達を連れてこちらへいらっしゃる。ひと月ほどの御滞在だ。不足のないよう念入りに準備いたすように」
教皇シオンから言い渡されたサガは、その端正な顔を僅かにしかめた。
「青銅らは、日本でヘスティア様と懇意にしておりました。特に星矢はヘスティア様に特別な好意を持っていたように見受けます。ヘスティア様の御不在をどのように説明なさるおつもりですか」
「…説明の必要はない。ヘスティア様には、聖域にお戻り頂く」
シオンはサガを正面から見据え、きっぱりと言い切った。
「しかし、そのような事が…」
「アテナから親書を預かった。サガ、これをジュデッカに。地下の『影見の間』に冥界への扉を開いてある。そこから行くが良い」
教皇宮に地下室があったなど、サガは初めて知った。シオンに教えられた隠し扉を見つけ、そこから地下への階段を下りて行く。その扉の中は空気が籠って黴臭く、長い年月換気がなされなかった事を物語っていた。
「ここが影見の間…」
向い合わせの鏡が置かれた台座が祭壇の中央に祀られている小部屋だった。
合わせ鏡は中心に青黒い光の塊を造り上げ、周囲の僅かな光を引き込むように、ゆっくり渦を巻いている。
この渦が冥界と繋がる道。神話の時代にハーデスによって地上に持ち込まれた、己の闇をも映しだす冥界の鏡。気の遠くなる程の年月、この小部屋でアテナの名の下に厳重に封印されていた。
サガは、中央に渦巻く闇の光へ足を踏み入れる。内腑まで吸い取られてしまいそうな違和感を堪えながら、暗黒の中へ呑み込まれていった。
自室で読書をしていた万里亜は、冥界に酷く不釣り合いな金色の小宇宙がジュデッカの地下に現れた事に気が付いた。
「この小宇宙…、サガさん?」
何故サガが冥界に来るのだろう。聖域から用事があるにしても、教皇補佐官であるサガ自らが出向いてくるなど、よほどの事情に違いない。
万里亜は、側付きの女官に即刻サガを丁重に迎え入れるよう命じた。
冥王を訪室すると、王は「漸く参りましたか、聖域は」とゆるりと腰を上げ、玉座の間へ向かって歩いて行った。
万里亜がハーデスと共に玉座の間へ入った時には、既にサガはそこへ通され二神の登場を待っていた。
「双子座のサガよ、面を上げるが良い」
顔を上げたサガは、玉座の下からハーデスを見据えた。
「冥王ハーデス様、女神ヘスティア様におかれましては、御健勝の事と存じ上げます」
「双子座よ、余は堅苦しい挨拶は好まぬ。さっさと用件を申せ」
「は。我らがアテナよりハーデス様へ親書を預かって参りました。どうぞお検めください」
控えていた従者が手紙を受け取ると、ハーデスに恭しく差し出した。
親書に目を通したハーデスは、それを万里亜へ手渡した。
「これは私よりも姉上がお目通し下さる方が宜しいでしょう。どうぞお読み下さい」
「…?私が?」
ハーデス宛の手紙を渡され少々困惑する万里亜は、サガの方を見た。サガは万里亜を見て小さく頷いた。
やや遠慮がちに開いたオリーブのエンボスが施された純白の便箋には、十代の少女らしい柔らかく小さな文字がしたためられていた。
アテナからの親書に目を通し、万里亜は思案に暮れた。
万里亜を地上に戻れるように配慮をしてほしいというアテナ。だが、太陽の光を浴びれば体を消耗させる。しかも聖域は今、真夏だ。地上に出ても、教皇宮に引き籠らざるを得ないと言うのであれば、何のための逗留か分からない。
顎に手を当て考え込んだままの万里亜を見て、ハーデスは小さく笑った。
「姉上、問題はありません。どうぞ地上へお戻りください」
何も心配いらないと言いたげな弟を、首を傾げて見つめる。
「貴方がそう言うなら大丈夫なのでしょうけど、構わないのかしら?」
「全ては姉上の御心のままに」
穏やかな口調で話すハーデスは、何もかも全て知っているのだ。
万里亜が地上の守り役を降りられない事も、魚座の聖闘士と離れられない事も、姉弟がこのまま共に過ごせない事も。
それでも何事もないかのように、常に労りの心を持って、姉である万里亜に進むべき道を指し示してくれるのだ。
「私には私の役割が、姉上には姉上の役割がございます。どうぞ進むべき道を見誤りなさいますな」
「ですが、冥界の復興は道半ば…」
ハーデスは躊躇いの見える万里亜を遮る様に玉座から立ち上がると、スッと右手を差し出した。
「…我々はもう十分です。これからは在るべき場で…」
万里亜がハーデスの手を取ると、下座への階段を共に下りていく。そして、サガに万里亜の手を取らせる。
「双子座よ、姉上を頼むぞ」
惜別の情を滲ませた群青色の双眸は、黄金色の鎧を纏った地上の戦士に向けられた。
「御意に」
深く頭を垂れたサガは万里亜の手を取り立ち上がると、ハーデスに背を向けた。
「ハーデス!私は…、私は貴方に助けられてばかりだった…!貴方に何も、姉として何も出来ていません!せめてもう少しだけ…」
別離の瞬間を悟った万里亜#は、振り返り弟神へ声を大にした。
弟神は優しく微笑んだまま万里亜を静かに見つめていた。
「私は姉上に謝らねばなりません」
「謝る?」
「はい。本来なら地上でお暮らしになるべき姉上を、このような地下世界に長きに渡り閉じ込めました。そして、地上での暮らしを捨てざるを得ない選択もさせてしまいました。
それでも姉上は、私に恨み言一つ申すわけでもなく、この世界に留まろうとそのお心を砕いて下さった。私だけでなく、冥闘士にも惜しみ無くお気持ちを向けて下さった。だからもう十分なのです。私の心は未だかつてない程に満たされております。姉上の生きる場はここではございません。どうぞ、魚座の側へお戻り下さい」
ハーデスの言葉に嘘はなかった。初めは処女神であるにも拘わらず人と交わり、その子をも身に宿した姉神を愚かしく憎らしく思った。
だが共に暮らす中で、姉神のどこまでも深く温かな愛情に触れたハーデスは、初めて神の持つ愛がいかなるものかその身で知った。それだけで本当に十分だった。姉を愛するが故に別離を選択するのだ。それが最良の選択と信じて…。
地上からの私物をごく短時間で纏めた万里亜は、サガと共にジュデッカの地下室へ下りていった。
「こちらでございます」
万里亜も存在を知らなかった地下室には、壁を覆い隠さんばかりの巨大な鏡。そしてその鏡面に映る景色は─
「聖域…」
鏡に映る聖域は、真夏の日差しを白亜の宮殿に反射させ、眩しく鮮やかに光輝いていた。
僅かに過ごしただけの聖域の景色を酷く懐かしく感じる。自然と鼓動が速まる。
サガに手を引かれ足を踏み入れた鏡面世界の陽光は、この世に産まれ落ちてから23年の時を過ごした故郷であるのにも拘らず、ほんの僅かな時間しか身を置かなかった冥界の闇と瘴気に蝕まれた体を外から焼きつける。
「ヘスティア様、当面は教皇宮でお体を休ませて下さい。日に当たる時間は、少しずつ増やしていかれるのが宜しいかと…」
「…ええ、そうさせていただきます」
万里亜の話し方や立ち居振舞いは、サガが見知った彼女のものではなかった。女神の自我が、やがて姿を表す予感がする。
教皇宮の地下から、シオンが待つ教皇の間へと上がっていく。恐らくシオンが手配したものだろう、窓には緞帳が張られ日の光を遮っている。薄暗くひんやりとした空気が回廊を満たしているが、やはり冥界の空気とは重たさが違う。
『戻ってきたんだわ…』
ここでの生活がまた始まるのだ。
教皇の間では、シオンが彼にしては珍しくソワソワした様子で万里亜の到着を待っていた。
サガと万里亜の小宇宙が近付いてくる。
シオンは、目の前の扉が開くと同時に玉座から立ち上がる。
「お待ち申し上げておりました、ヘスティア様」
いつも丁寧な物腰のシオンに万里亜は思わず笑みを零す。
「ただいま戻りました、シオン。再び貴方に会えて大変嬉しく思います。また聖域で世話になりますね」
「…誠に勿体ない御言葉、痛み入ります」
万里亜の言葉を噛み締める様に、シオンは瞳を閉じて深々と頭を垂れた。
二度もその手を離してしまった愛しい女神が、また自分の前に立っている。シオンにはそれだけでも幸福で、そして『三度目はない』と、固く心に誓うのだった。
「ところでシオン、私を突然呼び戻した本当の理由を教えてくださるかしら?」
アテナからの書状には、夏の間に聖域の守備をより強固にしたいとの旨がしたためられていた。だが、それが建前の理由であると、万里亜にもすぐに分かった。夏の聖域の日差しに万里亜の体が耐えられるとは考えられない。今よりは柔らかかった陽光でさえも、彼女の体には仇をなしてしまった事実があるのだから。
それを知っておきながら、わざわざ更に過酷な環境を万里亜の身に強いるとは到底思えないし、何より目の前にいるこの教皇シオンが同意するとは到底思えなかった。
「はははっ、やはりお見通しでございましたか。さすがはヘスティア様でございます」
「茶化さないで、シオン。あんなもの、誰だって本当ではないと簡単に分かります」
笑って答えるシオンに不服そうな面持ちで答える万里亜。神と人の子でありながらも、馴染みの関係はやはり互いに心地良いもので、共に在るだけでも自然と心身の緊張が解されていく。
「サガ、構わぬな?」
シオンは、万里亜の後ろに控えているサガに尋ねた。
「はい。宜しいかと…」
サガは小さく頭を下げた。それを見てシオンは頷くと、万里亜を玉座に座らせ自分はその前に跪いた。
「ヘスティア様は、日本で学校教育を終えられていらっしゃるので御存知の事とは思いますが、現在学生であるアテナや青銅聖闘士らが、夏の長期休暇に入りました」
「あらぁ…、もうそんな時期?」
「はい。そこで、星矢以下アテナのお屋敷で厄介になっている青銅達が、アテナと共に夏の休暇中、聖域に滞在する運びとなりました。そこで、ヘスティア様にもう一度お戻り願えないかと考え、今回の件に至ったわけでございます」
「…そうでしたか…。ふふ、可笑しい。回りくどい事などせず、ハーデスにも私にも、素直にそう申せば良いのに…。ですがシオン、人の子のそのようなところが、神をも惹きつけて止まないのでしょうね…。承知しました。少年らの休暇が充実したものになるよう、私も最大限努力いたしましょう」
そう言って、万里亜は楽しそうにクスクスと笑った。
聖域では、アテナ一行を迎える準備が着々と進んでいた。万里亜は陽の下に出られないため、何がどう進んでいるのかは残念ながら分からなかった。
そして、アテナが到着する日。
その日は歓待の宴が夕刻から開かれる予定となっていた。それは、まだ昼間に外へ出る事が難しい万里亜の体を考慮しての事だった。
宴会の準備は朝から行われ、聖闘士達はそれに駆り出されていた。
万里亜は女官達の手で美しく着飾られ、まさに神話の時代の女神を思い出させる装いとなった。
だが、青銅の少年に会うのは女神ヘスティアとしてではなく、阿倍万里亜としてだ。彼らが聖域に滞在する間は、ヘスティアは封印する。
アフロディーテ以外の黄金聖闘士へは、必ず「万里亜」と呼ぶように申し伝えた。
そして、この宴席で再びアフロディーテと顔合わせをする事になる。
彼は数ヶ月間、原因不明の奇病で眠り続けていたという事になっていて、万里亜はアテナ城戸沙織不在の間、彼女の代行役としてグラード財団から派遣されてきたアテナの右腕という事になっている。
今日は、阿倍万里亜として過ごしたい。アフロディーテとは「初めまして」の挨拶から始めたい。
もう会えなくても構わないと思ってみたが、会えるとなったら一刻も早く会いたいと思ってしまうし、傍にいたいとも願ってしまう。そんな自分に思わず苦笑してしまう。
『結局、ハーデスも全部お見通しだったってわけね…』
ここからはヘスティアの自我を封じ込め、阿倍万里亜を演じるのだ。
『大丈夫。私はずっと私だったのだから』
定刻になり宴が始まった。
聖域にアテナがいる─
それは聖域にいる全ての者にとっての悦びで、幸福な事だった。
それぞれに酒を酌み交わし、豪勢な料理に舌鼓を打ちながら、思い思いにアテナの聖域帰還を祝っていた。
そうして宴席の出席者らが楽しむ姿を見て、アテナ自身もまた、彼らから喜びを与えられている。
誰か一人が欠けてもいけない。
何か一つが欠けてもいけない。
それが、聖域。
万里亜は、サガにエスコートされて宴の場へと足を踏み入れた。
多くの人々の熱気が、万里亜の気分を高揚させる。
「阿倍先生」
この呼び方をする人物はこの中に一人しかいない。
「…総帥」
社会人になった時に、グループのトップが中学生の少女だと知って驚いた。そして、彼女がこの聖域を統括する戦女神の化身と知らされ、二度驚いた。
こうして見ていても、普通の中学生の少女と何ら変わりはない。
「この度は、私の勝手な願いを全て聞き届けてくださってありがとうございました。それに、私のせいで…」
「それ以上の事はお止め下さい。私は、誰に命令されたわけでもありません。全ては自分で選んだ事です」
表情を曇らせるアテナを制して、万里亜は気にしないようにと伝えた。
「ですが、彼の事は…」
「総帥はまだお若いからお分かりにならないかもしれませんが、傍にいることだけが愛ではないんですよ?」
「…?」
アテナは納得いかないような表情を浮かべる。この辺りはまだまだ中学生の少女だと思った。
「万里亜様、そろそろ…」
エスコート役のサガが、そっと耳打ちし視線を一人の黄金聖闘士の方に向けた。
「…そうですね。挨拶は早い方が良いですから…。それとサガさん、私の事は呼び捨てしていただいて結構ですよ」
「は、承知いたしました」
そして、サガに連れられて向かった先にいたのは万里亜が一番会いたかった男だ。
「アフロディーテ」
サガに声をかけれたアフロディーテは目礼をした。
「お前に紹介しておきたい方がいる。今良いか?」
「ああ、構わないよ」
万里亜は一歩前に出た。彼の姿を見るだけで自然と顔が綻びる。
先程アテナと親しげに話していた東洋人の少女だ。アテナの御学友かと思ったが、近くで見るともう少し年上の様だ。一輝と同じくらいの年頃か…?
わざわざサガがエスコートしてくるくらいだ。ただの客人と言う訳ではないだろう。
「阿倍万里亜嬢だ」
万里亜─
その名に聞き覚えがあった。少し前、同僚達がしきりに私に尋ねてきた女性の名前だ。
あれは、この娘の事だったのか…?
「阿倍万里亜です。…初めまして」
彼女がおずおずと差し出した右手を握る。
その時、私の鼻腔に優しく届いた香り。
あの時マントから香った柑橘の香りだ。
あれは、この娘の香りだったのか…。
初めて会うはずの娘。何故この娘の香りが私のマントから香ったのか、理由は知らない。
だが、私はあの香りを懐かしいと感じた。
そして、彼女の笑顔も声もどこか懐かしく愛おしく感じる。
「万里亜…」
その名を呼ぶと、彼女はとても嬉しそうに、少し恥じらうように柔らかい頬を染めた。
ああ、そうか…。私は、とっくに君と出会っていたんだね。
今はまだ思い出せないけれど、でもきっと─
「初めまして。魚座のアフロディーテです」
私は君に─
恋をする─
<完>
まるで日焼けしすぎた後の肌のように、少し触れるだけでもひりついて仕方ない。
自分の体がここまで冥界の闇に浸食されているとは、正直なところ考えていなかった。
一週間ほど地上で普通に過ごす事が出来たのは、ハーデスの指輪の力のおかげだ。
自力では三日も過ごせなかったに違いない。
アフロディーテとの別れは済ませた。
彼は二度と前世を思い出さない。万里亜と過ごした日々の記憶も全て消し去った。
彼は二度と万里亜もアミリアも思い出さない。
それで良かった。それが万里亜の望んだ事だった。
今生でも自分に慈しみの気持ちを向けてくれたシオンとの約束は果たせそうもない。
『ごめんなさい、シオン。もう会えないかもしれない。嘘つきの私を許して…』
ジュデッカに誂えられた自室から陰鬱な冥界の空を眺め、地上にいる煌めきを放つ金の髪を持った旧知の男に、決して届く事のない謝罪の言葉を送る。
静養する万里亜の見舞いにミーノスがやってきた。
「お労しい限りでございます。まさか、ロトスまでご用意されていたとは…」
呆れたように溜息をつくミーノス。
「そうね…。私にもう少し知恵と力があれば、もっと良い方法を見つけられたでしょうね。でも、今の私の力ではこれが精一杯だったの。仕方がないわ」
貴方にも面倒を掛けましたね、と銀髪の冥闘士に柔らかく微笑む。
「…滅相もない事にございます」
恭しく礼をするミーノスに、今は憎しみの気持ちも恨みの気持ちもなくなっていた。
不思議と万里亜の心は穏やかだった。
アフロディーテがロトスの実を食べ万里亜を忘れてしまった事が十二宮内に伝えられ、同時に彼女の存在はアフロディーテに一切伏せられる事となった。
アテナは泣き崩れ、ただひたすらに己の無力を責め続けた。誰にもどうする事も出来ない現実は確かにこの世に存在する。そして無力な存在である彼らは、この理不尽ともいえる酷薄な現実を受け入れるより他はなかった。
8月になり、日本で学生生活を送っているアテナと青銅聖闘士が聖域に滞在することになった。
一般の少年達を遥に凌ぐ身体能力を備えた彼らは、日常生活を送るのにも細心の注意を払わなければならない。
力加減の一つも決して間違う事は許されない。そんなストレス満載の学生生活を送る彼らの、ガス抜きの意味合いも込めた聖域滞在だった。
「アテナが、青銅の小僧達を連れてこちらへいらっしゃる。ひと月ほどの御滞在だ。不足のないよう念入りに準備いたすように」
教皇シオンから言い渡されたサガは、その端正な顔を僅かにしかめた。
「青銅らは、日本でヘスティア様と懇意にしておりました。特に星矢はヘスティア様に特別な好意を持っていたように見受けます。ヘスティア様の御不在をどのように説明なさるおつもりですか」
「…説明の必要はない。ヘスティア様には、聖域にお戻り頂く」
シオンはサガを正面から見据え、きっぱりと言い切った。
「しかし、そのような事が…」
「アテナから親書を預かった。サガ、これをジュデッカに。地下の『影見の間』に冥界への扉を開いてある。そこから行くが良い」
教皇宮に地下室があったなど、サガは初めて知った。シオンに教えられた隠し扉を見つけ、そこから地下への階段を下りて行く。その扉の中は空気が籠って黴臭く、長い年月換気がなされなかった事を物語っていた。
「ここが影見の間…」
向い合わせの鏡が置かれた台座が祭壇の中央に祀られている小部屋だった。
合わせ鏡は中心に青黒い光の塊を造り上げ、周囲の僅かな光を引き込むように、ゆっくり渦を巻いている。
この渦が冥界と繋がる道。神話の時代にハーデスによって地上に持ち込まれた、己の闇をも映しだす冥界の鏡。気の遠くなる程の年月、この小部屋でアテナの名の下に厳重に封印されていた。
サガは、中央に渦巻く闇の光へ足を踏み入れる。内腑まで吸い取られてしまいそうな違和感を堪えながら、暗黒の中へ呑み込まれていった。
自室で読書をしていた万里亜は、冥界に酷く不釣り合いな金色の小宇宙がジュデッカの地下に現れた事に気が付いた。
「この小宇宙…、サガさん?」
何故サガが冥界に来るのだろう。聖域から用事があるにしても、教皇補佐官であるサガ自らが出向いてくるなど、よほどの事情に違いない。
万里亜は、側付きの女官に即刻サガを丁重に迎え入れるよう命じた。
冥王を訪室すると、王は「漸く参りましたか、聖域は」とゆるりと腰を上げ、玉座の間へ向かって歩いて行った。
万里亜がハーデスと共に玉座の間へ入った時には、既にサガはそこへ通され二神の登場を待っていた。
「双子座のサガよ、面を上げるが良い」
顔を上げたサガは、玉座の下からハーデスを見据えた。
「冥王ハーデス様、女神ヘスティア様におかれましては、御健勝の事と存じ上げます」
「双子座よ、余は堅苦しい挨拶は好まぬ。さっさと用件を申せ」
「は。我らがアテナよりハーデス様へ親書を預かって参りました。どうぞお検めください」
控えていた従者が手紙を受け取ると、ハーデスに恭しく差し出した。
親書に目を通したハーデスは、それを万里亜へ手渡した。
「これは私よりも姉上がお目通し下さる方が宜しいでしょう。どうぞお読み下さい」
「…?私が?」
ハーデス宛の手紙を渡され少々困惑する万里亜は、サガの方を見た。サガは万里亜を見て小さく頷いた。
やや遠慮がちに開いたオリーブのエンボスが施された純白の便箋には、十代の少女らしい柔らかく小さな文字がしたためられていた。
アテナからの親書に目を通し、万里亜は思案に暮れた。
万里亜を地上に戻れるように配慮をしてほしいというアテナ。だが、太陽の光を浴びれば体を消耗させる。しかも聖域は今、真夏だ。地上に出ても、教皇宮に引き籠らざるを得ないと言うのであれば、何のための逗留か分からない。
顎に手を当て考え込んだままの万里亜を見て、ハーデスは小さく笑った。
「姉上、問題はありません。どうぞ地上へお戻りください」
何も心配いらないと言いたげな弟を、首を傾げて見つめる。
「貴方がそう言うなら大丈夫なのでしょうけど、構わないのかしら?」
「全ては姉上の御心のままに」
穏やかな口調で話すハーデスは、何もかも全て知っているのだ。
万里亜が地上の守り役を降りられない事も、魚座の聖闘士と離れられない事も、姉弟がこのまま共に過ごせない事も。
それでも何事もないかのように、常に労りの心を持って、姉である万里亜に進むべき道を指し示してくれるのだ。
「私には私の役割が、姉上には姉上の役割がございます。どうぞ進むべき道を見誤りなさいますな」
「ですが、冥界の復興は道半ば…」
ハーデスは躊躇いの見える万里亜を遮る様に玉座から立ち上がると、スッと右手を差し出した。
「…我々はもう十分です。これからは在るべき場で…」
万里亜がハーデスの手を取ると、下座への階段を共に下りていく。そして、サガに万里亜の手を取らせる。
「双子座よ、姉上を頼むぞ」
惜別の情を滲ませた群青色の双眸は、黄金色の鎧を纏った地上の戦士に向けられた。
「御意に」
深く頭を垂れたサガは万里亜の手を取り立ち上がると、ハーデスに背を向けた。
「ハーデス!私は…、私は貴方に助けられてばかりだった…!貴方に何も、姉として何も出来ていません!せめてもう少しだけ…」
別離の瞬間を悟った万里亜#は、振り返り弟神へ声を大にした。
弟神は優しく微笑んだまま万里亜を静かに見つめていた。
「私は姉上に謝らねばなりません」
「謝る?」
「はい。本来なら地上でお暮らしになるべき姉上を、このような地下世界に長きに渡り閉じ込めました。そして、地上での暮らしを捨てざるを得ない選択もさせてしまいました。
それでも姉上は、私に恨み言一つ申すわけでもなく、この世界に留まろうとそのお心を砕いて下さった。私だけでなく、冥闘士にも惜しみ無くお気持ちを向けて下さった。だからもう十分なのです。私の心は未だかつてない程に満たされております。姉上の生きる場はここではございません。どうぞ、魚座の側へお戻り下さい」
ハーデスの言葉に嘘はなかった。初めは処女神であるにも拘わらず人と交わり、その子をも身に宿した姉神を愚かしく憎らしく思った。
だが共に暮らす中で、姉神のどこまでも深く温かな愛情に触れたハーデスは、初めて神の持つ愛がいかなるものかその身で知った。それだけで本当に十分だった。姉を愛するが故に別離を選択するのだ。それが最良の選択と信じて…。
地上からの私物をごく短時間で纏めた万里亜は、サガと共にジュデッカの地下室へ下りていった。
「こちらでございます」
万里亜も存在を知らなかった地下室には、壁を覆い隠さんばかりの巨大な鏡。そしてその鏡面に映る景色は─
「聖域…」
鏡に映る聖域は、真夏の日差しを白亜の宮殿に反射させ、眩しく鮮やかに光輝いていた。
僅かに過ごしただけの聖域の景色を酷く懐かしく感じる。自然と鼓動が速まる。
サガに手を引かれ足を踏み入れた鏡面世界の陽光は、この世に産まれ落ちてから23年の時を過ごした故郷であるのにも拘らず、ほんの僅かな時間しか身を置かなかった冥界の闇と瘴気に蝕まれた体を外から焼きつける。
「ヘスティア様、当面は教皇宮でお体を休ませて下さい。日に当たる時間は、少しずつ増やしていかれるのが宜しいかと…」
「…ええ、そうさせていただきます」
万里亜の話し方や立ち居振舞いは、サガが見知った彼女のものではなかった。女神の自我が、やがて姿を表す予感がする。
教皇宮の地下から、シオンが待つ教皇の間へと上がっていく。恐らくシオンが手配したものだろう、窓には緞帳が張られ日の光を遮っている。薄暗くひんやりとした空気が回廊を満たしているが、やはり冥界の空気とは重たさが違う。
『戻ってきたんだわ…』
ここでの生活がまた始まるのだ。
教皇の間では、シオンが彼にしては珍しくソワソワした様子で万里亜の到着を待っていた。
サガと万里亜の小宇宙が近付いてくる。
シオンは、目の前の扉が開くと同時に玉座から立ち上がる。
「お待ち申し上げておりました、ヘスティア様」
いつも丁寧な物腰のシオンに万里亜は思わず笑みを零す。
「ただいま戻りました、シオン。再び貴方に会えて大変嬉しく思います。また聖域で世話になりますね」
「…誠に勿体ない御言葉、痛み入ります」
万里亜の言葉を噛み締める様に、シオンは瞳を閉じて深々と頭を垂れた。
二度もその手を離してしまった愛しい女神が、また自分の前に立っている。シオンにはそれだけでも幸福で、そして『三度目はない』と、固く心に誓うのだった。
「ところでシオン、私を突然呼び戻した本当の理由を教えてくださるかしら?」
アテナからの書状には、夏の間に聖域の守備をより強固にしたいとの旨がしたためられていた。だが、それが建前の理由であると、万里亜にもすぐに分かった。夏の聖域の日差しに万里亜の体が耐えられるとは考えられない。今よりは柔らかかった陽光でさえも、彼女の体には仇をなしてしまった事実があるのだから。
それを知っておきながら、わざわざ更に過酷な環境を万里亜の身に強いるとは到底思えないし、何より目の前にいるこの教皇シオンが同意するとは到底思えなかった。
「はははっ、やはりお見通しでございましたか。さすがはヘスティア様でございます」
「茶化さないで、シオン。あんなもの、誰だって本当ではないと簡単に分かります」
笑って答えるシオンに不服そうな面持ちで答える万里亜。神と人の子でありながらも、馴染みの関係はやはり互いに心地良いもので、共に在るだけでも自然と心身の緊張が解されていく。
「サガ、構わぬな?」
シオンは、万里亜の後ろに控えているサガに尋ねた。
「はい。宜しいかと…」
サガは小さく頭を下げた。それを見てシオンは頷くと、万里亜を玉座に座らせ自分はその前に跪いた。
「ヘスティア様は、日本で学校教育を終えられていらっしゃるので御存知の事とは思いますが、現在学生であるアテナや青銅聖闘士らが、夏の長期休暇に入りました」
「あらぁ…、もうそんな時期?」
「はい。そこで、星矢以下アテナのお屋敷で厄介になっている青銅達が、アテナと共に夏の休暇中、聖域に滞在する運びとなりました。そこで、ヘスティア様にもう一度お戻り願えないかと考え、今回の件に至ったわけでございます」
「…そうでしたか…。ふふ、可笑しい。回りくどい事などせず、ハーデスにも私にも、素直にそう申せば良いのに…。ですがシオン、人の子のそのようなところが、神をも惹きつけて止まないのでしょうね…。承知しました。少年らの休暇が充実したものになるよう、私も最大限努力いたしましょう」
そう言って、万里亜は楽しそうにクスクスと笑った。
聖域では、アテナ一行を迎える準備が着々と進んでいた。万里亜は陽の下に出られないため、何がどう進んでいるのかは残念ながら分からなかった。
そして、アテナが到着する日。
その日は歓待の宴が夕刻から開かれる予定となっていた。それは、まだ昼間に外へ出る事が難しい万里亜の体を考慮しての事だった。
宴会の準備は朝から行われ、聖闘士達はそれに駆り出されていた。
万里亜は女官達の手で美しく着飾られ、まさに神話の時代の女神を思い出させる装いとなった。
だが、青銅の少年に会うのは女神ヘスティアとしてではなく、阿倍万里亜としてだ。彼らが聖域に滞在する間は、ヘスティアは封印する。
アフロディーテ以外の黄金聖闘士へは、必ず「万里亜」と呼ぶように申し伝えた。
そして、この宴席で再びアフロディーテと顔合わせをする事になる。
彼は数ヶ月間、原因不明の奇病で眠り続けていたという事になっていて、万里亜はアテナ城戸沙織不在の間、彼女の代行役としてグラード財団から派遣されてきたアテナの右腕という事になっている。
今日は、阿倍万里亜として過ごしたい。アフロディーテとは「初めまして」の挨拶から始めたい。
もう会えなくても構わないと思ってみたが、会えるとなったら一刻も早く会いたいと思ってしまうし、傍にいたいとも願ってしまう。そんな自分に思わず苦笑してしまう。
『結局、ハーデスも全部お見通しだったってわけね…』
ここからはヘスティアの自我を封じ込め、阿倍万里亜を演じるのだ。
『大丈夫。私はずっと私だったのだから』
定刻になり宴が始まった。
聖域にアテナがいる─
それは聖域にいる全ての者にとっての悦びで、幸福な事だった。
それぞれに酒を酌み交わし、豪勢な料理に舌鼓を打ちながら、思い思いにアテナの聖域帰還を祝っていた。
そうして宴席の出席者らが楽しむ姿を見て、アテナ自身もまた、彼らから喜びを与えられている。
誰か一人が欠けてもいけない。
何か一つが欠けてもいけない。
それが、聖域。
万里亜は、サガにエスコートされて宴の場へと足を踏み入れた。
多くの人々の熱気が、万里亜の気分を高揚させる。
「阿倍先生」
この呼び方をする人物はこの中に一人しかいない。
「…総帥」
社会人になった時に、グループのトップが中学生の少女だと知って驚いた。そして、彼女がこの聖域を統括する戦女神の化身と知らされ、二度驚いた。
こうして見ていても、普通の中学生の少女と何ら変わりはない。
「この度は、私の勝手な願いを全て聞き届けてくださってありがとうございました。それに、私のせいで…」
「それ以上の事はお止め下さい。私は、誰に命令されたわけでもありません。全ては自分で選んだ事です」
表情を曇らせるアテナを制して、万里亜は気にしないようにと伝えた。
「ですが、彼の事は…」
「総帥はまだお若いからお分かりにならないかもしれませんが、傍にいることだけが愛ではないんですよ?」
「…?」
アテナは納得いかないような表情を浮かべる。この辺りはまだまだ中学生の少女だと思った。
「万里亜様、そろそろ…」
エスコート役のサガが、そっと耳打ちし視線を一人の黄金聖闘士の方に向けた。
「…そうですね。挨拶は早い方が良いですから…。それとサガさん、私の事は呼び捨てしていただいて結構ですよ」
「は、承知いたしました」
そして、サガに連れられて向かった先にいたのは万里亜が一番会いたかった男だ。
「アフロディーテ」
サガに声をかけれたアフロディーテは目礼をした。
「お前に紹介しておきたい方がいる。今良いか?」
「ああ、構わないよ」
万里亜は一歩前に出た。彼の姿を見るだけで自然と顔が綻びる。
先程アテナと親しげに話していた東洋人の少女だ。アテナの御学友かと思ったが、近くで見るともう少し年上の様だ。一輝と同じくらいの年頃か…?
わざわざサガがエスコートしてくるくらいだ。ただの客人と言う訳ではないだろう。
「阿倍万里亜嬢だ」
万里亜─
その名に聞き覚えがあった。少し前、同僚達がしきりに私に尋ねてきた女性の名前だ。
あれは、この娘の事だったのか…?
「阿倍万里亜です。…初めまして」
彼女がおずおずと差し出した右手を握る。
その時、私の鼻腔に優しく届いた香り。
あの時マントから香った柑橘の香りだ。
あれは、この娘の香りだったのか…。
初めて会うはずの娘。何故この娘の香りが私のマントから香ったのか、理由は知らない。
だが、私はあの香りを懐かしいと感じた。
そして、彼女の笑顔も声もどこか懐かしく愛おしく感じる。
「万里亜…」
その名を呼ぶと、彼女はとても嬉しそうに、少し恥じらうように柔らかい頬を染めた。
ああ、そうか…。私は、とっくに君と出会っていたんだね。
今はまだ思い出せないけれど、でもきっと─
「初めまして。魚座のアフロディーテです」
私は君に─
恋をする─
<完>
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