キオクノカケラ
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アフロディーテが目を覚ますまでの間、万里亜は聖域で暮らすことになった。最初に通された客間を自室にと与えられ、身の回りの世話は専属の女官がしてくれる事になった。
厄介になっているだけなのも心苦しいので、何か仕事をすると申し出たが、ギリシャ語はおろか、英語も片言しか話せないようでは役にも立たない。
『私、何のために此処にいるんだろう…』
一方のアフロディーテは、聖域近郊の病院に入院していた。
点滴を繋がれ、無機質な部屋の無機質なベッドに寝かされていた。病室には黄金聖闘士が毎日交代で付き添っている。
万里亜も毎日顔を出すが、人形の様に美しい寝顔に変化はない。
今日は天秤座の童虎が来ていた。
「童虎」
「おお、ヘスティア様」
「どうですか?」
「変わりませんな」
童虎の横に椅子を持っていき、並んで座る。
「少し、痩せたわね」
「そうですな」
243年前の聖戦の生き残りである童虎は、万里亜を知っている。勿論、彼女とアルバフィカの関係も、二人が子を成したことも。
「ねえ童虎、聞いてほしい事があるの。この前話せなかった事です」
「はい」
万里亜は躊躇いがちに話し始めた。冥界でアフロディーテから言われた言葉と、巨蟹宮で彼がうわごとで呼んだアミリアの名前。また、自分はアフロディーテが、未だにアミリアを想っているのではないかと考えている事。
そして、自分もアフロディーテにアルバフィカを重ねて見てしまっている事を。
「前世の記憶なんてなくて良かったのに…」
俯きそう呟く万里亜を、童虎は寂しそうに見つめる。
「ヘスティ…」
「その名で呼ばないで!」
下を向いたままで、童虎の言葉を遮る様に叫んだ#万里亜の声は、涙に震えていた。
「お願いよ…。私は、ヘスティアじゃないの。アミリアじゃないの…。私は…」
膝の上の両手をギュッと握りしめた。
「万里亜…」
童虎は万里亜の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「頼むから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。わしもシオンも243年前のわしらを知ってくれているお主らがいてくれるだけで、どれだけ救われるか。前世の記憶がなければ良かったなどと言わんでくれ」
涙を両目に溜めた万里亜が童虎の横顔を見つめる。
「…ごめんなさい、私…」
続ける言葉が見つからない。童虎もシオンも気の遠くなるほどの歳月を、中国とギリシャでそれぞれ過ごしてきたのだ。仕えていた女神を失い、共に闘った仲間を失い…。地上を守るために、次代の聖闘士を育てるために人並ならない時間を生き抜いてきた。
二人が抱えてきた孤独はどれほどのものだったのだろう。
人知れず涙を流した夜が幾晩あったのだろう。
自分だけがつらい思いをしたわけではない。
自分の心だけに悲しい記憶が刻まれているわけではない。
それらは十分理解しているが、今の自分は、過去の記憶と今の苦しみの全てを呑み込んで聖域で生きていけるほど、強くはない。
幼い頃から幾度も上った自宮への階段が、今日はやけに長く感じる。上に行くにつれて風が強くなり、マントがはためくバタバタという音が酷く煩く感じる。
『すごい風だ…』
柔らかい金髪は風に煽られ、時折視界を遮る。それを鬱陶しそうに抑えながら階段を上っていく。
漸く辿り着いた自宮には聞き覚えのある声が響いていた。
『庭の方か?』
双魚宮には手入れの行き届いた庭があり、そこには薔薇を中心に季節の花が何種類も咲いている。
普段はきっちり締めているはずの、庭に通じる木戸が半分ほど開いていた。
その木戸の向こうから聞こえるのは、鈴を転がすような女の声だ。何か愉しげに笑っている。
『何だ、ここにいたのか』
木戸を押し開けた向こうにいたのは、
「万里亜」
ずっと会いたかった女の名前を呼んだ。
名前を呼ばれ振り返った彼女は、何故か酷く怪訝そうな表情を見せる。
「万里亜、誰か来たの?」
庭に咲き誇る薔薇の向こうから男の声がした。
「ええ、貴方のお客様かしら?」
「私の?」
声の主が姿を見せた。しかし、それは絶対に有り得ない人物だった。
「アルバフィカ…!」
自分とよく似た顔の男。何故この男が万里亜と一緒にいるのだ。
「こちらの方はどなた?」
首を傾げてアルバフィカを見上げる万里亜に愕然とした。
何故万里亜は私を知らないのだ!?
「万里亜!」
アフロディーテは女に駆け寄ると、彼女の細い肩を掴んだ。
「私だ!アフロディーテだ!分からないのか!?」
知らずに手に力が入っていたらしく、万里亜の表情が痛みと恐怖で歪むのが分かった。
「万里亜から手を離せ」
その様子を見ていたアルバフィカが、怒りを含んだ声で静かに言った。
その声で我に返ったアフロディーテは、万里亜華奢な肩を掴んでいた手を離し「済まなかった」と謝る。
アルバフィカの後ろに逃げ隠れた万里亜は、酷く怯えた目でこちらを見ていた。
アフロディーテは一つ深呼吸をし、アルバフィカに尋ねた。
「何故万里亜と一緒に此処にいるんだ?」
「何故って…、私達は恋人だ。一緒にいてはいけないのか?」
「お前の恋人はアミリアだろう」
「万里亜はアミリアだ」
「違う!」
「違わないさ。お前だって分かっているはずだ」
アルバフィカは冷めた瞳で見詰め淡々と答える。
「万里亜が求めているのは私だ。お前ではないよ、アフロディーテ」
お前の出る幕などいつまで待ってもないんだよ。裏切り者のアフロディーテ。
「…アフロディーテさん」
いつの間にか万里亜が薔薇の花束を持って、目の前に立っている。
「これ、どうぞ」
そう差し出されたのは真紅の薔薇の花束だった。
「貴方に相応しいと思って…」
「…ありがとう」
幾らか戸惑いながら受け取った花束は、アフロディーテが触れた途端に次々と枯れてゆく。
「こ、これは…!?」
貴方には枯れた薔薇がよくお似合いよ。裏切り者の聖闘士さん。
アフロディーテは足元から世界が崩壊するのを感じた。体が奈落の底へ引き摺りこまれていく。
もう、私がいて良い場所など何処にもない…。
アフロディーテが目を覚まさないまま、時間ばかりが経過していった。
黄金聖闘士達は、三日後に迫った冥界との折衝の準備に追われ多忙を極めている。そんな彼等の負担を減らすため、病室には万里亜が付き添う事になった。
どうにか目を覚まして欲しいと、これまで様々な方策を試してきた。しかし哀しい事に、何をどうしてもアフロディーテは全く反応しなかった。
それでも何かをしたいという気持ちに変わりはなく、今日は髪を洗ってあげようと決めていた。万里亜は移動式の洗髪台を借りると、手早く準備を済ませた。
洗髪台にアフロディーテの頭を乗せ、シャワーで湯をかける。たっぷりと髪を濡らすと、シャンプーをバッグから取り出した。
先日、市街で見付けた薔薇の香りのシャンプーだ。オーガニック製品で値は張るが、アフロディーテにぴったりだと思って買ってみた。
良く泡立てて優しく洗っていると、立ち上る薔薇の芳香に心癒される。時間を掛けて丁寧に洗い終えると、トリートメントを付けてから少し時間を置いて濯いだ。
ドライヤーで乾かした後ブラッシングをすると、元々柔らかい金髪が更に柔らかくなり艶やかさを増した。
『うん、上出来だわ』
万里亜は仕上がりに満足し、上機嫌で片付けを始めた。
その姿を見つめる男がいる事に気付かずに。
病院に来る途中、ワゴン売りの花屋がいた。色とりどりの花がバケツに入っているのを見て思わず立ち止まった。
アフロディーテと花を結びつけて考えると、常に薔薇を連想する。今も病室には薔薇の花を活けている。
「たまには薔薇以外もいいわよね」
バケツの前にしゃがみ込んで、どの花にしようかとじっくり吟味していると、恰幅のいい花屋のおじさんが笑いながら話しかけてきた。
「随分熱心に見ているね、お嬢さん。贈り物かい?」
「え?あの、入院中の知人に持って行きたいな、と思って」
万里亜の言葉におじさんは大袈裟に驚いて見せた。
「おじさん、男の人にピンクのお花っておかしいかしら?」
「いや、おかしくないよ。恋人なのかい?その知人さんってのは」
おじさんは同情する風でもなく面白がる風でもなく、ごく自然に聞いてきた。
「…昔のね」
「ああ、こりゃ悪い事を聞いちゃったね。でも、随分と大切に思っているわけだ。その元恋人を」
「どうして?」
きょとんとしておじさんを見上げると、おじさんはでっぷりしたお腹を揺すって笑った。
「そんなに熱心に選んでるんだ。大切な人への贈りものだって事は、こんなおじさんにでも分かるさ」
おじさんの言葉に万里亜は顔が赤くなるのを感じた。
「はっはっは!あんたみたいな可愛らしいお嬢さんからそんなに想われているなんて、随分と幸せな男がいるもんだ」
冷やかされつつ選んだのは、濃淡のピンク色のガーベラにカスミソウを合わせたものだった。おじさんは「早く良くなるといいね」と言って、ガーベラを一輪おまけしてくれた。
「男の人の病室には、ちょっと可愛らしすぎたかしら…」
花を活けた小振りの花瓶を目の高さまで持ち上げて眺める。
「ピンクのガーベラの花言葉は、熱愛・崇高な愛。貴女が彼に贈るのに、これ程相応しい花はないでしょうね」
背後から突然聞こえた声に肩をビクッと震わせた。振り返った万里亜の手から花瓶が滑り落ちる。
「おっと」
声の主は素早い動きでその花瓶を受け止めた。
「折角の花が台無しになるところでした」
そう言って万里亜の方に花瓶を差し出した。
「…どうして、どうして貴方がここに…?」
花瓶を受け取りながら目の前の男を睨みつける。
「…ミーノス!」
何故この男が今此処にいる?
「何の用?折衝は三日後でしょう?」
「そんなに睨まないで下さい、姉神様。私は里帰りついでに立ち寄っただけです」
にっこりと笑ったミーノスは、冥界で会ったときと違い随分と爽やかに見え、万里亜は違和感と戸惑いを覚えた。
冥衣を着ていないからか、ここが陽の光溢れる地上だからなのか。それとも、そもそも冥界でもこうだったのか…。
「里帰り、ですか?」
この言葉がこれ程までに似合わない男は他にいないだろう。冥闘士にも帰る故郷があるのに驚いた。それは親兄弟がいるということなのだろう。
「何処に帰るんですか?」
「オスロです」
「ノルウェーの方なんですか?」
「ええ、ですからアフロディーテとはご近所さんみたいなものですね」
ニコニコしながら話すミーノスは、確かに全体的に色素が薄く北欧人っぽい。
「面会を許可していただけますか?姉神様」
警戒を解こうとしない万里亜に、ミーノスは困ったような笑顔を向ける。
「心配しないで下さい。害を加えに来たわけではありません」
「…本当ですか?」
「神に誓って」
「ハーデスに誓うんですか?」
ははっ、と声を上げて笑ったミーノスは胸に手を当てて深々と頭を下げた。
「では、貴女に誓いましょう。ヘスティア様」
病室にミーノスを連れて戻った。相変わらず眠ったままのアフロディーテを見ると、ミーノスは深くため息をついた。
「こんなに痩せ細ってしまって…」
暫く無言でアフロディーテを見下ろしていたミーノスは万里亜に向き直った。
「三日後の折衝の場に御同席頂けますか。姉神様」
「え…。私がですか?」
ミーノスは小さく頷いた。
「或いは、彼を目覚めさせる事が可能かもしれません」
「本当ですか!?」
「確約は出来ません。あくまでも可能性の話です」
それでも、少しでも彼が目覚める可能性があるなら今はそれに縋りたい。
「…分かりました。私も出席しましょう」
万里亜の答えにミーノスは満足そうに微笑んだ。
ミーノスを見送った後病室へ戻り、未だ目を覚まさないアフロディーテを見つめる。
ミーノスが言った事は本当だろうか。
冥闘士とは思えないほどの優しい瞳と小宇宙を持った銀髪の男は、ノルウェー土産にサーモンを買ってきてくれると言って立ち去った。
「私、大切な事が見えていないのかも…」
万里亜の事も、アルバフィカの事も、アフロディーテの事も。
首尾良く彼を目覚めさせる事が出来たら、その時はゆっくり話をしよう…。自分の気持ちを確かめるためにも。
陽が傾き病室に西日が当たる時間になった。万里亜はカーテンを閉めると、病室を後にした。
聖域に戻った万里亜は、沙織とシオンに今日の出来事を話した。
「…そうですか」
「ヘスティア様、所詮冥闘士の言う事。何処まで信用できるか分かりませんぞ」
案の定、二人はいい顔をしない。万が一にも自分に害が及ぶような事態にでもなれば、友好も何もあったものではない。
「お二人が心配されるのも無理はありません。ですが、ハーデスの姉である私に、あちらが害悪を及ぼすとは到底思えません。どうか同席することをお許し下さい」
頭を下げる万里亜を見て沙織は息をついた。
「分かりました。同席を許可致しましょう…」
「アテナ!」
驚き立ち上がるシオンを手で制した沙織は、続けて言った。
「但し、貴女の身の安全が最優先になります。場合によっては、あちらから何も引き出せない事も有り得ます。そこは了承下さい」
「はい。ありがとうございます」
万里亜はホッと胸をなでおろすと、再び沙織に頭を下げた。
冥界との協議は聖域内の大聖堂で行われることになっていた。
敵意がないことの証として、互いに聖衣冥衣は着用しない事を事前に通達してある。
冥衣がなければ、冥闘士は聖闘士ほどの戦闘能力を有しない。全ては冥衣の力に依るものであり、冥闘士自身に特殊能力が備わっているわけではないのだ。
しかも、冥衣には装着者の負の精神に強く働きかけ、より冷酷で残忍な性質の戦士に作り替える作用を持つ。
従って、冥衣を着用しないのであれば、冥闘士は邪悪な存在に変貌しないのだ。
開会の刻限よりだいぶ早く、冥王達は聖域に姿を見せた。
アテナ自らが案内に立ち、大聖堂内に賓客を招き入れた。議場は既に準備が整っている。聖闘士達は各々着席し、冥界側が入って来るのを待っていた。
万里亜も用意された自分の席に着いて、タブレット端末を片手に会議の資料を捲っている。女官や文官相手にギリシャ語や英語の勉強を日々続けており、かなり理解できるようになった。それでもこういった公文書となると、また言葉が難しい。
交渉事に自分が関わるわけではないが、全く知らないというのも問題がある。
『オンライン辞書ってほんと便利だわ』
見慣れない単語を辞書で検索し、資料に訳語を書き込む作業をひたすら続けている。
定刻となり、議長の宣言から会議が始まった。議長にはアスガルド国からオーディーンの地上代行者であるヒルダが招かれている。
議事は基本的にギリシャ語で進行される。
ヒルダはさすがに一国をを束ねているだけあって、議事進行に長けていた。
万里亜はこういう場はもっと紛糾するものだと思っていた。しかし、双方ともあくまでも冷静に落ち着いた態度で発言をしているし、強い口調で物申すような人もいない。
分からない言葉も多いが、会議自体の雰囲気は決し悪いものではないように感じる。
大抵の議題は滞りなく採決がなされ、協定は間もなく締結されようとしていた。
ところが、いざ調印と言う段になりそれまで一言も発する事のなかったハーデスが、挙手をし徐に口を開いた。
「アテナよ。友好条約を結ぶに当たり、こちらにも見返りを頂きたい」
「…何でしょうか」
ハーデスは万里亜の方に視線を向けた。
「我が姉、ヘスティアを冥界に頂きたい」
誰もが予想しなかった要求を突き付けられ、聖域側は絶句した。
睡魔に襲われかけていた万里亜も途端に目が覚めた。
「わ、私!?」
「姉上の聖火は聖域にも灯っておりましょう。ここに姉上の御身を留まらせておく必要はありません。一方で、我々の冥界は未だ廃墟となったままの個所も多く、真に復興させるためには姉上に御助力いただかなくてはなりません。冥界の安定は地上の安定。どうですか?この条件、呑んで頂けますかな?アテナよ」
沙織は拳を握りしめて、唇を噛んでいる。
「…それは、…出来ません」
「ならば、地上との友好などは有り得ない。交渉は決裂だ。それで宜しいな?」
聖域側の誰もが、余りの展開に言葉を失っていた。万里亜を人身御供にするなど、どうして出来ようか。
重苦しい空気が取り巻く中、場の沈黙を破ったのは万里亜だった。
「あの、私なら構いませんけど…」
議場の全員が、そして提案をした当のハーデスまでもがその言葉に驚いて万里亜を見た。
満場の視線を浴びた万里亜はやや緊張しながらも言葉を続けた。
「今の私に聖域でお手伝いできることは何もないと思うんです。それなら、冥界で復興のお手伝いとやらをしてみるのも悪くないのかな…と」
「ヘスティア様!本気で仰っているのですか!」
テーブルをバンと叩いてシオンが立ち上がった。万里亜はシオンに気圧されながらも負けじと声を張った。
「教皇様は聖域にとって、地上にとって何が一番大切なのかをお考え下さい。私がいなくとも私の炎が地上を守ります。それに、いずれアテナの御力も回復します。アテナ、御理解いただけますね?」
沙織の方を見ると、手元の書類にパタパタと涙が落ちているのに気が付いた。
「アテナ、姉上はこのように仰っている。後は貴女の胸先一つだ。如何する?」
「…承知しました。ハーデス、貴方の要求を受け入れましょう。但し、冥界が復興した暁には、ヘスティア様はこちらにお戻り頂けるように格別の御配慮を頂けますか?」
「…善処しましょう」
ヘスティアの冥界への移住とそこでの身の安全の保証、冥界復興後の地上への帰還を追加条項とし、友好条約は締結された。
実に後味の悪い閉会となった。閉会後の議場で万里亜はシオンから詰問されていた。
「一体どういうおつもりですか、ヘスティア様。冥界へ行くなどとは…。それがどういう意味かお分かりなのですか?それに、アフロディーテのことは如何なさるおつもりですか」
万里亜は、絶対に言われると思っていた言葉がシオンの口から次々と飛び出してくるのが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「何を御笑いになるのですか」
こういった性質は長年生きていても変わるものではないのか、彼の18歳という肉体年齢がそうさせているのかは分からないが、どうしても懐古せずにはいられなかった。
「教皇様、そんなに怒らないで下さい。大丈夫。私を信じて下さい」
何を根拠にかそう言った万里亜は、「荷物を纏めなくては」とさっさと立ち上がり一人で大聖堂を出て行った。
自室に戻り急いで荷造りをした。足りないものは後で送ってもらうなり届けてもらうなり、若しくは自分で取りに来るなりすれば良い。
元々それほど多くなかった私物を纏めるのに、時間はかからなかった。忘れ物がないか確認し、スーツケースとボストンバッグを持った万里亜はアテナ神殿へ向かった。
神殿に到着すると既にアテナの結界は解かれ、代わりにハーデスが冥界への入口を開けて待っていた。
「お待ちしておりましたぞ、姉上。さあ、我等と共においで下さい」
差し出された手に自分の手を重ねると、以外に温かい手で正直驚いた。荷物はラダマンティスが持ってくれた。
振り返ると沙織がしゃくりあげながら泣いており、シオンに宥められている。だが、そのシオンも今にも泣き出しそうな顔をしていた。
『また昔を思い出した。やっぱりあの子、今も変わらず泣き虫なんだわ…戦女神なのに』
思わず口元が緩んだ。聖域を離れるのは寂しいが、それを表情に出すとシオンまで泣いてしまいそうに思え、出来るだけ明るい笑顔と口調で聖闘士達に言葉をかけた。
「皆さん、短い間でしたけどお世話になりました。また、会いましょうね」
涙を流す者、顔を背ける者、反応はそれぞれだったが、誰も皆この状況を受け入れ難いと感じている事は分かる。
「姉上、宜しいか」
その声に万里亜は正面を向いた。
「はい」
「では、参りましょうぞ。我が世界へ」
ハーデスに手を取られ万里亜は冥界へ消えていった。
ハーデスに連れられて降り立った冥界は以前来た時同様、相変わらずの薄暗さだった。前回と異なるのは、亡者の呻き声が何処からともなく聞こえてくる事や、冥闘士の姿がちらほら見られる事だった。
コキュートスの厳しい寒さは少しも変わっていない。厚手の上着を羽織ってきたとはいえ、寒さを感じる。
「そうだ」
万里亜はスーツケースの中から、白い大きな布を取り出し体に巻きつけた。
「魚座の物ですか?」
ラダマンティスが訊いてきた。
「ええ、こっそり持ってきてしまいました」
前回冥界に来た時に、アフロディーテがこうしてマントを巻いてくれた。この温もりを忘れたくなかったのだ。
『絶対にアフロディーテさんを目覚めさせるんだから』
それが地上に残してきた唯一の心残りだった。
冥界での生活の拠点は、やはりジュデッカに置かれることになった。
与えられた部屋は十分すぎる広さがあり、上品な調度品が揃っていた。まさに女神に相応しい豪華な部屋に眩暈がする思いだ。
身辺の世話に数人の女官が付く事になった。
「姉上には、何一つ不自由のない生活をしていただけるように致します。御困り事がございましたら、なんなりとお申し付けください」
「ありがとうございます、冥王様」
深々と礼をするとハーデスは声を出して笑った。
「私は貴女の弟です。そのような礼は必要ありません。他の者にも示しが付きませんので、どうぞ女神らしく御振舞い下さい」
「あ、そうですね。気を付けます」
「では、ごゆるりとお過ごし下さい」
そう言うと、ハーデスはふわりと優しいハグをした。
「さて、と。こんなものかな」
荷解きを終えると万里亜は早速トロメアに向かった。どうしてもトロメアの主に確認しておかなければならい事があったのだ。
宮殿の入口に立っていた衛兵に「ミーノスに急ぎの用事がある」と伝えれば、丁重な扱いで応接室らしき部屋へ通された。
余り待たずに冥衣に身を包んだミーノスが応接室に現れた。やはり地上で会った彼とは雰囲気が異なる。冥衣がそうさせているのか、非常に冷たく威圧的な気配を漂わせていた。
「お呼び下さればジュデッカに参りましたが…」
「いいえ、一刻も早く知りたい事がありましたから」
ミーノスが口元を上げて笑う。
「…アフロディーテの事ですね」
「ええ。貴方は、私が会議に出れば彼を目覚めさせる事が可能かもしれないと言ったわ。それは、私がここに来る事で可能になるかもしれないという事だったのでしょう?」
「さすがヘスティア様。御察しが良いですね。その通りですよ」
何かを含んだような笑みを浮かべるミーノスからは、神である万里亜への敬意は少しも見られない。
「…確約は出来ない、とも申し上げました」
薄く笑うミーノスに背筋が寒くなる。
『…もしかして、謀られた?』
アフロディーテの事を餌に、いいようにおびき出されたのか。心の動揺を探られないように、万里亜は冷静を装う。
「では、あれはあくまで口実であったという事ですか?」
「そうは申し上げません。後の事は貴女次第なのですよ、ヘスティア様」
「…私次第?」
眉根を寄せ怪訝な表情を見せた万里亜を見て、ミーノスは肩を竦めた。
「そのように眉間にしわを寄せるものではありませんよ。花の顔 が台無しです」
その言葉に、万里亜は慌てて眉間のしわを指で伸ばす。その様子を見ると、ミーノスは愉快そうに声をたてて笑った。
「まずは、冥界に空気に馴染んで頂かなくてはなりません。いずれ時期が参ります。それまではご辛抱下さい」
それだけ言うとミーノスは「執務が溜まっておりますので」と言って、執務室へと戻って行った。
時期が来たら、とミーノスは言ったが一体どういう事なのだろう。
『一刻も早くアフロディーテさんを戻してあげたいのに…』
自室のベッドに寝転んで豪華な天蓋を見上げる。これからどうすれば良いか分からずに、ため息ばかりが出てしまう。
「ああ、もう!こんなところで考えていても仕方ないわ!」
万里亜は勢いよく起き上がりベッドから降りると、アフロディーテのマントをしっかり巻いてジュデッカを出た。
次に向かった先はアンティノーラだった。ここは天雄星ガルーダのアイアコスが治める宮殿だ。
「アイアコスさんは何か知っているかも」
コキュートスの凍っている地面は、うっかりすると足を滑らせてしまう。足元に注意を払いながらソロソロと歩いていると、背後から突然声を掛けられた。
「こんにちは」
「きゃあ!」
驚いた拍子に足を滑らせた。そのままの勢いで後ろにひっくり返りそうになった万里亜の背中を、大きな手がしっかりと支えた。
「危ね!」
「アイアコスさん」
振り返るとそこには、まさにこれから会いに行こうと思っていたアイアコスの顔があった。
「やあ、姉神様。何してるんですか?こんなところで」
冥衣を纏っているが、トロメアの主ほど邪悪な感じがしないのは何故だろう…。聖闘士であっても不思議はないこの爽やかさ。
「アイアコスさんに会いに来ました」
体を支えられたままそう言うと、アイアコスは少し驚いたように目を開いて、その後すぐに満面の笑顔を見せた。
「そいつは嬉しいですね。姉神様が直々にお出で下さるとは。でも、その可愛らしい靴でコキュートスを歩き回るのは感心しませんね。よくお似合いですけど、今みたいにすぐ足を滑らせますよ」
そう言ったアイアコスは万里亜の体を軽々と抱き上げた。
「キャ!」
突然の事で驚いてしまい思わず悲鳴を上げてしまった。
「今の『キャ!』てヤツ、すげえ可愛い」
万里亜の反応に満足したアイアコスは、彼女の体を抱えたままアンティノーラ内へスタスタ入って行った。
そのままアイアコスは執務室へ直行すると、柔らかいソファの上に万里亜をポンと座らせた。
「で、俺に何を訊きたいんですか?」
向かい側に座ったアイアコスは、ニコニコしながら質問してきた。
「えっと、単刀直入に言うと、眠ったまま目を覚まさないアフロディーテさんを助ける方法です」
「……俺は何も知りませんよ。残念ですが」
「そうですか…」
少し間が開いたので一瞬期待したが、アイアコスの返事に万里亜はがっくりと肩を落とした。
「でもね、姉神様」
間にあるテーブルに手を着き、そこを身軽に飛び越えたアイアコスは万里亜の横にストンと座った。そして、落胆した様子の万里亜の肩に腕を回し力強く抱き寄せた。
「魚座を忘れさせる方法なら知っていますよ」
耳元で囁くアイアコスの甘くて低い声に、背筋がゾクリとした。そのまま頬に口付けをされた。身を固くして抵抗するが、力でなど敵うはずがない。アイアコスはそのまま万里亜の体をソファに押し倒した。
『この人、こんなキャラだったのー!?』
手を出してこない分、ミーノスの方がどれだけマシだか知れない。身を捩って逃れようとするが、両手首を頭上で抑えつけられ振り解く事も出来ない。足をバタつかせるが、それも全くの無駄な抵抗だった。
触れ合ってしまいそうなほどの至近距離にアイアコスの凛々しい顔がある。叫び声を上げようにも喉が強張って声が出てこない。
「…や、やめて」
か細く震える声は、アイアコスの征服欲を更に掻き立てる。
「姉神様、いや万里亜。俺のモノになって…」
唇にアイアコスの吐息がかかる。
『もうダメ!アフロディーテさん助けて!』
ギュッと両目を瞑り、此処にはいない男に助けを求めた。
すると、ふっとアイアコスが体を離した気配がした。恐る恐る目を開けると、そこには必死に笑いを噛み殺すアイアコスの姿があった。一体何がどうなっているのか、万里亜は状況を呑み込めず混乱する。
「ごめん。あんたの反応が可愛かったから、つい…」
くっくっと肩を小刻みに震わせて笑いを堪えるアイアコスに、沸々と怒りが湧いてくる。
「ちょっと酷いじゃない!今の事ハーデスにちくってやるから!」
ハーデスの名を出されうろたえるアイアコス。
「え!それだけは勘弁して!俺、氷漬けにされた上にミーノスとラダに踏みつけられちゃうよ!」
「知らないわよ!」
両手を合わせて懇願するアイアコスを無視してアンティノーラを出て行こうとすると、彼に行く手を阻まれた。
「待てって。魚座の件、知りたいんだろ?」
「…さっき知らないって言ったじゃない」
じろりと睨んだが、アイアコスは真剣な表情だ。
「まあ、あれは嘘だ」
「嘘?」
「そう。あんたをからかう為に嘘をついた。申し訳なかった」
アイアコスは真っ直ぐに万里亜を見つめ頭を下げた。まだ腹の虫は納まりそうになかったが、今は少しでも手掛かりが欲しい。
「…では、教えて下さい」
そう言われたアイアコスはホッとしたように微笑むと、再び執務室へと万里亜を通した。
「ミーノスから、いずれ時期が来るのでそれまでに冥界の空気に体を慣らしておくように、と言われました」
今度こそ向かい合ってソファに座っているアイアコスは、腕組みをしながら万里亜の話を聞いていた。
「姉神様はお気付きじゃないと思いますがね、人間の体で冥界にいるには相当の小宇宙を消耗します。俺達冥闘士は、冥衣のおかげで冥界の瘴気に中てられる事はありません。だからここでの生活に支障はない。だけど姉神様はそうではないし、覚醒状態にムラが有りすぎます」
万里亜は痛いところを突かれたと思った。確かにアイアコスの言うとおりだ。
自分の内なる小宇宙は、まだ無限に広がるだろうことは感じ取っている。だが、それは何か殻のようなもので覆われていて孵化を待っているような状態に感じる。いつどうすれば殻を破れるのか、その時期も方法もまだ分からない。前回冥界に来た時に覚醒したと思ったヘスティアの自我は、その後また潜在化してしまった。結局万里亜は元の万里亜に戻ってしまったのだ。
完全に覚醒しなければ万事行動に移すのは難しいという事か…。
「さっきのアレもですね、本来なら、指一本使わずに人間の俺の事なんて吹き飛ばせるんですよ。神の力ってヤツで。でも、あれだけ危機的状況だったのに何も出来なかったでしょ?つまり、時期尚早って事です。姉神様は、まだ#万里亜ちゃんのままなんですよ」
自分でも認めたくない現実を突き付けられ、絶望感が広がる。
「では、私はどうしたら…」
「ミーノスの言ったとおりです。今後、覚醒が進んで冥界の空気に体が馴染めばこの世界の何処へでも行けますから。例えば…エリシオンへの道もです」
「エリシオン?」
アイアコスが頷く。
「人間には入れない神の楽園です。そこに眠りの神、ヒュプノス様がお住まいだった神殿があります。そこへ行く事が出来れば、もしかしたら魚座を目覚めさせる事が出来るかもしれません」
「神の楽園…」
話が壮大で俄かには信じ難いが、アイアコスが嘘をついたりからかっているとは思えなかった。そして、自分がその『神の楽園』に行けるような神の力を発揮できるとも到底思えなかった。
アイアコスに丁重に礼を言うと、万里亜は重い足取りでジュデッカに戻った。薄暗い神殿の中はそれだけで気が滅入ってしまう。
自室に入るとベッドに身を投げ出してマントに包まる。こうしてアフロディーテを感じていないと心が挫けそうだ。
『…私、これからどうしたらいいの?』
涙が一筋、頬を伝った─
厄介になっているだけなのも心苦しいので、何か仕事をすると申し出たが、ギリシャ語はおろか、英語も片言しか話せないようでは役にも立たない。
『私、何のために此処にいるんだろう…』
一方のアフロディーテは、聖域近郊の病院に入院していた。
点滴を繋がれ、無機質な部屋の無機質なベッドに寝かされていた。病室には黄金聖闘士が毎日交代で付き添っている。
万里亜も毎日顔を出すが、人形の様に美しい寝顔に変化はない。
今日は天秤座の童虎が来ていた。
「童虎」
「おお、ヘスティア様」
「どうですか?」
「変わりませんな」
童虎の横に椅子を持っていき、並んで座る。
「少し、痩せたわね」
「そうですな」
243年前の聖戦の生き残りである童虎は、万里亜を知っている。勿論、彼女とアルバフィカの関係も、二人が子を成したことも。
「ねえ童虎、聞いてほしい事があるの。この前話せなかった事です」
「はい」
万里亜は躊躇いがちに話し始めた。冥界でアフロディーテから言われた言葉と、巨蟹宮で彼がうわごとで呼んだアミリアの名前。また、自分はアフロディーテが、未だにアミリアを想っているのではないかと考えている事。
そして、自分もアフロディーテにアルバフィカを重ねて見てしまっている事を。
「前世の記憶なんてなくて良かったのに…」
俯きそう呟く万里亜を、童虎は寂しそうに見つめる。
「ヘスティ…」
「その名で呼ばないで!」
下を向いたままで、童虎の言葉を遮る様に叫んだ#万里亜の声は、涙に震えていた。
「お願いよ…。私は、ヘスティアじゃないの。アミリアじゃないの…。私は…」
膝の上の両手をギュッと握りしめた。
「万里亜…」
童虎は万里亜の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「頼むから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。わしもシオンも243年前のわしらを知ってくれているお主らがいてくれるだけで、どれだけ救われるか。前世の記憶がなければ良かったなどと言わんでくれ」
涙を両目に溜めた万里亜が童虎の横顔を見つめる。
「…ごめんなさい、私…」
続ける言葉が見つからない。童虎もシオンも気の遠くなるほどの歳月を、中国とギリシャでそれぞれ過ごしてきたのだ。仕えていた女神を失い、共に闘った仲間を失い…。地上を守るために、次代の聖闘士を育てるために人並ならない時間を生き抜いてきた。
二人が抱えてきた孤独はどれほどのものだったのだろう。
人知れず涙を流した夜が幾晩あったのだろう。
自分だけがつらい思いをしたわけではない。
自分の心だけに悲しい記憶が刻まれているわけではない。
それらは十分理解しているが、今の自分は、過去の記憶と今の苦しみの全てを呑み込んで聖域で生きていけるほど、強くはない。
幼い頃から幾度も上った自宮への階段が、今日はやけに長く感じる。上に行くにつれて風が強くなり、マントがはためくバタバタという音が酷く煩く感じる。
『すごい風だ…』
柔らかい金髪は風に煽られ、時折視界を遮る。それを鬱陶しそうに抑えながら階段を上っていく。
漸く辿り着いた自宮には聞き覚えのある声が響いていた。
『庭の方か?』
双魚宮には手入れの行き届いた庭があり、そこには薔薇を中心に季節の花が何種類も咲いている。
普段はきっちり締めているはずの、庭に通じる木戸が半分ほど開いていた。
その木戸の向こうから聞こえるのは、鈴を転がすような女の声だ。何か愉しげに笑っている。
『何だ、ここにいたのか』
木戸を押し開けた向こうにいたのは、
「万里亜」
ずっと会いたかった女の名前を呼んだ。
名前を呼ばれ振り返った彼女は、何故か酷く怪訝そうな表情を見せる。
「万里亜、誰か来たの?」
庭に咲き誇る薔薇の向こうから男の声がした。
「ええ、貴方のお客様かしら?」
「私の?」
声の主が姿を見せた。しかし、それは絶対に有り得ない人物だった。
「アルバフィカ…!」
自分とよく似た顔の男。何故この男が万里亜と一緒にいるのだ。
「こちらの方はどなた?」
首を傾げてアルバフィカを見上げる万里亜に愕然とした。
何故万里亜は私を知らないのだ!?
「万里亜!」
アフロディーテは女に駆け寄ると、彼女の細い肩を掴んだ。
「私だ!アフロディーテだ!分からないのか!?」
知らずに手に力が入っていたらしく、万里亜の表情が痛みと恐怖で歪むのが分かった。
「万里亜から手を離せ」
その様子を見ていたアルバフィカが、怒りを含んだ声で静かに言った。
その声で我に返ったアフロディーテは、万里亜華奢な肩を掴んでいた手を離し「済まなかった」と謝る。
アルバフィカの後ろに逃げ隠れた万里亜は、酷く怯えた目でこちらを見ていた。
アフロディーテは一つ深呼吸をし、アルバフィカに尋ねた。
「何故万里亜と一緒に此処にいるんだ?」
「何故って…、私達は恋人だ。一緒にいてはいけないのか?」
「お前の恋人はアミリアだろう」
「万里亜はアミリアだ」
「違う!」
「違わないさ。お前だって分かっているはずだ」
アルバフィカは冷めた瞳で見詰め淡々と答える。
「万里亜が求めているのは私だ。お前ではないよ、アフロディーテ」
お前の出る幕などいつまで待ってもないんだよ。裏切り者のアフロディーテ。
「…アフロディーテさん」
いつの間にか万里亜が薔薇の花束を持って、目の前に立っている。
「これ、どうぞ」
そう差し出されたのは真紅の薔薇の花束だった。
「貴方に相応しいと思って…」
「…ありがとう」
幾らか戸惑いながら受け取った花束は、アフロディーテが触れた途端に次々と枯れてゆく。
「こ、これは…!?」
貴方には枯れた薔薇がよくお似合いよ。裏切り者の聖闘士さん。
アフロディーテは足元から世界が崩壊するのを感じた。体が奈落の底へ引き摺りこまれていく。
もう、私がいて良い場所など何処にもない…。
アフロディーテが目を覚まさないまま、時間ばかりが経過していった。
黄金聖闘士達は、三日後に迫った冥界との折衝の準備に追われ多忙を極めている。そんな彼等の負担を減らすため、病室には万里亜が付き添う事になった。
どうにか目を覚まして欲しいと、これまで様々な方策を試してきた。しかし哀しい事に、何をどうしてもアフロディーテは全く反応しなかった。
それでも何かをしたいという気持ちに変わりはなく、今日は髪を洗ってあげようと決めていた。万里亜は移動式の洗髪台を借りると、手早く準備を済ませた。
洗髪台にアフロディーテの頭を乗せ、シャワーで湯をかける。たっぷりと髪を濡らすと、シャンプーをバッグから取り出した。
先日、市街で見付けた薔薇の香りのシャンプーだ。オーガニック製品で値は張るが、アフロディーテにぴったりだと思って買ってみた。
良く泡立てて優しく洗っていると、立ち上る薔薇の芳香に心癒される。時間を掛けて丁寧に洗い終えると、トリートメントを付けてから少し時間を置いて濯いだ。
ドライヤーで乾かした後ブラッシングをすると、元々柔らかい金髪が更に柔らかくなり艶やかさを増した。
『うん、上出来だわ』
万里亜は仕上がりに満足し、上機嫌で片付けを始めた。
その姿を見つめる男がいる事に気付かずに。
病院に来る途中、ワゴン売りの花屋がいた。色とりどりの花がバケツに入っているのを見て思わず立ち止まった。
アフロディーテと花を結びつけて考えると、常に薔薇を連想する。今も病室には薔薇の花を活けている。
「たまには薔薇以外もいいわよね」
バケツの前にしゃがみ込んで、どの花にしようかとじっくり吟味していると、恰幅のいい花屋のおじさんが笑いながら話しかけてきた。
「随分熱心に見ているね、お嬢さん。贈り物かい?」
「え?あの、入院中の知人に持って行きたいな、と思って」
万里亜の言葉におじさんは大袈裟に驚いて見せた。
「おじさん、男の人にピンクのお花っておかしいかしら?」
「いや、おかしくないよ。恋人なのかい?その知人さんってのは」
おじさんは同情する風でもなく面白がる風でもなく、ごく自然に聞いてきた。
「…昔のね」
「ああ、こりゃ悪い事を聞いちゃったね。でも、随分と大切に思っているわけだ。その元恋人を」
「どうして?」
きょとんとしておじさんを見上げると、おじさんはでっぷりしたお腹を揺すって笑った。
「そんなに熱心に選んでるんだ。大切な人への贈りものだって事は、こんなおじさんにでも分かるさ」
おじさんの言葉に万里亜は顔が赤くなるのを感じた。
「はっはっは!あんたみたいな可愛らしいお嬢さんからそんなに想われているなんて、随分と幸せな男がいるもんだ」
冷やかされつつ選んだのは、濃淡のピンク色のガーベラにカスミソウを合わせたものだった。おじさんは「早く良くなるといいね」と言って、ガーベラを一輪おまけしてくれた。
「男の人の病室には、ちょっと可愛らしすぎたかしら…」
花を活けた小振りの花瓶を目の高さまで持ち上げて眺める。
「ピンクのガーベラの花言葉は、熱愛・崇高な愛。貴女が彼に贈るのに、これ程相応しい花はないでしょうね」
背後から突然聞こえた声に肩をビクッと震わせた。振り返った万里亜の手から花瓶が滑り落ちる。
「おっと」
声の主は素早い動きでその花瓶を受け止めた。
「折角の花が台無しになるところでした」
そう言って万里亜の方に花瓶を差し出した。
「…どうして、どうして貴方がここに…?」
花瓶を受け取りながら目の前の男を睨みつける。
「…ミーノス!」
何故この男が今此処にいる?
「何の用?折衝は三日後でしょう?」
「そんなに睨まないで下さい、姉神様。私は里帰りついでに立ち寄っただけです」
にっこりと笑ったミーノスは、冥界で会ったときと違い随分と爽やかに見え、万里亜は違和感と戸惑いを覚えた。
冥衣を着ていないからか、ここが陽の光溢れる地上だからなのか。それとも、そもそも冥界でもこうだったのか…。
「里帰り、ですか?」
この言葉がこれ程までに似合わない男は他にいないだろう。冥闘士にも帰る故郷があるのに驚いた。それは親兄弟がいるということなのだろう。
「何処に帰るんですか?」
「オスロです」
「ノルウェーの方なんですか?」
「ええ、ですからアフロディーテとはご近所さんみたいなものですね」
ニコニコしながら話すミーノスは、確かに全体的に色素が薄く北欧人っぽい。
「面会を許可していただけますか?姉神様」
警戒を解こうとしない万里亜に、ミーノスは困ったような笑顔を向ける。
「心配しないで下さい。害を加えに来たわけではありません」
「…本当ですか?」
「神に誓って」
「ハーデスに誓うんですか?」
ははっ、と声を上げて笑ったミーノスは胸に手を当てて深々と頭を下げた。
「では、貴女に誓いましょう。ヘスティア様」
病室にミーノスを連れて戻った。相変わらず眠ったままのアフロディーテを見ると、ミーノスは深くため息をついた。
「こんなに痩せ細ってしまって…」
暫く無言でアフロディーテを見下ろしていたミーノスは万里亜に向き直った。
「三日後の折衝の場に御同席頂けますか。姉神様」
「え…。私がですか?」
ミーノスは小さく頷いた。
「或いは、彼を目覚めさせる事が可能かもしれません」
「本当ですか!?」
「確約は出来ません。あくまでも可能性の話です」
それでも、少しでも彼が目覚める可能性があるなら今はそれに縋りたい。
「…分かりました。私も出席しましょう」
万里亜の答えにミーノスは満足そうに微笑んだ。
ミーノスを見送った後病室へ戻り、未だ目を覚まさないアフロディーテを見つめる。
ミーノスが言った事は本当だろうか。
冥闘士とは思えないほどの優しい瞳と小宇宙を持った銀髪の男は、ノルウェー土産にサーモンを買ってきてくれると言って立ち去った。
「私、大切な事が見えていないのかも…」
万里亜の事も、アルバフィカの事も、アフロディーテの事も。
首尾良く彼を目覚めさせる事が出来たら、その時はゆっくり話をしよう…。自分の気持ちを確かめるためにも。
陽が傾き病室に西日が当たる時間になった。万里亜はカーテンを閉めると、病室を後にした。
聖域に戻った万里亜は、沙織とシオンに今日の出来事を話した。
「…そうですか」
「ヘスティア様、所詮冥闘士の言う事。何処まで信用できるか分かりませんぞ」
案の定、二人はいい顔をしない。万が一にも自分に害が及ぶような事態にでもなれば、友好も何もあったものではない。
「お二人が心配されるのも無理はありません。ですが、ハーデスの姉である私に、あちらが害悪を及ぼすとは到底思えません。どうか同席することをお許し下さい」
頭を下げる万里亜を見て沙織は息をついた。
「分かりました。同席を許可致しましょう…」
「アテナ!」
驚き立ち上がるシオンを手で制した沙織は、続けて言った。
「但し、貴女の身の安全が最優先になります。場合によっては、あちらから何も引き出せない事も有り得ます。そこは了承下さい」
「はい。ありがとうございます」
万里亜はホッと胸をなでおろすと、再び沙織に頭を下げた。
冥界との協議は聖域内の大聖堂で行われることになっていた。
敵意がないことの証として、互いに聖衣冥衣は着用しない事を事前に通達してある。
冥衣がなければ、冥闘士は聖闘士ほどの戦闘能力を有しない。全ては冥衣の力に依るものであり、冥闘士自身に特殊能力が備わっているわけではないのだ。
しかも、冥衣には装着者の負の精神に強く働きかけ、より冷酷で残忍な性質の戦士に作り替える作用を持つ。
従って、冥衣を着用しないのであれば、冥闘士は邪悪な存在に変貌しないのだ。
開会の刻限よりだいぶ早く、冥王達は聖域に姿を見せた。
アテナ自らが案内に立ち、大聖堂内に賓客を招き入れた。議場は既に準備が整っている。聖闘士達は各々着席し、冥界側が入って来るのを待っていた。
万里亜も用意された自分の席に着いて、タブレット端末を片手に会議の資料を捲っている。女官や文官相手にギリシャ語や英語の勉強を日々続けており、かなり理解できるようになった。それでもこういった公文書となると、また言葉が難しい。
交渉事に自分が関わるわけではないが、全く知らないというのも問題がある。
『オンライン辞書ってほんと便利だわ』
見慣れない単語を辞書で検索し、資料に訳語を書き込む作業をひたすら続けている。
定刻となり、議長の宣言から会議が始まった。議長にはアスガルド国からオーディーンの地上代行者であるヒルダが招かれている。
議事は基本的にギリシャ語で進行される。
ヒルダはさすがに一国をを束ねているだけあって、議事進行に長けていた。
万里亜はこういう場はもっと紛糾するものだと思っていた。しかし、双方ともあくまでも冷静に落ち着いた態度で発言をしているし、強い口調で物申すような人もいない。
分からない言葉も多いが、会議自体の雰囲気は決し悪いものではないように感じる。
大抵の議題は滞りなく採決がなされ、協定は間もなく締結されようとしていた。
ところが、いざ調印と言う段になりそれまで一言も発する事のなかったハーデスが、挙手をし徐に口を開いた。
「アテナよ。友好条約を結ぶに当たり、こちらにも見返りを頂きたい」
「…何でしょうか」
ハーデスは万里亜の方に視線を向けた。
「我が姉、ヘスティアを冥界に頂きたい」
誰もが予想しなかった要求を突き付けられ、聖域側は絶句した。
睡魔に襲われかけていた万里亜も途端に目が覚めた。
「わ、私!?」
「姉上の聖火は聖域にも灯っておりましょう。ここに姉上の御身を留まらせておく必要はありません。一方で、我々の冥界は未だ廃墟となったままの個所も多く、真に復興させるためには姉上に御助力いただかなくてはなりません。冥界の安定は地上の安定。どうですか?この条件、呑んで頂けますかな?アテナよ」
沙織は拳を握りしめて、唇を噛んでいる。
「…それは、…出来ません」
「ならば、地上との友好などは有り得ない。交渉は決裂だ。それで宜しいな?」
聖域側の誰もが、余りの展開に言葉を失っていた。万里亜を人身御供にするなど、どうして出来ようか。
重苦しい空気が取り巻く中、場の沈黙を破ったのは万里亜だった。
「あの、私なら構いませんけど…」
議場の全員が、そして提案をした当のハーデスまでもがその言葉に驚いて万里亜を見た。
満場の視線を浴びた万里亜はやや緊張しながらも言葉を続けた。
「今の私に聖域でお手伝いできることは何もないと思うんです。それなら、冥界で復興のお手伝いとやらをしてみるのも悪くないのかな…と」
「ヘスティア様!本気で仰っているのですか!」
テーブルをバンと叩いてシオンが立ち上がった。万里亜はシオンに気圧されながらも負けじと声を張った。
「教皇様は聖域にとって、地上にとって何が一番大切なのかをお考え下さい。私がいなくとも私の炎が地上を守ります。それに、いずれアテナの御力も回復します。アテナ、御理解いただけますね?」
沙織の方を見ると、手元の書類にパタパタと涙が落ちているのに気が付いた。
「アテナ、姉上はこのように仰っている。後は貴女の胸先一つだ。如何する?」
「…承知しました。ハーデス、貴方の要求を受け入れましょう。但し、冥界が復興した暁には、ヘスティア様はこちらにお戻り頂けるように格別の御配慮を頂けますか?」
「…善処しましょう」
ヘスティアの冥界への移住とそこでの身の安全の保証、冥界復興後の地上への帰還を追加条項とし、友好条約は締結された。
実に後味の悪い閉会となった。閉会後の議場で万里亜はシオンから詰問されていた。
「一体どういうおつもりですか、ヘスティア様。冥界へ行くなどとは…。それがどういう意味かお分かりなのですか?それに、アフロディーテのことは如何なさるおつもりですか」
万里亜は、絶対に言われると思っていた言葉がシオンの口から次々と飛び出してくるのが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「何を御笑いになるのですか」
こういった性質は長年生きていても変わるものではないのか、彼の18歳という肉体年齢がそうさせているのかは分からないが、どうしても懐古せずにはいられなかった。
「教皇様、そんなに怒らないで下さい。大丈夫。私を信じて下さい」
何を根拠にかそう言った万里亜は、「荷物を纏めなくては」とさっさと立ち上がり一人で大聖堂を出て行った。
自室に戻り急いで荷造りをした。足りないものは後で送ってもらうなり届けてもらうなり、若しくは自分で取りに来るなりすれば良い。
元々それほど多くなかった私物を纏めるのに、時間はかからなかった。忘れ物がないか確認し、スーツケースとボストンバッグを持った万里亜はアテナ神殿へ向かった。
神殿に到着すると既にアテナの結界は解かれ、代わりにハーデスが冥界への入口を開けて待っていた。
「お待ちしておりましたぞ、姉上。さあ、我等と共においで下さい」
差し出された手に自分の手を重ねると、以外に温かい手で正直驚いた。荷物はラダマンティスが持ってくれた。
振り返ると沙織がしゃくりあげながら泣いており、シオンに宥められている。だが、そのシオンも今にも泣き出しそうな顔をしていた。
『また昔を思い出した。やっぱりあの子、今も変わらず泣き虫なんだわ…戦女神なのに』
思わず口元が緩んだ。聖域を離れるのは寂しいが、それを表情に出すとシオンまで泣いてしまいそうに思え、出来るだけ明るい笑顔と口調で聖闘士達に言葉をかけた。
「皆さん、短い間でしたけどお世話になりました。また、会いましょうね」
涙を流す者、顔を背ける者、反応はそれぞれだったが、誰も皆この状況を受け入れ難いと感じている事は分かる。
「姉上、宜しいか」
その声に万里亜は正面を向いた。
「はい」
「では、参りましょうぞ。我が世界へ」
ハーデスに手を取られ万里亜は冥界へ消えていった。
ハーデスに連れられて降り立った冥界は以前来た時同様、相変わらずの薄暗さだった。前回と異なるのは、亡者の呻き声が何処からともなく聞こえてくる事や、冥闘士の姿がちらほら見られる事だった。
コキュートスの厳しい寒さは少しも変わっていない。厚手の上着を羽織ってきたとはいえ、寒さを感じる。
「そうだ」
万里亜はスーツケースの中から、白い大きな布を取り出し体に巻きつけた。
「魚座の物ですか?」
ラダマンティスが訊いてきた。
「ええ、こっそり持ってきてしまいました」
前回冥界に来た時に、アフロディーテがこうしてマントを巻いてくれた。この温もりを忘れたくなかったのだ。
『絶対にアフロディーテさんを目覚めさせるんだから』
それが地上に残してきた唯一の心残りだった。
冥界での生活の拠点は、やはりジュデッカに置かれることになった。
与えられた部屋は十分すぎる広さがあり、上品な調度品が揃っていた。まさに女神に相応しい豪華な部屋に眩暈がする思いだ。
身辺の世話に数人の女官が付く事になった。
「姉上には、何一つ不自由のない生活をしていただけるように致します。御困り事がございましたら、なんなりとお申し付けください」
「ありがとうございます、冥王様」
深々と礼をするとハーデスは声を出して笑った。
「私は貴女の弟です。そのような礼は必要ありません。他の者にも示しが付きませんので、どうぞ女神らしく御振舞い下さい」
「あ、そうですね。気を付けます」
「では、ごゆるりとお過ごし下さい」
そう言うと、ハーデスはふわりと優しいハグをした。
「さて、と。こんなものかな」
荷解きを終えると万里亜は早速トロメアに向かった。どうしてもトロメアの主に確認しておかなければならい事があったのだ。
宮殿の入口に立っていた衛兵に「ミーノスに急ぎの用事がある」と伝えれば、丁重な扱いで応接室らしき部屋へ通された。
余り待たずに冥衣に身を包んだミーノスが応接室に現れた。やはり地上で会った彼とは雰囲気が異なる。冥衣がそうさせているのか、非常に冷たく威圧的な気配を漂わせていた。
「お呼び下さればジュデッカに参りましたが…」
「いいえ、一刻も早く知りたい事がありましたから」
ミーノスが口元を上げて笑う。
「…アフロディーテの事ですね」
「ええ。貴方は、私が会議に出れば彼を目覚めさせる事が可能かもしれないと言ったわ。それは、私がここに来る事で可能になるかもしれないという事だったのでしょう?」
「さすがヘスティア様。御察しが良いですね。その通りですよ」
何かを含んだような笑みを浮かべるミーノスからは、神である万里亜への敬意は少しも見られない。
「…確約は出来ない、とも申し上げました」
薄く笑うミーノスに背筋が寒くなる。
『…もしかして、謀られた?』
アフロディーテの事を餌に、いいようにおびき出されたのか。心の動揺を探られないように、万里亜は冷静を装う。
「では、あれはあくまで口実であったという事ですか?」
「そうは申し上げません。後の事は貴女次第なのですよ、ヘスティア様」
「…私次第?」
眉根を寄せ怪訝な表情を見せた万里亜を見て、ミーノスは肩を竦めた。
「そのように眉間にしわを寄せるものではありませんよ。花の
その言葉に、万里亜は慌てて眉間のしわを指で伸ばす。その様子を見ると、ミーノスは愉快そうに声をたてて笑った。
「まずは、冥界に空気に馴染んで頂かなくてはなりません。いずれ時期が参ります。それまではご辛抱下さい」
それだけ言うとミーノスは「執務が溜まっておりますので」と言って、執務室へと戻って行った。
時期が来たら、とミーノスは言ったが一体どういう事なのだろう。
『一刻も早くアフロディーテさんを戻してあげたいのに…』
自室のベッドに寝転んで豪華な天蓋を見上げる。これからどうすれば良いか分からずに、ため息ばかりが出てしまう。
「ああ、もう!こんなところで考えていても仕方ないわ!」
万里亜は勢いよく起き上がりベッドから降りると、アフロディーテのマントをしっかり巻いてジュデッカを出た。
次に向かった先はアンティノーラだった。ここは天雄星ガルーダのアイアコスが治める宮殿だ。
「アイアコスさんは何か知っているかも」
コキュートスの凍っている地面は、うっかりすると足を滑らせてしまう。足元に注意を払いながらソロソロと歩いていると、背後から突然声を掛けられた。
「こんにちは」
「きゃあ!」
驚いた拍子に足を滑らせた。そのままの勢いで後ろにひっくり返りそうになった万里亜の背中を、大きな手がしっかりと支えた。
「危ね!」
「アイアコスさん」
振り返るとそこには、まさにこれから会いに行こうと思っていたアイアコスの顔があった。
「やあ、姉神様。何してるんですか?こんなところで」
冥衣を纏っているが、トロメアの主ほど邪悪な感じがしないのは何故だろう…。聖闘士であっても不思議はないこの爽やかさ。
「アイアコスさんに会いに来ました」
体を支えられたままそう言うと、アイアコスは少し驚いたように目を開いて、その後すぐに満面の笑顔を見せた。
「そいつは嬉しいですね。姉神様が直々にお出で下さるとは。でも、その可愛らしい靴でコキュートスを歩き回るのは感心しませんね。よくお似合いですけど、今みたいにすぐ足を滑らせますよ」
そう言ったアイアコスは万里亜の体を軽々と抱き上げた。
「キャ!」
突然の事で驚いてしまい思わず悲鳴を上げてしまった。
「今の『キャ!』てヤツ、すげえ可愛い」
万里亜の反応に満足したアイアコスは、彼女の体を抱えたままアンティノーラ内へスタスタ入って行った。
そのままアイアコスは執務室へ直行すると、柔らかいソファの上に万里亜をポンと座らせた。
「で、俺に何を訊きたいんですか?」
向かい側に座ったアイアコスは、ニコニコしながら質問してきた。
「えっと、単刀直入に言うと、眠ったまま目を覚まさないアフロディーテさんを助ける方法です」
「……俺は何も知りませんよ。残念ですが」
「そうですか…」
少し間が開いたので一瞬期待したが、アイアコスの返事に万里亜はがっくりと肩を落とした。
「でもね、姉神様」
間にあるテーブルに手を着き、そこを身軽に飛び越えたアイアコスは万里亜の横にストンと座った。そして、落胆した様子の万里亜の肩に腕を回し力強く抱き寄せた。
「魚座を忘れさせる方法なら知っていますよ」
耳元で囁くアイアコスの甘くて低い声に、背筋がゾクリとした。そのまま頬に口付けをされた。身を固くして抵抗するが、力でなど敵うはずがない。アイアコスはそのまま万里亜の体をソファに押し倒した。
『この人、こんなキャラだったのー!?』
手を出してこない分、ミーノスの方がどれだけマシだか知れない。身を捩って逃れようとするが、両手首を頭上で抑えつけられ振り解く事も出来ない。足をバタつかせるが、それも全くの無駄な抵抗だった。
触れ合ってしまいそうなほどの至近距離にアイアコスの凛々しい顔がある。叫び声を上げようにも喉が強張って声が出てこない。
「…や、やめて」
か細く震える声は、アイアコスの征服欲を更に掻き立てる。
「姉神様、いや万里亜。俺のモノになって…」
唇にアイアコスの吐息がかかる。
『もうダメ!アフロディーテさん助けて!』
ギュッと両目を瞑り、此処にはいない男に助けを求めた。
すると、ふっとアイアコスが体を離した気配がした。恐る恐る目を開けると、そこには必死に笑いを噛み殺すアイアコスの姿があった。一体何がどうなっているのか、万里亜は状況を呑み込めず混乱する。
「ごめん。あんたの反応が可愛かったから、つい…」
くっくっと肩を小刻みに震わせて笑いを堪えるアイアコスに、沸々と怒りが湧いてくる。
「ちょっと酷いじゃない!今の事ハーデスにちくってやるから!」
ハーデスの名を出されうろたえるアイアコス。
「え!それだけは勘弁して!俺、氷漬けにされた上にミーノスとラダに踏みつけられちゃうよ!」
「知らないわよ!」
両手を合わせて懇願するアイアコスを無視してアンティノーラを出て行こうとすると、彼に行く手を阻まれた。
「待てって。魚座の件、知りたいんだろ?」
「…さっき知らないって言ったじゃない」
じろりと睨んだが、アイアコスは真剣な表情だ。
「まあ、あれは嘘だ」
「嘘?」
「そう。あんたをからかう為に嘘をついた。申し訳なかった」
アイアコスは真っ直ぐに万里亜を見つめ頭を下げた。まだ腹の虫は納まりそうになかったが、今は少しでも手掛かりが欲しい。
「…では、教えて下さい」
そう言われたアイアコスはホッとしたように微笑むと、再び執務室へと万里亜を通した。
「ミーノスから、いずれ時期が来るのでそれまでに冥界の空気に体を慣らしておくように、と言われました」
今度こそ向かい合ってソファに座っているアイアコスは、腕組みをしながら万里亜の話を聞いていた。
「姉神様はお気付きじゃないと思いますがね、人間の体で冥界にいるには相当の小宇宙を消耗します。俺達冥闘士は、冥衣のおかげで冥界の瘴気に中てられる事はありません。だからここでの生活に支障はない。だけど姉神様はそうではないし、覚醒状態にムラが有りすぎます」
万里亜は痛いところを突かれたと思った。確かにアイアコスの言うとおりだ。
自分の内なる小宇宙は、まだ無限に広がるだろうことは感じ取っている。だが、それは何か殻のようなもので覆われていて孵化を待っているような状態に感じる。いつどうすれば殻を破れるのか、その時期も方法もまだ分からない。前回冥界に来た時に覚醒したと思ったヘスティアの自我は、その後また潜在化してしまった。結局万里亜は元の万里亜に戻ってしまったのだ。
完全に覚醒しなければ万事行動に移すのは難しいという事か…。
「さっきのアレもですね、本来なら、指一本使わずに人間の俺の事なんて吹き飛ばせるんですよ。神の力ってヤツで。でも、あれだけ危機的状況だったのに何も出来なかったでしょ?つまり、時期尚早って事です。姉神様は、まだ#万里亜ちゃんのままなんですよ」
自分でも認めたくない現実を突き付けられ、絶望感が広がる。
「では、私はどうしたら…」
「ミーノスの言ったとおりです。今後、覚醒が進んで冥界の空気に体が馴染めばこの世界の何処へでも行けますから。例えば…エリシオンへの道もです」
「エリシオン?」
アイアコスが頷く。
「人間には入れない神の楽園です。そこに眠りの神、ヒュプノス様がお住まいだった神殿があります。そこへ行く事が出来れば、もしかしたら魚座を目覚めさせる事が出来るかもしれません」
「神の楽園…」
話が壮大で俄かには信じ難いが、アイアコスが嘘をついたりからかっているとは思えなかった。そして、自分がその『神の楽園』に行けるような神の力を発揮できるとも到底思えなかった。
アイアコスに丁重に礼を言うと、万里亜は重い足取りでジュデッカに戻った。薄暗い神殿の中はそれだけで気が滅入ってしまう。
自室に入るとベッドに身を投げ出してマントに包まる。こうしてアフロディーテを感じていないと心が挫けそうだ。
『…私、これからどうしたらいいの?』
涙が一筋、頬を伝った─
