キオクノカケラ
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『力あるものに忠誠を誓う』
今でもそれが間違っていたとは思わないが、果たして万里亜はそんな自分を受け入れてくれるのだろうか。
『私はいつからこんなに臆病な人間になったのだろうな』
万里亜がアミリアではないように、自分もアルバフィカではない。もし今後、万里亜が他の誰かを選んだとしてもそれは仕方のない事だし、その時は祝福をしたいと思う。そうは思っても、やはり万里亜を手に入れたいと願ってしまうのだった。
万里亜が翳した手から放たれた
小宇宙は、白金色に煌めきながらワイバーンの冥衣を包み込んでいく。懐かしい光と温もり。
かつて、この小宇宙に包まれ神の祝福を受けた。冥闘士を倒すために…。
それが今はその冥闘士を蘇らせるために使われていく。彼女の尊い命が、無垢な心が。
アフロディーテは万里亜を見ている事ができず、ゆっくりと視線を背けた。
徐々に光が人の形を成していく。そして、冥衣が分解され人型を包む。薄れていく光の中には、アフロディーテの見知った男が立っていた。
ワイバーンの冥衣を纏った男は、静かにその目を開いた。万里亜が男に話しかける。
「天猛星ワイバーンのラダマンティスさんですね?」
男は未だ状況が把握できない様子で、不思議そうな顔をしていた。
「女、お前は誰だ」
「…え?」
ラダマンティスは万里亜を一瞥した後に、アフロディーテに鋭い視線を移した。
「…貴様、魚座か…。なぜここにいる」
「私はアテナの御加護を頂いて生き返った。今は、お前たちを蘇らせるためにここに来た。それ以上の詳しい話は後でしてやる」
英語で話された男たちの会話の内容はよくわからなかったが、全く友好的ではない雰囲気を、万里亜はひしひしと感じる。
「あ、あの…アフロディーテさん…?ラダマンティスさんて、英語の国の方ですか?」
おずおずと尋ねる万里亜を見て、アフロディーテは微笑んだ。
「彼の言葉はクイーンズイングリッシュだね。きっとUKの出身じゃないか?機会があれば訊いてみるといい」
「紳士の国の方ですね?でもさっきの感じは余り紳士的ではなかった様に思います」
アフロディーテは、むくれる万里亜の頭にポンと手を乗せ「私達は敵同士なんだ。仕方ないよ」と軽く笑った。
ラダマンティスを生き返らせる事に成功した万里亜は、自分の中に眠る神の力を確信した。
『うん、これならいけるかもしれない』
体力を消耗した感じはなく、少しだけ自信を持つ事が出来た。
次の目的地はアンティノーラだ。そこでは天雄星ガルーダのアイアコスを生き返らせなくてはならない。
ラダマンティスを先頭に、アフロディーテ、万里亜の順で歩いていく。
万里亜には、前を歩いているアフロディーテがラダマンティスの動きに不穏なものがないか、神経を張り巡らせているのがよく分かる。
風が吹くと流れるように靡く金髪を眺めていると、ここが冥界である事を忘れてしまいそうになる。小さく頭を振ると背筋を伸ばし、これは仕事だと再び自分に言い聞かせる。
到着したアンティノーラは円形の建物で、屋根にはガルーダ像が建っている。
冥界を統治する神がいなくなったというのに、カイーナもアンティノーラも、他の場所ほどは崩壊が進んでいなかった。それでもこのまま放置すれば、いずれはこの荘厳な宮殿も朽ちていくに違いない。これ程までに美しい宮殿を失うのは惜しいとさえ感じる。
アンティノーラの宮殿に入るとすぐに大広間になっていて、ガルーダの冥衣は、その広間の中央で翼を広げ立っていた。
「女、あれがガルーダの冥衣だ。やれるのか?」
ラダマンティスが刺すような視線で万里亜を見据えた。
「出来ます」
ラダマンティスの視線に負けじと、力強い目線を返した万里亜はガルーダの前に進み出た。
ワイバーンにしたのと同様に、冥衣に手を翳して気配を探る。暫くそうした後に、ふうと一息つくと深呼吸をした。
「始めます」
目を閉じて意識をガルーダに集中させる。
万里亜の体からは白金色の小宇宙が溢れ出し、ガルーダを包み込んだ。
光の塊になったガルーダの冥衣は、今度は空中に浮かび上がると、一気に閃光を放った。冥界に太陽が現れたかのような眩さでアンティノーラの内部を照らしたガルーダは、黒髪の男の身を包み、光を落としながらゆっくりと大理石の床に降りてきた。
「アイアコス!」
ラダマンティスが名を呼ぶと、ガルーダの冥衣を纏った男は目を開けた。
「ラダマンティス…?」
アイアコスと呼ばれた男は辺りをきょろきょろと見回すと、次に自分の体を触ったりまじまじと見たり、ラダマンティスの時とは全く異なる反応を示した。
「ラダ…、俺、どうしたんだ?」
「アテナの聖闘士と、訳の分らん女が来ている。どういう事情かは知らんが、女の方が俺達を生き返らせたのだ」
ラダマンティスはそう説明すると、万里亜の方を顎で指し示した。
アイアコスは人懐っこい笑顔で万里亜の方に寄って来ると、右手を差し出した。
「君が生き返らせてくれたのか。ありがとう。俺の名前はアイアコス。良かったら名前を教えてくれないか?」
「阿倍万里亜です」
差し出された手を握ろうとすると、不意に後ろに引っ張られた。
「アフロディーテさん?」
振り返ると、アフロディーテが驚くほど鋭い視線をアイアコスに向けていた。そして万里亜を背後に庇う。
「ガルーダよ、貴様ごときが触れられるお方だと思うな。無礼だぞ」
アイアコスの手を払いのけながら、怒りを含んだ声で牽制した。
アイアコスは一瞬むっとした表情を見せたが、肩を竦めるとラダマンティスの方へ行き、これ迄の経緯を尋ねる。
「何がどうなってこういう事になってるんだ?」
「俺も知らん。奴らは詳しい事は後で話すと言っていた。今は、無理に口を割らせる必要もないだろう。ミーノスも生き返らせるつもりのようだしな」
「…ふーん」
冥闘士は、聖闘士と連れの東洋人女性をちらりと見た。
「あの女、只者ではなさそうだがな…」
「そのうち説明してくれるんだろ?その時に訊けばいいんじゃないのか?」
ラダマンティスは、戦闘時以外は余りにも呑気過ぎる同僚が、一度死んで生き返っても、良くも悪くも変わっていなかった事に大きなため息をつくと同時に、感謝の念を感じていた。
アンティノーラでの任務も完了し、次は天貴星グリフォンのミーノスが治める宮殿、トロメアに向かう。
生き返ったばかりのアイアコスは、万里亜の事を気に入った様子で、どうにかして近付こうと周りを彷徨いているものの、アフロディーテにその都度阻まれて目標を達成出来ずにいる。
冥界三巨頭の一角を担うアイアコスは、元来、人見知りをする気質ではなく誰とでもすぐに親しくなれる男だ。その良し悪しは別にして、自分とは違い、得をするタイプだとラダマンティスは思う。
それにしても、敵と馴れ合うのはラダマンティスの性に合わない。
「アイアコス、いい加減にしろ。敵と和んでどうするつもりだ」
「何を言うんだ。女性は敵にはならんのだ。こんなにも可愛らしいんだぞ!お前こそ少しは愛想よくしたらどうだ?」
持論を力説するアイアコスに若干の目眩を覚えたラダマンティスは、それ以上言っても無駄だと悟ったのか、あとは黙り込んでしまった。
冥闘士たちの会話はドイツ語で交わされているため、万里亜には全く理解できなかった。アフロディーテは恐らく理解できているのだろう、溜息をついたり顔をしかめたりしている。
万里亜はアフロディーテに通訳を頼んだが、彼は首を横に振るだけでそれ以上は何も話してくれなかった。
「アフロディーテさん、ここの冥闘士ってミーノスって名前でしたよね?」
「そうだよ?」
「私、その名前知っている気がします」
少し硬い表情を見せた万里亜がトロメアを見上げる。アフロディーテは当然その理由を分かっていた。だが敢えてそれを口にするのは憚られる。悪戯に万里亜を動揺させる事もあるまい。
「そうか…」
それだけ言うと、トロメアの階段を上り始めた。
無言で歩みを進めるアフロディーテを、万里亜は慌てて追いかける。
その背中から感じる小宇宙に僅かな変化を感じたが、万里亜にはその理由が分からなかった。
トロメアは入口の両サイドにグリフォンの像が建っている、ギリシャ建築の宮殿だった。万里亜は漠然とした不安を抱えながら宮殿に足を踏み入れた。
入口付近にはグリフォンの冥衣は見当たらない。
「部屋の中を見てもいいですか?」
扉を指差しラダマンティスを見る。
「ああ、構わん」
自分の片言の英語はどうやら英国人の彼に通じている様で、安心する。
万里亜は近くの扉を─誰もいないと分かっていたが─ノックをしてからそろそろと開けた。
書庫なのだろうか、壁一面に書棚が作りつけられており、整然と本が納まっていた。薄暗い室内を見渡すが、冥衣はここにもなさそうだ。少しだけホッとして扉を閉めた。
「もしかしたら、執務室にあるかもしれない。行ってみよう」
アイアコスが赤い絨毯の敷かれた廊下の奥を指差した。
長い廊下を歩いて行くと、付き当たりに、彫刻が施された両開きの重々しい扉が見えた。
アイアコスが扉を押し開ける。窓から入って来る、薄暗い冥界の光が室内の様子をうっすらと照らし出す。
「万里亜、あそこに冥衣が…」
アフロディーテの指差した方には、グリフォンの冥衣があった。
「あれがグリフォン…」
万里亜は冥衣に近づくと、恐る恐るグリフォンに手を翳した。
手のひらを通して体に流れ込んでくる漆黒の小宇宙は、万里亜の中に眠る遥か昔の記憶を揺さぶる。
胸が潰されそうな圧迫感と、身を引き裂かれそうな苦しさと、初めて感じる憤怒の感情が一気に押し寄せてくる。激情に耐えられなくなった万里亜は慌てて手を引いた。『これ以上探ってはいけない』万里亜の本能が叫ぶ。
アフロディーテを振り返ると、彼は心配そうな顔をして見ていた。
『やっぱりそうだ!やっぱり、グリフォンって…!』
怒りと悲しみの感情がない交ぜになり、
記憶を伝って心を浸食する。
「アフロディーテさん!」
名前を呼びながら駆け寄ると、彼は万里亜を自分の胸に抱きとめた。
「私…、私…、出来ないです。グリフォンだけは…」
アフロディーテの胸に顔を埋めて、万里亜は涙で震える声を絞り出す。
彼は切なそうに眉根を寄せて、万里亜を抱きしめる腕を強めた。
「君にしかできない事なんだ。つらい気持ちは分かるが、逃げてはだめだよ」
優しくて温かい手が、ゆっくりと髪の毛を撫でる懐かしい感覚。この感覚を知っているからこそ、グリフォンを生き返らせる事は出来ない。
「だって、だって…。グリフォンは私の…、アルバフィカの仇じゃない!嫌よ!絶対に嫌!」
アフロディーテは万里亜の背中に回していた腕を解き、そっと両手で万里亜の頬を包んだ。その顔を少し上に向かせると、涙で揺れる瞳を覗き込む。
そして、幼い子供を諭すかのようなゆっくりとした口調で言う。
「良く聞くんだ、万里亜。私がアルバフィカではないように、君はアミリアじゃない。そうだろ?ミーノスも同じだ。この時代のミーノスは、アルバフィカが闘ったミーノスではないんだ。私の言っている事は分かるよね?」
「…はい」
「いい子だ」
小さくうなずいた万里亜を、アフロディーテはもう一度抱きしめると、グリフォンの方に体を向かせ、そっと細い背中を押した。
グリフォンの冥衣の前に再び立ち、動揺する心を落ち着かせようと、数回深呼吸をした。そして、胸に手を当て目の前のグリフォンへと意識を集中させる。
万里亜の体から流れ出た小宇宙は、それまでとは異なる揺らめきを見せながらも、グリフォンを包んでいく。
知らずに涙が頬を伝って、冷たく黒い御影石の床にポトリと落ちる。
泣いてはいけないと何度も心に言い聞かせるが、次々に溢れてくる涙を止める術など万里亜は知らなかった。涙を流し震えている細い背中を、アフロディーテはただ見ている事しかできなかった。
女神の小宇宙を注がれたグリフォンの冥衣は、冥府の神から授けられた漆黒の輝きを取り戻した。
闇よりも黒く輝いたそれは、内部から吐き出すように、渦を巻きながら銀髪の男の体を形成する。
『この男が、ミーノス…』
小宇宙しか知らない冥闘士の男は、随分と秀麗な外見をしていた。
ミーノスは不躾な視線を万里亜に向けるが、万里亜はそれを全く無視して踵を返した。
「三巨頭は復活しました。これから『浄罪の炎』の確認に向かいます」
自分でも驚くほどに無機質な声。こんなにも冷たい感情が自らの奥底に流れている事を、万里亜は初めて知った。
ヘスティアは、神話の時代にハーデスから請われて、『浄罪の炎』を冥界に授けた。
冥界の亡者は、生前に犯した罪の重さや内容に応じてそれぞれの獄に落とされ、罰を受ける。
しかし、人類の発展と繁栄は冥界側にとって、必ずしも歓迎できるものではなかった。
人間は争いを繰り返し、互いに殺しあう。
当然、冥界へ送られてくる亡者は増えてくる。冥界も無尽蔵にそれを受け入れることはできない。
そこでハーデスは一計を案じた。
然るべき罰を然るべき期間受けた魂を再び地上に還す、輪廻転生。
罪を赦された魂は、浄罪の炎で前世の記憶を焼かれ、清らかな魂となり再び人の世へ送り出される。
だが、永遠に繰り返されるはずの営みは、聖戦というアテナの鉄槌によって破綻してしまった。
『浄罪の炎』の在処は冥界の中でも、冥王と三巨頭しか知らない。従って彼らの案内が必須ではある。
「『浄罪の炎』のある場所に、私を連れて行きなさい」
万里亜は、それまでと違う全く抑揚のない声で冥闘士に命令をする。その無機質な声色に万里亜自身、そしてアフロディーテも戸惑いを感じていた。
終始腕組みをし、事の成り行きを見ていたラダマンティスは、何かに納得したように小さく頷くと、「連れて行ってやるよ。『浄罪の炎』の聖堂に」と独り言のように呟いた。
冥闘士達は万里亜とアフロディーテを連れ、ジュデッカを目指して進む。
「ジュデッカの地下に『浄罪の炎』を祀っている聖堂がある。神話の時代に、女神ヘスティアから賜った炎だ」
浄罪の炎について説明したラダマンティスは、さらに続けた。
「冥界の守備の要とも言える浄罪の炎に貴様らを案内する理由を考えれば、その女の正体も想像がつく。魚座よ、俺は貴様と戦おうとは思わんがな、そろそろ目的を話して貰いたいものだな」
「…」
今、目的を話す事は万里亜の身を危険に晒すことにはならないか。いや、逆に話した方が、冥闘士達は手を出しづらくなるのではないか。アフロディーテは逡巡していた。
「…まあいい」
そう言ったラダマンティスは、それ以上の追及はしてこなかった。そもそも、冥界三巨頭を蘇らせるために冥界に来る女が只者であるはずがない。それに、自分らを生き返らせることで得られるメリットが何であるか…。
さほど考えなくとも、自ずと答えは見えてくる。
ジュデッカに入ると、玉座の間とは違う方へ向かう。細い回廊を暫く歩くと、地下への階段があった。そこは冥界にありながら、あたかも地上の春のように温かく、柔らかな空気に満ちていた。
地下へ下りようとした冥闘士を万里亜が引きとめた。
「お待ちなさい。ここから先は神の領域です。例え冥界三巨頭といえども、立ち入る事はまかりなりません」
流暢なギリシャ語を話す万里亜にその場の誰もが目を見張った。先程までは片言の英語を話し、それがラダマンティスやアイアコスに通じたと分かると嬉しそうにしていた東洋人の女が、今は全く淀みなく、しかも格式ばった表現を用いてギリシャ語を話したのだ。
「私が戻るまで全員ここで待機しているように。三巨頭たち、アテナの聖闘士に手出ししてはなりません。よろしいですね」
そう言い残すと、万里亜は階段を下りて行った。
「彼女、ギリシャ語が話せたのか?」
「いや…、そんなはずはない。生まれも育ちも日本だ」
「それにしちゃあ、随分綺麗なギリシャ語だったな」
感心するアイアコスの言葉が、アフロディーテには妙に引っかかる。
綺麗なギリシャ語。
『過去の人格と摺り替わったのか…?』
アミリアは生粋のギリシャ人だった。だが、今の喋り方はアミリアよりももっと威厳と品格があるように感じた。
「彼女は女神ヘスティアなのだから不思議はないでしょう。そうは思いませんか?」
口元に不敵な笑みを浮かべたミーノスが顎を上げてアフロディーテを見た。
「君たちの目的は大体想像が付きますよ。この後、ハーデス様を復活させるのでしょう」
「……」
「地上に亡者が這い出てきているのではないですか?そこで、冥界をあるべき姿に戻すために君達が来た。違いますか?」
「…その通りだ」
くくっと含み笑いをするミーノスが苛立たしい。前世での因縁もあるが、この手の輩は生理的に受け付けない。にやけた顔を殴ってやりたい衝動に駆られるが、グッと堪える。
「この私も、随分と嫌われたものですねえ…。『殺してやりたい』という目をしていますよ。…あぁ、今思い出しました。魚座のアルバフィカを。彼は美しかった。心意気も生き様も。あなたはどうですか?彼女に誇れる生き方をしていましたか?」
アフロディーテの小宇宙が一気に膨らみ、完全に臨戦態勢に入った。ラダマンティスとアイアコスが応じて戦闘態勢をとる。双方睨み合いが続く。
まさに一触即発の状態になったその時だった。
「あなた達は何をしているのですか!聖闘士に手出しはならぬと言ったのを忘れたのですか!?それにアフロディーテ、冥闘士の挑発に乗るとは、あなたらしくもない。双方とも拳を納めなさい」
万里亜が一喝した。
アテナともハーデスとも違う小宇宙。厳しくも、優しく穏やかで温かい。
「争いはおよしなさい」
静かに言う万里亜の風格は、まさに神そのものだった。
「『浄罪の炎』は無事でした。ですが念の為に神力を注いでおきました。よほどの事がない限りは大丈夫でしょう」
優雅に微笑む姿は、万里亜でもアミリアでもない。
『これがヘスティア様の、真の御姿なのか…』
その余りの神々しさに、地上の戦士も冥界の戦士も跪き頭を垂れた。
「さあ、我が弟ハーデスを蘇らせましょう。あなた達、玉座の間に参りますよ。ついておいでなさい」
万里亜の歩みは正確に玉座の間を目指していた。まるで、住み慣れた我が家のように一寸の躊躇いもない。
玉座の間に着くと、万里亜はアフロディーテを傍に呼んだ。
「アフロディーテ、護衛の務め御苦労でした。あなたはもう地上にお戻りなさい」
跪いているアフロディーテにそう告げた。
「な…!」
思わず顔を上げたアフロディーテに優美な微笑みを見せると、そっと手を伸ばし彼の額に指先を触れた。
「心配には及びません。後は私一人で大丈夫です。さあ、アテナの下へ帰りなさい…」
アフロディーテの体を眩い光が包む。日溜まりの様な温もりは、冥界の瘴気に晒され冷え切った体に心地良く沁み渡る。ゆっくりと意識が遠のいていく。
アフロディーテを地上へ送った事を確認した万里亜は、玉座への階段を一段一段踏みしめた。
玉座には冥王の冥衣が黒く美しく輝いている。
「さあハーデス、今度はあなたの番です」
万里亜が目を閉じて両腕を広げると、全身から白金色の小宇宙が溢れ出した。
全てを包み込む様な優しさと温かさを持った小宇宙は、ただひたすらに冥衣に注がれる。
女神の無限の慈悲と愛に三巨頭は瞠目した。
やがて、かつて仕えた神の小宇宙が玉座の間に静かに広がってゆく。
神さえも蘇らせる偉大な力。
『これが神というものなのか』
圧倒的な力を見せつけられた三巨頭は、ただその場に平伏すだけだった。
「ハーデス、目を開けなさい」
万里亜の声に冥王の瞼がピクリと反応した。
ゆっくりと開かれた瞳は深い闇色の光を湛え、紅く柔らかな唇からは落ち着いた淀みのない声が発せられる。
「…姉上か?」
「ええ」
ややふらつく様子のハーデスを玉座に座らせると、万里亜はその前に膝立ちになった。
「気分はどうですか?」
「悪くはありません…。それにしても、何故姉上が冥界におられるのですか…?」
些か気怠い様子のハーデスは、控えている三巨頭に気が付くと、下がるように手で合図した。
三巨頭が退室したことを確認すると、ハーデスは続けた。
「此処は姉上が来られるのに相応しい場所ではありません」
弟神の言葉に万里亜は頭を振った。
「いいえ。貴方が守り慈しんできた世界が崩壊の危機にあるというのに、黙って見過ごすわけにはいきませんでした」
冥王は姉神の言葉に口元を緩めた。
「…昔から、姉上は嘘が御上手ではなかった」
死界を統べる神の表情はどこまでも柔らかで、その口調は穏やかなものだった。
「ふふっ…。嘘とは些か心外ですね」
姉弟という気心の知れた間柄のせいなのか、二人の間には穏やかな空気が流れる。
「して、アテナに何を頼まれたのですか?人の好い姉上の事です。大方、聖戦の尻拭いをさせられておいでなのではないですか?」
「あら、聖戦の尻拭いということであれば、貴方にも責任の一端はあるというものです」
弟におどけてみせる。
「…冥界が機能していないため、亡者が溢れ出そうとしています。貴方を蘇らせ、再び冥王として君臨してもらう事が最善との結論に至ったようです」
「余を利用する…ということですな?」
ハーデスはあくまで穏やかに言葉を繋ぐ。
「その通りかもしれませんね」
コロコロと鈴が転がる様に笑う姉神につられ、ハーデスも声を出して笑った。
「地上侵攻をアテナ自らが許可したと受け止めますが?」
それまで穏やかに笑っていたハーデスの目が、突然闇の冷たさを帯びる。だが、女神は相好を崩さなかった。
「アテナからもう一つ頼まれごとをしています」
「ほう…、それは?」
目を少し細め、姉神を見るハーデス。
「休戦協定と不可侵条約の締結です」
「…何ですと?」
形の良い眉をピクリと動かすと、せせら笑った。
「あの女神は本当に突飛な事ばかりを言い出す。しかも己は地上でぬくぬくとしたままで、我が姉上に遣いの役割を押しつけるとは言語道断。このハーデス、そのような申し出を受けることは出来ません」
「いいえ、これは私自らが買って出た役目です。私が出てくれば貴方も話を聞く耳を持ってくれるのではないかと考えました。どうでしょう、交渉の席に着いてはいただけないかしら?冥界にとっても悪くない話だと思いますよ?」
姉神にそう言われると、断るための積極的な理由は他にない。今回の聖戦で冥界は壊滅的ダメージを受け、神である自分は人間に敗れた。
「地上の覇権を握る事こそ我が悲願でした。それは変わりません」
「ハーデス…」
やはり弟神を説得する事は無理なのだろうか。
「…とは言え、此処まで御足労いただいた姉上に対する礼は尽くさねばなりません。アテナと友好関係を結ぶかは保証の限りではありませんが、その交渉とやら、お受けいたしましょう」
「引き受けてくれますか。手間を取らせますね。感謝します」
姉は弟の手を握り締め、礼を言った。
万里亜は、玉座の間の外に控えていた三巨頭に、ハーデスとのやり取りを説明し、近い内に交渉の詳細な日時を連絡すると約束した。
「姉神様、我等に一つ教えていただきたい事がございます」
跪いた姿勢を崩すことなく、ラダマンティスが願い出た。
「何ですか?」
「何故、姉神様はアテナのお味方をなさるのですか!弟君であらせられるハーデス様と、何故袂を分かとうとなさるのですか!」
怒りなのか哀しみなのか、ラダマンティスの声は僅かに震えているように聴こえた。
「ラダマンティス、あなた方の忠義の心は称賛に値します。ですが、これだけは覚えておいでなさい。我ら神と呼ばれる存在は、誰かの味方をしたいからするのではありません。己の役割を果たす中で、誰かや何かの味方になるのです。私の役割は人間の家庭を守る事、人の子を守る事です。それ以上でも以下でもありません」
穏やかにラダマンティスを諭すと、万里亜は三巨頭の前に腰を屈め、それぞれの顔を見渡した。
「近い内にまた会いましょう。それまで弟を頼みますよ」
「御意」
三巨頭の返事に満足そうに頷くと、万里亜は自分自身を光の輪で包み込み、その中へ溶けるように消えていった。
万里亜が巨蟹宮へ戻ると、その場を覆い尽くしていた不穏な空気も、漏れ出してくる冥界の瘴気もすっかり消え去っていた。
「良かった…。上手くいったわ」
安堵の表情を浮かべ、辺りを見渡す。だが、妙な事に中央の広間には人影がなかった。先に地上へ送り返したアフロディーテはどうしたのだろう。
「巨蟹宮に戻したはずなのに…」
どこに行っちゃったんだろう…、胸にじわじわと不安が広がる。
「アフロディーテさん?何処ですか?」
呼びかけるが返事はない。小宇宙を探ろうとするが、動揺した精神状態では上手くいくはずもない。
『もしかして、双魚宮に戻っているのかしら…?』
宮の出口に向かおうとすると、突然背後から呼び止められた。
「おい万里亜!」
少々乱暴に呼びかけられ、驚いて振り返った先には、デスマスクが私服姿で立っていた。
「あ、デスマスクさん」
「お前、何処に行くつもりだ?」
腕を組んで呆れ顔のデスマスクは、「来いよ」と顎で示すと自室へと案内した。
デスマスクの私室は、粗野な彼からは想像がつかない、モダンで非常に洒落た部屋だった。
「あの…デスマスクさん…」
「アフロディーテの奴なら寝室だ」
あっち、と指を差して教える。
「寝室…?」
「お前、あいつだけこっちに送って寄越しただろ?何かな、目ェ覚まさないんだよ」
万里亜はその言葉に愕然とした。
「目を覚まさないってどういう事ですか…?」
「そんな事はこっちが訊きたい。あいつ、呼んでも揺すっても起きやしねぇ。仕方ないからウチで寝かせてる」
「総帥は…アテナは何と?」
「お嬢ちゃんにも分からんとさ。…取り敢えず、顔見るか?」
デスマスクはそう言って立ち上がると、万里亜を寝室へ通した。
クイーンサイズのローベッドに寝かされているアフロディーテは、さながら眠れる森の美女といったところで、万里亜は思わず見惚れてしまう。
冥界からの転送にミスはなかったはずだ。
あの時、万里亜の自我を支配していたのはヘスティアだったのだから。間違いなど起こるはずがなかった。
「どうして…?」
ベッドの端に腰を掛け、アフロディーテの手に触れる。自分よりも大きくて厚みのある男の手。この手は自分に対して常に優しくて、包み込むように柔らかく触れてくる。
この手に守られていたのだと実感させられ、より一層アフロディーテへの愛おしさがあふれてくる。
懐かしい過去の景色が彼の眼前に広がる。
幾つものドーリア式の神殿や建設途中の神殿。そこから外れ、東の方角にある特別区域に足を向ける。
『あそこに行けば彼女に会える』
高鳴る胸の鼓動に呼応するかのように、自然と歩みも速まる。
やがて、彩り豊かな花の咲く花壇がエントランスに配置されている、白亜の宮殿に辿り着いた。
愛しい女神の住まう場所。
何度も足を運んだ宮殿は、自分の住まいの様に馴染んでいる。今日も女神は麗しい微笑みで迎えてくれる。
はずだった。
いつも女神との面会に使う部屋。そこには別の男の姿があった。
その男はこちらに背を向けて立っていた。
彼のものとは明らかに違う、闇の輝きを放つ大きな羽を持った鎧。銀色の長い髪と灰紫色の切れ長の瞳。そして身に纏う鎧と対照的な真白の肌。
『何故この男が此処に!?』
驚く彼に、振り返り様向けられた灰紫色の切れ長の瞳は何処までも冷たく、人の体温を宿していない光を湛えている。
薄く笑う唇。
銀髪の男はコマ送り映像の様に、不自然なほどゆっくりと彼の方に体を向ける。
腕に見覚えのある何かを抱きかかえている。透き通るような白い肌。柔らかな栗色の髪。力なく垂れ下がる細い腕。
血に染まったドレス。
幾度も口にした名前を叫ぼうとするが声が出てこない。腕を伸ばし駆け寄ろうとするが、どれだけ足を動かそうとしても前に進まない。二人に近づけない。
手を離せ!
「この方は私が貰い受けます。この方の住まう場所は我が世界が、私の傍が最も相応しい」
そうは思いませんか?裏切り者の聖闘士。
心臓が一瞬止まった気がした。背負った十字架。永遠に赦されることのない罪。全身の力が抜ける。呟いたのはただ一言、
「##NAME3##…」
嫌な夢を見ているのだろうか。アフロディーテは苦しげな表情で身を捩ろうとしている。
『起してみようかしら』
想像していたよりも広く、男らしい肩に手を添える。その時、小さく開かれた唇から洩れた言葉は鋭い刃物の様に、##NAME2##の心を深部まで抉った。
「##NAME3##…」
反射的に、肩に触れていた手を引っ込めた。
後ずさる様にベッドから離れると急いで踵を返した。
寝室から出るとデスマスクに形ばかりの挨拶をして、足早に巨蟹宮を出た。デスマスクが呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まる事は出来なかった。
零れ落ちそうになる涙を堪えながら、十二宮の階段を駆け上がる。
幸い獅子宮と処女宮の主は不在だった。天秤宮までの階段の途中で座り込む。乱れた呼吸を整えようとするが、溢れてくる涙がそれをさせてくれない。
「…うっ、うっ…」
両手で顔を覆い、声を殺して泣く。
『やっぱり、アフロディーテさんは今でも##NAME3##を好きなんだわ…』
そうでないかとは薄らと思っていた。優しく触れる手も、甘く囁く声も、愛おしげに見つめてくる眼差しも、全ては##NAME3##に向けられたもの。
『アフロディーテさんは私の中に##NAME3##を探していたんだ…』
胸がギュッと締め付けられる。こんなにも苦しい気持ちは生まれて初めてだった。
君は##NAME3##に似ていないね。
私がアルバフィカではないように、君は##NAME3##じゃない。
冥界でアフロディーテが言った言葉の意味を今、漸く理解した。
『私じゃない…、私じゃないんだ…』
自分は一体何を期待していたのだろう。最初から、彼の心は自分に向いてなどいなかったのだ。
##NAME2##から見ても##NAME3##は美しい女性だ。見目もその心も。
強く美しく、気高い心を持ったアルバフィカは、これ以上ないくらい彼女に相応しい男だった。
現実は残酷だ。
今生の自分では、どう頑張っても##NAME3##のようにはなれない。即ち、アフロディーテの心は自分には永遠に向かないということだ。
冥界側と交渉の約束は取り付けた。最早、聖域に留まる理由などない。
『日本に帰ろう…』
ノロノロと立ち上がる。教皇宮までの間に、泣き腫らした顔を見咎められるかもしれないが、そんなことはもう、どうでも良かった。
乱暴に顔を拭うと##NAME2##は歩き出した。唇をキュッと結び、背筋を伸ばす。
次の宮主には下手な言い訳は通用しないだろう。##NAME3##を知る彼には。
「久方振りでございます。ヘスティア様」
深々と頭を垂れる天秤宮の主は、##NAME2##の記憶の中の彼と寸分違わない。
「童虎…」
反射的に顔を背けた##NAME2##を見て、童虎は明るく笑った。
「ヘスティア様、何を泣いておいでですか」
「泣いてなど…」
「泣いてなどないと仰いますか?」
それでは…と、横を向いた##NAME2##の頬を両手で挟むと、その顔を自分の方へと向かせた。
他の聖闘士と比べ小柄な彼とは、昔も今も背丈はさほど変わらない。
額が触れ合いそうなほど近くに、互いの顔がある。
童虎は、戦士らしい無骨な指で##NAME2##の目尻を撫でた。
「この涙の痕は何ですかな?」
「貴方には関係のない事です」
頬に添えられた手を乱暴に払いのけると、##NAME2##は童虎を睨み付け、強い口調で言った。
しかし、そんな##NAME2##の態度も、長い歳月を生きてきた彼にとっては、幼子が憤る程度の他愛ないものでしかなかった。
「何をそんなに拗ねておられるのですかな?」
「拗ねてなどいません」
童虎は、ふむ…、と少し考える仕草を見せた後にまた口を開いた。
「では、質問を変えましょう。…アフロディーテと何があったのですか?」
アフロディーテの名を出されると、心が揺らぐ。
「…何も、ありません」
努めて平静を装うが、震える声は抑えようがなかった。
「…私の勘違いでしたか。御無礼つかまつりました。何卒、御容赦頂きとうございます」
気付いているのに、何も知らない振りをしてくれている。##NAME2##は彼の優しさに感謝した。
「童虎、ありがとう。いつか、私の話を聴いて下さいますか?」
精一杯の作り笑顔と最大限に明るい口調を童虎に向けた。
「いつでも喜んで」
ニカッと笑った童虎は、##NAME2##の右手を取ると、その甲に唇を触れた。
童虎に見送られて天秤宮を後にした。
涙の跡が残る頬を、聖域の清々しい風が撫でて行く。見上げた空は蒼く澄んでいて、地中海の太陽は、眩しい光を惜しみ無く大地に注ぐ。
神話の時代から変わらないそれは、少しずつ##NAME2##の心を凪いでいく。
天蠍宮の主は##NAME2##が通りかかると、焼菓子をくれた。
「あんた焼菓子っぽいから」
理由を尋ねたら、不思議な答が返ってきた。
首を傾げる##NAME2##に、深く考えるな、と笑顔で言った。
##NAME3##は、菓子をアルバフィカだけでなく他の聖闘士にも配っていたのかもしれない。
先代の蠍座の男は自己主張の激しい、情熱的な性格をしていた。
蠍の炎は己の身も焼き尽くす。先代の蠍座は強すぎる炎にその身を捧げた。
当代は先代の情熱に加え、幾許かの無邪気さを兼ね備えている。
焼菓子は昔を思い出し胸が疼くが、癖の強い金髪を持った蠍座の聖闘士の優しい心遣いに感謝し、礼を述べ、天蠍宮を通らせて貰った。
今でもそれが間違っていたとは思わないが、果たして万里亜はそんな自分を受け入れてくれるのだろうか。
『私はいつからこんなに臆病な人間になったのだろうな』
万里亜がアミリアではないように、自分もアルバフィカではない。もし今後、万里亜が他の誰かを選んだとしてもそれは仕方のない事だし、その時は祝福をしたいと思う。そうは思っても、やはり万里亜を手に入れたいと願ってしまうのだった。
万里亜が翳した手から放たれた
小宇宙は、白金色に煌めきながらワイバーンの冥衣を包み込んでいく。懐かしい光と温もり。
かつて、この小宇宙に包まれ神の祝福を受けた。冥闘士を倒すために…。
それが今はその冥闘士を蘇らせるために使われていく。彼女の尊い命が、無垢な心が。
アフロディーテは万里亜を見ている事ができず、ゆっくりと視線を背けた。
徐々に光が人の形を成していく。そして、冥衣が分解され人型を包む。薄れていく光の中には、アフロディーテの見知った男が立っていた。
ワイバーンの冥衣を纏った男は、静かにその目を開いた。万里亜が男に話しかける。
「天猛星ワイバーンのラダマンティスさんですね?」
男は未だ状況が把握できない様子で、不思議そうな顔をしていた。
「女、お前は誰だ」
「…え?」
ラダマンティスは万里亜を一瞥した後に、アフロディーテに鋭い視線を移した。
「…貴様、魚座か…。なぜここにいる」
「私はアテナの御加護を頂いて生き返った。今は、お前たちを蘇らせるためにここに来た。それ以上の詳しい話は後でしてやる」
英語で話された男たちの会話の内容はよくわからなかったが、全く友好的ではない雰囲気を、万里亜はひしひしと感じる。
「あ、あの…アフロディーテさん…?ラダマンティスさんて、英語の国の方ですか?」
おずおずと尋ねる万里亜を見て、アフロディーテは微笑んだ。
「彼の言葉はクイーンズイングリッシュだね。きっとUKの出身じゃないか?機会があれば訊いてみるといい」
「紳士の国の方ですね?でもさっきの感じは余り紳士的ではなかった様に思います」
アフロディーテは、むくれる万里亜の頭にポンと手を乗せ「私達は敵同士なんだ。仕方ないよ」と軽く笑った。
ラダマンティスを生き返らせる事に成功した万里亜は、自分の中に眠る神の力を確信した。
『うん、これならいけるかもしれない』
体力を消耗した感じはなく、少しだけ自信を持つ事が出来た。
次の目的地はアンティノーラだ。そこでは天雄星ガルーダのアイアコスを生き返らせなくてはならない。
ラダマンティスを先頭に、アフロディーテ、万里亜の順で歩いていく。
万里亜には、前を歩いているアフロディーテがラダマンティスの動きに不穏なものがないか、神経を張り巡らせているのがよく分かる。
風が吹くと流れるように靡く金髪を眺めていると、ここが冥界である事を忘れてしまいそうになる。小さく頭を振ると背筋を伸ばし、これは仕事だと再び自分に言い聞かせる。
到着したアンティノーラは円形の建物で、屋根にはガルーダ像が建っている。
冥界を統治する神がいなくなったというのに、カイーナもアンティノーラも、他の場所ほどは崩壊が進んでいなかった。それでもこのまま放置すれば、いずれはこの荘厳な宮殿も朽ちていくに違いない。これ程までに美しい宮殿を失うのは惜しいとさえ感じる。
アンティノーラの宮殿に入るとすぐに大広間になっていて、ガルーダの冥衣は、その広間の中央で翼を広げ立っていた。
「女、あれがガルーダの冥衣だ。やれるのか?」
ラダマンティスが刺すような視線で万里亜を見据えた。
「出来ます」
ラダマンティスの視線に負けじと、力強い目線を返した万里亜はガルーダの前に進み出た。
ワイバーンにしたのと同様に、冥衣に手を翳して気配を探る。暫くそうした後に、ふうと一息つくと深呼吸をした。
「始めます」
目を閉じて意識をガルーダに集中させる。
万里亜の体からは白金色の小宇宙が溢れ出し、ガルーダを包み込んだ。
光の塊になったガルーダの冥衣は、今度は空中に浮かび上がると、一気に閃光を放った。冥界に太陽が現れたかのような眩さでアンティノーラの内部を照らしたガルーダは、黒髪の男の身を包み、光を落としながらゆっくりと大理石の床に降りてきた。
「アイアコス!」
ラダマンティスが名を呼ぶと、ガルーダの冥衣を纏った男は目を開けた。
「ラダマンティス…?」
アイアコスと呼ばれた男は辺りをきょろきょろと見回すと、次に自分の体を触ったりまじまじと見たり、ラダマンティスの時とは全く異なる反応を示した。
「ラダ…、俺、どうしたんだ?」
「アテナの聖闘士と、訳の分らん女が来ている。どういう事情かは知らんが、女の方が俺達を生き返らせたのだ」
ラダマンティスはそう説明すると、万里亜の方を顎で指し示した。
アイアコスは人懐っこい笑顔で万里亜の方に寄って来ると、右手を差し出した。
「君が生き返らせてくれたのか。ありがとう。俺の名前はアイアコス。良かったら名前を教えてくれないか?」
「阿倍万里亜です」
差し出された手を握ろうとすると、不意に後ろに引っ張られた。
「アフロディーテさん?」
振り返ると、アフロディーテが驚くほど鋭い視線をアイアコスに向けていた。そして万里亜を背後に庇う。
「ガルーダよ、貴様ごときが触れられるお方だと思うな。無礼だぞ」
アイアコスの手を払いのけながら、怒りを含んだ声で牽制した。
アイアコスは一瞬むっとした表情を見せたが、肩を竦めるとラダマンティスの方へ行き、これ迄の経緯を尋ねる。
「何がどうなってこういう事になってるんだ?」
「俺も知らん。奴らは詳しい事は後で話すと言っていた。今は、無理に口を割らせる必要もないだろう。ミーノスも生き返らせるつもりのようだしな」
「…ふーん」
冥闘士は、聖闘士と連れの東洋人女性をちらりと見た。
「あの女、只者ではなさそうだがな…」
「そのうち説明してくれるんだろ?その時に訊けばいいんじゃないのか?」
ラダマンティスは、戦闘時以外は余りにも呑気過ぎる同僚が、一度死んで生き返っても、良くも悪くも変わっていなかった事に大きなため息をつくと同時に、感謝の念を感じていた。
アンティノーラでの任務も完了し、次は天貴星グリフォンのミーノスが治める宮殿、トロメアに向かう。
生き返ったばかりのアイアコスは、万里亜の事を気に入った様子で、どうにかして近付こうと周りを彷徨いているものの、アフロディーテにその都度阻まれて目標を達成出来ずにいる。
冥界三巨頭の一角を担うアイアコスは、元来、人見知りをする気質ではなく誰とでもすぐに親しくなれる男だ。その良し悪しは別にして、自分とは違い、得をするタイプだとラダマンティスは思う。
それにしても、敵と馴れ合うのはラダマンティスの性に合わない。
「アイアコス、いい加減にしろ。敵と和んでどうするつもりだ」
「何を言うんだ。女性は敵にはならんのだ。こんなにも可愛らしいんだぞ!お前こそ少しは愛想よくしたらどうだ?」
持論を力説するアイアコスに若干の目眩を覚えたラダマンティスは、それ以上言っても無駄だと悟ったのか、あとは黙り込んでしまった。
冥闘士たちの会話はドイツ語で交わされているため、万里亜には全く理解できなかった。アフロディーテは恐らく理解できているのだろう、溜息をついたり顔をしかめたりしている。
万里亜はアフロディーテに通訳を頼んだが、彼は首を横に振るだけでそれ以上は何も話してくれなかった。
「アフロディーテさん、ここの冥闘士ってミーノスって名前でしたよね?」
「そうだよ?」
「私、その名前知っている気がします」
少し硬い表情を見せた万里亜がトロメアを見上げる。アフロディーテは当然その理由を分かっていた。だが敢えてそれを口にするのは憚られる。悪戯に万里亜を動揺させる事もあるまい。
「そうか…」
それだけ言うと、トロメアの階段を上り始めた。
無言で歩みを進めるアフロディーテを、万里亜は慌てて追いかける。
その背中から感じる小宇宙に僅かな変化を感じたが、万里亜にはその理由が分からなかった。
トロメアは入口の両サイドにグリフォンの像が建っている、ギリシャ建築の宮殿だった。万里亜は漠然とした不安を抱えながら宮殿に足を踏み入れた。
入口付近にはグリフォンの冥衣は見当たらない。
「部屋の中を見てもいいですか?」
扉を指差しラダマンティスを見る。
「ああ、構わん」
自分の片言の英語はどうやら英国人の彼に通じている様で、安心する。
万里亜は近くの扉を─誰もいないと分かっていたが─ノックをしてからそろそろと開けた。
書庫なのだろうか、壁一面に書棚が作りつけられており、整然と本が納まっていた。薄暗い室内を見渡すが、冥衣はここにもなさそうだ。少しだけホッとして扉を閉めた。
「もしかしたら、執務室にあるかもしれない。行ってみよう」
アイアコスが赤い絨毯の敷かれた廊下の奥を指差した。
長い廊下を歩いて行くと、付き当たりに、彫刻が施された両開きの重々しい扉が見えた。
アイアコスが扉を押し開ける。窓から入って来る、薄暗い冥界の光が室内の様子をうっすらと照らし出す。
「万里亜、あそこに冥衣が…」
アフロディーテの指差した方には、グリフォンの冥衣があった。
「あれがグリフォン…」
万里亜は冥衣に近づくと、恐る恐るグリフォンに手を翳した。
手のひらを通して体に流れ込んでくる漆黒の小宇宙は、万里亜の中に眠る遥か昔の記憶を揺さぶる。
胸が潰されそうな圧迫感と、身を引き裂かれそうな苦しさと、初めて感じる憤怒の感情が一気に押し寄せてくる。激情に耐えられなくなった万里亜は慌てて手を引いた。『これ以上探ってはいけない』万里亜の本能が叫ぶ。
アフロディーテを振り返ると、彼は心配そうな顔をして見ていた。
『やっぱりそうだ!やっぱり、グリフォンって…!』
怒りと悲しみの感情がない交ぜになり、
記憶を伝って心を浸食する。
「アフロディーテさん!」
名前を呼びながら駆け寄ると、彼は万里亜を自分の胸に抱きとめた。
「私…、私…、出来ないです。グリフォンだけは…」
アフロディーテの胸に顔を埋めて、万里亜は涙で震える声を絞り出す。
彼は切なそうに眉根を寄せて、万里亜を抱きしめる腕を強めた。
「君にしかできない事なんだ。つらい気持ちは分かるが、逃げてはだめだよ」
優しくて温かい手が、ゆっくりと髪の毛を撫でる懐かしい感覚。この感覚を知っているからこそ、グリフォンを生き返らせる事は出来ない。
「だって、だって…。グリフォンは私の…、アルバフィカの仇じゃない!嫌よ!絶対に嫌!」
アフロディーテは万里亜の背中に回していた腕を解き、そっと両手で万里亜の頬を包んだ。その顔を少し上に向かせると、涙で揺れる瞳を覗き込む。
そして、幼い子供を諭すかのようなゆっくりとした口調で言う。
「良く聞くんだ、万里亜。私がアルバフィカではないように、君はアミリアじゃない。そうだろ?ミーノスも同じだ。この時代のミーノスは、アルバフィカが闘ったミーノスではないんだ。私の言っている事は分かるよね?」
「…はい」
「いい子だ」
小さくうなずいた万里亜を、アフロディーテはもう一度抱きしめると、グリフォンの方に体を向かせ、そっと細い背中を押した。
グリフォンの冥衣の前に再び立ち、動揺する心を落ち着かせようと、数回深呼吸をした。そして、胸に手を当て目の前のグリフォンへと意識を集中させる。
万里亜の体から流れ出た小宇宙は、それまでとは異なる揺らめきを見せながらも、グリフォンを包んでいく。
知らずに涙が頬を伝って、冷たく黒い御影石の床にポトリと落ちる。
泣いてはいけないと何度も心に言い聞かせるが、次々に溢れてくる涙を止める術など万里亜は知らなかった。涙を流し震えている細い背中を、アフロディーテはただ見ている事しかできなかった。
女神の小宇宙を注がれたグリフォンの冥衣は、冥府の神から授けられた漆黒の輝きを取り戻した。
闇よりも黒く輝いたそれは、内部から吐き出すように、渦を巻きながら銀髪の男の体を形成する。
『この男が、ミーノス…』
小宇宙しか知らない冥闘士の男は、随分と秀麗な外見をしていた。
ミーノスは不躾な視線を万里亜に向けるが、万里亜はそれを全く無視して踵を返した。
「三巨頭は復活しました。これから『浄罪の炎』の確認に向かいます」
自分でも驚くほどに無機質な声。こんなにも冷たい感情が自らの奥底に流れている事を、万里亜は初めて知った。
ヘスティアは、神話の時代にハーデスから請われて、『浄罪の炎』を冥界に授けた。
冥界の亡者は、生前に犯した罪の重さや内容に応じてそれぞれの獄に落とされ、罰を受ける。
しかし、人類の発展と繁栄は冥界側にとって、必ずしも歓迎できるものではなかった。
人間は争いを繰り返し、互いに殺しあう。
当然、冥界へ送られてくる亡者は増えてくる。冥界も無尽蔵にそれを受け入れることはできない。
そこでハーデスは一計を案じた。
然るべき罰を然るべき期間受けた魂を再び地上に還す、輪廻転生。
罪を赦された魂は、浄罪の炎で前世の記憶を焼かれ、清らかな魂となり再び人の世へ送り出される。
だが、永遠に繰り返されるはずの営みは、聖戦というアテナの鉄槌によって破綻してしまった。
『浄罪の炎』の在処は冥界の中でも、冥王と三巨頭しか知らない。従って彼らの案内が必須ではある。
「『浄罪の炎』のある場所に、私を連れて行きなさい」
万里亜は、それまでと違う全く抑揚のない声で冥闘士に命令をする。その無機質な声色に万里亜自身、そしてアフロディーテも戸惑いを感じていた。
終始腕組みをし、事の成り行きを見ていたラダマンティスは、何かに納得したように小さく頷くと、「連れて行ってやるよ。『浄罪の炎』の聖堂に」と独り言のように呟いた。
冥闘士達は万里亜とアフロディーテを連れ、ジュデッカを目指して進む。
「ジュデッカの地下に『浄罪の炎』を祀っている聖堂がある。神話の時代に、女神ヘスティアから賜った炎だ」
浄罪の炎について説明したラダマンティスは、さらに続けた。
「冥界の守備の要とも言える浄罪の炎に貴様らを案内する理由を考えれば、その女の正体も想像がつく。魚座よ、俺は貴様と戦おうとは思わんがな、そろそろ目的を話して貰いたいものだな」
「…」
今、目的を話す事は万里亜の身を危険に晒すことにはならないか。いや、逆に話した方が、冥闘士達は手を出しづらくなるのではないか。アフロディーテは逡巡していた。
「…まあいい」
そう言ったラダマンティスは、それ以上の追及はしてこなかった。そもそも、冥界三巨頭を蘇らせるために冥界に来る女が只者であるはずがない。それに、自分らを生き返らせることで得られるメリットが何であるか…。
さほど考えなくとも、自ずと答えは見えてくる。
ジュデッカに入ると、玉座の間とは違う方へ向かう。細い回廊を暫く歩くと、地下への階段があった。そこは冥界にありながら、あたかも地上の春のように温かく、柔らかな空気に満ちていた。
地下へ下りようとした冥闘士を万里亜が引きとめた。
「お待ちなさい。ここから先は神の領域です。例え冥界三巨頭といえども、立ち入る事はまかりなりません」
流暢なギリシャ語を話す万里亜にその場の誰もが目を見張った。先程までは片言の英語を話し、それがラダマンティスやアイアコスに通じたと分かると嬉しそうにしていた東洋人の女が、今は全く淀みなく、しかも格式ばった表現を用いてギリシャ語を話したのだ。
「私が戻るまで全員ここで待機しているように。三巨頭たち、アテナの聖闘士に手出ししてはなりません。よろしいですね」
そう言い残すと、万里亜は階段を下りて行った。
「彼女、ギリシャ語が話せたのか?」
「いや…、そんなはずはない。生まれも育ちも日本だ」
「それにしちゃあ、随分綺麗なギリシャ語だったな」
感心するアイアコスの言葉が、アフロディーテには妙に引っかかる。
綺麗なギリシャ語。
『過去の人格と摺り替わったのか…?』
アミリアは生粋のギリシャ人だった。だが、今の喋り方はアミリアよりももっと威厳と品格があるように感じた。
「彼女は女神ヘスティアなのだから不思議はないでしょう。そうは思いませんか?」
口元に不敵な笑みを浮かべたミーノスが顎を上げてアフロディーテを見た。
「君たちの目的は大体想像が付きますよ。この後、ハーデス様を復活させるのでしょう」
「……」
「地上に亡者が這い出てきているのではないですか?そこで、冥界をあるべき姿に戻すために君達が来た。違いますか?」
「…その通りだ」
くくっと含み笑いをするミーノスが苛立たしい。前世での因縁もあるが、この手の輩は生理的に受け付けない。にやけた顔を殴ってやりたい衝動に駆られるが、グッと堪える。
「この私も、随分と嫌われたものですねえ…。『殺してやりたい』という目をしていますよ。…あぁ、今思い出しました。魚座のアルバフィカを。彼は美しかった。心意気も生き様も。あなたはどうですか?彼女に誇れる生き方をしていましたか?」
アフロディーテの小宇宙が一気に膨らみ、完全に臨戦態勢に入った。ラダマンティスとアイアコスが応じて戦闘態勢をとる。双方睨み合いが続く。
まさに一触即発の状態になったその時だった。
「あなた達は何をしているのですか!聖闘士に手出しはならぬと言ったのを忘れたのですか!?それにアフロディーテ、冥闘士の挑発に乗るとは、あなたらしくもない。双方とも拳を納めなさい」
万里亜が一喝した。
アテナともハーデスとも違う小宇宙。厳しくも、優しく穏やかで温かい。
「争いはおよしなさい」
静かに言う万里亜の風格は、まさに神そのものだった。
「『浄罪の炎』は無事でした。ですが念の為に神力を注いでおきました。よほどの事がない限りは大丈夫でしょう」
優雅に微笑む姿は、万里亜でもアミリアでもない。
『これがヘスティア様の、真の御姿なのか…』
その余りの神々しさに、地上の戦士も冥界の戦士も跪き頭を垂れた。
「さあ、我が弟ハーデスを蘇らせましょう。あなた達、玉座の間に参りますよ。ついておいでなさい」
万里亜の歩みは正確に玉座の間を目指していた。まるで、住み慣れた我が家のように一寸の躊躇いもない。
玉座の間に着くと、万里亜はアフロディーテを傍に呼んだ。
「アフロディーテ、護衛の務め御苦労でした。あなたはもう地上にお戻りなさい」
跪いているアフロディーテにそう告げた。
「な…!」
思わず顔を上げたアフロディーテに優美な微笑みを見せると、そっと手を伸ばし彼の額に指先を触れた。
「心配には及びません。後は私一人で大丈夫です。さあ、アテナの下へ帰りなさい…」
アフロディーテの体を眩い光が包む。日溜まりの様な温もりは、冥界の瘴気に晒され冷え切った体に心地良く沁み渡る。ゆっくりと意識が遠のいていく。
アフロディーテを地上へ送った事を確認した万里亜は、玉座への階段を一段一段踏みしめた。
玉座には冥王の冥衣が黒く美しく輝いている。
「さあハーデス、今度はあなたの番です」
万里亜が目を閉じて両腕を広げると、全身から白金色の小宇宙が溢れ出した。
全てを包み込む様な優しさと温かさを持った小宇宙は、ただひたすらに冥衣に注がれる。
女神の無限の慈悲と愛に三巨頭は瞠目した。
やがて、かつて仕えた神の小宇宙が玉座の間に静かに広がってゆく。
神さえも蘇らせる偉大な力。
『これが神というものなのか』
圧倒的な力を見せつけられた三巨頭は、ただその場に平伏すだけだった。
「ハーデス、目を開けなさい」
万里亜の声に冥王の瞼がピクリと反応した。
ゆっくりと開かれた瞳は深い闇色の光を湛え、紅く柔らかな唇からは落ち着いた淀みのない声が発せられる。
「…姉上か?」
「ええ」
ややふらつく様子のハーデスを玉座に座らせると、万里亜はその前に膝立ちになった。
「気分はどうですか?」
「悪くはありません…。それにしても、何故姉上が冥界におられるのですか…?」
些か気怠い様子のハーデスは、控えている三巨頭に気が付くと、下がるように手で合図した。
三巨頭が退室したことを確認すると、ハーデスは続けた。
「此処は姉上が来られるのに相応しい場所ではありません」
弟神の言葉に万里亜は頭を振った。
「いいえ。貴方が守り慈しんできた世界が崩壊の危機にあるというのに、黙って見過ごすわけにはいきませんでした」
冥王は姉神の言葉に口元を緩めた。
「…昔から、姉上は嘘が御上手ではなかった」
死界を統べる神の表情はどこまでも柔らかで、その口調は穏やかなものだった。
「ふふっ…。嘘とは些か心外ですね」
姉弟という気心の知れた間柄のせいなのか、二人の間には穏やかな空気が流れる。
「して、アテナに何を頼まれたのですか?人の好い姉上の事です。大方、聖戦の尻拭いをさせられておいでなのではないですか?」
「あら、聖戦の尻拭いということであれば、貴方にも責任の一端はあるというものです」
弟におどけてみせる。
「…冥界が機能していないため、亡者が溢れ出そうとしています。貴方を蘇らせ、再び冥王として君臨してもらう事が最善との結論に至ったようです」
「余を利用する…ということですな?」
ハーデスはあくまで穏やかに言葉を繋ぐ。
「その通りかもしれませんね」
コロコロと鈴が転がる様に笑う姉神につられ、ハーデスも声を出して笑った。
「地上侵攻をアテナ自らが許可したと受け止めますが?」
それまで穏やかに笑っていたハーデスの目が、突然闇の冷たさを帯びる。だが、女神は相好を崩さなかった。
「アテナからもう一つ頼まれごとをしています」
「ほう…、それは?」
目を少し細め、姉神を見るハーデス。
「休戦協定と不可侵条約の締結です」
「…何ですと?」
形の良い眉をピクリと動かすと、せせら笑った。
「あの女神は本当に突飛な事ばかりを言い出す。しかも己は地上でぬくぬくとしたままで、我が姉上に遣いの役割を押しつけるとは言語道断。このハーデス、そのような申し出を受けることは出来ません」
「いいえ、これは私自らが買って出た役目です。私が出てくれば貴方も話を聞く耳を持ってくれるのではないかと考えました。どうでしょう、交渉の席に着いてはいただけないかしら?冥界にとっても悪くない話だと思いますよ?」
姉神にそう言われると、断るための積極的な理由は他にない。今回の聖戦で冥界は壊滅的ダメージを受け、神である自分は人間に敗れた。
「地上の覇権を握る事こそ我が悲願でした。それは変わりません」
「ハーデス…」
やはり弟神を説得する事は無理なのだろうか。
「…とは言え、此処まで御足労いただいた姉上に対する礼は尽くさねばなりません。アテナと友好関係を結ぶかは保証の限りではありませんが、その交渉とやら、お受けいたしましょう」
「引き受けてくれますか。手間を取らせますね。感謝します」
姉は弟の手を握り締め、礼を言った。
万里亜は、玉座の間の外に控えていた三巨頭に、ハーデスとのやり取りを説明し、近い内に交渉の詳細な日時を連絡すると約束した。
「姉神様、我等に一つ教えていただきたい事がございます」
跪いた姿勢を崩すことなく、ラダマンティスが願い出た。
「何ですか?」
「何故、姉神様はアテナのお味方をなさるのですか!弟君であらせられるハーデス様と、何故袂を分かとうとなさるのですか!」
怒りなのか哀しみなのか、ラダマンティスの声は僅かに震えているように聴こえた。
「ラダマンティス、あなた方の忠義の心は称賛に値します。ですが、これだけは覚えておいでなさい。我ら神と呼ばれる存在は、誰かの味方をしたいからするのではありません。己の役割を果たす中で、誰かや何かの味方になるのです。私の役割は人間の家庭を守る事、人の子を守る事です。それ以上でも以下でもありません」
穏やかにラダマンティスを諭すと、万里亜は三巨頭の前に腰を屈め、それぞれの顔を見渡した。
「近い内にまた会いましょう。それまで弟を頼みますよ」
「御意」
三巨頭の返事に満足そうに頷くと、万里亜は自分自身を光の輪で包み込み、その中へ溶けるように消えていった。
万里亜が巨蟹宮へ戻ると、その場を覆い尽くしていた不穏な空気も、漏れ出してくる冥界の瘴気もすっかり消え去っていた。
「良かった…。上手くいったわ」
安堵の表情を浮かべ、辺りを見渡す。だが、妙な事に中央の広間には人影がなかった。先に地上へ送り返したアフロディーテはどうしたのだろう。
「巨蟹宮に戻したはずなのに…」
どこに行っちゃったんだろう…、胸にじわじわと不安が広がる。
「アフロディーテさん?何処ですか?」
呼びかけるが返事はない。小宇宙を探ろうとするが、動揺した精神状態では上手くいくはずもない。
『もしかして、双魚宮に戻っているのかしら…?』
宮の出口に向かおうとすると、突然背後から呼び止められた。
「おい万里亜!」
少々乱暴に呼びかけられ、驚いて振り返った先には、デスマスクが私服姿で立っていた。
「あ、デスマスクさん」
「お前、何処に行くつもりだ?」
腕を組んで呆れ顔のデスマスクは、「来いよ」と顎で示すと自室へと案内した。
デスマスクの私室は、粗野な彼からは想像がつかない、モダンで非常に洒落た部屋だった。
「あの…デスマスクさん…」
「アフロディーテの奴なら寝室だ」
あっち、と指を差して教える。
「寝室…?」
「お前、あいつだけこっちに送って寄越しただろ?何かな、目ェ覚まさないんだよ」
万里亜はその言葉に愕然とした。
「目を覚まさないってどういう事ですか…?」
「そんな事はこっちが訊きたい。あいつ、呼んでも揺すっても起きやしねぇ。仕方ないからウチで寝かせてる」
「総帥は…アテナは何と?」
「お嬢ちゃんにも分からんとさ。…取り敢えず、顔見るか?」
デスマスクはそう言って立ち上がると、万里亜を寝室へ通した。
クイーンサイズのローベッドに寝かされているアフロディーテは、さながら眠れる森の美女といったところで、万里亜は思わず見惚れてしまう。
冥界からの転送にミスはなかったはずだ。
あの時、万里亜の自我を支配していたのはヘスティアだったのだから。間違いなど起こるはずがなかった。
「どうして…?」
ベッドの端に腰を掛け、アフロディーテの手に触れる。自分よりも大きくて厚みのある男の手。この手は自分に対して常に優しくて、包み込むように柔らかく触れてくる。
この手に守られていたのだと実感させられ、より一層アフロディーテへの愛おしさがあふれてくる。
懐かしい過去の景色が彼の眼前に広がる。
幾つものドーリア式の神殿や建設途中の神殿。そこから外れ、東の方角にある特別区域に足を向ける。
『あそこに行けば彼女に会える』
高鳴る胸の鼓動に呼応するかのように、自然と歩みも速まる。
やがて、彩り豊かな花の咲く花壇がエントランスに配置されている、白亜の宮殿に辿り着いた。
愛しい女神の住まう場所。
何度も足を運んだ宮殿は、自分の住まいの様に馴染んでいる。今日も女神は麗しい微笑みで迎えてくれる。
はずだった。
いつも女神との面会に使う部屋。そこには別の男の姿があった。
その男はこちらに背を向けて立っていた。
彼のものとは明らかに違う、闇の輝きを放つ大きな羽を持った鎧。銀色の長い髪と灰紫色の切れ長の瞳。そして身に纏う鎧と対照的な真白の肌。
『何故この男が此処に!?』
驚く彼に、振り返り様向けられた灰紫色の切れ長の瞳は何処までも冷たく、人の体温を宿していない光を湛えている。
薄く笑う唇。
銀髪の男はコマ送り映像の様に、不自然なほどゆっくりと彼の方に体を向ける。
腕に見覚えのある何かを抱きかかえている。透き通るような白い肌。柔らかな栗色の髪。力なく垂れ下がる細い腕。
血に染まったドレス。
幾度も口にした名前を叫ぼうとするが声が出てこない。腕を伸ばし駆け寄ろうとするが、どれだけ足を動かそうとしても前に進まない。二人に近づけない。
手を離せ!
「この方は私が貰い受けます。この方の住まう場所は我が世界が、私の傍が最も相応しい」
そうは思いませんか?裏切り者の聖闘士。
心臓が一瞬止まった気がした。背負った十字架。永遠に赦されることのない罪。全身の力が抜ける。呟いたのはただ一言、
「##NAME3##…」
嫌な夢を見ているのだろうか。アフロディーテは苦しげな表情で身を捩ろうとしている。
『起してみようかしら』
想像していたよりも広く、男らしい肩に手を添える。その時、小さく開かれた唇から洩れた言葉は鋭い刃物の様に、##NAME2##の心を深部まで抉った。
「##NAME3##…」
反射的に、肩に触れていた手を引っ込めた。
後ずさる様にベッドから離れると急いで踵を返した。
寝室から出るとデスマスクに形ばかりの挨拶をして、足早に巨蟹宮を出た。デスマスクが呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まる事は出来なかった。
零れ落ちそうになる涙を堪えながら、十二宮の階段を駆け上がる。
幸い獅子宮と処女宮の主は不在だった。天秤宮までの階段の途中で座り込む。乱れた呼吸を整えようとするが、溢れてくる涙がそれをさせてくれない。
「…うっ、うっ…」
両手で顔を覆い、声を殺して泣く。
『やっぱり、アフロディーテさんは今でも##NAME3##を好きなんだわ…』
そうでないかとは薄らと思っていた。優しく触れる手も、甘く囁く声も、愛おしげに見つめてくる眼差しも、全ては##NAME3##に向けられたもの。
『アフロディーテさんは私の中に##NAME3##を探していたんだ…』
胸がギュッと締め付けられる。こんなにも苦しい気持ちは生まれて初めてだった。
君は##NAME3##に似ていないね。
私がアルバフィカではないように、君は##NAME3##じゃない。
冥界でアフロディーテが言った言葉の意味を今、漸く理解した。
『私じゃない…、私じゃないんだ…』
自分は一体何を期待していたのだろう。最初から、彼の心は自分に向いてなどいなかったのだ。
##NAME2##から見ても##NAME3##は美しい女性だ。見目もその心も。
強く美しく、気高い心を持ったアルバフィカは、これ以上ないくらい彼女に相応しい男だった。
現実は残酷だ。
今生の自分では、どう頑張っても##NAME3##のようにはなれない。即ち、アフロディーテの心は自分には永遠に向かないということだ。
冥界側と交渉の約束は取り付けた。最早、聖域に留まる理由などない。
『日本に帰ろう…』
ノロノロと立ち上がる。教皇宮までの間に、泣き腫らした顔を見咎められるかもしれないが、そんなことはもう、どうでも良かった。
乱暴に顔を拭うと##NAME2##は歩き出した。唇をキュッと結び、背筋を伸ばす。
次の宮主には下手な言い訳は通用しないだろう。##NAME3##を知る彼には。
「久方振りでございます。ヘスティア様」
深々と頭を垂れる天秤宮の主は、##NAME2##の記憶の中の彼と寸分違わない。
「童虎…」
反射的に顔を背けた##NAME2##を見て、童虎は明るく笑った。
「ヘスティア様、何を泣いておいでですか」
「泣いてなど…」
「泣いてなどないと仰いますか?」
それでは…と、横を向いた##NAME2##の頬を両手で挟むと、その顔を自分の方へと向かせた。
他の聖闘士と比べ小柄な彼とは、昔も今も背丈はさほど変わらない。
額が触れ合いそうなほど近くに、互いの顔がある。
童虎は、戦士らしい無骨な指で##NAME2##の目尻を撫でた。
「この涙の痕は何ですかな?」
「貴方には関係のない事です」
頬に添えられた手を乱暴に払いのけると、##NAME2##は童虎を睨み付け、強い口調で言った。
しかし、そんな##NAME2##の態度も、長い歳月を生きてきた彼にとっては、幼子が憤る程度の他愛ないものでしかなかった。
「何をそんなに拗ねておられるのですかな?」
「拗ねてなどいません」
童虎は、ふむ…、と少し考える仕草を見せた後にまた口を開いた。
「では、質問を変えましょう。…アフロディーテと何があったのですか?」
アフロディーテの名を出されると、心が揺らぐ。
「…何も、ありません」
努めて平静を装うが、震える声は抑えようがなかった。
「…私の勘違いでしたか。御無礼つかまつりました。何卒、御容赦頂きとうございます」
気付いているのに、何も知らない振りをしてくれている。##NAME2##は彼の優しさに感謝した。
「童虎、ありがとう。いつか、私の話を聴いて下さいますか?」
精一杯の作り笑顔と最大限に明るい口調を童虎に向けた。
「いつでも喜んで」
ニカッと笑った童虎は、##NAME2##の右手を取ると、その甲に唇を触れた。
童虎に見送られて天秤宮を後にした。
涙の跡が残る頬を、聖域の清々しい風が撫でて行く。見上げた空は蒼く澄んでいて、地中海の太陽は、眩しい光を惜しみ無く大地に注ぐ。
神話の時代から変わらないそれは、少しずつ##NAME2##の心を凪いでいく。
天蠍宮の主は##NAME2##が通りかかると、焼菓子をくれた。
「あんた焼菓子っぽいから」
理由を尋ねたら、不思議な答が返ってきた。
首を傾げる##NAME2##に、深く考えるな、と笑顔で言った。
##NAME3##は、菓子をアルバフィカだけでなく他の聖闘士にも配っていたのかもしれない。
先代の蠍座の男は自己主張の激しい、情熱的な性格をしていた。
蠍の炎は己の身も焼き尽くす。先代の蠍座は強すぎる炎にその身を捧げた。
当代は先代の情熱に加え、幾許かの無邪気さを兼ね備えている。
焼菓子は昔を思い出し胸が疼くが、癖の強い金髪を持った蠍座の聖闘士の優しい心遣いに感謝し、礼を述べ、天蠍宮を通らせて貰った。
