キオクノカケラ
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万里亜が冥界に来てから数週間が経過していたが、日を追うごとに倦怠感が強くなってきて床から出るのも億劫な時がある。冥界の瘴気が障っているのだろう。これではアフロディーテを目覚めさせるどころの話ではない。
流石に顔を出さない事を心配したのだろうか、朝食の後にハーデスがやってきた。
「姉上、御加減が悪いと聞き及んでいます。やはり人の体は脆いもの。冥界の空気が合わないのでしょう」
ベッドの横にある椅子に腰を掛け、ハーデスは万里亜の額に手を触れた。こちらに来るときに触れた弟神の手は温かく感じたが、今は少しだけ冷たく感じて心地良い。熱があるという事なのだろう。
「…一つ、策があります」
暫くの沈黙の後にハーデスが口を開いた。
「冥界の食物を召し上がりますか?」
「冥界の食物?」
反芻する万里亜に、ハーデスは表情を曇らせながら頷いた。
「そうすれば御身の物病みは癒えましょう…。実は、姉上が今まで召し上がってこられたものは全て地上から手に入れたものなのです」
「はあ…」
ハーデスの言わんとする事が理解できず困惑する。
「冥界で採れる物を姉上にお出しするわけにはいきませんでした。何故なら、それを口にしてしまえば…」
「しまえば?」
言葉に詰まったハーデスに、その先を言うよう促す。
「姉上を冥界の住人にしてしまいます。私は、それだけはするまいと…」
死の世界の神と恐れられる弟神が、良く整った美しい顔に苦渋の色を浮かべる。
「…冥闘士達にも、冥界の食べ物は一切口にさせていないのです。あれらは人間です。もしも冥界の物を食してしまえば、この世界に囚われるのは確実…」
「そう、ですか…」
弟神の心優しさに思わず驚かされた。彼は、己に仕える兵であるにも拘らず、冥闘士を完全に手駒とはせず地上で一人の人間として生きられる道を残していたのだ。
「姉上は神の魂を御身に宿しております。冥界の食物を召し上がったとしても、或いは地上で変わらずお過ごし頂けるやもしれません」
「…考える時間を下さい」
即答など出来ようもない。自分の一生を左右しかねない重大な事だ。
「無論でございます」
恭しく頭を垂れたハーデスは、万里亜の手の甲に口付をすると漆黒のローブを翻し部屋を出て行った。
それからも答えの出ないまま更に時間は経過していった。万里亜の体は冥界の瘴気に馴染むどころか、体力は更に奪われていき、今では女官に支えられないと歩くことも困難になってしまった。
『このままじゃだめだわ…』
このままではアフロディーテを助けるどころか共倒れになってしまう。それだけは、せめてアフロディーテだけは助けねばならない。
万里亜は、女官に冥界の食物を用意するように命じた。
それを聞かされたハーデスが駆け付けてきた。
「姉上、本当に宜しいのですか。地上で暮らせなくなるかもしれませんぞ」
「承知の上です。このままでは、私の体の方がもちません。それではここに来た意味もなくなってしまいます」
万里亜の答えにハーデスは息をついた。
「そうまでして、魚座の聖闘士をお助けになると仰いますか…」
「ええ」
小さく、しかしきっぱりと言い切った万里亜をハーデスは抱きしめた。
「万が一にも姉上が冥界に留まらざるを得なくなった時は、このハーデス、全力で姉上を御守り申し上げます」
「ありがとうハーデス…。私の大切な弟」
余り力の入らない両腕を、ハーデスの大きな背中に回す。万里亜はアフロディーテへの想いとは違った形の愛おしさをハーデスに感じていた。
弱った体に優しいものを、と料理人がスープを用意してくれた。どれが冥界産の物かは分からないが、スプーンに掬って一口飲むと体に沁み渡って行くのを感じる。
「おいしい…」
一匙また一匙と口に運び、少々時間は掛かったものの、全て飲み終えた。
『彼が助かるなら、一生会えなくても構わない』
その後、食欲は徐々に回復し体力も戻ってきた。そろそろ行動を開始しなければならない。
ヘスティアとして完全に覚醒してはいないが、ハーデスと共に過ごす時間が長い所為なのか、何かが変わってきている自分に気が付く。簡単に表現するなら安定感が増したというのだろうか。
以前、アイアコスから小宇宙にムラがあると指摘された。それは三巨頭を蘇らせた事実があるにも拘わらず、その後はその力の片鱗も見せられなかった為だ。
今は幾らかましになったようで、先日アイアコスに会った時は随分と驚かれた。「もう不埒な真似は出来ませんね」と笑って言った彼を、ラダマンティスが鬼の形相で何処ぞへ連れ去ったのはハーデスには内緒の話だ。
「さて、と。そろそろ行きますか」
自室で動きやすい服装に着替え、その上からマントを巻く。冥界に来てから外出の度にマントを巻いていたおかげで、最近はかなり様になってきた。
部屋を出ると、ジュデッカの奥を目指して歩いていく。シンとした廊下では、自身の息遣いが耳にうるさく響くき、強く脈打つ心臓は全身も振動させる。
やがて行き止まる。その目の前には壁しかなかった。
向かい合う死と眠りの二神のレリーフ。それが施されているのは巨大な壁だった。見上げても、上の方は暗くてどうなっているのかが分からない。
「…これが、嘆きの壁」
壁を握り拳で叩いてみるが、ペチペチと頼りない音がするだけだ。
この壁の向こうには神々の楽園、エリシオンが存在するという。神にしか立入る事は許されない至上の楽園。
果たしてこの壁を通り抜け、自分の今の力で楽園への道を渡っていけるのだろうか。
壁に当てていた手をぎゅっと握り締めると、俯いていた顔を上げる。
「出来るかどうかじゃない…。やらなくちゃいけないのよ…」
『思い出すのよ、ハーデスを生き返らせたときの、あの感覚を…』
目を閉じ深呼吸を繰り返し、目の前の壁に意識を集中させる。
「姉上!」
突如聞こえた声に集中が途切れた。
「ハーデス?」
振り返ると、そこには冥王と三巨頭が居並んでいた。
ハーデスは万里亜の前に歩み寄ると、自分の付けていた指輪を外して万里亜の手に握らせた。繊細な彫刻が施された、冥衣と同じ漆黒色の指輪だった。
「これは?」
「この指輪には私の力を封じ込めてあります。小さいものですが、姉上の御身を守ってくれるはずです。眠りの世界は、肉体と精神が切り離されます。剥き出しの精神が傷ついてしまえば、廃人同様となりましょう」
ハーデスを見上げると、そこにいるのは人々から恐ろしがられる冥界の王などではなく、ただ、最愛の姉の身を案じるばかりの健気な弟の姿だった。
「私は眠りの世界への干渉は出来ない身。それをしてしまえば、彼の世界が消滅します。ですが、人間の身を持つ姉上ならば上手くその世界へも入り込めるでしょう」
「ハーデス…」
「ミーノス、これへ参れ」
そう言われ、天貴星グリフォンのミーノスが進み出た。
「姉上の共にミーノスをお連れ下さい。お役に立つ事でしょう」
「でも、人間はエリシオンへの道は…」
神の道に立入った人間は消滅してしまうのではないのか。そう言おうとした万里亜を察して、ハーデスは大丈夫だと頷いた。
「ミーノスの体と冥衣に私の血液を付けておきました。それがミーノスを守ります。そしてその血印は、眠りの世界から戻るための道標にもなりましょう」
『なんて事…。私の我儘のために、こんなにもしてくれるなんて…』
両手で顔を覆うと万里亜は嗚咽を漏らした。
「姉上、無事の御帰還をお待ちしております」
「ありがとう…、ハーデス…」
弟に抱き付き、その胸に顔を埋めると優しい仕草で頭を撫でられた。それは万里亜の胸に滞っていた不安を消し去り、勇気を与えてくれるものだった。
涙を拭い顔を上げて笑顔を作る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
ハーデスが嘆きの壁に通り道を開けてくれた。貰った指輪を、元々着けていたネックレスに通しなくさないようにする。
そして万里亜とミーノスは、壁の向こうへと旅立った。
嘆きの壁の向こうには、次元の間が広がっていた。吸い込まれてしまいそうな闇が何処までも広がり、まるで宇宙空間にいるかのように錯覚する。
どの方角に進めば良いか、皆目見当がつかない。
「これでは、エリシオンが何処にあるか分からないわ…」
出鼻を挫かれるとはまさにこの事だ。だが横にいるミーノスは、全く問題ないといった素振りで万里亜の腕を掴んだ。
「ヘスティア様、私がお連れ致しましょう」
そう言うと、ミーノスは次元の闇に飛び立った。
グリフォンの羽根が力強く羽搏いた。
「えー!翔べるんですか!」
驚きの声を上げた万里亜をしっかりと抱きかかえると、ミーノスは口元だけで笑った。
「これが、ハーデス様のお力です」
次元の潮流に引き摺られそうになるが、グリフォンはそれに抗うだけのパワーを十分に備えていた。
「ヘスティア様、あそこに光が見えますか?あれがエリシオンの光です」
ミーノスが指した方に目をやると、冥界では見ることの出来なかった眩い輝きが視界に入った。
「あれがエリシオン…」
グリフォンは更に力強く羽搏いて、二人を真っ直ぐにエリシオンへと導いて行った。
闇の空間を抜けた先は余りにも眩しくて、薄暗さに馴染んだ目には痛みを感じる。ゆっくり瞼を開き、光に目を慣れさせる。
「ここがエリシオン…」
辺りを見回すと、まるで神話の時代に戻ったような美しい場所だった。
一面の草花はそよ風に揺られ、木々の梢からは鳥のさえずりが聞こえる。暖かい日差しは、生命の営みを祝福するかのように、遍く大地に降り注いでいる。
一度失われた楽園は、創造主によって再びその輝きを取り戻した。
「ミーノス、たぶんヒュプノス神殿は向こうです。あそこの丘を越えたあたり」
丘陵が続く先を指差し歩き出す万里亜の後を、ミーノスは黙って付いていく。エリシオンに入ってから、万里亜の小宇宙の輝きと強さが変化したのをミーノスは敏感に察知していた。
ハーデスを蘇らせたとき、万里亜からたしかに神を感じた。今はその時よりも一層の力強さを感じる。これなら、完全に覚醒するまでさほど時間はかからないだろう。
並んで歩いている万里亜を時々見ながら、ミーノスは思う。何故オリンポスの神がただ一人の人間にこれ程までに拘り、その身を削ってでも窮地から救い出そうとするのか。
彼は、自分が仕えているハーデスとは異なる思考をもつ女神に些か戸惑いを覚えるのだった。
丘の頂に辿り着くと、眼下に荘厳な神殿が見えた。万里亜はその神殿をミーノスに指し示して言った。
「あれがヒュプノス神殿です」
「な、なんと…。あれが、眠りの神ヒュプノス様の神殿…」
地上に現存するどの歴史的建造物よりも大きく美しく、冥界にあるどの宮殿よりも神々しい。そのスケールに、ミーノスはただ圧倒されるばかりだ。
「行きましょう」
神の記憶のなせる業なのか、万里亜は全く躊躇いもせずにヒュプノス神殿へ近づいていく。
神殿の入口に立つと、その大きさを体感する。万里亜は神殿に踏み込むと、ひたすらどこかを目指して歩いていく。回廊の分岐点でも一切立ち止まることなく、神殿の奥へ進んでいく。
やがて玉座の間に出た。主のいない玉座には冥衣だけが残されていた。
「あの冥衣が私達を眠りと夢の世界へ導いてくれます。ミーノス、共に行ってくれますか?」
「此処まで来たのです。どこへなりともお供致しましょう」
「ありがとう。では、共に参りましょう」
恭しく一礼をしたミーノスに微笑みかけると、万里亜は玉座への階段を一歩一歩上り始めた。
二人は眠りの神の冥衣の前に立った。
万里亜がミーノスの手を取り、もう一方の手でヒュプノスの冥衣に手を当てる。
煌めく白金の小宇宙を冥衣に吸収させるように解放すると、抗いがたい眠気に襲われ、眠りの世界へ誘われていく。
ミーノスが目を覚ますと、辺り一面乳白色の濃霧に覆われ、手を伸ばすと自分の指先すらも見る事が出来ない。
「ヘスティア様!」
呼びかけるが返事はない。
「ちっ…!こんなところで逸れてしまったか…!」
舌打ちするミーノス。しかし、小さく微かに呼びかける小宇宙がある事に気が付いた。
「…ノス、ミーノス…。私の小宇宙が分かりますか」
霧の向こうから呼びかけてくる小宇宙を探る。辺りは視界が利かないが、おかげではっきりと自分に向かって発せられる小宇宙の軌跡が見える。それは、まるで一筋の光の道のように、真っ直ぐに女神の居場所へと続いている。
光を辿り女神の小宇宙を感じる場所へ歩いていくと、唐突に霧が晴れ明るい場所に出た。
「これは…」
ミーノスは眼前に広がる真紅の薔薇園に息を呑んだ。
魔宮薔薇が行く手を阻むように遥か先まで咲き連なっていて、辺りは無数の薔薇の香気で紅く煙っている。
それはいつか何処かで目にした風景だった。
「前の聖戦か…」
僅かに残る先代の記憶に触れた瞬間、強い力で体が別の場所に引き摺られて行く。
「ミーノス!此方です」
名前を呼ばれたミーノスが声の方に目をやると、茨に取り囲まれた白亜の宮殿を見上げるように立っている万里亜の姿を見つけた。
「ヘスティア様ここは…?」
「双魚宮です」
双魚宮と言えば、魚座の聖闘士が守護する宮。アフロディーテはここにいるという事か…。
しかし、中に入ろうにも幾重にも重なった茨が侵入を拒んでいる。茨は柱という柱に絡み付き、床も天井もその色が見えなくなるほどに隙間なく広がっていた。
「お下がりくださいヘスティア様。こんな茨ごとき、このミーノスの技で吹き飛ばしてくれましょう」
ミーノスがギガンティックフェザースフラップを放つ体勢に入った時だった。
万里亜の腕がそれを制した。
「御待ちなさい、ミーノス。技を放てば彼を傷付けるかもしれません。ここは私に任せて下さい」
そう言った万里亜は両手を合わせると、そこに小宇宙を集中させた。
次に合わせた掌をゆっくり離してゆく。すると、何もなかった万里亜の右手から白金色のレイピアが徐々に引き出されてきた。柄には彼女の聖獣であるロバの頭部が、鍔には意匠化された炎が彫刻されていた。それはヘスティアを象徴するもので、まさにこのレイピアが、彼女をヘスティアであると証明するものだった。
「お下がりなさい」
万里亜がレイピアを一振りすると、絡み合っていた茨が一瞬で薙ぎ払われ、道が開けた。切り落とされた茨は次々と消え去っていく。
細身の剣がその何倍の太さもある茨の蔓を次々と切り払っていく様は、実に鮮やかだった。何一つ力を入れることなく、ただ空を切って行くだけで目の前に空間が出来上がっていくのだ。
やがて、切り払われた茨の向こうに小さな木戸が現れた。
「この扉の向こうにいるはずです」
そう言って木戸を開ける万里亜の手が、一瞬躊躇したのをミーノスは見逃さなかった。
ゆっくりと音も立てずに開く扉。その向こうには、綺麗に手入れされた庭があるはずだった。
「何なの…これは…」
双魚宮の花園でも、やはり茨の蔓が絡み合って大きな塊を形成していた。
万里亜はその塊の周囲をゆっくりと観察して回る。そしてある場所で息を呑んで立ち止まった。
「…見つけた」
ミーノスもそちらの方へ回り、万里亜の視線の先を追った。
「まさか!」
二人の視線の先には、茨に絡めとられたままで眠り続けるアフロディーテの姿があった。
「排除します」
再びレイピアを振るおうと構えた万里亜に向かって、茨が突如襲いかかってきた。
「危ない!」
ミーノスが咄嗟に万里亜を腕の中に庇った。硬質の物がぶつかり合う鈍い音が辺りに反響する。その音は途切れることなく万里亜の耳に届く。茨がミーノスの体を貫こうと攻撃をする音だった。
その振動も、ミーノスの体や腕から万里亜へと伝わる。
「くっ!」
ミーノスは歯を食いしばって茨の間断ない攻撃に耐えているが、このままでは冥衣を貫かれてしまうかもしれない。
「アフロディーテさん!止めて!」
茨に取り囲まれて眠るアフロディーテに向かって、万里亜は叫んだ。
一瞬攻撃が止んだ。その隙にミーノスの腕を振り解きレイピアを振るった。
ボトリ、ボトリと何本か蔓が地面に落ちたが、切断面からすぐに新しい茨が伸びてくる。もう一度薙ぎ払う。しかし茨はすぐに再生してくる。
「キリがないわ…。元を断たないと…」
二人は茨の出所を探す。
「ヘスティア様!上です!」
そう言ったミーノスが、一瞬のうちに万里亜を抱え翔んだ。
「まさか…そんな…」
上空で目にした茨の正体に万里亜は愕然とした。
「アミリア…!」
アミリアは、万里亜を見て低く笑った。
「貴女は馬鹿ね万里亜。彼は目覚めたくないのよ。私はそのお手伝いをしているだけ…。あちらを御覧なさい」
[#dc=3 #]が視線を向けた先には、双魚宮の薔薇園が何処までも広がっている。その向こうに二つの人影が見えた。
万里亜はその二つの影を知っていた。
「ヘスティア様!…あれは」
ミーノスの声に反応できない。万里亜は言葉を失っていた。膝が震えて今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「…どうしてなの?どうして…アフロディーテさん」
消え入りそうなくらいに小さく呟いた後に、腹の底から叫んだ。
「何でアルバフィカと私が一緒にいるのよ!!」
薔薇園の人影は、仲睦まじく寄り添いあうアルバフィカと万里亜の姿だった…。
ボロボロと涙を零し、万里亜はその場に座り込んだ。そして、両手で顔を覆い声を上げて泣き出した。
その姿を見た[#dc=3 #]は、クッと喉の奥で笑った。
「何故そんなに泣くのかしら?貴女、今でもアルバフィカの事が好きなくせに」
アミリアの言葉が胸に突き刺さる。
「…そんな事…」
「そんな事ない?アフロディーテの病室で童虎に話していたでしょう。アフロディーテにアルバフィカを重ねてしまうって。忘れたとは言わせないわ」
そうだ、そうだった。確かにそんな話をした記憶がある…。
「思い出したかしら?じゃあ、貴女方は現実世界へお帰りなさい。アフロディーテは二度と目を覚まさないわ」
「嘘よ!そんな事ない!」
「…万里亜、まだ分からないのかしら?貴女では無理なのよ。未だにアルバフィカを想っている貴女ではね」
万里亜はレイピアを握りしめた。
「違う!私は…私は…」
突然立ち上がると、アミリアの胸にレイピアを突き立てた。
「!!」
アミリアが驚きの表情をした。だがそれはほんの一瞬にも満たない間の事で、すぐに美しい女神に似つかわしくない冷酷な笑みに変貌した。
「これ以上の問答は無用です。聖闘士の夢に潜り込んできた薄汚い冥闘士諸共、消し去ってあげましょう。さあ、消え失せなさい!」
万里亜の持つ小宇宙以上に強大なアミリアの小宇宙が、ミーノスと万里亜を飲み込もうとする。抗おうとしても体が既に動かない。
『このままでは消滅させられる!?』
すると、アミリアの小宇宙に反応したかのように、万里亜の首に掛けられていたハーデスの指輪が黒く輝いた。
黒い光はアミリアの体を取り巻き、彼女の小宇宙を相殺していく。
「何をしたのです!お前達!」
ハーデスの小宇宙に触れたアミリアが苦しみだす。
「ヘスティア様、今のうちに魚座に絡んでいる茨を!!」
万里亜に向かってミーノスは叫んだ。
「は、はい!」
アミリアの体からレイピアを引き抜き、急いで握り直す。大きく振りかぶると全身の力を込めてレイピアを振り下ろした。
茨は次々と力を失って落下し煙のおうに消滅していく。指輪の効力があるうちにアフロディーテの精神を解放しなければならない。何重にも取り巻く茨を薙ぎ払い、漸くアフロディーテの体を引き摺り出せた。
ミーノスはアフロディーテを担ぎ、万里亜の腕を取った。そして双魚宮から急ぎ外へ出る。
背後からは蠢く茨が次々襲いかかってくるが、指輪の光が壁となり全ての攻撃を弾いてくれている。
「ヘスティア様、おつかまり下さい」
そう言われミーノスの体にしっかりと抱きいた。
グリフォンの冥衣が大きく羽を広げ、宙に舞い上がった。速度を上げて天まで上っていく。
双魚宮が遠ざかるにつれ、万里亜の意識は次第に薄らいでいった。
目を覚ますと、万里亜はヒュプノス神殿に戻っていた。隣に横たわっているのはミーノスだけで、アフロディーテの姿はなかった。
夢の世界から出た精神体は肉体に戻ったのだろうか。
「帰らなくちゃ…」
地上に戻ってアフロディーテの無事を確認したい。だが、その前に一つしておかなければならない事がある。
「『あれ』を持って行かないと」
神殿の周囲を歩いて『あれ』を探す。
「あった…」
万里亜は探していたそれを手に取った。そして、ミーノスのところへ急ぎ戻る。
「ミーノス、帰るわよ」
揺り起すと灰紫色の双眸が開いた。
「これは、ヘスティア様…」
「ね、急いで戻りましょう。私を聖域に連れて行ってくれる?」
焦る万里亜はミーノスの腕を引っ張り、立ち上がるよう催促した。
「お忘れですか?ヘスティア様は冥界の住人となられた身です。今の御身体で地上に出ては、陽の光に焼かれてしまいます」
そうだった…。この身は冥界の食物を食べて、地下世界の瘴気に馴染ませてしまった。
「焦らず一旦、冥界に戻りましょう。ハーデス様のお力添えを賜る事が可能かもしれません」
「…はい」
一刻も早く聖域へ行きたいが、今はハーデスのところへ戻るしかない。ミーノスが万里亜を抱えると再びグリフォンの羽が大きく羽ばたいた。
天高く上昇していくグリフォンの冥衣は、次第に発光を始めた。その光が空に亀裂を作り出し、その向こうに見え隠れする異次元空間へ導いていく。
嘆きの壁の前でハーデスが言っていた道標とはこの事だったのか。
次元の狭間を翔んでいくグリフォンは、ハーデスの加護から作り出された一筋の光を辿って冥界へ二人を連れていった。
出立の地だった嘆きの壁の前では、ハーデスが二人の帰還を待っていた。
「ハーデス、ただいま!」
「ただいま戻りました。ハーデス様」
無事に戻った二人を見て、ホッとした表情を浮かべたのを万里亜は見逃さなかった。
「心配掛けたみたいですね」
「…いえ、必ずお戻りくださると思っておりました」
無表情な神なのかと思っていたが、良く観察していると結構表情に現れるようだ。しかも何かにつけて姉である自分の身を案じてくれている。
「姉上、如何でしたか?」
「ええ、アフロディーテさんの精神体は解放出来たはずです。ただ、目覚めてくれたかどうか…」
かなり強引に精神体を夢世界から引き摺り出している。本体に何かの影響を及ぼしている可能性も否定出来なかった。
会いに行きたいが、果たしてこの体は地上に適応できるだろうか…。
「姉上、私が差し上げた指輪はまだお持ちですね?」
「え?ええ」
アミリアの攻撃から守ってくれた指輪はまだネックレスに掛かっている。
「それがあれば、地上でも数日であれば活動出来ましょう。どうぞ魚座にお会いなされませ。私は今しばらくお待ちしております」
「ありがとうハーデス…!」
そう礼を言うや否や、万里亜は急ぎ空間に通路を開いた。光溢れる空とアテナ像が向こうに見える。
「行ってきます」
見送るハーデスとミーノスに手を振って地上へ向かった。
万里亜が冥界に行ってから、既に数カ月が経過している。自分を信じてくれと笑顔を見せて女神は旅立ったが、未だにあの時と状況は変わらない。
「ヘスティア様は一体どうしていらっしゃるのか…」
指の上で器用にペンをクルクルと回しながらシオンは溜息をついていた。
このひと月余りシオンの執務は滞りがちで、補佐役のサガとアイオロスが頭を痛めている。
重厚な教皇用のデスクに突っ伏して、何度目かのため息をつこうと大きく息を吸い込んだ瞬間、背後にあるアテナ神殿に懐かしい小宇宙が満ちていくのを感じた。
「これは!」
シオンは勢いよく立ちあがると、法衣の裾を鬱陶しそうに捌きながらアテナ神殿へ駆けていった。
「教皇!」
やはり小宇宙を感じ取ったのだろうか、サガが後ろから追いかけてきた。
「この小宇宙は、もしや…」
「間違いない。漸く、漸くお戻りになられたのだ」
二人がアテナ神殿へと到着すると、そこには笑顔の万里亜が立っていた。
「お帰りなさいませ、ヘスティア様」
「無事の御帰還、何よりでございます」
跪く男たちの前に立つと、万里亜は二人に手を差し伸べた。
「遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
二人を立たせると万里亜は笑顔を深くする。それを見た二人の男は、明らかな雰囲気の違いを感じ取った。落ち着き払った優雅な物腰と喋り方、取り巻く小宇宙の圧倒的な雄大さ。
神が目覚めた─
日々の執務の合間に交代で病室に付き添うのもどのくらいになるか。季節は少しずつ移ろうのに、友人が目を覚ます日はまだ訪れない。
「こんなに痩せちまってなあ…。お前、いくらなんでも寝すぎだろうよ」
日差しが落とす陰影は、友人の痩せた顔をことさら強調してしまう。それが気に入らなくて、デスマスクは窓に掛かっているカーテンを乱暴に引いてみる。
「あいつも戻ってこねえしな…。今頃何やってんだか」
なあ、と振り返り友人の顔を見た。
「…え?」
ベッドの横たわったままの友人は、目を開けていた。
「おい、アフロディーテ?」
駆け寄って友人の名前を呼ぶ。しかし反応はない。体を揺すってみるが蒼い瞳は光を映しておらず、虚空を見詰めているだけだ。
「俺だよ、デスマスクだ!分かるか?」
何度呼び掛けても、頬を叩いてもこちらを見ようとしない。
「…んだよ!馬鹿野郎が…!」
デスマスクの声と、握り締めた拳は震えていた。
痩せて骨ばった友人の手を握り締めてはみたが、握り返される事もない。
虚しい気持ちでぼんやりと友人の顔を眺めていると、蒼い瞳が揺れたのに気が付いた。アフロディーテの目尻から涙が零れていた。
「アフロディーテ?」
形の良い唇が震えるように小さく動いた。声にならない声だったが、デスマスクはそれを聞き逃さなかった。
「…万里亜…」
デスマスクはその声に弾かれて病室を飛び出した。社会で許容される範囲での速さで、聖域を目指して走っていく。
『俺が冥界に行って、あいつを連れて来てやる!』
これ以上は待っていられなかった。友人を助けられるのは、あの出来損ないの女神しかいないのだ。
聖域近くまで来た時、目指す方角から大きな小宇宙が広がるのを感じた。アテナと同等か、それ以上の大きな小宇宙だ。
今、アテナは日本に帰っていて聖域にはいない。
「まさか!」
デスマスクは走るスピードを上げ、十二宮へと向かった。
教皇宮から急ぎ足で下りてくる小宇宙を感じる。デスマスクは十二宮の入口でその小宇宙の主を待つ。
やがて見えてきたその姿は、間違いなくあの女神だった。
「万里亜!おせーぞ!」
「デスマスクさん!」
久しぶりに見た万里亜は、初めて会った時の頼りなさはすっかり影を潜め、別人と思うほどに力強い小宇宙を身に付けて帰ってきた。
「あの…、アフロディーテさんの様子は?」
恐る恐るといった感じでデスマスクに尋ねるが、答えは返ってこない。
万里亜の胸に不安が広がる。
「とりあえず、ついて来い」
そう言ったデスマスクは、万里亜を連れて病院への道のりを無言で歩いた。
期待に高鳴る胸を抑えながら、アフロディーテの待つ病室へと急ぐ。
「入れ」
デスマスクに促されると、ドアの前で深呼吸をする。まず何と声をかけようか。「おはよう」では嫌味になってしまうか。「お帰りなさい」出掛けていた訳ではないのに、それはおかしくないだろうか?「会いたかった」ではまるで恋人同士の会話みたいで、この上なく恥ずかしい。
「お前さ、色々考えてないでまずは入れよ」
「あ、はい」
あれこれ考えていた事をすっかり見通されていた事が恥ずかしい。赤くなった顔を見られないように急いで病室へ入った。
「アフロディーテさん…」
体を起こしている姿を想像していたのに、アフロディーテはまだ臥せたままだ。
『そっか、ずっと眠ったままだったものね。体を起こすのもつらいんだわ』
ベッドへ静かに近付いていく。だが様子がおかしい。アフロディーテは、顔をこちらに向けようとさえしない。
「アフロディーテさん…?」
顔を覗き込んだ万里亜は息を呑んだ。アフロディーテは確かに目を開けていた。だが、その瞳には何も映っていなかった。光も闇も、何も映してはいなかった。
「…やっぱりダメなの…?」
夢から解放しても彼の心は閉ざされたままだった。やはり『あれ』を使うしか方法はないのだろうか。
『でも、今すぐには…』
「退院、しましょうか。双魚宮へ帰りましょう」
その提案に、デスマスクは異を唱えようとしなかった。
半ば強引に退院の手続きをし、アフロディーテを連れて聖域へ帰ってきた。
シオンやサガに叱られるかと思ったが、彼らは何も言わなかった。双魚宮でしばらくアフロディーテに付き添う事を話した時は、さすがに良い顔をされなかったが、どうしても傍にいたいからと頭を下げて頼みこんだ。渋々と了解をしたシオンだったが、夜は教皇宮の客間に戻って来る事を条件に提示した。
数日でまた冥界に戻らなければならない体。一時もアフロディーテと離れたくはなったが、夫婦でもない男女が閨を共にするなど、どう考えても認められるものではない。
聖域を束ねるシオンがそれを許すことは、立場上出来ない事も理解している。
だから万里亜はシオンの出した条件を了承した。
夢から醒めたことで、アフロディーテは体を動かすようになった。声をかければ、時間はかかるが整容するし、手を引いてやれば庭の散策もする。
だが、相変わらず彼の瞳は何も映していなかった。燦々と降り注ぐ陽光も、何処までも冴えわたる聖域の青い空も、庭の色鮮やかな花々も、そして万里亜の姿さえも。
デスマスクとシュラが、今週は教皇宮で執務だからと朝晩立ち寄って食事を一緒にしていく。デスマスクとシュラ、万里亜の三人でキッチンに立つと窮屈だが、四人で囲む食卓は随分と楽しい。
男たちは料理上手で、彼らの国の家庭料理を教えてくれる。少年の頃から親しかった三人は、それぞれがスイーツ好きだという意外すぎる情報も教えてくれた。
そうやって日々穏やかに過ぎる時間とは裏腹に、万里亜の体力は消耗の度を増していた。
『そろそろ時間切れね』
ハーデスの指輪は輝きを失い色褪せてきている。冥王から貰った加護の力も限界だ。今は、朝夕でも陽に当たると肌が焼かれるように痛い。一度冥界に帰ってしまえば、次はいつ地上に来られるか分からない。だからといって、アフロディーテをこのままにして行く訳にもいかない。
冷蔵庫にこっそり隠しておいた物を取り出してきた。
「出来れば使いたくなかったけれど…」
エリシオンのヒュプノス神殿から持ち帰った物。
ロトスの実─
その実を食べれば、心の憂いは消し去られ幸福に暮らせるという。
アフロディーテの記憶からアルバフィカを、アミリアを、万里亜を消去するには、この神の果物の力を借りるしかない。
今夜が最後の晩餐だ。
だが特別な事はしない。同じように三人で四人分の夕食を作って一緒に食事をする。
男たちに酌をし一日の労をねぎらう。食事が終わればデスマスク特製のドルチェを笑顔で食べる。
食後の片付けも三人で分担する。
「じゃあな」
「また明日な」
「ええ、おやすみなさい。また明日ね」
二人を見送り、変わらない別れの挨拶をする。明日がまた同じくあるようにと。
彼らを見送った後、アフロディーテの私室へと戻る。アフロディーテはソファに座って、相変わらず虚空を見つめている。その横に座り痩せた手を握る。
「ねえ、アフロディーテさん。アルバフィカとアミリアはもういないわ。貴方の記憶から、彼らも私もいなくなる。私達、今日で本当にお別れよ…」
万里亜はキッチンからロトスの実を取ってきて一口齧った。
そのままアフロディーテに口付けると、彼にその実を食べさせた。
これで明日の朝目覚めたときには、全てが元通りになっている…。
今夜には冥界に帰らなければならない、とシオンに告げた。
冥界の食物を口にした事で地上に長くはいられない事、次はいつ来られるか分からない事、そしてアフロディーテにロトスの実を食べさせた事も。
あの時と同じく、シオンは万里亜を抱き締め涙を零した。
「大丈夫よシオン。前とは違う。私は死なないわ。だからお願い、どうか泣かないで…」
幼い子供をあやすように広い背中を優しく撫でる。
「不思議だわ。また、貴方に見送られるのね」
冥界への扉を開きシオンを振り返る。
「ヘスティア様…。必ずお戻りください」
シオンの頬に流れる涙を指でそっと拭ってから、少し背伸びをして目尻に残る涙の痕に唇を触れた。
「ええ。また来るわね、シオン」
そう言って、万里亜は再び冥界へと帰って行った。
朝早くから友人二人が部屋に乱入して来て、勝手に朝食を作り始めた。誰がキッチンを使って良いと言った。
「おいアフロディーテ、起きれるか!?」
デスマスクが寝室にやってきて顔を覗き込んでくる。
「おお、今朝は顔色がいいじゃねえかよ。着替えたら顔洗って来いよ」
「ああ、わかっている…」
私が発したその一言に、デスマスクが目を見開いて口をパクパクさせていた。まるで化け物でも見るかのように人を見るんじゃない。それに、人を指差すのはマナー違反だぞ。
「…お前、今喋ったか…?」
「…?何だ、喋ってはいけなかったか?」
デスマスクはドタドタとキッチンの方へ走っていくと、シュラを連れてきた。
「アフロディーテ、シュラだぞ!分かるか!?」
「…お前、何の冗談だ?」
朝から騒々しいデスマスクに、私は若干イラつく。しかし、エプロンをしたシュラもまた、切れ長の目をこれでもかと見開いて驚愕の表情をしている。
『全く何なんだこいつらは』
呆れる私に構う事なく友人らは抱きあって喜んでいる。馬鹿二人は放っておいて、顔でも洗ってくるか。
ところが、ベッドから立ち上がろうとして自分の足元が酷くふらつく事に驚いた。
「お!危ねえ」
デスマスクが咄嗟に差し出した腕に掴まった。
「まだ力が出ないようだな。デスマスク、付いて行ってやれ」
何故こんなにも足に力が入らないのだ。十分に眠ったはずだが、体もだるい。
「誰だ、これは…!」
洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、私は愕然とした。
目は落ち窪み、頬はげっそりとこけている。肌は乾燥して唇も荒れてしまっている。
体をよく見ると、腕も足も筋肉が落ちてすっかり細くなっている。
「仕方ねえだろ。お前、何ヵ月だかなぁ…眠り姫だったんだぜ?」
「何ヵ月か…?眠っていた?」
一体どういう事だ?私は何故そんなに長い間眠っていたのだ…。
「おら、さっさと顔洗えよ」
混乱する私にデスマスクはタオルを放って寄越すと、洗面所から出て行った。
訳が分からないまま身支度を整えテーブルに着くと、すっかり朝食が出来上がっていた。
『四人分?』
今朝は解せない事ばかりが起きている。
「それにしても、万里亜は遅いな」
「あいつ寝坊してるんじゃねーの?」
「…万里亜#?誰のことだ?」
その一言に、友人達が同じタイミングで私の顔を見た。
私は何かおかしなことを言ってしまったのだろうか…?
「…アフロちゃん、お前何の冗談だ?それはさすがに笑えねぇぞ」
「そっちこそ一体何の冗談だ!朝から人をからかうのも大概にしろ!」
シュラが、口論になりそうだった私とデスマスクの間に割って入った。
「まずはメシを食え」
何が楽しくて、朝っぱらから男三人で食事をしなければならないのだ。
シュラの用意してくれた食事を黙々と食べる。味は美味いのだ。だが、何かが足りない感じがした。
とりあえず教皇宮へ行こうと言われ、それに従う事にした。黄金聖衣を装着してみたが、すっかり痩せてしまった体にはどうにも合わない。
魚座のマントを広げると、ふわり…と、私のものとは違う柑橘系の香りが鼻腔を擽った。どこかで嗅いだ事があるような香りに、何故か胸が痛んだ。
友人らに連れられて教皇宮まで上るが、さすがにこの階段はきつかった。双魚宮からのわずかな距離でも息が弾む。
教皇は私の姿を見て喜んでくれた。だが、妙な質問をされた。
「日本へ最後に行ったのはいつだ?」
「日本へ?」
最近訪日した記憶はない。そう返答すると、教皇は「そうか」とだけ言った。
「お前はまだ体調が整わないだろう。今は自宮で静養するが良い。今日はもう下がって良いぞ」
「は」
ここでも解せない事ばかりが起こる。執務のために登庁してきた同僚達が妙な事を言う。
どいつもこいつも「万里亜」と名を出してくる。
私はその名を知らないというのに。
いや、何故私だけが「万里亜」を知らないのだ…?
流石に顔を出さない事を心配したのだろうか、朝食の後にハーデスがやってきた。
「姉上、御加減が悪いと聞き及んでいます。やはり人の体は脆いもの。冥界の空気が合わないのでしょう」
ベッドの横にある椅子に腰を掛け、ハーデスは万里亜の額に手を触れた。こちらに来るときに触れた弟神の手は温かく感じたが、今は少しだけ冷たく感じて心地良い。熱があるという事なのだろう。
「…一つ、策があります」
暫くの沈黙の後にハーデスが口を開いた。
「冥界の食物を召し上がりますか?」
「冥界の食物?」
反芻する万里亜に、ハーデスは表情を曇らせながら頷いた。
「そうすれば御身の物病みは癒えましょう…。実は、姉上が今まで召し上がってこられたものは全て地上から手に入れたものなのです」
「はあ…」
ハーデスの言わんとする事が理解できず困惑する。
「冥界で採れる物を姉上にお出しするわけにはいきませんでした。何故なら、それを口にしてしまえば…」
「しまえば?」
言葉に詰まったハーデスに、その先を言うよう促す。
「姉上を冥界の住人にしてしまいます。私は、それだけはするまいと…」
死の世界の神と恐れられる弟神が、良く整った美しい顔に苦渋の色を浮かべる。
「…冥闘士達にも、冥界の食べ物は一切口にさせていないのです。あれらは人間です。もしも冥界の物を食してしまえば、この世界に囚われるのは確実…」
「そう、ですか…」
弟神の心優しさに思わず驚かされた。彼は、己に仕える兵であるにも拘らず、冥闘士を完全に手駒とはせず地上で一人の人間として生きられる道を残していたのだ。
「姉上は神の魂を御身に宿しております。冥界の食物を召し上がったとしても、或いは地上で変わらずお過ごし頂けるやもしれません」
「…考える時間を下さい」
即答など出来ようもない。自分の一生を左右しかねない重大な事だ。
「無論でございます」
恭しく頭を垂れたハーデスは、万里亜の手の甲に口付をすると漆黒のローブを翻し部屋を出て行った。
それからも答えの出ないまま更に時間は経過していった。万里亜の体は冥界の瘴気に馴染むどころか、体力は更に奪われていき、今では女官に支えられないと歩くことも困難になってしまった。
『このままじゃだめだわ…』
このままではアフロディーテを助けるどころか共倒れになってしまう。それだけは、せめてアフロディーテだけは助けねばならない。
万里亜は、女官に冥界の食物を用意するように命じた。
それを聞かされたハーデスが駆け付けてきた。
「姉上、本当に宜しいのですか。地上で暮らせなくなるかもしれませんぞ」
「承知の上です。このままでは、私の体の方がもちません。それではここに来た意味もなくなってしまいます」
万里亜の答えにハーデスは息をついた。
「そうまでして、魚座の聖闘士をお助けになると仰いますか…」
「ええ」
小さく、しかしきっぱりと言い切った万里亜をハーデスは抱きしめた。
「万が一にも姉上が冥界に留まらざるを得なくなった時は、このハーデス、全力で姉上を御守り申し上げます」
「ありがとうハーデス…。私の大切な弟」
余り力の入らない両腕を、ハーデスの大きな背中に回す。万里亜はアフロディーテへの想いとは違った形の愛おしさをハーデスに感じていた。
弱った体に優しいものを、と料理人がスープを用意してくれた。どれが冥界産の物かは分からないが、スプーンに掬って一口飲むと体に沁み渡って行くのを感じる。
「おいしい…」
一匙また一匙と口に運び、少々時間は掛かったものの、全て飲み終えた。
『彼が助かるなら、一生会えなくても構わない』
その後、食欲は徐々に回復し体力も戻ってきた。そろそろ行動を開始しなければならない。
ヘスティアとして完全に覚醒してはいないが、ハーデスと共に過ごす時間が長い所為なのか、何かが変わってきている自分に気が付く。簡単に表現するなら安定感が増したというのだろうか。
以前、アイアコスから小宇宙にムラがあると指摘された。それは三巨頭を蘇らせた事実があるにも拘わらず、その後はその力の片鱗も見せられなかった為だ。
今は幾らかましになったようで、先日アイアコスに会った時は随分と驚かれた。「もう不埒な真似は出来ませんね」と笑って言った彼を、ラダマンティスが鬼の形相で何処ぞへ連れ去ったのはハーデスには内緒の話だ。
「さて、と。そろそろ行きますか」
自室で動きやすい服装に着替え、その上からマントを巻く。冥界に来てから外出の度にマントを巻いていたおかげで、最近はかなり様になってきた。
部屋を出ると、ジュデッカの奥を目指して歩いていく。シンとした廊下では、自身の息遣いが耳にうるさく響くき、強く脈打つ心臓は全身も振動させる。
やがて行き止まる。その目の前には壁しかなかった。
向かい合う死と眠りの二神のレリーフ。それが施されているのは巨大な壁だった。見上げても、上の方は暗くてどうなっているのかが分からない。
「…これが、嘆きの壁」
壁を握り拳で叩いてみるが、ペチペチと頼りない音がするだけだ。
この壁の向こうには神々の楽園、エリシオンが存在するという。神にしか立入る事は許されない至上の楽園。
果たしてこの壁を通り抜け、自分の今の力で楽園への道を渡っていけるのだろうか。
壁に当てていた手をぎゅっと握り締めると、俯いていた顔を上げる。
「出来るかどうかじゃない…。やらなくちゃいけないのよ…」
『思い出すのよ、ハーデスを生き返らせたときの、あの感覚を…』
目を閉じ深呼吸を繰り返し、目の前の壁に意識を集中させる。
「姉上!」
突如聞こえた声に集中が途切れた。
「ハーデス?」
振り返ると、そこには冥王と三巨頭が居並んでいた。
ハーデスは万里亜の前に歩み寄ると、自分の付けていた指輪を外して万里亜の手に握らせた。繊細な彫刻が施された、冥衣と同じ漆黒色の指輪だった。
「これは?」
「この指輪には私の力を封じ込めてあります。小さいものですが、姉上の御身を守ってくれるはずです。眠りの世界は、肉体と精神が切り離されます。剥き出しの精神が傷ついてしまえば、廃人同様となりましょう」
ハーデスを見上げると、そこにいるのは人々から恐ろしがられる冥界の王などではなく、ただ、最愛の姉の身を案じるばかりの健気な弟の姿だった。
「私は眠りの世界への干渉は出来ない身。それをしてしまえば、彼の世界が消滅します。ですが、人間の身を持つ姉上ならば上手くその世界へも入り込めるでしょう」
「ハーデス…」
「ミーノス、これへ参れ」
そう言われ、天貴星グリフォンのミーノスが進み出た。
「姉上の共にミーノスをお連れ下さい。お役に立つ事でしょう」
「でも、人間はエリシオンへの道は…」
神の道に立入った人間は消滅してしまうのではないのか。そう言おうとした万里亜を察して、ハーデスは大丈夫だと頷いた。
「ミーノスの体と冥衣に私の血液を付けておきました。それがミーノスを守ります。そしてその血印は、眠りの世界から戻るための道標にもなりましょう」
『なんて事…。私の我儘のために、こんなにもしてくれるなんて…』
両手で顔を覆うと万里亜は嗚咽を漏らした。
「姉上、無事の御帰還をお待ちしております」
「ありがとう…、ハーデス…」
弟に抱き付き、その胸に顔を埋めると優しい仕草で頭を撫でられた。それは万里亜の胸に滞っていた不安を消し去り、勇気を与えてくれるものだった。
涙を拭い顔を上げて笑顔を作る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
ハーデスが嘆きの壁に通り道を開けてくれた。貰った指輪を、元々着けていたネックレスに通しなくさないようにする。
そして万里亜とミーノスは、壁の向こうへと旅立った。
嘆きの壁の向こうには、次元の間が広がっていた。吸い込まれてしまいそうな闇が何処までも広がり、まるで宇宙空間にいるかのように錯覚する。
どの方角に進めば良いか、皆目見当がつかない。
「これでは、エリシオンが何処にあるか分からないわ…」
出鼻を挫かれるとはまさにこの事だ。だが横にいるミーノスは、全く問題ないといった素振りで万里亜の腕を掴んだ。
「ヘスティア様、私がお連れ致しましょう」
そう言うと、ミーノスは次元の闇に飛び立った。
グリフォンの羽根が力強く羽搏いた。
「えー!翔べるんですか!」
驚きの声を上げた万里亜をしっかりと抱きかかえると、ミーノスは口元だけで笑った。
「これが、ハーデス様のお力です」
次元の潮流に引き摺られそうになるが、グリフォンはそれに抗うだけのパワーを十分に備えていた。
「ヘスティア様、あそこに光が見えますか?あれがエリシオンの光です」
ミーノスが指した方に目をやると、冥界では見ることの出来なかった眩い輝きが視界に入った。
「あれがエリシオン…」
グリフォンは更に力強く羽搏いて、二人を真っ直ぐにエリシオンへと導いて行った。
闇の空間を抜けた先は余りにも眩しくて、薄暗さに馴染んだ目には痛みを感じる。ゆっくり瞼を開き、光に目を慣れさせる。
「ここがエリシオン…」
辺りを見回すと、まるで神話の時代に戻ったような美しい場所だった。
一面の草花はそよ風に揺られ、木々の梢からは鳥のさえずりが聞こえる。暖かい日差しは、生命の営みを祝福するかのように、遍く大地に降り注いでいる。
一度失われた楽園は、創造主によって再びその輝きを取り戻した。
「ミーノス、たぶんヒュプノス神殿は向こうです。あそこの丘を越えたあたり」
丘陵が続く先を指差し歩き出す万里亜の後を、ミーノスは黙って付いていく。エリシオンに入ってから、万里亜の小宇宙の輝きと強さが変化したのをミーノスは敏感に察知していた。
ハーデスを蘇らせたとき、万里亜からたしかに神を感じた。今はその時よりも一層の力強さを感じる。これなら、完全に覚醒するまでさほど時間はかからないだろう。
並んで歩いている万里亜を時々見ながら、ミーノスは思う。何故オリンポスの神がただ一人の人間にこれ程までに拘り、その身を削ってでも窮地から救い出そうとするのか。
彼は、自分が仕えているハーデスとは異なる思考をもつ女神に些か戸惑いを覚えるのだった。
丘の頂に辿り着くと、眼下に荘厳な神殿が見えた。万里亜はその神殿をミーノスに指し示して言った。
「あれがヒュプノス神殿です」
「な、なんと…。あれが、眠りの神ヒュプノス様の神殿…」
地上に現存するどの歴史的建造物よりも大きく美しく、冥界にあるどの宮殿よりも神々しい。そのスケールに、ミーノスはただ圧倒されるばかりだ。
「行きましょう」
神の記憶のなせる業なのか、万里亜は全く躊躇いもせずにヒュプノス神殿へ近づいていく。
神殿の入口に立つと、その大きさを体感する。万里亜は神殿に踏み込むと、ひたすらどこかを目指して歩いていく。回廊の分岐点でも一切立ち止まることなく、神殿の奥へ進んでいく。
やがて玉座の間に出た。主のいない玉座には冥衣だけが残されていた。
「あの冥衣が私達を眠りと夢の世界へ導いてくれます。ミーノス、共に行ってくれますか?」
「此処まで来たのです。どこへなりともお供致しましょう」
「ありがとう。では、共に参りましょう」
恭しく一礼をしたミーノスに微笑みかけると、万里亜は玉座への階段を一歩一歩上り始めた。
二人は眠りの神の冥衣の前に立った。
万里亜がミーノスの手を取り、もう一方の手でヒュプノスの冥衣に手を当てる。
煌めく白金の小宇宙を冥衣に吸収させるように解放すると、抗いがたい眠気に襲われ、眠りの世界へ誘われていく。
ミーノスが目を覚ますと、辺り一面乳白色の濃霧に覆われ、手を伸ばすと自分の指先すらも見る事が出来ない。
「ヘスティア様!」
呼びかけるが返事はない。
「ちっ…!こんなところで逸れてしまったか…!」
舌打ちするミーノス。しかし、小さく微かに呼びかける小宇宙がある事に気が付いた。
「…ノス、ミーノス…。私の小宇宙が分かりますか」
霧の向こうから呼びかけてくる小宇宙を探る。辺りは視界が利かないが、おかげではっきりと自分に向かって発せられる小宇宙の軌跡が見える。それは、まるで一筋の光の道のように、真っ直ぐに女神の居場所へと続いている。
光を辿り女神の小宇宙を感じる場所へ歩いていくと、唐突に霧が晴れ明るい場所に出た。
「これは…」
ミーノスは眼前に広がる真紅の薔薇園に息を呑んだ。
魔宮薔薇が行く手を阻むように遥か先まで咲き連なっていて、辺りは無数の薔薇の香気で紅く煙っている。
それはいつか何処かで目にした風景だった。
「前の聖戦か…」
僅かに残る先代の記憶に触れた瞬間、強い力で体が別の場所に引き摺られて行く。
「ミーノス!此方です」
名前を呼ばれたミーノスが声の方に目をやると、茨に取り囲まれた白亜の宮殿を見上げるように立っている万里亜の姿を見つけた。
「ヘスティア様ここは…?」
「双魚宮です」
双魚宮と言えば、魚座の聖闘士が守護する宮。アフロディーテはここにいるという事か…。
しかし、中に入ろうにも幾重にも重なった茨が侵入を拒んでいる。茨は柱という柱に絡み付き、床も天井もその色が見えなくなるほどに隙間なく広がっていた。
「お下がりくださいヘスティア様。こんな茨ごとき、このミーノスの技で吹き飛ばしてくれましょう」
ミーノスがギガンティックフェザースフラップを放つ体勢に入った時だった。
万里亜の腕がそれを制した。
「御待ちなさい、ミーノス。技を放てば彼を傷付けるかもしれません。ここは私に任せて下さい」
そう言った万里亜は両手を合わせると、そこに小宇宙を集中させた。
次に合わせた掌をゆっくり離してゆく。すると、何もなかった万里亜の右手から白金色のレイピアが徐々に引き出されてきた。柄には彼女の聖獣であるロバの頭部が、鍔には意匠化された炎が彫刻されていた。それはヘスティアを象徴するもので、まさにこのレイピアが、彼女をヘスティアであると証明するものだった。
「お下がりなさい」
万里亜がレイピアを一振りすると、絡み合っていた茨が一瞬で薙ぎ払われ、道が開けた。切り落とされた茨は次々と消え去っていく。
細身の剣がその何倍の太さもある茨の蔓を次々と切り払っていく様は、実に鮮やかだった。何一つ力を入れることなく、ただ空を切って行くだけで目の前に空間が出来上がっていくのだ。
やがて、切り払われた茨の向こうに小さな木戸が現れた。
「この扉の向こうにいるはずです」
そう言って木戸を開ける万里亜の手が、一瞬躊躇したのをミーノスは見逃さなかった。
ゆっくりと音も立てずに開く扉。その向こうには、綺麗に手入れされた庭があるはずだった。
「何なの…これは…」
双魚宮の花園でも、やはり茨の蔓が絡み合って大きな塊を形成していた。
万里亜はその塊の周囲をゆっくりと観察して回る。そしてある場所で息を呑んで立ち止まった。
「…見つけた」
ミーノスもそちらの方へ回り、万里亜の視線の先を追った。
「まさか!」
二人の視線の先には、茨に絡めとられたままで眠り続けるアフロディーテの姿があった。
「排除します」
再びレイピアを振るおうと構えた万里亜に向かって、茨が突如襲いかかってきた。
「危ない!」
ミーノスが咄嗟に万里亜を腕の中に庇った。硬質の物がぶつかり合う鈍い音が辺りに反響する。その音は途切れることなく万里亜の耳に届く。茨がミーノスの体を貫こうと攻撃をする音だった。
その振動も、ミーノスの体や腕から万里亜へと伝わる。
「くっ!」
ミーノスは歯を食いしばって茨の間断ない攻撃に耐えているが、このままでは冥衣を貫かれてしまうかもしれない。
「アフロディーテさん!止めて!」
茨に取り囲まれて眠るアフロディーテに向かって、万里亜は叫んだ。
一瞬攻撃が止んだ。その隙にミーノスの腕を振り解きレイピアを振るった。
ボトリ、ボトリと何本か蔓が地面に落ちたが、切断面からすぐに新しい茨が伸びてくる。もう一度薙ぎ払う。しかし茨はすぐに再生してくる。
「キリがないわ…。元を断たないと…」
二人は茨の出所を探す。
「ヘスティア様!上です!」
そう言ったミーノスが、一瞬のうちに万里亜を抱え翔んだ。
「まさか…そんな…」
上空で目にした茨の正体に万里亜は愕然とした。
「アミリア…!」
アミリアは、万里亜を見て低く笑った。
「貴女は馬鹿ね万里亜。彼は目覚めたくないのよ。私はそのお手伝いをしているだけ…。あちらを御覧なさい」
[#dc=3 #]が視線を向けた先には、双魚宮の薔薇園が何処までも広がっている。その向こうに二つの人影が見えた。
万里亜はその二つの影を知っていた。
「ヘスティア様!…あれは」
ミーノスの声に反応できない。万里亜は言葉を失っていた。膝が震えて今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「…どうしてなの?どうして…アフロディーテさん」
消え入りそうなくらいに小さく呟いた後に、腹の底から叫んだ。
「何でアルバフィカと私が一緒にいるのよ!!」
薔薇園の人影は、仲睦まじく寄り添いあうアルバフィカと万里亜の姿だった…。
ボロボロと涙を零し、万里亜はその場に座り込んだ。そして、両手で顔を覆い声を上げて泣き出した。
その姿を見た[#dc=3 #]は、クッと喉の奥で笑った。
「何故そんなに泣くのかしら?貴女、今でもアルバフィカの事が好きなくせに」
アミリアの言葉が胸に突き刺さる。
「…そんな事…」
「そんな事ない?アフロディーテの病室で童虎に話していたでしょう。アフロディーテにアルバフィカを重ねてしまうって。忘れたとは言わせないわ」
そうだ、そうだった。確かにそんな話をした記憶がある…。
「思い出したかしら?じゃあ、貴女方は現実世界へお帰りなさい。アフロディーテは二度と目を覚まさないわ」
「嘘よ!そんな事ない!」
「…万里亜、まだ分からないのかしら?貴女では無理なのよ。未だにアルバフィカを想っている貴女ではね」
万里亜はレイピアを握りしめた。
「違う!私は…私は…」
突然立ち上がると、アミリアの胸にレイピアを突き立てた。
「!!」
アミリアが驚きの表情をした。だがそれはほんの一瞬にも満たない間の事で、すぐに美しい女神に似つかわしくない冷酷な笑みに変貌した。
「これ以上の問答は無用です。聖闘士の夢に潜り込んできた薄汚い冥闘士諸共、消し去ってあげましょう。さあ、消え失せなさい!」
万里亜の持つ小宇宙以上に強大なアミリアの小宇宙が、ミーノスと万里亜を飲み込もうとする。抗おうとしても体が既に動かない。
『このままでは消滅させられる!?』
すると、アミリアの小宇宙に反応したかのように、万里亜の首に掛けられていたハーデスの指輪が黒く輝いた。
黒い光はアミリアの体を取り巻き、彼女の小宇宙を相殺していく。
「何をしたのです!お前達!」
ハーデスの小宇宙に触れたアミリアが苦しみだす。
「ヘスティア様、今のうちに魚座に絡んでいる茨を!!」
万里亜に向かってミーノスは叫んだ。
「は、はい!」
アミリアの体からレイピアを引き抜き、急いで握り直す。大きく振りかぶると全身の力を込めてレイピアを振り下ろした。
茨は次々と力を失って落下し煙のおうに消滅していく。指輪の効力があるうちにアフロディーテの精神を解放しなければならない。何重にも取り巻く茨を薙ぎ払い、漸くアフロディーテの体を引き摺り出せた。
ミーノスはアフロディーテを担ぎ、万里亜の腕を取った。そして双魚宮から急ぎ外へ出る。
背後からは蠢く茨が次々襲いかかってくるが、指輪の光が壁となり全ての攻撃を弾いてくれている。
「ヘスティア様、おつかまり下さい」
そう言われミーノスの体にしっかりと抱きいた。
グリフォンの冥衣が大きく羽を広げ、宙に舞い上がった。速度を上げて天まで上っていく。
双魚宮が遠ざかるにつれ、万里亜の意識は次第に薄らいでいった。
目を覚ますと、万里亜はヒュプノス神殿に戻っていた。隣に横たわっているのはミーノスだけで、アフロディーテの姿はなかった。
夢の世界から出た精神体は肉体に戻ったのだろうか。
「帰らなくちゃ…」
地上に戻ってアフロディーテの無事を確認したい。だが、その前に一つしておかなければならない事がある。
「『あれ』を持って行かないと」
神殿の周囲を歩いて『あれ』を探す。
「あった…」
万里亜は探していたそれを手に取った。そして、ミーノスのところへ急ぎ戻る。
「ミーノス、帰るわよ」
揺り起すと灰紫色の双眸が開いた。
「これは、ヘスティア様…」
「ね、急いで戻りましょう。私を聖域に連れて行ってくれる?」
焦る万里亜はミーノスの腕を引っ張り、立ち上がるよう催促した。
「お忘れですか?ヘスティア様は冥界の住人となられた身です。今の御身体で地上に出ては、陽の光に焼かれてしまいます」
そうだった…。この身は冥界の食物を食べて、地下世界の瘴気に馴染ませてしまった。
「焦らず一旦、冥界に戻りましょう。ハーデス様のお力添えを賜る事が可能かもしれません」
「…はい」
一刻も早く聖域へ行きたいが、今はハーデスのところへ戻るしかない。ミーノスが万里亜を抱えると再びグリフォンの羽が大きく羽ばたいた。
天高く上昇していくグリフォンの冥衣は、次第に発光を始めた。その光が空に亀裂を作り出し、その向こうに見え隠れする異次元空間へ導いていく。
嘆きの壁の前でハーデスが言っていた道標とはこの事だったのか。
次元の狭間を翔んでいくグリフォンは、ハーデスの加護から作り出された一筋の光を辿って冥界へ二人を連れていった。
出立の地だった嘆きの壁の前では、ハーデスが二人の帰還を待っていた。
「ハーデス、ただいま!」
「ただいま戻りました。ハーデス様」
無事に戻った二人を見て、ホッとした表情を浮かべたのを万里亜は見逃さなかった。
「心配掛けたみたいですね」
「…いえ、必ずお戻りくださると思っておりました」
無表情な神なのかと思っていたが、良く観察していると結構表情に現れるようだ。しかも何かにつけて姉である自分の身を案じてくれている。
「姉上、如何でしたか?」
「ええ、アフロディーテさんの精神体は解放出来たはずです。ただ、目覚めてくれたかどうか…」
かなり強引に精神体を夢世界から引き摺り出している。本体に何かの影響を及ぼしている可能性も否定出来なかった。
会いに行きたいが、果たしてこの体は地上に適応できるだろうか…。
「姉上、私が差し上げた指輪はまだお持ちですね?」
「え?ええ」
アミリアの攻撃から守ってくれた指輪はまだネックレスに掛かっている。
「それがあれば、地上でも数日であれば活動出来ましょう。どうぞ魚座にお会いなされませ。私は今しばらくお待ちしております」
「ありがとうハーデス…!」
そう礼を言うや否や、万里亜は急ぎ空間に通路を開いた。光溢れる空とアテナ像が向こうに見える。
「行ってきます」
見送るハーデスとミーノスに手を振って地上へ向かった。
万里亜が冥界に行ってから、既に数カ月が経過している。自分を信じてくれと笑顔を見せて女神は旅立ったが、未だにあの時と状況は変わらない。
「ヘスティア様は一体どうしていらっしゃるのか…」
指の上で器用にペンをクルクルと回しながらシオンは溜息をついていた。
このひと月余りシオンの執務は滞りがちで、補佐役のサガとアイオロスが頭を痛めている。
重厚な教皇用のデスクに突っ伏して、何度目かのため息をつこうと大きく息を吸い込んだ瞬間、背後にあるアテナ神殿に懐かしい小宇宙が満ちていくのを感じた。
「これは!」
シオンは勢いよく立ちあがると、法衣の裾を鬱陶しそうに捌きながらアテナ神殿へ駆けていった。
「教皇!」
やはり小宇宙を感じ取ったのだろうか、サガが後ろから追いかけてきた。
「この小宇宙は、もしや…」
「間違いない。漸く、漸くお戻りになられたのだ」
二人がアテナ神殿へと到着すると、そこには笑顔の万里亜が立っていた。
「お帰りなさいませ、ヘスティア様」
「無事の御帰還、何よりでございます」
跪く男たちの前に立つと、万里亜は二人に手を差し伸べた。
「遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
二人を立たせると万里亜は笑顔を深くする。それを見た二人の男は、明らかな雰囲気の違いを感じ取った。落ち着き払った優雅な物腰と喋り方、取り巻く小宇宙の圧倒的な雄大さ。
神が目覚めた─
日々の執務の合間に交代で病室に付き添うのもどのくらいになるか。季節は少しずつ移ろうのに、友人が目を覚ます日はまだ訪れない。
「こんなに痩せちまってなあ…。お前、いくらなんでも寝すぎだろうよ」
日差しが落とす陰影は、友人の痩せた顔をことさら強調してしまう。それが気に入らなくて、デスマスクは窓に掛かっているカーテンを乱暴に引いてみる。
「あいつも戻ってこねえしな…。今頃何やってんだか」
なあ、と振り返り友人の顔を見た。
「…え?」
ベッドの横たわったままの友人は、目を開けていた。
「おい、アフロディーテ?」
駆け寄って友人の名前を呼ぶ。しかし反応はない。体を揺すってみるが蒼い瞳は光を映しておらず、虚空を見詰めているだけだ。
「俺だよ、デスマスクだ!分かるか?」
何度呼び掛けても、頬を叩いてもこちらを見ようとしない。
「…んだよ!馬鹿野郎が…!」
デスマスクの声と、握り締めた拳は震えていた。
痩せて骨ばった友人の手を握り締めてはみたが、握り返される事もない。
虚しい気持ちでぼんやりと友人の顔を眺めていると、蒼い瞳が揺れたのに気が付いた。アフロディーテの目尻から涙が零れていた。
「アフロディーテ?」
形の良い唇が震えるように小さく動いた。声にならない声だったが、デスマスクはそれを聞き逃さなかった。
「…万里亜…」
デスマスクはその声に弾かれて病室を飛び出した。社会で許容される範囲での速さで、聖域を目指して走っていく。
『俺が冥界に行って、あいつを連れて来てやる!』
これ以上は待っていられなかった。友人を助けられるのは、あの出来損ないの女神しかいないのだ。
聖域近くまで来た時、目指す方角から大きな小宇宙が広がるのを感じた。アテナと同等か、それ以上の大きな小宇宙だ。
今、アテナは日本に帰っていて聖域にはいない。
「まさか!」
デスマスクは走るスピードを上げ、十二宮へと向かった。
教皇宮から急ぎ足で下りてくる小宇宙を感じる。デスマスクは十二宮の入口でその小宇宙の主を待つ。
やがて見えてきたその姿は、間違いなくあの女神だった。
「万里亜!おせーぞ!」
「デスマスクさん!」
久しぶりに見た万里亜は、初めて会った時の頼りなさはすっかり影を潜め、別人と思うほどに力強い小宇宙を身に付けて帰ってきた。
「あの…、アフロディーテさんの様子は?」
恐る恐るといった感じでデスマスクに尋ねるが、答えは返ってこない。
万里亜の胸に不安が広がる。
「とりあえず、ついて来い」
そう言ったデスマスクは、万里亜を連れて病院への道のりを無言で歩いた。
期待に高鳴る胸を抑えながら、アフロディーテの待つ病室へと急ぐ。
「入れ」
デスマスクに促されると、ドアの前で深呼吸をする。まず何と声をかけようか。「おはよう」では嫌味になってしまうか。「お帰りなさい」出掛けていた訳ではないのに、それはおかしくないだろうか?「会いたかった」ではまるで恋人同士の会話みたいで、この上なく恥ずかしい。
「お前さ、色々考えてないでまずは入れよ」
「あ、はい」
あれこれ考えていた事をすっかり見通されていた事が恥ずかしい。赤くなった顔を見られないように急いで病室へ入った。
「アフロディーテさん…」
体を起こしている姿を想像していたのに、アフロディーテはまだ臥せたままだ。
『そっか、ずっと眠ったままだったものね。体を起こすのもつらいんだわ』
ベッドへ静かに近付いていく。だが様子がおかしい。アフロディーテは、顔をこちらに向けようとさえしない。
「アフロディーテさん…?」
顔を覗き込んだ万里亜は息を呑んだ。アフロディーテは確かに目を開けていた。だが、その瞳には何も映っていなかった。光も闇も、何も映してはいなかった。
「…やっぱりダメなの…?」
夢から解放しても彼の心は閉ざされたままだった。やはり『あれ』を使うしか方法はないのだろうか。
『でも、今すぐには…』
「退院、しましょうか。双魚宮へ帰りましょう」
その提案に、デスマスクは異を唱えようとしなかった。
半ば強引に退院の手続きをし、アフロディーテを連れて聖域へ帰ってきた。
シオンやサガに叱られるかと思ったが、彼らは何も言わなかった。双魚宮でしばらくアフロディーテに付き添う事を話した時は、さすがに良い顔をされなかったが、どうしても傍にいたいからと頭を下げて頼みこんだ。渋々と了解をしたシオンだったが、夜は教皇宮の客間に戻って来る事を条件に提示した。
数日でまた冥界に戻らなければならない体。一時もアフロディーテと離れたくはなったが、夫婦でもない男女が閨を共にするなど、どう考えても認められるものではない。
聖域を束ねるシオンがそれを許すことは、立場上出来ない事も理解している。
だから万里亜はシオンの出した条件を了承した。
夢から醒めたことで、アフロディーテは体を動かすようになった。声をかければ、時間はかかるが整容するし、手を引いてやれば庭の散策もする。
だが、相変わらず彼の瞳は何も映していなかった。燦々と降り注ぐ陽光も、何処までも冴えわたる聖域の青い空も、庭の色鮮やかな花々も、そして万里亜の姿さえも。
デスマスクとシュラが、今週は教皇宮で執務だからと朝晩立ち寄って食事を一緒にしていく。デスマスクとシュラ、万里亜の三人でキッチンに立つと窮屈だが、四人で囲む食卓は随分と楽しい。
男たちは料理上手で、彼らの国の家庭料理を教えてくれる。少年の頃から親しかった三人は、それぞれがスイーツ好きだという意外すぎる情報も教えてくれた。
そうやって日々穏やかに過ぎる時間とは裏腹に、万里亜の体力は消耗の度を増していた。
『そろそろ時間切れね』
ハーデスの指輪は輝きを失い色褪せてきている。冥王から貰った加護の力も限界だ。今は、朝夕でも陽に当たると肌が焼かれるように痛い。一度冥界に帰ってしまえば、次はいつ地上に来られるか分からない。だからといって、アフロディーテをこのままにして行く訳にもいかない。
冷蔵庫にこっそり隠しておいた物を取り出してきた。
「出来れば使いたくなかったけれど…」
エリシオンのヒュプノス神殿から持ち帰った物。
ロトスの実─
その実を食べれば、心の憂いは消し去られ幸福に暮らせるという。
アフロディーテの記憶からアルバフィカを、アミリアを、万里亜を消去するには、この神の果物の力を借りるしかない。
今夜が最後の晩餐だ。
だが特別な事はしない。同じように三人で四人分の夕食を作って一緒に食事をする。
男たちに酌をし一日の労をねぎらう。食事が終わればデスマスク特製のドルチェを笑顔で食べる。
食後の片付けも三人で分担する。
「じゃあな」
「また明日な」
「ええ、おやすみなさい。また明日ね」
二人を見送り、変わらない別れの挨拶をする。明日がまた同じくあるようにと。
彼らを見送った後、アフロディーテの私室へと戻る。アフロディーテはソファに座って、相変わらず虚空を見つめている。その横に座り痩せた手を握る。
「ねえ、アフロディーテさん。アルバフィカとアミリアはもういないわ。貴方の記憶から、彼らも私もいなくなる。私達、今日で本当にお別れよ…」
万里亜はキッチンからロトスの実を取ってきて一口齧った。
そのままアフロディーテに口付けると、彼にその実を食べさせた。
これで明日の朝目覚めたときには、全てが元通りになっている…。
今夜には冥界に帰らなければならない、とシオンに告げた。
冥界の食物を口にした事で地上に長くはいられない事、次はいつ来られるか分からない事、そしてアフロディーテにロトスの実を食べさせた事も。
あの時と同じく、シオンは万里亜を抱き締め涙を零した。
「大丈夫よシオン。前とは違う。私は死なないわ。だからお願い、どうか泣かないで…」
幼い子供をあやすように広い背中を優しく撫でる。
「不思議だわ。また、貴方に見送られるのね」
冥界への扉を開きシオンを振り返る。
「ヘスティア様…。必ずお戻りください」
シオンの頬に流れる涙を指でそっと拭ってから、少し背伸びをして目尻に残る涙の痕に唇を触れた。
「ええ。また来るわね、シオン」
そう言って、万里亜は再び冥界へと帰って行った。
朝早くから友人二人が部屋に乱入して来て、勝手に朝食を作り始めた。誰がキッチンを使って良いと言った。
「おいアフロディーテ、起きれるか!?」
デスマスクが寝室にやってきて顔を覗き込んでくる。
「おお、今朝は顔色がいいじゃねえかよ。着替えたら顔洗って来いよ」
「ああ、わかっている…」
私が発したその一言に、デスマスクが目を見開いて口をパクパクさせていた。まるで化け物でも見るかのように人を見るんじゃない。それに、人を指差すのはマナー違反だぞ。
「…お前、今喋ったか…?」
「…?何だ、喋ってはいけなかったか?」
デスマスクはドタドタとキッチンの方へ走っていくと、シュラを連れてきた。
「アフロディーテ、シュラだぞ!分かるか!?」
「…お前、何の冗談だ?」
朝から騒々しいデスマスクに、私は若干イラつく。しかし、エプロンをしたシュラもまた、切れ長の目をこれでもかと見開いて驚愕の表情をしている。
『全く何なんだこいつらは』
呆れる私に構う事なく友人らは抱きあって喜んでいる。馬鹿二人は放っておいて、顔でも洗ってくるか。
ところが、ベッドから立ち上がろうとして自分の足元が酷くふらつく事に驚いた。
「お!危ねえ」
デスマスクが咄嗟に差し出した腕に掴まった。
「まだ力が出ないようだな。デスマスク、付いて行ってやれ」
何故こんなにも足に力が入らないのだ。十分に眠ったはずだが、体もだるい。
「誰だ、これは…!」
洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、私は愕然とした。
目は落ち窪み、頬はげっそりとこけている。肌は乾燥して唇も荒れてしまっている。
体をよく見ると、腕も足も筋肉が落ちてすっかり細くなっている。
「仕方ねえだろ。お前、何ヵ月だかなぁ…眠り姫だったんだぜ?」
「何ヵ月か…?眠っていた?」
一体どういう事だ?私は何故そんなに長い間眠っていたのだ…。
「おら、さっさと顔洗えよ」
混乱する私にデスマスクはタオルを放って寄越すと、洗面所から出て行った。
訳が分からないまま身支度を整えテーブルに着くと、すっかり朝食が出来上がっていた。
『四人分?』
今朝は解せない事ばかりが起きている。
「それにしても、万里亜は遅いな」
「あいつ寝坊してるんじゃねーの?」
「…万里亜#?誰のことだ?」
その一言に、友人達が同じタイミングで私の顔を見た。
私は何かおかしなことを言ってしまったのだろうか…?
「…アフロちゃん、お前何の冗談だ?それはさすがに笑えねぇぞ」
「そっちこそ一体何の冗談だ!朝から人をからかうのも大概にしろ!」
シュラが、口論になりそうだった私とデスマスクの間に割って入った。
「まずはメシを食え」
何が楽しくて、朝っぱらから男三人で食事をしなければならないのだ。
シュラの用意してくれた食事を黙々と食べる。味は美味いのだ。だが、何かが足りない感じがした。
とりあえず教皇宮へ行こうと言われ、それに従う事にした。黄金聖衣を装着してみたが、すっかり痩せてしまった体にはどうにも合わない。
魚座のマントを広げると、ふわり…と、私のものとは違う柑橘系の香りが鼻腔を擽った。どこかで嗅いだ事があるような香りに、何故か胸が痛んだ。
友人らに連れられて教皇宮まで上るが、さすがにこの階段はきつかった。双魚宮からのわずかな距離でも息が弾む。
教皇は私の姿を見て喜んでくれた。だが、妙な質問をされた。
「日本へ最後に行ったのはいつだ?」
「日本へ?」
最近訪日した記憶はない。そう返答すると、教皇は「そうか」とだけ言った。
「お前はまだ体調が整わないだろう。今は自宮で静養するが良い。今日はもう下がって良いぞ」
「は」
ここでも解せない事ばかりが起こる。執務のために登庁してきた同僚達が妙な事を言う。
どいつもこいつも「万里亜」と名を出してくる。
私はその名を知らないというのに。
いや、何故私だけが「万里亜」を知らないのだ…?
