見上げるひと

 港町の夕暮れは、いつも少しだけ潮の匂いがする。
 白いカーテンを揺らす風にも、遠くの船の汽笛にも、どこか穏やかな余韻があった。
 メリッサは西陽が射し込むキッチンの中央で、真剣な顔をしていた。
「……どうして……」
 両手で抱え込むようにして握っているのは、今日買ってきたばかりの瓶詰めオリーブ。
 欲張って大きめのものを選んだのが間違いだった。メリッサの小さな手は、指先しか蓋に掛からない。透明なガラス越しに、つややかな実が誇らしげに並んでいる。けれど肝心の蓋が、ぴくりとも動かない。
 ぐ、と力を込める。
 手のひらが滑る。
「うぅ……」
 これがなければ、夕食の付け合わせが減ってしまう。
 今日は新しいレシピを試すつもりだった。港で揚がったばかりの白身魚を使った、オリーブとハーブの温製マリネ。シオンに食べてもらいたくて、昨夜から下準備をしていたのだ。
 スマートフォンを取り出し、検索する。
《瓶の蓋が開かないときの対処法》
 輪ゴムを巻いてみる。
 熱湯をかけてみる。
 蓋の縁をスプーンで軽く叩いてみる。
 あらゆる方法を試してみた。けれど、蓋はまるで開く気配がない。
 時計を見る。
 シオンが来る時間まで、あと十五分。
 焦りが胸に広がる。
「どうしよう……」
 せっかく“すごいね”って言ってもらえるかもしれなかったのに。
 自分の小さな手が、こんなにも頼りなく感じるなんて。
 そのとき、玄関のベルが鳴った。
 びくりと肩を震わせる。
「は、早くない……!?」
 慌ててエプロンの紐を直し、ドアを開けると、潮風を纏うようにシオンが立っていた。
 金の短髪が夕陽に透け、菫色の瞳がやわらかく細められる。
「こんばんは、メリッサ。いい匂いがするな」
「こ、こんばんは……!」
 彼を迎え入れながら、メリッサは逡巡する。
 言うべきか、言わざるべきか。
 けれど、隠しても仕方がない。
「……あのね、シオン様」
「どうした」
 キッチンへ案内し、問題の瓶を差し出す。
「これ……開かなくて」
 一瞬の沈黙。
 それから、シオンの喉から低い笑みがこぼれた。
「なるほど。これと格闘していたのか」
「笑わないで……真剣だったんだから」
 頬をふくらませるメリッサを見て、シオンは優しく目を細める。
「すまぬ。そなたが可愛らしくてな」
 さらりと言われ、耳まで熱くなる。
「貸してみよ」
 シオンは袖を軽くまくり、瓶を手に取った。
 大きな手が、蓋を包み込む。
 ぎゅ、と短く力を込める。
 ――ぽん。
 あっけない音とともに、蓋が緩んだ。
「……あ」
 呆然とするメリッサに、シオンは微笑む。
「ほら」
「すごい……」
「力の問題だ」
 そう言いながらも、どこか誇らしげだ。
 メリッサは思わずシオンの腕に触れた。
 温かくて、頼もしい。
「ありがとう。これでちゃんと作れる」
「私は、そなたの作るものなら何でも嬉しいが」
 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 オリーブを刻み、ハーブと和え、魚に添える。
 仕上げにレモンをひと搾りすれば完成だ。
 食卓に並んだ皿は、夕暮れの光を受けてやさしく輝いた。
 一口食べたシオンが、静かに目を閉じる。
「……良い味だ」
 その一言に、今日の苦戦も、焦りも、すべて報われる。
「ほんと?」
「ああ。オリーブの塩気が絶妙だ」
 メリッサは小さく笑う。
「実はね、そのオリーブ、蓋が開かなかったから泣きそうだったの」
「だから私を呼んだのではないのか」
「違うよ。偶然だもん」
 ふふ、と二人で笑う。
 港の灯りが、窓の外で瞬きはじめる。
 潮風がやわらかく流れ込み、食卓を撫でる。
 シオンはそっとメリッサの手を取った。
「困ったときは、遠慮なく頼れ。私は、そなたのためにいる」
 その言葉は、何より甘い。
 開かなかった瓶の蓋は、今ではキッチンカウンターの隅に追いやられている。
 けれど、あの小さな奮闘があったからこそ、この温かな時間がある。
 潮風とオリーブの香りに包まれながら、メリッサは思う。
 ――大きな瓶を買って、よかったかもしれない。
 だって、こうして彼の手の温もりを、もう一度知ることができたのだから。

 食事を終え、皿を片付けようと立ち上がったときだった。
 シオンが何気なく手を伸ばし、カウンターに置いてあったワイン瓶を冷蔵庫の最上段にしまう。
 メリッサは背伸びしても届かない位置。
「あ……」
 思わず見上げる。
 高い。
 改めて、思う。
 肩幅も、腕の長さも、掌の大きさも。
 さっき、あんなに簡単にオリーブの蓋を開けてしまった手。
 自分の手をそっと重ねてみると、すっぽりと収まってしまう。
「……やっぱり、全然違うね」
 ぽつりと零すと、シオンが視線を落とした。
「何がだ」
「体。力。全部」
 彼は一瞬、言葉を失う。
 自分では意識していなかった差を、メリッサの目線で初めて見る。
 身長差、24センチ。
 抱き寄せれば、ちょうど額が胸元に触れる高さ。
 さきほどワイン瓶を握った手を、今度はそっとメリッサの手に重ねる。
「……不安か」
「ううん」
 メリッサは小さく首を振る。
「びっくりしただけ。改めて……男の人なんだなって」
 その言葉に、シオンの喉がわずかに動く。
 彼女の視線が、彼の腕へ、胸元へと自然に落ちる。
 包み込まれたら、抗えないだろうという確信。
 それは怖さではなく、むしろ安心を伴っている。
「私は……」
 シオンはゆっくりと彼女を引き寄せる。
 すっぽりと腕の中に収まる体。
 軽くて、細くて、柔らかい。
「そなたがこうして腕の中にいるとき、差を感じるのは私の方だ」
「え?」
「守らねばならぬ、と思う」
 その声音は低く、静かで、真摯だった。
 メリッサは彼の胸に手を置く。
 硬くて、温かくて、鼓動がしっかりと伝わる。
「守られるだけじゃ、いやだよ?」
「分かっている」
 シオンは微笑む。
「だが、守りたいと思うのは止められぬ」
 そのまま軽く抱きしめられる。
 彼の顎が、彼女の髪に触れる。
 体格差は、圧倒的だ。けれど、心の距離は対等だ。
「……さっきね」
 メリッサは小さく笑う。
「瓶が開かなくて、ちょっとだけ悔しかった。でも、開けてくれたとき、嬉しかったの」
「頼ってくれればよい」
「うん。でも、全部は頼らないからね」
「それでいい」
 彼は彼女の額に軽く口づけた。
 性差は、消えない。身長差も、力の差も。けれどそれは、優劣ではなく、ただの違でしかない。
 潮風が吹き抜ける。
 メリッサは彼の腕の中で思う。
 大きな手に包まれるのは、少し悔しくて、でも甘い。
 そしてシオンは、腕の中の軽さに思う。
 この小さな体が、自分の世界をこんなにも満たしているのだと。

「あたし、もっと身長欲しかったな」
 ぽつりと零れた言葉は、拗ねたというより、どこか本気だった。
 食後のキッチン。洗い物を終えたばかりの流し台の前で、メリッサはシオンを見上げる。
 見上げる――という表現が、これほど正確なことはない。
 185センチの彼と、161センチの自分。
 分かってはいたけれど、並んで立つたび、その差は静かに実感として迫ってくる。
 背伸びをしてみる。
 踵を上げ、ぐっと腕を伸ばして彼の肩に腕を回す。
「……ほら、やっぱり届かない」
 唇には、まだ遠い。
 シオンは、そんな彼女をしばらく黙って見下ろしていた。菫色の瞳が、柔らかく細められる。
「そなたは、今のままでよい」
「でも……」
「背丈が伸びれば、こうして見上げることもなくなる」
 低く穏やかな声。
 その響きが、胸の奥をかすかに震わせる。
「見上げられるのは、悪くない」
 メリッサは目を瞬かせた。
「え?」
「そなたが私を見上げる時の表情が、私は好きだ」
 真顔で言う。
 からかいではない。揺るぎない事実のように。
 頬が熱くなる。
 視線を逸らしたくなるのに、逸らせない。
「……ずるい」
「何がだ」
「そういうこと、さらっと言うところ」
 唇を尖らせながらも、どこか嬉しさが滲んでしまう自分が悔しい。
 シオンは一歩、距離を詰めた。
 影が落ちる。包み込むような体温が近づく。
「だが」
 彼の手が、メリッサの腰に回る。
 掌が、軽く引き寄せる。
「届かぬと思うなら、工夫すればよい」
「工夫?」
 次の瞬間、視界がふわりと浮いた。
「きゃっ……!」
 シオンの腕が、彼女を抱き上げていた。
 難なく、まるで羽根のように。
 目の高さが、ほとんど並ぶ。
 驚きと恥ずかしさで息が止まる。
「これで、どうだ」
 彼の吐息が、すぐそこにある。
 近い。近すぎる。
「……反則」
「勝負ではない」
「そういう問題じゃなくて……」
 言葉の続きは、唇で塞がれた。
 静かな、柔らかな口づけ。
 奪うのではなく、触れるだけの、確かめるような。
 メリッサの腕が、彼の肩にぎゅっと絡む。
 体格差は、消えない。
 けれど今は、それが不利ではない。
 大きな腕に支えられている安心感。
 包み込まれる感覚。
 自分より広い胸板の鼓動。
 性差を、確かに感じる。
 悔しい、のではない。
 ただ――
 彼は、自分とは違う。
 強くて、広くて、温かい。
 そして、自分はその腕の中にいる。
 唇が離れたあとも、距離はわずかだ。
「……あたし、別に伸びなくていいかも」
「そうであろう」
 満足げに微笑むその顔に、思わず笑ってしまう。
「でもね」
「ん?」
「たまには、こうして持ち上げて」
 少しだけ甘える声音。
 シオンの瞳が、さらに柔らぐ。
「望むなら、何度でも」
 再び唇が重なる。
 窓の外では、港町の夜風が穏やかに吹いていた。


                   ―――了
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